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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年2月 5日 (水)

表現されない表現

 定型アスペのズレは一般的には「アスペの方は共感能力に問題がある」と捉えられるのに対して、私はあえて「自分(定型と思っている)はアスペの人を共感できない」という、パートナーにも何度か指摘された「お互い様」の「事実」にこだわって考えてみようとしています。定型がアスペの方に理解されないことに苦しむように、アスペの方も定型から理解されないことに苦しみ続けていることは、もう否定できない事実と思えます。

 また、共感能力に関係することとして、アスペの方は定型の表情の意味を読み取ることが極めて苦手である、ということも問題にされます。けれどもここでも繰り返しいろいろ書いてきたように、私もアスペの方の表情の意味を読み取れないわけです。少なくとも私の読み取り方はパートナーには全く心外であったりすることが多い。

 基本的な表情の読み取りというのは、ほんとうにもう生まれつきと言ってもいいようなもので、頭で考える前に身体が反応してしまうようなものです。その点については私はアスペも定型も同じじゃないかと感じるのです。読み取り方は異なるけれど、それは意識的にそうだというのではなくて、もうほんとにどちらも無意識的な身体の反応のレベルでそうなっていそうだという風に。

 それじゃあ理解は全く不可能なのか、といえばそれはもちろんそんなことはありません。極端な例で言えば、私はうちの猫の表情を読み取れないし(というかそもそも表情らしき物がない……笑 )、その仕草などから理解できることは本当に限られています。でもパートナーを理解することについては言うまでもなく、比べるまでもなく、はるかに容易です。(こういう例えはアスペの方に失礼になるかもしれませんが、でもそのことをしっかり確認しておくことは大事に思えてなりません。アスペの方を定型が理解しにくい、というのは、あくまで「相対的に」ということであって、絶対的にではないということを思うからです)

 問題はどうやって今一歩理解に近づけるか、になると思いますが、定型の側から言えば、ひとつ前提として大事になりそうなのは「自分に対する表現として相手の表情を見る」という定型的な見方をしないようにすることのようです。このことについては少し前の記事にも書きましたが、その思いがより強まってきたように感じます。

 それは「私に対する表現」ではない。でもやっぱり何かを「表現」している。いや、表現と言うよりも、パートナーの気持ちの状態がただそのまま現れている、と言った方が良いのかもしれません。だとすれば、そこに現れているものをただそのままに、それ以上の意味を読み取ったりしないで感じ取ることがまずは必要なのかもしれません。「表現し合うこと」に慣れきっている定型にはそれは難しいことですが、もしかすると全く不可能ではないかもしれない、そんな気がします。

 いや、ほんとにそんなことが出来るのかどうか、何の保証も無いわけですが、なんにせよ、今の私の気持ちがそちらに向き始めていることは事実です。それがどういう結果になるのかは全くわかりませんが。

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コメント


>それは「私に対する表現」ではない。でもやっぱり何かを「表現」している。いや、表現と言うよりも、パートナーの気持ちの状態がただそのまま現れている、と言った方が良いのかもしれません。

ここの、この"パートナーの気持ちの状態が"が気になりました。

パンダさんのパートナーさんのことですから勝手に何とも言えませんが、
私は常に気持ち(感情)を感じてはいないのです。。。

心の中に存在すべきは感情よりも思考プロセスとなります~

トマトです。

多分「お互いの気持ちの交流」というテーマは、パンダさんの、いやASを家族に持つ定型者の生涯のテーマです。
ここから「離れろ」と言われても、それは定型にとって「相手の存在を精神的に切ってしまえ、物理的に別れて離れろ」ということに等しいと思います。

ですから、家族でも恋人でも友達でも、一緒に居る・・・ということは、定型にとっては「相手の感情を感じられるか、読み取る気があるかどうか」につながると思うのです。

しかし、事実として「ASは自分の感情をつかむのが苦手で、適切に表出するのはさらに困難」という特質をお持ちだということを、この場所で何十人というASの方が説明してくださっています。

定型の一方的な「感情読み取り方式」では、ASの人の感覚理解を誤ってしまう、ということを学びました。

ASの人が、周囲の多くの定型に「言っても、言っても、理解しない、覚えない、対応できない」と言われ続けている例と同様に

沢山のASの人に定型が「言っても言っても、理解しないし覚えてくれない」と言われ続けるコトのひとつに
「だから、感情うんぬんは、定型の取り越し苦労にしかならないから、思考で対応してよ」
があると思います。

ここのところは、平行線のまま、決して交わることのない、ASと定型のそれぞれの生き方なのだと思います。

私は、ASの友人に、感情面でずいぶんストレスも疲弊も不満ももどかしさも疑問も感じていましたが「亡くなる前日、ありがとうトマトさん、本当にありがとう、とうわごとで言っていた」と看護師さんから聞いて、感情面が満タンになり、いまだにあふれるほどの感謝をもらいました。

お互い、生きているときは謎だらけで、納得も安堵も感じた淵から崩れていって、それを探し求めてまた繰り返す。

ASと定型ってこういう関わりなんだなと・・と小さな達観を持ちました。

トマトさん

パンダさん、先にトマトさんにコメントをさせていただく失礼を、お許しくださいませ。

トマトさん、初めまして。星と申します。
ASのご友人様のご冥福を心よりお祈りせていただいています。

ASのご友人様のことを、トマトさんのコメントで読ませていただくたびに、心に浮かんでいたことがあります。
ただ、そのご友人様を亡くされて、本当にお辛い思いをされていらっしゃるトマトさんに、どうしてもコメントできずにいました。

でも、今朝のトマトさんのコメントを読ませていただいて、今日は勇気をだして、お伝えさせていただく決意ができました。
亡くなられている方のお気持ちを推測させていただき、語らせていただく失礼をお許しください。
ASのご友人様は、(多分)トマトさんのことを愛されていたように、私には感じられるです。
その方ご自身は、もしかすると、ご自覚されてはいなかったかもしれないのですが。
愛といっても、きれいな純粋な愛のことです。(愛にも様々あり、誤解があってはいけないので・・・)
友人としての愛、家族的な愛、一種の夫婦的な愛、また、ある意味親子的な愛、多分それらの愛が、入り混じった愛なのではないかと感じています。

今朝のトマトさんのコメントの、看護師さんから聞かれたお言葉のところを読ませていただくと、その方にとってトマトさんは、「ありがとうトマトさん、本当にありがとう」と、うわごとで言うほど、大切な、本当に大切な方だったのだと感じ、知らない間に涙が流れていました。

もし、文中に失礼に感じられるところがあれば、お許しください。
本当に心を込めて、書き込ませていただきました。

寒い日が続いていますが、お身体ご自愛くださいませ。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

星さんへ トマトです。

思いがけず、親切なコメントをありがとうございます。
星さんは、ピュアな感性のある方だという印象を持っておりました。

ので、がさつな私の思い出話に想いを馳せて頂いてなんだか恐縮です。

アスぺの人と関わると、定型は考える旅人になっちゃうと思うんですよね。
さまよったり、立ちすくんだり、途中座り込んだり、それでも「ASの人の自分への気持ちを探しながら」ずっと歩んでいくのだと思います。

今後もよろしくお願いします。
ずっと

アスペルガールさん

>私は常に気持ち(感情)を感じてはいないのです。。。心の中に存在すべきは感情よりも思考プロセスとなります~

 「気持ち」という言葉を使って「感情」としなかったのは、
 アスペルガールさんの言う「生理的反応」により近い表現にしてみたのですが、
 やっぱりそこは引っかかられるわけですね。

 この微妙な言葉の感覚の違いにきっと大事な手がかりがあると思いますので、
 ちょっとご質問です。
 たとえばアスペルガールさんが

「人を悪く言うことにより自分自身が苦しくなる実感があるのです」

 と書かれるとき、この「苦しくなる」というのは「気持ち」とは違うのでしょうか?
 私の言葉の感覚では「苦しみ」は気持ちのひとつなのですが。
 また、「怒り」とか「怖れ」とか「悲しみ」とかを感じられることはないでしょうか?
 もしあるとすれば、それは「気持ち」とは違うものでしょうか?
 「うれしい!」とか「心地よい!」とかはどうですか?

トマトさん

>ここから「離れろ」と言われても、それは定型にとって「相手の存在を精神的に切ってしまえ、物理的に別れて離れろ」ということに等しいと思います。

 そうなんですよね!
 これ、私がときどきパートナーに言いたくなることなんです。
 「絆」を何に感じる(?)のか、そこになんかズレがあって、
 見よう見まねで彼女に合わせてみようとすると、
 なんだか他人同士の冷たい関係のように感じられてしまうんです。

 ほんとに距離の取り方が難しい……
 とぼやくのは、やっぱり達観できてない証拠でしょうね weep

トマトです。

ASと定型では、「そもそも、その話しの手前の概念が違う」ということが多いですよね。

絆を何に感じるのか?・・・の「絆」という概念の有る無し、「絆」に価値観の有る無しから、検証しなければならないと思うんですね。

定型も、自分の到底思い当たらないことや出来ない事を「なぜ?」「なんで?」と、問われ続けると、どんどん自信喪失、自己卑下におちいると思うんです。

軽度のASの人は、、定型を精神的にも物理的にもリードしたり助けてくれたりする場面もあるし、無理なんだとあきらめたことがある時出来たりするので、ついつい定型者は期待(という感情)を誘発されてしまうのだと思います。
それは気分的にサーフィンのように、波に乗れたかと思うと、その瞬間波に呑まれたりの目まぐるしい衝撃の連続で、ついつい「さっきは同じ波に乗れたのに、なぜなんだぁ〜!!!」
と、波に聞いてしまう・・・という図ではないでしょうか?

で・・・「聞く」ということが、日常のバランスを取る行為になってしまうのだと思います。

ASの人に聞いても「なんだか違和感を感じて疑問が残る」という答え方は多いと思います。
そこで定型は、通訳的なものを求めて第三者のASや定型に聞いてみる。
そこでその場は納得を得られる。
けれども、肝心な目の前のASの人からは納得をえられぬまま関わりを続けなければならないので、いつまでも腑に落ちない相手・・になっちゃう。

この「腑に落ちない」ということが、いつまでたっても自分が受け入れてもらえない「不満」なんですよね。

定型の子供って、やたら「あれ何?」「これ何?」と聞く時期がありますよね。
パンダさんの奥様から見たら、パンダさんは子供っぽく映ってるんでしょうかね(笑)


トマトさんへ

お返事ありがとうございます。

『ずっと』のお言葉は、しっかり受け取らせていただきました。
とても嬉しかったです。

トマトさん
ずっと、よろしくお願いいたします(*v.v)。

トマトさん

 お返事遅くなって済みません。ちょっとばたばたしていました。

>パンダさんの奥様から見たら、パンダさんは子供っぽく映ってるんでしょうかね(笑)

 (笑) いや、奥様から見なくても、その通りではないでしょうか……
 好奇心とか「知りたい」「理解したい」という「欲望」は、子ども並だと思いますし、
 精神年齢も子ども並かと…… (^ ^;)ゞ

 その証拠に、つまんないギャグが好きで、
 小学生も下の方だとちょっと難しくて理解できないみたいですが、
 上の方の子には結構受けるんです。
 ところが中学生になると、もう馬鹿にされ始める…… (^o^)
 もちろんパートナーにもいつも「心から」あきれられております (T T)

 うーんと、「ギャグの発達」ということを考えたとすると、
 私は「発達障がい」の部類に入るのかもしれません (^ ^;)ゞ

 絆についてはとりあえずパートナーはその感覚はすごく強いと感じています。
 ただ、その具体的な感じ方にはやっぱりズレが大きいと思うんですが。
 彼女の場合特に「家族」という絆に特別の思いがあると感じます。
 もちろん私にも「家族」への思いはありますが、
 そこにどう「精神的な絆」みたいなことを絡めて感じ取るかについて
 やっぱりズレがあるみたいに思うんですね。
 

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