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2013年11月17日 (日)

お互いの間に「障がい」がある

 「障がい」というのは、いわゆる「障がい者」の中にあるのではなくて、「障がい者」と呼ばれている人と「健常者」と呼ばれている人の「間にある」のだ、という言い方を何度か聞いたことがあります。ひとはだれもがひとりひとりまったく違った個性を持って生まれてきますし、そういう個性を持ちながらいろいろなその人なりの経験を積み重ね、自分というものを作り上げていきます。その経験も誰一人同じ経験をする人はいないわけですが、仮にもしほとんど同じ経験ばかりをする二人の人がいたとしても、持って生まれた個性が違えば、その経験の受け止め方もまた違ったものになり、やはりそれぞれが個性的な自分を育てていくことになります。

 そういう「個性」の中に、その社会の中では主流から外れてしまい、そのやりかたには身体的にか精神的にか、とにかくなじめなかったり、対応しにくかったりする人々があって、そういう「個性」に生まれることは別にその人が選択したものではないのだけれど、世の中はその人を「障がい者」と名付けて特別扱いします。

 特別扱いをするのには理由があります。主流派の人間同士も、それぞれ個性がありますから、お互いに理解が難しかったり、調整が難しかったりすることはありますが、でも多くの場合は主流派が持っている「常識」の範囲でなんとか折り合いをつけて対処していきます。ところがそういう主流派的な「常識」ではうまく対処できないズレが生じてくると、主流派は大変に困ってしまい、激しく怒ったり、傷ついたり、呆然としたり、どうしていいのかわからない状態が生じます。同じ事は実は「障がい者」の側からも言えることなのですが、多数の側の主流派は自分の「常識」を疑わなくても済むような世界に生きているので、問題があるのは自分ではなく、その「常識」から外れた「障がい者」の側だ、と思うことで、なんとか自分を保ち、主流派的なやり方をそのまま続けようとすることになります。

 主流からそうやって「障がい者」と名付けられると、いろんなことが起こります。ひとつは「この人は主流ではない」とか「正常ではない」、あるいは「非常識」といった烙印が押され、そのことで社会の中心からしりぞけられがちになること。そうでなくても「障がい者」は主流のやり方になじめないことで社会の周辺的な位置にだんだん追いやられていくことが多いわけですが、言ってみればそうすることが「当然のこと」という理解が定着してしまうことにもなります。

 また「障がい者」だから、特別の「配慮」が必要なんだ、という考え方も生まれます。その場合は「私たちには普通に出来ることが、この人は障がいが理由でできないのだから、私たちにできる援助をしてあげることが必要だ」という考え方がベースになるのでしょう。それは一種の「思い遣り」ということになります。

 「障がい者」を排除する方向なのか、それとも受け入れる方向なのか、ということについて、主流派のこの二つの態度は正反対になっています。ただどちらにも共通すると思えるのは、「私たちが基準=常識なんだ」という理解の仕方でしょうね。人間誰しも生まれてから大人になるまで「常識」を学びながら成長し、その中で自分の生き方を作っていくわけですから、誰にとってもその自分の「常識」を疑うことはものすごく難しいことです。自分が立っている足場(常識)を自分で一度崩してみない限り、常識を疑って見直すことはできませんから、それはとても危険なことでもあります。下手をすると全ての足場を失って自分自身が崩れ去ってしまいかねないわけですし。当然主流派はその常識を疑うことは特に困難です。

 逆にパートナーの話を聞いていると、彼女は回りから「あなたの感じ方はおかしい」「常識ではそうじゃない」と言われ続けてきています。だから「自分の感じ方は間違っている」と理解して、自分の感覚をそのまま受け入れられなくなったり、「自分の感じ方を理解してもらうことは不可能だし、自分も相手の感じ方を理解することは不可能だ」という思いを積み重ね、人間関係の基本的なイメージはとても「個人主義」的なものになる。定型から「そんなの当たり前でしょう」とか「常識じゃない」「みんなそんな風に感じるんだから」といくら言われても、自分はそう感じないわけですから、「私は私」と思わなければやっていかれないでしょう。

 そうやって、定型アスペ間でよく問題になる「常識」VS「個人」の言い争いの図式が生まれてくると考えるとちょっと分かりやすい感じがします。そうなるけれども、社会的には多数派が力を持つから、結局は片方が「障がい者」で片方は「健常」と名付けられておさめられることが多くなる。このあたりは言ってみれば露骨に「力関係」の問題になってしまっています。

 私自身だって、特に子育ての仕方を巡っては、私の感じることが「正しい」し「常識」だと疑うことなく、それを「どう理解してもらうか」という形で彼女に対応していましたし、そのことで彼女は常に「自分の子育てがわけもわからず頭から否定されている」と感じ、そうやってお互いに苦しんできたわけですが、私は自分を「常識」の側だと思うことで、「力関係」としては自分を上に置いてきたことは間違いありません。

 最初に書いた「障がいはお互いの間にある」という考え方は、そういう「力関係」で「上下関係」を作るのではなく、あくまで「たまたま違った個性を持っている人間同士」として対等な関係なんだということを強調しながら、でもその個性と個性の間に通じあいにくさという「障がい」があって、それを乗りこえる方法を考えなければならない、という発想になるんだと思います。さて、社会の中では現実にいろいろな差別が存在する中で、こういう「対等な者同士の個性の違い」という考え方で問題に向き合っていくというやりかたは、私は共感を持ちますが、それはどの程度現実的で、どの程度実際の問題を解決することにつながるのでしょう。

 (子育ての問題について、実際に子どもの側からみて、パートナーの接し方に苦しんできたということが、少なくとも女の子の方ではありました。その点では「こういうお母さんのやりかたはつらいよね」ということについて、私と子どもはとても見方が一致しましたから、その意味では「私の考え方の方が正しい」という評価もありうるのかもしれません。でも、少し見方を変えれば、「子どもと母親との個性が合わなかった」という考え方もあるのかなとふと思いました。個性が合わないときに、パートナーのやり方では無理が来て、子どもに苦しみを与えてしまうのだ、という見方です。そういう見方なら彼女のやり方を全部否定する必要はなくなります。それはそれで意味のある場合もあるけど、「この場合はうまくいかない」という、限定された否定なのですから。)
 

 

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