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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年1月 9日 (木)

分からない者同士の余裕

 トマトさんが先の記事に「相手の全てとは言えないまでも、おおかた、だいたいを受け入れて、そこを楽しむ気持ちの余裕をどう持つか、ではないでしょうか。」というコメントを下さっていて、改めて考えることが多いです。

 これって、定型アスペの問題に限らず、人と人との関係でどこでも言えることなのかもしれません。定型同士であろうと、アスペ同士であろうと、もともと完全にわかり合うことなどできないのですし、お互いに納得しきれないものを抱えながら生きています。お互いの関係がわりとどうでもいいような遠いものであれば、そのズレはそれほど気にしなくて済むし、逆に関係が近いとか、逃れられないような関係であるほど、そのズレが目立ってきてしまって問題になることもある。

 お互いに思いも寄らなかったようなズレを抱えているんだ、ということの理解は必要だと思うし、それを深めていくことで改めて共有できるものを見いだしていくことにも意味はあると思います。ただ、それはズレがいつか無くなることを意味する訳じゃないし、一緒に生きていく上で、ずっと続けていくことなんでしょう。

 そうすると、単にズレをみつめていろいろお互いの理解を深めたりズレへの対応の工夫を考える、つまり、ズレをなくす方向だけではなくて、「お互いにズレを抱えた者同士として一緒に生きていく」という、ある意味「ズレに居座った」生き方が必要なのかもしれません。

 そのとき、トマトさんが書かれている「だいたいを受け入れ」というようなスタンスが、結構重要な意味を持ってくるような気もしています。なんというのか、ある種の大雑把さというか、まさにトマトさんの言う「余裕」の部分になるのかもしれません。ズレの理解も、自分の見方だけからの誤解を解いてお互いの理解を深める、という意味だけではなくて、「ああ、今までの自分のこだわり方はずれてたんだな」ということを知ることで少し気持ちにゆとりが出来る(晴子さんもそんなことを書かれていました)、そんな意味が本当は一番大きいのかもしれません。

 ……というような考え方って、アスペの方とも共有できるものなんでしょうか?あるいはこれ自体定型的な(パンダ的な?)発想なのかな。

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コメント

トマトです。

多分ね・・・パンダさんの「共有へのこだわり度」が、全てなのだと思います。

多くの人は「ここだけは」「この点はどうしても」というポイントは持っているものだと思います。

そこが双方一致していれば、お互い自由に、一見バラバラに生活していても、いざというときは助け合えるという信頼感と安堵感があり「それが夫婦」「それが家族」という概念を定型は当たり前に、自然に持ちます。

パンダさんの奥様は、そこを自然に当たり前に持ってらっしゃるように感じます。

というより、ASと定型のカップルでは、ASの方がそこをより純粋に疑問無く持っているのではないかという印象もします。

ただ・・そのことを定型が、ASの言動や表情により「まるっきり捉えられない」「まったく掴みそこねてしまう」ということなのかなぁ・・と感じ出してきました。

晴子さんの彼の例ですが「晴子さんは身内だからおごらない」という行為は、まさしく「そこまで晴子さんを身内にしちゃってるのか!定型が 想像もつかないほど、揺るぎのない決定的な身内感覚なのね」というある種の感動がありました。

そこを「身内だからおごるという発想が、こと晴子さんにはとても大切な行為」ということを彼に教えてくれる人が居れば良いのに、とはがゆい思いはありますが
一方で「そういう根拠があるなら、許す、認める、受け入れる、楽しむ」という選択を出来るかどうか・・なのかなぁと。

「これからも会いたい」「一緒にずっと暮らして行く」というASの人の意志が、相手への愛情の証しであるなら、それが全てなら
「なら、言葉や表情や行動でいろいろサービスしてよ」という定型の愛情欲求は、

切ないですけどね
寂しくて悲しいですけどね

叶えられないものですよ。

でも・・・信じるに値する相手だということを知っているからこそ、悲しくて寂しくて不安定になるけど

別れない

別れられない

ってことですよね。


パンダさん、トマトさん、アドバイスありがとうございます。
身内だと彼が自発的に言ったというより、わたしが苦しくなっていて、理由がなければいやだったので、「もしかしてわたしが身内だから?」と訊きました。すると、「そう、そう、友達なんていつかいなくなる。他人じゃないか?恋人ができたり自分の家庭を持てば離れていくだろ?」と言いました。「?」男女問わず友人には気前よくしていたみたいです。見栄を張る、体面を保つ、面倒見がよいイメージをくずさないためなのではないかと思います。他人だからこそ、格好つける必要があるのでしょうね。よく考えたら初めはわたしにも少し気前が良かったです。友人のときです。出会った当時ほんとうに親切で、特に弱い立場の人に優しく、そういう性格が尊敬できたし何の不満もなく、むしろ憧れに近い気持ちを抱いていました。理想像が膨らみすぎて彼の人間性を実際以上のよいものに思い描いていたと思います。
彼としては、素の自分を出したらもめごとが増えた、と感じているでしょう。
今回の問題に関しては、彼の真意、愛情と完全に切り離すのが一番いいのでしょうね。
愛情を感じ取るわたしの能力が劣っていて多分鈍いのです。
みなさんには、どういう時パートナーや恋人、友達の愛情を感じられるかをお聞きしたいです。自分が愛されていると確信が持てるのはどういう時なのでしょうか。
トマトさんもASのお友達と長く一緒に過ごしてこられたし、パンダさんは最愛の人がそばにいる幸せがありつつもズレている寂しさもどかしさも日常の一部ですから、わたしの状況が身近なものと実感してくださるのだと思います。ありがとうございます。

トマトさん

>パンダさんの「共有へのこだわり度」が、全てなのだと思います。

 これは、そうかもしれないなあと、自分でも思うことがあります。このことに限らず、
 こだわるところはすごくこだわるタイプでもありますし。
 逆に割り切るところはすごく割り切るんですけど……

>ASと定型のカップルでは、ASの方がそこをより純粋に疑問無く持っているのではないかという印象もします。ただ・・そのことを定型が、ASの言動や表情により「まるっきり捉えられない」「まったく掴みそこねてしまう」ということなのかなぁ・・と感じ出してきました。

 そうですね。私もそんな気がします。パートナーにも一途さを感じます。

>「これからも会いたい」「一緒にずっと暮らして行く」というASの人の意志が、相手への愛情の証しであるなら、それが全てなら「なら、言葉や表情や行動でいろいろサービスしてよ」という定型の愛情欲求は、切ないですけどね 寂しくて悲しいですけどね 叶えられないものですよ。

 これも頭ではある程度分かるような気がするんです。
 ただ、まだ自分の気持ちがそこに納得していない感じがして、
 それが何なのかなあと、しつこく考え込んでしまうんです。

 自分の求めるパターンで愛情を確かめようとしてもうまく行かずにしんどいですから、
 彼女のパターンに見よう見まねで合わせてみたりするんですが、そうすると
 なんだか気持ちが冷え冷えとしてきてしまって、これまた辛いものがある。
 そこがなんとかうまく調整する方法が無いものかとつい考えてしまいます。
 むつかしいです。ラビリンスかもしれませんしね。


晴子さん

> 愛情を感じ取るわたしの能力が劣っていて多分鈍いのです。

 あえて私が言うべき事ではないのかもしれませんが、
 鈍いかどうかの問題と言うより、やっぱり表し方や感じ方の違いが
 それだけ大きいんだろうなと思います。
 なんか、どっちが悪いとか、そういう話ではないんだろうなという気がして。

> 自分が愛されていると確信が持てるのはどういう時なのでしょうか。

 愛という感情なのかどうかよくわからないのですが、
 「あなたは私にとって大事な人なんだから」と言われたときは
 とても嬉しかったです。家族愛という感じなのかな。

 あと、子どもに対する彼女の対応にはほんとに疑問を持ち続けてきたけど、
 今になって、彼女は彼女なりにほんとに一途に子どものことを考えていた
 ということがしみじみと感じられるようになりつつあります。
 あれは彼女なりの子どもへの愛情以外ではないでしょう。
 ただそれが子どもが求めるものとの間に悲劇的なズレを含んでいたわけで
 それはほんとに悲しいことだと思うのですが。
 

トマトです。

定型は「相手がどうして欲しいのかセンサー」を使いながら相手の要望にピントを合わせて、表情や言葉をくり出し、経験値を生かして無意識に笑顔や挨拶ができるようになっているので
どうしても、もらえるべき言葉や表情や行動がもらえないと「傷つく」となりますよね。

では、傷つかないようにするにはどうすれば良いか・・というのは、こちら側の問題になると思うのです。

ましてやほかの誰かが関わって来ると「難解問題」として、非常に複雑なことになりやすいですよね。

特に、子育てや仕事など共有する誰かをはさんだ時、二人で社会的な場面に臨まなくてはならないとき等・・・定型側から見ると、ASの人の「解らない、感じられない」の部分に皆が巻き込まれてしまう、という図になると思います。

もちろん、ASの人が悪いのでも責任を問われるべき事でもありません。

これはひとつの倫理に反する却下されること前提の例だと承知してコメントしますが。

今の状況や相手に不満が尽きないなら、別の状況や相手を経験してみる・・という事が、もっと物事をグローバルに見渡せて、価値観が安定するということがあります。

例えばパンダさんが別の女性とつき合ってみる。つまり浮気ですが。
言葉と感情と表情が一致したやりとり、感情の重なり、心の交流には、温かみも陶酔感も安らぎもありがたみも愛おしさも、パンダさんの求めていた以上のものが、あふれんばかりに与えられ、与え合う喜びを体感できる   かもです。
ただ・・別の不安定さも生じるかも知れません。
心変わりとか。打算とか。

人間関係でも、仕事でも、横幅の経験値で知ること、比較で学ぶこと、もうひとつの経験をして決まること 病院もセカンドオピニオンで納得を得るなどがありますし

妻への不満が尽きない夫が、浮気しはたり離婚してみて、妻の存在のありがたさを知った。
親の存在がうとましく家を飛び出た子どもが、世間の厳しさを知り、親の存在価値が変った。

など・・・そうしなければ気づくことが出来なかった・・。
ということは、沢山あると思います。

夫婦やカップルの場合、相手を分析し、同じ思いを理解してくれる誰かと同調し、束の間、共感の安堵を得たとしても・・・それを一生繰り返すより
比較体験をしてみることにより、自分の迷いが吹っ切れる、という答えが得られると思います。

私は、家族以上に一緒に過ごしていたAS友人が逝ってしまったので、今は、彼ほどの距離感ではない職場や知人のASの人と、楽しく接することが出来ています。
それは、AS友人を通して、AS全般に良いイメージを持つことが出来ているからです。

AS友人とすごしていたとき、悩みやストレスやしんどさがいつもまとわりついていたけれど、その反面、身近な定型の人間関係の、裏切り、画策、意地の悪さ、心変わりというものとの比較があり、
AS友人の長所が明確に感じられるようになった。 AS友人の存在は必要である。
という決定打を持ったことが、ストレスや欲求不満の減少になったのです。

トンチンカンだけど他意がないことのありがたさ。

デリカシーがないし、枝葉末端にこだわられ喧嘩になるけれど、後を引かないリセット感。

私はAS友人に必要ないし、大切にも思ってもらえてないと感じさせられるけれど
定型のサービス精神なのか一発芸なのか、好意的な言葉のはかなさに比べれば
マイナスからの、ある日の「えっ?嬉しいじゃん」というサプライズの楽しさ。

そういう、比較を体感しながら得た感覚は、無理せず根付く信念みたいに、迷いやストレスが「気にならなくなる」ようになると思います。

見つめることは、分析理解にはつながりますが、あくまでも段階的作業です。
比較体験は、心の落ち着きにつながります。

却下前提の、まぁ・・・「言ってみましたぁ」というコメントです。


あなたは大事な人だと言われることはうれしいですね。
パンダさんの奥様が普段そっけなくても無愛想でも夫が大事だということに変わりはない。そこが定型との違いで、たぶん定型ならもうすこし日々相手への評価を変動させたり心情も変化しやすい気がしました。ASの特徴のひとつに、好意を持つ相手への気持ちがブレにくい、があるのではないでしょうか。
トマトさんも書かれていますが、表面をつくろい波風を立てないようにふるまえるのが定型で、内心では相手を拒否していたり冷めていたり、があると思うのです。なので機嫌よく振舞うことはできず、サービス精神に価値を見出すことのないASの奥様の言葉は信じるに値するものだと思いました。
子供さんの教育に関しては状況を存じ上げないので何も申せませんが、子の立場からいえばありがたくない教育方針はあります。子にとってそれが愛情だと自覚できるのはたぶんかなり時間が経ち、自分が満足のいく大人として成長して充分な余裕を持てたとき、親も未完成な人間だったのだと発見できたときではないでしょうか。とても複雑で簡単なことではないのですが。自分の経験ではそういう感じでした。

トマトさんの提案も過激なようで的を射た発想だと感じる部分も多く、それは「横幅の経験値」を増やしながら憂さ晴らしや気分転換をもたらすことにあります。
パンダさんは家庭的な男性だとお見受けしますから他の女性と付き合うまではいかずとも
、異性に相談したり共感されたりすることで新しい思考回路ができ、悩みが即刻軽減することはないとしても違う視点、リアクションを取り込むことで問題の濃度を低めることに期待できるかもしれない。ですが、パンダさんがそれでストレスを感じてしまうと本末転倒になってしまいますが・・・。
わたしも共通の異性の友人がいたころはその人を頼りました。彼を良く知る人だったので全部察してくれ話しやすかったのです。AS彼を自分ひとりで全部引き受けようとすると疲れが溜まってくることもあります。何人かで協力して関わっていく、別の人が見てくれているから自分は休もう、と割り切って考えたら楽じゃないかと思っていた時期もありました。

トマトさん
晴子さん

 本気のアドバイス、ありがとうございました。
 なかなかそこまで言ってくださる方はそうそういらっしゃらないと思います。

 パートナーは「ほんとに好きな人が出来たら、その人と一緒になってもらっていい」
 と言うことがあります。自分とは、何か相談したいことがあったときには
 相談にのってくれればいい、と。私が幸せになることは自分には止められない、
 というようなことを言ってくれていたこともありました。

 聞き方によっては「私はその程度の存在なの?」という風にも感じられるかも
 しれませんが、けれどもそれよりも「そこまで考えてくれているのか」
 という思いの方が今の私には強いです。
 大変だった子どもとの関係もとても良くなっていますし、
 沢山の辛いことがあったとしても、やっぱり一緒に育ててきた子どもなんですよね。
 いろいろなことがありましたが、その歴史の上に今の私があるわけですし、
 プラスもマイナスも含めて、その歴史を捨てたくはないなと思えます。
 (そう言えば、昔は私たちが離婚したら自分はぐれる、と言っていた子どもが
 今は別れてもいいんじゃない、と言っているとパートナーが言っていました。
 別れることを真剣に考えていたときは別れるなと言い、別れる気が無くなると
 わかれてもいいんじゃない、と言い出したのも不思議です)

 今現在の素直な気持ちをことばにするとすれば、
 ズレの問題も含めて、「苦労を共にしたい」という気持ちでしょうか。
 なんというのか、ズレのことをぐちぐち考えること自体が
 「一緒に生きていく」ということの大事な一部なのかなと思います。
 そういう人を私は選んだわけですし、彼女もまた
 今は私には全く「ときめかない」と言っていますが (^ ^;)ゞ
 でも彼女にとって「特別の存在」であることは、そうなんだろうと
 少しずつ感じられるようにもなってきています。

 多分そのあたりはぶれることはないんじゃないかなと感じます。
 (もっとも揺らぐ定型の言うことですから、将来のことは分かりませんが)

 そのことは一応前提にした上で、こうやっていろいろぐちぐち考えながら、
 なお、一寸ずつでもよりいい関係を目指していきたい
 というのが今の思いです。
 
 これが自分の人生なんだろうな、と感じてもいます。

妻一筋だからこそ、妻の表情や一言に揺らぎ続けてしまう。
妻一筋だからこそ、そこをなんとか乗り越えるすべは・・と考えてしまう。
ぐちぐち考え、他者とのコミュの中で手探りしつづけたい。
それが、自然体で自分流。

いや、まことにパンダさんを目の前で見れた感覚です。
昔の、高知県知事がインタビューの中で「私の趣味は妻です」と答えたことがあり当時は「なんじゃそりゃ?」と思ったことでしたが、年月を経てパンダさんから納得をいただきました(笑)。

そして、晴子さんのコメントでとても興味深かったのが
ASと定型の親子のことを、ご自分の経験から理解できるというような内容のくだりと
ASの彼のことに相談者が居たということを過去形で書かれていることに
晴子さんの経験値は、私が晴子さんに抱いていたイメージよりずっと深い、ずっとリアルなものがあるような気がしました。
晴子さんは、いざという時ASの人にごく近距離で真っすぐにものを言われるな・・・という気持ちの距離感みたいなものを感じてはいたのですが、
それは晴子さんの歴史からくる、ASへの馴染みゆえだったのかしら・・・とちょっと驚いている次第です。

トマトさん

 えっと、私もいろいろ心は揺らぎ続けてきましたけど (^ ^;)ゞ、
 いろいろなシビアな状況を経て、離婚もせずに「一緒に生きていこう」
 という感じになりました。

 で、「趣味は妻」というよりまあ自分の人生の一部分ということに
 なっているのかなと思います。
 しんどいことがあっても、切り捨てられるようなものではない。
 それは自分の身体の一部を切り捨てられないようなもので。
 そんな感じでしょうか。
 ただ、しんどさはできるだけ軽減できて、喜びが増えるといいなと、
 そんなことを思います。

トマトさんがおっしゃるように、ASに馴染みがある、ともいえますし、少数派の立場を想像しやすいのだと思います。共感するというより、精神的に孤立している状態がどういうものか、がよくわかるということでしょうか。
家庭環境や社会経験、もともとの性格、いろいろ絡み合った条件でそうなりました。
誰にでもある、もっと大変な人たちはたくさんいると流してきたことはたくさんあります。さっぱりした潔い人間でいることが格好いいと信じていました。
それである日、人に言うのははばかられるような事柄をASの彼に見抜かれました。そのとき、自分を理解してくれ同じ観点から向き合えるのはこういう傷ついた苦悩の多い人なのかと感じました。(彼も初めは明るく見えました)
これまで一般的で心身が健康な男性とも関わりましたが、こちらへの理解がおよばず無難におさめようとやさしくしてもらった印象でした。もちろんそれで満足しなければいけません。一方彼は君は悲惨だね!とはっきり言ってくれ、共感とは違うやりかたで、ものすごく率直に悲惨だと言ったのでむしろうれしかったのです。少数派同士のシンパシーみたいなものを感じていたかもしれません。自分のブログでもないのに暗い話スミマセン。読んでくださり、ありがとうございました。

それから、トマトさんの、ASの方に晴子がはっきり言うというご指摘に関して。そうですね。
わかってほしいと押せ押せになってしまうところがわたしもASぽいです。アスペルガールさんを最近お見かけしませんがわたしは言いすぎたのでしょうか・・・。申し訳なかったです。
注意をはらっていても誤解や齟齬を招くことはあり、そういうトラブルや議論の先にお互いが納得できる結論を導くことができればそれが理想にちがいないのですが、簡単ではないのかもしれません・・・。アスペルガールさんにはまた遊びにきていただきたいです。

パンダさんはパンダさんなりの気持ちの納めかたを追求し続けてこられて、今後また変化していくにせよ、今はそれが長く年月を費やして見つけたもっとも安定感が得られる考え方で、楽観的な方向に進むための秘訣のようなものだと思いました。それからわたしもそうなのですが、チャレンジが好きだということもあるのではないでしょうか。

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