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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年9月 3日 (火)

感情と信頼

 ただいま仕事から戻ったところですが、玄さんから「信頼」についてのご質問がありました。

 「もちろん、誰かに向かって「信頼してるよ」という声かけは、「注目していますよ」「貴方が上手くいくことを前提に、コスト配分していますよ」「良い結果を出して、利益をこっちに廻してください」という含みがあるということは、シチュエーション分析で分かっているつもりです。その他に、感情的なニュアンスがあるようでしたら(もちろん、パンダさんの捉えている意味合いも)、ぜひ教えてください。」

 信頼って何か、ある意味で定型にとっても永遠のテーマのような感じもします。信じたり、裏切られたり、裏切ったり、そういう中で人も自分も信じられたり信じられなくなったり……

 素朴な感覚で思い起こしてみれば、「信頼」という言葉をどういうシチュエーションで使うかによっても意味はいろいろな感じがしますし、「信頼の深さ」みたいなことも問題になるように思います。

 比較的「浅い」信頼の例としては、たとえば相手の技能などについての信頼があるように思いますし、逆に「深い」信頼の例としては、極端な場合には自分の命をかけてもこの人は自分を守ってくれるだろう、とか、自分のために頑張ってくれるだろう、と思える場合があります。

 昔若い頃に職場の先輩に教えていただいた言葉で「刎頸の友」というのがありましたが、仮にその友人が「おまえの命がどうしても必要だ。」と言えばその友に黙って首を刎ねられても構わない、そんな「信頼関係」のことをいうと言います。相手が本当にそれを必要とするなら、自分の命も投げ出す。じゃあ、残された家族はどうするの?という話になれば、当たり前のこととして、友はそこまで責任を持つことが暗黙の了解ですし、また自分が命を投げ出すことによって相手が何かを実現しようとすることの手助けになるし、そして相手がそうやって自分の命を奪ってまで実現しようとしていることの価値を、無条件に自分も信ずることができる。場合によっては何を実現しようとしているか分からない場合でさえも、です。

 今の世の中ではそういう関係は、もしかすると「やくざ」さん達の間に残っているかも知れない、というくらいではないでしょうか。友人関係ではなくても、主君と家臣の関係のひとつの理想はそういうものだった、というのは以前に「葉隠」という本について書かせていただいたとおりです。現実にそれがどこまで実現していたかは別の問題として。でも昔はほんとに「殉死」を多くの人がしたわけですし、そういう主従間のある種の「信頼関係」は現実に一定程度は存在していたのでしょうね。私には感覚的に理解仕切れないところがありますが。

 (すみません、私、結構極端な例を思い浮かべながら、その問題がどの程度の幅で成り立ちうるのか、ということを考えたりするくせがあって、「あんたの話極端だよ」と言われることもあるんですが(^ ^;)ゞ、まあ、でも人間ってどういう幅、どういう可能性の中で生きているのかに思いを馳せると、どうしてもそうなってしまいます。)

 いずれにせよ、少なくとも定型の場合、「信頼」、特に深い信頼は「仲間関係」と切り離せないように思います。それは「お互いに相手のために努力を惜しまない」という関係です。「この人は自分に都合が悪くなれば、自分を捨ててさっさと逃げていくだろう」と思えば信頼関係は成り立たない、ということも、上に書いた「自己を犠牲にしても相手のために」ということと裏表の関係になりますね。

 感情との関係ですが、そんな風に「相手のためには自己犠牲をいとわない」という側面が「(定型的?)仲間関係」にはつきものなので、それはある意味で「計算」とか「打算」を越えた関係です。もう少し視野を広げれば、その人自身には益はなくても、家族に益が生まれるとか、大きな枠の中ではバランスが取れている可能性はあると思いますが、でも少なくともその人自身には直接の利益はないし、またそこで利益について「計算」すること自体がある種の「不純」な動機になってしまう、ということになり、それは「自己犠牲」ではなく、「商売」とか「打算」だ、という形で排除されるでしょう。

 そんな損なことをするわけですから、「理性」では中々乗りこえられないものもあります。葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」は極端な例の一つですが、普通の理性では理解しがたい、強烈な「感情」がそこには絡んでくると思います。前にご紹介した、胆力を鍛えるために自分の太股に刀を刺す話だって、たとえば今私が刀を渡されて「やってみろ」と言われたってできっこない。ある種異常とも言える感情の高まりと、そのコントロールが必要になる行為だと思います。そしてそういう胆力と、主君の為には命を投げ出す、ということがつながっても来る。そんなところにもよく現れているように、自己犠牲的な人の行動を突き動かすエネルギーとして「感情」が大事な役割を果たすことになるんだと思います。そしてそれが「深い」人間関係の形成とか維持に係わることになる。

 そこまで極端な話をしなくても、やっぱり友だち関係には「この人のためだから一肌脱ごう」みたいなことは普通にあるわけでしょうし、それは友だち以外にはあまりできないことです。だからこそ、それとは正反対の性質を持つ「博愛」という言葉もあって、その自己犠牲を伴って相手のためになる、その対象が「友人」などに限定されない姿をいいますよね。(でも実際にそんなことが出来る人がほんとにいるのかどうかというのは意見の分かれるところでしょう。ある人は「マザーテレサ」以外にはそんな人はいない、と言っていました。それもどうなのか、私にはわかりませんが。)

 と、思いつくままにぐだぐだ書いてきてしまいましたが、少なくとも定型の深い信頼関係には「自己犠牲」の問題が絡んでくるし、そこには小さな計算では割の合わないことを敢えてする「感情」的な要素がからんでくる、という側面があるように思います。この考え方でどこまで「信頼」を説明できるかは、まだとりあえずの思いつきで書きましたので、よくわかりません  (^ ^;)ゞ


 アスペと定型の問題に引きつけて考えてみると、今回の遣り取りの中で、ある意味すごいなあと思ったことがあります。たとえばかずきさんとか、するりさんとか、私の議論について、「議論から逃げている」と感じられたりしているわけで、もちろん私は主観的には全く逆なのですが、そのあたりは「見えている世界の違い」の問題がおそらくかなり大きな問題としてあって、相当に話が噛み合ってないのだろうと感じています(もちろん定型アスペの問題ではなく、パンダ個人の分からなさの問題かもしれませんが)。

 で、仮にこういう大事な議論について、自分に都合が悪くなれば逃げて誤魔化す、という姿勢がはっきりしているとすれば、定型的にそれを見れば「信用できない」ということになると思うんですね。「ああ、こいつは結局自分の利益でしか動かない、その程度の奴なんだ」という評価になりますし。ところがほんとにありがたいことに、かずきさんはパンダに対する信頼は崩れていない、ということを書いて下さっている。するりさんもトマトさんについて「信じて良かった」と書かれている。

 この「信頼」ってなんなんだろう、とすごく思います。上に説明した信頼のパターンとは、少なくとも表面的には違って見えます。もしかするとこの信頼についての感覚や理解のズレに、逆に定型アスペ間を結びうる大事なポイントが隠されているかも知れない、と思ったりします。
 
 
 

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コメント

帆掛け船さんへ

初めまして、イヴと申します。

この記事とは関係ないのですが、先日コメントでお勧めしてくださっていた、夏目漱石の『硝子戸の中』を読んでみました。(o^-^o)
引用されていた『十一』の文章も全文読みました。

夏目漱石の作品はいくつか読んではいましたが、随筆集を出していたことは知りませんでした。
本書は読みやすく、読後に漱石の優しさを感じました。

良書を紹介してくださりありがとうございました。(*^-^)
このことを伝えたくてコメントさせていただきました。

「信頼」「信じる」について、かずきです。

私が「パンダさんへの信頼性が揺らいでいない」と表現したのは、

・少なくともパンダさんは議論をしようとしている姿勢はある
・「都合が悪いから逃げている」ように見えているけど、本人は「逃げている」つもりはないらしい
・だったら今後、議論を続けることは可能(「逃げている」事についても)
・議論を積み重ねることは自分(かずき)にとっても有益

ということで、
別記事のコメントで玄さんへのメッセージを書きましたが、

「この人のこの部分において信じている」という事です。
『パンダさんがASと対話しようとしている(対立しようとしていない)』という部分が崩れたら、
私の中のパンダさんへの信頼性は確実ゆらぎます。
逆に言うと、そこしか存じ上げません。
トマトさんへも同じです。
…これで伝わるでしょうか。

私にとって、「信じている」という言葉や表明は、
「信じているのだから、それに値する働きをしろ、でないと攻撃するぞ」
という「脅し」に違いニュアンスを感じます。
(なのであまり言われたくありません。裏切ってしまうことが多いので。)

もちろん、

>、「注目していますよ」「貴方が上手くいくことを前提に、コスト配分していますよ」「良い結果を出して、利益をこっちに廻してください」という含みがある

という事も理解はしていますが、直感的に感じるのは、脅迫じみた印象です。

だからこそ、自分はそういうニュアンスで使いたくないので
簡単に「信じてる」とは言いたくありません。

今回のように言うときは、他意無く伝わるよう、最大限の努力はします。
うまく言っているかは分かりませんが…

そして、私自身、「博愛」は存在しないと思っています。
ドコかしら、必ずその人の「エゴ」があると思うからです。度合いの差があるだけで。
「無償の奉仕」はあり得ないと考えています。
その有償が、どこから来るのか、相手からの益なのか、自分からの益なのか、の差だけだと思っています。
相手からの益は「感謝」だったり、自分からの益は「~した自分」に対する自己評価だったり。色々ですが。
その上で、相手からの益ではなく、自分からの益を求めるほうがトラブルが少ないとも思います。

トマトです。

信頼感については、「信じられる」という思いを感じるか感じないか、感覚のことなので、理論的な説明が腑に落ちるかどうか・・疑問ですが、自分以外の人の能力や気持ちを、疑う余地なく信じると「確信する」になるでしょうし、逆に信頼感がほとんど無い「信じられない」人とは、仕事でもプライベートでも敬遠することになると思います。

信頼感は、人だけでなく動物と人の間にも、あらゆる製品や商品(信用できないメーカーや営業マンからは買わないなど)にも関わって来ますから、人は無意識下で、ずいぶん多くの「信頼感や信頼度」で人間関係や売買などの行為を仕分けしているのだなと、再認識しました。
ひいては国々の外交や、世界経済も「信頼感」がなければ崩れるという事ですね。

前にコメントしたかも知れませんが、私が忘れられない友人AS君の言葉に
「神様が願いを叶えてくれて、もし僕が1日だけASでない日を送れるとしたら、信頼感というものを味わってみたい」という内容がありました。
それは「ASの人には、信頼ホルモンのオキシトシンが少ない」という本の話題をしていたときでした。
AS君は「僕は、何故だか疑い深くて、皆がすんなり受け流すことにも、本当にそうなのか?、実は裏ではこのような画策や陰謀があって・・という疑惑が禁じ得ないのです」と言っていました。
私は「でも、あなたは、困った時は必ず私に連絡してくるよね。これは、ひとつの信頼感じゃないの?」と聞くと「それは信頼感なのですか?  僕としては、誰よりも解決してくれる確率が高い人に連絡するという、確率感というか、可能性感というか、そんな感じなんスけれど」

そういうやりとりを想い出しました。

(追伸・友人AS君も夏目漱石の大ファンで、漱石研究家と言われるほど漱石に没頭し漱石論を書き綴っていました。思い出つぶやきです。)

トマト、連投すみません。

かずきさんのコメント
【私にとって、「信じている」という言葉や表明は、「信じているのだから、それに値する働きをしろ、でないと攻撃するぞ」という「脅し」に違いニュアンスを感じます。】
で・・・想い出したのですが

AS君も、職場のASの人も
「上司に『頑張ってくれ、信じてるぞ』とか言われると、勝手に信じられてハッパかけられても困るな、と、ムッとくる」
「信じるのは、あんたの勝手だが、それを押し付けないでくれと感じる」
と、言ってましたね。

私の中の「ASと定型の真逆アルアル」のひとつに、
定型が「嬉しい・励みになる・光栄だ」と感じる言葉が、ASの人には「押しつけ・嫌み・不遜・不安などのストレス」と感じる言葉になる。
があります。
(日本語という共通語だけど、受け取り方や感じ方が違う)

ですから、定型が「ここぞ伝えたい」という好意の気持ちで使った言葉が、ASには「価値無し」であったり「ストレス」であったり、またその逆もありなので、
AS定型双方の、近づきたいと思って伝えた言葉こそが見逃される、ということになるのでしょうね。

イヴさん、初めまして。
読んでくださり、嬉しいです^^
自分の感覚を信じて、個人の意思を尊重して、一人を恐れず、感情的な小さな嘘をも憎む。今では文豪なんかに祭り上げられちゃっていますけど、漱石って実はASの人にもなじみやすい気がします。また、定型が、AS由来のズレなのか、個人主義(今の日本では少数派の一つ)由来のズレなのかを知るのにもいい気がします。漱石は定型だろうという前提での話ですが。いや、もちろんそんなこと関係なく、作品単体としても面白いですが。

かずきさんとするりさんが書かれていたように、カサンドラの悩みはASと同じなのに!というのだって(あれは私も同意です。ただ、中途失明の方が生まれつき全盲の人より見えない恐怖心や見えなくなったパニックは大きいだろうな、それをカサンドラにも感じる、とも思います。まあ、生まれついての人に「これだけ辛い!!」「生まれついての奴は駄目なんだ」と言うのはどうなの?とも思いますけどね)、通じない苛立ちは別にASだけのものじゃないはずですし。=少数派由来のものらしい、とわかる。


するりさん、前の記事への謝罪コメント、あれはわかった上での嫌味なのか本意なのかちょっと見分けられません。が、かずきさんや他の方のためにも書いておきます。トマトさん(に限らず他の人も)は、後出しで何とでも言えるんですよ?疑いきるのも馬鹿らしいけど、絶対に信じ切ってもダメ!なんです。そうした日和見と八方美人をするためにこそ、揉めている最中はなりを潜めて静観している、とも言えます。するりさんは前、確か、部活の顧問のことを書かれていましたよね?人の変わらなさの点、振り回されてはいけない点では、それと同じとも言えます。ついでに。偏見は、育ちきった人(老人)から取り除くのは至難の業です。それよりは子供への教育に力を注げ、とは西原理恵子が言っていた気がします(もともと誰かの引用で読んだので不確かですが)。


かずきさん、ありがとうございます。徒労感の舞台裏も、全くその通りです。


皆さんへ。「逃げる」と「見限る」も別物なんですけどね……(苦笑)

「本人による表明」よりは、「出てきた言動」を重視することをお勧めいたします。
ちょっと微妙なたとえですが。いくら「太っている私は嫌だ!」と言う人がいても、それをもって「その人は太ってはいない」としてはいけないということです。

本当に中庸なら、相手側の身になった発言も思い付き、また載せもするはずです。たとえば、「定型への厳しい非難」=「ASからの正当な批判」というように。知人の指摘ですが。定型側の発言は被害者的に見えるよう、AS側の発言は過激でわがままに見えるよう、単語レベルでの印象操作がこれでもかと入っていますよ。それこそが、差別意識の表れでもあります。

かずきさん

「・少なくともパンダさんは議論をしようとしている姿勢はある
・「都合が悪いから逃げている」ように見えているけど、本人は「逃げている」つもりはないらしい
・だったら今後、議論を続けることは可能(「逃げている」事についても)
・議論を積み重ねることは自分(かずき)にとっても有益」

 このポイント、すごく印象的です。何がかというと、私は仕事の関係で異文化の方と
 一緒に何かをすることがわりとあるのですが、そういうところでは本当に「信頼」が
 シビアな問題になりますし、カルチャーギャップのせいで、そのあたりが常に簡単に
 ゆらいでしまったり、対立になってしまったりと言うことがあります。

 その中でもほんとうに(定型的)信頼感を作れることも少なからずありますけれど、
 そこに至るステップの中で、ここでかずきさんが挙げられたポイントのエッセンス
 みたいな部分がすごく重要になると思えるんですね。

 簡単に言えば「こいつはわけのわからん、自分には非常にかんに障ったり、怒り
 を感じさせるような言動をする。だけど、自分にはよく分からないながら、こいつ
 にはこいつの理屈があって、それをベースに真剣にこちらに係わってきている
 ことは感じられる。そしてその理屈は、わからないなりに、何か自分のことを
 考えさせられる力を持っている」といった感覚が生まれるんです。

 そうすると、ぐっと信頼感が出てきて、「一緒に飯を食いに行こう」とか、そういう
 「親しみ」の関係が生まれてき始めるんですね。

 アスペの方達の信頼感と多少違いがあるとすれば、この「親しみ」の感覚が
 何時どの程度発生するのか、あるいは最後までしないのか、というあたりに
 ひとつ注目したいポイントを感じます。

 もうひとつ、これも結構重要なポイントになるかなと思えることとして、定型同士
 だと、一旦「信頼感」ができると、お互いに緊張感がなくなり、「安心」したつき
 あいが可能になります。そして多少の失敗があっても、許したり、見逃したり、
 そのことがそれほど気にならなかったり、ということも起こる。

 もしかすると、このあたりはアスペの方達の信頼感とは違う点かも知れません。

 ただ、その違いが生まれる原因については、生まれながらの違いと考えられる
 のか、それとも生育歴の中で、訳の分からない世界の中で、訳の分からない理屈
 に囲まれ、そして様々な迫害に耐えて生き続ける中で、そんな「甘ったるい」信頼
 など、到底許されなかったために、信頼そのものがすごい緊迫感を持ち、
 「「脅し」に違いニュアンス」を持つようになるのかも知れないと想像しました。

 その点については、パートナーの感覚も、なにかすごい「緊迫感」を持っていて、
 私がしみじみ思って彼女に言ったりすることの一つに、
 「○○さんがほっとできる状況を作れることが僕の夢の一つだ」
 ということがあるんです。もちろん二人でホッと出来る状況という意味ですけど。

 自分が「多数派」であり、「迫害者」でありうるという自覚を持つことは
 ほんとに難しいことですが、トマトさんが前に書かれていた例にもあったように、
 自分が少数派になって迫害された経験からの想像力は
 多少なりとも働かせることも可能でしょう。
 そういう視点で見たときに、徹底して「迫害」され続ける状況を生きることの
 ものすごい「緊迫感」をかずきさんのお話などを読んでいて感じます。
 パートナーの言うことからも、似たようなことを感じます。

 ただ、ここがパンダのずうずうしい鈍感さなのですが (^ ^;)ゞ
 だからといって、定型がこれも激しい戦いの歴史を経て作り上げてきた、
 人間関係のクッションの作り方(文化ってそういうものだと思いますが)を
 あっさり放棄して、
 アスペ的な関係(というものがあるとすれば)に取り込まれる、
 ということは全然考えていません。
 それはアスペの方が苦労してきた関係を裏返しにするだけだからです。

 ということで、とにかくお互いにわかりあえないことを自覚しつつ、
 なお共生できる道を探し続けるだけですね。お互いを活かし合いつつ。
 きれい事と言われようと何としようと、それが私の生きる課題なので、
 放り投げることは出来ません。

 あ、それと別記事へのコメントでかずきさんが、私の議論の問題点を
 具体的にいろいろ指摘してくださっていますが、
 その記事に書いた理由で、そのへんは少しずつぼちぼち考えていく、
 というスタンスで行きますね。決して無視しているわけではありませんので、
 それはご理解いただければありがたく思います。

 なにしろ、これだけの「見え方の違い」がある以上、
 そんなに簡単に「合意」が成立するわけもなく、
 さらにいえば、「合意」を前提とすることが完全に出来るわけでもなく、
 その時々で仮の合意を積み重ねながら、
 ぼちぼちお互いの理解をそれぞれの視点をベースにしながら
 相対化もし、立体化もし、調整をしていく過程が保たれていれば、
 それでいいのだろうと思います。

帆掛け舟さん

分かってますよ~、その後社会に出て散々嫌な目に遭って学習しましたもの(笑)

知らなかったかも知れないし、知ってたかもしれない。

それはトマトさんしか知りようないし、仮に、ですよ。

知っていた 、 としても。
あの時どう思っていたかも分からないけど。

私のあの問いに「今」、ようやく向き合い、答えられた(答えるように追い詰めちゃいましたけど…)

私はいろんな枝葉を全部伐採して、素っ裸にしてしまったけど、トマトさん、なんとか逃げなかったですよね。

そこに対する信用、です。

それ以上でも以下でもない。あまり書いたら滅茶苦茶キツイ表現になっちゃうからこれ以上舞台裏を書くつもりはないですが、仮に取り繕った場合、良心の呵責はあるでしょう。その場合、「信じてよかった」と言われるのは、一番キツイんじゃないでしょうか。
でも、それは私のせいじゃない。取り繕って嘘をついた本人の自己責任なので、因果応報だと思います(うわ、なんてキツいあ言い方…)


…でもこれは、あくまで 最悪の場合の想定ですから。

基本的には「知らなかった」説を「信じよう」と思ってますし、本来のポジティブで素晴らしい意味としてこの言葉が届いたことを願ってます。


「因果応報」じゃないな、「自業自得」ですね。ボキャ貧で申し訳ないです…

するりさん、おお、高度な……。
無粋なことをいたしました(笑)

帆掛け舟さん

多分ね、ここ最近、半沢直樹に相当影響されてますよ、私(笑)

それより、あちらで反論なさった方がよろしいのでは。このままだと帆掛け舟さん、誤解されます。

帆掛け舟さんに「だけ」これだけ厳しいのがよく分からん…

するりさん、ありがとうございます。
まさか私へのコメントだったとは(笑)
しかも今更あの記事に。

半沢直樹、先日のを見てみました。途中からだと入り切れず残念です。
まあ、主演つながりで、「リーガル・ハイ」の第二期を楽しみにしています。
カラマーゾフ、気になりつつもまだなんです。落ち着いたら借りてみますね。

帆掛け船さん

お返事ありがとうございます。(o^-^o)

>また、定型が、AS由来のズレなのか、個人主義(今の日本では少数派の一つ)由来のズレなのかを知るのにもいい気がします。

わかりました。
それではこの視点を元に再度読んでみますね。
漱石の人物像なども併せて再考してみたいと思います。

>ただ、中途失明の方が生まれつき全盲の人より見えない恐怖心や見えなくなったパニックは大きいだろうな、それをカサンドラにも感じる、とも思います。

本当に、中途失明をされた方の恐怖心や見えなくなった時のパニックは大変なものだということも、それがカサンドラにも感じるということも私もそう思います。
おっしゃりたいことはよくわかります。

>通じない苛立ちは別にASだけのものじゃないはずですし。=少数派由来のものらしい、とわかる。

私も通じない苛立ちは決してASだけのものではないと思います。
それぞれの関係(カップル同士)に応じて、それぞれの由来があるように思います。(もちろん少数派由来のものらしいものも含まれます)
それぞれの関係に応じて、それぞれ通じる道はある(できる、作れる)のではないかと思っています。

半沢直樹、見られましたか(笑)まあ、要するに「ならぬことは、ならぬ」なんです。あ、これは「八重の桜」か…

カラマーゾフもいいですよ~、あれは物凄く得るものが多いです。ドストエフスキーはてんかん持ちだったというのは有名ですが、私は密かに「お仲間かも」と思ってたり。言ってることが実感としてよく分かるんです。特にカラマーゾフの中に登場する次男は帆掛け舟さんっぽい(誉め言葉です!)あ、でもラストの部分は気にしちゃいけません。大審問官の部分、圧巻ですから是非読んでみて下さいね。

私は漱石読んでみます。今まで読んだ中では「それから」が一番好きですが、ちょっと興味が湧きましたので。

どうしよっかな~、この際自分のブログ持とうかしら…

イヴさん、コメントをちゃんと読んでくださり、ありがとうございます!
日本語が通じる~~。

漱石の「私の個人主義」という講演録も面白いですよ。
ネットで読めます(青空文庫)。私も今読み直しているところですが、本題に入るまでが長い……(笑)

「個人主義」が、ASと定型の共通語になったりしないかな……?と思えてきました。そういえば、私がAS的な人とうまくやっていると思える定型は皆、個人主義的です。


するりさん、「八重の桜」は全回見ています。丁寧でいいドラマです。そうか、日曜は「ならぬことは、ならぬ」の日だったのか……。

カラマーゾフ、楽しみになってきました。お仲間っぽい作家ってちらほらいますよね!私も脳内リストがあります。

ブログ開設、ぜひぜひ。ぜひお邪魔したいです(靴は脱いで)。

帆掛け船さん

>「個人主義」が、ASと定型の共通語になったりしないかな……?と思えてきました。そういえば、私がAS的な人とうまくやっていると思える定型は皆、個人主義的です。

帆掛け船さんの考える「個人主義」ってどんな感じかもう少し詳しくお伺いしてよいですか?(*^-^)

>漱石の「私の個人主義」という講演録も面白いですよ。

今夜は遅いので、また早いうちに青空文庫で読んでみますね。(これから青空文庫をネットで検索してみますね)

イヴさん、私にとっては、平たく言えば「『みんな』を盾にしない」「自らの言葉で責任を持って語る」ですね。

青空文庫の、ひとまずざっと読みました。
昔読んだのよりも随分長く感じられます。あれは抜粋だったのか知らん。
漱石によると、個人主義とは淋しいものだそうです。他人の加勢をあてにせず、常に「私はこう考える」と個人の意思で立つものだから。言われてみれば確かに。しかし、私はそれを淋しいと思ったことは一度もないのです。私の当然の権利であり義務であり、相手の当然の権利であり義務であると考えていたので。「淋しい」の語に込める意味が現代とは異なるのかもしれませんが。

相手が「個人」へ立ち返るきっかけが、相手の個人的な怒りであっても構わない(その他の方法では全く動かない相手でしたので)。「個人」へ立ち返る過程で怒りが出てきても構わない。私はそう思ったのですが……後の展開はご覧の通り。ですから、現時点ではいくら話しても無駄なのです。イヴさん、このように落ち着いて、互いのどこに相違があるのかをお話しできればどんなにか面白いでしょう。しかし、この場は残念ながらそうした話には向かないのです。どこか他所に適当な場所があれば、ぜひ移ってお話ししたいものです。連関しておすすめしたい本もありますのに。ついでに申せば、私はASなのかどうかはっきりしない者なのですよ。個人主義の定型という気もいたします。

それにしても。「私の方は個人主義でやっているのに反して、向うは党派主義で活動しているらしく思われた」。今どこかでわめいておられる方々。「失礼ながら時代後れ」100年ほど前の人にこう言われるご気分はいかがでしょう(笑)

帆掛け船さん

>日本語が通じる~~。

ありがとうございます。(*^.^*)
昨夜は取り急ぎご質問させていただくだけになってしまい失礼しました。
お返事ありがとうございました。
日本語が通じたと感じて下さってとても嬉しいです。

>青空文庫の、ひとまずざっと読みました。
昔読んだのよりも随分長く感じられます。あれは抜粋だったのか知らん。

私も漱石の「私の個人主義」をプリントして目を通していたところです。
確かに長く感じますね。
講演なので割とわかりやすい文章ですが、深く読めばまた違うのかもしれません。

>私にとっては、平たく言えば「『みんな』を盾にしない」「自らの言葉で責任を持って語る」ですね。

帆掛け船さんの個人主義のことを教えて下ってありがとうございます。
このお言葉をよく吟味してみますね。(o^-^o)
併せて漱石の個人主義についても考えてみますね。

>イヴさん、このように落ち着いて、互いのどこに相違があるのかをお話しできればどんなにか面白いでしょう。

本当にそうですね。
落ち着いてと感じて下さってありがとうございます。
私とお話して下さっている帆掛け船さんは、私と(とても)似ているような感じさえ受けます。(ご気分を害されたらごめんなさい)
なので私は相違のお話をしている感じさえしていません。

>どこか他所に適当な場所があれば、ぜひ移ってお話ししたいものです。

お話したいと言って下さってとても光栄に思います。ありがとうございます。
そんな場所をご存知でしょうか?

>私はASなのかどうかはっきりしない者なのですよ。個人主義の定型という気もいたします。

そうなのですね。
おっしゃることが分かるような気がします。
他の人から私がどう見えているかはわかりませんが、私も定型みたいなところ、ASみたいなところ、ADHDみたいなところが入り混じっている自分を多分に感じるからです。
自分のベースはどこなのだろうか?
素の自分って?と色々と考えてしまいます。

だから私も自分自身を、ASなのか、定型なのか、ADHDなのかはっきり言い切ることが難しく感じています。
そういう理由で、私は帆掛け船さんがどちらであるかはっきりしないと言われることが、分かる気がします。(見解が違っていたらごめんなさい)

人はその時々でも、場面でも、相手によっても、変化するものではないかと思います。自分の目の前に見えること、自分が感じることで、その人を感じたらよいと私は思います。
私はある意味個人主義的な人間ですが、人の優しさや思いやりなどを感じるセンサーは、研ぎ澄ましていたいと思っています。

>連関しておすすめしたい本もありますのに。

どんなご本でしょうか?
興味があります。
よろしかったら、教えて頂けたら嬉しいです。(*^-^)

帆掛け舟さん


はいはい、ちょっと待って(笑)今日は目が回るほど忙しかった(まだ帰れないし…)けど、明日はちょっとマシだから、頑張って作ってみますから。

基本的に駄文しか書けないと思います。文才ないし、書くネタも探せるか… それと、私、人のいないところで悪口言う気はないので。そこは定型の方々、ご安心下さい。

イヴさん、私自身の個人主義は、漱石のものと大差ないです。
昔教材として配られた漱石のを読んで、大いに共感した覚えがありますので。

私と似ているとお感じになるとのこと、嬉しいです^^
そうなのです。どこかの性質に片寄せることはできないですね。
どの要素の方にも共感できる部分はあります(ちゃんとした日本語になっていて、責任を持って語られてさえいれば)。おっしゃる通り自分自身の性質は、相手次第、場所次第で変わります。対人関係の中に私があるのであって、他者と完全に切り離された個人としては存在しえないのですから、完全な素もまたないだろうという気がします。私も、他人の状態はその都度拾うようにしたいです。また、本当に変化なさるなら、その変化を切り捨てようとも思いません。

本は、おすすめしたいのはやまやまですが、この場に書くのには大変抵抗があります。理由としては、

・他の方々に理解できるとは限らない。特に、現段階では管理人さんに理解できるとは思えないので。内輪の話を勝手に展開する形になるでしょうから。マニアックな話をそれに興味のない人の前で繰り広げるような感じがします。参加者としてのルールとして、私はこの点を一番気にかけます。疎外感を与えるような話はなるべく避けたいです。私の場ではありませんので。

・もし他の方に興味を示されても、漱石の件のように、奇妙な解釈でボロボロにされる惧れがある。私は好きな本がそのような扱いをされることを望みません。

・私自身のコメントや、他の方から私へのコメントを切り取られて記事に使われる惧れがある。私はそれを望みません。

などでしょうか。

もし、するりさんがブログを開設なさるのであれば、私はそちらへ移りたいです(するりさん、絶対作ってくれ、と言っているのではありません(笑))。私自身はブログを作るほど書くことはないですし、また管理しきる力もありません。メールで他の方も含めて本などの軽いお話ができれば、とも思いますが……。今ここへ晒すと妙なメールが来るのは必至ですし(苦笑)、どうしましょう。他の方への公開前提がルールなら大丈夫かもしれませんが。などと勝手に書きましたが、イヴさん、そこまでは不要だと思われたらすみません。


するりさん、丁度、投稿しようとしたら……(笑)
お疲れ様です。ご無理はなさらないでください。でも期待……!
私も、場外乱闘のようなことは望みません。

帆掛け船さん

お返事ありがとうございます。
私も子どものころの記憶を辿ってみましたら、漱石は好きだったと思います。
『坊ちゃん』、『草枕』、『吾輩は猫である』・・・・などを繰り返し読んでいたことを思い出しました。
ということは、私も漱石の作品が面白く感じて(共感して)いたのではないでしょうか。

>私と似ているとお感じになるとのこと、嬉しいです^^

良かったです。
ありがとうございます。安心しました(o^-^o)

>また、本当に変化なさるなら、その変化を切り捨てようとも思いません。

私もそう思います。
その変化さえも含めてその人だと私は考えています。
大切な人であればその変化さえも愛しいと思えると思います。

>などと勝手に書きましたが、イヴさん、そこまでは不要だと思われたらすみません。

そんなことはありませんよ(*^.^*)
本のことなど、その他のこともお話しできたら嬉しく思います。
今も、先ほどからの<自分というものについてのお話(勝手にタイトルをつけてごめんなさい)>などを含め、とても私には得るものがありますので。

何か良い方法が見つかるとよいですね。(^-^)

帆掛け船さんのお薦めの本のことを、今こちらに書き込まれない理由は理解いたしましたのでご安心くださいね。
いつも丁寧なお返事ありがとうございます。

>私も、他人の状態はその都度拾うようにしたいです。

帆掛け船さんはそうされる(されている)方のように私は感じています。(*^-^)


帆掛け舟さん、イヴさん

とりあえず、ブログを作りました(思った以上に登録に手間かかった・・・)

これから文学やいろんな事象についての考察等をメインにした記事を書いて行こうと思いますので、是非来て下さいね。

イヴさん、こちらこそありがとうございます。

するりさん、お疲れ様でした!どうもありがとうございます。
お邪魔させていただきます。

するりさん

お忙しい中、ホームページを作成して下さり、本当にありがとうございました。
お疲れ様でした。
またうかがわせて頂きたいと思っています。

帆掛け船さん

いえいえ、いつもこちらこそありがとうございます。

diamondパンダ さま

いつもブログありがとうございます。
アスペルガールと申します。

---以下引用----------------------

>信頼って何か、ある意味で定型にとっても永遠のテーマのような感じもします。
>信じたり、裏切られたり、裏切ったり、
>そういう中で人も自分も信じられたり信じられなくなったり……

--------------------------------

信頼には裏切りなんて存在しないと思うんですよね、
そもそも裏切りが存在しないのが信頼です。

だって、こちらが相手を信頼して、
何があっても裏切られたと感じなければ、それは裏切りにはならないので。

信頼とか裏切りとか、そうゆう言葉、簡単に使いすぎなんです。

仮に相手が裏切ったとされても、
それをも含んで信頼するのが信頼です。

もっと、言うと、相手が裏切りとされることをしなくてよい様に、
こちらが事前に手を尽くすもの思いやりだと思います。

人は余裕がなくなれば、自分を守るものです。

それは動物として普通のことですし、
自分を守ることが前提ってのは普通ですよね。

自己犠牲って・・・美徳ではないので。

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