2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« いらぬお世話 | トップページ | 幸せな時 »

2013年10月20日 (日)

共感を求めないことの意味

 今ちょっと自分の中でいくつかの理解がつながってきそうな感じがしています。

 以前も少し書いたと思うんですが、私のパートナーの場合、自分が何かを見て感動したとき(たとえば人知れずそっと一輪咲いた蓮の花)、私をそこに連れて行って、ただ黙って見せてくれたんですね。私なら「ほら、きれいでしょう?」とかひとこといいそうなんだけど、それは言わない。そこのところは「相手の感じ方を大事にする」んです。で、もし私がそれを見て感動していれば、それはそれでいいし、感動しなくても、「ああそうなのか」で終わる。そこで感謝してくれればそれは嬉しいし、でも感動されなくても「お互いに共感できない」ということでがっかりする感じでもない。そんな印象です。

 これはパートナーにだけ言えることではなさそうで、繭さんもご自分の写真ブログについてそんなことを書かれていたように思うし、他にもコメントなどでそういうことを書かれていた方があったような気がするし、また直接お会いしたことがあるアスペとおぼしき方についても全く同じようなことがありました。

 この話と、昨日「いらぬお世話」で書いた、「愚痴を言ったり、辛いことを話したりすることは、それだけでは相手に助けて欲しいと要求していることにはならない」という話や、「不思議なため息」 の話は全部つながっているように感じられてきたんです。

 定型的な見方からすれば、アスペの方は「共感能力が弱い」などといった決めつけ方がされたりするわけですけれど、私の経験からすれば、そしてみなさんのコメントなどを拝見したりしていると、決してアスペの方が「共感能力」の前提になるような「豊かな感情」がないのではない。逆にとても豊かだったり繊細だったり、あるいは自分の感情に対応しきれずに深刻な鬱になったり、時には激しい怒りをもって攻撃的になられたりもします。

 そして相手についても決して感情を認めていないわけではないし、どんな感情を持っているかを気にしていないのでもない。たとえば「傷つけたくない」でご紹介したように、私のパートナーは、彼女の発言で私が考え込んだりすると、私が傷ついて落ち込んだと勘違いして、そのことで「またパンダを傷つけてしまった」と自分が落ち込んだりするわけです。むしろ「過敏」と言ってもいいくらいに相手の感情に気を配っている、と言ってもいいのかもしれません。(ただ、その読み取り方が、定型の感情理解の仕方とずれてしまうんですね)

 定型の間で「あのひとは共感する能力がない」とか「共感性のない人だね」とか言えば、なんだか「感情を持たない、機械のような冷たい人」というイメージがついてまわるような気がします。「アスペルガーと定型を共に生きる」の最初に掲載された東山カレンさんの手紙を見ても、カレンさんの必死の思いが伸夫さんからどれほど「無視」されたり「踏みにじられた」と感じられていたかが切実に伝わってきます。それを読んだ定型の方の多くは、多分「なんて冷酷な夫なんだろう」と「義憤に駆られる」と思います。そういう感想も頂きました。

 でもそういう理解のされ方は、アスペの方からすればとんでもない、ということになるでしょう。むしろ「それはあなたたち(定型)のやってることでしょう」と感じられるかもしれない。私のパートナーもときどきその体験を語るんですが、「あなたの感じ方は間違っている」と定型から常々言われ続けるわけです。それに疑問を抱いたとしても「そんなの常識でしょう」とか「普通そういうもんでしょう」とか、「みんなそうしてるでしょう」とか言って、納得のいく説明もなく疑問を持つことさえ否定されてしまうように感じる。

 定型にとっては人との絆を作ったり、お互いの理解を深めたり、支え合ったりする上で大事な「感情の交流」が、アスペの方達には最初から否定されるような状況で生きざるを得ない。もしそうなら、当然人とのやりとりにとって、「感情」は否定的な意味しか持てなくなってしまうでしょう。

 だから、アスペの方にとって、「感情」はほとんど人とは共有できない「個人的な出来事」としか思えなくなってしまうのではないでしょうか?もし自分がなにかの感情を抱いたとしても、それを他の人と共有したいとは思わなくなっていく。感情はそれぞれの人がそれぞれに個人的に大事にするものだという感覚になっていく。だから、それでもなお自分にとって大事な人に自分の感情を伝えたい気持ちが湧いたときには、上に書いたように、自分が感動したものを、そっと見せてあげる、というやり方になり、それ以上相手の感じ方には干渉しないことを大事にされる。

 それは「自分の感じ方を否定され続けた」結果として、「相手の感じ方を否定してはいけない」と心底思うようになったから、そうするんじゃないでしょうか?自分が否定され続けて辛い思いをしてきたことを、自分が大事に思っている人にすることはできない。もしそういう理解が的外れでないとすれば、「共感を求めない」ということは、アスペの方にとっては最大級の相手に対する「思い遣り」だということになります。

 こういう理解の仕方にアスペの方が納得されるかどうかはもちろん私には分かりません。一口にアスペの方と言ったって、いろんなタイプの方もあるわけですし、あるいは全然的外れの、定型的偏見(?)と感じられるかもしれないですね。同じく定型の方にとっても、そういう見方は自分のパートナーには全然当てはまらない、ということもあるのかもしれません。ただ、私が自分の定型的な感覚でパートナーのことを中心としていろんなことをつながる形で理解しようとすると、たとえばそんな見方をすることで、今まで謎だらけだったことにようやく「分かる」感じが出てくるのは確かです。

 まあ、長い理解の旅のひとつの過程として、「今はそんな理解の仕方が私には生まれてきた」ということを記録しておきたいと思います。そういう理解の仕方が、お互いの関係をよくしていく上で意味があるかどうか、それは私には判断できません。ただ、模索の一つの足場を得たような気分ですね。それでさらに「何がずれているのか」を考えていくひとつの足場です。


 

« いらぬお世話 | トップページ | 幸せな時 »

コメント

diamondパンダ さま

アスペルガールです。
いつもコメントさせて頂きありがとうございます。

この記事の私の感想は『あ、そうですね』でした。

そもそもが、人と違うことが前提なので、「○○だよね」とは、なかなか言えません。
一緒が前提の方が可笑しいと思うんですよね。

だから、外資の方・起業家・研究者とは話しやすかったです。

外資の方・起業家・研究者は、
様々な国の方と関わるので、意見が違うことが前提であり、
人との違いでもって『自分を売る』ことが必要になります。

そして、私の視点を『面白い・楽しい』と言ってくれる方が多かったです。
ユニークな視点が羨ましいとさえも。

まぁ、私は否定されて育った訳ではないですがけど、
天然だと思われていたので可愛がられてきました。


---以下引用-----------------------

>むしろ「過敏」と言ってもいいくらいに相手の感情に気を配っている、
>と言ってもいいのかもしれません。
>(ただ、その読み取り方が、定型の感情理解の仕方とずれてしまうんですね)

---------------------------------

客観性を持たせるために、私の会社にいたアスぺ君を例に出してみます。

彼を半年くらい観察した限りでは、
かなり苦労していて、痛々しいくらいでした。

必死に分かろうとしているのだけど、常に回答は的外れ。
さらに、焦ってしまって、さらに的外れ。

同僚にも攻撃されていて、見ていて、辛かったです。

でも、一度でも、彼が誰かの悪口を言っているのも聞いたことないし、
必死で相手の期待に添えるように頑張っていました。

頑張っても、的外れだから、最終的には、鬱病になってしまって。。。

アスペルガールさん

>でも、一度でも、彼が誰かの悪口を言っているのも聞いたことないし、
必死で相手の期待に添えるように頑張っていました。
頑張っても、的外れだから、最終的には、鬱病になってしまって。。。

 うーん、やっぱりそういうことがしばしば起こってしまうわけですね。

 私のパートナーの場合は、最近、「定型の考え方ややりかたを理解しようとしても
 それは私には無理なんだから」とすごくはっきり言うことが多くなりました。
 そういうはっきりした「割り切り方」をしなければ、
 無理が重なって大変になってしまうんだろうと思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/53654938

この記事へのトラックバック一覧です: 共感を求めないことの意味:

« いらぬお世話 | トップページ | 幸せな時 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ