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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年2月23日 (日)

「多数派」としてのアスペ

 パートナーの風邪はまだ続いていますが、今度は彼女の方から「定型の人はこういうときに一人にしておいて欲しいと言うと傷ついてしまうのか」と聞かれました。それで私が「心配して何かできることはないかと声をかけて、そんなふうに言われると、一般的には<好意を拒絶された>という風に感じてしまうと思うよ。」と言った後で、「僕は最近はもうそんな風には感じなくなってきてるけど」と言ったら、なんかよかったというか、安心したというか、そんなことを言ってました。なんとなく、お互いの変化が一寸ずつ積み重なってるかな、という感じがしました。

 ところで、トマトさんからいろいろアドバイスを頂く中で、今回特に強く「ああそうか!」とすごく納得したことがありました。いくつかの表現で説明して下さっているのですが、たとえば次のような言葉。

>私は、知人が病気で臥せった時、無表情で声もかけず通り過ぎて行くASの伴侶や子どもを見ているうちに「こういうものなのだ」と、その行為を自然に感じられるようになった自分がいたのです。

 私が自分の持っている定型的な(だと思うのですが)感覚で、中々パートナーの言動を心から「納得する」ことができずに、でもなんとか自分なりに納得したくて、ずっと悩んだり考えたりし続けているわけですが、ほんとに難しい。そういう私の状態を見て、ある意味で堂々巡りになっているのではないか、とトマトさんは指摘して下さったと思います。そしてその堂々巡りを抜け出すのは、少しパートナーから離れて、他のいろんなアスペの方たちとの交流(ここではある程度させていただいてきましたので、そういう間接的なことではなくて直接的な交流のことかと思いましたが)をしてみることがとても重要ではないか、と教えて下さっています(と思いました (^ ^;)ゞ)。

 そのことの意味が、上に引用させていただいたコメントで、私自身の別のところでの体験とリンクして、すごく分かる感じになったのです。

 その体験というのは、仕事の上でとかでつきあう、異文化の方たちとの経験なんです。文化が違うと、ほんとにびっくりするくらい、お互いの常識がずれてしまうことが時々あります。お互いの関係が深まっていく中で、「なんでこんな当たり前のことが無視されるんだ!」と憤ったり、相手の人に根深い不信感を抱いたり、ということは、いくらでも普通に起こることです。

 ところがそういう「どう考えても、どう説明されても、気持ちとしては納得できない」ことが、その文化の人たちのやりとりを見ていて、ふと「ああ、この人たちにとってこれが当たり前なんだ」というふうに、実感として思えるようになる瞬間があったりするんです。それは「だから私もそうしなければいけない」と思うとか、そういうこととはもちろん違います。「もうこの人たちには言ってもわからないんだ」と「あきらめ」て「切り捨てる」こととも違う。ただ「ああ、当たり前なんだ、このひとたちにとっては」という風になんか「納得」する感覚。

 そうすると、その相手の人にとっての「当たり前」の世界を前提にして、そして別に自分の持っている「当たり前」の世界を否定するわけでもなく、改めて「じゃあどんなふうにつきあっていこうか」と前向きに考えられるようになる。そんな変化を自分に感じることがときどきあるんですね。

 トマトさんが書いて下さった上の例も、その私の体験の感覚で理解すると、なんかぴったり来る感じがするんです。

 ここ、表現が微妙に難しい感じがするんですが、トマトさんの言葉をお借りすれば「こういうものなのだ」という感覚は、目の前の一人の人だけを見ていては生まれにくいんです。そうじゃなくて、「そういう人たち」という、複数の人たちのつながりの中で目の前の一人の人がリアルに感じられるようになったときに、「こういうものなのだ」という感覚が生まれる気がするんですね。ちょっとわかりにくい書き方かもしれませんけれど。

 言葉を換えて言えば、目の前の人を「個人」として見ているだけでは「この人はおかしい」という感覚から抜けきれない感じがするんです。でも「ああ、この人<たち>にとって、それは変なことでも何でもないんだ」というふうに、その人をその人<たち>という「多数派(?)」の中で感じられるようになると、「この人はおかしい」という感覚に変化が現れる気がします。

 いや、ほんとにこの辺、表現も難しくて、「この人<たち>はみんなおかしい!」という異文化の人たちに対する決めつけ方も、この世の中では実際にはよく行われていますから、単に「多数派(?)」として見たら済む話では無いのでしょう。多分そのほかに何らかの形で「自分の常識をもう一度見つめ直し、考え直してみる」ということが必要になるんだと思います。そして「自分(の常識)は正しい」という「決めつけ」をちょっと考え直してみようとする、そういう姿勢を持っていると、なんかいつかの機会に「こういうものなのだ」という感覚がやってくる気がします。そのときに「この人<たち>」という見方がプラスの方の意味を持ってくる。

 これはもしかすると定型により強い感覚かもしれませんが、「感覚的にも納得する」ということは、「何人もの(あるいは何人かの)人たちに共有されている」という感覚と結びつかないと、うまく成り立たないものなのかもしれません。(うーん、やっぱり表現が難しい!)

 まだうまく分かりやすく表現できませんが、トマトさんが強調されていたことが、私自身の体験と結びついてひとつの「納得」感覚を生んだような気がします。この感覚がこれからどう育っていくのか、ちょっと期待感があります。
 

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コメント

パンダさんへ、トマトです。

いわゆる多数派は「フツーはこうなのに」「皆そうなのだ」という世間の数というものを正解として成長します。
でも少数派は比較検討や内省すると自己否定や自信喪失に傾くばかりなので「自分はこうなのに」「皆って何人だ」という感覚を持つと思うんです。

ですから、外国の風習や暮らしや価値観、いや外国でなくても地域性や、もっと身近な例に友人や伴侶の家という異文化があります。そこに入り込むと自分が少数派の立場になってしまい例えそれが自分の感覚に合わなくても「こういうフツーもあるのだな」と認めざるを得ません。

パンダさんの言われる通り、それを自然な感覚で受け入れるには、マンツーマンの話し合いや見つめ合いでは「なんとか相手にわからせたい」という欲求が捨てきれず、そこは
複数の人たちが自然当然のこととして共有共存している様子をながめる・・
ということが、自分の納得になるのだと思います。

ワタクシごとですがーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
職場の「見るからにおもいっきりASだな」と思う若い男性社員さんが、今月で退職することになり、私は内心ガッカリして、仕事終わりに「お先に失礼しま〜す」と、残っている社員さんに挨拶して退室しようとしたとき、そのASらしき彼が何か「言ったような気がした」のです。
が、そのままドアを閉めて外に出たとたん「おい、トマトさんに挨拶せんか!」と上司の怒る声。そのとき私は彼が私に向って「お疲れさまでした、と言っていたんだ!」と思い当たり、すぐにドアを開けて「あっ、彼は挨拶してくれました、ホント」と上司に言い添えましたが
「あれは・・気がつかなかったなぁ」というくらい、
すれちがいざまのかすかな声らしき感じ
こちらに向って言ったという気配が無かった

でも、彼としたら精一杯、私に挨拶してくれたのだという事実。

「ありがとうね」って思いながら、何も彼にしてあげられない自分の無力さに泣きました。

不思議なもので、定型の明確に伝わって来る「お疲れさまぁ!」より
ものすごく気づきにくい彼の「お疲れさまでした」の方が、ずっとありがたく尊いもののように感じるのです。


トマトさん

>「あれは・・気がつかなかったなぁ」というくらい、すれちがいざまのかすかな声らしき感じ。こちらに向って言ったという気配が無かった

 これ、パートナーとの間でもよくあります。
 ずっと私は無視されていると思いこんでいました。
 でも本人としてはちゃんと言っていると言うんです。
 そう言われるので、気をつけてじっと口元などを見ていても、
 ほとんど変化がなかったりしますから、とても不思議でした。
 実際は「心で言っている」のかもしれません。

> 不思議なもので、定型の明確に伝わって来る「お疲れさまぁ!」より、ものすごく気づきにくい彼の「お疲れさまでした」の方が、ずっとありがたく尊いもののように感じるのです。

 ここまで到達(?)されているのがトマトさんのすごさですね。
 私はまだそこまで自分の気持ちが成熟する前の段階のように思います。
 何がそこに変化をもたらすのか、気をつけてみたいと思います。

トマトです。

自閉圏の人の「言った」が、定型には「言ってない」にカウントされることも、双方の大きなコミュニケーション上の問題ですね。

ASの人には、どれくらいの声量で、どのような言葉と立ち位置と表情で表現しないと、相手には聞こえないし意味が伝わらないのだという「表出のあんばい」が解らない場面が多いと思うのです。

こういう、対話の手前の問題を、定型が知って受け入れていないと、定型は悩みのメビウスの輪におちいると思うんです。

受け入れることって、本当に時間がかかるし、疲弊をどれだけ重ねれば到達するんだというメドがたたない不安なことですよね。
でも、ASの人に定型の感覚を受け入れて自分をコントロールしてくれというのは、度合いにもよりますが、無理難題であり、見方によってはイジメという状態だと思うので、それは知識を持った定型がやりくりすることになっちゃうと思います。


夫婦や親子では、前向きな明るい決心という意味でのあきらめは必要だと思いますし、As当事者の人に疑問を問うことは大切な前向き行為ですが、それと平行して自分のストレスとのつき合い方の問題にしないといけないなぁと感じるんです。

私の友人の子どもさんが「どうみてもAS」なのですが、母親である友人は「性格」だと思っています。いや、思いたがっています。
ファミレスなどで、子どもさんの言葉にしたオーダーは、店員さんの耳に届いたことがありません。常に、母親が我が子と店員さんの間で通訳しています。
それを私は、もう15年間も見続けて来ました。
はじめは母親の「過保護」と思っていたのですが。
その子どもさんが高校3年生になる今・・・別の友人が、その子どもさんに土産を渡した時とてもとても小さく「ありがとうございます」と言ったのに、店内の雑音にかきけされ、誰も気づかず、母親が「お礼を言わないかね」と促し、別の友人は「まぁまぁ、思春期だからね」ととりなし、せっかく言ったお礼が「言ってない」ことにされていました。
その時、私は「この子はお礼を言ったよ」と強調したのですが、それ以来・・・その子は何か言った(らしき)時、私の顔を見るのです。まるで自分が発言したことを私に確認しているかのように。
だから、私はその子どもさんが何を言ったのかは解らなくても「うん」とうなづいたりニッコリを返すように心掛けています。

その子どもさんが安心してくれれば良いという感じです。

でも・・・私がその子どもさんの母親だったら、どうするのだろう、と考えると答えはみつかりません。
ちなみに、その母親である友人は職場でメンタル枠の主任であり、毎日ASやなんらかのメンタルな不安定さを抱えている部下の人達と接しています。
それでも、我が子のこととなると「はっきりものを言わないからこの子は損だ」とか「優し過ぎて自己主張できないのに妙にがんこだ」とか・・・個性の範疇でしか捉えないのです。
「ASではないか」と提言して、一度亀裂が入った経緯があるので、静観に徹していますが「言っているのに言わなかった事にされる」という世界感はどんなもんだろうという疑問はあります。


トマトさん

>受け入れることって、本当に時間がかかるし、疲弊をどれだけ重ねれば到達するんだというメドがたたない不安なことですよね。

 これはほんとにそうだと思います。
 それで、「私の場合、このくらいかかった」とか、
 「こうすると少しうまくいったみたい」とか、逆に「どうもうまくいかない」とか、
 そんな経験談がこういった場で積み重なっていくといいなと思えるんです。
 そうするとなんとなく「相場」(笑)みたいなものも見えてくるような気がするし、
 それぞれの方が自分の状態を理解する手がかりにもなると思うんです。

 ということで、私のなさけない体験談も「恥を忍んで」書かせていただいています(笑)。

> それでも、我が子のこととなると「はっきりものを言わないからこの子は損だ」とか「優し過ぎて自己主張できないのに妙にがんこだ」とか・・・個性の範疇でしか捉えないのです。

 ここは引き続き大きなポイントなんだろうなと思いました。
 なんか「ステレオタイプ」で決めつけることの問題が一方であるんだけど、
 でも逆に「個性」としてしか見ないことで困ったことになることもある。

 トマトさんが強調されてきた「あきらめ」の問題につながる気がしますが、
 「個性」としてだけ見られてしまうと、ある意味すべての責任を
 その人個人が背負わなければならないような、そんな世界になってしまって
 大変になるのかもしれません。

 そうじゃなくて「私たちはこんなもんだ」とか「あの人たちはこういうもんだ」
 みたいなことがあると、目の前の一人の人がその責任を全部負わなくて良くて、
 「私たちのあたりまえ」と「あなたたちのあたりまえ」がちょっと違うんだ、
 というところでちょっと楽になれるのかもしれません。

 このへん、ほんとに微妙で、そういう「私たち」と「あなたたち」の割り切り方は
 簡単に「ステレオタイプ」や「差別」にも結びつくし、
 そうならないためにはどうしたらいいのかとか、ときどき考えます。
 
 

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