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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年1月 5日 (日)

頭の理解、気持ちの理解

 人間同士の関係で、自分にとって自然なやりかたでうまく行かないとき、とりあえず二つのやり方が思いつきます。

 ひとつは感情的になって怒ったり、悲しんだり、落ち込んだり、そうなることがあります。人間関係でそういうことになったときには、衝突した後、その結果として「雨降って地固まる」になることもあるし、対立がエスカレートしていくこともあるし、いろんな可能性があるでしょう。

 「雨降って地固まる」になれば、それは感情的にも<我慢する>とかではなく関係が修復されるわけですし、理想的なのかもしれません。ただ、現実にはお互いにあまりに違いすぎて、「地固まる」どころか「土砂崩れ」になることもあるわけで、感情的にぶつかりあって問題が解決するようなことはそう簡単に期待できないことのような気もします。

 もうひとつのやりかたは、とりあえず感情的にならないように努力して、「なんでこうなるのか」を頭で、理屈で理解しようとすることだと思います。感情的な対立は、相手の「気持ちの理解」にお互いに失敗して、自覚しない形で傷ついたり傷つけたりすることから起こるのでしょうから、「気持ちの理解」に見切りをつけて、「頭で理解する」かたちに切り換えるやりかたです。

 脳科学で理解する、というやりかたなども、相手の人の気持ちを理解するのではなくて、脳の生理的な仕組みで理解するというやりかたになります。そのやり方から出てくる対処の仕方は、やっぱり「気持ちを理解して調整する」やりかたではなくて、たとえば薬で脳の働きを変える、といったような「物理的」な対処になるのでしょう。

 アスペの方が人間関係を感情抜きに理屈で理解されようとすることが多い理由は、ひとつには「感情的な理解が苦手」という見方も出来るでしょう。けれど、あまりに定型的な感情のやりとりの仕方がアスペの方からは「不自然」で理解しがたいので、早々にそれには見切りをつけて、「頭での理解」に切り換えられている、という風にも考えられそうです。

 そういう意味で、アスペの方は脳科学のように「科学者」みたいな理解の仕方が得意になるのかもしれない。他方で定型の方は日常のやりとりが「気持ちの理解」を重視する形で成り立っていて、そこで生きているし、定型同士それである程度は理解できます(もちろん文化が違ったりすると、それもそう簡単ではありませんが)。だからそのやりかたにこだわって生きる。

 そこに定型アスペ間で「問題が起こったときにどうやって解決しようとするか」のズレが生まれてくる。まあ、今までしつこく何度も書いてきたことをまた改めてひとつの筋にして整理してみようとしているわけですが(こういうのが、パートナーに言わせると「パンダの文章はくどい」というところかもしれません……(^ ^;)ゞ )。

 そうすると、「頭の理解」という形で定型アスペがやりとりをすれば、なんとか共通の理解がしやすくなるのかもしれません。けれどもそれだと少なくとも定型の側は「気持ち」の問題が取り残されてしまって、ちょっと辛いことになるようにも思えます。

 その問題を解決しようと思えば、今私が考えられるやり方としては、定型アスペ間ではどうやったって「気持ちの問題」は解決しようがないと見切りをつけて、そこは「我慢」するか、あるいは関係に見切りをつけてしまうか(別れるとか)、というやり方がまずひとつ考えられます。我慢も関係の解消もいやなら、「気持ちの問題」は定型同士の関係で解消する方法を考えて、パートナーとの間ではそこは基本的に持ち出さないことにする、というやりかたもあるのかもしれません。

 あるいは納豆さんとアスペルガールさんのやりとりの中でも出てきたと思いますが、自分の気持ちの持ち方を「悟り」のような形で変えてしまう、という道もあるのでしょう。

 で、私の場合、定型的な「気持ちの理解」でもなく、アスペの方が比較的得意とされているように見える「頭での理解」だけでもなく、言ってみれば「頭を使って気持ちを理解する」みたいな方法がないものか、ということにこだわっているのかなと思います。

 それって具体的にはどういうことなのか?と問われると、まだうまく説明できそうにありません。今のところ言えるのは、定型の側からは「アスペの方って、こういう感じ方や見方でこんな風に生きているんじゃないかな」ということを「想像する」ことでしょうか。そしてほんとにそうかどうか、アスペの方に尋ねてみて、「ああそうだよね」と言ってもらえるような想像力が働くようになれば、「頭を使って気持ちを理解した」ことに近いかなと思います。

 ただ、そう言っても、それもやっぱり「気持ちの理解」へのこだわりだと考えれば、定型の側はそうすることに意味を感じたとしても、アスペの方の側にはあまり意味がないことなのかもしれませんし、そこもまだよくわからないままです。よくわからないんだけど、定型の側から、自分の特徴を殺してしまうことなくアスペの方たちに歩み寄ろうとすれば、そういうやり方がひとつの現実的な方法としてありうるのかなと思います。

 じゃあアスペの方の側から定型に歩み寄るのはどういう方法がいいのか。まあアスペの方の場合、常にこの世の中で生きるということは、「定型のやり方」を無理にでも身につけなければならない状況を生きられることでしょうから、すでにもうかなりそこは「歩み寄り」の努力をさせられ続けているのかもしれません。そこのところ、お互いの「歩み寄り」をどんなバランスで追求するのがいいか、ということも問題になりそうです。

 いずれにせよ、定型がアスペの方に歩み寄るやりかたと、アスペの方が定型に歩み寄るやりかたと、それは必ずしも一緒でなくてもいいのかもしれないですね。それぞれが自分の特徴を活かしながら歩み寄る道を探ることがむしろ大切なのかも。山に登るときにルートはいくつかあって、同じルートを歩まなくても、同じ頂上を目指していればいい、みたいな感じでしょうか。(でもこう書くと、「一緒に歩きたい」という気持ちがわき起こったりするからまたちょっとやっかいですが……)

 うーん、新年早々、またまとまらない話になってしまったみたいです。なんか考えるべき事は次から次に出てくる感じですね。一筋縄ではいきません。

 

 

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コメント

パンダさん

本年もよろしくお願いいたします。(*v.v)。

>自分の気持ちの持ち方を「悟り」のような形で変えてしまう、という道もあるのでしょう。

以前にもお伝えさせていただいたと思いますが、私が自然にしている姿を、パンダさんはそんな風に見て下さるのですね。(*^.^*)
ありがとうございます。
でも、私にはそんな考え方は全くなく、実際は全く違いますのでご理解くださいね。
そう見えるのは、私の個性からなのでしょうか・・・。

私にあるのは、私の大切な人を、心から大切にしたいと願う気持ちだけなのですが。
そして、彼の方が私をとても大切にしてくれていると、私は感じています。
言葉で上手に表現できませんが、私には、とても大切にしてもらっている感があるのです。
このあたりの感覚が、パンダさんと私は少し違うのかもしれませんね。
それで、見え方や感じ方が違ってくるのでしょうか。

いろいろと考えさせてもらって、あらためて実感することもあり、とても感謝しています。

星さん

 ごめんなさい!
 「星さんとアスペルガールさん」ではなくて、「納豆さんとアスペルガールさん」でした!
 記事、修正しておきます。申し訳ありませんでした m(_ _)m

パンダさん

そうだったのですね。(*^-^)

記事の訂正をして下さって、ありがとうごさいました。

◇ パンダ さま

あーけましておめでとうございます~

私が回答する予定のコメントを一時停止してしまっていますが、
先にこちらにコメントしまーす。

最近、とある方のtwitterにこんなツイがありました。

 「知的障害のある子って、ほんと人の本性を見抜きます。
   上辺だけ良い人ぶっている人間はとことん拒否します。
   心で接することでのみ彼らも心をひらいてくれます。」

 「動物たちって、ドキリとするくらい人の心を見抜きますよね。
   たぶん、動物嫌いとか、腹黒いオーラが出ているんでしょうね。
   無垢な知的障害児たちもきっと同じように心を読めるんだと思います。」

私がこのブログでお伝えしたい悟りとはこうゆうことなのです~
(人間はブッダ(悟った人)にはなれないのでご安心を (*‘∀‘))

私たちは何かを得るためには何かを失うことが多いです。

新しい命がうまれるだけで、誰も死ななければ人口増加問題が起こります。

牛肉・豚肉・鶏肉などを直接的に殺傷することは有りませんが、
生きているだけで、他の命を奪っていることは事実です。

でも、それって仕方なくって、人が生きるってそうゆうことなんです。

言語も同じで、人は言葉を手に入れたから思考する力が出来たとか言われています。
だけど、言語を得たことにより失ったものもあります。

そしてそれは、言語を獲得しなかったタイプは失わず持っているんだと思っています。
(※知的障害の方などです。)

即ち、アスぺと定型が仲良くするには、
論理でもなく、感情でもなく、心の目で目の前の全てをみることなんです!

さらに、

 「盲目であることは悲しいことです。でも、目が見えるのに見ようとしないのは、
   もっと悲しいことです。(ヘレン・ケラー)」

とヘレン・ケラーさんは仰ったらしいのですが、
これは、何を言っているかと言うと・・・

 「私たちは自分のフィルターで世界をみている…だから何時でも主観的、
   一歩引いて『ありのまま』が見れるかどうかは自分次第。(アスペルガール)」

ということだと、私は思っていて、
それを実現させる方法が、仏教の悟りの修行なのです。

仏教の悟りの修行とは『今に気付くこと』で、
 
 歩いている時に、歩いている状態に気づく、
 会話をしている時に、会話をしている状態に気づく、
 座っている時に、座っている状態に気づく、

こんな風に、日常生活をおくりながら出来るものなのです~(゚∀゚)v
すればするほど、今まで見えなかった様々なことが見えてきます。

最近・・・思うのですが・・・。

定型もASも人数分だけ個性があり、特性が違いますから、コミュニケーションの場面々の一律の正解は出ないとして。

どうやって、目の前の相手と関係維持していくのか、というとそれはもう、相手と二人ぽっちにならない工夫なのだろうと思うのです。

ASの人は複数でのコミュニティーが苦手だとか苦痛だとかと聞きます。
でも、1対1でASと定型が向かい合えば、必ず混乱やショックやら怒りやらが生じる、というパターンが圧倒的に多い。

ですから、パンダさんちも含め「自分の話や気持ちが通じる相手」との出会いが絶対必要で、そこで気持ちが和んだり、感情が救われたり、嬉しくなったり、謎が解けたり・・というプラスの社会的コミュが「これからも頑張れる」ということにしてくれているのだと思います。

特に、定型は、人間関係に不安やストレスを感じると「人に訴えたくなる」「聞いてもらいたくなる」というサガを持っているので、相手が定型、AS関わらず、耳を傾け聞いてくれる人に、すがる思いになります。
そして、気持ちが落ち着いたら「問題点を知りたい、よりよい改善策を知りたい」という模索行動に入ります。

定型の中には「聞いてもらった(共感をもらった)」だけで満足する人も居ます。

知識が増えても、それを相手にうまく活かせる自分になるには、とても多くの(ワタシ的には年単位の)時間や期間が必要で、知識が身に付いたのか、疲れて諦めたから適当に受け流す術が身に付いたのか・・・解らないこともあると思います。

どちらにしても、ASと定型では概念も思考回路も違い過ぎて、見つめ合うほどに疲れるということは多いので、その疲労感を「わかちあえるコミュニティー」を持っているか否かで、
絶望感や幸福感が増えたり減ったりすると思います。

ですから・・「答え」より「答えを一緒に考えてくれる存在」が、鎮痛剤のようにその場、
「頭の理解と気持ちの理解」につながるような気がします。

愛する相手とこれから一緒に過ごすためには、自分の話を理解してくれる第三者という「杖」が必要。
これが、ASと定型の関係性の多くだと思います。


アスペルガールさん

>私がこのブログでお伝えしたい悟りとはこうゆうことなのです~

 そうか。コメントで仏教について少しだけ触れられていたのは
 そういう意味だったんですね。
 私は「煩悩を去る」みたいな話の方で想像していました。

 学生時代にお坊さんの講義を聴いたことを思い出しました。
 「十牛図」とか言って、悟りの段階を絵で表現したのとか、
 その頃見て面白いなあと思ったこともありました。
 そこでもやっぱりことばに邪魔されずに「ありのままに世界を見る」
 みたいな話が重視されていたような気がします。
 (私は修行したことがないので、適当な想像ですが (^ ^;)ゞ)

 知的障がい児のことについては、私もある程度付き合いがあったので、
 よく分かる感じがします。彼らとつきあうときに、
 それまでの自分の枠にとらわれていると、つきあえないんですよね。
 ある意味「自分を開く」ことが必要になっていきます。

 そうするとそれまで自分に見えなかったものが見えてくる
 という体験が私にもありました。
 だから、障がい児との付き合いは、むしろこちらが学ばせてもらっている
 という感じになることが結構あったように思います。

 その点は私の考えとアスペルガールさんの考えがつながるところかも。
 それで違うところはどこかと考えると、
 「ありのままに見る」ということがどこまで可能なのかな、ということでしょうか。
 たとえば、猫も世の中を見ているわけですけど、
 彼(彼女?)らは「ありのまま」に世の中を見ているんでしょうか?
 猫が見る世界と、鳥が見る世界はだいぶんちがうんだろうなと思いますが、
 さてどちらが「ありのまま」なのでしょうか?
 そんなことを考えてしまうんです。

 そうすると、「今の見方を視点を変えて別の角度からも見てみる」
 ということは出来るし、大事なことだと思うんですが、
 たとえそうしたからと言って、自分の見方から自由になれるのかというと、
 やっぱりそれは無理なんじゃないかなと思えるんですね。
 どこまで行っても「私が見ている」という世界からは逃れられない。
 (うーん、この辺が悟りから遠い人間の証なのかも……)

 で、ここでアスペルガールさんの次のことばを引用させていただくと
 すごくスッキリする感じがあります。

>でも、それって仕方なくって、人が生きるってそうゆうことなんです。

 自分の視点を柔軟にすることや、豊かにすることはできるし
 したいことですけれど、それも「より柔軟な自分の視点」
 「より豊かな自分の視点」になることで、自分を消し去って
 ありのままが見えるということはイメージしにくいんです。
 まさに「人が生きるってそういうこと」なんじゃないかなと。

 だとすれば、そういうすごい限界を抱えた人間として、
 お互いにどうやって生きていったらいいのかなあと、
 そんな風に問題を考えようとしています。
 (話が噛み合っていればいいですが)


トマトさん

> どうやって、目の前の相手と関係維持していくのか、というとそれはもう、相手と二人ぽっちにならない工夫なのだろうと思うのです。

 うーん、ここ、すごいポイントなのかなと思いました。
 私がこのブログを書いているのも、多分そんな意味があるんでしょうね。
 二人だけの関係で考えていたら、やっぱり「煮詰まってしまう」だろうし、
 それはきっとお互いにしんどくなるんだろうと思います。

 二人だけの枠でかんがえるんじゃなくて、
 もっと広げた人間関係の中で二人の関係を考えていくこと。
 やっぱりそこは大事なんだろうなと、改めて思いました。

◇パンダ さま

返事が遅れてしまい申し訳ございません、
と、パンダさん最近大人気なので(笑)
私のは後回しにして頂いても大丈夫です~

>「ありのままに見る」ということがどこまで可能なのかな、ということでしょうか。たとえば、猫も世の中を見ているわけですけど、彼(彼女?)らは「ありのまま」に世の中を見ているんでしょうか?

色々考えて下さったのですね、
ありがとうございます!

>猫が見る世界と、鳥が見る世界はだいぶんちがうんだろうなと思いますが、さてどちらが「ありのまま」なのでしょうか?

先にお詫びさせて頂きまして、
私の例えがまずかったのかもしれません。申し訳ないです。

>自分の視点を柔軟にすることや、豊かにすることはできるししたいことですけれど、それも「より柔軟な自分の視点」「より豊かな自分の視点」になることで、

これは私も同じですー
本当に難しいことなのです。

>自分を消し去ってありのままが見えるということはイメージしにくいんです。

自分を消し去る訳でもないような気がするのですが、
イメージはしずらいと思います。

何故なら、悟りとは(私も開けていません)、体感するものだからです。

時速150kmの野球の球が見えるかどうかについては、言葉で理解するものでも、想像でどうにかなるものでもないのと似ていると思います。

>まさに「人が生きるってそういうこと」なんじゃないかなと。

正解です。
本当に正解です。

私もパンダさんのパートナーさんがアスぺさんでなければ勧めないのですが、パートナーさんがアスぺさんだとすると、見ている世界の乖離が激しくなりますよね。

だから、分かり合うための、1つの対策法として提案してみました~

---補足---

以前にも書いたのですが仏教とは宗教じゃないのです。ただの方法論なのです。(正確にはただの方法論だったものが2500年の時間と共に宗教化した)。お坊さんの多くは宗教家として活動されているのですが、そうでない方もいらっしゃいます。

もし、興味があれば「くさなぎ龍瞬 - Blogger」で検索してみてください~

仏教については、(知識が足りない+説明が下手な)私が色々説明するよりも本物に聞いた方が間違いが少ないと思いました(*゚o゚*)~゚

仏教自体、あくまで、提案として~☆彡

アスペルガールさん

>私もパンダさんのパートナーさんがアスぺさんでなければ勧めないのですが、パートナーさんがアスぺさんだとすると、見ている世界の乖離が激しくなりますよね。

 ありがとうございます。
 昨日もパートナーと話をしていて、彼女が「ほんとに違うんだね」と
 なんだか心の底から語るように言っていました。

 違う身体を持った人間なんですから、定型アスペに限らず、
 定型同士だってアスペ同士だって完全に同じということはあり得ませんし、
 ある意味どこまで違いにこだわらず、逆にプラスに感じたりできるか、
 ということなんだろうとは思います。

 猫を見てたって、おたがい見えている角度は違うわけですし、
 猫に対する想いもそれぞれですから、イメージだって違うし、
 でも「同じ一匹の猫を見てるんだよな」ということに意味が感じられれば
 それでいいのかもしれませんね。
 
 仏教はほんとに考え方いろいろみたいですし、
 いろんな参考の仕方があるんだろうと思います。
 アスペルガールさんが言われているように思う「いま、ここにきづく」
 ということもそのひとつですよね。
 「我」とか「言葉」とかを間にはさまないで
 なんというか世界にただ「ある」ことの気づきによって、
 新しい世界が現れるみたいな感じかなと
 私はイメージするんですが、
 大事な視点のひとつのように思っています。

◇パンダ さま

はい~応援してます~

定型さんでアスぺさんを好きになってしまう方は、
そもそも色々な視点で物事を捉えれる方なんだって思っています。

そうじゃなかったら関わりませんからね。

と、

パンダさんがパートナーさんの愛情を十分に感じれるようになることは、
同じように大変な想いをしておられる方の励みにも救いにもなると思います。

責任重大なんです(笑)
(またプレッシャーかけてみたっ!!!)

アスペルガールさん

>(またプレッシャーかけてみたっ!!!)

 あの、わたし、こどものころからプレッシャーに弱くて…… (^ ^;)ゞ

パンダ さま

>あの、わたし、こどものころからプレッシャーに弱くて…… (^ ^;)ゞ

 !!(゚ロ゚屮)屮ソウダッタンデスネー!!!(笑)

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