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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年11月

2013年11月30日 (土)

コミュニケーションのスタイル

 最近ちょっとパートナーにも理解して欲しいことがあって、少しずつ説明したい、と言っているのですが、彼女もOKしてくれています。ただ、そのときに、まず書いたものを見せて欲しいというんですね。それを読んだ上で、質問とかしながら話を聞きたいと。

 ちょっと興味深いことだなと思ったのは、たとえば仕事の相談をするとき、定型(私?)の場合は、決まり切ったような簡単なことならメールとかでもOKなんだけど、お互いの意見をすりあわせて調整する必要もあるような場合は、やっぱり顔を合わせてその場で相手の反応を見ながら説明の仕方を変えたり、また相手の意見を聞いたりすることが大事だという感覚があります。

 「書いたものは最終的な結論」というような印象もあって、少しこみいったことについて顔を合わせての相談なしにメールで意見を伝えたりすると、意図せずにすごく一方的な断定調の話になってしまうことがあります。そうやってこちらの意図が誤解されたり、反発を感じられたりすることもあると思えるからです。そうすると、下手をすればやりとりが感情的になってしまって、あんまりいい結果にならないこともある。

 パートナーの場合はそこの感覚がやっぱり違って、人の話を「聞いて理解する」というのはものすごくエネルギーのいることで、疲れてしまうと言うんですね。だから子ども時代によく学校で先生から「おまえは話を聞いていない」とか怒られたそうですが、それは「聞いてもわからない」からで、それより教科書を読めばわかるから、自然に先生の話をあまり聞かないスタイルになっていったようです。

 そうすると、問題は「自分にとってやりやすいコミュニケーションのスタイル」がお互いにずれている、ということなのかなと思います。逆に言えば、定型アスペでは「コミュニケーションが取りにくい」という話で理解するよりも、「お互いの得意なコミュニケーションのスタイルの違いがやりとりを難しくしている」と考えた方が、いろんな工夫ができやすくなるのではないでしょうか。

 彼女が提案した、「まず書いたものを読んで、それから話を聞く」というコミュニケーションのやりかたは、そんな工夫のひとつになるんじゃないかと思います。定型(私?)のスタイルと、彼女のスタイルの両方を組み合わせた形になっていますものね。

2013年11月29日 (金)

微妙なうれしさ

 私が何かで悩んでいるようなとき、以前はたとえ相談しようとしても、パートナーがなんだか厳しく責めてくるような印象で、却って辛くなってしまい、「なんでこの人はこっちが辛い思いをしているのに、思い遣りで接することなく、自分の理屈でひたすら責め立ててくるのか?」と悩みを逆に深めることがよくありました。(ただし、後に彼女の方もその正反対のことを私に対してやはり感じていたことがあることもわかりましたが)

 やがて、「どうも私が辛い状態になると、彼女がパニックになるんじゃないか」と感じるようになり、こちらがしんどいときに彼女にさらにパニックになられると、ますます大変になるので、私は彼女に対してできるだけ悩みを表現しないようにする、という風になっていきました。それは私としては「冷たい関係」とも感じられるものなのですが、ほかにどうしようもなかったという感じでした。

 そういう関係が変化し始めたのは、やはり「お互いの間にアスペ定型のずれがある」という理解を共有するようになってからです。そこから改めて手探りでお互いを理解しなおそうとする中で、あの「パニック」とか「私を責めている」と感じていた彼女の応答が、実は本当に私のことを心配して彼女なりに一生懸命になっている状態らしい、ということが分かってきました。

 そんな風に理解し始めると、「頭では」彼女の「善意」を理解するようになってきましたが、「気持ち」では中々受け入れがたい思いが続きました。彼女のその対応の仕方が私から見ると「なんでそんなふうな決めつけをするんだろう?それに状況理解も全然的外れじゃないか」と感じられてしまって、やっぱり相談すると却ってしんどくなったからです。

 そういう中で、彼女の方にも、自分の意見はどうもパンダにはあわなかったり、却って辛い思いをさせたりするようだ、ということが伝わっていったようで、話をするときに彼女もかなりその辺について気にしながら、「これは責めているんじゃないからね」とか、「私にはよく分からないところもあるけれど、私にはこう感じられると言うことだからね」といったクッションを入れながら、話をしてくれることが増えてきました。

 私は私でこのところ記事でもいろいろ考えてみているように、お互いの「生き方の工夫」の違い、といったことに気をつけながら、彼女の話を聞く努力をしています。そしてその影響もあるんじゃないかと思うんですが、以前ならすぐに「何をピント外れな事を言っているんだろう」と感じて、言ってみれば素直に聞けなかったことについて、「つまり、彼女としてはどういう見方をして、どういうことを言いたいのかなあ」ということを改めて考えながら聞けるようになりはじめた気がします。

 そうすると、ようやく「ああ、彼女はこういうことに問題を感じて、それをああいう表現で伝えようとしてくれているのかも」ということがなんとなく分かり始めるところが出てきた感じがします。そういうことが感じられるようになってくると、「なるほど、僕はそういう視点から問題を考えたことが無かったけど、それは結構重要な問題かもしれない」とも思えるようになってきたりします。

 まだ「なんとなく」分かり始めたかな、という段階で、彼女とスムーズに噛み合った話になるところまではいかないのですが、それでも単に「形だけの、頭での理解」ではなく、「ああ、ほんとに彼女なりにこんなふうに心配してくれて居るんだ」という中身も一寸ずつ実感を伴って分かってくるような気がして、微妙なうれしさも感じられます。

 

2013年11月28日 (木)

「アスペ的世界」への定型的想像力

 アスペルガールさんとやりとりをさせていただきながら、改めてアスペ定型間のズレという問題は、お互いが作り上げてきた「生きる工夫」の違いが原因になって生まれているものが多そうだということを感じています。

 たとえ話で考えてみると、人間にもし四本手があったとしたら、二本しかない私たちの生活スタイルとはすごく違う「生きる工夫」の世界が生まれるはずです。私たちなら二人で協力しなければならない作業も、一人で出来てしまったりするかもしれません。

 逆にもし私たちが事故などで手を一本失ったとしても、生活スタイルは激変します。ご飯を食べるときだって、お茶碗を手に持ってお箸で食べる、ということはもうできなくなりますから、別の工夫が必要になる。人は自分の身体に合わせてそれぞれに「生きる工夫」を作り上げているわけです。

 アスペの方の中には「感覚過敏」と言われる方もありますが、この「過敏」というのは、定型なら無視するような、あるいは気がつかないような小さな感覚にも気がついて、定型的な生活から外れてしまうから、「過敏」と言われるわけですよね。でも見方によっては「感覚が鋭い」という表現もありうるんだろうと思います。(だって、たとえば犬の嗅覚とか、人間の何万倍とか言われたりしますけど、それは彼らにとって「普通」のことで、その嗅覚で生きているので、私たちは犬が「嗅覚が鋭い」とは言っても「過敏だ」とは言いませんものね。あ、アスペの方が動物的だと言っているわけではもちろんありません。定型にない能力をお持ちだという意味のたとえです)

 手の本数とか、身体の形の違いについては一目見るだけで分かりやすいですから、お互いの「生きる工夫」に違いがあっても、それは「当然のこと」と思える。ところが定型アスペ間の違いは、行動の違いとしては見えてきますけれど、なんでそういう違いが生まれるのか、そこのところは見えませんから、それは当然の「生きる工夫」としては見えずに、「なんだか訳の分からない行動」としてお互いに見えることになります。そこで「常識」が共有されないので、お互いに苦しむことにもなる。「常識」を生み出している基本の違い(例で言えば「手の本数」の違い)には人はなかなか思い至らないからです。

 でも、アスペルガールさんのいろいろな説明を拝見していると、「ああ、なるほど、そういうふうに工夫をされているんだ」ということが、私にもなんだか想像できる感じが出てきます。そして「もし自分が同じ状況に置かれたら、多分似たような工夫をするだろうな」という風にも感じられるものがある。それはたとえば、「もし自分が犬のような嗅覚能力を持ったとしたら、どんな世界に生きて、どんな工夫をするようになるだろう?」ということを、ある程度は想像できるのに似ています。実際、アスペルガールさんのコメントを拝見して、私のパートナーのよくわからない行動について「ああそういうことなのかも」と「想像」できたように感じるものもあるわけです。

 もちろんそういう私の想像も、実は定型的な思い違いで、実際にはすごくずれちゃっている可能性もあるわけですけれど、でも今はその可能性よりも、今まで「訳が分からなかった」ことが、私にでも「想像できそう」と感じられる部分が出てきたことが新鮮です。

 アスペ定型間では「ものの感じ方や見え方から相当違うらしい」ということが分かってきて、「見えているものが全然違うのなら、もう理解し合うなんて絶対無理」という風にも感じられるかもしれないですが、でも、そこまで完全に「無理」と決めつける必要はないのではないか、定型的な想像力を使っても、もう少し「ああなるほど!」と理解できる部分があるのではないか、というふうに感じるようになりました。

 

2013年11月25日 (月)

反応を待ってみる

 パートナーと電話をするとき、とても特徴的なことがあります。これは子どもとも意見が一致します。何かというと、一つの話(彼女がかけてきた話題)が終わって、そのあとこちらが追加で何かを言おうとしたり、あるいは別の話題をしようとしたりして、「あの」とか「それでさ」とか言っても、そのままプチッと電話が切れてしまう、ということです (^ ^;)ゞ

 これは想像ですが、多分「自分が必要な話は伝えた」=「電話の用事は済んだ」=「あとは切るだけ」ということで、そのあと、こちらからの反応を待たないで頭が切り替わってしまい、私の「あの」とか「それでさ」とかはもう聞こえていないんだろうな、という気がします。以前は「何という失礼な奴だ!」とかちょっとむっとしていましたが、今は「あ、また例のことね」となんだかおかしくなっています。

 多分こういうところにも、「自分が話したことについて、相手の反応を確かめる」ということについての感覚の違いが現れて居るんじゃないかと思います。彼女の場合、もちろん自分がかけてきた用事について私の意見を求めていたりするときには、ちゃんと返事を待ってくれるわけですが、彼女が想定している私の反応のパターンというのか、幅というのか、それはかなり絞り込まれていて、それ以外に「何かこの人に別に言いたいことはないのかな?」とちょっと間をおいて反応を待ってみる、という感じにはならないような気がする。

 逆に定型の場合は、話題がそこから拡がったり、別の話題に飛んだりする可能性をいつも計算に入れていて、一つの話題が終わっても、「もう相手には話しはないのかな?」ということを確認する間を入れることが多いんだと思います。それはほんの一息くらいの短いタイミングでのことですけれど、その短い時間の差が、電話のやりとりなどでは「プチンと切れる」というふうに目立ちやすいんだと思います。顔を合わせて話をしているときは、電話のようにいきなり「切れる」=「消える」ということはできませんから (^o^)、電話の時ほどはそれが目立たない。

 アスペの方にもいろんなタイプの方がありますから、この話がどこまで一般的に言えるのかは分かりませんが、彼女の場合は基本的には「必要なことを話す」ということに会話の意味は絞り込まれていて、それこそ「無駄話」はもちろんのこと、「なんとなく、思ったことを話してみる」というやりとりもほとんど無いように思います。

 小説も含めて本はほんとによく読む人なので、彼女の中でいろんなイメージの世界は展開しているんでしょうけれど、それがこちらに「漏れ出てこない」というか、伝わって来にくいし、またこちらから世間話をなんとなく話しかけにくい感じが生まれたりします。下手に話しかけると困った顔をされて「それで、私に何を言ってほしいわけ?」とか聞かれたりもしますし (^ ^;)ゞ 。そういうところが定型からすれば「自分の世界に籠もりやすい」と感じられる部分でしょうね。

 

2013年11月22日 (金)

時間をかけた「共感」

 私は定型の中でも人と共感し合いたい欲望が強い方だと思いますが、言うまでもなく(?)パートナーは共感を求められることが好きではありません。もちろん、結果として同じ感想を持ったり、同じ感情をもったりすることは別に構わないのだと思いますが、私からした話について、共感を「求められる」と感じるともうだめみたいです。

 今日もあることでつくづく怒りを持つことがあって、そのことを話をしたんですが、「案の定」という感じで「私はそういうふうには感じない」と言われてしまいました。以前の私ならそこで「なんで?~」とたたみかける感じになるか、「あ、またか。この人には話が通じないわ。やっぱり話すだけ無駄だ」と思って一気に気持ちも冷めて、もう話もしない、という感じになることが多かったと思うのですが、今は一歩引いて、もう少し彼女の話を聞いてみようかという感覚になっていることがしばしばあります。で、彼女の方もそれでおわりにならずに、考えてくれようとする感じがあります。

 ということで、その私の「怒り」について、なんでそういう怒りになるのか、いろいろ説明をしたり、彼女の意見を聞いたりしていて、最初は彼女はとても「冷静」というか、感情的な判断はしない感じで、言ってみれば平行線だったのですが、話している内に、彼女の方にも怒りが湧いてきたようで、「私だったらそういうときはこうする」という、かなり「過激」な意見までとびだしていました。

 ある意味、「怒り」というところでは共感的な関係になったようにも思えるのですが、私がそのことを言うと、「怒りの内容が違う」とか言うんですね。

 私から言わせると、そんなの、一から十まで完全に同じになることなんてあり得ないんだから、だいたい同じ方向での理解や感覚が共有されたなら、わざわざ「違う」と強調して何の意味があるの?と思ったりするのですが、そういう大雑把さはだめみたいですね。で、「じゃあ何が違うの?」と聞いていくと、逆に細かい言葉の違いに(パンダが)こだわりすぎる、とか言われて、なんだか話がすれ違ったまんまになりました。

 で、まあすれ違ったまんまなわけですけれど、私としてはちょっと興味深いことがありました。それは何かというと、最初彼女は私の怒りに対して(彼女に対する怒りではなく、ある出来事についての怒りですが)、すっと引いて醒めたような受け答えをしていた感じだったのが、そのあと少しずつ話をしていく中で、結局彼女の中にも怒りが湧いてきたことです。

 彼女に言わせればその怒りは私の怒りとは違うんだ、というわけですけれども、でもある共通の出来事についての怒りが、即座にというわけではなくて、ある程度時間をかけて話し込んだあとには生まれてくることもあるんだなあと思いましたし、それは私の大雑把な感覚で言えばまあ「共感」といってもいいようなものなんです。

 やっぱり、時間をかけてコミュニケートすることに、それなりの意味が出てくることもあるんだなあと思いました。

2013年11月21日 (木)

二つの見え方、一つの現実

 今朝、目がさめたとき、ふと「ああそうか」と思ったことがありました。

 定型アスペのズレというのは、いろんなことの意味の理解や見え方、表現の仕方について、言ってみれば想像もしなかったような違いがお互いの間にある、ということだと考えてきたわけです。定型アスペのコミュニケーションがいろんな深刻な問題を生んでしまうひとつの大きな理由は、そういう「お互いの見方の違い」にお互いが気づいていないことだろうということになります。だから、まずはお互いどれほど見方が違うのか、見え方が違うのかについて、お互いに理解しようとする姿勢が必要なんだと思えたわけです。

 つまり、どちらも「同じ世界を見ている」と思っていたところが、全然違う世界を見ていた、ということにお互いまずは気がつかないといけないんだろう、ということです。ここまでは今まで何度もいろんな例で、いろんな言葉で考えてきたことでした。

 それで、今朝ふと思ったことと言うのは、考えてみれば当たり前のことかもしれないんですが、そんなふうにお互い「見え方」は違っても、でもやっぱり「ひとつの現実」を生きて居るんだなあということでした。

 まあ、たとえばなんかの料理を一緒に食べていて、自分は美味しいと思い、相手はまずいと思うかもしれなくて、それでその料理を巡って意見があわなくてケンカになることはあるかもしれません。でも「同じ料理を食べている」という「現実」があるから、ケンカになるんですよね。

 見えている世界はすごく違うのかもしれないけれど、そのことでお互いにぶつかり合ったり、苦しんだりするのは、それは「同じ現実を生きている」からなんでしょう。そうでなければそもそもぶつかり合うことさえ無いはずです。

 二つの見え方をしている一つの現実を一緒に生きている。それがアスペ定型の関係だし、もっと言えば、定型アスペに関係なくだれだってまったく同じ見方で生きている人はあり得ないんだから、すべての人同士は結局そうなんだろうとも言えるんじゃないでしょうか。ただその見え方の違いがトラブルにつながりやすいような性質の違いなのか、それほどでもないのか、という違いは色々あるのかもしれませんけれど。

 

2013年11月20日 (水)

優劣で見られる?

 アスペ定型の違いについては、アスペルガーは「障がい」であって、定型が「できること」を「できない」人たちで、「発達障がい」と呼ばれるように、定型が発達させてきたことを発達させずに「低い発達レベルで留まっている」という見方が一方にある(というかそういうのが多い)のだろうと思うのですが、よく考えてみると、そういう見方自体、なんだか限界がありそうな気がします。

 というのは、このブログでもみなさんのコメントをいただきながら割合にはっきりしてきたことの一つに、ほんとに基本的なところでものの見え方、感じ方が「そもそも違う」と思える例が多かったと言うことがあります。そうすると、たしかに「定型のような見え方、感じ方は<できない>」とも言えるんだけれど、でも逆に定型の方は「アスペのような見え方、感じ方は<できない>」とも言えるわけですから、まあおあいこですよね。

 また視覚障がいの方のことを思い起こすんだけど、生まれつきの視覚障がいの方はそもそも「見える」という体験は(晴眼のような意味では)ないわけですよね。そうすると、視覚という手がかりを使って運動したり、コミュニケーションをしたり、ということはもちろん「できない」わけです。でも、それ以外の感覚を使ってすごい能力を発達させて生きていらっしゃる。たとえば歩いている先に落ちている障害物を、靴から出る足音の反射をレーダーのように使って察知してよけたり、そんなことは日常茶飯事な訳です。もちろん晴眼者の私にはそんな「超能力」のようなことは絶対に出来ません。

 もともと持って生まれたものが違えば、それを使ってどう自分を発達させていくか、という道筋もそれぞれの特徴によって生まれるわけで、それは一方は「順調に発達」して、他方は「途中で発達が止まる」とか「発達がおかしくなる」という話とは違うんじゃないでしょうか。

 にもかかわらず、それが「障がい」と呼ばれるようになり、「定型」とか「健常」とかの人に対してその発達が「劣っている」というように考えられるようになる理由は、やっぱり「多数派のやり方にはあわない」からということがいちばん基本なんじゃないかなと思うわけです。

 この私の考え方に対して「それはおかしい」という見方があるとすれば、ひとつは「人間というのはコミュニケーションの中で複雑な社会を作って生きていくように、ずっと進化を続けてきたんだし、それが他の動物にはない<人間らしさ>なんだから、その社会にうまく適応できないとなれば、それは「劣っている」ことなんだ。」という意見かもしれません。

 でもその考え方も、どうなんでしょう?そもそも人間の社会って、かなり昔から健常者と障がい者と一緒に暮らす工夫をしてきたように思うし(もちろんその逆の場合もありますが)、今だったら精神障害と言われる人も、「神懸かり」と言われてそれなりにその社会で役割を果たすことがあったり、多分今ならアスペと呼ばれるだろう方なんかも、「変わり者の職人かたぎ」とか見られて、逆にその仕事には尊敬されたりとか、いろんなことがあったと思うんですね。今の障がいの分け方は時代によって随分違うわけです。

 で、そもそも人間の社会って、そんなふうに「色んなタイプの人」をうまくつなげて柔軟に生きられるように進化してきたんだ、と考えれば、上の考え方はすごく一面的な見方だと言えるんじゃないでしょうか。

 そんな風に考えると、「優劣」が問題なんじゃなくて、「見方・生き方の違い」をうまくお互いに調整できないことが問題なんだ、という話になりそうな気もします。日曜の続きの話になりますが。

2013年11月19日 (火)

落語「厩火事」の駆け引き

 パートナーと話をしていて、いろいろ話が通じ合わないことがあるわけですけれど、以前なら「なんで理解されない(できない)のか」と戸惑ったりいらだったりするところ、今は「ああ、ここでも見えているものがずいぶん違うんだな」と考えることの方が多くなりました。

 最近割と感じるのは、まあ、改めて考えれば当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、人々と自分のつながり方とか、人々の中での自分の意味とか、位置とか、そういうことについての視点の違いです。

 多分定型の多くは他者から自分がどう見られているか、どう評価されているかということにかなり気を遣って、その中にいろんな喜びを見いだしたり、悲しみや辛さを見いだしたりして、またさまざまな工夫をしようとしていると思うんですが、それに比べると、パートナーはやはり「人がどう見ようとそれはその人がそう見るだけのこと」「自分は自分」という考え方が強いように思えます。

 もちろん彼女だって定型が多数の世の中でなんとか生きていこうとすれば、相手の期待とか要求とか、そういうものをまったく無視することは出来るはずがありません。なんとかそれに合わせるためにも人間関係のことを考えざるを得ない、ということはあって、そこでいろいろ苦労もしているわけです。でもやっぱり「自分は自分」というところはかなり根っこの方に持っている揺るがない感覚で、そういう「自分」はとりあえず置いておいて、「他人」との付き合いは他人モードで、ある意味「テクニック」として対処する感じなのかなと感じるんですね。

 前にもすこしそういう話があったと思いますが、私の感覚から言うと、彼女の場合その「他人モード」と「自分モード」の区別をすごくはっきりさせているような気がします。それに比べると、定型は多分「他人モード」と「自分モード」の間にいろんな中間的な状態を作って生きているのではないでしょうか。そしてその中間的な状態で、いろんな人間関係の駆け引きをやっている。

 アスペの方の場合、少なくともその一部の方は、一旦結婚をして「家族」になってしまうと、それはもうはっきりした「自分モード」の世界と受け止められて、中々そこは揺るがないように思います。もうそれは「親子」の関係のように安定したものと考えられる傾向が強い。それで恋愛関係の時のように、相手とつながりを作ったり、深めたり、維持したりするために気を遣うことはかなり少なくなる。よく言えばまったく自然体の安定した家族です。

 それに対して、定型の場合は、たとえ相手と一緒に「自分(たち)モード」に入ったとしても(結婚したとしても)、ときどきそのつながりを改めて確かめるようなやりとりがないと、安心できなかったり、あるいは幸せ感を確認できなかったりする傾向が強いんじゃないかなという気がします。だからそこがうまくいかない定型アスペのカップルでの定型側の悩みに「自分がこの人にとって意味があるのかどうかわからなくなる」というものがよく語られるのではないでしょうか。

 中間的な状態、ということから言えば、定型の場合は仮に「自分(たち)モード」に入った(結婚した)としても、ときどきお互いのつながりについて改めて再確認できないと、ちょっと中間的な状態に戻して相手の「気を引いてみる」とか、いろんなことをやって「駆け引き」をして、そして改めて「自分(たち)モード」がちゃんと続いていることを確かめようとする。よく言えば柔軟に、常に新鮮に関係を保とうとしているとも言えるし、悪く言えば不安定だともいえるかもしれません。

 ああ、たとえば落語の「厩火事」なんか、そういう駆け引きのちょっと極端な例ですね。旦那が自分のことを本当に大事に思っているのか不安になった妻が、わざと転んで旦那の大事にしていた品物をこわしてしまい、そこで旦那が自分のことをまず心配するか、品物を心配するかで旦那の本性を見極め、別れるかどうか決めようとするという話です。そこまでして確かめることはまあそんなにないことだとしても、日常のちょっとしたやりとりの中で、相手の気持ちを確かめたくなるのが定型の性のように思います。

 アスペの方はそういう定型的な中間的なやりとりについては理解しにくいので、「他人」と「自分」というはっきりした線引きの世界で生きる道を選んでいかれるのかもしれない。結婚はそういったはっきりした線引きを越えることだから、そうするとたとえばアスペのパートナーが「釣った魚には餌をやらないような態度をとる」と定型の側が感じてしまうような、恋愛段階とのすごい大きな落差が生まれてきたりする。

 そうすると定型の側は不安になって例の駆け引きをするようになるけれど、それがまったく通用しないために悩みがどんどん深まっていく。アスペの方からすれば、もう結婚しているのだからなんでそんなことをしなければならないのか理解しにくいし、そういう要求が定型にあること自体想像することもしにくいかもしれません。

 最初の方に書いた、定型が「他の人からどう見られているかが気になる」ということは、多分結婚相手に対してもかなり言えることなんじゃないでしょうか。「相手が自分のことをどう思っているのかが気になる」という感じ。もちろん、もう十分にお互いに安心しきって、もう言葉もいらないような関係になっている夫婦なら定型でもあんまり問題にはならないのかもしれませんが、しばしばズレに悩まされる定型アスペの関係では、定型の側はそこに不安を抱きやすく、またそれが拡大されやすい状態に置かれるのかもしれません。しかも相手にはその不安感は理解や共有されにくいですから、ますますドツボにはまっていく、と考えられるかも。

 いつもながら定型的な私の視点から理解しようとすると、たとえばそんな理解の仕方が考えられる、という話です。アスペの方から見てその理解がどうなのかは分かりません。

 

 

 

2013年11月17日 (日)

お互いの間に「障がい」がある

 「障がい」というのは、いわゆる「障がい者」の中にあるのではなくて、「障がい者」と呼ばれている人と「健常者」と呼ばれている人の「間にある」のだ、という言い方を何度か聞いたことがあります。ひとはだれもがひとりひとりまったく違った個性を持って生まれてきますし、そういう個性を持ちながらいろいろなその人なりの経験を積み重ね、自分というものを作り上げていきます。その経験も誰一人同じ経験をする人はいないわけですが、仮にもしほとんど同じ経験ばかりをする二人の人がいたとしても、持って生まれた個性が違えば、その経験の受け止め方もまた違ったものになり、やはりそれぞれが個性的な自分を育てていくことになります。

 そういう「個性」の中に、その社会の中では主流から外れてしまい、そのやりかたには身体的にか精神的にか、とにかくなじめなかったり、対応しにくかったりする人々があって、そういう「個性」に生まれることは別にその人が選択したものではないのだけれど、世の中はその人を「障がい者」と名付けて特別扱いします。

 特別扱いをするのには理由があります。主流派の人間同士も、それぞれ個性がありますから、お互いに理解が難しかったり、調整が難しかったりすることはありますが、でも多くの場合は主流派が持っている「常識」の範囲でなんとか折り合いをつけて対処していきます。ところがそういう主流派的な「常識」ではうまく対処できないズレが生じてくると、主流派は大変に困ってしまい、激しく怒ったり、傷ついたり、呆然としたり、どうしていいのかわからない状態が生じます。同じ事は実は「障がい者」の側からも言えることなのですが、多数の側の主流派は自分の「常識」を疑わなくても済むような世界に生きているので、問題があるのは自分ではなく、その「常識」から外れた「障がい者」の側だ、と思うことで、なんとか自分を保ち、主流派的なやり方をそのまま続けようとすることになります。

 主流からそうやって「障がい者」と名付けられると、いろんなことが起こります。ひとつは「この人は主流ではない」とか「正常ではない」、あるいは「非常識」といった烙印が押され、そのことで社会の中心からしりぞけられがちになること。そうでなくても「障がい者」は主流のやり方になじめないことで社会の周辺的な位置にだんだん追いやられていくことが多いわけですが、言ってみればそうすることが「当然のこと」という理解が定着してしまうことにもなります。

 また「障がい者」だから、特別の「配慮」が必要なんだ、という考え方も生まれます。その場合は「私たちには普通に出来ることが、この人は障がいが理由でできないのだから、私たちにできる援助をしてあげることが必要だ」という考え方がベースになるのでしょう。それは一種の「思い遣り」ということになります。

 「障がい者」を排除する方向なのか、それとも受け入れる方向なのか、ということについて、主流派のこの二つの態度は正反対になっています。ただどちらにも共通すると思えるのは、「私たちが基準=常識なんだ」という理解の仕方でしょうね。人間誰しも生まれてから大人になるまで「常識」を学びながら成長し、その中で自分の生き方を作っていくわけですから、誰にとってもその自分の「常識」を疑うことはものすごく難しいことです。自分が立っている足場(常識)を自分で一度崩してみない限り、常識を疑って見直すことはできませんから、それはとても危険なことでもあります。下手をすると全ての足場を失って自分自身が崩れ去ってしまいかねないわけですし。当然主流派はその常識を疑うことは特に困難です。

 逆にパートナーの話を聞いていると、彼女は回りから「あなたの感じ方はおかしい」「常識ではそうじゃない」と言われ続けてきています。だから「自分の感じ方は間違っている」と理解して、自分の感覚をそのまま受け入れられなくなったり、「自分の感じ方を理解してもらうことは不可能だし、自分も相手の感じ方を理解することは不可能だ」という思いを積み重ね、人間関係の基本的なイメージはとても「個人主義」的なものになる。定型から「そんなの当たり前でしょう」とか「常識じゃない」「みんなそんな風に感じるんだから」といくら言われても、自分はそう感じないわけですから、「私は私」と思わなければやっていかれないでしょう。

 そうやって、定型アスペ間でよく問題になる「常識」VS「個人」の言い争いの図式が生まれてくると考えるとちょっと分かりやすい感じがします。そうなるけれども、社会的には多数派が力を持つから、結局は片方が「障がい者」で片方は「健常」と名付けられておさめられることが多くなる。このあたりは言ってみれば露骨に「力関係」の問題になってしまっています。

 私自身だって、特に子育ての仕方を巡っては、私の感じることが「正しい」し「常識」だと疑うことなく、それを「どう理解してもらうか」という形で彼女に対応していましたし、そのことで彼女は常に「自分の子育てがわけもわからず頭から否定されている」と感じ、そうやってお互いに苦しんできたわけですが、私は自分を「常識」の側だと思うことで、「力関係」としては自分を上に置いてきたことは間違いありません。

 最初に書いた「障がいはお互いの間にある」という考え方は、そういう「力関係」で「上下関係」を作るのではなく、あくまで「たまたま違った個性を持っている人間同士」として対等な関係なんだということを強調しながら、でもその個性と個性の間に通じあいにくさという「障がい」があって、それを乗りこえる方法を考えなければならない、という発想になるんだと思います。さて、社会の中では現実にいろいろな差別が存在する中で、こういう「対等な者同士の個性の違い」という考え方で問題に向き合っていくというやりかたは、私は共感を持ちますが、それはどの程度現実的で、どの程度実際の問題を解決することにつながるのでしょう。

 (子育ての問題について、実際に子どもの側からみて、パートナーの接し方に苦しんできたということが、少なくとも女の子の方ではありました。その点では「こういうお母さんのやりかたはつらいよね」ということについて、私と子どもはとても見方が一致しましたから、その意味では「私の考え方の方が正しい」という評価もありうるのかもしれません。でも、少し見方を変えれば、「子どもと母親との個性が合わなかった」という考え方もあるのかなとふと思いました。個性が合わないときに、パートナーのやり方では無理が来て、子どもに苦しみを与えてしまうのだ、という見方です。そういう見方なら彼女のやり方を全部否定する必要はなくなります。それはそれで意味のある場合もあるけど、「この場合はうまくいかない」という、限定された否定なのですから。)
 

 

2013年11月16日 (土)

「嬉しいけど辛い」の板挟み

 定型アスペの間では、お互いの距離の取り方がいろいろ違うのかなと思うのですが、パートナーが何かで私のことをほんとに心配してくれるときには、なんだか私と彼女の区別がなくなってしまっているのかなと思うことがあります。たとえば私がなにか悩み事があって話をするときなど、いつの間にか私の考えたいことが置き去りになって、彼女の心配や怒りや疑問、考え方が強く主張されるような感じになることがよくあるんです。

 私の話は聞いてもよく分からない、ということもあるようなんですが、定型的には、まあ分からなくても、聞いてもらうだけでもありがたかったりしますし、それで、そうじゃなくて、自分でも考えがまとまらないので、話ながら考えたいから、まずは私の話をそのまま聞いて欲しい、と言うんですが、そこがうまくいきません。どうもそういう聞き方は「他人に対する聞き方」になると感じられるみたいなんです。

 そういうところから改めて考えてみると、やはり定型は相手と「他人」になったり「一体」になったり、ということの間に、いろいろな中間の状態を作るんだろうなと思いました。そしてアスペの方にはこの定型的な中間状態の作り方がとてもわかりにくいのかもしれないと思うのです。

 まあ、定型の私の感じ方ですから、アスペの方からみると、「それは違う」ということなのかもしれないのですが、定型的にはそんな風に感じられるズレにはどんな対処の仕方があるのかなあと考えます。

 本気で心配してくれるのはとても嬉しい。でもその結果、私自身の話を受け止めてもらいにくくなり、いろいろ迷っていると、「私に何て言ってほしいわけ?」「あなたはどうしたいわけ?」というふうに「答えを求められる」ような感じになって、それがわからないから話をしながら考えようとしている私は逆に辛くなってしまう。(そして彼女が言うにはそういう言い方が出てくるのは、本気で心配しているからだと言うことのようなのです)

 この嬉しいんだけど辛い、という板挟み状態をどう受け止めてうまく切り抜けられるのか。ちょっと悩みのひとつです。

2013年11月13日 (水)

「わからない」けど「通じ合う」?

 このところ「ずれた共感」 という記事を巡って、星さんやコルテオさんが下さるコメントとやりとりをさせていただきながら、なんとなく今までとは違う何かを感じています。

 何が違うのか、例によってまだはっきりとしませんし、その違いというのは、今までみなさんからいただいたコメントも実は同じようなものなのに、単に私の感じ方が変わっただけのことなのか、あるいは星さんやコルテオさんが私やこのブログに対してすごく気を遣って下さって感じが変わっているということなのか、またはご自分のことをアスペルガーとは断定されていないように、星さんやコルテオさんの個性に関わることなのか、そのあたりもよく分かりません。

 そういう状態ですが、それでも私がなんとなく違いを感じるところを考えてみると、これまでアスペの方が自分の感じ方について紹介して下さるときなど、私は「ええ?びっくり」という感じが多かったように思います。「そこまで違うのか!」と驚いて、問題の大きさを改めて思い知らされるという感じでしょうか。

 それに対して、星さんやコルテオさんとのやりとりでは、言ってみれば「ああなるほどなあ」という、「ちょっと分かるかも」という印象を得ているような気がしますし、私の書くことについても、(お二人のお気遣いによる「お世辞」でないのだとすれば)なにかお二人の感じていることにどこか響くものが少し出てきたのかもしれないと思ったりします。

 もちろんそのことで私がアスペの方(かどうかもはっきりはわからないわけですが)を理解できてきたという積もりはありません。未だに私にとってはやはりなぞだらけの関係です。でもそれはそれとして、それでもなんとなく「通じ合っている」部分を感じるということかもしれません。

 なんだかとても矛盾したことを言っていますね。「わからない」んだけど「通じ合っている」というわけですから。でも実は定型同士だって相手を完全に分かって関係を保っていることなんてあり得ないわけで、多かれ少なかれ「わからない」にも関わらず、なんとなく「通じ合っている」感じを持っています。もしかすると、そんな形での「通じ合っている」感じに近いものを、私は感じたのかもしれません。もちろんお二人がどう感じられているかは全然わかりませんが。

2013年11月12日 (火)

ズレが当たり前

 まだどれだけ安定してそうなのかはわかりませんが、最近パートナーとの間で、アスペ定型のズレがあることが「当たり前」のことで、何か特別のことではない、という感覚になっていることが時々ある気がします。

 いままでしつこく「違い」のことを考えてきましたが、そうすると逆に「ああ、ここは一緒じゃない」という、「同じ」部分が浮き立って感じられるようになったりもします。

 これって、何なんでしょうね?一種の「慣れ」なのか、「諦め」なのか、「開き直り」なのか……。いずれにせよ自分にとってはマイナスの感じはありません。

 まあ、これからもいろいろと揺れたりはするんでしょうけれど、自分の中にぼちぼちとそんな感覚が生まれ始めている、ということはちょっと注目かな、という気がします。

2013年11月 9日 (土)

家族の絆と夫婦

 最近考え始めたことです。もしカップルがお互いに定型アスペのズレを抱えている、という理解を共有したとします。その上で、お互いの「違い」を理解しようと努力しようとしたとします。お互いがもしそういう姿勢に変われたとしたら、それまでの訳も分からずに相手の言動に苦しむような状態はだいぶ変化して、激しく傷つき続けたり、あるいは相手を攻撃し続けたりすることはかなり減るだろうと思います。そしてお互いに自分の理屈ではなく、相手の理屈に配慮しながら努力しようとする姿勢が強まっていく可能性が高いでしょう。

 ただ、そういういちばん厳しい状況を乗りこえたとして、お互いのズレが無くなることはありません。もちろん定型同士でも全ての夫婦は必ずズレを抱えているでしょうけれど、やはりそのズレ方には定型アスペ間のズレとは大きな違いがあると感じます。まだ十分に整理して考えることは出来ませんけれど、直感的にはそう感じる。

 その後のカップルにとってはそのズレを出来るだけ理解し、調整していくこと自体がそのカップルがずっと取り組んでいくひとつの大事な「共有のテーマ」になるのでしょうけれど、それはやっぱり定型同士のカップルにはない、それなりに難しい課題でしょうから、その分苦労も多いはずです。そういう苦労をしてもカップルで居ることに何か意義を感じたり、喜びを感じたりできなければ、なかなかそういう関係を続けることはむつかしくなるかもしれません。

 さて、そんな風に考えてみましたが、私が今気になっていることの一つは、こういう考え方自体がもしかしてとても「定型的」なもので、必ずしもアスペの方はそういう考え方はされないかもしれない、という可能性のことです。

 そういうことを考える理由として、少なくとも二つのケースを思い浮かべるんです。ひとつは私とパートナーの関係についてで、もうひとつは「アスペルガーと定型を共に生きる」でそれまでの夫婦関係の葛藤をいろいろ語って下さった東山ご夫妻の関係です。

 両方のカップルに共通することとして、定型の側(私やカレンさん)がある意味ぼろぼろになるような状態で「もう夫婦関係を続けることはほとんど無理だ」と思い、またそう直接・間接に口に出しているような状況で、アスペの側(パートナーや伸夫さん)は、「夫婦関係そのものがもう最終段階だ」という理解は、ほんとに最後の最後までもたれなかったらしい、ということです。

 なんでそういう「状況の理解」にズレが生まれるのか、そこはまだよく分かりませんけれど、パートナーの話を聞いていると時々感じるのは、「家族」というものはもう何があろうと絶対崩れない(逃れられない?)関係なんだ、という感覚がとても強くあるのではないかということです。

 これは定型でも、自分の親との関係を考えると、たとえお互いにどんなにシビアな状態になっていたとしても、「お互いに家族である」という感覚は消しようもないように思います。親が離婚されたような場合はまた少し違いが出てくるかもしれませんが、子どもにとって両親はたとえ関係がとても悪くても、あくまで「夫婦」という特別な、切っても切れない関係で、「もう別れた方がいい」というようなことを子どもが両親について考えたりするようになるのは、思春期以降になってからではないでしょうか。

 もし仮にアスペの方が「家族」というものに、そういう「運命的な、つながり」を強く感じていらっしゃるとすれば、たとえカップル、特に夫婦関係が定型的に見れば「これはもう終わりだなあ」と感じられるレベルにまでシビアになったとしても、「それで終わり」という理解は生まれにくいのかもしれません。だから仮に定型の側から離婚を切り出されたりすると、何でそうなるのかが分からなくて困惑する。

 東山伸夫さんの離婚を巡る手紙にとてもよくその感じが現れているように思えるのですが、伸夫さんにとっては仮に「離婚」という「手続」をとったとしても、「相手に配慮して助け合う」関係はそのまま続くのが当然と考えられているようで、そのことにカレンさんが戸惑いを感じられていました。定型的な感覚では「離婚」はそういう関係を最終的に絶つことで、お互いが「他人になる」ことを意味すると思うからです。

 そういう感覚を定型的な人間関係に当てはめて考えてみれば、「親子の絆」に近い物のように感じられます。どちらが親でどちらが子、という意味ではなくて、「どういう状態になってももう運命的に切れないつながり」という意味で。

 私のパートナーもこの点で同じで、彼女は私がパートナーに求めたいものに自分が応えることは無理だ、という理解をしているのですが、その結果、私がそれを与えてくれる人に出会ったら、その人と一緒になることは仕方のないことだし、それで私が幸せになるのなら、自分にとってもそうしてもらったほうがいい、というようなことまで言います。でもそれは彼女にとっては関係がなくなることではなくて、自分は何か相談したいようなことができたら、ときどき相談にのってくれたらいい、とも言うんですね。やっぱりそういう「離婚」もそれで「関係が切れる」ことは意味していないようです。

 そこまで彼女が私のことを考えてくれることには、私はやはり心を打たれますが、私は彼女といろいろ手探りで工夫しながら死ぬまで一緒に生きていくことを望んでいますし、何かの事情で離婚せざるを得ない状況がもし生まれてしまったとしても(今は考えにくいことですが)、その場合の「離婚」はやっぱり「関係の終了」を意味するだろうと思います。
 うーんと、つまり何が言いたいのかな。そうそう、仮にお互いに定型アスペ間のズレを抱えていることに気づいたとして、そこを調整する努力をしなければ、という気持ちにお互いになったとしても、その調整の努力の足場である「カップル(特に夫婦)」であることの意味の理解については、もしかすると結構大きなズレがあるかもしれない、ということかな。もうちょっと考えないとまだうまく整理できていない感じが残ってますけれど。

2013年11月 7日 (木)

しんどさの表現の工夫

 昨日は相手の気持ちや心の状態を「共有する」という、今までうまくいっていなかったことについて、パートナーとの間でひとつの前進があったように思います。

 定型アスペでは「相手の表情や態度の理解」に独特のズレがあるみたいだと思うわけです。たとえばパートナーが怒ったりしんどそうにしているように私からは見えると、私はそれを見て「あなた(パンダ)に腹が立っている」とか「あなたのせいでしんどい」と彼女が無言で訴えているのかもしれないと思うわけですね。

 もちろん別に私のせいではなくて、別のことで腹を立てていたり、落ち込んでいたりすることはいくらでもありうるわけですが、普通は何の理由でそういう状態になっているのかこちらには分からないことが多いですから、「話を聞いて慰めてあげる」とか「具体的に手助けを考える」とか、自分が原因の時は「誤解があればそれを解く」とか「気づかずにそうしてしまったときは謝る」とか、何かそれに応えなければいけないと感じ、一体どうして彼女がそういう状態なのかを知りたくなります。

 でも仮に「どうしたの?」と聞いたとしても、これまでの彼女は「そんなこと(腹を立てているとかしんどいと思っているとか)はない」と答えられることがよくあり、私は訳が分からなくて混乱しました。そして最近の私の印象では「怒っている」とか「しんどく感じている」ということはその通りだと彼女自身が思っている場合が増えているように思うのですが、でも私にそのことが伝わっていて、なぜそういう状態なのか、何らかの形で理由を説明して理解してもらう必要がある、というふうにはあんまり感じないらしいのです。これは私の想像ですが、どうも「しんどいからしんどい態度をしているだけで、それは自分のことだから、相手には関係ない」と素朴に感じているような気がします。

 逆に私が「いつもと違う行動パターンをしている(睡眠時間とか)」とか、「落ち込んでいるように見える」場合には、彼女は不安になって自分自身がいらいらして来たりするみたいなんですが、定型同士なら「どうしたの?何かあったの?大丈夫?」などと声をかけそうな所、そういう感じにならず、仮に何か言う場合にも私にはなにか責められているような感じの言い方で言われることが多いと思います。

 また、女性が彼氏に不満を表明するときに「すねてみせる」というのがありますが、定型の場合、不快な表情や態度をするときは、結構意識的に相手に「自分は怒っているんだぞ」とか「つらいから慰めて欲しい」とか、そういうメッセージとしてそれをやっている場合が多いと思います。でもそれは私と彼女の間では私からそういうメッセージを発しても本当に伝わらなかったですね。しかも私はまさか「伝わらないことがある」とは想像さえしていなかったので、後に話を聞いて愕然としたわけです。全く意味のないコミュニケーションをして、無駄に怒りを蓄積し、消耗していたのですから。

 つまりどちらの場合を考えても、定型的な感覚では「仮に自分が何かをしてあげられないとしても、少なくとも話を聞いてなぐさめてあげる」とか「できることであれば一緒に問題を共有して考えてあげる」とか、そういうのが「親しい関係」という印象を持ちますし、そういう関係を維持する一つの方法として、不快な状態を相手に表現する、ということがあると思うのですが、彼女との間ではそういう方向に行きづらい感じがあります。

 で、昨日は彼女がかなりしんどそうに見えたので、どうしたんだろうと思って、また私が意図せずに彼女に何か負担をかけているとかもあるかもしれないし、ちょっと話しかけてみても返事に時間がかかるし、いかにも「いやいや」という感じがして、また「拒絶されている」という印象を抱いてしまったわけです。

 それでしばらくしてからそのことを話したら、仕事に関してとても気が滅入ることがあって、それでしんどそうにしていたということでした。私が「もしそういうことがあるなら、聞かせてもらえると嬉しい」というと、仕事の性質上、個人情報に関わることもあって話が出来ない、とうので、「もしそうなら、仕事でそういうことがあって、中身はいえないけどしんどい、ということだけでもいいから話してくれると嬉しい」ということを理由と共に話したんですが、そうしたら「これからそうする」と言ってくれました。

 もしそれだけでも話してもらえれば、私もしんどそうな彼女に対してどう接したらいいか、ひとつの大事な手がかりを得られるので、とても助かります。彼女と私との間で、「不快な表情や態度をとることが、相手にそのことを訴える意味があるかどうか」ということについて、理解のズレがあるとしても、今回のようなちょっとした工夫(?)が成り立てば、お互いに相手の感じ方を尊重しながら進むことができるかもしれません。
 

2013年11月 5日 (火)

定型の関係は不安定?

 今日の朝、出かける時間がパートナーと一緒になったので、駅まで一緒に自転車を走らせていたのですが、私の場合、そんなふうに「一緒に自転車を漕いでいる」ということが、なんとなく嬉しかったりします。別に特別に話をするわけでもないし、特別なことは何もないんですが。彼女がどう感じていたか聞きはしませんでしたが、そのときの雰囲気や、いつものやりとりから考えれば、きっと単に一緒になったということでしかないような気がします。

 つきあい始めた頃は、彼女の方から私に会いに来てくれたこともありましたし、毎日お昼を一緒に食べたり、多分彼女にとっても「一緒にいる」ことはもうすこしはっきりとした意味があったんだと思うんですが、家族になって「一緒にいるのがあたりまえ」という状態になると、その感覚が消えてしまうんでしょうか?

 海外のドラマなんか見ていると、ずいぶん年季の入った夫婦でも、お互いの愛情を語り合っているシーンに出会うことが少なくない気がします。日本のドラマはそれに比べると「淡泊」かもしれませんけれど、少なくとも私の場合は「一緒にいて嬉しい」とか、そんな気分をなんらかの形で伝え合いたい「欲望」があるように思います。

 このあたりの感覚が、どうも彼女には伝わりにくいようです。事実として一緒に暮らしていて、事実として助け合いもしているのに、なぜそこにわざわざ「うれしい」とかそういう感情を相手に表現する必要があるのか、ということがほんとに疑問になるようです。

 このあたりの感覚は定型の中でも強い弱いといろんな方がいそうな気もしますが、「一緒にいて嬉しい」というようなことを言われて、「なんでそんなことを言わなければならないんだ」と本気でいぶかるようなことはあまりないのじゃないでしょうか。言われないとダメと言うことはなくても、言われれば嫌な気はしない、という感じじゃないかと思います(もちろん関係が冷え切っている場合は別として)。

 定型の方は夫婦関係にしても他の親しい関係にしても、なんか「日常のケア」が必要なんでしょうか?それがないと不安定になりやすいとか?アスペの方はそれに比べて一旦関係が出来てしまえば、それはもう安定したものとして見なされやすいのかな?

2013年11月 4日 (月)

ほっとする関係のズレ

 猫はよく身体を舐めています。たまに他の猫の身体を舐めることもあります。自分の身体を舐めるついでに(?)、猫を撫でている私の手を舐めることもまれにあります。猫によってもそうするかどうかは違うみたいで、ほとんど私の手を舐めない猫も居ます。いずれにしても、猫は基本的にはあんまり触ってほしくないみたいです。だっこもだいたい嫌がります。ただ寒くなると自分から膝にのってくる猫もいますが、それは単に「暖かい」からだと思います。

 お猿さんの毛繕いも親密さの表現だという話を聞いたことがあります。誰に対しても見境無く毛繕いするわけではないんでしょうね。そう言えば昔、親から離された子猿は毛布に愛着を持つ、ということも読んだことがあります。それで不安がある程度収まるようです。

 今日もパートナーがいつものように一人で本を読んでいるので、「一人で本を読んでるときがいちばんほっとするのかな」と聞いてみました。そうだということでした。いまさらながらに、ああやっぱりそうなのか。と思いました。

 私にとっては何となく会話を交わすこととか、側に寄り添っていることが、言ってみればお猿さんの毛繕いみたいなものだと思うんですが、彼女にとってはそうではないんですね。そこはやっぱり彼女は猫的で、あんまり触れて欲しくない。放っておかれることが心地よいのだと思います。

 むつかしいのは、それは以前私が思っていたように、「拒否」なのではないということです。「拒否」されているのなら、「それではさようなら」で終わるんだと思うんですが、彼女が私のことをいろいろと心配し、考えてくれ、必要としてくれていることはしばしば強く感じられるようになってきています。

 昔ならたとえ彼女がそう口で言ったとしても、「そんなの嘘だ」と感じていたんですね。だって実際の行動が私の考える「親しみ」とは正反対になるわけですから。ほんとは嫌ってるくせに口先だけでそうでないと言っている。何のためにそんな心にもないことを言い続けるんだろう?という疑心暗鬼にまでなってしまうことになります。

 そんなふうに以前は彼女の言うこととやることが全く矛盾しているように思えて、それに振り回されてずっと辛い思いをした。でも今は彼女は彼女なりに一貫して居るんだと思えてきて、それと共に彼女なりに私を求めていることも感じられるようになってきました。そこには嘘はないんだと思えます。でもそうすると今度は私が自然に「ほっとできる」ような関係はそこでは求められないことも、同時になんかよりはっきりと分かってきたわけです。

 昔のような激しい葛藤ではなくなりましたが、相手のこともある程度分かり始めた気がすることで、じゃあどうやって自分の満たされない部分に対処したらいいのか、そこはじわっと効いてくる問題になりますね。

 

 

2013年11月 3日 (日)

ずれた共感

 最近パートナーの子ども時代を思って、回りに理解されずに孤立無援で生きてきたことに「大変だったろうなあ」とか「頑張ったんだなあ」とか「可哀想だったなあ」とか「共感」して、愛おしく感じもし、「大変だったね」と彼女に言うと、あっさり「別に大変じゃなかった」と言われてしまうのです (^ ^;)ゞ。

 彼女の説明では「電気のない生活をしてきた人に、電気が無くて大変だったでしょう、と言ったとしても、その人にとっては電気のない生活が普通の生活なんだから、別に大変も何もない」というわけです。

 まあ、そう言われればその通りかも、と一応納得するのですが、反面、自分の経験からまだ完全には納得しきれないところも残るのです。というのは、私の子どもの頃の家庭も相当に戦場状態でしたが、たしかに当時の私にとってはそれは「普通のこと」で、平和な家庭というのはなんだかぴんとこない、変な感じがしていました。その感覚は大人になってもとても長く続いたのですが、だんだんと周囲が見えるようになってきて、自分の育ちがいかに特殊なものであったかを思い知らされてきたのです。カウンセラーの知り合いにも「サバイバー」とか言われましたし (^ ^;)ゞ

 そうなってみると、「本当によくあの環境で生き抜いてこられたものだ」ということをしみじみと思うようになって、その中を必死で生きていた子どもの頃の自分に「共感」してしまったりするようになりました。それで「まあ、あの状況の中に育てばこんな変な人間になっても無理はないわな」とか、ある面では自分を許せるようにもなったりして、まあ今の情け無い自分を受け入れるっていうんでしょうか、そんなことも起こったりしました。

 ですから、たしかに「当時は普通のことと思っていた」ので「大変とは思わなかった」ということは分かる気がするのですが、でも「今思えば大変だったよな」という風にも私は思えるところ、彼女はどうもそこがそうではないらしいのです。

 今も彼女は職場でもいろいろ苦労はしていますし、そのことは自分自身苦労と感じてそう話してくれることもあるのですが、なんか「普通のこと」と「苦労」の関係が彼女の中でどうなっているのか、まだぴんとこなくて、不思議な感じがします。

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