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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年2月

2014年2月28日 (金)

感情的やりとりのない世界

 もし、自分が周りの人の「感情」とか「表情」の意味がつかめない状態に置かれたら、自分は何を思い、どんな生き方をしようとするだろうか?と考えてみます。

 (少なくとも定型的なスタイルの)「感情」のやりとりは、意味がよくわからないわけですから、たとえて言えば外国語をしゃべる人たちの中に自分がひとりで取り残されている、といった状況になるかもしれません。

 それでも苦労してところどころ聞き取れる言葉(感情)は出てきて、それを使って話しかけてみたりもするんだけど、まあなんとか通じるところもあるし、それでいいのかと思ったけれど、自分には全く理由が分からないことで急に怒られたり、ショックを受けられたりもする。

 なんとか言葉の意味はある程度つかめるようになって、やりとりを聞いているんだけど、でも自分の理解とは全然違う形でそのあと物事が進んだりする。そんな話、いつされたのか、どうやってそんなことが決まったのかがちっとも分からない。なんだかまわりが自分を取り残して勝手に動いている。

 世の中訳が分からないことだらけだけど、とにかく自分は生きていかなければならないし、自分が確実に分かる現実の世界でしっかり生きていこうと思う。そこに周りの人が関係ない話を持ち込んできてごちゃごちゃされるのは混乱するだけだから、やめて欲しいなと思う。

 別に相手の人を傷つけたいわけではないし、関係を悪くしたいわけでもないし、自分にできる協力はしてあげたいんだけど、「この人にはこういうことが必要だ」と状況を判断して現実的に対応しようとすると、「なんでもっと会話(感情のやりとり・なぐさめ)をしてくれないんだ」と怒られる。

 でもその人が困っている現実的な問題をどうやって解決するかが大事なはずなのに、どうしてそんな「会話(感情のやりとり)」なんていう、関係ない話を持ち出すのかがよくわからない。自分は一生懸命相手のことを考えてやっているのに、なんでそれが無視されて、現実的な解決には何の役にも立たない「会話」の話なんか言い出すだろう?と、混乱してしまう。

 …… といふうに考えてみると、今までよりはちょっとアスペの方の「生き方」が実感されるようにもなる気がしますが、さてアスペの方から見て、これはどうなのでしょう。そもそもこういうたとえ話自体が定型的なもので、ずれまくっているのかもしれないですし、「意味が分かんない」という話になるのかもしれませんけど。

2014年2月27日 (木)

「報連相」と「生き方」

 私の親しい知り合いが、初めての海外生活を始め、ときどきメールで様子を教えてくれるのですが、その中でちょっと事情があって、引っ越しをすることになり、さらにその予定を1週間早めようかと思っているということが書いてありました。私はそのほうが良いんじゃないかと思って、そういう感想を返事で送ったわけです。

 私のパートナーも良く知っている人だったので、ちょっとその話題を振ってみたんです。そしたら彼女の疑問は「なんでそんなこと、いちいち相談してくるんだろう?」というものでした。で、私はちょっと意外に思って、「いや、別に相談された訳じゃなくて、たんに状況を書いてくれてるだけだと思うし、僕も別に感想を言っただけだし」と説明しました。

 それに対するパートナーの次の疑問は「そんなこと、さっさと自分で決めて引っ越してしまってから言えばいいのに、なんでわざわざ言ってくるのかね?」というものでした。私は「あ!このパターン!」という気がして、ちょっと面白くなって、「いや、そこがやっぱり定型的な感覚とアスペ的な感覚の違いじゃないかな。」と言ったんですね。

 「定型の場合は、別にはっきりした相談とかでなくても、自分の状態をお互いに伝え合って、なんとなく事情を共有しようとすることが多いんだと思う。アスペの人はそこは基本的には自分ひとりで決めてしまう傾向が強いんじゃないかな」

 それを聞いて、パートナーは「はいはい、そうですか」とか言ってそれで話を終えてしまいました (^o^)

 まあ考えてみれば、アスペの方が「報連相(報告・連絡・相談)」が苦手、と言われる話のひとつとも言えるのでしょうが、別の言い方をすれば、何かの問題を抱えたときに、他の人とどんな関係をとろうとするのか、自分自身の責任の範囲をどう考えるのか、定型アスペ間のそんな「姿勢」の違い、とか、ちょっと大げさに言えば「生き方の違い」というふうにも感じられます。定型にとってアスペの方の「姿勢」がよく分からないように、アスペの方にとっては定型のそういう「姿勢」がきっと「不思議」なんでしょうね。

 そこにもつながる問題のように思いますが、あいかわらずずるずる続くパートナーの風邪についてです。仕事も休めず、しんどそうに帰ってくるパートナーを見て、いつもはパートナーがしている家事を、私がするからと言うんですが、案の定というか、「いや、自分でやる」というんですね。

 私が手伝いを申し出るときは、そのときどきで「ついでがあるから」とかなんか私にはぴんと来ない理由がつくこともあるんですが、基本的には彼女が担当していることについては断られることが普通です。

 で、昨日は、強烈な頑固者の私の父親を引き合いに出して、「親父とそっくりだね」と言ったら、それはとても心外だったようで、「全然質が違う」というようなことを言ってました。男の頑固者はだいたいが「自分が偉い」と思いこんで譲らないんだ、というようなことを彼女は言うんです。ま、たしかにそうかもしれません。彼女が「自分が偉い」と思いこんでいる様子は感じたことありませんし。

 そのあと、でも彼女は結局「じゃあやって」といってようやく手伝い(代行)をやらせてくれました (^ ^;)

 

2014年2月23日 (日)

「多数派」としてのアスペ

 パートナーの風邪はまだ続いていますが、今度は彼女の方から「定型の人はこういうときに一人にしておいて欲しいと言うと傷ついてしまうのか」と聞かれました。それで私が「心配して何かできることはないかと声をかけて、そんなふうに言われると、一般的には<好意を拒絶された>という風に感じてしまうと思うよ。」と言った後で、「僕は最近はもうそんな風には感じなくなってきてるけど」と言ったら、なんかよかったというか、安心したというか、そんなことを言ってました。なんとなく、お互いの変化が一寸ずつ積み重なってるかな、という感じがしました。

 ところで、トマトさんからいろいろアドバイスを頂く中で、今回特に強く「ああそうか!」とすごく納得したことがありました。いくつかの表現で説明して下さっているのですが、たとえば次のような言葉。

>私は、知人が病気で臥せった時、無表情で声もかけず通り過ぎて行くASの伴侶や子どもを見ているうちに「こういうものなのだ」と、その行為を自然に感じられるようになった自分がいたのです。

 私が自分の持っている定型的な(だと思うのですが)感覚で、中々パートナーの言動を心から「納得する」ことができずに、でもなんとか自分なりに納得したくて、ずっと悩んだり考えたりし続けているわけですが、ほんとに難しい。そういう私の状態を見て、ある意味で堂々巡りになっているのではないか、とトマトさんは指摘して下さったと思います。そしてその堂々巡りを抜け出すのは、少しパートナーから離れて、他のいろんなアスペの方たちとの交流(ここではある程度させていただいてきましたので、そういう間接的なことではなくて直接的な交流のことかと思いましたが)をしてみることがとても重要ではないか、と教えて下さっています(と思いました (^ ^;)ゞ)。

 そのことの意味が、上に引用させていただいたコメントで、私自身の別のところでの体験とリンクして、すごく分かる感じになったのです。

 その体験というのは、仕事の上でとかでつきあう、異文化の方たちとの経験なんです。文化が違うと、ほんとにびっくりするくらい、お互いの常識がずれてしまうことが時々あります。お互いの関係が深まっていく中で、「なんでこんな当たり前のことが無視されるんだ!」と憤ったり、相手の人に根深い不信感を抱いたり、ということは、いくらでも普通に起こることです。

 ところがそういう「どう考えても、どう説明されても、気持ちとしては納得できない」ことが、その文化の人たちのやりとりを見ていて、ふと「ああ、この人たちにとってこれが当たり前なんだ」というふうに、実感として思えるようになる瞬間があったりするんです。それは「だから私もそうしなければいけない」と思うとか、そういうこととはもちろん違います。「もうこの人たちには言ってもわからないんだ」と「あきらめ」て「切り捨てる」こととも違う。ただ「ああ、当たり前なんだ、このひとたちにとっては」という風になんか「納得」する感覚。

 そうすると、その相手の人にとっての「当たり前」の世界を前提にして、そして別に自分の持っている「当たり前」の世界を否定するわけでもなく、改めて「じゃあどんなふうにつきあっていこうか」と前向きに考えられるようになる。そんな変化を自分に感じることがときどきあるんですね。

 トマトさんが書いて下さった上の例も、その私の体験の感覚で理解すると、なんかぴったり来る感じがするんです。

 ここ、表現が微妙に難しい感じがするんですが、トマトさんの言葉をお借りすれば「こういうものなのだ」という感覚は、目の前の一人の人だけを見ていては生まれにくいんです。そうじゃなくて、「そういう人たち」という、複数の人たちのつながりの中で目の前の一人の人がリアルに感じられるようになったときに、「こういうものなのだ」という感覚が生まれる気がするんですね。ちょっとわかりにくい書き方かもしれませんけれど。

 言葉を換えて言えば、目の前の人を「個人」として見ているだけでは「この人はおかしい」という感覚から抜けきれない感じがするんです。でも「ああ、この人<たち>にとって、それは変なことでも何でもないんだ」というふうに、その人をその人<たち>という「多数派(?)」の中で感じられるようになると、「この人はおかしい」という感覚に変化が現れる気がします。

 いや、ほんとにこの辺、表現も難しくて、「この人<たち>はみんなおかしい!」という異文化の人たちに対する決めつけ方も、この世の中では実際にはよく行われていますから、単に「多数派(?)」として見たら済む話では無いのでしょう。多分そのほかに何らかの形で「自分の常識をもう一度見つめ直し、考え直してみる」ということが必要になるんだと思います。そして「自分(の常識)は正しい」という「決めつけ」をちょっと考え直してみようとする、そういう姿勢を持っていると、なんかいつかの機会に「こういうものなのだ」という感覚がやってくる気がします。そのときに「この人<たち>」という見方がプラスの方の意味を持ってくる。

 これはもしかすると定型により強い感覚かもしれませんが、「感覚的にも納得する」ということは、「何人もの(あるいは何人かの)人たちに共有されている」という感覚と結びつかないと、うまく成り立たないものなのかもしれません。(うーん、やっぱり表現が難しい!)

 まだうまく分かりやすく表現できませんが、トマトさんが強調されていたことが、私自身の体験と結びついてひとつの「納得」感覚を生んだような気がします。この感覚がこれからどう育っていくのか、ちょっと期待感があります。
 

2014年2月22日 (土)

風邪

 仕事から帰ってみると、パートナーが風邪を引いていました。

 「病気の時にどういう気遣いを望むか」というのは、ここでも何度も考えてきた、アスペ定型のズレる重要ポイントのひとつ(だと思う)ですが、今日は私の中での変化を感じました。

 なんかすぐに「あ、こういうときは一人にしてあげないといけないな」とか、「あんまりあれしようか、これしようか、とか言わず、<必要なことがあったら言って>とだけ言ったほうが彼女は楽なんだな」とか、そういうことをあんまり無理でなく思うようになっていました。

 無理でなく、というのは、「頭で考えて気持ちがついていかない」という状態とは違って、気持ちの方もわりに自然にそうなりつつある、と感じられたということです。

 「病気の時にひとりにしてあげる」というのは、まあ言葉で書けばたった14文字で終わってしまいますけれど(笑)、そういう「気持ち」になりはじめるのに、私の場合は「アスペ定型のズレ」の問題に気づいてから4年位もかかっちゃってるんですね…… 

 それだけ問題が難しいのか、単に私の柔軟性のなさの問題なのか(泣)、そこはよくわかりませんけれど、まあ、でも時間はかかるけど、そうやって気持ちが変化していくこともあることに気づきましたし、これがまた次のステップへのひとつの手がかりになればいいなと思います。

それぞれの事情

 ちょっと手のかかる仕事が立て込んでいることも影響しているかもしれませんが、ここ数日こちらの方では頭があんまり働かない日々が続いています。自分自身の印象としては別に悪い感じはなくて、何となく頭がもう一度整理されなおそうとしているのかなあ、という気もします。(アスペルガールさん風にいうと、無意識下で理解が進んでいる、という感じかも)

 気分転換にチャン・ドンゴンの主演する「タイフーン」という映画をGyaO!の無料映画で見ていたんですが、改めて朝鮮(韓)半島の人たちが抱えている壮絶な状況や、その中で生きざるを得ない人生の重たさをしみじみ感じています。まあ、韓国の友達なんかとつきあっていても、ときどきそのことは意識せざるを得ないのですが。

 私の場合も、子どもの頃、「家庭は戦場」というのが当たり前、という感覚で育って、大人になってから「家庭は安らぎの場」という感覚で生きてこられた人たちのことに気づいて「え?そんなことありうるんだ!」とびっくりするような状態でした (^ ^;)ゞ だから、朝鮮(韓)半島の方たちが置かれた「日常が戦場」という世界に、なんとなく私がリアリティを感じるのかもしれません。それにしても彼らの人生のすさまじさに比べると、自分の置かれてきた状況はまだなんと穏やかな、と思えないでもありません。

 まあ、日本の中でもすごい厳しい状況はいくらでもあるわけで、昔の知り合いに親がヤクザやさんの親分さん、という人がいましたけれど、子どもの頃に目の前で人が刺されるところも見たそうです。本人、冗談言うのが好きな人で、そのときも決して深刻ぶらずに笑顔で話してましたけど、それだけシビアな深い傷になっているということですよね。でも、数はそんなに多くないですが、私が海外の知り合いや友達たちの人生を聞いていると、日本のように「穏やかさを大事に<できる>」という状態を、そもそも「許されていない」状況の厳しさを感じさせられることが多いです。

 何にせよ私も私なりには「戦場」で育ってきたことになるのだと思うわけですが、パートナーはそういう私にとって、安らぎを与えてくれる人だったんだろうなと、ふと思いました。彼女自身それまでわけのわからない定型世界の中で、やはり家の中でも私とはまた違った形で厳しい状況を生き抜いてきたわけですが、そのことは私には「共感」できる部分になったのかもしれませんし、何よりもやたらと私の中をかき乱そうとはしないその距離感が、ほんとに救いになったのだろうと思います。それまではほんとに自分の中に手を突っ込まれてかき乱され、振り回され続ける家庭環境でしたから。

 私の親にとってはそんな風に人と距離を取って生きるパートナーは、ある意味得体の知れない人間だったでしょうし、色んな意味で許し難い存在にもなったのだろうと思います。結婚してからは私は彼女に対して親からの防壁になる、という役目を必死で果たしていました(ただ後にパートナーは全くそのことに気づいていないことを知って、唖然・愕然、でしたが (^ ^;)ゞ)。

 それでも親がするどく突いてくるパートナーの「アスペ的部分」の「おかしさ」(もちろんそれを親がアスペの問題として理解しているわけではありませんし、私もそういう理解は出来ていませんでしたが)については、私も日常生活の中で深刻に感じずにはおれませんでしたし、そこに同意を求められて困りましたが、とにかく親のように一方的に決めつけて非難する気にはなれなかったです。私には理解が及ばなくても、パートナーにはパートナーなりの深い事情があるに違いないと思い続けてきたからです。

 前にもすこし書いたことがあるような気がしますが、確かにパートナーという人は、私にとっては「私の内面をやたら自分の都合でかき乱そうとはせず、静かにそこに一緒にいてくれる」というところで本当に安らぎをもたらしてくれると同時に、こんどはその同じ事が「私の気持ちを共有して支えてくれない」ということにもなってしまい、私や子どもが苦しむ原因にもなったことになります。

 彼女は彼女で子どもや私のことを(特に子どもが出来てからはひたすら子どものことでしょう)心配して、いろいろ努力を続けてきたし、そのことで子どもが救われた部分は決して小さくないだろうとは思うのですが、やはり彼女の「アスペ的な理解の仕方」で子どもに対応することで、彼女が懸命になればなるほど逆にズレが大きくなってしまって、子どもの「気持ち」を中々支えられずに、自分の理屈で(私から見て理不尽に)しばりつけるという結果になってしまったと思えます。

 「自分はアスペルガーだ」という理解を彼女がし始めてから、彼女は自分のせいで子どもを苦しめた、と思ってそのことに苦しんで来ていますし、正直に言えば、私の定型的な感覚から言うとそのように思える部分も確かにあります。ただ、言葉の遊びをする気持ちはないのですが、それを「彼女のせい」と考えることはしたくなくて、やっぱり「アスペ定型のズレのせい」と考えたいんですね。別に彼女は自分で選んでアスペになったわけではないし、私だって選んで定型になったわけでもない。彼女が定型的世界を理解しにくいことでいろいろな問題が生まれるように、私はアスペ的世界を理解できなくていろいろな問題が生まれてしまう。

 彼女は生まれながらにして「そういう人」なわけだし、私もまた生まれながらにして「こういう人」なわけだし、お互いの家庭のそれぞれ個性的だったりシビアだったりする状況も、別に自分が選んだわけではなくて、もう運命としてそうだったわけです。そのこと自体は個人が「責任を負う」という話ではないですよね。

 子どもを苦しめた、ということについての罪悪感は私も抱えていますけれど、子どもが親を選んで生まれてくることは出来ないし、そしてなによりも、「この親」からしか「この子ども」は生まれないんです。このことはどんなに逆立ちしたってもう変えようのないことで、ただ「そういうものだ」と受け入れるしかありません。あとはそのことを認めた上で、どうやって少しでも幸せになっていくか、ということですよね。


 あれほどシビアだった私の親とパートナーとの緊張関係ですが、介護の問題を通して、福祉の仕事をやっているパートナーがその専門性も活かしながらいろいろ考えてくれ、親の方が彼女を頼りにするように変わってきました。時間はかかっても、それなりにいつか変わるものはあるんですね。そのチャンスを見逃さないことが大事なのかもしれません。

 

2014年2月17日 (月)

あきらめ

 ここまで私は多分こんなことにこだわり続けてきました。

 定型にとって「感情的なやりとり」がとても重要。でもアスペの方は定型的な感情のやりとりはとても苦手。苦手というのは単に「やり方が違う」ということではない。「やり方が違う」のであれば、お互いに通じる「やり方」を模索すればいい。

 でもアスペの方と定型のさらに深刻な違いは、定型が自覚する感情をアスペの方が自覚しないと言うこと。だからお互いに調整しようにもその「調整する感情」をアスペの方が見いだせないことが多い。

 そうは言っても、私が見る限り、アスペの方は感情を表現されている。たとえば表情や、それから行動、姿勢、そんな形。実際アスペルガールさん他のアスペの方も「生理的状態はある」というような形では自覚はされている。

 ところがパートナーにしても、それを感情状態として「自覚」することがとても「難しい」ように見える。

 つまり、本当は定型的には「感情」と言えるところを、何らかの理由でアスペの方は「感情」というふうには理解されておらず、また「感情」として相手とやりとりしたり、自分でコントロールしたりすることが出来なくなっているように思える。

 もしそうだとしれば、「感情」についてのお互いの理解を進めていくことで、それまでアスペの方が「感情」という言葉では表現せず、また人とやりとりするという発想も出来にくかったものについて、改めて「自覚」して調整が出来るようになるのではないか?

 実際定型同士の関係でも、自分の中に自覚できない感情的な葛藤がある場合に、人と話して気持ちを整理したり、あるいは人に自分の思いを受け止めてもらえることで、自分の葛藤に「気づく」ことがあり、そのことで葛藤そのものを解決できることがある。

 同じようにアスペの方も「自覚できない感情」について、なんらかの工夫で定型アスペ間で通じ合えるような理解の仕方が出来れば、それまで無理だった感情的な面での交流もそれなりのやりかたで可能になるかもしれない……

 ところが改めてアスペルガールさんやコルテオさんとそのことについてやりとりをしてみたり、あるいは色んなアスペの方と沢山の交流やその方たちへの支援の経験があるトマトさんのコメントを拝見していると、「本当はそこにある感情を自覚できない」という理解の仕方自体が定型的な無理な見方で、「実際にそこに感情はない」という言い方をしたほうがより実際に近いのかもしれない、という可能性が明確に浮かび上がってきたように思いました。

 この「実際にそこに感情はない」という言い方自体も、かなり定型的な見方からの表現になっていると思え、たとえば定型なら「感情の無い人間」という表現は「ロボット機械のような人間」とか「冷血漢」とか、そんなイメージに結びつきやすいように思えますが、そういう話ではない。ただ「本当はそこにある感情を自覚できない」という定型的なひとつの理解の仕方がどうもしっくりこないものだ、ということに留まります。

 実際私のパートナーも、子どものことを本当に心配しているし、私のこともいろいろ考えてくれる。ただ結果としてそれが定型の側から見ると「心配」や「配慮」として感じられず、逆にマイナスの意味を持つものに思えてしまったりすることが残念ながらよくあるわけですが、でも彼女は彼女なりに本当に一生懸命だと言うことは伝わってくるし、それがうまく行かなくて苦しんでいることも分かりますから、到底「ロボット機械」とか「冷血漢」とか、そんな風には考えられないわけです。

 この問題について、私は「アスペの方同士は理解し合える?」では、

 「定型のように小さい頃から身体やことばを使って表現し合って調整して理解を複雑にしていって作られた「感情」の理解は、アスペの方には謎に近いものになってしまうわけですから、その複雑になったものが「感情」なのだとすれば、自分には理解不能なもの、そして自分の中にはないもの、というふうにそれを感じられたとしても、ある意味当然だと思えるわけです。」

 と考えてみました。だいたいそれと同じような方向だと思うのですが、トマトさんも

  「一般的に、定型発達は、感情の種類を増やしながら大人になっていくと思うのです。「微妙な感じ」「複雑な思い」「共感の強弱」「様々に想いをはせる」などなど・・・。感情を色に例えると、誕生日が来るごとに、持っているクレヨンの色が着実に多くなるみたいなものでしょうか。自閉圏の人は、自覚する感情の種類が定型よりは少ないと思うのですね。」

 と説明されています。「自覚できる感情」の範囲については、同じアスペの方でもいろいろかもしれません。私のパートナーの場合は「楽しい」という感情状態は尋ねれば教えてくれたりしますし(自分から積極的には言いませんが)、あるできごとについて「怒りが抑えられなくなりそうで自分では触れないようにしている」というようなことを説明してくれることもあります。「心配」という感情状態についても聞いていくと話してくれることがあります。でも、私の印象としてはたとえば「嫌いだけど好きだ」とか、「悲しくもあり嬉しくもある」というような、矛盾したものが入り交じった微妙な感情については伝わりにくい感じがします。

 またいただいたコメントなどを拝見していると、もしかすると「楽しい」とか「怒り」とか「心配」などのような感情状態についても、「自覚」はあまりされないのかもしれない、と想像する場合もありますから、もしかすればそこは人によってすごく違うかもしれないと思うんですね。

 そうすると、これは定型的な感覚での「感情の発達」と「そのレベル」いう「上から目線」の図式で考えての話になってしまうのですが、アスペの方は定型なら「感情の問題」として理解して対処するような心や体の状態について、それをどの「レベル」まで「感情」として理解し、対処されようとするのか、また実際にご自身がどの程度の「レベル」の複雑さの感情を持っていらっしゃるのか、ということは千差万別で、それぞれの方が何らかの原因でその「レベル」に限界を持っていらして、その限界以上についてはいくら「努力」をされたり「経験」をつんだりされても手が届くことはない、という可能性も考えなければならないことになります。

 「障がい」の「重さ」という形で問題を理解する場合には、こういう考え方は別に珍しいことではないでしょうし、「何を今更?」という話にもなるのでしょうが、私がこだわっていることとそのような「障がい」の考え方との間に含まれる大事な違いについてはまたぼちぼち考えることにして、とにかくその「可能性」について改めて考え直さないといけないと感じています。

 そのことは多分、トマトさんが一貫して語られてきたように感じる、ある種の「あきらめ」につながる問題になるのでしょう。「あきらめ」と言うと、何か相手の人を見捨てるような、切り捨てるようなイメージもある言葉になりますが、ここではそうではなくて、「自分の勝手な期待で見る事へのあきらめ」というニュアンスで考えています。

 それもまたお互い様のことで、私自身がパートナーから「アスペ的な理解」によって対応されることで、すごく自分が縛られるように感じて辛かったように、彼女もまた私の「定型的な理解」によって無理を強いられていることがあるんだと思うんです。もちろん私自身は「普通の定型的な理解を越えて、アスペの方にも納得でき、共有できる理解」を目指しているわけですが、そのときに「どうやったらそれができるか」というその具体的な考え方自身、やっぱり定型的な枠にすごくとらわれてしまっているようにも思えてきたことになります。

 もしそれが定型的な(あるいは私的な)「思いこみ」によるものだとすれば、そういう「思いこみ」による「期待」は却ってお互いを不幸にします。その場合はむしろ「あきらめる」ことの方が関係を良くするかもしれない。もちろんこれもトマトさんが前に書かれていたように、ある種のことについては「あきらめる」ことは定型にとっては相手の人との関係を「絶つ」ことに直結してしまうこともありますし、両刃の剣です。

 また何が「思いこみによる期待」で、何が「現実に可能性がある期待」なのかについても、最初から理解することは不可能です。(それが出来ればだれも悩みませんよね)そこはやはり手探りでどっちなのかを具体的に考えていくしかないでしょう。

 大事なことは「上手にあきらめる」ことなのかもしれません。

2014年2月15日 (土)

質問を理解するための質問

 

  コルテオさんからいただいたご質問を考えてみることが、定型アスペのコミュニケーションを考える上でひとつ大事な気がしました。とりあえず私の説明を試みてみたいと思います。はたしてどういう説明ならより伝わりやすくなるかについて私も工夫していきたいと思いますし、よろしければみなさんからもご意見をいただければと思います。

 もともと今回いただいたご質問は、私からコルテオさんにさせていただいた質問について、その意味がつかみにくいということからでした。

 私の質問はこんな内容でした。

> 定型同士の場合は、本人が自覚していない苦しみについて、他の人が先に気がついて共感的に関わった結果、その人が自分の苦しみに気がつく、ということもあるように思うのですが、(カウンセリングなどでも時々起こることのように思います)コルテオさんの場合、そんな経験はおありでしょうか?

 それに対してコルテオさんからこんな風にその「質問を理解するための質問」をいただきました。四つほどありますので、順番に私の考えを書いてみたいと思います。

>「気づく」とは、苦しさを感じるようになるのですか?
>それとも、苦しみであることを、知るのでしょうか。
>また、苦しみに気づかせるのは、なぜですか?
>「ない」を、あえて「ある」にする理由は、何でしょうか。

 まずひとつめから。

① >「気づく」とは、苦しさを感じるようになるのですか?

 結論から言うと、「はい」になるのかなと思います。

 いろんなパターンがありそうですが、相手の人の苦しそうな表情や状況を見ていて、自分も「見ていてつらくなる」ということがあります。「可哀想で見ていられない」という思いになったりすることもあります。そんなふうに感じる場合は「自分に出来ることがあれば何かしてあげたい」という気持ちになったりします。

 ただ、必ずしも相手の人の為に何かをしてあげることにはならず、小さな子どもを見ていると、相手の子が泣いていると、なぐさめるのではなくてもっと激しく叩いてしまう、というようなこともありますし、大人の場合でも相手が辛そうにしていると却って攻撃をするような人や場合もあると思います。

 どちらにしても人のそういう状態を見て、「感情的に揺さぶられる」ことはよく起こることだと思います。その結果、自分のその感情状態に対処するためにも、相手をなぐさめたり、逆に攻撃したり、あるいは「その場から逃げて見ないようにしてしまう」というような対処のしかたをしているんだろうと思います。

 理屈から言うと、そのときに自分が感じている「辛さ」と相手の人の「苦しさ」が「同じものかどうか」ということは、直接には答えられない問題になると思いますが、この話はちょっと込み入った話になってしまいそうですし、とりあえずここでは「同じかどうかは何とも言えない」という程度にしておきますね。

 ということで、「同じ」かどうかは分かりませんが、とりあえず相手の苦しそうな表情や状況を見ていて、「つらくなる」という意味で「苦しくなる」ことはあると思います。その場合、「つらく感じているのは自分で、相手の苦しみをそのまま感じているのではない」という理屈を意識することは少ないと思います。 素朴な感覚としては「相手の苦しさに共感している(それを自分が感じ取っている)」ということになります。
 
② >それとも、苦しみであることを、知るのでしょうか。

 素朴に「相手の苦しさを感じ取る」という状態になった後、それを頭で考えて「ああ、この苦しさは私が感じている自分の苦しさで、相手の苦しみは別のものだ」というふうに「反省してみる」ということはありえますし、その意味で「相手は相手の苦しみを苦しんでいる」ということを「知る」ことはあると思います。

 ただ、「この表情は苦しさを表している表情だ」とか「この状況は苦しみを生む状況だ」ということを「頭で推理」して、その結果「相手は苦しんでいる」と「知る」ということとは違います。

③ >また、苦しみに気づかせるのは、なぜですか?

 「気づかせる」という場合もないとは言えませんが、ただ普通は意図的に狙って「気づかせる」ということではないと思います。

 そうではなくて、たとえば相手の人の話を聞いている内に、「ああ、この状況はすごく辛いだろうな」と感じることがあって、ところが本人はそのことを意識していない場合があります。そのとき、さらに本人の話を聞いていると、本人がそれまで意識していなかった自分の気持ちに気づいて「ああ自分はこんなことで苦しんでいたんだ!」と自覚することがあります。

 また、気づいていないときでもこちらがその人の苦しい状況をほんとうに感じとれたように思える場合に、「それはすごく辛かったでしょうね」とか「辛いでしょうね」とか思わずこちらが話しかける場合があります(カウンセラーの人とかだと、ある程度その辺は意識的にされるのかもしれませんが)。そしてそのことをきっかけに、相手の人が「ああ、そうだ、自分は苦しんでいたんだ!」と気づくことがあります。

 じゃあなぜそんなことをするのか、ということですが、結論から言うとそうすると苦しんでいる相手の人が「救われる」と感じているからではないでしょうか。

 もしかするとここのところでアスペ定型間でものすごい違いがある可能性を感じるのですけれど、定型の場合「悲しみは分かち合えば半分になる、喜びは分かち合えば倍になる」というのは特に誇張でも何でもなく、その通り、あるいはそれ以上だと思います。つまり、「今まで自分でも気づかなかった苦しみを、この人は感じ取って<共感>してくれた、<理解>してくれた」と思えると、それだけでその人は救われた気持ちになる場合が多いと、多くの定型は思っているのです。

 なぜそう思うかというと、自分自身がそれまでの経験でも同じように「自分の苦しみを分かってもらえた」と思うことで救われた思いになることが繰り返されているからでしょう。定型にとって自分が「理解される」ことは本当に重要なことだと思います。

 少し極端な例ですが、「己を知るもののために死ぬ」という話さえあります。自分を理解してくれる人のためなら命を投げ出しても良い、という風に考える人が出てくるくらい、人に認めてもらう、理解してもらう、共感してもらう、ということは定型には重要なことなのでしょう。カウンセリングで「相手の人の言うことをじっくりと共感的に聞き取る」ことが強調されるのも、「聞いてもらうだけで気持ちが軽くなる」という定型の性格によるのだろうと思います。

④ >「ない」を、あえて「ある」にする理由は、何でしょうか。 

 「(相手の人が)それで救われる(と感じている)から」という③への答えがその理由になるのでしょうが、もう少し言葉を足すと、「ない」というのはその人の「苦しみ」が「ない」という意味ではなくて、「(本人は)気づいていない」けど「(実際は)ある」んだ、とこちらが感じているということが話の前提にあります。

 そう感じる理由は、その人の話を聞いていたり、あるいは様子を見ていたりして、何か無理をしている部分を感じ取ったり、不自然さを感じ取ったりするからだと思います。そして本人の話をじっくりと聞いてみると(その場合は相手の人が一生懸命話しかけてくることが多いわけですが)、普通なら(あるいは自分なら)ものすごく辛く感じるだろう状態だと思えるわけです。だから本人はそれを「我慢」したり「見ないように」したりしているんだろうと理解することになります。

 なぜ「我慢」したり「見ないように」したりするのかというと、定型はあまりに辛いことについては、そうやって「ない」ことにしてしまうことで耐えようとするからだと思います。「悲しすぎて涙も出ない」というような状態もそのひとつになるでしょう。そう言う場合は本人は「悲しい」ということさえ感じられない状態になっていたりします。

 つまり、自分自身が受け入れられないくらいに強烈な感情については、「ないことにしてしまう」こと、「気づかないようにしてしまう」ことで「誤魔化す」ということを定型は無意識のうちにやるのだと思います。でもそのことはその強烈な感情がなくなってしまうことではなく、ただ気づかないように押さえつけているだけのことですから、そうしているひとは「よくわからないけどなんだかしんどい」とか言うことにもなるし、場合によっては身体の調子が悪くなったりもします。

 他の人に話を聞いてもらって「共感してもらう」ことが大事になるのは、自分が受け入れられなくて押さえつけていた感情や気持ちの葛藤を、他の人に受け入れてもらうことで、自分も改めて受け入れられるようになる、という、ちょっとややこしい気持ちの動きがあるからだと思います。定型的なカウンセリングの働きの基本的な仕組みのひとつはそこにあると思います。



 以上は私の体験に基づく「人間理解」ですけれど、そのような理解の仕方でパートナーを理解しようとしても、中々うまくいかなくて、そういう「共感的な関わり」が逆効果、みたいなことが多いんです。だから、この説明もどこまでアスペの皆さんに通用する説明の仕方なのか、ほんとに分からない感じがしています。是非、疑問点などいろいろ教えて下さい。

2014年2月12日 (水)

アスペの方同士は理解し合える?

 私のパートナーもそうですし、アスペの方がよく強調されることのひとつに「他の人のことは分からない」という言い方があります。

 理屈で考えると、そこは私には納得しきれないところがあります。もし本当に全く分からないのであれば、「他の人のことは分からない」と他の人に向かって話すこと自体もありえないことでしょう。だって、「他の人のことは分からない」という言葉の意味が相手に通じる=自分の言うことが理解されると思わなければ話すこともないと思うからです。また、目の前の相手が機械仕掛けの人形ではなく、自分が相手の人を見ているように、同じく自分を見ている人間だと思えなければ、話しかける気持ちにもならないでしょう。

 もちろん私も自分が相手の人を完全に理解できる、などとは思いません。むしろ「理解した」と思いこんでしまうことのあぶなさには気をつけたいと思い続けています。それにもかかわらず、私もアスペの方も周囲の人とコミュニケーションを取るわけですし、いろいろズレはありながらもやりとりをしているわけですから、その程度にはお互いに「理解できている」と言えるはずです。まあ「分かるところもあるし分からないところもある」というのが実際の所じゃないでしょうか(ちょっと身も蓋もない感じかも (^ ^;)ゞ)。

 ただ、定型間では理解しやすいことが、定型アスペ間では通じ合いにくいことがよくある、ということは否定しようのないことだと思います。そして定型多数派の世の中ではアスペの方はその「通じなさ」に苦労されることが多い。ですからアスペの方が「他の人のことは分からない」と強調されるのは、実際の意味としては「そういう部分がものすごく多い」と感じられて、そこが深刻だということなんじゃないかと思うんです。

 で、それに対して定型が「理解できる」ということを強調しがちなので、「分からない」ことをさらに強く主張せずにおれなくなったり、それがまたある種の信念になられたりするんじゃないかな、と私は想像します。(これも私の勝手な想像ですが、物心ついた最初から「分からない」ということを「自覚」しているのではなくて、大きくなるにつれて、どこかでそのことに「気づく」という風になられるんじゃないでしょうか)

 それで、その先にちょっと考えてみたいことは、じゃあ定型間では理解し合える(と感じている)部分が比較的多くあるとして、アスペの方同士ではそこはどうなんだろう?ということです。この問題はこれまでも何人かの方がコメントで少しとりあげられていましたし、私も気になっていたのですが、どう考えたらいいかよく分かんなくてそのままにしていました。

 改めて今考えてみて気づくことは、アスペの方が「他の人のことは分からない」と言われるとき、それは「定型の言うことは分からない」という限定つきではない、ということです。だとすればそこで「他の人」というとき、その中には同じくアスペの方も含まれていることになりそうです。実際、私のパートナーやこちらでいただくコメントにも「他のアスペの人はどうかわからないけれど」と強調されることがときどきあることを思い出します。

 で、昨日の記事で最後にちょっと付け加えたことと、それからアスペルガールさんが説明しようとされていたこととこの問題をつなげて考えてみたいと思うんです。

 まずアスペルガールさんが繰り返し説明されようとされていたことを私なりの理解で改めて整理してみると(ずれていたらごめんなさい)、定型もアスペもまわりの出来事などに対する「生理的反応」はどちらもあるんだけど、定型の場合はそこで無意識的にそれを感情として理解して、その上で意識的にも感情のやりとりをする。それに対してアスペの方はこの無意識的な理解の段階がなくて(だから「生理的反応」の他には感情というものがなくて)、意識的に頭で考えて理解するしかない。慣れてくればそれも半分無意識的に理解できる部分も出てくるんだけど、でもやっぱり定型と同じようにはならない。そんなお話だったのではないかと思います。

 ただあまり頻繁ではないにしてもパートナーも「辛い」ということも言いますし、嬉しそうにしていることもありますし、泣くことも怒ることもある。私が喜んでいるのか悲しんでいるのか怒っているのかは(ときどきずれることはあっても)理解してくれますし、それによって彼女自身の表情も変わったりということも感じます。そんな経験から言っても「感情(と定型なら名付けるような状態)」がアスペの方にないとは私には思えないんですが、ただアスペルガールさんが上に書いたような説明(私の誤解でなければ)をされるのにはきっとそれなりのちゃんとした理由があると思うんですね。

 定型は小さい頃からお互いの感情を表現しあって絆を作ったり反発したり、なぐさめたり傷つけたりしあいながらお互いの関係を調整するやりかたを身につけていきます。そしてそういうことをしながら、自分や他人の「感情」というものを「理解」するようになり、言葉も使って人とその理解を共有したり調整したりして、どんどん複雑な感情の関係を作っていくんだと思います。だから自分の感情についての理解も相手の感情についての理解も、その理解の仕方が結構通じ合えるものになっていく。

 で、これは私の勝手な想像ですが、アスペの方は何かの理由で(脳科学なら脳の働き場所とかオキシトンがどうのこうのとか説明するでしょうが、それをどう説明するかはとりあえず置いておいて)この感情(とか「生理的反応状態」)の伝え方や受け止め方、場合によってはその強さとかが定型とは何か異なっていて、その結果お互いの感情状態を調整し合う、という関係が作られにくくなってしまう。もちろん言葉で感情を理解したり伝え合ったり調整したりということも少なくなる。

 そうすると定型は言葉を含めて感情の理解とかお互いの感情の調整とかのやり方をどんどん複雑にしていくのに対して、アスペの方はそこは半ば手つかずで、個人的に自分で自分の状態をコントロールするような方向に進まれるので、ますます定型アスペ間での理解が難しくなっていくし、アスペの方にとっては定型の言う「感情の世界」が謎に満ちたものになる。

 もしそういう展開があるのだとすれば、アスペルガールさんが「感情がない」という意味のことを書かれたり、私のパートナーが自分の感情を理解できないという意味のことを時々言うことがあることの理由が分かる気がします。また定型同士だと「お互いに理解し合える」という思いがアスペの方に比べて強く、それに対してアスペの方は定型アスペ間だけではなく、アスペの方同士でも「理解できる」という感覚が小さいように思える理由もわかるように思えます。さらに言えばアスペの方が「理論的な説明が好き」という方が割に多いように思える理由も。

 ここで昨日の最後にちょっと書いたことにつながってくるんですが、定型のように小さい頃から身体やことばを使って表現し合って調整して理解を複雑にしていって作られた「感情」の理解は、アスペの方には謎に近いものになってしまうわけですから、その複雑になったものが「感情」なのだとすれば、自分には理解不能なもの、そして自分の中にはないもの、というふうにそれを感じられたとしても、ある意味当然だと思えるわけです。そしてご自身の感情(または「生理的反応」)は人との間で調整するのではなく、自分の中で自分なりの工夫でコントロールされるようになるので、そのやり方は同じアスペの方同士でも共有されるとは限らず、やはりお互いに「謎の世界」になっていく。もちろん定型の側から見てもわかりにくいことが多くなる。

 「理論的な説明が好き」ということは、理屈の世界はわりあい感情をストレートには持ち込まないで「冷静に」やりとりすることが必要とされていますから、ややこしい感情の問題を抜きにお互いの理解を共有できる世界は、アスペの方にとってはとても重要になるのではないでしょうか。

 仮にそんなことが言えるのだとすれば、定型アスペのズレの問題の大事なポイントは「アスペの方には感情がない」とかいう話とは全然違うし、「アスペの方は感情が理解できない」とか「アスペの方は共感の能力がない」とかいう話とも一寸違うことになります。その大本の問題は「感情(あるいは「生理的反応」でもいいですが)」を他者とどう調整し、コントロールするか(あるいはしないのか)、というコミュニケーションの仕方のズレの問題として見た方がよいように思えます。その方がいろんなことをつなげて理解しやすくなるように思えるんですね。ただ、こういう理解もまた「定型的」ということだとさらに考えないといけないですが。

 

 

2014年2月11日 (火)

?の大きさとスペクトラム

 以下、私の意図としてはそのつもりは全くありませんが、もしかするとアスペの方には「失礼」に感じられる書き方になってしまうところがあるかもしれません。ただ、私自身が持っている定型的な感覚やものの考え方からアスペの方を理解しようとしたときに、とりあえず手がかりになりそうなかなと思えることで、あくまで相互理解のためのひとつのステップにすぎないものとして受け止めていただけるとありがたいです。

 

トマトさんがアスペの知り合いの方たちが示される「パニック」や「フリーズ」への「覚悟」について書かれていて、なんとなく頭に残っていたのですが、ふと私が学生時代とか、自閉(カナータイプ)の子ども達と付き合いがあったときのことを思い出しました。

 たとえば一緒に散歩に行っていて、突然(と感じられる)立ち止まってしまって、一緒に行こうとしても嫌がって、激しく怒ったり泣いたりされることがあります。こちらはなんのことか分からなくてなんとかなだめすかして連れて行こうとするけど、容易なことではありません。

 そういう「パニック」状態がどうして起こるのか、子ども達をいつも見ている施設の先生たちもいろいろ考えられるんですね。そして時々ですが、「ああ、あのことが原因かも」と思いつくことがあったりします。散歩の話とかだとまあ有名なところでは「いつもとコースが違った」とか、そんなことがあったりします。

 それで一応「因果関係」は分かったりすることもあるんですが、アスペルガールさん風に表現すると

 定型的理解 「原因の出来事」⇒「それによる気持ちの動き」⇒「パニック」
 自閉の子   「原因の出来事」⇒「??????????」 ⇒「パニック」


 という感じで、間がわからないんです。ただ原因と結果のつながりしか分からない。でも一応対応の仕方については考える手がかりは与えられます。なぜなら「原因の出来事」はわかったので、それをなくす工夫をすればいいからです。

 定型同士でトラブルがあって調整をしなければならないときには、「原因の出来事」を解決することもありますし、それが困難な場合とかは「それによる気持ちの動き」のところでお互いに調整を図ったりすることも少なくありません。というかその方が多いくらいかもしれない。

 そこで定型同士ではその「気持ちの動き」についてお互いに理解し合うことが前提として重要になります。ある程度理解できてようやく調整も可能になり始めますから。そこがよく「共感」と言われる部分にもつながるのでしょう。で、自閉の子との間ではその間の部分を理解することが難しく、そういう「共感」に基づくような調整がとても困難で、言ってみれば機械的に「原因を取り除く」ことが中心にならざるを得なくなります。

 考えてみるとこういう「機械的な」対処の仕方は、逆に自閉の子も周囲の大人にしたりするんです。よく「クレーン現象」とか言われていたりしましたが、たとえば鍵のかかった部屋から外に出たいとき、子どもが自分では手が届かなかったり開け方が分からなかったりすると、大人の手を掴んでそこに持っていき、鍵の方にその大人の手を「置く」というようなことをしたりするやりかたです。それをされると大人の方はなんだか人として扱ってもらえていないような、単なる道具として扱われているような不思議な気持ちになります。

 自閉の子でも言葉がある程度できるようになったりすると「開けて」というようなことを言うことも出てきますが、定型の場合はまずは相手の目を見て、「お願いする」というのが基本パターンですよね。「お願いする」というのは相手の気持ちに働きかけるやりかたです。そこの部分がすっぽりぬけて「大人が手を置く」⇒「ドアが開く」という機械的な因果関係の理解で扱われてしまうために、まるで自分が道具として扱われたように感じるのでしょう。

 ですから、定型の大人が自閉の子のパニック等に対応するときには、「気持ちの理解」を諦めてそこをすっとばして機械的に対応するしかなくなるし、逆に自閉の子も定型の大人の「気持ちの理解」はすっとばして機械的に「大人を動かす」という形の関わり方になっているわけです。

 で、この図式の延長上に、定型アスペのズレの問題を置いて考えてみると、なんか整理されるものが結構ありそうな気がします。スペクトラムの考え方に合わせてたとえて言えば、お互いのズレの大きさ(アスペの方の自閉の度合いの強さ)は「???????」の部分の「?」の数の大きさになるかも。カナータイプの自閉の子に比べれば、アスペの方は比較にならないくらい相手の「気持ちに働きかける(たとえば「お願いする」など)」をされるわけですが、でも定型からはやはり「?」が残り続けるという感じですね。

 (誤解を避けるために少し言葉を足しますと、私は自閉の子やアスペの方(最近の言い方では要するに自閉症スペクトラム障がい)の方が「????」の部分を持っていないとは考えていません。それを「感情」と呼ぶかどうかは別として、「原因の出来事」を理解して、それを「パニック」という行動に結びつけるには、ものすごく複雑な理解の過程が必要だからです。ただ、定型の場合はその複雑な過程を他の人とも調整しながら作り上げる傾向が強く、それでその過程がお互いに理解しやすく作られていくのに対して、アスペの方はそれぞれがものすごく個性的な形でそれが作られてしまうために、「どういうつながりでそういう行動になるのか」が他の人からは理解しにくいものになってしまうことが多い、ということなのだろうと思えるのですね。そして「相手の気持ちの動きが分からない」ときに、機械的な対応になってしまう(理由も分からずに形だけそのやりかたに従う)というのは、自閉の子と大人の関係や定型アスペの関係に限らず、たとえば文化が違うときにも定型同士でもよく起こることです。ですから、上に書いたことはアスペの方を「ロボットのように見ている」という話とは違うと理解していただけるとありがたく思います)

2014年2月 9日 (日)

ズレの大きさ

 掲示板に投稿された「〆た後ですが……」さんの経験談や、こちらのコメントの星さんの体験談などを拝見していて、改めて印象づけられたことがありました。それは定型アスペ間のズレの大きさや内容、そしてその受け止められ方が、ほんとうに多様だと言うことです。

 私はみなさんから教えていただくことなどを参考にしながらも、やっぱり私のパートナーと自分のズレの体験をベースに、お互いのコミュニケーションをどう調整することが出来るのか、ということを考えてきています。そしてその自分の体験や、そこで作られた感覚から、定型アスペのズレのポイントや、それをどう理解してどう対処したらいいのかについて、少しずつ考えてきているわけです。

 けれども、そこで私が考えたことがどこまで他の方たちの定型アスペ間のズレにも言えることなのか、そこで私が考えた対処のしかたや姿勢がどこまで通用するものなのか、ということを考えたときに、もちろん全く意味がないとは思えませんけれども、でも決して簡単には一色単に考えられないものなんだなあと改めて感じています。

 たとえば共感が成り立ちにくい、ということを考えた場合でも、相手の人が怪我や病気その他で辛そうにしているとき、アスペの方がそれにどういう対応をされるのか、ということを考えてみると、〆た後ですが……さんが体験されたように、全く援助されることなく、(多分一種のパニックになられているんだと思いますが)むしろ定型的感覚では「失礼」とか「ひどい」と感じられるような場合があります。これは私も別の方について具体的な体験を聞いたことがありますし、私自身、以前ちょっと記事で書いたことがあるように、医療従事者の方から同じような扱いを受けてショックを受けたことがありました。

 そうかと思うと、私のパートナーとの場合は、怪我や病気などの場合は、心配してくれますし、医療的な対処などはしっかり考えてくれます(それがなければ福祉関係の仕事は困難でしょうけれど)。ただ、私の印象としては「身体の心配はしてくれるけれど、精神的に支えようとしてくれない」と感じられるようなところでズレが生まれてしまいます。私が「精神的」と感じる部分で辛くなっていて、それがたとえば鬱状態で身体にも目に見えて表れるような場合には、彼女はむしろパニックになってしまうような印象を持ちます。(あくまで私の定型的な目から見た印象ですが)

 そういう二つの例を比べて考えてみても、おなじ「共感が難しい」というズレであっても、その大きさによってお互いに相手に対して受ける印象はかなり違ってきてしまうのではないでしょうか。だとすれば、当然、「じゃあそのズレにどうやって向き合ったらいいのか」ということについても、決して同じひとつのやり方や考え方ですませられることにはならないように思えるのです。場合によってはそれを無理にひとつと思ってしまうと、逆にどんどん不幸になることがあるようにさえ感じます。

 ですから、このブログのサブタイトルは「アスペルガーと定型のコミュニケーションを考える」となっていますけれど、そのことをしっかりとやるためには、お互いのズレがどんなところで、どんな大きさで起こるのか、ということをまず理解すること、そしてそれにあった対処の仕方や調整の方法を考えていくことが必要だろうと、そんなことを感じました。そしてそのズレの大きさについてのひとつの判断の手がかりは、上にも書いたような「心配の仕方のズレ方」にありそうな気がします。

 

 

2014年2月 5日 (水)

表現されない表現

 定型アスペのズレは一般的には「アスペの方は共感能力に問題がある」と捉えられるのに対して、私はあえて「自分(定型と思っている)はアスペの人を共感できない」という、パートナーにも何度か指摘された「お互い様」の「事実」にこだわって考えてみようとしています。定型がアスペの方に理解されないことに苦しむように、アスペの方も定型から理解されないことに苦しみ続けていることは、もう否定できない事実と思えます。

 また、共感能力に関係することとして、アスペの方は定型の表情の意味を読み取ることが極めて苦手である、ということも問題にされます。けれどもここでも繰り返しいろいろ書いてきたように、私もアスペの方の表情の意味を読み取れないわけです。少なくとも私の読み取り方はパートナーには全く心外であったりすることが多い。

 基本的な表情の読み取りというのは、ほんとうにもう生まれつきと言ってもいいようなもので、頭で考える前に身体が反応してしまうようなものです。その点については私はアスペも定型も同じじゃないかと感じるのです。読み取り方は異なるけれど、それは意識的にそうだというのではなくて、もうほんとにどちらも無意識的な身体の反応のレベルでそうなっていそうだという風に。

 それじゃあ理解は全く不可能なのか、といえばそれはもちろんそんなことはありません。極端な例で言えば、私はうちの猫の表情を読み取れないし(というかそもそも表情らしき物がない……笑 )、その仕草などから理解できることは本当に限られています。でもパートナーを理解することについては言うまでもなく、比べるまでもなく、はるかに容易です。(こういう例えはアスペの方に失礼になるかもしれませんが、でもそのことをしっかり確認しておくことは大事に思えてなりません。アスペの方を定型が理解しにくい、というのは、あくまで「相対的に」ということであって、絶対的にではないということを思うからです)

 問題はどうやって今一歩理解に近づけるか、になると思いますが、定型の側から言えば、ひとつ前提として大事になりそうなのは「自分に対する表現として相手の表情を見る」という定型的な見方をしないようにすることのようです。このことについては少し前の記事にも書きましたが、その思いがより強まってきたように感じます。

 それは「私に対する表現」ではない。でもやっぱり何かを「表現」している。いや、表現と言うよりも、パートナーの気持ちの状態がただそのまま現れている、と言った方が良いのかもしれません。だとすれば、そこに現れているものをただそのままに、それ以上の意味を読み取ったりしないで感じ取ることがまずは必要なのかもしれません。「表現し合うこと」に慣れきっている定型にはそれは難しいことですが、もしかすると全く不可能ではないかもしれない、そんな気がします。

 いや、ほんとにそんなことが出来るのかどうか、何の保証も無いわけですが、なんにせよ、今の私の気持ちがそちらに向き始めていることは事実です。それがどういう結果になるのかは全くわかりませんが。

2014年2月 4日 (火)

愛の形

 先日、あることでふとパートナーがほんとうに深く子どもを愛しているんだなあとしみじみ感じたことがありました。「親が子どもを愛するのは当たり前」と言われてしまえば、それはそれまでのことなんですが、悲しいことに私の場合、長い間素直に彼女をそう感じられない状態に置かれていたんです。

 というのは、私の(おそらく定型的な)目から見て、彼女が子どもをほんとに理不尽にしばりつけ、愛情ある態度を示さず、大人としての余裕を持たずにまるで子どもと同じレベルでケンカするように自分のいらだちをぶつけて叱りつけたりする、そんな風に感じられて心が痛んで仕方なかったからです。それについていくら本人から「子どものために一生懸命やっている」と言われても、どうしても「ああそうだね」と素直に感じることが出来ませんでした。

 もちろん彼女だけの責任にするつもりはないのですが、ズレ続ける夫婦関係の中で、子どもは本当に苦しんできましたし、その子どもの苦しみを見て私も最終的に鬱になり、彼女も悩み続けたあと、定型アスペのズレの問題に気づいてからは、彼女は子どもと自分の間にもそれがあったことに気づき、自分が自分の理屈を理不尽に子どもに押しつけてきたと考えて、ものすごく自分自身を責めてきたと思います。

 考えてみれば、それだけ自分自身を責めるというのも、子どもを本当に愛しているからこそのことですよね。彼女は本当に子どものことを心配しているし、子どものために一生懸命いろいろ考えているし、そして私から見れば過剰に見えるほど悩んでもいる。でもなぜか、私にはそのことをストレートに「愛」ゆえのこととして感じ取ることが出来なかったんです。

 なぜなんでしょう?ひとつには以前の彼女の振るまいが、あまりに「愛情ふかいかかわり(そこには「豊かな共感」も重要な要素になります)」とは違うものとして私に感じられ続けたので、そのイメージが払拭できなかったのかもしれません。それから、今でも彼女は定型的な「共感」的コミュニケーションはやはりあまりしないので、以前のような「押しつけ」に見えることが無くなってきても、その代わりに「愛情ある関係」が生まれているような実感も無かったということかもしれません。

 そうですね、私の側が「愛情ある関係」に不可欠な要素として「共感的な関わり方」にこだわっていたのかもしれません。それが感じられないと「愛情」として感じることが出来なかったのでしょう。だとすれば、半分は私の「愛情」についての理解が狭かったことが原因と言うことになりそうです。

 それがなぜ今「愛情」として素直に感じられるようになってきたのか、まだよく分かりませんが、彼女なりの「愛の形」がようやくほんの少しずつ私にも見え始めてきたのかもしれません。


 

 

2014年2月 1日 (土)

小さな芽

 ちょっとパソコンの調子が悪くてご無沙汰しました。

 最近パートナーが「ほんとに違うんだね」とか「ほんとに分からないんだね」というような感想を言うことが増えてきた感じがします。もちろんこれまでもそれこそ子どもの頃から周りに「理解されない」感覚を持ち続けてきた人な訳ですけれど、でもそれとはちょっと違うレベルでそう感じ始めているんじゃないかと感じています。

 これは私の印象ですが、アスペの方は「他人のことは(お互いに)分からない」というある種の固い信念を持っていらっしゃるように感じますし、「私はこうだけれど、他の人のことは分からない」というようなことをしばしば強調されるように思います。「私は私、あなたはあなた」という理解が徹底されている。

 ところが、私からするとある意味では不思議なことに、アスペの方が定型のことをすごく誤解されているようにも感じ、そしてその誤解の仕方は、「アスペ的な感覚で定型を理解している」と思えるようなものだったりするのです。つまり、「アスペ的な感覚」を定型理解に持ち込んでいるという意味で、「違うんだ」という理解がそこでは徹底していないように感じていたんですね。

 たとえば、私とパートナーとの関係で言えば、共感的なやりとりとか、スキンシップ的な関係の私にとっての大切さをいくら話しても、「ああそうなの」という感じで、そのことの私にとっての重大さがなんか伝わらない感じ、あっさりと流される感じがどうしてもしてしまいました。なんだかすごく表面的に軽く理解されている印象で、それは彼女にとってそれが重要なことではないからなんじゃないかと感じさせられていたんですね。

 それが最近パートナーが「ほんとに違うんだね」という時には、なにかそこの部分が少し伝わってきたんじゃないかという感じがし始めています。それは私の感じ方を彼女が実感してくれたとか、共感してくれたという話とは違います。彼女がこれまで考えていた以上にその問題は私にとって重要で、そこについての感覚がほんとに深刻に違うんだ、ということを実感してくれ始めたのじゃないか、そんな気がするんですね。

 それで、話をしている内に彼女は次から次に見えてくる「理解できないお互いの違い」について、「次から次へと壁が現れてくるね」とため息をつくように言いました。でも私の感覚では「違いが分かる」ということは、「理解するための手がかりが増えた」という感覚につながります。それでそのことを彼女に言うと、彼女は「そんなふうに前向きに考えられるといいね」というようなことを言っていました。

 これからこのちょっとした「変化」がどうなっていくのかまだ分かりませんが、私の微かな印象では、彼女との関係がちょっと前向きに変化してきた可能性を感じています。もしそうならその小さな芽を大事に育てていきたいですね。

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