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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2014年1月

2014年1月26日 (日)

メッセージとしての表情

 今朝、歯を磨こうとしたときのことです。洗面台でパートナーが化粧をしていたので、「ちょっとごめん、歯ブラシを取らせて」と言ったら、彼女はめんどくさそうな表情で横にずれました。その表情を見て、ふと「あ、彼女は本当に<純粋に>めんどくさいんだ」と思ったんです。

 どういうことかというと、そういうことは色んな場面で繰り返しありましたので、以前の私は「たったそれだけのことを私に頼まれることがそんなに不快なんだ」と感じて苦しかったんですね。それほど自分は拒絶されているんだ、という思いにもなっていきます。

 その後、どうも彼女の表情は必ずしもそういう私に対する不快とか拒絶を意味しているのではなさそうだ、ということを「頭で」理解しはじめるようになると、彼女のそういった表情をできるだけ「無視」するようになりました。といってもその表情を見てこちらが辛い気持ちになることは完全には無くならないのですが、そこはいわば「蓋」をして「感じない」ようにしていました。

 それが今朝はなぜかは分からないのですが、その彼女の表情は私へのメッセージではなくて、ほんとに純粋に彼女の気分をそのまま表しているだけなんだ、と感じられたんです。それと同時に、これまで彼女のことについて頭で考えてきたことや、皆さんからいただいたメッセージから頭で理解してきたことのいくつかが、なんとなくつながって「腑に落ちる」感じになりはじめたんですね。「あ、なるほど」というか。

 ことばにして書くと、結局今まで書いてきたことの繰り返しになるのかもしれないのですが、その何となく「腑に落ちてきた」内容はこんなことです。

 アスペにせよ定型にせよ、相手の表情が自分に影響することは同じでしょう。たとえば相手の怒った顔を見ると、怖いと感じたり、逆にこちらも怒りを感じたり、そんな感情的な反応が起こるのは、もしかすると強弱とか、そういう違いはあるかもしれませんが、どちらにもあることだと思います。

 ただ、その表情を「メッセージとして受け取り、使う」ということについて、アスペ定型間で結構大きな違いがあるような気がします。定型はたとえば自分が不快な表情をしていれば、相手がそれを自分に対するメッセージとして受け取り、「この人は私に対して不快感を表明しているのか、あるいは助けを求めているのか」といったことを心配し始めるだろうと自然にそう理解します。

 だからそこで誤解が生まれないように説明を加えてみたり、あるいはあえて不快感を隠して相手にメッセージを送らないようにしたり、ということをしばしばやっています。それは相手に心配をかけないための心遣いといった場合もあれば、「政治的」な駆け引きの場合はあえて偽の表情を作って相手を欺こうとしたりすることもある。

 アスペの方の場合、定型社会の中で生きていくためにはそういう「場面に応じた表情」や表現のパターンを一生懸命に学んで、それを頑張って使ってなんとか乗り切らざるを得ないことになるようですし、それが難しい場合には周りから排除されたり、そうすることに疲れ切って閉じこもりがちになられたり、鬱になられたりすることが多いのでしょう。

 ですからもしそうだとすれば、表情をメッセージとして受け取って使うことは、定型にとってはとても「自然」なコミュニケーションスタイルで、アスペの方にとってはとても「不自然」な、無理をして学び、やらなければならないコミュニケーションのテクニックだということになります。

 私が想像するに、アスペの方から見れば、定型のそういう「メッセージとしての表情のやりとり」は、とてもわかりにくいし、場合によってとても不誠実なものに感じられるのではないでしょうか。なにしろ表情がその人の素直な気持ちを表すとは限らず、しばしばとても「政治的」に使われ、相手を結果として「騙す」という「不誠実」な技にもなるからです。私のパートナーの場合は子どもの頃、他の子どもが「ニコニコ」しながら自分を虐めてくるので、そのニコニコした表情に騙されて相手が悪意を持っていることが理解できず、虐められていると気づくのが随分と時間が経ってからだったと言いますが、それも同じ事でしょう。

 定型の側から言えば、そういう表情は確かに相手を騙したりするときにも使われますが、相手のために気を遣う場合にも使われますし、逆に言えばそこで気を遣う表情がない場合には自分が見捨てられたようにも感じたりしますから、それを「メッセージ」として読み取ること自体は誠実か不誠実かには直接関係ないことだと思えるのですが、多分そこの感じ方はお互いに異なっていそうです。

 それで、話を戻しますと、アスペの方にとっては表情を相手へのメッセージとして扱うことは「不自然」なこと、場合によってとても「不誠実」な、「他人行儀」な「社交辞令」の世界でのことですから、家族のような関係の中ではそんな世界に生きたいとは思えないとしても不思議はありません。そうすると、そこで生まれてくる表情は、「相手にどう読み取られるか」ということとは関係なしに、ほんとに素直に自分がそのときに感じている快不快の感覚がそのまま現れたものになる。

 だからたとえ不快な表情をしていたとしても、それを相手から「自分のことを非難している」とか理解されることは「思いも寄らない」ことになるでしょうし、また「助けを求めている」と理解されることも「意外なこと」になるかもしれません。そこには相手に対するメッセージの意図は全然無くて、ただ素朴に自分の気持ちの状態が現れているだけだからです。

 こういう理解が正しいのかどうか、単に私の想像に過ぎませんからよくわかりませんが、仮にそうだとして、そういうアスペの方の感じ方を定型が実感として理解することはかなり大変な作業でしょうね。それほどに定型にとって「表情をメッセージとして受け止める」ことは骨身に染みて自然なことになってしまっていて、「メッセージではない表情」というものを感覚的に理解することが難しいと思うからです。

 その難しさは、たとえば立場を逆にしてみて、定型が他の人がいるところで、一切その人の反応を気にすることなく、自分の感情状態をそのままストレートに表わすことができるかどうかを考えてみるとわかると思います。「相手に自分の表情がどう見られているか」ということを全く意識せずに自分を表すことはものすごく難しくはないでしょうか。それほどまでに定型の表情というのは「相手の受け取り方・反応」に縛られてしまっていると思います。

 かといって全く不可能かと言えば、そこは可能性はある程度あるようにも思えます。その理由は、ひとつには定型同士の場合でも、「気の置けない」関係では多少なりとも「正直に自分の感情を表す」ことはありうるからです。ただ、定型の場合「親しき仲にも礼儀あり」というのも絡まってきますから、それが完全にアスペの方の感覚と同じとは言い難いところもありそうですが、少なくとも「気の置けない関係」を手がかりに、ある程度想像することは可能かもしれません。

 もうひとつの理由は、今回私がふと「あ、これってほんとに<純粋>にめんどくさいんだ」というふうに感じられたことです。まだちょっとですが、「私へのメッセージとしてではなく、単に本人の気持ちの状態が現れただけ」という受け止め方ができはじめた感じがしたので、もしかするとその延長上に、もっとそういう受け止め方が自然にできるようになるかもしれないという「可能性」を感じたからです。

 まあ、「メッセージとしての表情」についてのアスペ定型間の受け止め方のズレについて、上のような理解がそもそもずっこけていたとすれば、この話は全部ずっこけてしまうわけですが (^ ^;)ゞ、 ま、右往左往しながらのひとつの理解の過程として「こんな風に考えると分かるような気がした」という話として書き留めておきたいと思います。

2014年1月22日 (水)

一緒に生きる

 私のパートナーは仕事を終えた後はできれば世界一周をしてみたいと思っています。

 パートナーが周りに自分を理解されずに本当に苦労して生きてきた話を娘とした後、娘に、「お母さんに幸せになってもらうにはどうしたらいいんだろう?」とふと尋ねてみたら、彼女の答えのひとつは「その旅に行かせてあげることじゃない?」でした。それで私が「やっぱりひとりで行くのがいいのかな」と聞いてみると、娘は即座に「それはお母さんとしては大前提だよ」と言いました。

 パートナーに育てられた娘は、定型であっても感覚的にパートナーのことを私なんかよりも理解しています。

 「じゃあ、お母さんにとってお父さんがいることにどんな意味があるのかな」と聞いてみたら、「意味があるから一緒に暮らしてるんでしょう」と言われました。「いろいろ大変なことがあっても、一緒に生きることがお母さんの愛情なんだ」という意味のことも。

 ああ、そうなんだな、と何か心に染みてくる感じがしました。「一人にしてあげる」ことも含めて、一緒に生きることなんですね。

2014年1月21日 (火)

思い遣りの調整のズレ方

 パートナーが一生懸命私のことを思いやってやってくれていることに、私が全く気がつかず、むしろ逆に「なんでこんなことを押しつけがましくやってくるんだろう」といらだつことがしばしばありました。また彼女が子どものために必死でやっていることについて、「そんなやり方をすれば子どもが息苦しくなって大変になる。なんでそんな風に自分のやり方で子どもを支配するんだろう」と心配になって彼女に意見を言うけどケンカになるだけ、ということも繰り返されました。

 最近も彼女の気の使い方が私には理解できず、気づかないことがあって、そのことに気がついた彼女がショックを受けて、そういう気遣いの仕方をやめることにした、ということがありました。で、そのときの彼女の行動の変化が私にはまた不思議に思えたりしたんです。

 少し具体的に言うと、家事分担でお互いの都合で相手の分担についてもやってあげることがありますが、彼女が私の分担をやってくれるときに、自分の分だけを完成させて、私の分は私がするように残しておく、というような、私にはちょっと不思議な対応をされたりしたんです。

 私は別にそういう時に「相手の分も一緒にやっておく」という気の使い方については全然違和感がありませんでしたので、「え?どうして?」という感じになって聞いてみたんですが、彼女が言うには「こういう小さなところで気を使い始めると、その次も、その次も、となって歯止めがきかなくなる」ということでした。そしてそれをどんどん進めていくと、結局私の意に添わない結果になると言うわけです。

 なるほどなあと思いました。そして定型の場合は「相手のために何かをする」という場合、人によっても程度の差はあるにせよ、まあだいたいは様子を見ながら「この程度まではOKかな。」とか「このやりかたでOKかな。」とか、相手の反応を見てやりかたや程度を調整しながらやっていることに気がつきました。

 多分彼女の場合、そういう定型的なやり方は苦手なんですね。それで彼女なりの信念で「これは相手のためになる」と思ったことをやってくれるし、たとえば私がしんどそうにしているときなど、ますますそういうやりかたで頑張ってくれることになります。けれども私との関係ではそれは気遣いのポイントがずれてしまっていることがありますから、彼女が誠実に頑張れば頑張るほど、その努力の方向がずれていってしまって、私の側からすると「何を彼女はこんなことにこれほどこだわっているんだろう?」と不思議に思う、という結果になってしまうことがあるわけです。まさかそれが「私のために一生懸命やってくれていることだ」と気づかずに。

 こういう「お互いの調整の仕方」がずれちゃってうまくいかないことが、アスペ定型間にはしばしばあると思えるのですが、あすかさんの彼が「いつもは何か問題があると、もう会うのをやめると言い関係を切って解決を図ろうとする彼ですが、その時はかなりの勢いで怒りながらも何故か扉を閉めないで私の目の前に何とか留まっているのです。」というふうに振る舞われるのも、なんか分かる感じがしてきます。

 彼は定型的な調整の仕方は苦手なので、そこでこじれてしまったら、あとは解決法としては「もう会うのをやめる」という風になりやすい。もちろん定型同士で問題がこじれにこじれてしまったら、やはり「決別」にはなりますけど、多分その時期がすごくはやく訪れるんですね。だけど彼にとってあすかさんは特別の存在で、そこに特別の思いがあったから、必死の思いで「目の前になんとか留まって」いたんだろうと思います。

 思い遣りの細かい調整をやりたがる定型と、そこは苦手ですぱっと割り切りがちなアスペの方と、その調整のスタイルの違いを踏まえて、なおかつどうやってお互いにあまり無理のない調整の仕方を考えられるのか。そういう問題がそこにありそうです。

 

 

2014年1月20日 (月)

なんで冷たさや痛さを感じる?

 

トマトさんの七誌さんへのコメントが分かりやすくて、ちょっとこちらの方に無断拝借で((^ ^;)ゞ)失礼します m(_ _)m

ASの人の何気ない一言にショックを受けたりたじろいだりする・・・という定型の反応は、期待をどれほど広く薄く引き延ばしても追いつかないほどの、はるか彼方の定型の思う「それは違うだろゾーン」から、冷たく突き放されたりバシッと叩かれて痛い、というイメージの「言葉の選択」「イントネーション」という出力の問題なので、それを受ける定型としては、慣れも、流せも出来ないところが悩みとなりますね。」

 これ、ほんとにその通りと思うんですが、改めて考えてみると、なんでそれを定型が「冷たく突き放される」とか、「バシッと叩かれる」というふうに感じ取るんでしょう。もしアスペの方がその通りの感覚でそういうことばを言われているのなら、まあそれは「正確に伝わっている」ことになるわけですが、どうもアスペの方にはそういう意図はなさそうに思えます。たとえばアスペの方が「助け合い」ということを否定するとか、「人の苦しみを喜ぶ」とか、そういう話とも違うと思うんですよね。少なくとも私のパートナーはそういうのはないですし。

 同じことばでも、お互いに違う意図で使い、違う意図で理解してしまう、そういうずれた構図がきっとあるんだと思います。多分「人とひととの関係の調整の仕方の違い」に関係するんじゃないかと想像しますが、それがなんなのか、まだちょっと見えてきません。いずれふと見えてくることがあるんじゃないかなというかすかな予感はあるんですが、いつになるかもわかりませんし、予感ははずれかもしれないし …… (^ ^;)ゞ

 それと、仮にいつかそういうずれた構図が見えてきたとして、それで定型が受けるショックが無くなったり、あるいは無くならないまでも緩和されたりすることがあるかどうか、私にはそれも「取らぬ狸の皮算用」以上にはわかりません。

 ということで、ひたすらわからない、わからないの連続ですけど、ただ、なんとなくそこに大事な問題が隠れているような、これも予感がするんです。

 わざと傷つけようとしてそうしている場合にはもちろん対処の仕方は全く別になるでしょうけれど、その人なりに関係を良くしようとして、結果として傷つけ合ってしまうような場合には、なんとかその不幸な仕組みを理解して、よりましな関係への工夫を模索したいですね。

 それにしても、ほんとになんで傷つくんでしょう?あるいは視点を変えれば、定型が気づかないままにアスペの方が傷つくってどういう状況なんでしょう?「大事にしているものを否定される」ということなんでしょうけれど、なんでそれが「大事なもの」になっているんでしょう。その「大事なもの」が定型アスペで共有しにくいものだとすれば、改めてもっと大きな目で見てお互いに共有できる「大事なもの」を見いだすことは出来るんでしょうか?

2014年1月19日 (日)

怒りの共有

 コルテオさんから前の記事に頂いたコメントで、私にとって大事なことで考えるヒントをいくつか頂いた感じがするのですが、少し長くなりそうなので、こちらでお返事します。

> パートナーさんは、パンダさんと同じ怒りを、お持ちなのですね。

 これを拝見して思ったのですが、たしかにパートナーも同じ事について怒りを持ってくれています。けれども、「怒りを共有している」という感じにはなりにくい気がします。なんというか、彼女は彼女なりに彼女の理屈で怒っていて、定型同士がよくやるように(多少お互いの怒りの内容や持ち方がずれていたとしても、中心部分が同じと感じられれば)「ほんとにそうだよね!ひどいよね!」と「共感し合う」感じにはなりません。むしろ私がそうしようとすると彼女は「引く」感じになるんですね。そして「違い」を強調し始める。

 ただ、それはお互い様の部分もあって、私も共感できるときは「それはひどいよね」と言えるんですけれど、ときどき彼女がどうしてそのことをそんなふうにそれほどまでに怒るのかが理解できなくて、私の方が驚いてしまって共感できずにちょっと引き気味になってしまうこともあります。

 とはいえ、この場合も彼女の方から「こんなひどいことがあってね」と私に共感をもとめてくるようなことはなさそうに思います。「自分の怒りは自分のもので、それを他人に言うことはあるけれど、共感を求めて言うのとは違う」という印象を持ちます。私の方はちょっと引き気味になっても、やっぱり共感できる部分を探す傾向が強いです。

>人の怒りには、私は、体の深いところが震え、息がしづらくなります。誰に向けられていても、自分の存在が脅かされるような、恐怖感を覚えます。これは、人と共有できる感情でしょうか。

 たとえば鬱状態がひどくなってくると、他の人からのはげましや気遣いのことばでさえも(それがそういうものだと頭では分かっていても)逆に負担になったり、逃げ出したくなったり、ある意味では恐怖感に近いものを感じる、ということは定型でもありそうに思います。

  ですから、「もうどうしたらいいかわからない」というような、激しく追い詰められた状況に置かれると、人間は色んなことに対して「恐怖感」を抱いて自分の中に閉じこもろうとする傾向があるんじゃないでしょうか。その点はアスペ定型どちらにも共通することかもしれません。


>「お互いに感情をぶつけ合うことで、一緒に気持ちを整理して」のところを、理解したいです。もし、過去に説明された記事がありましたら、お教えいただけますか?どうか、お願いいたします。

 すみません、自分で記事を書いていながら、過去に何を書いたかすっかり忘れていることが多いので (^ ^;)ゞ、 とりあえず「感情の調整」でこのブログ内を検索してみたら、次のような記事が出てきました。ぴったりかどうかは分かりません。

感情を意識すること: アスペと定型

薬と人生のスタイル: アスペと定型

言葉の力: アスペと定型

「切り捨て」か「切り分け」か: アスペと定型

淡い共感の力と蔭: アスペと定型

頭の理解、気持ちの理解: アスペと定型

 「感情をぶつけあう」で検索したら他に以下も出てきました。

怨みをどうする?: アスペと定型

アスペと定型: 2011年4月

 なにか手がかりとしてお役に立てばいいですが……。

2014年1月16日 (木)

何故共感が難しい?

 定型アスペ問題の定番は「共感」だと思いますが、要するに定型の側から見ると「このひとは共感してくれない」とか「共感を拒否している」と感じてしまって、お互いの関係が親密であるほど、ショックが大きくなり、問題がこじれてしまう、ということです。

 なぜそうなるのかについて、いくつかの説明の仕方があると思いますが、私はなかなかすっっきり納得できなかったんですね。たとえばアスペの方は「共感能力がない」という言い方。

 なぜ共感能力がないかというと、人の感情を理解できないからだ、という説明がついてきたりします。たしかにコルテオさんも「私は、人のいう「寂しい」も「好き」も、パンダさんのおっしゃる「しんどさ」も、感覚的にわかることができません。」と書かれていたように、アスペの方が定型の感情を理解できずに困惑されることは少なくないと思います。

 けれどもそれは「人の感情を理解できない」ということとは違うはずです。実際コルテオさんもこんな風に書かれていました。「人の感情のうち、「感覚的にわからない」のは、私が感じたことのない感情です。人の感情のうち、「感覚的にわかる」のは、私が感じたことのある感情です。」

 つまり感じ方が違うから、理解が難しいことはあるんですね。でもそれを言ったら、定型だってアスペの方の感じ方を理解することは難しいから、共感できずに反感を持ったりショックを受けたりするわけで、そこはお互い様とも言える部分があります。だから問題は単純に「人の感情が理解できない」から「共感能力がない」という話にはならないと思うんです。実際コルテオさんもちゃんと共感(同感?)もされるんです。「『信じる「愛」を持っていますか』という本の言葉に、私は共感をおぼえます。」

 コルテオさんご自身は、自分がアスペルガーであるかどうかは確信していない、と書かれていますが、ここに引用させていただいた内容については、コルテオさんに限らず、私のパートナーも含め、他のアスペの方にも共有される部分が多いように感じています。

 もちろんご自身の中に感情がないなんていうことはあり得ません。激しく動く感情があるから、それが周囲とうまく噛み合わなくて、深刻な鬱になられたりもする。七誌さんが「おかげで3ヶ月余り寝たきりの生活を過ごし、希死念慮の伴う不安定な回復期を経て寛解と言えるところまで一年以上かかり、そして当時の状況把握にさらに数年かかり…もう二度とあんな状態を経験したくはないですね。」と書かれているのも、アスペルガールさんが同じような経験を書かれていたのも、その例のひとつです。

 
 じゃあなんでアスペの方はしばしば「共感能力がない」とか言われてしまうんでしょうか?実際私も未だにパートナーに対して「なんでここで共感してくれないんだろう。たとえ共感はできなくても、どうして単に「ああそうなの」と受け止めてくれずに、わざわざ拒否的なことばを投げかけてくるんだ」と傷つくことが無くなりません。昨晩もそれでだいぶやりとりしました。

 それは、私がほんとに許し難い思いを持つ出来事があって、そのことについては彼女も同じ立場なのですが、それについてどうにも耐え難くなって、怒りを爆発させるような言い方をしたんです。私としてはそういうことはほんとに少ないことですし、そういうことを普通言う人間ではないことは彼女も分かっています。それにも関わらず言わずにはおれないくらいに怒りが押さえられない状態になってしまったのですね。

 で、彼女も同じ怒りを持っているのは間違いないのに、「そういう言い方は私は嫌だ」というんです。もちろん、私だってそういう言い方をしたいわけではないのだけれど、もうぎりぎりのところで言わずにはおれなかったのに、それを「拒否」されるつらさはほんとにシビアなものでした。(もちろん「そういう言い方」を彼女もしない人なら分かるのですが、決してそうではないですし、私がそういうことはほとんど言う人間ではないことは知っていながらのことばだったので)

 改めて衝撃を受けながら、なんでそういう言い方をするのか、彼女に聞いたんですね。「拒否ではない」と言い、私がそんな風に言うのはよほどのことだと言うことは分かっている、というのですが、それを分かってくれているのなら、なんでそんな言い方をわざわざしなければならないのか、私には全く分からなかったので、あえて尋ねたわけです。

 彼女は最初はしばらく考えて「わからない」と言いました。私はしばらくどう考えていいかわからず沈黙を続けた後で、「(拒否という以外に)他にどういう解釈の仕方があるのか、教えて欲しい」とまた尋ねました。だいぶしてから、彼女が「話がうまくつながるかどうかは分からないけれど」と言いながら言ってくれたことは、「その(パンダの)ことばを聞くと、自分の怒りが抑えられなくなるから」という意味のことでした。

 それを聞いて、ようやく分かった気がしたんですね。そして今まで理解できなかったいくつかのことがつながってきたように思えたんです。

 彼女は私の怒りや悲しみや、そういうものを否定している訳じゃないんです。共感しないんじゃないんです。むしろその私の感情に激しく巻きこまれてしまって、自分が保てなくなってしまうから、とっさに距離を取ろうとしているんです。

 定型同士の場合は、そこでお互いに感情をぶつけ合うことで、一緒に気持ちを整理していったりすることも少なくありません。そうやってお互いの感情を整理したり、「共感」されて支えられたり、共感することで支えたりする。

 でも、彼女にとっては自分で対処しきれない感情に巻きこまれてしまって、どうしてよいかわからない状態になる。そこで一緒に感情を調整するようになりにくい。だから、そうなることについてとても恐怖心や場合によって怒りを持つんですね。だから身構えてしまって、「拒否的」に聞こえることばで相手と距離を取って身を守ろうとするわけです。

 子どもの頃から自分の素直な感情を出すと、周囲から攻撃されたり怒られたりし続け、ひたすら自分の感情を「押さえつけて表現しない」ことを学ばされる。自分の感情は他者とは共有されないものだし、人と語り合って調整したり解決したりするものではない、という感覚が深く根付いてしまう。そして人から特にネガティヴな感情を表わされると、どう対応して良いか分からないし、自分も訳も分からずにそれに巻きこまれてしまいそうになり、強い恐怖心を抱いたりする。

 少なくとも彼女の場合、そういうことがあるようなのです。そして私の知る数少ないアスペ的な方についても、そんな風に理解すると、ああなるほどなあと分かることがあります。定型的な感情の世界はアスペの方にはわかりにくいだけに、定型が全く想像もできない形でそれに恐怖を感じられる場合もあるわけですね。

 この話、アスペの方は1か0になりやすく、定型がよくやる0.5の曖昧な調整がやりにくいのではないかという話ともつながってきそうです。


 

2014年1月12日 (日)

歩み寄り

 トマトさんや晴子さんに頂いたコメントにお返事をしていて、それから昨晩彼女と話をしていて改めて感じたのですが、私のパートナーは本当に私のことを考えてくれているし、彼女なりにすごく努力をしてくれているんですね。

 そんなに彼女なりの努力を続けてくれているのに、まだうじうじいろいろ考えている私って何なの?ということにもなりそうです。で、何なんでしょうとまたうじうじ考えています (^ ^;)ゞ

 彼女と話していて、ああそうか、と思ったことがあります。それは私が「ここはお互いに一寸ずつ歩み寄ろう」と考えていることと、彼女の彼女なりの努力とのポイントがずれてしまっているということでした。そしてそのズレ方が、多分アスペ定型間に起こりやすいズレのように感じられたのです。

 たとえば、私は以前、彼女が私と話をするときは愛想のない、「むすっ」とした感じでいることが多くて、とても辛かったことがあります(今もその感覚は無くなってはいませんがだいぶ薄らぎつつあるみたいですが)。それが彼女が誰に対してもそうであるなら、まあこの人はそういう人なんだ、という風に割り切ることも出来やすいと思うのですが、ところが仕事関係の電話をしているときとかを見ていると、ちょっと過剰と思えるくらいに愛想良く話しているんです。

 そうすると、私としては「なんだ、この人それが普通に出来るんじゃない」と思ってしまいますし、それにもかかわらず、私に対して「むすっ」としているということになると、これは「私を嫌っているんだ」とか「拒否しているんだ」という理解になってしまったわけですね。そのことでほんとに厳しいケンカになったこともあります。

 ところがこのブログでも考えてきたように、その私の理解は彼女の感覚から言えば全然ずれていて、むしろ私に対して「親しい関係」と思っているからこそ、そういう「むすっ」になるので、「愛想」は親しくない社交辞令の関係だからそうするんだ、ということだったようなのです。(同じようなズレのパターンが晴子さんの「おごり」の話でも出てきたわけですが)

 そのことは頭ではある程度理解できましたが、でも気持ちの上では相手に「むすっ」とされていたら、「なんか私が悪いことして怒らせたんだろうか?」とか「仕事で大変なんだろうか、何か配慮しなきゃいけないんじゃないだろか?」とか「身体の調子が悪いんだろうか?」とか、いろいろ心配にもなってしまいます。それに「笑顔で暖かい団らんのひとときが欲しい」という欲求もあるので、それが全然満たされない辛さが消えません。

 それで、これはトマトさんがうまいこと表現してくださっているように思ったのですが、こんなことを書かれています。「せめて相手がまるっきり期待を持てないような、あきらめのつく風貌をしていれば視覚認知で気持ちがおさまるのにいかにも受け入れてくれそうな笑顔とか、魅力的な考え方とか会話とか、時々は感情の共有ができた感覚が、あきらめを遮って我欲をあおる・・・。」

 つまり、私の場合で言えば、「仕事の関係ではそういうやわらかい楽しそうなやりとりをしている」のを見ているので、「意識的にやればできるわけだから、いつもそうしてとはもちろん言えないけれど、ときどきはサービスでもいいからそういう感じを出してくれないかなあ。」と思ってしまうのですね。もちろん私も沢山を望むことを諦めて、少しで我慢する。それが言ってみたら「歩み寄り」のひとつのやり方かなと思うわけです。

 ところが、これは私の印象でどこまで彼女の思いをうまくつかめているかは分かりませんが、そこのところの「無理に愛想をよくする」ということと、「自然体でむすっとしている」ということとの「間がない」感じなんです。ほんとに1か0かの世界という印象があって、歩み寄って0.5の状態を時々作る、という風にならないみたいなんですね。

 この0.5の話が彼女にはまたなかなか伝わりにくくて、別の例で言うと、彼女がいろいろ身体もしんどい中で家事とかをやっているとき、私の分担以外の所でも手伝いをしようとすることがあるんですが、そのたびにだいたいは拒否されます。理由を聞いても「他にもそれの流れでやることがあるから」とか、私には理解しにくい、本当の理由とは思えないような答えがほとんどだったんですが、最近ようやく違う理由を聞くことが出来ました。

 それは「甘えると歯止めがきかなくなって、そのことで何人も友達を失ってきた」というんです。私の理解では、多分「ああ、この人はいろいろ頼んじゃっていいんだ」と思ってどんどんお願いするようになる。そのとき定型同士なら、相手の反応を見ながら「ここまでは大丈夫」「ここからは遠慮しておいた方がいい」という調整を常にやっているわけですけれども、それが無くてどんどん頼んじゃうんでしょうね。その結果相手がしんどくなって離れていくのでしょう。

 という風に、ここでも0.5がないんです。1か0かという世界になってしまっているように私には感じられます。実際0.5の話を彼女にしても、私が何を言っているのか分からないと言われました。

 そうすると、私の考える「歩み寄り」のひとつのパターンは、私が1を求め、彼女が0を求めているのら、0.5の世界を作ってみたらどうだろう、ということなのですが、そういう形での歩み寄りはどうも彼女にはぴんと来ないらしいのです。(私の説明の仕方とか、応答の仕方に問題があるのかもしれないので、あまり断定はしたくありませんが、今はそんな印象を持ちます)

 別の言い方で言うと、「相手に合わせる」ときは、ほんとに無理をして、「仕事として」そうするみたいな感じになり、「自分に素直になる」ときは「相手に合わせる」部分がほとんど無くなってしまう。そしてその中間がない。ちょっと極端な言い方ですが、分かりやすく言うとそんな印象になります。

 で、そういう「素直な自分」の状態での彼女も、もちろん私のことは考えてくれるわけですが、それは私が何を望んでいるから、ということよりも「これをするとパンダが傷つくことがあるようだから、それはしない」とか、「思ったことをそのまま言うとパンダを傷つけることがあるから、思ってもすぐには言わなかったり、言うのをやめたりする」とか、ひたすら「自分に籠もる」感じの気の使い方になるみたいです。これも私との関係で「お互いに歩み寄って調整し合う」ことにならない、一方的なやりかたに感じられます。

 0.5の調整の世界は彼女にとっては曖昧模糊とした世界で、とてもわかりにくく、そこを求められると困惑し、場合によっては疲れ果ててしまう、ということになるのかもしれません。アスペの方が定型的な人間関係が理解しにくいと言われるとき、もしかするとそこの部分が一番ネックになっているのではないでしょうか。

 すぱっと割り切って考えるアスペの方と、0.5の世界を沢山作って曖昧さを含んだ調整をしがちな定型と、そのやりかたのズレの問題がお互いの「歩み寄り」の問題に大きく絡んできそうな気がします。
(補足です。 アスペの方がすぱっと割り切って、定型は0.5の曖昧な世界を作って、というのは「そういう傾向が強い」という感じかなと思います。アスペの方が少なくとも「意識的」に0.5のやり方を出来ないわけではないし、定型も割り切るときは割り切るわけですが、私の印象で言うと、アスペの方が0.5のやり方をするにはすごく抵抗感が強くて、随分無理をされるような気がします。あくまで私の個人的な印象ですけれど)

 
 
 

2014年1月 9日 (木)

分からない者同士の余裕

 トマトさんが先の記事に「相手の全てとは言えないまでも、おおかた、だいたいを受け入れて、そこを楽しむ気持ちの余裕をどう持つか、ではないでしょうか。」というコメントを下さっていて、改めて考えることが多いです。

 これって、定型アスペの問題に限らず、人と人との関係でどこでも言えることなのかもしれません。定型同士であろうと、アスペ同士であろうと、もともと完全にわかり合うことなどできないのですし、お互いに納得しきれないものを抱えながら生きています。お互いの関係がわりとどうでもいいような遠いものであれば、そのズレはそれほど気にしなくて済むし、逆に関係が近いとか、逃れられないような関係であるほど、そのズレが目立ってきてしまって問題になることもある。

 お互いに思いも寄らなかったようなズレを抱えているんだ、ということの理解は必要だと思うし、それを深めていくことで改めて共有できるものを見いだしていくことにも意味はあると思います。ただ、それはズレがいつか無くなることを意味する訳じゃないし、一緒に生きていく上で、ずっと続けていくことなんでしょう。

 そうすると、単にズレをみつめていろいろお互いの理解を深めたりズレへの対応の工夫を考える、つまり、ズレをなくす方向だけではなくて、「お互いにズレを抱えた者同士として一緒に生きていく」という、ある意味「ズレに居座った」生き方が必要なのかもしれません。

 そのとき、トマトさんが書かれている「だいたいを受け入れ」というようなスタンスが、結構重要な意味を持ってくるような気もしています。なんというのか、ある種の大雑把さというか、まさにトマトさんの言う「余裕」の部分になるのかもしれません。ズレの理解も、自分の見方だけからの誤解を解いてお互いの理解を深める、という意味だけではなくて、「ああ、今までの自分のこだわり方はずれてたんだな」ということを知ることで少し気持ちにゆとりが出来る(晴子さんもそんなことを書かれていました)、そんな意味が本当は一番大きいのかもしれません。

 ……というような考え方って、アスペの方とも共有できるものなんでしょうか?あるいはこれ自体定型的な(パンダ的な?)発想なのかな。

2014年1月 8日 (水)

親しさと他人行儀の矛盾

 前にも少し書いたことがあるかも知れませんが、このところ改めて少しずつ気になってきていることのひとつに、「自分にとって自然なやりかた」と、「相手に合わせて意識して振る舞うこと」と、自分自身や相手に対する「誠実さ」とか、逆に誠実さに欠けるように感じる「罪悪感」とか、そのへんのことがいろいろ絡み合ってそうだなと言うことがあります。

 たとえば、これまで繰り返し例に挙げてきたことで言えば、病気の時に相手にどうすることがいいと思うのか、相手にはどうして欲しいのか、ということについて、私と私のパートナーとではすごいズレがあります。

 私の方は基本的には「寄り添ってあげたい」という感覚が働くし、「病は気から」とかいうことばもありますけれど、気持ちの上で元気になれるように、ことばをかけたり、身体をさすってあげたり、好物をあげたり、なんかそういうことを工夫して「気持ちを楽にしてもらう」とか「気持ちを元気にしてあげる」とか「ほっとしてもらいたい」というような気持ちが湧いてきます。お医者さんでもない自分には彼女の身体の病気はどうすることもできないんだけど、「気持ちの上で支える」ことはしたい、という思いになるんでしょうね。

 それに対して彼女の方は、病気はお医者さんに対処してもらいながら、自分の力で治していくほかない、という感覚なようだし、そのためにはできるだけ安静にして早く病気を克服することがもっとも大事で、家事の手伝いとか、そのために意味のあることについては私に求めることはあっても、「気持ちで支える」ようなことを求めることはないように感じます。むしろそういう「気遣い」は却って負担になって「一人にしておいて欲しい」という思いになるみたいです。

 という相当違う感覚を持っていて、それで相手が病気になると、その自分の感覚で「相手のために」どう対応したらいいかを自然に考えるから、その結果はいわば正反対の方向になっていくわけですね。

 そのお互いの感覚のズレが分からないときには、お互いになんで相手がそういう風にするのかが理解できなくて、逆になんで自分にとってうれしくないことをわざわざ病気のしんどいときにするのか、という疑問やいらだちや不信感が生まれたりもする。

 で、そういうズレがあるんだなという理解が出来るようになって、ある程度相手に合わせようとすると、今度は次の問題が生まれてきます。それはそのときの相手に合わせたやり方が、自分の自然な感覚からすると「相手を大事にしている」とは感じられない、とてもまずいやり方のように感じられてしまうということです。

 これがまあ他人との間なら、まだ問題はそれほど深刻にはなりにくいかもしれなくて、「自分の気持ち」とは別に、仕事として「相手の要望に答える」ということはまあできないことはない、くらいの感じになるのでしょう。私だって相手が他人であれば、「放っておいて欲しい」と言われれば「はあそうですか」という感じで、希望通りに放っておくことに別にそんなに罪悪感を感じたりはしません。パートナーも福祉の仕事の現場では、相手のひとのひとりひとりのニーズに合わせて対応するとか、相手が喜ぶようなことばかけをするとか、そういうことはやり方を学ぶことでそんなに罪悪感なしにできるようです。

 でも相手を親しく感じるほど、相手が望んでいるような対応の仕方と、自分が自然に「これがいい」と感じてするやり方との間にズレがあることがしんどくなってくるみたいです。お互いに親しい間だからこそ、「自然な自分」や「素の自分」で相手と接したいと思うわけですし、そこはお互いに変わりがない。他方で相手が自分にとって大事な人であれば、相手の人が望むやり方は大事にしたいという思いもある。ところがその相手の望むやり方は、自分の感覚では「他人の間ですること」になってしまって、それは「親しい関係」を壊すことに思えてしまう。

 そこに「罪悪感」が働いてきてしまうんでしょうね。そして自分にとって親しい人に、自分の自然な感覚では「他人行儀」のやりかたで対応することになる。自分の素直な好意は相手には受け取ってもらえず、相手は「他人行儀」を求めている、ということになってしまい、自分が望む「親しい関係」のやりかたがこわされていくように感じる。

 そんなふうなズレの展開の仕方があるように思えるんですが、そうだとすれば、出発点の基本的な感覚がずれているわけだけど、その後の展開はお互いに同じだという風にも思えます。つまり、「自分の自然な感覚で相手に接することが出来るのは親しい関係だ」という思いは一緒。親しい関係では特に「相手のためになりたい」と思うのも一緒。逆に親しい関係だからこそ、頭で相手に合わせる「他人行儀」のやり方に抵抗感がより強く生まれるのも一緒。

 そう考えれば、定型アスペの間では、「相手と親しい関係を保つ」ことについて、すごく共通した考え方を持っていることになりそうです。ただ、その出発点になる「何が相手(自分)にとってうれしいことなのか」ということについての感覚が大きくずれているために、その後のやりとりがぜんぜん噛み合わなくなってしまう。お互いに相手の望むやり方は「他人行儀」になってしまうので、「親しい人」の希望に添おうと思えば、自分の自然な感覚を否定して頭で対応する風になってしまい、それは「親しい関係」を壊すように感じられてしまうという矛盾をお互いに抱え込んでしまいます。(そうするとこの矛盾の抱え方も一緒と言うことですね。中身が違うけど)

 だとすればこの矛盾にどう向き合ったらいいのかがひとつの大きなテーマなのかもしれません。


 

 

2014年1月 5日 (日)

頭の理解、気持ちの理解

 人間同士の関係で、自分にとって自然なやりかたでうまく行かないとき、とりあえず二つのやり方が思いつきます。

 ひとつは感情的になって怒ったり、悲しんだり、落ち込んだり、そうなることがあります。人間関係でそういうことになったときには、衝突した後、その結果として「雨降って地固まる」になることもあるし、対立がエスカレートしていくこともあるし、いろんな可能性があるでしょう。

 「雨降って地固まる」になれば、それは感情的にも<我慢する>とかではなく関係が修復されるわけですし、理想的なのかもしれません。ただ、現実にはお互いにあまりに違いすぎて、「地固まる」どころか「土砂崩れ」になることもあるわけで、感情的にぶつかりあって問題が解決するようなことはそう簡単に期待できないことのような気もします。

 もうひとつのやりかたは、とりあえず感情的にならないように努力して、「なんでこうなるのか」を頭で、理屈で理解しようとすることだと思います。感情的な対立は、相手の「気持ちの理解」にお互いに失敗して、自覚しない形で傷ついたり傷つけたりすることから起こるのでしょうから、「気持ちの理解」に見切りをつけて、「頭で理解する」かたちに切り換えるやりかたです。

 脳科学で理解する、というやりかたなども、相手の人の気持ちを理解するのではなくて、脳の生理的な仕組みで理解するというやりかたになります。そのやり方から出てくる対処の仕方は、やっぱり「気持ちを理解して調整する」やりかたではなくて、たとえば薬で脳の働きを変える、といったような「物理的」な対処になるのでしょう。

 アスペの方が人間関係を感情抜きに理屈で理解されようとすることが多い理由は、ひとつには「感情的な理解が苦手」という見方も出来るでしょう。けれど、あまりに定型的な感情のやりとりの仕方がアスペの方からは「不自然」で理解しがたいので、早々にそれには見切りをつけて、「頭での理解」に切り換えられている、という風にも考えられそうです。

 そういう意味で、アスペの方は脳科学のように「科学者」みたいな理解の仕方が得意になるのかもしれない。他方で定型の方は日常のやりとりが「気持ちの理解」を重視する形で成り立っていて、そこで生きているし、定型同士それである程度は理解できます(もちろん文化が違ったりすると、それもそう簡単ではありませんが)。だからそのやりかたにこだわって生きる。

 そこに定型アスペ間で「問題が起こったときにどうやって解決しようとするか」のズレが生まれてくる。まあ、今までしつこく何度も書いてきたことをまた改めてひとつの筋にして整理してみようとしているわけですが(こういうのが、パートナーに言わせると「パンダの文章はくどい」というところかもしれません……(^ ^;)ゞ )。

 そうすると、「頭の理解」という形で定型アスペがやりとりをすれば、なんとか共通の理解がしやすくなるのかもしれません。けれどもそれだと少なくとも定型の側は「気持ち」の問題が取り残されてしまって、ちょっと辛いことになるようにも思えます。

 その問題を解決しようと思えば、今私が考えられるやり方としては、定型アスペ間ではどうやったって「気持ちの問題」は解決しようがないと見切りをつけて、そこは「我慢」するか、あるいは関係に見切りをつけてしまうか(別れるとか)、というやり方がまずひとつ考えられます。我慢も関係の解消もいやなら、「気持ちの問題」は定型同士の関係で解消する方法を考えて、パートナーとの間ではそこは基本的に持ち出さないことにする、というやりかたもあるのかもしれません。

 あるいは納豆さんとアスペルガールさんのやりとりの中でも出てきたと思いますが、自分の気持ちの持ち方を「悟り」のような形で変えてしまう、という道もあるのでしょう。

 で、私の場合、定型的な「気持ちの理解」でもなく、アスペの方が比較的得意とされているように見える「頭での理解」だけでもなく、言ってみれば「頭を使って気持ちを理解する」みたいな方法がないものか、ということにこだわっているのかなと思います。

 それって具体的にはどういうことなのか?と問われると、まだうまく説明できそうにありません。今のところ言えるのは、定型の側からは「アスペの方って、こういう感じ方や見方でこんな風に生きているんじゃないかな」ということを「想像する」ことでしょうか。そしてほんとにそうかどうか、アスペの方に尋ねてみて、「ああそうだよね」と言ってもらえるような想像力が働くようになれば、「頭を使って気持ちを理解した」ことに近いかなと思います。

 ただ、そう言っても、それもやっぱり「気持ちの理解」へのこだわりだと考えれば、定型の側はそうすることに意味を感じたとしても、アスペの方の側にはあまり意味がないことなのかもしれませんし、そこもまだよくわからないままです。よくわからないんだけど、定型の側から、自分の特徴を殺してしまうことなくアスペの方たちに歩み寄ろうとすれば、そういうやり方がひとつの現実的な方法としてありうるのかなと思います。

 じゃあアスペの方の側から定型に歩み寄るのはどういう方法がいいのか。まあアスペの方の場合、常にこの世の中で生きるということは、「定型のやり方」を無理にでも身につけなければならない状況を生きられることでしょうから、すでにもうかなりそこは「歩み寄り」の努力をさせられ続けているのかもしれません。そこのところ、お互いの「歩み寄り」をどんなバランスで追求するのがいいか、ということも問題になりそうです。

 いずれにせよ、定型がアスペの方に歩み寄るやりかたと、アスペの方が定型に歩み寄るやりかたと、それは必ずしも一緒でなくてもいいのかもしれないですね。それぞれが自分の特徴を活かしながら歩み寄る道を探ることがむしろ大切なのかも。山に登るときにルートはいくつかあって、同じルートを歩まなくても、同じ頂上を目指していればいい、みたいな感じでしょうか。(でもこう書くと、「一緒に歩きたい」という気持ちがわき起こったりするからまたちょっとやっかいですが……)

 うーん、新年早々、またまとまらない話になってしまったみたいです。なんか考えるべき事は次から次に出てくる感じですね。一筋縄ではいきません。

 

 

2014年1月 1日 (水)

新春です

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sun 新年あけましておめでとうございます sun

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 旧年中はいろいろとありがとうございました。
 本年もまたどうぞよろしくお願いいたします。
 今年がみなさまにとって、
            よい年でありますように!
                 2014年元旦

Panda_2
 

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