優劣で見られる?
アスペ定型の違いについては、アスペルガーは「障がい」であって、定型が「できること」を「できない」人たちで、「発達障がい」と呼ばれるように、定型が発達させてきたことを発達させずに「低い発達レベルで留まっている」という見方が一方にある(というかそういうのが多い)のだろうと思うのですが、よく考えてみると、そういう見方自体、なんだか限界がありそうな気がします。
というのは、このブログでもみなさんのコメントをいただきながら割合にはっきりしてきたことの一つに、ほんとに基本的なところでものの見え方、感じ方が「そもそも違う」と思える例が多かったと言うことがあります。そうすると、たしかに「定型のような見え方、感じ方は<できない>」とも言えるんだけれど、でも逆に定型の方は「アスペのような見え方、感じ方は<できない>」とも言えるわけですから、まあおあいこですよね。
また視覚障がいの方のことを思い起こすんだけど、生まれつきの視覚障がいの方はそもそも「見える」という体験は(晴眼のような意味では)ないわけですよね。そうすると、視覚という手がかりを使って運動したり、コミュニケーションをしたり、ということはもちろん「できない」わけです。でも、それ以外の感覚を使ってすごい能力を発達させて生きていらっしゃる。たとえば歩いている先に落ちている障害物を、靴から出る足音の反射をレーダーのように使って察知してよけたり、そんなことは日常茶飯事な訳です。もちろん晴眼者の私にはそんな「超能力」のようなことは絶対に出来ません。
もともと持って生まれたものが違えば、それを使ってどう自分を発達させていくか、という道筋もそれぞれの特徴によって生まれるわけで、それは一方は「順調に発達」して、他方は「途中で発達が止まる」とか「発達がおかしくなる」という話とは違うんじゃないでしょうか。
にもかかわらず、それが「障がい」と呼ばれるようになり、「定型」とか「健常」とかの人に対してその発達が「劣っている」というように考えられるようになる理由は、やっぱり「多数派のやり方にはあわない」からということがいちばん基本なんじゃないかなと思うわけです。
この私の考え方に対して「それはおかしい」という見方があるとすれば、ひとつは「人間というのはコミュニケーションの中で複雑な社会を作って生きていくように、ずっと進化を続けてきたんだし、それが他の動物にはない<人間らしさ>なんだから、その社会にうまく適応できないとなれば、それは「劣っている」ことなんだ。」という意見かもしれません。
でもその考え方も、どうなんでしょう?そもそも人間の社会って、かなり昔から健常者と障がい者と一緒に暮らす工夫をしてきたように思うし(もちろんその逆の場合もありますが)、今だったら精神障害と言われる人も、「神懸かり」と言われてそれなりにその社会で役割を果たすことがあったり、多分今ならアスペと呼ばれるだろう方なんかも、「変わり者の職人かたぎ」とか見られて、逆にその仕事には尊敬されたりとか、いろんなことがあったと思うんですね。今の障がいの分け方は時代によって随分違うわけです。
で、そもそも人間の社会って、そんなふうに「色んなタイプの人」をうまくつなげて柔軟に生きられるように進化してきたんだ、と考えれば、上の考え方はすごく一面的な見方だと言えるんじゃないでしょうか。
そんな風に考えると、「優劣」が問題なんじゃなくて、「見方・生き方の違い」をうまくお互いに調整できないことが問題なんだ、という話になりそうな気もします。日曜の続きの話になりますが。
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