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2014年1月 8日 (水)

親しさと他人行儀の矛盾

 前にも少し書いたことがあるかも知れませんが、このところ改めて少しずつ気になってきていることのひとつに、「自分にとって自然なやりかた」と、「相手に合わせて意識して振る舞うこと」と、自分自身や相手に対する「誠実さ」とか、逆に誠実さに欠けるように感じる「罪悪感」とか、そのへんのことがいろいろ絡み合ってそうだなと言うことがあります。

 たとえば、これまで繰り返し例に挙げてきたことで言えば、病気の時に相手にどうすることがいいと思うのか、相手にはどうして欲しいのか、ということについて、私と私のパートナーとではすごいズレがあります。

 私の方は基本的には「寄り添ってあげたい」という感覚が働くし、「病は気から」とかいうことばもありますけれど、気持ちの上で元気になれるように、ことばをかけたり、身体をさすってあげたり、好物をあげたり、なんかそういうことを工夫して「気持ちを楽にしてもらう」とか「気持ちを元気にしてあげる」とか「ほっとしてもらいたい」というような気持ちが湧いてきます。お医者さんでもない自分には彼女の身体の病気はどうすることもできないんだけど、「気持ちの上で支える」ことはしたい、という思いになるんでしょうね。

 それに対して彼女の方は、病気はお医者さんに対処してもらいながら、自分の力で治していくほかない、という感覚なようだし、そのためにはできるだけ安静にして早く病気を克服することがもっとも大事で、家事の手伝いとか、そのために意味のあることについては私に求めることはあっても、「気持ちで支える」ようなことを求めることはないように感じます。むしろそういう「気遣い」は却って負担になって「一人にしておいて欲しい」という思いになるみたいです。

 という相当違う感覚を持っていて、それで相手が病気になると、その自分の感覚で「相手のために」どう対応したらいいかを自然に考えるから、その結果はいわば正反対の方向になっていくわけですね。

 そのお互いの感覚のズレが分からないときには、お互いになんで相手がそういう風にするのかが理解できなくて、逆になんで自分にとってうれしくないことをわざわざ病気のしんどいときにするのか、という疑問やいらだちや不信感が生まれたりもする。

 で、そういうズレがあるんだなという理解が出来るようになって、ある程度相手に合わせようとすると、今度は次の問題が生まれてきます。それはそのときの相手に合わせたやり方が、自分の自然な感覚からすると「相手を大事にしている」とは感じられない、とてもまずいやり方のように感じられてしまうということです。

 これがまあ他人との間なら、まだ問題はそれほど深刻にはなりにくいかもしれなくて、「自分の気持ち」とは別に、仕事として「相手の要望に答える」ということはまあできないことはない、くらいの感じになるのでしょう。私だって相手が他人であれば、「放っておいて欲しい」と言われれば「はあそうですか」という感じで、希望通りに放っておくことに別にそんなに罪悪感を感じたりはしません。パートナーも福祉の仕事の現場では、相手のひとのひとりひとりのニーズに合わせて対応するとか、相手が喜ぶようなことばかけをするとか、そういうことはやり方を学ぶことでそんなに罪悪感なしにできるようです。

 でも相手を親しく感じるほど、相手が望んでいるような対応の仕方と、自分が自然に「これがいい」と感じてするやり方との間にズレがあることがしんどくなってくるみたいです。お互いに親しい間だからこそ、「自然な自分」や「素の自分」で相手と接したいと思うわけですし、そこはお互いに変わりがない。他方で相手が自分にとって大事な人であれば、相手の人が望むやり方は大事にしたいという思いもある。ところがその相手の望むやり方は、自分の感覚では「他人の間ですること」になってしまって、それは「親しい関係」を壊すことに思えてしまう。

 そこに「罪悪感」が働いてきてしまうんでしょうね。そして自分にとって親しい人に、自分の自然な感覚では「他人行儀」のやりかたで対応することになる。自分の素直な好意は相手には受け取ってもらえず、相手は「他人行儀」を求めている、ということになってしまい、自分が望む「親しい関係」のやりかたがこわされていくように感じる。

 そんなふうなズレの展開の仕方があるように思えるんですが、そうだとすれば、出発点の基本的な感覚がずれているわけだけど、その後の展開はお互いに同じだという風にも思えます。つまり、「自分の自然な感覚で相手に接することが出来るのは親しい関係だ」という思いは一緒。親しい関係では特に「相手のためになりたい」と思うのも一緒。逆に親しい関係だからこそ、頭で相手に合わせる「他人行儀」のやり方に抵抗感がより強く生まれるのも一緒。

 そう考えれば、定型アスペの間では、「相手と親しい関係を保つ」ことについて、すごく共通した考え方を持っていることになりそうです。ただ、その出発点になる「何が相手(自分)にとってうれしいことなのか」ということについての感覚が大きくずれているために、その後のやりとりがぜんぜん噛み合わなくなってしまう。お互いに相手の望むやり方は「他人行儀」になってしまうので、「親しい人」の希望に添おうと思えば、自分の自然な感覚を否定して頭で対応する風になってしまい、それは「親しい関係」を壊すように感じられてしまうという矛盾をお互いに抱え込んでしまいます。(そうするとこの矛盾の抱え方も一緒と言うことですね。中身が違うけど)

 だとすればこの矛盾にどう向き合ったらいいのかがひとつの大きなテーマなのかもしれません。


 

 

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コメント

身近であればあるほど、毎日のことであればあるほど・・・・難しいことなのかも知れませんが、心のどこかでいつも「自分優先」の我欲が勝ってしまうのだと思います。

相手が「独りの方が心地良い」「ほぅっておいて欲しい」と本能・本心から言っているのに、願っているのに
「いやそれではこちらが納得できない」という葛藤がメビウスの輪のように、切れ目も終わりもなく、延々続くから、らちのあかない悩みになるのだと思います。

「自分が変るしかないよ」「自分が変れば状況も心境も変わる」という正論がありますが、
相手に、期待や好意や情など何かしらプラスの感情が無ければ、これも可能だろうと思います。

でも・・・好きな相手には我欲が引っ込められない、承認欲求がおさまりつかない。

せめて相手がまるっきり期待を持てないような、あきらめのつく風貌をしていれば視覚認知で気持ちがおさまるのに
いかにも受け入れてくれそうな笑顔とか、魅力的な考え方とか会話とか、時々は感情の共有ができた感覚が、あきらめを遮って我欲をあおる・・・。

相手の全てとは言えないまでも、おおかた、だいたいを受け入れて、そこを楽しむ気持ちの余裕をどう持つか、ではないでしょうか。

矛盾に向き合ってしまうと、迷宮のラビリンスの主人公になってしまいそうだから。

我欲かー。
受け入れ放棄して拒絶して逃げてきた私には、何が正解かわからないですね。

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