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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年10月

2013年10月31日 (木)

世の中の見え方の違い

 これはひとつのたとえ話です。Aさんは生まれながらに赤色と黄色の区別がつきにくい目を持っています。そしてBさんは赤と黄ははっきり区別するんだけど、黄と緑の区別がつきにくい目を持っているとします。

 そうするとAさんは世の中を見るときに、赤色と黄色の違いは意味を持ちませんから、色を手がかりにいろいろなものを見分けるときには赤と黄はおんなじ色として区別せずに理解することになります。同じようにBさんは黄と緑は区別せずに同じ色として理解します。

 さて、その二人が赤と黄と緑の三つのリンゴを見ながら話をします。Aさんは緑のりんごが美味しいと思っていて、緑のリンゴをとりあげて「これが美味しいんだよね。僕はこの色のリンゴが好きなんだ」と言いました。それを聞いたBさんは、それじゃあ、Aさんの好きな色のリンゴを沢山あげようと思って、緑と黄色の二つのリンゴを「じゃあこれ両方あげる」と差し出しました。

 Aさんは自分が好きなのは緑色のリンゴだといったのに、なんで黄色のリンゴもくれるのか、不思議に思いました。そしてBさんに言いました。「この色のは僕はあんまり好きじゃないんだけど。」するとBさんはとても不思議でした。Bさんから見ると、黄色のリンゴも緑色のリンゴも同じ色に見えるからです。それでAさんが何か勘違いしているのか、からかっているのか、遠慮しているのかと思って、笑いながら「いや、いいんだよ。好きなんだから遠慮なく食べてちょうだい」と言いました。

 Aさんは最初はBさんが冗談を言っているのかと思いましたが、あまりしつこく勧めるので、「この人は嫌がらせをしようとしているんじゃないか」と疑うようになりました。それからAさんは「じゃあBさんはどれが好きなの?」と聞くと、Bさんは「この赤色のが好きなんだよね」と言いました。それでAさんは「じゃあこれ(赤色)とこれ(黄色)、二つ食べていいよ」と言いました。Aさんには赤色のリンゴも黄色のリンゴも同じ色に見えるからです。

 ところがBさんはそれを聞いて怒りました。「僕が好きなのはこれ(赤色)だって言ってるでしょう。それなのになんでわざわざこれ(黄色)を勧めるわけ?」するとBさんが自分に嫌がらせをしているんじゃないかと疑い始めていたAさんも、ついに腹を立てて言いました。「何を言ってるんだ!これ(黄色)のは君が好きなリンゴじゃないか。なんでわざわざ僕に押しつけるんだ!」

 二人はお互いに見えている色が違っている、ということには全然気がつくことなく、自分はちゃんと相手に説明しているのに、相手はわざとそれを無視して嫌がらせをしていると思いこみ、そして自分の好意が台無しにされたと思ってショックを受け、「もうこんなやつとつきあうわけにはいかない」とまで思うようになりました。

 

 このたとえ話、もちろんアスペと定型の間で起こるズレのことを理解するためのひとつの試みです。ここでの「色」にあたるものは、たとえば人の感情というものについての見分け方や意味の理解のことが考えられます。たとえ話のAさんとBさんは赤と緑のリンゴが違うことはお互いに意見が一致しますから、「お互いに話は通じている」と思いこみやすくて却って話が混乱してしまいますし、同じようにアスペと定型も感情について共通の理解が成り立つ部分があるので、違いの部分がますますよく分からなくなってしまうのでしょう。

 アスペルガーを「障がい」として見るときには、「定型ならあたりまえにできること、理解することが出来ない人たち」というふうにその「障がい」の意味を理解しますよね。たとえば「他の人の視点を理解することが難しい」とか「感情の理解がうまくできない」とか、「共感能力が低い」とか。つまりAさんがはっきり区別ができる赤と黄色をBさんが区別できないので、「この人は色を見分ける能力が低いんだ」と考えるようなことになります。

 でも私はちょっと違った見方をしてみたいんです。たしかに私のパートナーもそうですが、定型同士なら簡単に理解できる「常識」が共有できず、こちらの言うことはとんでもなく違う意味に捉えられて、説明してもなかなか通じない、ということがあります。けれども逆に私の方が「なんで彼女はそう理解するのか」ということを理解しようとすると、それはなかなか出来ないんですね。さらに「彼女の考え方や気持ち」を理解することもものすごく難しかったりする。私の理解を話すと、彼女がびっくりっしてショックを受けることもよくあります。そうすると今度は私の方が障がい者にも思えてきます。たとえ話で言えばBさんが緑と黄色を区別できることがAさんには分からないことに気づいてしまったようなものですね。

 その意味ではお互いに同じなんだよな、と思うわけです。ただ、今の世の中は多数派の定型の理解の仕方で作られているものが多くて、たとえ話で言えば赤と黄色の区別を大事にしているので、その区別が難しいアスペの人にはとても不利な社会になっているし、それで「障がい者」ということになっているわけでしょう。黄色と緑の区別はアスペの方にはとても重要な意味を持つかもしれませんが、定型はそれが区別できないので、世の中的にはその違いは無視され続けることになります。

 さあ、そうするとこの「そもそも世の中の見え方がかなり違う」という人間同士、どんなふうにお互いの関係を調整していったらいいんでしょうか。そのことを考えるには、そもそも「どんな風に見え方が違うんだろうか」ということをできるだけ知ることがまずは必要なんだと思うんですが。


 少数派に多数派があわせるのは大変だから、現実的にはここは少数派に多少我慢してもらって多数派に合わせてもらうしかないのでしょうか?それとも「あくまで人間としては平等」なのだから、むしろ多数派こそが不利な状況に立たされている少数派に配慮すべきなのでしょうか。はたまたそういう二者択一の問題の立て方自体がおかしくて、そうではない別の道があるのでしょうか。

 また家庭の中では社会の多数派と少数派の関係はかならずしも通用しません。一対一ですから。それにアスペの方が男性で定型が女性の場合は、社会的には男性の方が今でも強い立場にいますから、家庭の中では力関係が逆転している場合もあります。こんなときはどうすべきなんでしょうか。

 私がここまでの間に考えようとしてきたことは、とりあえずはおよそこんな問題としてまとめられるのかなと思います。いろいろ大事なことが落ちているでしょうが、とりあえず。

2013年10月30日 (水)

慰めの力

 パートナーと話をしていて、彼女は「(自分が重視しているのは)ことばより行動」と言っていました。もちろん定型の世界でも「相手の言葉ではなく、行いを見て判断しなさい」というようなことは言われることがありますけれど、その場合はベースに「言葉で判断しがち」ということがあって、あえて「行いに注目しなさい」ということを強調していると思います。それをわざわざ強調しなければならないくらい、「言葉で判断する」傾向が強いと言うことになります。でも彼女の場合は「ことばより行動」はとても普通のことで、私に対して自分を説明するという必要でもない限り、わざわざ言葉にして出す必要さえないということなのだと思います。

 そのこととつながって感じられるのが、慰めの言葉についての彼女の受け止め方です。いくら言葉で慰めても、実際に何かが解決されるのでなければ意味がない、という感覚が強いようです。言葉だけならなんとでも言えるし、逆に不誠実にも感じられるのでしょうか。

 これについても、定型ももちろん「あの人の言葉には実がない」というようなことを問題にしたり、「あの人は口先だけの人だ(だから信用できない)」という評価をすることもありますし、逆に(ちょっと古いですが、最近話題にもなった)高倉健のように「寡黙だけど行いは誠実」という人がすごく憧れられたりすることもあります。けれども前者については「言葉は実がなければいけない」という前提や「口先<だけ>ではいけない」という強調でもありますから、やっぱり言葉が重視されていることは確かだし、高倉健の話についてはそう言う人が少ないから逆に憧れられるんでしょう。(もっとも素顔の高倉健はすごく話し好きだそうですが (^o^) )

 そして実際、たとえ仮に言葉だけであったとしても、慰めがある程度気持ちを支えてくれる効果がある、ということは定型の人は多少なりとも実感することと思います。一緒に喜んでくれたり、悲しんでくれたり、怒ってくれたりすることが、それだけでも気持ちを支えてくれて、有り難く思えたりするんですが、この感覚がパートナーとは共有しづらいことのひとつのようです。「なんで実際の解決に結びつきもしないことがそんなに意味があるのか」ということを、彼女はいぶかしく思うらしい。

 この話はスキンシップのことにもつながってきますよね。定型は落ち込んでいる親しい相手に対しては、背中をさすってあげたり、手を握ってあげたり、抱いてあげたり、スキンシップをすることで相手を支えたい気持ちになるし、またそうされると(相手が嫌いとか、そういう場合は別としてですが)、とても慰められる気持ちになる。でもパートナーの場合はやっぱりその感覚は薄いか、あるいは逆効果だったりもするみたいです。全くないかどうかはちょっと私も言い切れませんけれど。

 つまり、定型の場合は実際に相手に触れるという形であっても、あるいは言葉という形であっても、慰めるということが一種の「薬」のように力を持つのに対して、パートナーにはそういう力があまり持てないようなのです。だから逆にそういう慰めはむしろ白々しい、誠意のないものとか、そこまで言わなくても意味のないものにも感じられたりするのでしょう。

 何がそういう違いを生むのかはわからないとしても、そういう違いが基本にあるとすれば、人とどうやってどういう関係を作ろうとするか、ということも当然に違いが出てくることになります。パートナーが私との関係をとても大事な特別なものとして考えてくれていることについては今は疑いは全然ないのですが、どうすることが大事にすることなのかについて、重視するポイントに違いがあるんですね。だからそこがずれることで「相手は自分のことを大事に思っていないんじゃないか」という不安が生まれたり、「こんなに大事に考えているのになんで伝わらないんだ」といういらだちや絶望感が生まれたり、お互いにそんな風になって苦しんだりするんじゃないでしょうか。

 それらのことについてはこれまでも一寸ずつ考えては来ましたが、「慰めが実際に持つ力」の違い、ということからいろいろつなげて考えていくと、わりといろんなことがつながって理解できるようになる気がします。

 

2013年10月29日 (火)

クッションの使い方

 本音と建て前って、アスペ定型問題を考えるときのひとつの大事なポイントだろうなと思います。少し理解が単純すぎるかもしれませんが、アスペの方は本音と建て前を使い分けて関係を作っている定型社会になじめず、とても苦労されたり、ショックを受けたり、傷ついたりされる。私のパートナーも子どもの頃、笑顔で皮肉を言われたり虐められても、すぐにはそれがいじめとは理解できなかったと言います。ものすごく時間が過ぎてから、ようやく「あれは自分がいじめられたんだ」と気がついて傷ついたとのことでした。

 また、アスペの方のブログを読んでいると、職場で同僚がそこにいない人の悪口を盛んに言い合っていたのに、その人が現れるととたんに笑顔になって話題を変えてその人を入れて話を始めるのを見て、とてもショックを受けたというエピソードを書かれている方もありました。

 そういうアスペの方が置かれた状態を自分なりに想像してみるんですが、以前、仕事で海外にある程度長期滞在をすることになったとき、その社会での「本音と建て前」がわからなくてとても苦労したことを思い出します。笑顔で応じられて「ああこれでいいのかな」と思っていたら、実は全然ダメだったとか、それと全く逆の場合とか。そういうことが積み重なるとショックを受けて、相手の「笑顔」も信用できなくなっていつも警戒心を持ちながら生活しないといけなくなる、ということにもなります。

 それは逆の場合もそうなようで、今度はその社会の人が日本で暮らしたりすると、やはり同じように日本人の本音と建て前の区別が分からなくてすごくショックを受けられたりする話を聞きます。

 けれども私自身の経験では、ある程度経験を積み重ねて相手の社会の中の「本音と建て前」が少しずつ理解できはじめると、随分楽になるんですね。警戒すべき所と安心していいところが区別できるようになってきて、「24時間緊張の連続」でなくてもよくなるんです。逆にしっかり信頼できる人間関係も積み重なっていくようになる。

 でも、もしそこでいくら経験を積み重ねても理解しにくい「本音と建て前」の世界に生き続けなければならないとすれば、その緊張はずっと続かざるを得ないわけですから、それは本当に苦労すると思います。アスペの方の苦労は、もしかするとそんな感じなのかなと想像するんです。その大変さを何とかするために、相手の表情とか言葉に頼って判断することをやめ、現実のその人の行動、結果で全て判断するようになられるのかもしれません。それは自分なりに相手に抱く期待が訳も分からない形で裏切られることが積み重なることによって、そういう辛い状態を避けるために、自然に自分の身を守る方法として身についてくるものではないでしょうか。

 一方で定型の方は適当に本音と建前をクッションとして使い分けながら、その中に本気の誠意も入れ込んでいったりしていると思います。「この人はどこまで信じていいんだろう?」ということを、そういうクッションを入れながら少しずつ探っていくということをわりにするんだと思うんですね。ところがそういう「本音と建て前のクッション」の中に入れ込んだ「本気の誠意」は、アスペの方からするととてもわかりにくいことが多そうなので、結局うまく伝わらなかったり、場合によっては全然反対の意味に取られたりしてしまう。

 うーんと、少し話を単純に整理しすぎかもしれません。というのはこれまでも少しずついくつかの形で考えてみたように、アスペの方にはアスペの方なりの「クッション」の作り方、気遣いの仕方があるんじゃないかという風にも感じるからです。定型はクッションがあって、アスペの方はクッションがない、という整理だと、そこがよく分かんなくなってしまいそうです。

 じゃあアスペの方はどんな風に気遣いをされていて、それがどうして定型には伝わりにくいんだろうか、ということも、本音と建て前の問題にもからめてさらに考えていく必要がありそうです。(もちろんこういう問題の整理の仕方自体が定型的で、アスペの方からすると「全然変だね」というふうに感じられるかもしれません。そのあたりは教えていただかないと残念ながら私の能力ではわからないです…… (^ ^;)ゞ )
 

2013年10月28日 (月)

シビアな目

 今、アメリカの情報機関がドイツの首相の携帯電話とか、各国指導者の通信を傍受していたことが問題になっています。それを見ていて私が「このところいろんなところでアメリカの信頼ががた落ちだね」と言うと、パートナーは「(通信傍受という)そんな当たり前のことを今頃なんで騒いでいるのかが分からない」と言っていました。そんなことが行われているというのは、昔から分かりきった事じゃないか、という訳です。

 この意見はまあそうだよな、と言えるところもあるし、でも「噂のレベル」じゃなくて、なんらかの「証拠」で否定できなくなっている状態だということが、全然違うんだ、とも言えると思うんですが、そのあたり、パートナーはやっぱりすごく「実質的」というのか、とてもシビアに直接「当たり前」の話で考えるんですね。

 うまく説明できるかよく分かりませんが、定型の世界って、「玉虫色の解決」とか「曖昧な言い方」で、クッションを作る、みたいなことが多いと思うんです。「本当はきっとこういうことなんだろうな」とか思ってもストレートには言わなかったり、言えなかったり、そうやってぶつかり合いを避けるようなことがある。「そんなの誤魔化しだ」と言えばそれはその通りでもあるんですよね。でもそういうクッションがあることで、まあおだやかに関係が保たれることもあって、そういう「いい加減さの働き」みたいなことが結構使われているように思います。

 パートナーが私との会話で私を傷つけたりすることを避けようとするときには「言わない」という「工夫」をしているみたい、ということを先に書きましたけれど、そのときは「本当は思っているんだけど、言わないようにする」ということになるよりも、「そう感じないようにする(というのはその感じ方が間違っているということらしいから)」「そう思わないようにする」というところまで割り切るのかなあと思うんです。

 ところが、定型の場合は「思っても言わない」という形になるんでしょう。「角が立たないように」とか「波風を立てないように」とか「穏やかになるように」といって。でも本音の部分はいろいろ別に考えていたりもする。だから「本音と建て前」の世界がどんどん積み重なっていくことにもなります。そうするとアスペの方がしばしば問題に感じられるように、定型の世界は実に裏表だらけで、信じられない世界だと言うことになっていくんでしょうね。

 これ、どっちがいいとか悪いとか、単純には決められない話のように思います。私個人は「口先の誤魔化し」ではなく、素朴で素直な関係に心が惹かれたりもするんだけど、自分がこの世の中で生きていてそれを貫けているとは全然思えないですね。

 昨日書いた「言葉でのなぐさめ」の問題も、「口先の誤魔化し」と言えばそう言えないこともないんだけど、そう決めつけてしまうとやっぱり定型的にはなんだか大事なもの(「思い遣り」といったような)が見失われてしまうように感じる。でもアスペの方にとって、そういう言葉での「思い遣り」は自分を救ってはくれないと感じられる体験が多いんでしょうね。

 ふーん、難しいことです。

 

2013年10月27日 (日)

気持ちを伝え合う

 ことばでの慰めとか励まし、というのを定型はよく使うと思います。ある意味で不思議だとも言えるかもしれませんが、定型の場合、そういう慰めや励ましが言葉だけで、具体的に何かの援助を伴わない場合でも、「相手の気持ち」を受け取ってそれでちょっと救われる気持ちになることがぼちぼちあると思えるんですが、パートナーと話をしていると、この感覚がなかなか伝わりにくい感じがします。

 「ああ、この人は自分のことを気にしてくれているな、とか心配してくれているな」とか感じて嬉しく思って、そのことをパートナーに話すと、すぐに「具体的にどうしてくれるのか?」という話になることが多いんですね。私は「いやそういう話じゃなくって、気持ちが嬉しいということなんだけど」と言うこともありますが、なんか通じにくい感じがします。

 おなじようなことで、私が彼女のことで心配することがあって、心配していることを伝えたり、ちょっと状況が良くなったように感じたときに、私が嬉しくなってそのことを伝えたりしても、「何のためにそんなことを言うの?」と言われたりすることもあります。「いや、心配だから」とか「嬉しいから」とか説明しても、「それを言ってどうなるの?」というような感じだったり。「それはあなた(パンダ)がそう感じたというだけのことでしょう?」と言われることもある(ちょっと言葉遣いが微妙に違うかもしれないんですが、そんな風に聞こえます)。

 そういうときも、やっぱり「言葉だけで実質を伴わないのは意味がない」と感じているのかなあと思うんですね。

 そういう風にしばしば言われて、じゃあなんで定型はそういう「言葉の伝えあい」を割に大事にするんだろう?と考えたりするんですが、私が思うには、やっぱりそういう言葉によって「ああ、この人は自分を受け入れてくれる人なんだなあ」とか「自分のことをいろいろ考えてくれる人なんだろうなあ」とか、そういう「つながり」の感覚が得られることで、救われた気持ちになるんじゃないでしょうか。

 パートナーにもつながりの感覚がないのではないと思うんですね。私や子どものことについても、とても現実的なことをいろいろ考えてくれていることは分かるし、それは彼女が誰に対してもそうするわけではないですから、やっぱりそこには「特別のつながり」というか「特別の関係」があるんだと思うんですが、なんかちょっとズレる。

 「励ましの言葉」は彼女にとっては「口先だけ」と感じられやすいのかもしれないし、それよりも言葉に出さずに黙々と実質的に相手のためになることを考える、その「現実的な配慮」はすごく深いようにも思えるんだけど、なんか伝わって来にくいところがあるし、また少なくとも定型的な伝え方はしようとしていないように感じます。「なんでそんなことを言葉で伝える必要があるの?」と考えているようにも思える。

 「気持ちを伝え合う」ということについて、意味を感じるか余り感じないか、そのあたり、やっぱりズレが大きいのかなあとそんなことを考えます。

2013年10月25日 (金)

配慮のジレンマ

 パートナーが自分のことばで私が傷つくことについて、とても気にして避けようとしている、ということについてはすでにご紹介しました。彼女に言わせると、私の話し方も以前に比べると彼女を傷つけることは少ないようです。もちろんなくなったわけではなく、先日も彼女の話を聞いていて、私が過去に自分ではまったく意図せずに彼女を傷つけていたことにまた気がついて、本当に申し訳なかったと思ってそう言ったら、「そんな風に言われるのが私にはすごく辛いということが分かってもらえないのか」とまた嘆かれてしまいました。(どうして彼女がそう感じるのか、後に尋ねましたが、半分くらい分かるようで、まだ本当に分かった気持ちにはなれていません)

 いずれにせよ傷つけ合うことは少しずつでも減ってきていて、今ではかなり少なくなってきたかなあと思えるのですが、その努力の仕方にはやはりお互いに違いがあるようです。

 私の場合は、自分の「常識」で彼女の誠意の有無を判断できないと言う理解が積み重なるにつれて、以前なら「なんでそんなことを言うんだ」と思って少しムキになって反論したようなことでも、とりあえずは「ああそうなの?」と受けて、分かりそうになかったらそのまま置いておいたり、何か理解できるかもと思ったときには尋ね方を工夫しながら彼女の「考え方」を理解するように心がけたりするようになってきています。そんな風にムキになって反論しない姿勢が、彼女にとってはいいようなんですね(もちろん定型間だって、いきなりムキになって反論されたらちょっと嫌でしょうけれど、それともちょっと違う部分がありそうです)。

 それに対して彼女の方は、自分の言葉で私が落ち込んだりするのを見ると、それに関連しそうなことについてはそもそも「言わない」という形で対処しているらしいんです。彼女に言わせると、「傷つけた」のは分かる。でもなんで傷つけたのかは理解できない。それは自分には理解できないことだ。だから私を傷つけないために、たとえ自分が思ったことでも「言わない」というやり方になる、ということのようなのです。

 そうすると、そう言う形での彼女の「配慮」が進んでいくと、そのうちに「何も話が出来ない」ということになりかねないんじゃないかと心配なんですね (^ ^;)ゞ

 私としては「話さない」という形ではなく、思ったこと、感じたことは素直に伝え合いたいと思うし、ただそうやって素直に伝え合うことで「相手が自分を傷つけようとしている」という誤解をしないで済むようなやりとりの仕方を工夫したいんです。そうじゃないと、「物言わぬは腹のふくるる業なり」じゃないですけど、ただ我慢ばかりしていては決していい結果にはならないようにも思えます。

 けれどもその話をすると、彼女は別に我慢する訳じゃない、ただ感じなくする(思わなくする、という言い方もしたかも)だけだ、というようなこと(正確には再現できません)を言います。それって感情を抑えつけて「見ないことにする」こととどう違うんだろうとか、私にはよく理解できませんし、やっぱり感じたことを素直に伝え会えない関係は寂しいと感じてしまいます。

 こういうことを言うと、「一体どうしろっていうの?」と彼女には言われてしまいそうです。

 なんか「感情」の割り切り方も違うのかなあ。

2013年10月23日 (水)

一緒に生きていく意味

 アスペ定型間ではお互いに日常生活の中で素朴に「これは人間関係の中で普通の正しいこと」と感じていることにズレが生まれてしまうわけですよね。だから仮に自分としては誠意を持って対応しているつもりでも、相手にとっては全く逆の意味になってしまったり、一生懸命自分の思いを伝えようとしても、まるでとんちんかんな伝わり方をしてしまったりする。

 定型間でももちろんお互いに誤解しあって生きているということなんか、いくらでもあるわけですし、それがいろんな衝突を生み、ひどくなれば殺し合いにまでなってしまうこともあるわけですけれど、同時にそうならないように、ズレた関係を修復するためのいろんな方法も工夫しています。ところが定型アスペ間にうまれてしまうズレについては、定型的な修復の仕方も通用しない場合が多い。これは私の勝手な想像ですが、アスペの方から見ても、自分が考える修復の仕方が定型に対しては全然通用しないことが多いのではないでしょうか。

 この修復の仕方の違いについても、定型アスペ間だけではなくて、定型同士でもうまく行かないことはもちろんあるわけですが、定型間では「これでだめならもう<さよなら>だね」と思えるような割り切りもある程度できるのが、その「これでだめなら」という割り切りの線もよくわからないということが定型アスペ間では起こり易いような気がします。

 「これは当然でしょう」ということの感覚が違って、お互いにずれちゃったときの修復の仕方が違って、割り切りのポイントもよく見えない、ということになれば、これは問題がこじれまくったとしても不思議はないですよね。

 そんなに違う人間同士、一緒に生きていく意味があるの?という疑問が生じても当然だと思いますし、その疑問に対する答えは人によってさまざまだというのも当然だと思います。掲示板の方ではことりさんが一緒に生きていくための素晴らしい沢山の工夫を紹介してくださっています。そこからいろんなことを学んで改めて一緒に生きていく道を探る方もきっといらっしゃるでしょうし、絶望さんのように、もうそうやって工夫を重ねる気持ちにもなれない状態にいらっしゃる方も当然あるだろうし。何がいいとか、そういうことを一概に決められるような問題ではないですよね。

 いずれにせよ、これだけ大きなずれを抱えた者同士、それでも一緒に生きていこう、生きていきたいと思える条件って何なんでしょうね?

 ある方は、これまで一緒に過ごしてきた二人の時間が持っている重さについて語っていらっしゃいました。私もその意見には共感します。自分の人生の中でものすごく大きな部分を一緒に過ごしてきたし、そういうもう取り替えのきかない過去について、ずっと「共有」しているのはパートナーだけだし、その時はもう自分の一部なのですし。

 ただ、そういう感じ方をできるのは、いちばんシビアな時期を過ぎてから過去を振り返る余裕ができているからなのかもしれません。今まさにつらさのピークにいらっしゃるカップルの場合には、その辛さにとても大事な意味がある、などと考えることなどとても無理だと思います。仮に私がその渦中でそう言われたとしたら、やっぱり「この人何を言ってるんだか」と感じると思います。

 これは定型の側についてしか今は私には想像ができませんが、細かいことにはこだわらず、おおらかにずれをやりすごせる方は、もしかするとそんなにズレを苦しむことなく過ごせるのかもしれませんね。それからことりさんがもしかするとそうなのかなと想像したのですが、問題をとても具体的に受け止めて、小さな工夫を重ねて現実的な対処をしていく力のある方も、相対的には一緒に生きていくことに前向きになれるのかもしれません。他方で私のように「しつこめ」で「いろいろ考えこんでしまう」、あんまりスマートな生き方は出来ないタイプの人間は、今度は割り切りが下手ということで結果が同じになるのかもしれません。

2013年10月22日 (火)

幸せな時

 一昨日だったか、テレビのバラエティーで、いろんな夫婦関係の話をやっていて、それをパートナーが見ていました。私も一緒に見たんですが、なんだかはちゃめちゃな夫婦の話が多くて、思わず吹き出すことが何度もありました。

 で、彼女を見ると、やっぱり彼女も何度も笑ってました。

 そういう明るく笑ってる彼女を見ると、なんか幸せ感が出てきます。人に楽しんでもらうことが好きな私の性格につながる話なのか、(結果的な)共感に喜びを感じる定型的な感覚の問題なのか、定型アスペに関係なくいえることなのか、その辺はよくわかりませんけど。

 こんな「時」が少しずつでも増えていくといいなあとしみじみ思います。

2013年10月20日 (日)

共感を求めないことの意味

 今ちょっと自分の中でいくつかの理解がつながってきそうな感じがしています。

 以前も少し書いたと思うんですが、私のパートナーの場合、自分が何かを見て感動したとき(たとえば人知れずそっと一輪咲いた蓮の花)、私をそこに連れて行って、ただ黙って見せてくれたんですね。私なら「ほら、きれいでしょう?」とかひとこといいそうなんだけど、それは言わない。そこのところは「相手の感じ方を大事にする」んです。で、もし私がそれを見て感動していれば、それはそれでいいし、感動しなくても、「ああそうなのか」で終わる。そこで感謝してくれればそれは嬉しいし、でも感動されなくても「お互いに共感できない」ということでがっかりする感じでもない。そんな印象です。

 これはパートナーにだけ言えることではなさそうで、繭さんもご自分の写真ブログについてそんなことを書かれていたように思うし、他にもコメントなどでそういうことを書かれていた方があったような気がするし、また直接お会いしたことがあるアスペとおぼしき方についても全く同じようなことがありました。

 この話と、昨日「いらぬお世話」で書いた、「愚痴を言ったり、辛いことを話したりすることは、それだけでは相手に助けて欲しいと要求していることにはならない」という話や、「不思議なため息」 の話は全部つながっているように感じられてきたんです。

 定型的な見方からすれば、アスペの方は「共感能力が弱い」などといった決めつけ方がされたりするわけですけれど、私の経験からすれば、そしてみなさんのコメントなどを拝見したりしていると、決してアスペの方が「共感能力」の前提になるような「豊かな感情」がないのではない。逆にとても豊かだったり繊細だったり、あるいは自分の感情に対応しきれずに深刻な鬱になったり、時には激しい怒りをもって攻撃的になられたりもします。

 そして相手についても決して感情を認めていないわけではないし、どんな感情を持っているかを気にしていないのでもない。たとえば「傷つけたくない」でご紹介したように、私のパートナーは、彼女の発言で私が考え込んだりすると、私が傷ついて落ち込んだと勘違いして、そのことで「またパンダを傷つけてしまった」と自分が落ち込んだりするわけです。むしろ「過敏」と言ってもいいくらいに相手の感情に気を配っている、と言ってもいいのかもしれません。(ただ、その読み取り方が、定型の感情理解の仕方とずれてしまうんですね)

 定型の間で「あのひとは共感する能力がない」とか「共感性のない人だね」とか言えば、なんだか「感情を持たない、機械のような冷たい人」というイメージがついてまわるような気がします。「アスペルガーと定型を共に生きる」の最初に掲載された東山カレンさんの手紙を見ても、カレンさんの必死の思いが伸夫さんからどれほど「無視」されたり「踏みにじられた」と感じられていたかが切実に伝わってきます。それを読んだ定型の方の多くは、多分「なんて冷酷な夫なんだろう」と「義憤に駆られる」と思います。そういう感想も頂きました。

 でもそういう理解のされ方は、アスペの方からすればとんでもない、ということになるでしょう。むしろ「それはあなたたち(定型)のやってることでしょう」と感じられるかもしれない。私のパートナーもときどきその体験を語るんですが、「あなたの感じ方は間違っている」と定型から常々言われ続けるわけです。それに疑問を抱いたとしても「そんなの常識でしょう」とか「普通そういうもんでしょう」とか、「みんなそうしてるでしょう」とか言って、納得のいく説明もなく疑問を持つことさえ否定されてしまうように感じる。

 定型にとっては人との絆を作ったり、お互いの理解を深めたり、支え合ったりする上で大事な「感情の交流」が、アスペの方達には最初から否定されるような状況で生きざるを得ない。もしそうなら、当然人とのやりとりにとって、「感情」は否定的な意味しか持てなくなってしまうでしょう。

 だから、アスペの方にとって、「感情」はほとんど人とは共有できない「個人的な出来事」としか思えなくなってしまうのではないでしょうか?もし自分がなにかの感情を抱いたとしても、それを他の人と共有したいとは思わなくなっていく。感情はそれぞれの人がそれぞれに個人的に大事にするものだという感覚になっていく。だから、それでもなお自分にとって大事な人に自分の感情を伝えたい気持ちが湧いたときには、上に書いたように、自分が感動したものを、そっと見せてあげる、というやり方になり、それ以上相手の感じ方には干渉しないことを大事にされる。

 それは「自分の感じ方を否定され続けた」結果として、「相手の感じ方を否定してはいけない」と心底思うようになったから、そうするんじゃないでしょうか?自分が否定され続けて辛い思いをしてきたことを、自分が大事に思っている人にすることはできない。もしそういう理解が的外れでないとすれば、「共感を求めない」ということは、アスペの方にとっては最大級の相手に対する「思い遣り」だということになります。

 こういう理解の仕方にアスペの方が納得されるかどうかはもちろん私には分かりません。一口にアスペの方と言ったって、いろんなタイプの方もあるわけですし、あるいは全然的外れの、定型的偏見(?)と感じられるかもしれないですね。同じく定型の方にとっても、そういう見方は自分のパートナーには全然当てはまらない、ということもあるのかもしれません。ただ、私が自分の定型的な感覚でパートナーのことを中心としていろんなことをつながる形で理解しようとすると、たとえばそんな見方をすることで、今まで謎だらけだったことにようやく「分かる」感じが出てくるのは確かです。

 まあ、長い理解の旅のひとつの過程として、「今はそんな理解の仕方が私には生まれてきた」ということを記録しておきたいと思います。そういう理解の仕方が、お互いの関係をよくしていく上で意味があるかどうか、それは私には判断できません。ただ、模索の一つの足場を得たような気分ですね。それでさらに「何がずれているのか」を考えていくひとつの足場です。


 

2013年10月19日 (土)

いらぬお世話

 私のパートナーは、以前時々「お金がどこかから降ってこないかなあ」というようなことを言っていました。そのほかの表現もいくつかあったと思いますが、聞いている私としては家の家計はそんなに危機的な状態にあるのか、と不安な気持ちになり、「もっと稼いでもらわないと困る」と要求され続けているような心地になったんですね。ただ、少なくともその頃の収入はとても豊かとは言えないかもしれないけれど、でもまあ人並みかそれ以上くらいではあったので、どうしてそんなに切羽詰まった感じで稼げと要求されるのかがよく分かりませんでした。彼女が「お金の亡者」であるとはとても思えなかったし、ただよく訳の分からない彼女の不安をそんな形でぶつけられているのかなと理解してみたり、ほんとに分からなかったんです。

 ところが今日子どもと話をしていて、いやあ子どもはすごいなあと思ったんですが、私が「要求された」と理解していた彼女の発言は、全然そういう意味はないんだと解説されたんです。定型的に考えると、近しい相手の人が何か辛そうにしていたり、そういうことを話したりすれば、何か自分に出来ることがあれば手助けをしてあげたい、と思う人が多いでしょうし、当然その前提として、そういう表情やことばは「助けを求めているサイン」と理解することになります。

 でも子どもは、お母さんはただそのとき自分が感じたことを素直にそのまま言っているだけだ、と言うんですね。全然助けを求めているとか、そういうことではなくて。私も最近は「不思議なため息」のところでもちょっと考え始めてみたように、そういうことなのかなあと想像はし始めていたんですが、子どもはもうあっさりと「そういうものだ」と理解していました。

 言われて考えてみれば、パートナーとの間でのやりとりで、こちらは「要求された」と思っていたのに、「なんでそう受け取るのか」ということを彼女は不思議に感じているようなことはやっぱり何度かあったんです。で、彼女に言わせると「してほしいことがあるときはそう言う」という訳です。

 ああそうか!そういう形のコミュニケーションのズレって、定型アスペ間ではいちばんよく起こるズレのパターンなんですよね!なんでこんなに単純なそのことに今まで気づかなかったんだろう?

 つまり、よくアスペの方達の特徴として、「ことばをそのまま受け取って、その先を読んでくれない」ということが言われますよね。定型から見るとそう感じられる。たとえば「暑いねえ」と定型が言うときには「クーラーつけようか」とか「窓を開けない?」とか、その先のことばを省略していることが良くあるわけですが、パートナーの場合もそこは「暑くない」とか「暑い」とか、そのことばだけについてのやりとりに終わって、その先には進まないことが多い。

 それを逆に考えてみたらいいんじゃないでしょうか。要するに彼女の方が「暑いねえ」と言ったとしても、それはほんとに単に「暑いと感じた」という「事実」を述べているだけで、私に対して「クーラーつけてよ」とか、そのことば以外のことを「要求」していることにはならない。だからこちらがもし「あ、これは要求されているんだ」と感じてそれに応えようとすると、「なんで頼みもしないのにそんなことをするのか、訳が分からない」という受け止め方をされたりする。

 こちらは彼女のことばを聞いて、手助けを求められていると(定型的感覚で)受け止めて、彼女のために一生懸命気を遣っているつもりが、下手をすると「いらないお世話を勝手にされている」という受け止め方をされかねないわけです(そう言えば実際それに近いことを言われてすごく傷ついたこともありました)。

 でも上のように考えてみれば、彼女は彼女なりに一貫しているわけですよね。ある意味筋は通っている。こちらのことばもことばで言われたこと以上にその先を読むことはしないし、逆に彼女の方もことばで自分から要求しない限りは、自分が何を言っても別に相手にその先を「配慮」してほしいとは思っていない訳です。うーん、そうかあ。そう考えるとちょっとは分かる気がするなあ。

 もしかするとこんな単純な話なのに、定型的なややこしい「配慮」や「思い遣り」の世界に生きている私は、どうしてもその定型的なやりかたで彼女のことばや表情を理解してしまって、なんだかずれたコミュニケーションになっちゃうんですね。

 子どもがすごいなと思うのは、さすがに赤ん坊の頃からそういうパートナーに育てられてきたので、もう肌でその感覚の違いを理解しちゃっているみたいだということです。だから私と同じ定型でもそのへんはすんなりと分かってしまうのでしょう。私が訳が分からない思いをずっと続けてきてようやく今ちょっと判りかけたかもしれないことを、すっと理解できちゃう。

 うーん、なんかこんな風に考えてみると、他にも同じような感じでとんちんかんなすれ違いがいろいろあるんじゃないかという気がしてきました。

 

 

2013年10月17日 (木)

善意の交換の難しさ

 先日、農業をやっている大学時代の先輩が、今年のお米を送って下さいました。うれしくなってすぐに御礼の電話をして、しばらくいろいろと話し込みました。

 定型の人間関係は、そういう「善意」のやりとりが重視されていると思いますし、それは本心からの「善意」だけではなくて、うわべの「善意」も使ってやりとりが行われることもたくさんあります。ファーストフードの店員さんが、忙しい中で気に入らない客に対しても一生懸命笑顔で応対してくれますが、それはやっぱり「仕事」だからで、個人的にはそんなことしませんよね。そこは「仕事」と割り切って、「善意」の関係を保とうとしたりする。

 何のための「善意」かというと、やっぱり人間関係を「よく」保とうという目的が中心だと思えます。その「人間関係」には、小さな打算を考えない、親しい関係の中での「人間関係」もあるし、商売のように「打算」が中心のものもあるし、そこは色々でしょう。

 一方でアスペの方の考える「善意」は、なんというのか本当に「打算抜き」で、「見返りを期待しない」、「個人的な意志」としての「善意」なのかもしれない、という気がしてきています。もしそうなら、定型の「善意」について、色んな所で「偽善」を感じられたとしても無理はないと思えます。

 実際、定型はいろんな「善意」をほとんど意識もしないで使い分けて生きていますし、また相手がどういう「善意」なのかをお互いに読みながら関係を作りますけれども、もしアスペの方にその定型的な区別が読み取りにくいのであれば、「善意」だと思っていたのに「打算」だったとか、実は善意に見せて悪意だったとか、そういう経験を多く積み重ねてショックを受けてしまうことにもなりますから、定型的人間関係のほとんど全てが打算の、偽善の関係に見えてきたとしても不思議はないでしょう。

 もちろん定型も相手の「善意」を読み違えて「裏切られた」とショックを受けることはしばしばあることですが(詐欺事件とかはその極端な例ですよね)、まあ、でも普通の生活の中ではそんなに大きく読み違えることはないでしょう。だから何度か「裏切られた」体験があっても、「私はもう全く人間が信じられない」という感じになってしまうことは比較的少ないと思えますし、むしろ却って「本当に信じられる人」をより強く求めるようになる場合だって多いのではないでしょうか。

 その点で、「裏切られた」と感じるときのショックの大きさは、パートナーを見ていても、ものすごく深いような気がする。もうほとんど修復不可能な位のダメージを受けるように見えることがあるんです。それでなのかもしれないと思うんですが、人の「善意」についてはすごく慎重に構えるようになっていると感じます。時にはそこに隠された「悪意」をすごく鋭く見抜いたりもして、私なんかは人間が甘いですから、「そこまで悪く見なくてもいいのに」と思ったりすることも時々あります。

 これまで繰り返し例に挙げてきたように「病気になったときにどう対応するのが相手にとっていいのか」ということについての「善意」の考え方が、定型アスペで180度異なっていたりするわけですけれど、単にそういう「善意」の「中身」のズレだけではなくて、「善意のやりとりのしかた」もまた違いがあって、そこからお互いに理解しにくいすれ違いが起こることも多いのではないか、と、そんな気がしています。

 

2013年10月15日 (火)

傷つけたくない

 パートナーと話していて、彼女のことばに私が考え込むことがあります。そうすると彼女は「怒ったような(そう私には感じられる)」表情や声の調子になって、だから言いたくなかったんだ、と言います。最近は「パンダを怒っているんじゃないからね」と付け加えることもよくあります。

 どういうことなのかというと、彼女は私が考え込む姿を見て、「またこの人を傷つけてしまった」と思い、そう思うことで彼女自身が傷ついているんです。

 実際は最近は彼女のことばで傷つくようなことはほんとに少なくなりましたし、それは彼女の努力の結果でもあるんです。だから私は傷ついたからではなくて、ほんとに自分自身、考えなければならないことを言われて、ぐっと考え込んでいるんですが、その姿を見て彼女は傷つけたと思ってしまうんですね。「そうじゃなくて考え込んでいるんだよ」と説明すると、「自分には区別がつかない」と言います。

 私に対して「怒っている」ように見える表情は、実は彼女自身がとてもつらい思いをしていることなんだ、という風に最近少しずつ感じられるようになってきました。

 そして、たとえば上に書いたような状況で彼女が感じているつらさは、「パンダを傷つけたくない。そのために一生懸命考えているのに、それでも傷つけてしまった。」と思い、そういう自分に絶望しかかっている、そんな辛さのようなのです。

 先日も、あるアスペルガーの方からメールを頂いたのですが、ご自身のコメントでの発言が、他の人を傷つけてしまったのではないかと、深刻になやんでいらっしゃいました。私が改めて拝見すると、とても気を遣って発言されていることが伝わってくる内容でしたし、パートナーも、私以上にそのことを強く感じられたようです。それでもそうやって本当に深く深く悩まれているんです。

 「他の人を傷つけたくない」と切実に思い、ところが自分のその願いとは裏腹の結果になってしまったように感じて、そのことにまた深く傷つく。私はほんとに「お互い様」のことだと思うし、パートナーに対してもそう言うんですが、それはそうだとしても、そして彼女が本当に苦しめられてきたことも事実だとしても、でも自分が罪悪感を抱えこんでしまうことには変わりはないと、彼女は言います。

 改めてパートナーが今までどんなにこの定型優位の社会の中で辛い思いを重ねてきたか、ということが、なにかリアルに私に迫ってくる感じがするようになってきています。繰り返し書きますけれど、それは私自身が苦しんできた、ということを否定していることとは違います。私は私なりに苦しんできたわけですが、でもその苦しみ方とは違うポイントで、彼女がほんとに苦しみ続けてきたんだということが、心に響いてくる感じがするのです。そしてそのことが私にはとても痛々しく感じられる(ここは定型的な感じ方かもしれませんね)。

 とりあえず私にはそういうパートナーの「痛み」を想像して理解し、できれば共有したい、ということしか出来ないのですが、定型同士の関係では多分ある程度意味のあるその行為が、彼女に対してどれほどの意味を持てるのかもほんとに分かりません。彼女の誠意がなかなか定型との間でうまくいかないのと同じで、私が定型的に誠意ある対応をしようと努力したからと言って、それがそのまま伝わるほど問題は簡単ではないんですよね。

 もちろん、だからといって、私は私なりの誠意で手探りを続けることについて、絶望的な気持ちにはなっていません。結果としてうまくいかないことはあっても、彼女の身を切るような誠意を感じ取れるようになってきたことは、私には宝物にもなりますし。

2013年10月13日 (日)

「対立」を「共にした」?

 自分がパートナーとどんな関係を望んでいるのかなあと考えてみるんですが、やっぱり幸せになって欲しいなあと思いますね。今まで沢山の苦労をしてきた分も。

 その苦労の中には当然、私との厳しい対立の時期も含まれています。そのほとんど絶望的な対立の渦中にいるときは、私は彼女との間で孤独であり続けたし、彼女の苦労を思いやることなどとても無理だったし、自分の苦しみを耐えるのに精一杯だったと思います。

 今でももちろんいろいろなズレを抱えて生きているわけですけれど、でもなんだかあのお互いに完全に対立してそれぞれが「苦労」していた時期について、今ふと思うと、それも含めて「一緒に苦労した」というふうに感じられたりするのが不思議です。

 もちろん彼女に幸せになって欲しいという思いは、自分が幸せになりたいという思いと重なっているわけですから、別に自己犠牲的精神で、とか言う話とは違います。

 じゃあなにが幸せなんだろう?とか、自分自身の幸せと彼女の幸せはどう重なりうるんだろう?とか、そのあたりはまだよくわかりません。とにかくいろんなことへの関心の持ち方とか、物の見方とか、やっぱりすごく違うなあとしみじみ感じることも多いですし。でもなんかそういう方向で手探りをしたい気持ちになっている、というところまでは言えそうです。

2013年10月11日 (金)

幸せに生きる

 私のパートナーにとって「幸せに生きる」ってどういうことなんだろう?

 そんなことを時々思います。尋ねてみることもありますが、うまく答えは返ってきません。
 誰にとってもそうかも知れないけれど、やっぱり難しい問いなんでしょうね。

2013年10月 9日 (水)

相手の身になる

 ちょっと仕事が立て込んでしまいました。それだけ仕事が出来るようになったと言うことは、だいぶ体調も戻りつつあるようです。服薬も最小限になっていますし、このまま順調にいけばいいですが (^o^)

 それにしても、私のパートナーは定型社会の中で色々と大変さを抱えながらも、ほんとに地道に確実に生きているなあと、最近ときどき思います。自分がもし彼女のような立場になったら、どこまでそんな風に地道に生きていけるだろうか、と考えると、まあ自分のような性格では到底無理だろうなと思います。

 以前はそういう彼女の地道な生き方が、すごく「固い」ように、あるいはほんとに融通が利かないように感じられて、息苦しさを感じたりもしていました。彼女の側も私の生き方が理解できなかったわけですから、彼女にとって「普通」なことを特別な意識もなく私に要求されることがしばしばあって、私はただでさえ我が儘な方ですから、それにものすごく反発していたんですね。彼女からすればなんでそんな「当たり前」のことに反発されるのか、全く理解できなかったでしょう。

 その(私の感覚からすれば)強烈な「固さ」を彼女は子育てにも発揮するわけですから、私の感覚からすれば、子どもがものすごく縛られて可哀想でした。「なんでそんなことまで子どもを支配しなければならないのか」と思って、ほんとに私の方が見ていてしんどかったけど、でもそれをいくら説明しても絶対に伝わらなかったし、言えば言うほど逆効果の感じもあった。逆に彼女はとにかく自分の子育てを理不尽に否定され続けるという被害者感情しか持てなかっただろうと思います。

 とにかくお互いに全く感覚がどうしようもなくちがうんだ、という理解を共有してからかれこれ2年余りになりますが、お互いに違いは違いとして理解しようという姿勢がだんだんと深まって行くにつれて、今までとは違った形で相手を受け止めたり、受け入れたりすることができてきているんだという気がします。ほんとに一歩一歩手探りで来ていますけれど。

 私の側から言うと、「違い」の理解がある程度進んできたところで、今は「もし自分が彼女のような状況に置かれたとしたらどうなっただろう?」という想像をしてみるようになり始めているみたいです。いわゆる「相手の身になってみる」ということなんでしょうけれど、アスペ定型の場合、あまりにお互いに違いすぎるので、はたしてどうやったら「相手の身になれる」のかもほんとにむつかしいことです。だいたいが「相手の身になる」という発想自体、定型的とも言えるでしょうし。

 私自身、何で最近「相手の身になる」ことをし始めているのか、今までの自分と何が変わったのか、言葉に出来るかと言えば、少なくとも今は無理そうです。そのうち何かの説明の仕方が思いつくかもしれませんが、とにかく今はまだわかりそうにない。ただ事実として自分がそうなってきているところがあるなあと感じるに留まりますね。

 彼女の方が私の身になって考える、というようなことをするだろうかと考えると、それもまた難しそうです。なにしろ「他人のことが分かるわけがない」というのが彼女の固い信念なのですから。そういう意味では、今の状態は「お互いに相手の身になってみる」ということとは少し違うんでしょうね。でも彼女も以前の彼女ではなくなってきているようには感じるし、お互いに変化しつつある。私の方は今は「彼女の身になってみる」ということばで表せるような変化が起こりつつあるわけですが、彼女はまたそれとは違った変化なのでしょう。そういう意味では「違う変化の仕方」をしているんでしょうが、でも全然すれ違ってしまっているとは感じません。そこがちょっと興味深いところです。なんなんでしょう?

 

2013年10月 4日 (金)

努力の仕方の違い

 アスペ定型間ではほんとうにさまざまなことが違うように思いますし、知れば知るほど、考えれば考えるほど、その違いの大きさは大きく感じられます。ただし、これは私の場合、ということですけれど、違いを知ると言うことはある意味ではどうやってお互いの関係を作っていったらいいか、という工夫のための手がかりが一つずつ増えていく感じでもあります。もちろんその中ですれ違いやぶつかり合いや傷つけ合いや、いろんな問題が起こるわけですけど、それはまあ仕方のない「授業料」のような気もします。

 もちろん、ただ辛いだけだったり、傷つく思いだけだったりすれば、そういう関係を続けていくことに意味があるのかどうか、疑問ですし、むしろお互いにお互いの道を進む方が、どちらにとってもいいことだってあると思います。私の場合は何でなのかは自分でもはっきりとは分かりませんけれど、苦労はありながらもそこから自分が得られるものは何か自分にとって大事なものだという感覚があるんですね。

 先日ふと思ったことがあります。子育ての問題はお互いの関係がどんどん悪化する大きな原因にもなりました。自分が多少苦しむことは耐えられても、「これじゃあ子どもが可哀想だ」と感じてしまうと、そうして、実際に私の目から見て(あくまで私の目から見て、にすぎませんが)「心配通り」に子どもが苦しんでいる姿を見たりすると、やっぱり我慢が出来なかったりするんですね。

 そういう本当に大変な問題だったわけですが、今は子どもがほんとに自分の力でそこを乗りこえて自分の道を歩んでくれている姿を見ているからかもしれませんけれど、とにかくパートナーと二人で子どもを育ててきた、ということはなんだかすごいことだなとも感じられます。たとえ私には疑問だらけのやり方であったとしても、彼女は彼女なりにほんとに子どものことを心配して必死だったことは今は分かりますし、何と言っても私とパートナーの間にだから出来た子どもであることは間違いないですから、大変だったことも含めて、やっぱり二人で育ててきたんだという感じがするんです。最近の感覚ですけれど。

 子育てのことでもお互いの「努力の仕方」がほんとにずれていたんですね。いじめの問題なんかもどうそれに対処するかは全然違ってました。私自身は子どもの頃からいじめに対しては「闘う」姿勢が強かったけれど、彼女の場合は自分がいじめられてそれと闘えるような状態には全然なかった。いじめられる立場で子どもの残酷さというものを身に染みて知らされた人です。そうするとどうやっていじめから身を守るか、ということについても全然考え方が違ったりするんですね。

 この違いにはアスペ定型の違いという部分もあるし、同じ定型でも人によって随分違うだろうと思います。でもアスペの傾向を持つ子どもの場合には、最近考えてきているように、基本的にすごく孤立しやすいだろうと思えますし、助けを求めることも、定型的ないじめの仕方を理解してうまく避けることもなかなか難しいでしょう。もちろんいじめられた場合はどの子も「孤立無援」の状態におかれて、誰にも助けを求められなかったりするわけですから、その点ではいじめられる定型の子と同じなんでしょうけれど、でもなんかもっと深刻になりやすいだろうという気はします。

 そういう苦労の中で自分なりに作ってきたやり方で、子どもを助けようとするんですが、私にはそれがどうしても納得がいかない感じがして、話をしたいんだけど、そういうところで「話し合って問題を共有して、解決法を探る」ということはほんとにうまく行かなかった。そこは今思えばアスペ定型のズレがすごく大きかっただろうと思います。

 うん、そうですね。もちろん定型同士でも難しいことはいくらでもあるけれど、それとはまたすごく違った難しさがアスペ定型間での「お互いの調整の仕方」にあるんだと思います。私の(多分定型的な)感覚で言えば、アスペの方はそもそも「自分で努力する」という姿勢が強くて、定型の場合は「相談しながら一緒に解決しようとする」感じが強い、そんな違いに見えます。(もちろん、アスペの方から見れば、そのズレはまた違うように感じられるのかもしれませんが)

 そのあたり、「仲間作り」ということについての姿勢の違いにもつながるものがあるんじゃないでしょうか。定型は良くも悪くも「仲間作り」をすごく大事にするように思うし、そのためにそうとういろんな「気遣い」をしているように見えます。でもそういう「気遣い」についてパートナーに話をすると、「そんなの偽善的だ」とか言われてしまうことがときどきあるんですね。そう言われて私の方はびっくりするんですけど。なぜって、そういう「気遣い」がお互いに出来ることが信頼できる関係にとって欠かすことが出来ないものと思えるからです。でもどうもそういうところの感覚がお互いにかなりずれているように思えてなりません。

 やっぱりこの、「問題が起こったときにどうやって解決しようとするか」ということについての、かなり根深い違いが、お互いの関係を難しくする大きな原因のように感じられます。その結果、お互いにすごく努力しているんだけど、お互いにその努力は理解しあえず、むしろ「相手は努力していない」とか、もっと悪ければ「相手は努力することを否定しようとしている」という風に見えてしまったりもするのでしょう。それは相当シビアな状況になりますよね。

 

2013年10月 2日 (水)

信頼ということのズレ

 「絶望」さんがこんなことを書かれています。

 「私の正直な印象だと、「パンダさんは、ちょっともう、最近気持ち悪いくらいAS寄り」で、そういう意味では、「AS寄り過ぎて、中庸ではありえない」という印象でした。気を使って、考えて、相手の立場にたって、立ち過ぎて、もはや定型、ではありえないくらい、AS寄りだなって。それなのに、定型独特の、差別心にあふれてると糾弾され。アスペルガーと定型。うまくやれるかも、とか思ったこともあった。でも、こちらのやりとりを見ていると、「絶望」という言葉しか浮かびません。お互いが何をやっても、理解されることはない。擦り減るだけ。まさに目が覚めた思いです。」

 そうかなあ、そんな風に見えるのかなあ、まあそうかもしれないなあと思いながら、ある中国人の知り合いのことを思い出しました。日本で暮らしていて、なんとか日本の社会に慣れて、まわりとの関係もうまくいくようになって、それで中国に帰ったら、「おまえは日本人になったのか」といわれてしまったという話です。それじゃあ本当に日本人になったのかといえば、全然そうじゃなくて、日本ではやはり中国人としか見られない。なんか私が今そんな立場に置かれたのかな、とか思いました (^ ^;)ゞ

 パートナーに話してみたら、絶望さんの「期待の仕方」がとても定型的な感じがする、ということでした。絶望さんは私が私なりになんとかアスペの方を理解しようとしていると感じてくださって、それは絶望さんとしては「ありえないくらい」に感じられるもので、それなのにアスペの方がそれを「認めてくれない」とか「評価しようとしてくれない」と感じられた。でも、「認める」とか「評価する」とか、そのことの意味が多分違うんだというんです。

 たとえば批判をするのは、関心があるからこそで、それは注目していることの証だと彼女はいいます。今も毎日以前とそんなに変わりない数の方がここを訪れてくださっていますが、それも「注目している」ということで、そうでなければそもそも見ようともしなくなる、というんですね。ただし「注目している」ということと、好意を持つことはまた別のことだし、仮に私の方が「好意的」になっていたとしても、それに「好意で返す」という発想は生まれにくいといいます。あくまで私がいう内容が自分に納得できるかどうか、それだけのことだと。

 彼女の感じたことをうまくここで私が表現できているかどうかは分かりませんが、いずれにしても、ほんとに違いますよね。定型的には相手に好意を示されたら、基本的には好意で返す、ということが当たり前のように感じてしまうでしょう。もちろんそうならないこともありますけれど、でもそれはかなり悲劇的なことのように思えてしまうし、好意に対して攻撃で返したりすれば、攻撃した側もその後後悔の思いをひきずったりする。

 「絶望」さんが絶望的に感じられたのは、そういう「好意の積み重ねで信頼関係を深め、絆を作っていく」ということが、ここでの前のやりとりで全然否定されたように思われたからではないでしょうか。定型的にはそれはとてもショッキングな事態ですし、もしそういうことなら何によってお互いの信頼関係を作っていけるのかが全く分からなくなってしまう、ということにもなりそうです。

 そうなんですよね。多分「信頼関係」ということの意味とか、感じ方にもすごいズレがあるんだと思います。そしてこれも多分、アスペの方にはアスペの方なりの「信頼」の置き方はあるのでしょう。そうでなければ「裏切られた」ような思いを持つこともないわけですから。一度目の「炎上」の時に私はそういう「裏切られた」というアスペの方たちの思いを強く感じました。ただ、残念ながら私にはなぜそれが「裏切り」と感じられたのかがぴんとこない訳ですけれど。あのときは単にちょっとした提案をしてみて、それも思わぬ形で否定されたので、すぐに修正したのですが、まったく収まりませんでした。それが不思議でした。お互いに問題点を指摘して、修正し合って調整し合って一緒に考えていく、ということにならないのは何故なんだろう、と。

 ただし今回の「炎上」については、前にも書きましたように、ちょっと違う要素が入り込んで私が考える「まともな」やりとりがとてもしにくい状況になってしまったと感じています。だから私自身はそれを「アスペ定型」問題というふうにはあんまり考えなかったんですね。実際、たとえば私のパートナーはまた全然違う見方をしていたわけですし、そのことで私に対する信頼が傷つくことも、私に対して彼女が攻撃的な気持ちになることもありませんでした。むしろそのことについて話し合うことで、またお互いの理解が進んだところもありました。

 そういうことがあったからなんでしょうね。私自身は特に「絶望」という感じにはなりませんでした。ただ「荒れた」雰囲気、気持ちを癒す必要は感じていますけれど。実際絶望さんも絶望的な気持ちになられたわけですしね。そう感じられた方もそれなりにいらっしゃるのではないかと勝手に想像しています。そういう気持ちになられることは、私なりに定型的な感覚で理解できるように思います。

 なんというのか、「信頼関係の作り方」とか、「信頼が崩れそうになったときの修復の仕方」に違いがある、ということはほんとに難しいことだとは思いますが、まあ、でも私は私なりに、ちょっとずつまたそういうズレを考えていこうとする姿勢は保ちたいなと思っています。そういう「調整への姿勢」とか、「一貫性」について、信頼関係が成立するといいんですけれどね。それも含めて手探りです。

 

2013年10月 1日 (火)

一緒にいることの重さ

 今日も勝手な定型人間の想像の議論ですが、もしアスペの方達が「人に頼ることはできない」という感覚を、小さいときから身に染みて育ててこられたとすると、それは本当に大変なことだろうと思ってしまいます。

 私のパートナーは、もしパンダが求めるものを彼女が与えられなくて、そのことに耐え難いのであれば、自分は身をひく、というようなことを何度か言ってきました。その言い方は彼女なりの思い遣りとも言えるでしょうし、でも少し見方を変えると、「彼女にとって私はその程度の存在なのか」という風にも感じられてしまったわけです。ところが実際には前に書いたように、だんだんと彼女は彼女なりのありかたで、本当に私を必要としてくれていると今は感じられるようになってきました。

 ということは、彼女のそのことばは、ある意味でものすごい覚悟のことばということになりますよね。どういうのか、自分は常に一人で生きていくことを運命づけられている、というか、そんな「覚悟」が身体の芯にまでしみ通っているのではないかと感じるのです。

 昔、彼女と初めてご両親の所にご挨拶に行ったとき、親との間にとても強い葛藤を抱えていた彼女はあとから言いました。「初めて自分の横にいてくれる人ができたと感じた」という意味のことを。それから彼女が本を読んでいるとき、そばに行ってのぞき込んでいたら、「今まで自分が本を読んでいるとき他の人がいると、本が読めなくなったのに、パンダが横でのぞき込んでいても平気なのが不思議」ということも言っていました。

 アスペの方が時々「一緒に居ること自体がとても大きなこと」と言われるのを聞きますが、そのことばの重さを、定型の側の、少なくとも私はほんとに理解することが出来ませんでした。「なんだ、たったそれだけの意味でしかないんだ」と思ってしまう。でも、子どもの頃から本当に徹底して「孤独であること」と共に生きてきた人が、そのことばを言うということなのだと考えてみると、そのことばの重さは並大抵のことではないのかもしれないと、今少し感じられるようになってきています。そしてそのことをずっと感じられなかったことについて、彼女に対してほんとうに申し訳ない気持ちも抱きます。

 「アスペルガーと定型を共に生きる」の本の冒頭に、離婚を巡って伸夫さんとカレンさんの間にやりとりされた手紙を載せさせていただきました。苦しい思いあふれるカレンさんの手紙に対して、伸夫さんの手紙はある意味本当にたんたんとしていて、事務的といってもいいような感じでありながら、でもその中では離婚後のカレンさんに対して、自分がどのように経済的に援助していけるのかを具体的に提案されているのです。

 それは私の素朴な感覚からすればとても不思議なことでした。離婚になれば、もう関係はそこでおしまいの筈だと思っているからです。だからあれほど大変な葛藤と対立の後で、別れた後も相手を心配し続けるとか、さらには死ぬまでの経済的な援助まで当たり前のように申し出る、ということはとても考えにくい。それって、別れることになってないじゃない、と感じてしまったのです。

 でも、ようやく今、その伸夫さんの考え方も、少しずつわかってきたような気がします。私のパートナーの感覚と、とてもよく似ているように思えるのです。

 「お互い様」ということはもちろんですけれども、でもそういう彼女の気持ちを理解できなかったことで、私が彼女を傷つけてきたことも間違いないことです。その報いなんでしょうね。今では彼女が本を読んでいるときにのぞき込むと怒られてしまいます (^ ^;)ゞ

 そういう自分の力のなさを、彼女に心から謝りたい気持ちが今はあります。もちろん私にはそうしかできなかった、それが精一杯だったとはいえるかもしれませんが、そのこととはなんか別のこととして、謝りたい気持ちになるんですね。とはいえ、そのことを伝えてもまた「それで、私に何て答えて欲しいわけ?」とか言われたらまたショックだなあ……

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