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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年12月

2013年12月30日 (月)

来年の課題?

 ばたばたしているうちにほんとにもう年が押し詰まってしまいました。来年はまた少しずつでも次の一歩が見えてくるといいですね。

 

晴子さんが寄せてくださっているコメントで、自分自身の経験と重ね合わせてみて、「ああ、やっぱりそういう形のズレが生まれるんだ!」ととても納得(?)したことがありました。

 「彼は、おごるのは親しくない人、外部の人で、晴子は身内だからワリカンと言いました。??」

 納豆さんが書かれているように、男性がおごるというカップルのスタイルについては、定型の中でもいろんな考え方があるように思うので、「ワリカン」=「アスペ」、「おごる」=「定型」、という話にはならないと思いますが、「なるほど!」と思ったのは、「身内はワリカン、外部の人はおごる」という彼の発想と、「恋人だからこそ特別扱いでおごる、それ以外の<普通の関係>の人とはワリカン」という晴子さんの発想が、全く正反対になっていて、そのことがお互いに理解できなくて、そのことに晴子さんはとても傷つかれている(し、多分彼も訳が分からず混乱している)、ということです。

 これは私の勝手な想像ですが、多分彼の考え方は、「人は本来それぞれ別々の人間で、大事な人にたいする思い遣りは、相手の人を最大限尊重して、その人のものはその人のもの、ということを大事にしあうことだ。世の中でそういう自分と相手の区別を無視したような、おごるということがあるし、それは<世の中のしきたり>だから仕方なく自分も自分の素直な気持ちに反してそうしているけれど、本当に大事な晴子さんとの関係では、そんな<他人行儀>の関係はいやだ。素直な自分でお互いに大事にしあいたい。」ということではないでしょうか。


 私がどうしてそういう想像をするかというと、私が「これが親しい関係のやり方」と思うやり方をパートナーに説明すると、彼女が「それは仕事の関係とか、外ですることだ」と言うことがわりに多いんです。で、逆に私が「これは親しくない関係の(つきはなしたような)やり方だ」と感じるやり方が彼女にとっては「相手に余計な気を遣わなくて済む、ほんとうに親しい関係でできること」と感じているらしい。

 晴子さんと相手の方の問題も、ちょうどそのパターンと同じと感じたんですね。晴子さんにとっては「身内だからワリカン」というのは、本当に想像もしなかったような考え方、感じ方で、まさに「??」だったんだと思うんです。なにしろお互いの常識が全く正反対なわけですから。

 
 ああ、そんな風に考えてみると、定型アスペのカップルが結婚したときに定型女性の方が「結婚したら全然プレゼントとかしてくれなくなって、<釣った魚には餌をやらない>になってしまった」とショックを受ける話をいくつか読みましたけれど、そのことの意味ももうひとつ私には分かりやすくなりました。

 そういう展開になるカップルの場合、アスペの男性は「恋人に対してはこうやって接するべきだ」というような「社会の習わし」みたいなものを学んで一生懸命プレゼントをしたりする。で、その結果「結婚」というゴールに到達したら、そしたらもうお互いに不必要な気遣いをせずに、素の自分でいられる「家族」になったから、そんな「学んで無理に頑張ってやっていた社会の習わし」を続けることはもう「他人行儀」で変だと感じられるんではないでしょうか。だから「親しさ」の表れとして、気を遣わなくなる。で、定型の側はそれで「もうこの人は自分のためにいろいろ考えてくれなくなった=冷たくなった」とショックを受ける。アスペの方の側はなんで定型の側がショックを受けるのかが全然分からない。「もう家族なんでしょう?なんで他人行儀にしなければならないの?」と不思議になる。

 もしこの想像がある程度当たっているとすれば、晴子さんの相手の方も「恋人にはこう振る舞わなければならない」という「知識」として「おごる」ということが理解されれば(そしてほんとに「これが世の中のしきたりなんだな」と彼が思えれば)、そうされる可能性が高いように思います。でもそれはあくまで「他人行儀」なわけですから、たとえば結婚されたらもうそうしなくなる可能性があるわけでしょう。


 我が家でもこの「何が相手を大事に考えることなのか」とか、「親しい関係はどういうことをする関係なのか」についての感じ方が正反対、という問題がだんだんいろいろな場面で見えてきて、さてこの矛盾をどうしたらいいんだろう、というのが大きな課題になっています。なにしろ「お互いの感じ方が正反対」ということは頭では理解できたとしても、少なくともすぐには「こういうやりかたに親しみ(または冷たさ)を感じる」という、その根深い感覚自体はお互いに変わらないわけですから、そのままだとやっぱりお互いに「無理に我慢して相手に合わせる」という形になってしまうでしょう。


 うーん、定型にとっては「思い遣りに欠けた、突き放したような冷たいやり方」と感じられるものを、アスペの方は「相手を尊重するからそうする」とか、「親しいからこそ気を遣わないで素で生きる」と考えられているのだとして、アスペの方が「定型はこういうやり方を望んでいる」と「知識」として知ったとしても、じゃあアスペの方がそういうやり方を自分のパートナーとしたいと思えるかというと、やっぱりそうじゃないんですよね。私のパートナーがそうなんだけど、そんなやり方は相手との距離を離してしまう(家族でなくなってしまう)ことだと感じて、とても抵抗感があるらしい。やっぱり定型だけではなく、アスペの方も「これが親しい関係」ということについての自分の感覚は、そう簡単に変わるものではないんでしょう。まあ当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが……

 つまり、何が言いたいかというと、具体的なやり方については全く正反対で矛盾している関係の中で、それでも「親しい関係をこわしたくない」というところではお互いに同じなわけです。そうすると、その気持ちをある程度実感として感じあえて、そのことに二人が大事な価値を感じられるかどうか、ということはひとつの大きな分かれ目になりそうな気がします。それを足がかりに、その次のステップが見えてこないかどうか。ちょっと来年の課題かも。

 
 ではみなさま、よいお正月をお迎え下さい。

2013年12月26日 (木)

波平さんの「対立」の話

 このブログで私が考えたいと思っていたことについて、すごく分かりやすく書かれている文章に出会いました。波平恵美子さんの「生きる力を探す旅」という本の一節です。ちょっと長いけどこんな感じです。文章の中の「文化」を「定型的な生き方のスタイル」とか「アスペ的な生き方のスタイル」という言葉に置き換えて読んでみて下さい。

 「私たちの生活は、実にさまざまなルールからできあがっています。……そして、それらのことはほとんど意識されない当たり前のことなのです。でも、私たちの生活がたくさんのそうした細々したルールから成り立っているということについて、ほんの一時期でも自宅へ外国からのお客さんを迎えて滞在してもらうとすぐに気づきます。外国のお客さんは、一つ一つについて、どうすればよいいのか、どういう意味か、日本語でなんというのかを聞きます。聞かれてみて初めて、自分たちにとって当たり前のことが、日本に住んでいない人には当たり前でないことに気づきます。つまり、「文化」は、その文化を学び取った人以外の人々にとっては少しも当たり前ではないのです。
 ……「文化」の、当たり前すぎて一つひとつ検討したり疑問に思ったりする必要などなく、私たちの生活を成り立たしめているルールとして働いているということが、困った問題を起こすことがあります。それは文化を異にする人びとが、日本の文化のある部分にどうしても納得できなくて説明を求めてきたとき、あるいは、その人たちの文化の中のある部分と、日本人の文化のある部分が激しく対立したとき、相手を説得したり、納得させるだけの説明が出来ないということです。当たり前であることに対して、私たちはそれが存在する理由など考えません。理論的に筋道だって、相手に説明する習慣もありません。もっと悪いことは、私たちにとって当たり前であり、それが一番良いことだと考えていることがらを、別の文化の人びとが批判することに対して、腹を立ててしまうことです。そして、相手が批判する依りどころとしている相手の文化を、逆に批判してしまうことです。そうなると、反感は増幅されて、憎しみまでうまれてしまいます。文化の一部を互いに批判し合っているうちに、その文化を担っている人間までも、批判し、否定し、憎んでしまうことになってしまいます。
 文化はルールのかたまりのようなものですが、それは少しずつ変化しています。また、多くの人がひとつのルールを「良いもの」として支持していても、必ずそれを否定し別のことを提唱している人びとが同じ日本の中にもいます。そのような変化や多様性に、注意と関心と、さらには尊敬を払うことが必要です。自分の立場と、他の立場にいる人びとの主張を常に見比べることによって、やがて自分がなぜこちらのルールが良いと考えているのか、なぜ選択しているのかが見えてくるし、わかってきます。そうなれば、互いに対立したときでも、なぜ対立しているのかを理解できるし、たとえ同調も同感もできなくても、相手を頭から否定したり憎んだりしないでしょう。」


 定型とアスペではお互いに気づかないで異なるルール(生き方のスタイル)を持っていて、それが出会うときにお互いを否定し合って、憎しみまでを生んでしまう。そこでお互いのルールのズレを理解する努力をしてみよう、というのがこのブログのひとつの考え方なわけですが、ちょうどそういう話を文化ということに関してとてもわかりやすく書かれていますよね。

 では波平さんの話の「次」に大きな問題になることは何か、ということを定型アスペ問題で考えてみると、上の文章の最後の所、つまり「そうなれば、互いに対立したときでも、なぜ対立しているかを理解できるし、たとえ同調も同感もできなくても、相手を頭から否定したり憎んだりはしないでしょう。」というふうに、なんとかなったとしても、そのことでお互いのズレから来る現実生活の「しんどさ」の部分がすっと無くなるわけではない、という問題ではないでしょうか。

 たとえば文章の中の「外国のお客さん」のように、一時的には一緒に暮らしたとしても、結局は別々に離れて、距離を取って生きられる関係なら、ある意味「余裕」がありますから、波平さんのここの文章の話でもいけると思うのですが、夫婦関係のようにほんとうに生活を一緒にし続ける、人生を共にし続けるような関係の場合には、そうそう簡単にそんな「余裕の距離」をとることができないわけです。さらにうちでもそうだったように、そこに「子育て」といった現実的な問題が絡んでくると、「お互いの立場を認め合いましょう」という話だけではどうにもならないことが起こってきます。

 その問題については、やっぱり手探りが続くのかな、と改めて思います。

 
 

2013年12月22日 (日)

現実のケアと気持ちのケア

 このブログの記事ではアスペ定型間に起こりやすい問題として、「定型の側は自分が必要とされていないと感じて悩む」ということを何度か書いてきたと思います。この点についてアスペルガールさんが刺激的でとても面白いコメントを下さっていてます。

 というのは、その定型的な悩みの持ち方について、さらに「男と女で中身が違う」という話をされているんですね。それはこんな整理のされ方です。

 「男性側がアスぺの場合は、女性側は「私に愛情を与えてくれない」と悲しくなるのに対して、女性側がアスぺの場合は、男性側は「僕に愛情を与えさせてくれない」となる」

 そうなる理由をアスペルガールさんは、男性は女性に妊娠「させる」ということに典型的に見られるように、積極的な「与える」姿勢が強いのに対して、女性は男性から妊娠「させられる」ということに典型的に見られるように、受け身的な「与えられる」姿勢が強く、だから、相手に求める愛情の形も変わってくるんだ、というふうに説明されています。

 そして男性が積極的に、女性が受け身的になる理由は、男性がもともとは次々に女性を妊娠させる可能性があって「沢山(いろんな人に)与えたい」のに(昔はかなりよく見られたし、今もイスラムの国等でもよくある「多妻制」ですね)、女性は自分の子どもを産み育てるには年単位で時間がかかるので、それを支え続けてくれるように「(一人の男性に)確実に与えられたい」というふうにその態度が変わるからと言うことです。

 ということで、男性が「与えさせて欲しい」と思い、女性は「与えて欲しい」と思い、それがうまく組み合わさると、ある意味ハッピーになるということでしょう。ところがアスペ定型間では定型の側はそういう気持ちが強いのに、アスペの方は定型が望むような形ではそれに応じられないので、そのズレでトラブルになる(と言う風にパンダは理解しました)。

 このアスペルガールさんのまとめ方で、どこまで説明ができるのか、まだちょっと私には分かりませんが、「ああ、なるほど!」と思い当たる部分があるのは確かです。

 上のような説明にもう少し私の考えを足してみるとすれば、アスペ定型間のズレの部分について、アスペの方はこの「与える」「与えられる」という関係は、結婚したり子どもが出来たりすれば、もうそれで安定した感じになってしまう(ように感じられる)のに対して、定型の側はそれ以降もずっとそういう関係を維持していくために「(定型的な)ケア」が必要なのかなあということです。

 だから定型はそういう「ケア」をし合わないと、自分がもう必要とされていないように感じるようになりやすい。これはカップルに限らず、定型同士の人間関係では常にそういう「(定型的な)ケア」をやりあっているんだと思います。もちろんアスペの方も必要なケアはされるんだけれども、私の印象ではそれはすごく「現実的」なケアで、なんか<気持ち>のケアというのとは違う感じがします。でも定型はそれを結構求めているからズレが起こる。

 そう考えると、私のパートナーは典型的にそうであるように感じますけれど、友だち関係が淡泊(に見える)で、数もすごく少なく、しかも相手の人がいつの間にか離れていっている(らしい)ということがどうして起こりやすいのかも理解できます。つまり、定型には必要な「(定型的な)ケア」について、彼女にはそれが「必要」という感覚があまりないので、相手は「自分はもう必要とされていないんだ」と感じて、なんとなく離れていくんだろう、と考えると分かりやすいんです。

 しかも、先日パートナーに聞きましたが、人間関係でいろいろ悩むのであれば一人でいた方が楽だし、それで「さびしい」という感覚も少ないというのですね。定型はそこでいろいろ悩んでも、一人だと「さびしい」という思いがあるので、「(定型的な)ケア」をしながら関係を維持しようと努力し続けるわけです。

 多分、そういう定型アスペのズレがベースにあって、そこに定型の側の男女のスタイルの違いが加わってくるのかな、という気がします。

 うーんと、そうすると、アスペの方の男女差というのはここにどう絡んでくるんでしょうね?

2013年12月18日 (水)

薬と人生のスタイル

 これは今はまだ空想の話です。

 アスペルガールさんがご自身のブログで「アスペは笑顔に伝染しない?」という面白い記事を書かれていて、そこでも紹介されていますが、今、脳科学で「その人の脳のどの部分がどんなときに活発に働いているか」ということが盛んに調べられているみたいですね。それでアスペと定型の違いを見つけて、「ここがアスペルガーの人の働きが悪い」とかそんなことを「発見」していくわけです。

 そうすると、「アスペルガーの人は、ここの脳の働きが悪いから、人と共感できず、コミュニケーションがうまく取れないんだ」という理解になってきて、「じゃあ、この部分の脳が働かないのは何でなんだろう?」という話になり、いろいろ調べていって、たとえばいちばんシンプルな答えとして「その部分を働かせるための○○という物質が不足している」ということが「発見」されるかもしれません。

 そうすると「アスペルガー<治療>の根本的な方法が発見された!」ということになって、新薬が開発され、お医者さんが「あ、アスペルガー(いや、新しい診断名では「自閉症スペクトラム」でしょうか)ですね。じゃあこのお薬を飲んで下さい。」という風に薬を処方するようになり、それで実際その薬を飲んでみると、アスペの方たちはそれまであまり感じなかったか、あるいはほとんど感じなかった他人の感情が、まるで「目が見えなかった方が手術で目が見えるようになった」ように、どんどん感じられるようになってくるかもしれません。

 鬱や統合失調についての治療が今ではそれにかなり効く薬が見つかっていて、症状を緩和する場合が多くあるように、そういうことがアスペの方の「共感(ここでは感情の伝染)の力」にも将来のいつかに起こる可能性はありますよね。

 で、ここからはそういう空想の話を前提にしてのもうちょっと現実的な話です。考えたいことは、「薬(あるいは手術とか)で定型アスペ問題はほんとうに解決するんだろうか?」ということについての疑問です。

 これまでこのブログでは、みなさんのコメントを頂きながら、あっちにいったりこっちにいったりしながら、大雑把に言うと次のような理解をしてみました。

 まず、定型アスペでは、「見えている(感じている)世界にかなりのズレがある」ということです。そうなる原因については、上に書いたような脳の働き方の違いがあるのかもしれないし、そしてそういう働き方の違いが生まれるのは、遺伝的なことが原因になっているのかもしれないし、そのほかのことが原因なのかもしれないし、そこは私には分かりません。いずれにしても、「見え方のズレ」はまちがいなくありますし、みなさんのコメントやパートナーの話を聞いていても、それはかなり小さな子ども時代からそうであるようです。ただそれがどこまで遡れるのか、生まれたときにはもうそのズレがあるのか、その可能性は高そうに思いますが、私にはなんともわかりません。

 次に、そういう「見え方(感じ方)のズレ」を前提として、アスペの方も定型も、どちらも自分の生き方のスタイルを作り上げてきていると言うことです。アスペの方は「共感的にお互いの感情を調整する」ということはせず(あるいは問題にならず)、定型世界の人間関係を観察してその「秘密」を「理屈」で理解しながら付き合い方を模索し、またそれとは違うご自身の感覚の世界を、他者との交流をあまりせずに、自分の世界として作り上げて行かれる。定型は逆に「感情的な関係調整」をベースに持ちながら人間関係を作り上げていき、ある意味ややこしい「思い遣り」や「配慮」の世界を作り、「本音」と「建前」もそこで複雑に使い分けながら集団を作って生きるスタイルを育てていく。

 そういうアスペ定型が出会って、関係が深まれば深まるほど、お互いの生きるスタイルの違いに戸惑うことになります。まずはスタイルが噛み合わないので、議論しようとしてもそれがうまく噛み合わない。そしてその前提として「見え方(感じ方)のズレ」があることにはますます気がつけないので、「同じ物を見ている(と思いこんでいる)のになんで通じないのか?」がどうしても理解できない。そうやって不毛の対立が起こり、関係を調整しようとすればするほど、逆にズレがひどくなって精神的にもぼろぼろになってしまうことが起こる。多数派の定型は「私が正しい」という思いで逃げ道を見つけることも比較的しやすい立場でしょうが、アスペの方はそこで多数派から常に否定され続けるので、ますます「他の人には決して理解されない私の世界」を必死で守ろうとされ、多数派との付き合いには疲労困憊して「社会的不適応」状態に成りやすい。(家庭という閉じられた世界では、女性が定型の場合、そういう「力関係」に逆転が起こることもあり得ますので、その場合は結果が逆になるかもしれません)

 そういう状況でアスペの方に「特効薬」が提供され、脳の働きが変わってどんどん他者の感情が自分の中に伝わってくるようになったとします。そうすると何が起こるでしょうか。いくつかそのことを考える手がかりになりそうな話を思いつきます。

 ひとつは昔聞いた話ですが、目が見えなかった方が手術で目が見えるようになったという例です。手術後、その方は今まで経験したことのない「視覚の世界」が突然現れてきたわけですが、それが何を意味するのか、なかなかわからなかったそうです。なんだか光の模様が見えている感じだったかな。それから時間をかけて、その光の模様を手がかりにして行動できるようになって行かれる。

 つまり、それまでアスペの方は「他者の感情」というものは、頭で推理することが普通だったのに、いきなり自分の中に伝わってくるようになると、この「視覚の世界」を初めて体験した方のように、まずそれが「何を意味するのか」がそう簡単にわかることはなさそうに思えます。もちろんご自身の感情的な体験と比べて「これはこんな感情だろう」ということは分かると思うのですが、でも多分さらに「自分の感情」と「自分が感じている(推理しているではなく!)他人の感情」という二つのものが混乱してしまうのではないかと思うのです。

 このことについてはアスペルガールさんがコメントされていることが参考になるように感じます。アスペルガールさんはある程度相手の人の感情の揺れとかが伝わってくるタイプの方と言うことですが、そうやって伝わってくることは、必ずしもプラスというわけではなく、相手の人の感情状態に巻きこまれてしまうあやうさを感じられているように思いました。

 なぜそういうことが問題になるのかを考えてみると、定型の場合は「お互いに感情状態が伝わり合う」ことを前提に、それを言葉や行動などで調整していくスタイルを身につけていきます。だから、相手の感情状態を受け止めることは、自分の感情状態をコントロールすることと、言ってみればセットに成り立っているんじゃないかと思うんです。そしてそれは多分ほんとに赤ちゃんの頃からの長い「修行(?)」によって身についてくるものなんだろうと想像するんですね。

 けれどもアスペルガールさんの場合は「伝わってくる場合もある」ということのようですが、「それが普通のこと」という感じではないようにコメントを拝見していて思いました。ですからやっぱり定型世界でものすごく苦労されたわけですし、生き方のスタイルとしてはやはり定型的と言うより、基本的にアスペ的なスタイルを育ててこられたのではないかと想像するんです。そういうスタイルを持っている方に相手の感情が「伝わってくる」ことは、場合によって混乱を生んでしまうような危険なことにもなりかねないのではないかと思うんです。

 もちろん、少しずつそういう「伝わってくる世界」にも慣れて行かれることになるのでしょうが、そこで「慣れる」と言うことの意味は、それまでの人生で自分が作ってこられた自分の生きるスタイルを、定型的なスタイルに切り換えていく作業をしなければならない、ということでしょう。でも「生きるスタイル」を切り換えるというのは、口で言うのは簡単ですが、それは壮絶な出来事だと思うんですね。だって人の生き方というのはほんとに長い年月で作り上げてきたもので、薬を飲めばスイッチが入って切り替わる、というようなそんな単純なものでは決してないからです。(たとえば麻薬を飲めば一時的に人格が変わりますけど、あれは「おかしくなる」ということですよね。もうひとつの新しい生き方に切り替わるのとは違うわけです。)

 ですから、薬の安全な使い方がわかって、物心つかないようなほんとに小さい内から「伝わってくる」世界を体験しながら、それにあわせた自分の生き方を作り上げていくようなことでもない限り、すでにアスペ的な生きるスタイルを身につけられた方がいきなり薬の力で「伝わってくる」世界に入り込んだとしても、それで「アスペ定型問題が解決!」ということにはならないだろうなと思います。

 立場を逆にして、定型がその「伝わってくる世界」を薬によって押さえて、アスペの方たちが体験しているような「(あまり)伝わってこない世界」に生きることになったとすれば、定型はその経験したことのない「新しい世界」に大混乱を起こして、どうしていいかわからなくなってしまうだろう、と思えますし、そこで「新しい世界」に適した「新しい生き方のスタイル」を身につけろと言われても、どれだけそれが大変なことかは想像にあまりあります。つまりはそういうことが起こるんじゃないか、という話です。

 
 まあ、ここで考えてみたことは今のところは空想の世界の話でしかないわけですが、こんな風に考えてみると、お互いに「相手の生きるスタイルを大事にする」ということが、ほんとに重要な意味を持っているんじゃないか、ということが改めて感じられてきます。それはアスペルガールさんが「元々、空を飛べない鶏に、それを求められても、応えられない罪悪感しか存在しなくなってしまうのではないでしょうか。」とコメントされていることにもつながってくることだと思います。パートナーも最近そういうことをとても強調するようになりました。

 トマトさんは人との感情的な交流を求めたがる定型のスタイルを「欲が深いのですよね、定型の方が。」と自省的に書かれていますけれど、そうすると定型の側から言えば、「相手のスタイルを大事にする」ということはこの「欲の深さ」をどうにかしなければならない、ということにもなりそうです。それって「煩悩を捨てる」みたいな、お坊さんの修行の世界に入るようなことになるんでしょうか?でももしそれだけになると、定型だけが修行して相手に合わせる、ということになる感じもして、それもなんか不公平な気がするし、その辺、やっぱりまだすっきりしません。「お互いに努力し合う」形がいいんだけど、それがどうやったらうまく噛み合うのか、むつかしいい~ (^ ^;)ゞ

 
 

 

2013年12月17日 (火)

「切り捨て」か「切り分け」か

 ことばによるやりとりが「感情の共有や調整」の意味をどの程度持つのか、ということでアスペ定型間にズレがあるのだろう、という話をこのところ続けています。関連して今日はパートナーとの間でこんなやりとりがありました。

 今日もちょっと彼女の言い方でショックを受けることがあって、そのことを伝えたんですが、以前の彼女とならそこで話がまったく通じないまま、さらにお互いがショックを受けて終わるようなことが多かったように思うところ、最近は私が落ち込んでいるのを見ると、むしろ彼女の方が積極的に「どうしてそういうふうに受け取るの?」ということを理解しようとしてくれ、また自分はどうしてそういう言い方をするのかをなんとか説明してくれようとします。私がしつこく繰り返している「ズレを理解する」ということをしてくれようとしているんですね。

 それで、今日も私には彼女との間のズレ方がまた少し見えてくるように思えて、そのことは嬉しかったわけです。それでふと思って「僕はこうやって話をして理解が進んで、それが共有されて嬉しく思うんだけど、○○さんはどうなの?」と聞いてみました。そうするとやっぱり、というべきか「別にそのことで自分の感情が動くことはない」という答えでした。

 なにかお互いの間にトラブルがあって、話し合ってみたらなんとかお互いの「誤解」が見えてきて、そうやって「理解」が共有されれば、定型同士の場合なら「ああよかったね!」という感じでその場で喜び合うことも少なくないと思います。お互いに「ようやく私の気持ちを分かってもらえた」とか「あなたの気持ちが分かった」ということでほっとしたり、また嬉しかったり、内容によってはすごく支えられる気持ちになったり、そして絆が回復されたり強まったりするように感じる、というのが定型的なパターンだと思うのですが、彼女との間ではそうならない。

 「じゃあなんで話をするの?」というようなことを尋ねてみると、彼女は「パンダがズレを理解しようとしているから」と言うので、私はまたちょっとショックを受けて、「じゃあ、○○さんには意味が無いわけ?」と聞くと「意味がなかったらこんな風に自分から説明したり質問したりしないでしょう」と言われました。まあ、たしかにそう言われればそうでしょう。でも「パンダがズレを理解しようとしているから」という言い方は、私には「これはパンダの自己満足のためにつきあってあげていることで、私には関係がない、サービスだ」というふうに聞こえてしまうので、ショックなのですね。

 もしかすると定型的に翻訳すると、「パンダがズレを理解しようとしているし、自分もそのことは意味があることだと感じるから」ということを彼女は言っていたのかもしれません。けれども実際に出てくる言葉は「パンダがズレを理解しようとしているから」という、定型的な感覚からすれば「突き放したような」感じの言い方になって、「二人にとって意味がある」という表現にならないんです。

 うん、そうですね。実際には彼女が私の重ねての質問に「自分にも意味がある」と答えてくれたように、「二人にとって意味がある」状態なんだと思うんだけど、それを表現するときにはそこが強調されることなく、「あなたにとって意味がある(から自分もそうしてるのに、なんで文句をいわれなければならないのかわからない)」という形で「あなたの問題」と「私の問題」をすごく切り分けた表現になるんじゃないでしょうか。それが定型から見ると、すごく突き放された、あるいは切り捨てられたような言い方に聞こえてしまう。「それはあなたの問題でしょう?私になんの関係があるの?」と言っているように聞こえてしまうんです。

 でも実際彼女の感覚としては多分「切り捨て」でなく、「切り分け」なんでしょう。だから「切り分け」た上で、改めて私に対して質問をしてくれるわけです。(ただ、その質問の仕方がまた定型的にはショックをうけるような表現だったりするので、ややこしくなるのですが、そこについてはまた日を改めて)。ただ、そこで「わかり合う喜び」という感情が湧いてくるわけではない。ただ「自分が分からなくて困っていることがひとつ理解できた」という「彼女の中での事実」に留まる感じがします。それが結果として、長期的に見れば、お互いの絆を深めている意味もあるのではないかとは思いますが、でも少なくとも「その場で」ということはないんですね。

 そんなこんなを考えてみると、今まで私にはほんとに謎の謎でしかなかった、「なんでアスペの人の発言はこんなに定型にはショックを与えるんだろう?」ということの理由が、少し分かり始める気がします。

 

 

 

2013年12月15日 (日)

言葉の力

 

コルテオさんの言葉から考えたことがあります。いくつかありますが、ひとつは「パンダさんの言葉から、悲しみは心の傷で、心の傷は共感により癒され、癒されると涙が出ること、コルテオはそれを経験したこと、を知りました。このような過程を、私は感覚的にわかることができません。自分に起きても、感じとれないのです。人の言葉は、心の動きを理解するのに重要です。」というところです。

 定型的な人間関係では、言葉はお互いの感情をつないだり調整したりする役割を果たすことが多く、それに対してアスペの方は、コルテオさんの言葉をお借りすれば気持ちの伝え会いや調整より「心の動きを理解するのに重要」というふうに、それぞれの「言葉の意味」を比較して考えてみることが役に立つかもしれません。

 もちろんあんまり単純には考えられないのでしょう。コルテオさん自身、自分がアスペルガーであるかどうかについては断言できない、ということを書かれていましたし、また仮にコルテオさんがアスペルガー的であったとして、コルテオさんのように、人との関係の中で動く感情に関わるような経験が「自分に起きても、感じ取れない」と言われる方もあれば、アスペルガールさんのように、他の人の感情が伝わってくるように感じる方もあるわけです。「自閉症スペクトラム」という考え方からすると、「自分や他人の感情の感じ方」については、強い弱いがある、という形で理解することも出来そうです。

 いずれにしても、「感情」ということについて、「言葉」が果たす役割は随分違いそうではありますが、その違いについて、理解をある程度深めることが出来れば、そのことを前提にして、お互いの「理解」について言葉は大事な役割を果たす可能性があるのではないでしょうか。コルテオさんが「パンダさんが何気なくおっしゃった言葉にも、私には、学ぶべきことが沢山あります。」と書いて下さっているように、私が定型的な感覚を持ちながら言葉にしていることについても、何かしらお役に立つことがあるようですし。

 そういう「言葉の力」のようなもの、言葉でのやりとりが持っている可能性がありながら、実際にはアスペ定型間で言葉のやりとりが深刻なぶつかり合いの原因になることが少なくないのは、「言葉に求めているもの」にお互いに大きなズレがあることに中々気がつけないからではないでしょうか。

 すこし乱暴なたとえ話で言えば、定型が八百屋さんと気づかずに魚やさんだと思ってアスペの方にさかなを頼んで、アスペの八百屋さんは当然野菜を注文されたと思って野菜を出した。そしたら定型がショックを受けた。またはその逆でもいいですが、そんなことがあちこちで起こっているのかもしれません。

 昨日も記事「優しさ」をパートナーに読んでもらって意見を聞いたんですが、「思い遣り」という言葉にはとても違和感があるとのことでしたし、「優しさ」や「誠意」という言葉にもなんとなくひっかかりを感じるようでした。「誠意」なんて、常にそんなことしてるわけじゃないし、いつでもそんなことをしていたら身が持たない、ということも言っていました。

 そんなふうに同じ言葉でも私が使うときの感覚と、パートナーがそれを読むときの感覚ではやっぱりズレがあるし、そのズレがすごく深刻になってしまう言葉もあるんだと思います。そしてそのひとつは感情のやりとりに絡んだ言葉なんでしょう。

 そのズレ方がもう少し分かってくると、八百屋さんで魚を注文するようなちぐはぐなことは減っていくと思いますし、そうなればおかしな誤解によって妨げられずに、「お互いの理解」のために言葉は改めて力を発揮できるようになるのかもしれません。

 もちろん、それがある程度出来たからと言って、「魚を注文したい」という気持ちがなくなるわけではないでしょうし、そこは単に「言葉の理解」の問題だけで解決できる話ではないと思いますけれど。

2013年12月14日 (土)

優しさ

 お互いの「善意」がなかなか通じ合わないことの多いアスペ定型間だと思いますが、「優しさ」ということについてもやっぱりズレが生まれやすいんだろうなと思います。彼女も昨日、「優しさ」ということの意味が違うのかもしれない、と言っていました。

 これはあくまでお互い様、ということを前提にの話ですが、定形パンダとしての感じ方では、私が「優しく」接しようとしているつもりがおもわぬ拒絶を受けてしまい、そのことでとても傷つくことがありましたし、彼女にとっては何気ない発言や振る舞いで傷つくこともありました。そういうことが積み重なると、彼女の「優しさ」というものが実感としてわからなくなってしまいます。

 でも、昨日話をしていても感じましたが、やはり彼女も彼女なりに、彼女のやり方で、本当に一生懸命努力してきたし、また今も努力して居るんだということがわかります。彼女の思いつくスタイルで、私のこともとても考えてくれている。

 彼女の実際の言葉やふるまいが、結果としては定形パンダが求めているものとは全然違っていたり、場合によってはそれを否定するようなものであったりすると、そのことの辛さが先に立って、それが彼女なりの「思い遣り」なのだということは見えなくなってしまうわけですが、こうやって折に触れて何度も彼女が本当に頑張っているのだ、ということを伝えられ、また努力してくれる姿に触れると、その結果が私が求めているものとはずれていたりしても、だんだんと彼女の彼女なりの真剣な努力の方に私の目が向くようにもなるし、気持ちも少しずつそちらに反応するようになってきた気がします。

 そういうことの延長にだと思うのですが、今日は、「ああ、彼女は優しい人なんだな」ということが、ふと実感として感じられました。この感覚が果たしてこれからも続いたり、深まったりしていくのか、あるいは一時のあわい思いとして、また辛いことがあったりするとはかなく消えてしまったりするのか、そこは何とも分かりませんが、今はそうです。

 考えてみると、定型同士の世界でも、自分がいくら誠意を持って頑張ったつもりでも、まったく認めてもらえなかったり、ひどいときには全然反対の評価を受けたりすることがあります。そういう場合はもちろん辛い思いをするわけですが、アスペの方が定型の世界で生きるということは、ずっとそういう世界で生きるなければならないということを意味しているのかもしれません。

 もちろんそれは「定型が悪い」という話とも違って、定型は定型で実際にアスペの方の言動で深く傷ついたりするわけですから、そのことで相手を否定的に見てしまうことは自然なことでもあるでしょう。それはお互いにとっての「自然なこと」がずれるために生み出されてしまう、悲しい現実なのだと思います。

 その悲しい現実の中で、それでも相手の、相手なりの「誠意」や「優しさ」にお互いに気づけるか、またそれを多少なりとも実感できるかは、ひとつの大きなテーマなのではないでしょうか。それができれば、お互いの関係は随分変わったものになるのではないかと、そこに希望を感じたりします。とてもむつかしいことですけれど。 

2013年12月13日 (金)

パートナーの鋭い人間理解

 アスペの方は人の気持ちが理解できない、と言われることが多いと思いますが、思わぬ所でものすごく鋭くポイントを突いているように感じるコメントをパートナーからもらうことがあります。

 今日もパートナーに、最近私が人間関係でさてどうしたものだろう、と思っていることについて、ちょっと愚痴ったあとで、人の「優しさ」の話になって、そこでは話がどうも噛み合わなくて、私には彼女の言うことがちょっとびっくりするような「決めつけ」のようにも感じられて、そう話すと今度は彼女から「なんでそれを決めつけと受け取るのかわからない。自分は分からないから聞いているだけなのに」と言われて、私はなんで決めつけと感じたのかうまく説明できなくて……、というようなもやもやしたことがありました。

 で、二人とも話の筋がわかんなくなってきて、しばらく沈黙が続いた後、ふと最初に私が話題を振った話に彼女が戻って、「それはこうしたらいい」と言ってくれたことが、「うん、それはきっとそうだ!」となんだかものすごく腑に落ちる感じになったんです。

 まあ、中身抜きで書いていますので、これを読まれても「何のこと?」と思われるだろうと思いますけれど (^ ^;)ゞ、 とにかくほんとに通じないやりとりのあとに、いきなり人間関係についてズバッと本質を突くようなことを言われて、ある意味すごく救われた感じになって、その落差の大きさにも驚きますし、そういう鋭い理解がどうして彼女にできるのかがすごく不思議だったりします。視点が違うから、定型(私?)にはすっと見えて来にくいものがストレートに見える、ということなのだろうなとは思いますが、一体それがどういうことなのかがよくわからない。

 あと、今日もうひとつ面白かった(?)のは、仕事上のメールのやりとりで、ある方から私には嬉しい依頼があって、私が御礼と共にすごく嬉しかったですと言うことを書いたら、その方からのお返事に、私がそう書いてくれて自分もとても嬉しかった、という風に書かれていました。それでその話を彼女にして「これってもしかして定型的?」と聞いたら、即座に「うん」という答えが返ってきて、私は「ああ、やっぱりそうなのかなあ」と思ったのでした。

 「だからなんなの?」と言われると、答えにつまるのですが、なんとなく書きたくなったことでした。

2013年12月12日 (木)

感情理解と「原因の理解」

 「感情世界の作り方の違い」がパートナーにはもうひとつわかりにくいと言われたので、もう少し説明をしてみました。そこで彼女がつっかかる問題のひとつは「定型同士は感情の調整をする」という話で、それが何を言いたいのか分からないというのです。

 私が説明をしようとしてうまく行かないのは、たとえば「辛そうにしている相手を励ます」といったようなことは自分でも福祉の現場などでやることだと彼女は言います。その彼女の話を聞いていると、どうも彼女は「意識的に<こうする方がいい>と考えて」それをするようなので、私は「いや、そういうことではなくて、ほとんど無意識に<そうしたい>という気持ちが起こってそうすることが、定型の場合はベースにあるんだ。もちろん具体的にどうしたらいいか、ということについては意識的に考えることはあるけれども」という説明をしてみました。

 それに対して彼女が言うことは、自分が自然な感情で反応すると、常に怒られて否定されてきたから、それはできない。ということでした。なるほどそうであれば、常に感情に関わる行為は「意識的にまず頭で考えて行う」となっても不思議はありません。なぜそういう違いが生まれるのかの理由については置いておきますが、そこで定型同士の場合、ある程度は「自然に」わき起こってくる感情に沿ってやりとりをすれば、比較的スムーズにお互いの感情が調整されたり、それで支えられたり勇気づけられたりすることが多い、ということになります。だから「まず頭で考えて……」というやりかたがぴんと来ないし、不自然に感じる。「頭で考える」のは、感情が動いた後のことだと思うのです。

 彼女の言い方から想像すると、アスペの方も自然な感情の動きは当然あるのだけれど、それが小さい頃から常に回りから否定され続ける体験をすることで、「感じた感情を抑えつける」というスタイルが自然になってしまったのだ、という可能性もあります。ただ、それだけではないだろうな、と思ったのは、いわゆる「共感」についてのやりとりで彼女から聞いたことです。

 定型の場合、他の人が感情を表現していると、自分の感情も揺り動かされる、というのはよくある体験だと思います。相手の人が嬉しそうにしていると、「何で喜んでいるのか原因が分からなくても」なんとなくこっちも嬉しい気分になったり、悲しそうにしていると「何で悲しんでいるのか原因が分からなくても」なんとなく悲しくなったりする。場合によっては相手が楽しそうにしていると逆にいらいらしたり、という場合もないではないですがそれもまた感情的な反応であることは間違いありません。

 いずれにしても「原因がわからなても相手の表現だけを見て感情的に反応してしまう」ということがよく起こります。「冷静な人」はそうやって自分の中に起こる感情の動きをコントロールするひとであって、感情がそこで動かない人というわけではありません。

 で、彼女に聞くと、「原因が分かれば自分も同じ感情になることはある」のだけれど、「原因も分からずに同じ感情になることはない」ということのようなのです。以前「小説は原因が書いてあるから分かりやすい」ということを彼女が言っていたことの意味も、それで分かる気がします。

 定型の場合は相手の感情の動きに応じて、自分の感情も動きますから、だから自分の感情に対処することと、相手の感情に対処することは最初からものすごく密接に関係しています。相手をなぐさめるということは、自分の気持ちをなぐさめることにもつながるし、その逆も言える、ということでお互いに「感情の調整」が行われています。

 そこの「出発点」のところで違いがあるために、その後の展開も異なる、という場合が結構あるんじゃないでしょうか。

 もちろん、アスペルガールさんのように相手の感情の動きが「伝わってくる」感じを持たれている方もあるし、そういうところは「スペクトラム」なのかなとは思います。逆に言えばアスペルガールさんとのやりとりに私の定型的な感覚から言うと「やりやすさ」を感じる部分があったりする理由は、そのあたりの問題かもしれません。

 

 

 

2013年12月11日 (水)

気持ちの整理

 

「感情世界の作り方の違い」 を書いてみて、自分の中では少し整理されるものがあったのですが、パートナーにちょっと読んでもらったら、すぐにはぴんと来ないようでした。説明の仕方が悪いのか、私の考え方がずれているのか、そのあたりはまだよくわかりません。自分が納得できる説明と、彼女が納得できる説明がすぐに重なるわけではありませんから、まあしばらく時間をかけて理解の調整や共有ができればいいなと思います。

 ということで、少なくとも今のところは私の一方的な理解に留まっていますけれど、自分の気持ちの整理、というところではある程度意味があったことは確かなようで、パートナーに向き合う姿勢が少し変わったかな、と感じるところがあります。まだ微かにですが。

 何が変わったかというと、これまで「彼女には幸せになって欲しい」という思いが、とても空回りしていたような気がします。何が彼女にとって幸せになるのか、それが実感としてつかめないし、自分の考える幸せのイメージでは捉えられなくて、しかもいろいろとしんどそうにしている彼女を見ていると、色んな意味で自分の非力さを思い知る感じがするのですが、自分自身についても思い通りになるわけじゃありませんし、じゃあどうしたらいいのかもわからない。

 その状況が何か大きく変化した、ということは少なくとも今はないのですが、以前に比べて空回り感やそれにともなう焦りの感覚のようなものが減ってきたようにも思うのです。何か以前よりももう少し気持ちを落ち着けて「彼女にとっての幸せって何なんだろう?」ということを考えられるようになってきた感じがする。

 まあ、一時的な感覚なのか、それとももう少し安定して何かが変化したのか、そこはまだよくわかりませんけれど、自分自身、ちょっと注意して見ていきたいところです。

2013年12月 9日 (月)

感情世界の作り方の違い

 「奇跡の歌姫」とか言われて話題になった、イギリスのスーザンボイルさんが、1年ほどまえに「アスペルガー」と診断されたと語っているそうです。子どもの頃からいじめられたりしてきて、診断が出て「ほっとしている」とのこと。(アメリカの精神医学会の診断基準として使われている最新のDMS5からはアスペルガーという用語は消えて「自閉症スペクトラム障害」という名前に吸収されたみたいなので、これからはそういう「診断名」も少なくなっていくのでしょうね)

 ボイルさんの話で改めて思ったことですが、アスペの方でも感情(情緒?)の世界が飛び抜けて豊かな方も少なからずいるわけですし、またそれを歌や写真など、芸術的な形で表現することもされる。その自分の表現を他の人が喜んでくれれば、それは嬉しいとも感じられる。

 これだけを書くと、定型的にはすぐに「豊かな感性と共感能力」と言ってしまいたくなりそうですが、そこで理解にズレが生まれてしまうわけですね。きっと。

 そのことを考えるときに納豆さんのコメントは私にはとてもわかりやすく感じられました。私の理解で言えば、アスペの方は「感情の世界も自分の中で完結する傾向が強い」という印象で、「感情世界をお互いに共有して関係を調整しようとする」定型との間で、やりとりにそこで大きなズレを生んでしまう。

 そういうズレが生まれたときに、定型の側からキーワードとして出されるのが「共感」で、アスペの方を「共感能力が低い」という形で理解しようとする。そして「共感能力が低い」のはそもそも「感情理解の能力が低い」とか、「心の理解が発達していない」という話になっていって、それで「他者の感情が理解できない」だけではなくて、「自分の感情についても理解しにくい」という見方にもつながっていく。

 でも、その話をそのまま定型的な感覚で受け止めると、たとえばスーザンボイルさんのように「豊かな感情世界を表現される」人のことが分かりにくくなりそうです。というのは「共感能力が低い」という定型的な理解は、「感情に乏しい人だ」という理解につながりやすいからです。「感性豊かで感情豊かな人は、他の人の感情にも共感できる」という理解の仕方を、定型はよくやると思うんですが、そのパターンに当てはまらないんですね。そこで定型(少なくとも私)の理解は混乱してしまいがちになる。

 だけど、アスペの方からすれば、そこにはなんの矛盾もないし、なんの不思議もないのだろうと思います。「自分の中には豊かな感情世界がある」し、だから喜びも悲しみも苦しみもあって、辛さの余り鬱になることも少なくない。そしてその感情はあくまで「自分の感情」で、「自分の中の問題」で、他の人との関係を作るときにベースにあるものではないし、共有する必要があるものでもない。

 そうすると、お互いに違う感情世界を持っている別々の人間なのに、なんのために無理矢理「共感」する必要があるのか、それはほんとに意味がよく分からないことだ、という疑問を持たれるのが、アスペの方の素直な感じ方になるのではないでしょうか。

 もし私の理解が的外れでないのだとすれば、問題は「感情の有無」ではもちろんなくて、「感情世界を他の人と<共有>することの必要性についての感覚の違い」なんだろうと思えます。そしてその「必要性の感覚の違い」は、たとえば「なぐさめられることで(たとえ現実の問題は直接解決されなくても)救われる思いになる」かどうかとか、「悩みを聞いてもらうことで(たとえ現実の問題は直接解決されなくても)気持ちが楽になる」かどうかとか、そういう経験の有無にもむすびついていて、そういう経験をいろいろ持っている定型は「必要」と感じるし、それがないか乏しいアスペの方は「必要ない(意味がない)」という理解になる。

 そしてもしそういう経験の違いがあるのだとすれば、そういう経験をしばしばする定型の方は、ますます感情を他者と交流することで自分の問題を解決しようとすることが増えるだろうし、そのやりかたもいろいろ工夫するようになる。そしてそういう経験がないか乏しいアスペの方は、そんなことに力を使う意味は感じられないから、あくまでも自分個人の問題として、自分の中で解決するスタイルを作り上げて行かれる。

 じゃあなぜそういう経験の有無が生まれるのか、それは私には分かりません。環境の違いが原因でないことはまず間違いないと思いますし、むしろ環境の受け止め方、感じ方の違いがベースにあるんだと思いますが、そういう違いが生まれる原因はわからない。そこまでいくと、それこそ脳の働き方に違いがあるとか、そういう説明の仕方になっていくんだろうと思いますが、それはそれだけの話で、そういう説明をしたからといって、私たちが日常でズレに悩んでいることがそれで直接解決するわけでもありませんから、そこはここでは置いておきたいと思います。

 ここで私が大事に考えてみたいことは、上のような基本的なところでの「感情」についての経験の違いが、「他人との間で感情の問題をどう解決していくか」ということについてのスタイルの違いを生んでいき、また「人にとって感情世界はどんな意味を持っているか」ということの理解の違いも生んでいき、一方では「感情は個人の問題」と考えるスタイルを、他方では「感情は人と人をつないだり対立させたりする大事なもの」と考えてそこにものすごく気を遣うスタイルを生み出していくのではないか、ということです。

 そしてこの全然違うスタイルを持って生きてきた二人の人間があるときお互いを求めてカップルになり、そのスタイルの違いに気づかないまま「わかり合えない」しんどさを積み重ね、激しい対立を生んだり、ひどくなれば重い鬱状態になったり、離婚になるかあるいは命を絶つかといった展開にもなりかねない。

 そんな風に考えてみると、私としては今までぼちぼちとばらばらに考えてきたことにまたつながりが見えてくる感じがしますし、「ああ、それならアスペの方がよく言うことばが分かる気がする」という思いも出てきます。そしてお互いが人との関係で何を大事と感じ、何を求めているかの違いを理解しながら、改めてお互いの関係を調整していくための大事な手がかりの一つが得られるように思います。

 ……ただ、もちろんアスペの方がこれを読まれて「何をパンダは勘違いしてるんだろう?」と思われるかもしれないわけですけどね (^ ^;)ゞ

2013年12月 8日 (日)

手探りの「質問」

 パートナーに質問されて、定型的な「慰め」について説明しようとしたときのことです。彼女の質問の仕方は「なぐさめと恋愛感情は同じなのか」ということだったので、いろいろ考えながら、恋愛関係にあればなぐさめの気持ちはより強く起こりやすいけれど、なぐさめ自体は恋愛関係には限られない、ということをいくつかの例をあげて言おうとしたのですが、「パンダの話は分かりにくい」と言われてしまいました。

 なんで「わかりにくい」ということになるのか、ひとつには私の説明の仕方がごちゃごちゃしていたからかもしれません。で、なんでごちゃごちゃするかというと、その理由は二つ思いつきます。ひとつは定型的な人間関係が実際にごちゃごちゃしていて、それを説明しようとするとどうしてもごちゃごちゃする、ということ。もうひとつは、彼女からの質問自体が私にはもうひとつぴんと来なくて、何を知りたくてそれに何を答えたらいいのか、私が混乱気味になる、ということです。それで答えがあっちにいったりこっちにいったり、さまようことにもなります。

 とくに二番目についてですが、彼女の質問は、彼女なりに定型的な人間関係を観察していて、「これとこれとはこういう関係にあるのかな?」とか疑問を持つわけですけれど、多分その疑問の作られ方が、彼女のアスペ的な人間関係理解をベースにしているので、定型的にはなんでそういう質問の仕方になるのかがわかりにくいんだと思います。

 もちろんこれはお互い様なんだろうと思っています。実際私が彼女に質問するときにも、彼女から質問の意味がよくわからない、というようなことを言われることがありますし、それこそ彼女がほとほと答えに困って、「何て答えて欲しいわけ?」と逆に聞かれたりすることもあります。

 似たようなことは、外国の人と話をしているときにも起こることがあるように思います。外国の人はその人の生まれ育ったところでの人間関係の作り方があって、それを常識として、そこからたとえば日本の人間関係を見て理解できないと、「これはああいうことだろうか?こういうことだろうか?」と疑問を持ったりするのですが、その疑問の持ち方自体がやっぱりその人の常識がベースになっているので、こちらからすると「え?なんでそんな質問になるの?」ということがよく分からなかったりする。もちろん逆の場合も同じです。

 そうすると、お互いに理解し合う会話にするためには、「この質問って、どういう発想でなされているんだろう?」ということも探りながらやりとりすることが必要になるわけですね。たぶんそれには何か「こつ」のようなものがあるんだと思いますが、それがつかめるようになるまでは、「質問されて答える」ということ自体がお互いにとんちんかんなやりとりになりやすくて、かえっていらいらしたりすることもあるんじゃないでしょうか。

 今のところ私に出来ることは、「あせらずに、時間をかける」ということぐらいですけれど……。でも、一寸ずつでもなんか「こつ」が見えてくるんじゃないかな、という気もします。あんまり根拠のない「希望的観測」ですけれど (^ ^;)ゞ

2013年12月 6日 (金)

「認め合う」ことと「理解する」こと

 ズレを抱えた者同士、それでもお互いを認め合うというのはどういうことなんだろう、と考えます。

 「認め合う」というのは「理解する」こととはちょっと違うんですよね。なぜならどうしようもなくズレを抱えて、「理解しきれない」のが「他者」なわけですから、「認め合う」ことは「理解できない」ことも含めての話になります。

 もしそこで「理解できるから認められる」という話にしてしまうと、ほんとうは理解しきれないズレを抱え込んでいる相手の人を、「自分が理解できる範囲」に無理矢理押し込めてしまうことになります。別の言い方をすれば、相手の人が「自分の理解できる形」に収まることを強要することにもなる。

 でも、もし人と人がお互いに「その人らしさ」を失わない形でつながりを作ろうとするのであれば、そういうやり方は「その人らしさ」を失わせてしまうことにもなる。そのような「理解」という形での「強要」は、やはりおかしいということになります。

 誤解されないように、少しことばを足しておく必要があるかもしれませんね。私はここで「理解」することを否定したいわけではありません。むしろそのことをこのブログでも追求してきましたし、これからもそうだと思います。大事なのは「強要」にならない「理解」の仕方ではないでしょうか。

 「理解したい」という思いの中に、もしも「相手を自分の納得する形に収めたい」という「欲望」が強く働いていたとすれば、それはむしろ「その人らしさを失わないつながり」をこわしてしまうものでしょう。

 まだうまくことばでつなぐことが出来ないのですが、誰もが自分にも思い通りにならない自分を抱え、自分に対しても求めきれないものを抱えて生きている中で、ましてや「人には求めてはいけないものがある」という気持ちを失わないことと、「認め合うことができる」ということの間に、とても大事なつながりがあるのではないかという気が、何となくしました。

 もしかすると多くのアスペの方にとっては当たり前のことなのかもしれませんが。

 米良さんのこういうのとか聞いていて、ふと考えたことでした。

 

2013年12月 4日 (水)

気分転換

 「気分転換」と題名をつけましたが、アスペ定型の間の「気分転換」の話ではなくて、もっと単純にアスペ定型の話から「気分転換」して別の話題、という意味です (^ ^;)ゞ

 You Tubeにこんなのがアップされていました。「Joe Hisaishi in Budokan

 久石譲のジブリ作品を集めた、久石譲自身によるコンサートです。

 こういうの、すごいなあと思うんですが、「生きるって、いいことなんだよ」というメッセージを身体に伝えてくる力を持っているように感じます。2時間近いものですが、再生回数が350万回を越えていますけれど、きっと同じように感じる人が沢山いるんでしょうね。

2013年12月 3日 (火)

いろんな道

 定型アスペ間でどんな関係が作れるのか、どんな風に関係を変えていけるのか、ということについて、それは定型といってもアスペといっても、それぞれ個性的な人間の組み合わせですし、それぞれのカップルが抱えている現実もまた様々ですし、「唯一の正解」なんてないと思うんです。ただ、ある程度共通した部分もあるから、そこは他の人の経験が参考になることも少なくないし、また他の人の経験が刺激になって、それとは違うんだけど、自分たちにあったやり方に気がつくこともあります。

 そういうことを考えるときに、星さんの前世は「イルカのペア(仲間)」 のコメントもとても刺激的だなあと思いました。星さんはご自分達についてこんな風に書かれています。

「私と彼は、お互いが自己省察するタイプではないかと私は感じています。ズレがあったかな?と、どちらかが、もしくは二人が感じていたとしても、言葉で伝えたり、すりあわせることをせずに、ズレが改善されていくことがほとんどだからです。」

 私はこのブログでは「ズレをことばで考えて、ことばでやりとりして、そこから工夫を」ということをやっていますが、当然ことばにはことばの限界があるわけですよね。例えばお腹がすいているときにいくら「私は美味しい物を沢山食べた」とことばで言ったとしてもお腹がふくれるなんて言うことはないですし、お金に困っている人が「私はお金持ち!」とかことばで考えたとしても、現実世界でのお金の苦労が無くなるわけではないとか。

 まあ、ちょっと例はへたくそだったような気もしますが (^ ^;)ゞ、 なんにしても星さんのように「ことばでのすりあわせ」ではない形でズレが改善されていく、という行き方もあるんだ、というのはとても刺激的だと思います。

 「アスペルガーと定型を生きる」のカレンさんはある種の宗教的な体験にも近いように思える「緑の体験」をされて、そこから問題への向き合い方がすごく変わられて、関係が大きく変わったりされているようですし、ほんとにそれぞれ「個性的」。

 そんないろいろな個性的な経験が交流できる場が出来てくると、ほんとに多様な状況を生きていらっしゃるみなさんにも、私にも、もっともっと豊かな可能性が見えてくるんじゃないでしょうか。そういうの、ちょっと理想のように感じました。

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