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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年11月 9日 (土)

家族の絆と夫婦

 最近考え始めたことです。もしカップルがお互いに定型アスペのズレを抱えている、という理解を共有したとします。その上で、お互いの「違い」を理解しようと努力しようとしたとします。お互いがもしそういう姿勢に変われたとしたら、それまでの訳も分からずに相手の言動に苦しむような状態はだいぶ変化して、激しく傷つき続けたり、あるいは相手を攻撃し続けたりすることはかなり減るだろうと思います。そしてお互いに自分の理屈ではなく、相手の理屈に配慮しながら努力しようとする姿勢が強まっていく可能性が高いでしょう。

 ただ、そういういちばん厳しい状況を乗りこえたとして、お互いのズレが無くなることはありません。もちろん定型同士でも全ての夫婦は必ずズレを抱えているでしょうけれど、やはりそのズレ方には定型アスペ間のズレとは大きな違いがあると感じます。まだ十分に整理して考えることは出来ませんけれど、直感的にはそう感じる。

 その後のカップルにとってはそのズレを出来るだけ理解し、調整していくこと自体がそのカップルがずっと取り組んでいくひとつの大事な「共有のテーマ」になるのでしょうけれど、それはやっぱり定型同士のカップルにはない、それなりに難しい課題でしょうから、その分苦労も多いはずです。そういう苦労をしてもカップルで居ることに何か意義を感じたり、喜びを感じたりできなければ、なかなかそういう関係を続けることはむつかしくなるかもしれません。

 さて、そんな風に考えてみましたが、私が今気になっていることの一つは、こういう考え方自体がもしかしてとても「定型的」なもので、必ずしもアスペの方はそういう考え方はされないかもしれない、という可能性のことです。

 そういうことを考える理由として、少なくとも二つのケースを思い浮かべるんです。ひとつは私とパートナーの関係についてで、もうひとつは「アスペルガーと定型を共に生きる」でそれまでの夫婦関係の葛藤をいろいろ語って下さった東山ご夫妻の関係です。

 両方のカップルに共通することとして、定型の側(私やカレンさん)がある意味ぼろぼろになるような状態で「もう夫婦関係を続けることはほとんど無理だ」と思い、またそう直接・間接に口に出しているような状況で、アスペの側(パートナーや伸夫さん)は、「夫婦関係そのものがもう最終段階だ」という理解は、ほんとに最後の最後までもたれなかったらしい、ということです。

 なんでそういう「状況の理解」にズレが生まれるのか、そこはまだよく分かりませんけれど、パートナーの話を聞いていると時々感じるのは、「家族」というものはもう何があろうと絶対崩れない(逃れられない?)関係なんだ、という感覚がとても強くあるのではないかということです。

 これは定型でも、自分の親との関係を考えると、たとえお互いにどんなにシビアな状態になっていたとしても、「お互いに家族である」という感覚は消しようもないように思います。親が離婚されたような場合はまた少し違いが出てくるかもしれませんが、子どもにとって両親はたとえ関係がとても悪くても、あくまで「夫婦」という特別な、切っても切れない関係で、「もう別れた方がいい」というようなことを子どもが両親について考えたりするようになるのは、思春期以降になってからではないでしょうか。

 もし仮にアスペの方が「家族」というものに、そういう「運命的な、つながり」を強く感じていらっしゃるとすれば、たとえカップル、特に夫婦関係が定型的に見れば「これはもう終わりだなあ」と感じられるレベルにまでシビアになったとしても、「それで終わり」という理解は生まれにくいのかもしれません。だから仮に定型の側から離婚を切り出されたりすると、何でそうなるのかが分からなくて困惑する。

 東山伸夫さんの離婚を巡る手紙にとてもよくその感じが現れているように思えるのですが、伸夫さんにとっては仮に「離婚」という「手続」をとったとしても、「相手に配慮して助け合う」関係はそのまま続くのが当然と考えられているようで、そのことにカレンさんが戸惑いを感じられていました。定型的な感覚では「離婚」はそういう関係を最終的に絶つことで、お互いが「他人になる」ことを意味すると思うからです。

 そういう感覚を定型的な人間関係に当てはめて考えてみれば、「親子の絆」に近い物のように感じられます。どちらが親でどちらが子、という意味ではなくて、「どういう状態になってももう運命的に切れないつながり」という意味で。

 私のパートナーもこの点で同じで、彼女は私がパートナーに求めたいものに自分が応えることは無理だ、という理解をしているのですが、その結果、私がそれを与えてくれる人に出会ったら、その人と一緒になることは仕方のないことだし、それで私が幸せになるのなら、自分にとってもそうしてもらったほうがいい、というようなことまで言います。でもそれは彼女にとっては関係がなくなることではなくて、自分は何か相談したいようなことができたら、ときどき相談にのってくれたらいい、とも言うんですね。やっぱりそういう「離婚」もそれで「関係が切れる」ことは意味していないようです。

 そこまで彼女が私のことを考えてくれることには、私はやはり心を打たれますが、私は彼女といろいろ手探りで工夫しながら死ぬまで一緒に生きていくことを望んでいますし、何かの事情で離婚せざるを得ない状況がもし生まれてしまったとしても(今は考えにくいことですが)、その場合の「離婚」はやっぱり「関係の終了」を意味するだろうと思います。
 うーんと、つまり何が言いたいのかな。そうそう、仮にお互いに定型アスペ間のズレを抱えていることに気づいたとして、そこを調整する努力をしなければ、という気持ちにお互いになったとしても、その調整の努力の足場である「カップル(特に夫婦)」であることの意味の理解については、もしかすると結構大きなズレがあるかもしれない、ということかな。もうちょっと考えないとまだうまく整理できていない感じが残ってますけれど。

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