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2013年9月 4日 (水)

二つの理解と自己否定

 もしかして、もう何度か似たようなことを書いたかも知れませんが、なんとなくまた書いてみたくなりました。

 「相手を理解する」ということについて、私は二つのステップを区別して考えています。ひとつは「自分としてこう理解する」とか「自分たちではこういう理解が共有される」というレベルの「理解」です。それまで漠然とした思いしかなくて、はっきりと自覚できなかった相手の像が、自分の中で、あるいは自分たちで話し合う中で形が見えてくる段階。

 この段階でもそれまでわからなかったものが「分かった」という感じになりますから、自分としては大きなステップと感じられます。多くの場合、「これで分かった」という感じになるかも知れません。特に複数の人と(まあ、最低二人でもそうなりますが)それが共有されれば、もうそれは「客観的事実」くらいの重みを持って感じられてくることもある。

 でもほんとはその次のステップが大事なんじゃないかなと思うんです。それは「相手からは自分はどう見えるんだろうか」ということに思いが及び、そういう相手の見え方を「理解する」というステップ。

 もちろん、そんなことが完璧に出来るはずはありません。お互い違う人生を生き、違う身体を持って生きてきた人間同士な訳ですから、完全に一致するはずがない。ありえないことです。

 でも、そこで「ことば」が面白い働きをするわけですよね。言葉って、他人の経験を間接的に伝えてくる力を持ちますから。もちろんどなたかが仰っていたように、言葉がそういう力をもつからこそ、逆にお互いの「見え方」「常識」のズレが見えにくくなってしまうということはあるわけですが。たとえば「黄色」は東洋(中国かな)では高貴な色だけど、英語だと「臆病」みたいなイメージがあったりするわけですよね。でも言葉にすると同じだから、そこで理解される内容にとんでもないズレが生まれたりはするわけです。

 にもかかわらず、やっぱり言葉って大きな力であることは否定できなくて、言葉の力がなければ人間はこんな複雑な社会を一時も運営することが出来ません。

 そしてズレを生むのも言葉だけど、ズレを調整するのも言葉の力なんですよね。言葉ってその二つの面を同時に持っている「生き物」という気がします。

 だから、相手のことを「理解する」なんて、ある意味ではおこがましいことなんだけど、でも「こういう理解をしてみたんだけど、どうでしょう?」と尋ねてみることは出来る。そこでズレが発見されれば、また調整してみることも出来るし、分からなければ分からないことが分かるようにはなる。

 以前、知り合いの全盲の人と視覚のない世界について話をしたことがあって、すごく刺激的だったんですが、たとえばその方は「見る」という単語をよく使われるんです。昨日テレビを見た、とか、そんな感じで。話してるとそれはごく自然に違和感なく聞こえて、でもあとから考えて、「あれ?でも<見えない>はずなんだよな」とか驚くわけです。

 体験としては同じ体験では理屈から言ってもあり得ないんだけど、でも体験のコミュニケーションによる共有はある程度の所までいけちゃうんですね。ご本人も違和感なく「見える」という言葉を使っているし。

 そんな言葉の力を使って、第二のステップを模索することが出来ると思います。私が相手の方を「理解できた」と感じるのは、この第二のステップまで来たときです。「こんな感じですか?」と尋ねてみて「そうそう、そうなんですよ」と言われたとき。ああ、やっぱりそうだったんだ、と安心します。

 そこまで行くと、私の体験ではズレがあっても、調整はかなりスムーズになります。でももちろんそこに到達するのは結構大変で、やっぱり「自分の見方」を一度横に置かなければならなかったり、著しい場合は一度は否定してみなければならなかったりします。それはとてもしんどい作業になることもあります。でも面白い作業にもなる。

 そういうスタンスを大事に考えると、なんか「断定調」がしにくくなってくるんですよね。「こうかもしれない。」「ああかもしれない。」という幅がどうしても必要になる(って、これも断定調か (^ ^;)ゞ )。でも慣れてくると、結構そういう「断定しない」スタンスによって、いろんな可能性が見えてきたり、自分が豊かになった感じがしたりします。

 と、ここまで書いてきて思ったんだけど、パートナーの話を聞いてたりすると、彼女は自分の感覚を否定され続けて生きてきたんですね。かく言う私も、ずっと定型的「普通」を無意識の基準にして、それで彼女を判断したし、彼女にショックを受けたし、彼女に怒りを感じたし、文句もつけてきたわけです。だから少なからぬアスペの方にとって、この「自分の感覚を横に置く」とか、著しくは「否定する」ということは、ある意味普通のこととしてやってこられた部分があるのでしょう。そうすると「断定しない」スタンスというより「断定させてもらえない」状況を強要されてきたことになる。

 もしそうだとすれば、私にとっては大事な第二のステップの一部分は、そのままではアスペの方にとってはむしろ自分を苦しめてきたやりかたになるのかもしれないですね。自分を豊かにするなんてとんでもない、ということにもなる。うーん、そうか。そういう可能性も考えられるんですね……

 もしそうなら、アスペ定型関係で、とりあえずまず定型に必要なのは自分を相対化することだけど、逆にアスペの方達には自分を絶対化することが大事だったりするのかも知れないわけか。もちろんその段階で留まっていては先がないと思うけど、でもそれはお互い不可欠なことかも知れません。

 そうすると、その段階で定型とアスペの方が出会い、コミュニケートをするということは、お互いに質の違う課題を背負って出会うことにもなりますね。もしそうなら、そこでもお互いの遣り取りにすごいすれ違いの原因が隠れている可能性が出てきます。さて、実際にはどうなのか、気にしていきたいポイントの一つになりました。

 

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