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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年12月17日 (火)

「切り捨て」か「切り分け」か

 ことばによるやりとりが「感情の共有や調整」の意味をどの程度持つのか、ということでアスペ定型間にズレがあるのだろう、という話をこのところ続けています。関連して今日はパートナーとの間でこんなやりとりがありました。

 今日もちょっと彼女の言い方でショックを受けることがあって、そのことを伝えたんですが、以前の彼女とならそこで話がまったく通じないまま、さらにお互いがショックを受けて終わるようなことが多かったように思うところ、最近は私が落ち込んでいるのを見ると、むしろ彼女の方が積極的に「どうしてそういうふうに受け取るの?」ということを理解しようとしてくれ、また自分はどうしてそういう言い方をするのかをなんとか説明してくれようとします。私がしつこく繰り返している「ズレを理解する」ということをしてくれようとしているんですね。

 それで、今日も私には彼女との間のズレ方がまた少し見えてくるように思えて、そのことは嬉しかったわけです。それでふと思って「僕はこうやって話をして理解が進んで、それが共有されて嬉しく思うんだけど、○○さんはどうなの?」と聞いてみました。そうするとやっぱり、というべきか「別にそのことで自分の感情が動くことはない」という答えでした。

 なにかお互いの間にトラブルがあって、話し合ってみたらなんとかお互いの「誤解」が見えてきて、そうやって「理解」が共有されれば、定型同士の場合なら「ああよかったね!」という感じでその場で喜び合うことも少なくないと思います。お互いに「ようやく私の気持ちを分かってもらえた」とか「あなたの気持ちが分かった」ということでほっとしたり、また嬉しかったり、内容によってはすごく支えられる気持ちになったり、そして絆が回復されたり強まったりするように感じる、というのが定型的なパターンだと思うのですが、彼女との間ではそうならない。

 「じゃあなんで話をするの?」というようなことを尋ねてみると、彼女は「パンダがズレを理解しようとしているから」と言うので、私はまたちょっとショックを受けて、「じゃあ、○○さんには意味が無いわけ?」と聞くと「意味がなかったらこんな風に自分から説明したり質問したりしないでしょう」と言われました。まあ、たしかにそう言われればそうでしょう。でも「パンダがズレを理解しようとしているから」という言い方は、私には「これはパンダの自己満足のためにつきあってあげていることで、私には関係がない、サービスだ」というふうに聞こえてしまうので、ショックなのですね。

 もしかすると定型的に翻訳すると、「パンダがズレを理解しようとしているし、自分もそのことは意味があることだと感じるから」ということを彼女は言っていたのかもしれません。けれども実際に出てくる言葉は「パンダがズレを理解しようとしているから」という、定型的な感覚からすれば「突き放したような」感じの言い方になって、「二人にとって意味がある」という表現にならないんです。

 うん、そうですね。実際には彼女が私の重ねての質問に「自分にも意味がある」と答えてくれたように、「二人にとって意味がある」状態なんだと思うんだけど、それを表現するときにはそこが強調されることなく、「あなたにとって意味がある(から自分もそうしてるのに、なんで文句をいわれなければならないのかわからない)」という形で「あなたの問題」と「私の問題」をすごく切り分けた表現になるんじゃないでしょうか。それが定型から見ると、すごく突き放された、あるいは切り捨てられたような言い方に聞こえてしまう。「それはあなたの問題でしょう?私になんの関係があるの?」と言っているように聞こえてしまうんです。

 でも実際彼女の感覚としては多分「切り捨て」でなく、「切り分け」なんでしょう。だから「切り分け」た上で、改めて私に対して質問をしてくれるわけです。(ただ、その質問の仕方がまた定型的にはショックをうけるような表現だったりするので、ややこしくなるのですが、そこについてはまた日を改めて)。ただ、そこで「わかり合う喜び」という感情が湧いてくるわけではない。ただ「自分が分からなくて困っていることがひとつ理解できた」という「彼女の中での事実」に留まる感じがします。それが結果として、長期的に見れば、お互いの絆を深めている意味もあるのではないかとは思いますが、でも少なくとも「その場で」ということはないんですね。

 そんなこんなを考えてみると、今まで私にはほんとに謎の謎でしかなかった、「なんでアスペの人の発言はこんなに定型にはショックを与えるんだろう?」ということの理由が、少し分かり始める気がします。

 

 

 

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コメント

トマトです。

定型同士でもあることなのですが「そんな言い方ってないでしよ」「身もふたもない言い方するね」という印象問題って、コミュニケーションには大きいですよね。

パンダさんの奥様からの「それはあなたがズレを理解しようとしているから」という内容の言葉も、顔や声に、優しさを込めたり、甘えたり茶目っ気などの表情を付ければ、きっとパンダさんはショックにはならず嬉しかったりリラックスになりますよね。

感覚や理解の違いに表現の違いが二重に重なることが、さらなる混乱や誤解やショックや怒りなどマイナス要因を誘う原因だと感じます。

以前に、ASの女性のコメントで「職場でもっと笑顔を・・と言われて、ロッカーの鏡で笑顔を作り確認して他の社員やお客様の前に出た。夕方、帰りの地下鉄の車窓にニッコリ笑ったままの自分の顔が映っていて、朝から一日中、この顔で居たのかと思った」という内容がありました。

定型は「顔で笑って心で泣いて」という、表情や表現のとりつくろいが、良い意味でも悪い意味でも自然に出来てしまうので、無表情とか素っ気ない言い方とかに非常なストレスを感じてしまいます。
でも、ASの人にはそのコントロールが難しい人も多い。

AS同士、定型同士で生ずる、慣れ・あきらめ・割り切りが、どうしてASと定型の間では生じないのか・・これはきっと感覚の違い+表現の違い 程度ではなく 感覚の違い×理解の違い×表現の違い くらい違いが増幅されるから、ではないかなぁと思うのです。


◇定型発達の方にお伺いしたいこと

このトマトさんが書いて下さったこの一文なのですが・・・
(トマトさん、文章を引用させて頂きありがとうございます。)

  定型は「顔で笑って心で泣いて」という、
  表情や表現のとりつくろいが、
  良い意味でも悪い意味でも自然に出来てしまう

これは、どのくらいの精度で取り繕えますか?
えっと、人に気付かれずに取り繕えた成功度はどのくらいですか?

変な質問の仕方をしていたらすいません。

私は定型発達の女性の集まりで、
私だけ、どなたかの体調等の違和感に気づく事が多々ありました。

もしかしたら、認知の仕方が違うのかもしれません。
勘違いかもしれませんが確かめておきたいのでお願い申し上げます。

ペコリ

トマトです。

アスペルガールさんの
「私は定型発達の女性の集まりで、私だけ、どなたかの体調等の違和感に気づく事が多々ありました。」
これは、すごいですね。定型から見たらはエスパーレベルの感知力でしょう。

表情や仕草などのとりつくろいの「精度」を聞かれると「その都度・人それぞれ」としか答えようがないのですが。
精度としては、相手が判定することなので、自分が完璧だと思っていても案外バレてたりすることもあるでしょう。

私は「いつも楽しそうに仕事をしている」「悩みなんかなさそう」「失敗しても立ち直りが強い」とよく言われます。疲れていたり悩んでいても、それを他者に感じさせまいという意識が染み付いているのかも知れません。
自分がどんよりしていると、周囲もいやな気持ちになるという思い込みの強さゆえですね。
それを「プロフェッショナルな姿勢だ」と言う人も入れば「そこまで無理しなくても」という人も居ます。

でも、四六時中、一瞬の間もなく取り繕っているのではなく、必要に応じて取り繕い機能が、考える前に作動しているという感じなので「ここからここまで取り繕った」という範囲は自覚しづらいと思います。
定型にとって「とりつくろい」の強弱は、意識的な場面もあるし無意識のまましていることも多いので、改めて聞かれると、とても曖昧な行動だと気がつきました。

「とりつくろう」というのは定型にとって必須の「社会性」だと思うんです。

でも、過去に全盲の知人とオーディオルームに居て、私はその人の2メートルほど後ろに座って部屋中に響く音で音楽を聴いていたのですが、好みでない楽曲が流れて来たのでふと関心がとぎれて、身体は動かさず視線だけ向の窓の外の風景に移した時
「トマトさん、たいくつしてる?」と、背中をむけたままの全盲の知人に聞かれ「なっ・・・なぜ、解ったんだ!」と驚愕したことがありました。
ですから、この盲目の知人には、表情や声色などのとりつくろいは通用しないんですよね。
 
アスペルガールさんの感知力も、どこかの能力が突出してセンサーのように高感度になられているのでしょうね。
なんだか、的を射た答えになってなくて、すみません。

◇トマト さま

早速のご返信ありがとうございました。
とても分かりやすい回答で役立ちました!

私にはLD的な部分がありまして、文字が苦手で、
読書しだしたのも最近、学校の教科書を読んだ記憶もあまりないです。

そんな私が思うのは、アスぺが感情の伝わり問題で苦しんだ時、

早期に言葉を扱えているタイプは、言葉で考えるようになるが、
早期に言葉を扱えなかったタイプは、言葉でもなく、感情でもなく、
もう少し人の心の深い部分を見るようになるのではと。

五感の一部が欠けた人が、
それを補うべく、他の感覚機能が研ぎ澄まされるように、
私も何か違う部分が研ぎ澄まされているような気がしています。

もちろん、これは勘違いかもしれません(._.)


と、少し文章引用させて頂きまして質問があります。

>自分がどんよりしていると、周囲もいやな気持ちになるという思い込みの強さゆえですね。

そうですね、トマトさんも、
納豆さん、パンダさんも、そこらへんを重視されているような気がします。
いつもありがとうございます。

そして、私もこの法則を知っています。
でも、これは法則ではなく、暗黙の了解なんでしょうね、きっと。

自分がいるコミュニティの空気を明るくする法則みたいなものが自分の中ありまして、
それは、やっぱりトマトさんが日々されていることでもあります。

1人明るい人が存在するだけで、
そのコミュニティの雰囲気は、冬と春ほど変化してきます。

私の取り繕いに関する理解が間違っていれば教えて欲しいと思いつつ、
お伺いしたいことが2つありまして、

 1)トマトさんはこの気遣いにどのくらい疲労しますか?

 2)例えば、小学生中学生の時よりも、
   または年々、気遣いに疲れることが減ってきていますか?

知りたいのは、昔は意図的であった気遣いも、
年々繰り返し習慣化することによって、無意識的に処理しつつあり、
それと同時に、気遣い疲れも減っているかどうかです。

お忙しかったり面倒だったりすれば、
スルーしてくださーい☆彡

トマトです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
早期に言葉を扱えているタイプは、言葉で考えるようになるが、
早期に言葉を扱えなかったタイプは、言葉でもなく、感情でもなく、
もう少し人の心の深い部分を見るようになるのではと。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このコメント、とても納得です。こういう人、思い当たります。

アスペルガールさんのご質問
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1)トマトさんはこの気遣いにどのくらい疲労しますか?
2)例えば、小学生中学生の時よりも、
   または年々、気遣いに疲れることが減ってきていますか?
知りたいのは、昔は意図的であった気遣いも、年々繰り返し習慣化することによって
無意識的に処理しつつあり、それと同時に、気遣い疲れも減っているかどうかです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1)全く気遣い疲労しない時と、独りになって「はぁ〜」とぐったりする時と、相手やテーマ  によりけりで疲労感が様々に違うのです。

2)自分時系列を考えると、私は一人っ子で、家庭の中で気遣いという能力をつけずに保育園に 入園してずいぶん「暴れん坊の我がままっ子」という存在でした。
 小学生に入ると、気遣いの種類の中でも得意不得意の凸凹が激しく、不得意な「おやつを分け てあげる」「荷物を持ってあげる」などは、まるで猿真似感覚で、心中かなりぎこちなく行動 化してました。

それが・・・なんだか10代、20代と停滞期がありまして(自己中でなまいき盛りと申しますか)、自然に出来る様になったのが、出産以降。さらに40代から俄然、積極的に出来出しましたね。ですから、50歳代の今では、行動にすぐ移せる気遣いの種類が増えて(明らかに困っている様子の人に「どうかされましたか」と声をかけたり)それらには疲労感はありませんね。

まさしく『昔は意図的であった気遣いも、年々繰り返し習慣化することによって、無意識的に処理しつつあり、それと同時に、気遣い疲れも減っている』です。

ただ・・自分で「気遣い出来た・気遣った」と思ったことも、相手や第三者から見たら「ズレてる」「あれは気遣ったことになってなかった」という判定かも知れません。
それと、「不得意な気遣い」という種類もあると思うので(自分が接したことの無い専門分野の人に気遣いの仕方が解らない、ASの人への勘違いの気遣いなど)
一言に「気遣い」と言っても、なかなか奥が深いなぁ・・・・と

アスペルガールさんとのやりとりで発見しました。


◇トマト さま

とっても丁寧な、ご返信をありがとうございました。

私は、20代前半までは、コミュニケーションで難題を抱えていましたが、年々それらは意図的でなく、無意識的に出来るようになっている感覚もあり、定型発達の方にも確認してみたかったのです。

定型の方も、気遣いの疲労はありますよね。だから、やはり疲労を感じても人と関わりたいか、そうでないかというのがアスぺと定型の違いなのだと改めて思いました。

気遣いに関する、相手や第三者から見たら「ズレ」は、私としては有って当然という感覚です。なので、トマトさんも、あまり気にしなくてもと思いましたー

トマトさんは、きっと色々考えて分かりやすく文章を書いて下さったのだと思います。
ありがとうございました(。・v・。)


>このコメント、とても納得です。こういう人、思い当たります。

そうなんですね!
貴重なデータとさせて頂きます~☆彡

母によく「突き放す言い方はよくない」「身も蓋もない言い方は傷つくからやめて」と
言われてきたのですが、私自身は何が問題なのか全く理解できずにいました。
私にはよくわからないことで責められてショックを受け、
なんとかしようとは思ったのですが、
そもそもよくわからないのにどうにかできる訳がないので結局負の無限ループ、と。
本当に笑えませんね。

こうして目に見える形で説明してくださったことで、
なぜそんなことを言われていたのかやっとわかりました…
なんでこんな簡単なこと、わからなかったんだ
深夜なのに涙腺決壊ですよ。もう、ほんといやだ。
でも、いざ実践しようとするとうまくいかないんだろうな。

そしてやっぱり、私は「普通」に強い憧れを持っていたんだなあ…
という気持ちでいっぱいです。
悔しいわ情けないわで、私の人生って一体なんなんだろう…と
若干抜け殻っぽくなりました。
常々「人生に無駄はない」と思うようにしている私ですが、流石にショック受けました。
頭ではわかっているんです、この気づきがあるから無駄じゃない、とは。
でも、できることなら粉みじんのまま穴掘って地中深くに埋まりたい。
ああ、普通の人になりたい…

幸い母との仲は障害がわかる前より良好なので、
それを支えにしつつとりあえず今年も親孝行頑張ります。

七誌さん

 私の理解で七誌さんがご自分のことについて理解が深まったということは
 嬉しいことである反面、それが七誌さんにはショックでもあると言うことについては
 なんと申し上げたらいいのか分かりません。
 
 私も定型の中では変わり者の部類で、家庭環境もその原因に大きかったのですが、
 「ああ、自分の常識は普通じゃないんだ」と気がついたのがほんとに大人になって
 随分してからのことでした。
 かといって、それまで自分が作り上げてきた自分がころっと変わるわけでもなく、 
 その「変わり者」故にお役に立っている部分も感じるものですから、
 そこはある程度開き直って、「他の人にはできないことをやる」
 という姿勢を持ってきていますが、まあ大変ではあります。

 パートナーは彼女のアスペ的な性格が仕事にあっているところがあって、
 私から見ていても上手にやっているなあと思えたりします。
 
 世の中ほんとに色んな人がいるので、 
 それぞれの人の特色を活かした生き方が見つけられられたらいいなと
 そんなことをよく思います。

 地中深くに埋まらないで、地に足をつけて一歩ずつ踏み出されると
 いいなあと勝手に思ってしまいます。

 お母さんとのこと、よかったですね。少しでも理解が進んで。

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