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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年10月 4日 (金)

努力の仕方の違い

 アスペ定型間ではほんとうにさまざまなことが違うように思いますし、知れば知るほど、考えれば考えるほど、その違いの大きさは大きく感じられます。ただし、これは私の場合、ということですけれど、違いを知ると言うことはある意味ではどうやってお互いの関係を作っていったらいいか、という工夫のための手がかりが一つずつ増えていく感じでもあります。もちろんその中ですれ違いやぶつかり合いや傷つけ合いや、いろんな問題が起こるわけですけど、それはまあ仕方のない「授業料」のような気もします。

 もちろん、ただ辛いだけだったり、傷つく思いだけだったりすれば、そういう関係を続けていくことに意味があるのかどうか、疑問ですし、むしろお互いにお互いの道を進む方が、どちらにとってもいいことだってあると思います。私の場合は何でなのかは自分でもはっきりとは分かりませんけれど、苦労はありながらもそこから自分が得られるものは何か自分にとって大事なものだという感覚があるんですね。

 先日ふと思ったことがあります。子育ての問題はお互いの関係がどんどん悪化する大きな原因にもなりました。自分が多少苦しむことは耐えられても、「これじゃあ子どもが可哀想だ」と感じてしまうと、そうして、実際に私の目から見て(あくまで私の目から見て、にすぎませんが)「心配通り」に子どもが苦しんでいる姿を見たりすると、やっぱり我慢が出来なかったりするんですね。

 そういう本当に大変な問題だったわけですが、今は子どもがほんとに自分の力でそこを乗りこえて自分の道を歩んでくれている姿を見ているからかもしれませんけれど、とにかくパートナーと二人で子どもを育ててきた、ということはなんだかすごいことだなとも感じられます。たとえ私には疑問だらけのやり方であったとしても、彼女は彼女なりにほんとに子どものことを心配して必死だったことは今は分かりますし、何と言っても私とパートナーの間にだから出来た子どもであることは間違いないですから、大変だったことも含めて、やっぱり二人で育ててきたんだという感じがするんです。最近の感覚ですけれど。

 子育てのことでもお互いの「努力の仕方」がほんとにずれていたんですね。いじめの問題なんかもどうそれに対処するかは全然違ってました。私自身は子どもの頃からいじめに対しては「闘う」姿勢が強かったけれど、彼女の場合は自分がいじめられてそれと闘えるような状態には全然なかった。いじめられる立場で子どもの残酷さというものを身に染みて知らされた人です。そうするとどうやっていじめから身を守るか、ということについても全然考え方が違ったりするんですね。

 この違いにはアスペ定型の違いという部分もあるし、同じ定型でも人によって随分違うだろうと思います。でもアスペの傾向を持つ子どもの場合には、最近考えてきているように、基本的にすごく孤立しやすいだろうと思えますし、助けを求めることも、定型的ないじめの仕方を理解してうまく避けることもなかなか難しいでしょう。もちろんいじめられた場合はどの子も「孤立無援」の状態におかれて、誰にも助けを求められなかったりするわけですから、その点ではいじめられる定型の子と同じなんでしょうけれど、でもなんかもっと深刻になりやすいだろうという気はします。

 そういう苦労の中で自分なりに作ってきたやり方で、子どもを助けようとするんですが、私にはそれがどうしても納得がいかない感じがして、話をしたいんだけど、そういうところで「話し合って問題を共有して、解決法を探る」ということはほんとにうまく行かなかった。そこは今思えばアスペ定型のズレがすごく大きかっただろうと思います。

 うん、そうですね。もちろん定型同士でも難しいことはいくらでもあるけれど、それとはまたすごく違った難しさがアスペ定型間での「お互いの調整の仕方」にあるんだと思います。私の(多分定型的な)感覚で言えば、アスペの方はそもそも「自分で努力する」という姿勢が強くて、定型の場合は「相談しながら一緒に解決しようとする」感じが強い、そんな違いに見えます。(もちろん、アスペの方から見れば、そのズレはまた違うように感じられるのかもしれませんが)

 そのあたり、「仲間作り」ということについての姿勢の違いにもつながるものがあるんじゃないでしょうか。定型は良くも悪くも「仲間作り」をすごく大事にするように思うし、そのためにそうとういろんな「気遣い」をしているように見えます。でもそういう「気遣い」についてパートナーに話をすると、「そんなの偽善的だ」とか言われてしまうことがときどきあるんですね。そう言われて私の方はびっくりするんですけど。なぜって、そういう「気遣い」がお互いに出来ることが信頼できる関係にとって欠かすことが出来ないものと思えるからです。でもどうもそういうところの感覚がお互いにかなりずれているように思えてなりません。

 やっぱりこの、「問題が起こったときにどうやって解決しようとするか」ということについての、かなり根深い違いが、お互いの関係を難しくする大きな原因のように感じられます。その結果、お互いにすごく努力しているんだけど、お互いにその努力は理解しあえず、むしろ「相手は努力していない」とか、もっと悪ければ「相手は努力することを否定しようとしている」という風に見えてしまったりもするのでしょう。それは相当シビアな状況になりますよね。

 

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