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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年12月30日 (月)

来年の課題?

 ばたばたしているうちにほんとにもう年が押し詰まってしまいました。来年はまた少しずつでも次の一歩が見えてくるといいですね。

 

晴子さんが寄せてくださっているコメントで、自分自身の経験と重ね合わせてみて、「ああ、やっぱりそういう形のズレが生まれるんだ!」ととても納得(?)したことがありました。

 「彼は、おごるのは親しくない人、外部の人で、晴子は身内だからワリカンと言いました。??」

 納豆さんが書かれているように、男性がおごるというカップルのスタイルについては、定型の中でもいろんな考え方があるように思うので、「ワリカン」=「アスペ」、「おごる」=「定型」、という話にはならないと思いますが、「なるほど!」と思ったのは、「身内はワリカン、外部の人はおごる」という彼の発想と、「恋人だからこそ特別扱いでおごる、それ以外の<普通の関係>の人とはワリカン」という晴子さんの発想が、全く正反対になっていて、そのことがお互いに理解できなくて、そのことに晴子さんはとても傷つかれている(し、多分彼も訳が分からず混乱している)、ということです。

 これは私の勝手な想像ですが、多分彼の考え方は、「人は本来それぞれ別々の人間で、大事な人にたいする思い遣りは、相手の人を最大限尊重して、その人のものはその人のもの、ということを大事にしあうことだ。世の中でそういう自分と相手の区別を無視したような、おごるということがあるし、それは<世の中のしきたり>だから仕方なく自分も自分の素直な気持ちに反してそうしているけれど、本当に大事な晴子さんとの関係では、そんな<他人行儀>の関係はいやだ。素直な自分でお互いに大事にしあいたい。」ということではないでしょうか。


 私がどうしてそういう想像をするかというと、私が「これが親しい関係のやり方」と思うやり方をパートナーに説明すると、彼女が「それは仕事の関係とか、外ですることだ」と言うことがわりに多いんです。で、逆に私が「これは親しくない関係の(つきはなしたような)やり方だ」と感じるやり方が彼女にとっては「相手に余計な気を遣わなくて済む、ほんとうに親しい関係でできること」と感じているらしい。

 晴子さんと相手の方の問題も、ちょうどそのパターンと同じと感じたんですね。晴子さんにとっては「身内だからワリカン」というのは、本当に想像もしなかったような考え方、感じ方で、まさに「??」だったんだと思うんです。なにしろお互いの常識が全く正反対なわけですから。

 
 ああ、そんな風に考えてみると、定型アスペのカップルが結婚したときに定型女性の方が「結婚したら全然プレゼントとかしてくれなくなって、<釣った魚には餌をやらない>になってしまった」とショックを受ける話をいくつか読みましたけれど、そのことの意味ももうひとつ私には分かりやすくなりました。

 そういう展開になるカップルの場合、アスペの男性は「恋人に対してはこうやって接するべきだ」というような「社会の習わし」みたいなものを学んで一生懸命プレゼントをしたりする。で、その結果「結婚」というゴールに到達したら、そしたらもうお互いに不必要な気遣いをせずに、素の自分でいられる「家族」になったから、そんな「学んで無理に頑張ってやっていた社会の習わし」を続けることはもう「他人行儀」で変だと感じられるんではないでしょうか。だから「親しさ」の表れとして、気を遣わなくなる。で、定型の側はそれで「もうこの人は自分のためにいろいろ考えてくれなくなった=冷たくなった」とショックを受ける。アスペの方の側はなんで定型の側がショックを受けるのかが全然分からない。「もう家族なんでしょう?なんで他人行儀にしなければならないの?」と不思議になる。

 もしこの想像がある程度当たっているとすれば、晴子さんの相手の方も「恋人にはこう振る舞わなければならない」という「知識」として「おごる」ということが理解されれば(そしてほんとに「これが世の中のしきたりなんだな」と彼が思えれば)、そうされる可能性が高いように思います。でもそれはあくまで「他人行儀」なわけですから、たとえば結婚されたらもうそうしなくなる可能性があるわけでしょう。


 我が家でもこの「何が相手を大事に考えることなのか」とか、「親しい関係はどういうことをする関係なのか」についての感じ方が正反対、という問題がだんだんいろいろな場面で見えてきて、さてこの矛盾をどうしたらいいんだろう、というのが大きな課題になっています。なにしろ「お互いの感じ方が正反対」ということは頭では理解できたとしても、少なくともすぐには「こういうやりかたに親しみ(または冷たさ)を感じる」という、その根深い感覚自体はお互いに変わらないわけですから、そのままだとやっぱりお互いに「無理に我慢して相手に合わせる」という形になってしまうでしょう。


 うーん、定型にとっては「思い遣りに欠けた、突き放したような冷たいやり方」と感じられるものを、アスペの方は「相手を尊重するからそうする」とか、「親しいからこそ気を遣わないで素で生きる」と考えられているのだとして、アスペの方が「定型はこういうやり方を望んでいる」と「知識」として知ったとしても、じゃあアスペの方がそういうやり方を自分のパートナーとしたいと思えるかというと、やっぱりそうじゃないんですよね。私のパートナーがそうなんだけど、そんなやり方は相手との距離を離してしまう(家族でなくなってしまう)ことだと感じて、とても抵抗感があるらしい。やっぱり定型だけではなく、アスペの方も「これが親しい関係」ということについての自分の感覚は、そう簡単に変わるものではないんでしょう。まあ当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが……

 つまり、何が言いたいかというと、具体的なやり方については全く正反対で矛盾している関係の中で、それでも「親しい関係をこわしたくない」というところではお互いに同じなわけです。そうすると、その気持ちをある程度実感として感じあえて、そのことに二人が大事な価値を感じられるかどうか、ということはひとつの大きな分かれ目になりそうな気がします。それを足がかりに、その次のステップが見えてこないかどうか。ちょっと来年の課題かも。

 
 ではみなさま、よいお正月をお迎え下さい。

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コメント

>定型アスペのカップルが結婚したときに定型女性の方が「結婚したら全然プレゼントとかしてくれなくなって、<釣った魚には餌をやらない>になってしまった」とショックを受ける話をいくつか読みました。

これはそうゆう傾向があるんだと思います。
私はそうではないですが、
ASの「こだわり」の1つなのかもしれませんし、
そうでないのかもしれません。

何故かなぁ?少し考えてみます~☆彡

何となく原因が分かったので追記させて頂きます。

以前にパンダさんと話ましたよね、「罪悪感」について。

それと同じようなことなのだと思います。
少しでも伝われば良いですが・・・・・・

http://www.trendmental.com/asperger/asperger014.html
※リンク沢山貼ってしまってすいません。
  絡み合いがある為、こちらに書くよりも分かりやすいと思いました。

トマトです。

パンダさんちで、今年も沢山の学びや経験がありました。

私の職場にAS男性の人が居て、その人はお客様との接触が少ない課に異動になったのですが、その後任に来た男性が「入社試験では抜群の成績だったけれども・・・」というエピソードで、前任者よりも混乱の多い新人さんです。
高学歴で新卒で、ASについては未診断です。

が・・・職場の上司や職員が前任者との接遇の経験があるので「あいまいな指示をしない」「挨拶を徹底させる」「細かなチェック項目の報告書を書かせる」「腹を立てるより、フォローに動け」など、様々な工夫をしながら研修期間を指導しています。

では・・職場の定型がAS(的な人)に馴染んだのか・・・というと、「頭では理解しようとして精一杯理性的に接するが、少しでも気を抜いてニュアンスで伝えると、思わぬ事態になるので、彼ルールにのっとって一から十まで言葉をハショルことなく言わなくてはならない。こちらが覚えて欲しい事をすぐに忘れる。だから非常に疲れる」
という状態です。

これは、ASの人の日常感覚そのままかも知れません。
定型流を理解すれば、その分、そぐう自分を意識して演出しようとして、とても疲れるでしょう。

理解はゴールではなく、スタートですね。

理解に感情が追いつかないから、納得やリラックスや喜びの維持ができないしんどさ。

頭の理解と心の理解の距離。
日常生活で相手へのリアクションが、自然にラクに出来る様になるには、どうすれば良いのでしょう。

そんなこんなで、今年もあとわずか・・・。

来年も素敵な出会いがありますように。
よいお年を。


トマトさん

>理解はゴールではなく、スタートですね。理解に感情が追いつかないから、納得やリラックスや喜びの維持ができないしんどさ。頭の理解と心の理解の距離。日常生活で相手へのリアクションが、自然にラクに出来る様になるには、どうすれば良いのでしょう。

 本当に同感です。ひとつにはある種の宗教的悟りの世界、みたいなことがあるんだろうと思いますが、私のように悟りの世界にはほど遠い俗人にも可能な工夫がないものだろうかと、うじうじ考えてしまいます (^ ^;)ゞ

 来年もまたどうぞよろしくお願いします m(_ _)m

謹賀新年

パンダさん、みなさん、昨年はお世話になり、ありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。

パンダさん、丁寧なアドバイスをいただき、感謝しています。

パンダさんも経験されているように、親しいからこそ特別扱いをされないということなのですね。とても納得できました!それで決着がついたとかすべてうまくいくわけではないですけど、そういう事実を知らない状態よりだいぶ楽になれる気がしました。
方法は違っていても見ている方向は同じというのは、とても画期的で希望がわく考え方だと思いました。
柔軟にものごとを見て、それが難なくできるようになればもうちょっと進歩できそうなので目標にします。ありがとうございます。

晴子さん

>そういう事実を知らない状態よりだいぶ楽になれる気がしました。

 私の手探りの理解が、少しでもお役に立てたのならうれしいです。
 もちろん私のそういう理解の仕方でどこまで問題に対応できるのかはわかりませんが、
 少なくともそんな理解をしてみることで、晴子さんのように
 「知らない状態よりだいぶ楽になれる」感じが生まれることはあるのですね。
 なんというか、自分がぶつかっている問題に改めて向き合ってみるための
 気持ちのクッションができるというか……

 つまり、そこでようやくお互いにひとつの「出発点」に立てるようになる、
 ということなのかもしれません。

 じゃあ、出発した後どうするのか、それはまた今後の課題ですよね。
 なんか、ようやく皆さんと「入り口」が共有されはじめたのかも。
 その先はなんとも手探りですけれど。

アスペルガールさん

 こちらの方にお返事をしそこなっていました。

>以前にパンダさんと話ましたよね、「罪悪感」について。それと同じようなことなのだと思います。 

 ということで、リンク先も拝見しました。
 罪悪感というのは、「相手が喜ぶやりかたを見つけて、自分の本当の気持ちとは
 違うんだけど、頭で計算して相手にあわせてやってあげる」ということが、
 「相手を操っている」ような気がして罪悪感が生まれる、
 というようなことでよかったでしょうか。

 それで、今回の「釣った魚には……」の話についても、
 恋愛関係の時には「恋人同士はこうやる」という「頭での理解」で
 「餌をやる」のだけれど、それは自分の自然な気持ちではなくて、
 結婚して自分の自然な気持ちで対応するようになると、
 「餌をやらない」ことになる、
 だからそれは見方によっては「相手を操っている」ことになって、
 そういうのは罪悪感を感じさせるものがある……

 そんな意味でしたら、ああなるほどと思いました。
 ずれてたらまた教えてください m(_ _)m

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