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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年9月 2日 (月)

この間のやりとりについて

 帆掛け舟さんとの遣り取りは、帆掛け舟さんが「もうこれ以上理解力のないパンダに何を言っても無駄だ。ただ、そのことを皆さんが理解できるような形で、白日の下にさらけ出してみることは出来たから、これでおしまいにする」という趣旨の宣言をされて、一方的に終了されましたので、帆掛け舟さんから呼び出されて、「逃げるなよ」と念を押されて話を始めた私としては、あれ?という思いはありますけれど、あきれかえられて見捨てられたことについては、私の方でどうこうできることでもありませんので、「はいわかりました」ということで一段落になります。

 何にせよ、今回のやりとりが全体としてみたときに一体何だったんだろう?ということについて、とりあえず今の段階で私が想像出来る範囲で私なりのまとめをしてここに残しておきましょう。またいつか見直してみることで、「ああ、パンダはこういう無理解な人間なんだ(あるいはそうだったんだ)」ということがさらに見えてくるかも知れませんし、定型アスペの問題として考えてみる素材になるかも知れません(帆掛け舟さんは定型アスペの問題ではない、と繰り返し念を押されていますが、帆掛け舟さんの議論にアスペの方がかなり共感されていたと言う意味ではそういう見方からも考えることが可能と思います)。

 とにかく多くの方の参加や注目があったことは事実ですし、多分重要な問題だったのだろうと思うので、私も含め、今後いろいろ考えていく上での素材として残しておきたいと思います。

 ひとつひとつコメントを読み返して確認しながら書いているわけではありません。それが必要という考え方もありますが、むしろ私の「記憶の流れ」を書いておくことで、それを実際の遣り取りと対比させてチェックしてみると、そこにいろんな思い違いとか、記憶違い、大事な漏れなどが見えてくることもあると思いますし、そういう「ズレ」もまた私の議論の問題点をチェックする上では意味ある素材の一つにもなると思います。

 私自身の理解した問題の流れとしては、最初はプルーンさんとのやりとりから始まったのかなと思います(あ、プルーンさん、別にプルーンさんのせいだとか言う話ではないですので、そこは御了解のほどを)。プルーンさんはご自分の「傷」をこの場で「事例として呈示」されたということですが、その表現の仕方、論じ方の姿勢などを巡って、アスペの方達から批判があいつぎ、それについて噛み合った議論が成立することなく、プルーンさんは「私は傷つきました」と言って引っ込んでしまわれました。

 その後、プルーンさんへの呼びかけもありましたが、プルーンさん不在のままで議論が進む形になり、プルーンさんに対する厳しい批判が主にアスペの方達から繰り広げられました。そのとき私が重要かなと思ったポイントは、プルーンさんの議論が定型の視点を絶対化して、その定型の視点からの「アスペ像」で批判を行っていて、アスペの方達も傷ついたにも拘わらず、「私は傷つきました」という言葉を残して消えてしまったことかなと思います。それは定型に特有の優越意識を無意識に持っていて、相手が同じように傷つく人間であることを(事実上)認めないことになってしまっていて、そんなことを許していいのか、という「義憤」を何人かの方に引き起こしたように思います。後にするりさんは「人権(意識)」の問題として訴えられるようにもなったと思います。

 この問題について、当時の私が考えていたことは大体次のようなことだったように思います。まずプルーンさんの「事例の提供」以降のやりとりについてのアスペの方達の批判内容は、私も共感できるものが多くありました(また後出しだ、と言われそうですが、まあ、私の記憶の中の事実の問題としてはそうです)。もしプルーンさんがその後も消えてしまわれずに、さらに同様の事態が続いた場合、私がそこに介入することになったかどうかは、よく分かりませんし、実際この段階で私がなんらかの直接的な介入をするとはありませんでした。

 なぜそういう対応になったかについてはすでに少し書きましたが、補足しながら改めて書くと、「差別的な発言(ご本人の意図は別として)」については、私はこのブログの初めの方で、発言された方を名指しにして記事で正面から問題を問いかけたことがあります。その際、逆に当時の常連の方達から「おいおい、そんなに(ブログ主宰者の)あんたが熱くなっちゃダメだよ」と言われたりしたこと、そしてその後のその発言をされた方のコメントなどを拝見していると、その方自身がこの場をとても大事な場と感じてくださっていて、ご自分の発言がそこを乱したと思われたことについて、大きな引け目を感じていらっしゃるようで、結局場から消えて行かれました。その経験から、私の役目は「少し引いた地点から、環境を整えること」にあって、そこで自らの「正義」を振りかざして介入することではない、という思いを持つようになりました。大事なのは参加者の皆さんの中でしっかりとした議論が行われていくことで、その場を間接的にに支えていくことが私の役割と認識したことになります。もちろん、そこで差別的な発言が放置されている状況なら、もう少し私が参加者の一人として議論を提起する必要はあると思っていますが。

 今回の場合、まず第一に、すでに参加者の少なくない方達から問題提起が活発に行われていました。そこで(名ばかりではあっても)ブログ主の私が介入することは控えるべきだろうという判断がありました。第二に、ある意味で議論自体はもう決着がついていて(と私には感じられました)、プルーンさんも引っ込まれたままで出てこられなかった状況ですから、にもかかわらず、たとえ正しい議論であったとしても、当事者の一方を欠いたまま行われる「身内の議論」は、それ自体は理想的なものではない、という判断がありました。

 そこで私が果たそうとした役割は、問題の背景となることなどをより一般化した形で記事で考えてみる、ということでした。
 そうこうするうちに、私が危惧している事態が起こってきました。それはプルーンさん不在の場で、プルーンさんを揶揄するような(これは定型的感覚からの見え方です)議論が進み出したことです。主張の中身が正しいことと、それをどのように他者と共有し、また表現するか、ということは切り離して考えるべき問題だと私は思っています。後者がどのようなものであっても、前者によってそれが正当化されることはない、というのは私の考え方です。「目的は手段を正当化するか」という議論の一部として考えることも出来るでしょう。

 そういう中で、プルーンさんからパンダ個人に対して謝罪のメールが届きました。プルーンさんは公開されても構わないと書かれていましたが、同時にそのことでまた混乱することを恐れること、そしてたとえそうなっても自分は対応できないことが書かれていました。実際その内容は、すでに批判が展開されていた内容の繰り返しの部分が多く、プルーンさんの「危惧」はその通りだろうと思えるものでした。

 ただし、二点だけ、プルーンさんが不在の場で進んだ議論が、プルーンさんによれば誤解に基づいているとされることがあり、仮にそうであるとすれば、そこで展開された議論はやはり方向性がおかしくなってしまう可能性があると感じられました。そういう議論の展開は当事者の一方がいない状況で「正義」が共有されていく際にしばしば起こりがちなことだと私は感じています。そこでそういう危険性を最小限にするため、私の責任で事実誤認のある可能性のあるポイントをまとめて(一応ご本人にも確認していただいた上で)、記事としてご紹介をしました。もうひとつ、コメントの中でかずきさんがプルーンさんが傷ついているのではないか、ということをとても心配されて、お返事が欲しいと書かれていたので、かずきさんの発言についてはプルーンさんは喜んでいらした、ということについて付け加えました。

 あくまで私の想像に過ぎませんが、この展開はアスペの方達にこう受け止められた可能性があると思います。パンダはアスペと定型がお互いを尊重して議論する場を模索すると言いながら、これだけあからさまにアスペの人たちが傷つけられた(あるいは人権が侵害された)状況を放置し、あろうことか、その「加害者」の代弁者として登場するに至った。これはこれまでパンダを信頼して、安心して議論に参加してきた人々への裏切りに等しい。

 まあそこまで厳しくは考えられなかった方もいらっしゃるかと思いますが、いずれにせよ、パンダに対する信頼性が大きく揺らぎ、どう理解したらいいのか、悩まれた方もいらっしゃったのだろうと思います。

 そのアスペの方達の疑問を代弁されたのが、あるいは帆掛け舟さんではなかったかと思います。そしてさまざまな挑発的言辞を駆使されつつ、なんとか「責任者出てこい!」という状況を作って行かれたことになります。このころまたプルーンさんから謝罪のメールがあり、「私のせいでパンダさんに矛先が向いてしまい、お詫びのしようもない。でも自分が出て行くとまた事態を悪化させるだけだから、出られない」とのことでした。

 この時点で私は、この状況はこの場に参加されている定型の方にとっては脅威になりうる、ということを心配していました。コメントの場の状況は「定型糾弾」の雰囲気が強くなっていると感じさせるものがあり(これは単純に批判的コメントの量の多さだけでもそのような雰囲気が作られるものです)、とりわけ帆掛け舟さんの問題提起の仕方は、定型的感覚(とパンダが理解するもの)では強い恐怖感を抱かせる可能性のあるものにも見えました。また帆掛け舟さんの議論の仕方についても、(帆掛け舟さんに依れば「きれいごと志向」の)パンダは、定型の参加者には疑問や場合によって恐怖心を抱くようなものになっていたと感じていました。何人かの定型の方がいくつかの表現でその問題を指摘されていましたが、アスペの方達からはそのポイントについての理解は得られることがなく、ここは「どういう表現で信頼できるやりとりが可能か」ということについての感覚の違いがよく現れたと感じます。

 ということで、度重なる催促を受ける形で、この場でのコミュニケーションの「仕方」の問題について、パンダは帆掛け舟さんと議論をすべきだろうという判断をするに至りました。その後の展開はコメント欄でご覧頂いていたとおりです。その中での私の議論については、少なくとも現時点で私は変更が必要な部分があるとは感じていません。

 現段階で私が理解している両者のズレは、アスペの方達の代弁者としての帆掛け舟さんの追求ポイントは、パンダがプルーンさんによるアスペの方達への「攻撃」を放置した責任を問うことが中心であり、加えてアスペの方達が受けた傷をどう考えるのかを問い詰めることが問題だったのに対し、パンダはそのことを議論する前提的な部分で、まずは「どうやって異質な者同士の議論を成り立たせることが可能か。その視点から見たとき、果たして帆掛け舟さんのアプローチは有効と言えるか」ということを問題にしようとしたことにあったと思っています。そのようなパンダの姿勢は帆掛け舟さんには「きれいごと好き」の症状にしか見えなかったようで、しばらく遣り取りの後、「こいつは言っても分からないし、無駄だ」という判定をされて、議論から身をひかれました。

 およそ以上のようなことがこの間の展開についての私個人の理解の概略になります。それが正しい認識かどうか、私のその時々の判断が適切であったかどうか、私は評価する立場にはありません。私に出来ることは、皆さんに考えていただく素材の一つを提供することまでです。

 この問題の評価については、私は結論はいそがないほうがいいと考えています。昔読んだ本に書いてあって面白かったのですが、毛沢東が海外の記者にフランス革命の評価を聞かれ、「あれはまだ200年ほどしか経っていないから、歴史的評価を下すには時期が早すぎる」といって記者をおどろかせたという話でした。いかにも中国的という感じがするエピソードですが、気分としてはそのくらいの感じで、じっくりと色んな角度から考えていくことが出来ればと思っています。もちろんコメントなどでご議論いただくことについて、それを否定するという意味では全くありません(し、もともとそんな権限も私は持ちませんし)。

 では、とりあえず現在の時点での事態の認識の記録と言うことで、この程度にさせていただきます。今後の記事については、また今までのような記事を期待してます、というメールなども頂いていますし、私もそうしたいと思っていますので、なにか特別の事情が発生しない限りは、そういうことで進めたいと思います。また、この記事については、今後いずれまた似たような問題が発生することも当然予想されますが、そのときにパンダはどういう反応をするだろうか、ということの予測をする素材としてもお使いいただければと思います。

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コメント

お疲れ様でした、かずきです。

帆掛け舟さんの「逃げるな」を、「この場からの逃走」という意味でしか受け取っていらっしゃらないのでしょうか。
「議論からの逃走」という意味では、パンダさんは十分に逃げてらっしゃって
そこに呆れ果てた(言葉が悪いですが)というのが印象です。
記事の書き方からして逃げているつもりは無いのでしょうか、そう読み取れました。
一度出ていましたが、「煙に巻いて趣旨を(意図的でも、そうじゃなくても)そらす」というのは
私には十分な「議論からの逃走」と見えます。
そういう意味じゃないかな、と読み取りました。

私が「逃げている」と感じた具体的な点については下記を。


>パンダに対する信頼性が大きく揺らぎ、どう理解したらいいのか

少なくとも私の中では揺らいでいませんし、理解不能になったわけではないですよー。
そして、プルーンさんのせいでパンダさんに矛先が、とも思ってません。
ここにもずれがありますね。
どうしてなんでしょう。。。


パンダさんの認識として、確認したいのですが

>定型の視点を絶対化して、その定型の視点からの「アスペ像」で批判を行う
発言は、パンダさんの中で「許容範囲」なのでしょうか?

あのコメントをご自身でそう書かれているように「アスペ像を批判」と受け取っているなら
「言い方があるよね」位は思っていたのでしょうか?


その前提で私が考えられる可能性について書きますと、

私の冷凍庫を心配して頂いたり、どこかで明記されてましたが、
「アスペの方が傷つくかも」という想定が出来た段階で

定型側だから出来る「共感(1.5)」をされた上で、
「アスペ側が傷つく可能性がある表現だ」と、「仲裁」に入ること

は出来たのではないでしょうか。
それを試みていたのがトマトさんだと認識していますが、

>批判的コメントの量の多さだけで「定型糾弾」の雰囲気が強くなっている

と感じていたのであれば、

「定型側としてはこう考える」という「定型としてのパンダさんの意見」を加えてバランスを取ろうとする

「アスペとの対話」を考える立場から「どのような誤解や受け取り方の違いが発生しているか、『アスペとの対話』を前提とした個人的な考察」という分析結果を発表する

ことは出来たと思います。
(ここで拾ったのが「傷つく傷つかない」に対する「定型として」の考察だったので、誤解やすれ違いが広がったように思います。)

それが、「少し引いた地点から、環境を整えること」でもあるように私は思えます。
さらにいうと、それが「「正義」を振りかざして介入すること」にはならないと思っています。


そして

>帆掛け舟さんの強い文章が、定型の参加者には疑問や場合によって恐怖心を抱くようなものになっていて、定型の方がいくつかの表現でその問題を指摘されていましたが、アスペの方達からはそのポイントについての理解は得られることがなく、ここは「どういう表現で信頼できるやりとりが可能か」ということについての感覚の違いがよく現れたと感じます。(途中加工しました)

これは、受け取り方が違うのだな、と思いました。
というのは前半の件で、
「恐怖心を抱く表現(脅威となる手法含め)」、と「議論の内容」の話ですよね。


>アスペの方達からはそのポイントについての理解は得られることがなく

トマトさんのコメントで指摘がありますが
>ASの皆さんは、話の内容に集中されているようですが、定型からみると今、また別の深刻な事態が生じていることにお気づきではないでしょうか。

ここは、するりさんも私も、「マナーややり方が他にあったかもしれない」と明記しているわけですし、「理解が得られなかった」とかかれると、「傷つきますね」。
いや、嫌味です。通じなかったんだな。と思います。

特にするりさんは
「その点の落ち度はもしかしたらあったかもしれない。もっと賢いやり方でやれば、突け入る隙を与えずに済み、正当性を保てたかも」とまで仰ってますよ。

その上で、

「それはそれで問題」
だけどこの際だから言うけど、「これはこれで問題」でしょう?問題とも思ってないの?

という意図でするりさんも書いたのだと受け取り、同意コメントを書き込みました。

なので、

>「どういう表現で信頼できるやりとりが可能か」ということについての感覚の違い

ではなく、「このような事実を定型はどう受け取りどう処理するのか」という事を聞きたかったんですよね。
そこにお返事が無かったので「無言の同意」として読み取ってしまいがちで、だから、

>どんなに滅茶苦茶なことを言っていても、「だって定型なんだもん」や、「管轄外なんだもん」「共感する」で、許されるのでしょうか?

とするりさんはお聞きになったのだと思います。

するりさんのコメントの引用ばかりでごめんなさい、全く同意見だったので自分のコメントでは書きませんでしたので。
するりさんの意図と違うところはご指摘ください。


こういうところの細かなズレが積み重なり、

さらに、私から言わせて頂くと、
パンダさんは文章を全て読まずにお返事をされたような印象を受けてしまいました。

引用のマナーの件だけではなく、
コメントに「さらっと」書かれた一文にさえ意味や意図があるのだという事、
むしろそこが重要な主張ポイントであることが多く
そしてそれを「流された」。

そういうところが「議論の上滑り」だとか「逃げ」に見えるのでは?と思います。
「言葉に引きずられて文章を読んでいない」と私が表現したのはこの事です。
刺激的な言葉だけを拾い、本来伝えたかった事を拾えていない。そう見えました。

先に出したするりさんや私の「マナーとしていかがのものか、という点もあった」という主張も、無かったことにされていますよね。(少なくともそう見えます。)
そういうことです。

今までも多々、そういう事を見かけてきました。

玄さんなんかは、とても丁寧に、配慮して「ここはちがっていて」とか、「この質問はお考えいただけましたか」と
丁寧に再度聞いていたりして、大人な対応をされていましたが、
そういう「すっ飛ばして読んだこと」を許容する対応ばかりではない、という事です。
「すっ飛ばして読む」姿勢にたいしての評価をする人もおおいですよ。ということです。


そこの解決策として、帆掛け舟さん流対処で言えば「!」マークをつけるなど、
「言いたい事は強調せずには通じない」と思わせられてしまった。
でも目に留まるよう強調すれば「感情的」と受け取られてしまう。
「感情的になると議論が成立しない」とのお考えから、今度は「!」が「刺激的な言葉」になってしまい、本来伝えたかった事が・・・(略
という堂々巡りが行われていたように思います。

そういった「通じない無力感」から来る「諦め」というもの。
パンダさんもトマトさんも良くご存知かと思いますが、そういう絶望にも似たものを、
個人的にはとても感じました。
だから、帆掛け舟さんが呆れ果てても、仕方ないな、と。

折角、パンダさんは

>「私(たち)」に閉じこもることでもなく、「私(たち)」を否定することでもなく、お互いを自らを捨てることなく認めあえるような議論

を理想としてお持ちなのだから、

>「他者の視点」に立って議論をするということがそもそも「出来ない、あるいは極めて苦手」なのが「自閉系の特徴」
>「理性的な理解」と「感情的な納得」のどちらか

という「決め付け」「ラベリング」に閉じこもらなくていいのに。と思ってしまいました。

そしてその上で

>「違い」をお互いに認め合い、その違いに「納得する」作業

をすればいいのに、とも。

全てご自身で語ってらっしゃるのに。


>かずきさんの発言についてはプルーンさんは喜んでいらした
これに関しては複雑すぎるので現段階でお返事しません。

トマトです。

私の経験と感想から述べると、会話でも、行動でも、「まさかそこに焦点(価値観)を当てていたとは思わなかった」といううことに、双方が全く解らず、会話や行動が進んでしまうということが、定型とASの間では多いと感じます。

それは「よく噛み砕いて話せば解るし、納得も出来る」ものと「話せば話すほど解らなくなる」ものも「上手い通訳が入っても尚、感覚的に解らない」ものもあって、
それは自分には開発されていない部分でのことであったり
話す方はリラックス状態の言葉が、聞く方には混乱や緊張やストレスを感じてしまう言葉だったりが原因ではないかと思います。

言葉自体が外国語や強い方言のように「全く意味不明」なら、議論も始まりませんが
言葉は共通語でありながら、その使い回しの意味や意図が違うと、やりとり自体が混乱の種となる時もある、ということだと思います。
自分が「違い」として発した言葉が相手に「差別」として感じられたり、「思いやったつもり」の言い回しが「皮肉」と受け取られたり・・・それはもう、同じ日本語を使うからこその混乱という場面もあるということですね。

かずきさん、「かずきさんの発言についてはプルーンさんは喜んでいらした」は、「かずきさんからのプルーンさんへの最大限配慮してくれた言葉に、彼女はありがたいと思っていらしたよ」というニュアンスだと思います。
それは、いち感情の伝達なので「そうですか」で良いと思うのですが。

定型は「嬉しい」とか「傷ついた」とかをひとつの「結果発表」として発信したり受けたりしている場合もあると気がつきました。
「嬉しかったです」と言われると「自分のしたことは、これで正解の印をもらえた」と終了し
「傷つきました」と言われると「了解、以後気をつけると受け止めた」と終了する。

「嬉しいだの悲しいなどと言ってそれが問題解決に何の意味を持つのか」という議論的トークも持ちますが、こと日常の人間関係などのテーマには感情表明が「それが回答で、その回答をもらわないと問題解決に進めない」サガがあるんだなぁ・・・と、つくづく痛感、自覚したことでした。


トマトさん

「貴方は」知っていたんでしょ?プルーンさんのとこのブログで私達が中傷されていたこと。

中傷を「当たり前のこと」と思われたのですか?
それとも
「するりさん、かずきさんの目に留まったら彼女たち、落ち込むだろうな」と思われましたか?

それだけの話です。

それ以外は枝葉です。


するりさんへ。 トマトです。

するりさん達が中傷と感じられた部分は、帆掛け船さんの引用によって知った、というタイミングです。
もし、前もって知っていたら、私は「パンダさんのブログでやりとりしたASの人も見る可能性は高いので、オープンな場では「なかなか難しかった」などの抽象的な表現が望ましいですよ」と、いうことを急いで伝えていたでしょう。

とりあえず、プルーンさんは自分の場に帰って、つぶやいた。(毒吐いたと見るASの人は多いでしょう)
それは、一生懸命、素直な姿勢でコメントしたASの人を傷つける内容だった。
とりあえず、帆掛け船さんは訪問先でおいとまの言葉を言った。(ツバ吐いたと見る定型は多いでしょう)
それは、一生懸命、届かなくても精一杯のコメントをしたブログ主さんを見下げた内容だった。

ここに、ASから定型に、定型からASに提言すると「責め句」となってしまうので、AS同士、定型同士が「おいおい」といさめることが良かったと思います。

するりさんへ。トマトです。

追伸。私がするりさん・かずきさん達の立場で、あのプルーンさんのコメントを読めば、やはりショックで中傷と感じたですよ。

プルーンさんはそれが中傷になるとは認識せず、自分のダメージだけを不特定多数が見る場で書き込んだ。その「認識が無く」の危険性を、帆掛け船さんが見る前に知って伝えたかったですね。


トマトさん

安心しました。貴方を信じてよかった。そして「知っていたんでしょ?」発言は、全面的に私に非がありますので、謝罪致します。申し訳ありませんでした。

かずきさんへ

実に的確な、というより私の頭の中とかずきさんの頭の中の回線はひょっとしたら繋がっているのではないかと思うほど(笑)、納得、同意の意見です。
突っ込みどころが無さすぎてくどくどコメントしようがないって初めてかも…

トマトさん。かずきです。

感情の報告、ですが、あのコメント自体、複雑な色々な意図があってのものなので、
単純に喜ばれた、というのも、「微妙ー」な感じが正直な所です。
とはいえ、これ以上本人に伺えないところがあるので、コメントできない、としたまでです。

「感情の報告」に終わる(と伝わる)表現ならば、双方スムーズに議論が進むと思いますね。

そして、私はチキンで聞けなかったことをするりさんがお聞きになって、
その返答を読んで、安心しました。
ずっと、トマトさんが誤解されていないか、話の流れから傷つけてしまっていないか気になっていたので。

もっとうまく、やり取りができるようになりたいものです。


するりさん、ありがとうございます。

USBどころじゃなく、光回線で繋がっていそうですね(笑
正確に読み取れて嬉しいです。
引用させていただいたコメントに対して、私がそれ以上のコメントしようが無い状態でしたので使わせていただきました。
こんなにすんなりと伝わる体験も初めてです。
これもまた新しい発見です。

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