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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年9月

2013年9月29日 (日)

逆カサンドラ症候群?

 定型アスペのカップルで、定型の人が悩んで周囲の人たちに訴えても、周りの人が「そんな問題はどこのカップルでもあるよ」という感じで言われてしまい、自分の深い悩みが伝わらなくてそのことが孤立感を深める原因になって、ますますその人の苦しみの原因になって問題を深くしていくことを、カサンドラ症候群とか言ったりするのだと思いますが、「回りに自分の辛さが理解されないことで苦しみを増していく」ということで言えば、アスペの方達はもっと早い段階から、そういう状況の中で生き続けてきたのかもしれないわけですよね。そのことを最近よく考えるようになりました。

 パートナーの話を聞いていても、とにかく自分の気持ちはうまく周囲に受け止められないし、自分には訳が分からない形で怒られたり非難されたりと言うことが繰り返される。そういう自分を受け入れてくれる人がいることはまれでしょうから、ほとんど常に孤立した状態でその中を生きてこなければならなかったわけで、そのことがほんとに「生きることの基本的な条件」みたいになっている。

 そういう状況で生きるってどんな感じなんだろう?と想像してみるんです。私も定型の中では変わり者として生きてきましたから、理解されなかったり、受け入れられなかったりといった経験はそれこそ「ふんだんに」持っているわけですが、でもその中ですごく共感してくれたり、支えてくれたりする人たちが必ずいつもいたんですね。だから「絶対的な孤独」みたいな状況は多分経験していないんだろうと思います。

 それが、親も含めてほんとに回りの誰も自分を理解してくれない、という状況の中に生きるとすれば、どんなことが起こるんでしょうか?(もちろんアスペの方も人によってその辺の状況は様々なんでしょうけれど、定型に比べればそんな「孤立」した状況に陥ってしまう可能性はとても大きくて、その孤立のレベルは深いんだろうなと想像します)

 そもそも自分の悩みとか、抱えた問題とかは相手にはなかなか理解されないのですから、相手に救われる、という経験も得にくいことになるのでしょう。仮に友だちが「救いの手」をさしのべてくれるようなことがあったとしても、結局そのやり方は定型的なやり方で、アスペの方にとっては「的外れ」で意味のないものになりやすい。場合によっては問題をさらに難しくしてしまうだけかもしれません。

 だから回りから手助けをしてくれようとする人がいてもいなくても、結局問題は自分一人で解決するしかなくなることになりそうです。そういうことをほんとに子どもの頃から「普通の状態」として経験し続けることになる。定型のように、「悩みを共有する」ということはとても成り立ちにくいし、それで問題が解決される経験が得られなければ、そもそも「悩みを共有する」ということに意義を感じることもなくなるかもしれません。場合によってはそれを避けるようになるかもしれない。

 もしそうなら、例えば病気になったときに「一人でほっておいてほしい」と思うようになるのも少しは分かる気がします。逆に定型のパートナーが病気になったときにも「一人にしておいてあげる」ことが大事な配慮で、変に励ましたりなぐさめたり側にいてあげたりすることには、むしろ罪悪感を感じるようになる、というのも、まあそうなるのも当然かも、と思えます。

 なんでアスペ定型間でこんなにもズレが起こってしまうことが多いんだろう、ということについて、そんな視点から、これからも一寸ずつ考えて行ければなと思います。(もしかするとその視点自体がすごく定型的で、アスペの方からすれば「なんじゃそれ?」になるかもしれませんが…… (^ ^;)ゞ ) 

 

 

2013年9月28日 (土)

不思議なため息

 みなさんはため息ってどんな時につくでしょう?誰かの前でため息をつくってどんな意味があるでしょう?誰かに自分の目の前でため息をつかれたとき、どんな気持ちになるでしょう?

 最近パートナーがため息が多くって、そうすると私の場合は心配になるんですね。で、どうしたの?と聞くと「仕事が忙しくて身体が疲れているから」とか言うんですけど、なんか私には単にからだが疲れている、というだけには思えなくて、むしろ「精神的に疲れている」んじゃないかと感じてしまうんです。

 なんでそう思うのかを聞かれて、たとえば運動して疲れたときのように、ただ身体の心地よい疲労感があるときに「ああ、疲れた!」という感じでため息をつく場合と、同じ身体の疲れでも、精神的にも疲れてため息をつく場合では、ため息のつき方が全然違う、と答えて実演もしてみたんですけど、なんかもうひとつ納得してくれませんでした。

 そしていつもながらの彼女の疑問は、私が「どうしたの?」と聞くとき、「何て答えて欲しいわけ?」ということでした。この質問には私はいつもがくっと来るんですが、「何を答えて欲しい」って言われても、ただありのままに自分が感じたことを言ってもらったらいいだけなんで、そう言うんですけれど、これも納得してもらえません。

 今までの彼女の言うことを思い返して、「何て答えて欲しいわけ?」という彼女の「疑問」の意味を考えてみると、要するに今までの彼女の経験から言って、本当に彼女が自分の感じていることをそのまま言うと、周囲の人たちが怒ったり、傷ついたりしてしまうことをしばしば体験する。だから「ありのままに自分が感じたことを言う」ことは悪い結果をもたらすという気持ちになるみたいです。でもそれでも定型は「どうしたの?」と聞いてくるわけですから、きっと困るんでしょうね。それで「自分の素直な答えとは別に、相手が求めている答え方があるのだろう」と考えるんでしょう。そしてこの定型社会で生きていくためには、相手の求めている答え方に合わせてこたえなければならなくなる。

 その結果、外での人付き合いの場合には「何て答えて欲しいわけ?」などということは勿論聞かないのだと思いますが、私に対してはある意味彼女の本当の素朴な疑問をぶつけてきているのかもしれないと思います。(ああそうか、そういう風に考えるといいのかも)

 それでため息の話に戻りますけれど、彼女が聞いてきたもう一つのことは、「ため息をつかれると、それに対応しなければならないと定型は感じるのか」というような意味のことでした。(ことばをよく思い出せないと言うことは、少しニュアンスが違うのかもしれませんし、いずれにせよ、私がぴったりと理解しにくい言い方だったのかもしれません)

 そう言われるとまさにその通りで、自分の前でため息をつかれると、やっぱり気になって、心配になる。「どうしたの?」と聞きたくなって、自分に何かできることがないかを考えたくなるし、あるいはもしも自分が原因なのだとすれば、なおのこと何とかしたくなる。少なくとも定型の場合には自分の前でため息をつかれたら、そんな風に感じる方、場合が多いのではないかと想像します。

 でも彼女の場合は「ため息」がそういう「相手に自分のしんどい状態を伝える」という意味を持たないらしいんです。これも本当に持たないのか、意識しないだけのか、そこは例によってむつかしいところなんですが、少なくとも本人にはそういう意識はないとのこと。

 じゃあ何のために彼女がため息をつくのかは、私にはまだよく分かりません。というか、これ、問題の立て方がちょっと悪いかもしれません。定型だってため息をつくときは「思わず」つくわけで、何か明確な目的があって意識的に「ここでため息をついてやろう」と思ってため息をつくわけではないですから、その点はアスペ定型どちらも同じなのでしょう。違うのはその後の展開なんだと思います。

 定型の場合は「ため息をつく」ことは、自分のしんどい状態を周囲に伝える意味があることを当然と思っている。だからそれについて、周りの人が心配をしたり、状況によっては逆に不快感を示されたりという反応があるのは当然と思うし、相手が心配して「どうしたの?」と聞いてくれれば、「うーん、実はね、」といって抱えている問題を語ったり、あるいは機が熟していないように感じるときには「いや、ちょっとね、いろいろ大変でね」という位ですませてそれ以上は深入りしなかったり、いずれにせよ、相手と自分の問題を共有する、ということについてなんかの調節をするのだと思います。それはかなり自然にやってしまう。

 ため息をつかれた相手の方は、その答えを聞いてただ「愚痴の聞き役」になってあげたり、相談にのってあげたり、必要な援助があるときは援助をしたり、あるいはため息をついた人がそこまでは望んでいない場合には、「ああ、なんかしんどさを抱えているんだな」と理解して、その後もそれとなく気にしてあげたり、といった感じになるでしょう。

 これに対して私のパートナーの場合には、どうもそういう展開はイメージされていないらしいんです。自分のため息は、自分がため息をつく、ということまででそれで完結してしまう。それについて周囲の人たちが心配して助けてくれることを想定していない感じがする。

 なんでそういう展開のイメージを彼女が持たないのか、その理由はまたよく分かりません。もともとそういう展開を望まないからなのか、それとも過去の経験でそれを望んだことがあっても、結局周囲の人が自分の問題を解決してくれることはなく、むしろ混乱するばかりで、自分が傷ついたりして逆効果になり、いわば「もうこりごり」の状態になって、そもそもそういうことを期待しなくなり、ついにはそこで「期待する」という気持ちがあったことさえ忘れてしまうほどなのか。どっちなのか、両方なのか、あるいは全然別の理由なのか、私には難しいです。

 原因はよくわからないにしても、とにかく私としては彼女の問題を共有したいと思うところが、彼女の方はそういう感覚がないか薄いかする、というズレがあるのだと思います。あるいは「共有の仕方」のイメージが違うのかもしれません。多分定型は、自分の問題を共有してもらえないと感じることだけでなく、相手の問題を共有させてもらえないと感じることにも、なんだか「寂しさ」を感じるのでしょうね。

2013年9月27日 (金)

目の付け所が違う

 パートナーと一緒に暮らしていて、全く正反対の印象を持つことが時々あります。それは人の理解についてなのですが、時々すごく鋭いことを指摘されて、へえ、となることがある一方で、たとえば彼女自身の「感情状態」について、私が感じ取ること(たとえばちょっといらいらしているな、とか、しんどそうだなとか)を彼女自身は感じていなかったりします。

 この彼女自身の感情状態については、「表現の仕方が違うのだから、それはパンダの読み違いなのだ」という可能性もある訳なんですけれど、でも「しんどそう」とか「イライラした感じ」の時には単に表情だけでなくて、実際の行動もそういう感じになることが多いように思えるので、単なる私の勘違いとも思えないんですね。実際、最近彼女は「自分ではすぐに気づかない(気づくのに時間が必要)」という風にいうようになったりもしましたし。

 逆に私の方が自分の状態について気づいていないことを彼女から指摘されることもあります。指摘された時には「え?そうかな?」と思うことも結構あって、ちょっとしてから、「ああ、いわれる通りかな」と思えてきたりします。そういう意味では別に彼女だけに言えることではなくて、「お互い様」なんでしょうけれど、ただなんとなく「気づきやすさ」のポイントに違いがあるような気もするんですね。

 何が違うんだろうかとちょっと今考えてみましたがまだよく分かりません。

 この「自分の感情状態に気づくかどうか」ということは、自分の感情を理解してコントロールする、ということとも深く関係していると思うので(カウンセリングなんかはそういう作業でもありますよね。自分がなにに葛藤してどんな気持ちなのかを理解することが、その葛藤に対処するための大事な手段になるわけですから)、その「気づき方」とか「気づくポイント」に定型アスペ間で違いがあれば、お互いの「感情的」交流の仕方にもズレが生じてうまく行かないことが多くなるだろうと思うんです。

 いや、こういうことを書くと、また玄さんには「こいつはまだしつこく感情の問題にこだわっている、変な奴だなあ」といわれそうで (^ ^;)ゞ、 やっぱりこのこだわり方自体が定型的なのかもしれないですね。ただ、定型の側から定型アスペ問題を理解しようとすると、どうしてもそのあたりを通過しないと理解が難しいように思うんです。まあ、そのこと自体が「目の付け所の違い」のひとつを表しているのかもしれません。

2013年9月25日 (水)

素直になったのだろうか?

 今、昨日書いたような自分の中に静かに起こりつつある変化が、果たして良いものなのかどうか、ということはよくわかりません。パートナーに対する理解が進んだ、ということなのでしょうか?それもよく分かりません。この変化がこれからどんな方向に進んでいくのかもよく分かりません。似たような問題に苦しんでいるみなさんにとって、この文章がどういう意味があるのかもわからない。(うーん、まるで分からないことだらけ…… (^ ^;)ゞ )

 ただ、自分としては何か落ち着いてきているものがあるような感じはあります。自分の中の「飢餓感」というのか「あせり」というのか、そういうものは消えつつあるような気はする。

 それともうひとつの変化は、なんだかパートナーの言うことをよくきくようになったことです。あ、彼女がどう感じているかは分かりませんが、私自身の感じ方です。以前はなんだか彼女のやり方や考え方を堅く押しつけられているような印象があって、私も我が強い方ですから、そうされると感じると反発して抵抗していたんですね。「何でそんな風にしないといけないわけ?」とかついつい問い返したくなって、そうすると彼女も話が混乱してきて訳が分からない議論になって、「そんな理屈の通らない話になんで僕が無理矢理従わされるわけ?」ということになってしまう。そうすると彼女の方としても「また自分が無視された」という気持ちになって終わるわけです。

 ところが、それがなんでなのかはよくは分からないけど、最近「ああそう」といってそのまま彼女の言うとおりにすることが「増えてきた」感じがするんです。私が「素直になった」んでしょうか? (^o^) 多分、「ああ、彼女は本気で僕のことを考えて言ってくれているんだな」と感じることが増えてきたこととも関係ありそうです。(といっても、以前は「小さな親切大きなお世話」とも思ったりしていたので、なんかもうちょっと複雑なことがあるのかもしれませんけれど)

 もちろん私だけが変わっているわけではないでしょう。彼女が私に「こうした方がいい」ということについて、私が状況を考えてそれは適当ではないと思ったときに、「こういうことだからそれは無理なんじゃない?」という話をすると、彼女の方も割にそのことをすっと受け入れてくれるようになった気がします。そこもお互い様なのかな。

 なんでそういう変化が起こるんでしょうね???

2013年9月24日 (火)

必要とされると感じること

 最近、だんだんと以前には感じられなかったことが感じられるようになってきているように思います。それはアスペ定型カップルで、特に定型の側からよく問題になると思える、「この人にとって私は意味があるんだろうか?」という疑問についてです。

 ここでも何度も書いてきたように思うのですが、何故か自分が相手には必要のない人間であるように感じられてしまう。求められていないように感じられてしまう。少なくとも私の場合は典型的に(?)そうで、もう完全に拒絶され、避けられていると信じていましたし、それは私が離婚を真剣に考える理由の一つでもありました。

 パートナーに聞くとそんなことはないと言うのですが、でもそれが全然分からない。私から見ると明らかに「あなたは私には意味がない」と態度で示され続けているように思えたわけです。

 それが最近、「ああ、彼女は私を必要としてくれているんだな」ということがなんとなく感じられるようになってきたんですね。不思議といえば不思議です。ちょっとしたきっかけがいくつかなかったわけではないですが、なにか劇的なことが起こったということでもありません。むしろなんだか静かに進行した変化のような気がします。

 今もこれを書きながらちょっと不思議な体験をしているのですが、以前なぜあれほど自分が不必要とされていると感じていたか、ということがなんだか実感として分からなくなりかけているようなところがあります。たとえて言えば、自転車に乗れるようになった後、自転車に乗れない頃の自分がよく分からなくなる、みたいな、あるいはそれまで嫌いで食べられなかった食べ物が好きになってみると、何で自分があれほど嫌いだったのかが分からなくなってしまう、みたいな、そんな感じでしょうか。あんまり上手な比喩ではない気もしますが、そんなような種類の変化が自分の中で進んでいるのかもしれません。

 なんなんでしょうね。何かを諦めたのでしょうか?今ふと思い出す最近のパートナーのことばは、「この人格を変えろといわれても、もうどうしようもないんだから」というようなことばです。そうそう、先日の散歩の時にはこんなことも言っていました。以前子どもの友達が遊びに来たときに、その友達と子どもとのやりとりを彼女はすごくよく観察していて、その特徴を話してくれたんですね。それで私が「すごい観察力だね」と言ったら、「そうせざるを得ないからそうやってきたんだけど、それでも(定型のコミュニケーションは)分かんないわけだから、もうほんとにわからないんだよね。だから絶対無理なんだから」と言うんです。

 そういうのを聞いて、「ああ、そうなんだろうなあ」となんだか納得してしまう自分がいました。

 「ああもう無理なのか。それじゃあさようなら」という「諦め」とは違います。「ああ、ほんとにそうなんだね」となんだか納得して、それを受け入れられる感じが出てきたような気がします。なんかそういう自分の中の変化ともつながっているんだろうと思います。それと並行して、「ああ、この人は自分のことを必要としてくれているんだなあ」と感じられるようになった気がするんです。

 ですから、多分この「必要とする」ということの意味が、以前とは理解が替わってきているんでしょうね。以前は自分が必要とするような形で相手も自分を必要としてくれることがどうしても必要だった。それが「形は全然違うんだけど、でもやっぱり必要としてくれているんだ」という風に、もうすこしパートナーに合わせる形でそのことを感じ取れるようになったのかもしれません。

 書きながら隔靴掻痒の感じが残りますし、その変化をすっきりと自分なりに理解するのは相当難しそうな気もしますが、でも変わりつつある感覚はあるんですね。うーん、いつもながら曖昧な話ですみません m(_ _)m

 

2013年9月22日 (日)

「違い」と「バランス」

 今日は久しぶりにパートナーと散歩をしてきました。お互いの関係を作り直していく上で、この散歩が私たちの場合には結構意味があったような気がします。別にしゃべらなくてもいいし、でも時々自然としゃべるし、結構二人が抱える問題の「核心」みたいなところについて話すこともあるし、という感じで。

 ふと思い出すと、子どもが出来る前もわりに一緒に歩いてました。彼女はお墓を見て回るのが好きだったりしたので、お寺にもよく行きました。なんだか寄生虫博物館みたいなところとかも好きだったり、ちょっと変わった趣味(?)の持ち主で…… (^o^)。

 で、今日も歩きながら時々話をしていたんですが、アスペと定型の話にもなって、私が「アスペの人ってこういう傾向があるんじゃない?」という話をすると、やっぱりというか、「いろいろな人がいるからまとめては言えないでしょう」と言われました。

 私は、人それぞれなのは当然だけど、だけどそういう色んな人の個性を改めてつなげて理解できるような見方に興味が向くタイプのようです。でも彼女はそういう話はあんまり興味がないと言うんですね。それより「この人がどうなのか、ということが大事だ」という感覚だと言います。

 確かに老人福祉という彼女の仕事の内容から言っても、一人ひとりの個別のニーズをどう理解して、それにどう応えられるか、が大事で、みんなおんなじやり方で対応していたら、その人の生活の質は良くなっていかないし、その人の満足も得られないわけです。そう考えるとそんなふうに「一人ひとりの違い」にこだわる彼女の見方は、その仕事にもとても向いていると感じます。

 それともうひとつ、私と彼女の興味の持ち方が、この点ではまあ正反対とも言えるわけですけれど、これもまたひとつのバランスなのかなあという気がしました。「興味が共有できない」という言い方も出来るでしょうけれど、ちょっと見方を変えれば、二人合わせて釣り合いが取れる、という風にも見られるんじゃないかなと。

 それで、もちろん共通する部分も必要なんでしょうけれど、それぞれ全然違う個性の人間同士が一緒に居ることに意味を見いだすとすれば、この「バランス」っていうのが大事なことになるんじゃないかとそう思ったんですね。「違い」を「バランス」として見れば、その違いは「すれ違い」とか「対立」になるんじゃなくって、意味のあることとして生きてくるんじゃないか。そんな感じのことです。

 もしそうだとすれば、「お互いの違いを理解する」ということと、「バランスの取り方を考える」ということがうまく噛み合ったときに、なんかひとつ前進できるのかもしれないと思いました。

2013年9月21日 (土)

はやぶさ

 Gyao!という無料動画配信サイトで、「はやぶさ/HAYABUSA」という映画を見ました。例の小惑星「イトカワ」からサンプルを持ち帰った衛星はやぶさを巡る人々を描いた映画です。

 主役には、宇宙が好きで大学院までその勉強をし、出てからもアルバイトを続けながら論文を書き続け、やがてハヤブサのプロジェクトチームに参加するようになった女性科学者の卵の水沢という人物が当てられていて、竹内結子さんが好演しています。この手の映画はちょっと間違うとなんだか気の抜けた平板なドキュメンタリーのようになる危険を感じるんですが、これは私には感動的でした。

 ひたすら宇宙に惹かれ、一途に仕事に打ち込む人物の像を、竹内さんが私にはとても説得力を感じさせる演技で表現してくれていましたが、その「生き様」を見ていて、アスペの方の生き様を私は感じてしまいました。

 パートナーは、自分のことを「ひねくれている」と言いますけれど、私はこのところ改めてその生き方の「一途さ」をますます感じさせられるようになっています。定型的な目で見ればとても不器用な生き方にも見えますが、でも、ほんとにいろんな意味で「素直」に考え、「素直」に見て、そして「素直」に生きようとしているように思える。その「素直」さは多分この定型優位のややこしい世の中では到底すっと受け入れられるようなものではなくて、むしろ困った生き方として攻撃や排除の対象になるものです。そのことに訳も分からず傷つき傷ついて、そして「ひねくれ」もするのかもしれないけれど、でもその彼女の「一途さ」は、決して死んでいないように思えるんです。

 私としては変に美化しようとしているつもりはないんですが、自分が彼女に出会ったとき、あれほど急速に惹かれた訳は、そういう彼女の「一途」さにあったと思うと、なにかとても納得がいくものがあります。

 これは私の主観的な気持ちでは、決してふざけたり、揶揄したり、皮肉を込めたりといった意図も、逆に変に持ち上げたり媚びたりするつもりも全然なく、それこそ素朴な感じ方なのですが、この間の遣り取りの中で私がするりさんやかずきさんや玄さんに感じ取っていたものも、そういう「一途さ」だったように思えます。その主張の内容も、力点の置き方も、表現の仕方も、それぞれにとても個性的だということは間違いないと思うのですが、でも何かそういう「一途さ」という一点で、とても通じ合うものを勝手に感じてしまいました。

 もちろんもしかすればこれを読まれて「何を勘違いしてるんだ、こいつは!」と怒られる可能性もあるわけですが、まあそれは私の能力ではもう仕方ないことです (^ ^;)ゞ。 ああ、それにトマトさんがアスペの方の魅力として何度か触れられていたのも、そういう「一途さ」といったことにつながるのかもしれませんね。これも大きな勘違いかも知れませんが。

 もちろん「一途」だから定型アスペの問題が起こらないという訳では全然なくて、逆に「一途」だからこそ問題が深刻化していくという、とても悲しい仕組みがあるのだろうと思います。もう少し適切に言えば、その「一途さ」と定型的世界の理屈のズレが、問題を深刻にしていくのだと思うわけです。そのことでお互いが深く傷つき合っていく。ですから私はその「一途」についても、定型的な「思い遣り」についても、どちらも手放しで賛美するような気持ちはありません。でもそうやって傷つけ合う関係でありながら、それでも私がパートナーに感動し、パートナーを信頼できると感じられる大事な理由が、その「一途さ」にあるようにも思えてならないのです。

 もしかすると、お互いの関係にとって一番大事な宝物は、お互いの関係を本当に難しくしているそのことの中にこそ隠れているのかも知れないと、そんなことをふと思いました。

 

 

2013年9月20日 (金)

つらつら思うこと

 パートナーがこの間のやりとりの中心的な部分を読んでくれた上で、彼女が心配していたような、自分(パンダ)に向けられた批判への応答にむきになってのめり込んでいたという訳ではなく、私はあくまでもこの場をよく維持しようと努力していたのだ、と感じ取ってくれました。その結果、ドクターストップならぬパートナーストップも一旦解禁になりました。私自身、ときどき書きたいこともあったりしたので、またぼちぼち書いていきたいと思います。

 いずれにしても今回の「炎上」も私にとってはもちろん理想的なコミュニケーションの形では全くありませんでした。「アスペと定型のコミュニケーションを考える」というブログの趣旨から考えて、時にほんとうにぎりぎりの真剣な議論が交わされることは、この難しい問題を前向きに考えていく上で避けられないし、避けるべきでもなく、むしろ当然のことだと思います。ただ、二つの点で、今回のやりとりはそのようなアスペ定型問題に関する前向きな「真剣な議論」にはなれなかったように感じています。

 一つ目は、基本的なことですが、提起された問題はアスペ定型間のズレの問題が重要なきっかけだったことは間違いないにしても、遣り取りの中でなんどか確認もされたように、そこで展開されたやりとりに生み出されたズレは、どうも「アスペ定型間のズレ」とは違う質のズレだったように思えるということです。それは「アスペ定型間のズレ」というより、むしろネット上でよく発生する激しい対立の進み方に共通するものを私は強く感じ続けていました。

 実際、あのやりとりのなかで、議論がアスペの方と定型の側とに別れての議論という形にはならず、どちらの主張にもどちらの側からも賛同があり、あるいは批判がありました。その意味で今回の「炎上」の仕方は、「アスペ定型間のズレ」の問題として考えるよりも、一般的にネット上で発生しやすい対立にどう対応すべきなのか、という問題として考えるべき事なのだと思えるわけです。その意味でブログのテーマとはずれた、かなり質の異なる議論の展開が見られたということが一つです。そしてそのような「炎上」的やりとりは、私は「真剣な議論」と感じることが出来ません。

 二つ目は、「真剣な議論」は、問題の解決を願うからこそ行われるものだと思いますし、「真剣な議論」というのは、「お互いに理解しきれない者同士」であることを大前提にしながら、それでも少しずつ理解に向かって共に歩んでいく作業だと思います。そのためには粘り強く相手を理解しようとすることがどうしても必要になり、一方的に相手を切り捨てて済ませるような議論はそれとは相容れないと思えることです。

 意図せずに傷つけ合うことがたやすく起こってしまうのが、アスペ定型間のコミュニケーションでは普通に起こることです。どんなに気をつけていても、それを完全に防ぐことはほとんど不可能です。そのことを大前提にして、それでもなお、「意図せずに傷つけた」ことについてはお互いにちゃんと向き合って考えることが必要なわけですし、そのためにはその傷を受けた者同士では伝わるが、相手には伝わらない議論に留まっていては先がない、と思えるわけです。

 もちろん、私自身何度か書いてきましたし、ここはパートナーとも意見が一致するところですが、分かる人には分かるという感じで、いわゆる「毒吐き」を行う場を人が必要とすることは事実だと思います。そうやって毒吐きをしながら、自分が何にどのように悩んでいるのかが初めて自分に納得がいったりもするのですし。実際ネット上にもそういう場はいくつもあると思います。というか、そういう場の方が多いのだろうと思います。

 この場でも、問題を真剣に議論するためには、「あなたは私にはこういう風に見えてしまっているのですよ」ということを、そのことを気づいてくれない相手に理解してもらうために、「毒吐きを<紹介>する」ことは意味のあることと思います。でも相手と一緒にそのことの意味を考えるために毒吐きを紹介することと、相手に対して毒吐きをこの場で行うことは、全く違うことだというのが私の理解です。

 このブログが「真剣な議論」にとっては必要な場合がある、と考えるのはもちろんその「紹介」のほうの毒吐きです。けれども残念なことに、今回のやりとりでは毒吐きが「紹介」にならずに、少なくとも結果としては単に相手を傷つけるだけの毒吐きになってしまう、ということが起こりました。それは「一方的に相手を決めつけて、切り捨てて済ませる」ことになるわけですし、このブログで模索しようとしている「真剣な議論」とは全く異質なものです。真剣な議論は、「決して安易に相手を決めつけない」し、「相手を切り捨てない」し、相手と向き合い続けようとするという姿勢によって初めて可能になるものだと私は思います。

 ただしそのような「真剣な議論」を続けるためには、適度な距離を保つことも必要になるでしょう。人間、常に「向き合い続ける」などということはできるわけないと思うのです。そしてそのことを相手に絶えず求め続けることもよくないだろうと思えます。ときどき距離を置いてもう一度気持ちを整理したり、考え直してみたりしながら、また時が来れば相手に向き合う。そういうバランスの取り方が大事だと思えるんですね。実際にはこのへん、難しいところだとは思いますが、でも必要だと私は思うのです。

 以上、「真剣な議論」ということについて、つらつら思うことを書いてみました。あと私が持っているこのブログの基本イメージは「ムーミン谷」に書かせていただいたようなことになるかと思います。玄さんが書いて下さったように、私はその谷の警察官や裁判官の役割をしたいとは思っていませんし、自分がそんな特権的な「正義」を背負っているという気持ちもありません。私自身、昨日もまた夜中にパートナーと話し合うことにもなりましたが、アスペ定型という難問に向き合っておろおろし、迷いながら道を探している当事者の一人でしかないわけですし。ただ、こういう場を作っている人間として(?パンダとして?)、谷の雰囲気が守られ、育っていくようにしていきたいと思っています。

 この谷でみなさんの全ての要求が満たされるなどと言うことは考えたこともありません。そんな万能の場を作りたいと考えたことも全くありません。その限界を強く感じられる方があっても当然です。ただ、そんな限界だらけの場を、ほんとに大事に思って下さる方がいらっしゃることも感じています。それは私が自分の気持ちの整理のためにこのブログを始めた頃にはほとんど想像もしないことでした。なりゆきをご心配下さった皆さまには、改めてこの場で御礼を申し上げます。これからもぼちぼちと、時々真剣にもなりながら、でも変に深刻にはならずに相変わらずの記事を書いていきたいと思います。よろしければまたおつきあい下さい。

 

2013年9月 6日 (金)

ちょっと一息

 みなさま

 これまでも何度か休息を頂いてきましたが、
 また少し、一息入れさせていただくことにしました。
 私個人は大事な問題なので、しっかり応答をと続けてきましたが、
 パートナーから「のめり込みすぎて生活に支障が出ている」
 という心配をされ、ドクターストップならぬパートナーストップです (^ ^;)ゞ
 彼女の心配や不安もわかるので、
 状況から言ってとりあえず帆掛け舟さんの目的も達せられたようですし、
 一段落させるにはいいタイミングでもあると思います。
 ということで、私個人の書き込みについては、少し彼女との
 生活をたてなおす方にしばらく力を使うことにして、
 お休みを頂きたく思います。
 
 もちろん、こちらのコメント欄や掲示板などをお使いいただいて、
 自由な交流をお勧めいただくことは歓迎です。
 
 またそのうちにぼちぼち書き込みを始めさせていただきますので、
 しばらく反応がなくてもご容赦下さい。
 コメントでいろいろご議論下さった皆さま
 またこの間の議論に注目してくださった皆さま、
 どうもありがとうございました。
 私個人もまたいろいろと学ぶことの多い日々でした。
 では、しばしの間、失礼をば。
 

2013年9月 5日 (木)

感情のこと

 もう何度もここでも書いてきましたし、言うまでもなく、という感じがしますが、「感情」とか「共感」とか、定型アスペ問題を考えるときのキーワードの一つですよね。そのことについて私がこれまでみなさんのコメントなどを拝見したりしながら考えてきたことは、まずひとつに、定型は感情の動物で、アスペの方達は感情理解ができない、共感が出来ない(映画スタートレックのミスタースポックさんのような?)方達だ、という理解は、色んな意味でどうも実態に合わなそうだと言うことでした。

 ただ、ふたつめに、定型が感情と呼ぶものについて、アスペの方は感情とは呼ばずに別の形で理解されている可能性(これも人によって様々ですが)を感じること、そしてそういう理解と裏表の関係にあると思うのですが、「感情(的なもの)」に対して対してどう対処するのか、ということについて、定型アスペでかなり違う可能性がある、ということが感じられてきました。

 典型的に言えば、「感情(的なもの)」を定型は他者との関係でコントロールしようとする姿勢が強く、またそのことをとても重視するのに対して、アスペの方はそれを自分の中で収めようとする姿勢が強く、それを当然のことと思っていらっしゃるらしい、ということがあります。その違いは生まれつきなのか、あるいはそれぞれが育ってきた経験による違いなのか、ということについては、多分こんなことじゃないかなと想像してみたのは、次のようなことでした。

 「感情(的なもの)」について、何かの理由で(たとえば感情(的なもの)に係わる脳の仕組みに少し違いがあるとか)違いがあるために、生まれた後かなり早い時期から定型の周囲の人間とは感情(的なもの)を巡るやりとりにずれが生じやすくなる。そこで定型同士は比較的似ているから、人との間でどんどん「感情(的なもの)」の交流や調整を進め、いろんなノウハウを獲得しながらそういう人間関係を育てていくのに対して、アスペの方はそういう多数派のやりかたにはあまり合わない部分を持っているので、自分の素朴な「感情(的なもの)」は脇に置いておいて、いろいろ知的に推理したり、形を真似ることで多数派の「常識」に無理して合わせて生きる、という生き方を選ばざるを得なくなる。

 それはアスペの方にとっては自分の素直な「感情(的なもの)」には、もともと合わないやり方になっているから、とても疲れるものであったりすることで、やがていわゆる「二次障害」と名付けられているような問題も起こってきてしまう。そして世の中はだいたいが多数派を基準にして作られるようになっていて、それが「常識」とされるから、アスペの方は常に自分にはしっくりこないその「常識」に振り回されずをえず、少数の、ものすごい才能で多数派社会でも珍重される方を除けば、常に「自分というものの評価」も低いものにならざるを得ない状況に脅かされ続ける。(定型も「自分の評価の低さ」が問題になることはいくらでもあるけど、その深刻度やそうなる可能性の大きさがアスペの方では全く次元が違う)

 自分の「感情(的なもの)」については、特に他人との間では我慢する、とか、見ないようにする、とかして対処することがどんどん増えていくので、ますます辛さが募りやすくなる。その辛さに耐えて定型優位社会に合わせて生きるのは、それは並大抵の苦しさではない。

 そんな風に考えてみたわけです。そう考えると、パートナーのことについても、だいぶん分かる感じがしたりしますし、彼女も同意できる部分が結構あるみたいですから。

 仮にそんな理解が出来るのだとすると、じゃあ、そういうズレを持ち、生き方の違いを持った定型アスペがカップルになるとどういう事が起こることになるか。定型にとって親密な関係というのは、感情を他人より深く関わらせる関係になります。だから当然そういう関わり方を多かれ少なかれアスペの相手の方に求めることになる。他方アスペの方にとっては「自分の家」は外の世界で無理矢理自分を合わせて生きていく辛さに苦しまず、ほっとできる場であることが何よりも大切になる。そういう場を共に生きられる人として、定型のパートナーは大事な人になる。というふうに、そもそもカップルという特別な関係に何を求めているのか、ということに大きなズレを抱えてしまうことになる。

 もちろん、定型と一口に言っても、こちらも感情的な関わりの求め方については、それこそ「感情スペクトラム」とでも言ってもいいくらいに、その強さは人によって様々で、比較的たんたんとされた方だと、それほど上のズレは大きな問題を生まない可能性があるけれど、感情的関わりへの欲望が大きい人は、問題が特に拡大していきやすい。

 また、そのズレの問題が深刻化するきっかけのひとつは「子育て」ですが、それは定型的な発達では子どもとのいわゆる「共感的関係」とか「感情的な支え」が他の時期よりすごく重要になる場面なので、そういう子どもに対する対応の面で、お互いの感覚の違いが目に見える形で出てきてしまい、それまでなんとなくうまくいっていた関係のバランスが崩れてしまうことにもなりうる。さらに子どもも定型だと、アスペ的子育て(?)との間にズレが起こりやすいので、今度は子ども自身が辛い課題を背負う可能性が出てきて、そのズレに気づかないまま成長すると、早晩矛盾が吹き出してくることもある。(特に思春期は感情(的なもの)の問題が改めて大きくなるので、それが出やすいでしょう)

 ズレの問題が深刻化するもう一つのきっかけは、病気などの原因で、それまでの家庭の中のバランスが崩れてしまい、お互いの助け合いや支え合いなどを改めて調整しなければならなくなったときでしょう。そのとき「どうやって相手を支えるか」「どうやって関係を再調整するか」といったことの感覚や理解のズレが表面化するからです。

 ほかにもあるのでしょうけれど、いずれにせよ、そんな形で最初はまあそれなりにバランスを取ってうまくやってきたカップルでも、ここで「巨大な壁」が見えてくるようになり、お互いに何に悩んでいるのか、何を相手に求めているのか、ということが全く理解できないままに衝突が始まる。でもそのお互いのズレの正体が分からない場合は特に、結局は自分の「常識」に頼って自分を必死で支えたり、あるいは自分の苦しみが周囲に理解されずにカサンドラ症候群になったり(これは定型の場合かな?)、万策尽きる感じで重い鬱状態になったりという展開になりやすい。

 コメントを下さる皆さんから、ときどき「ここ(このブログ)にようやくたどり着いた」という表現をされることがありますが、そういう方達は上に書いたような展開で、絶望的な思いを抱えていらっしゃる場合が多いかもしれません。それで、少しでも違う可能性を求めて、定型はアスペの方の話を聞き、アスペは定型の方の話を聞こうとされる。そしてそこにかすかな希望を見いだそうとされているのではないでしょうか。

 以上のような理解を仮にしてみた場合、今回の厳しい遣り取りについて、ひとつわりにわかりやすい理解の仕方も出てくるような気がします。具体的にはまたぼちぼちと。

2013年9月 4日 (水)

ムーミン谷

 このブログ、始めて3ヶ月した頃に例の3.11があり、それから緊急で「原発事故対策情報」をここで流したことがありました(その後、別ブログに独立させましたが)。それまで一日にアクセスは100前後だったのが、突然6700にもなり、別ブログでもそれ以上のアクセスになっていきましたが、こちらはまた100前後に戻る、という感じでした。

 今は日に2000を越え、多い日は3000近いアクセス数になっています。まあ、この頃は議論が活発だったので、とくに多くのかたが多くの頁を見てくださったのだと思いますが、それが一段落しても、初めの頃に比べれば、随分多くの方にご覧頂いていることになるのでしょう。この徐々に確実に増えていく傾向は、前に一度「炎上」した時のあとも、基本的に変わることがありませんでした。

 さて、今回の、私から見ると噛み合わない激しいやりとりは、ここを訪れてくださっているみなさんに何を残しているのでしょうか。多分とても多様な思いを残しているのだろうなと想像します。

 比較的初期の頃の熱心な参加者であったあるアスペの方は、この場の印象を、ムーミン谷のよう、と表現してくださっていました。それぞれの方がそれぞれの思いで参加できる、ひとりひとりが個性的に自分でいられる場、というような意味として私は受け取り、とても嬉しく感じたことを覚えています。

 そういう感じ、今でも私はいいなあと思えます。時々嵐が訪れることはあっても、基本的にはそれぞれのかたがそれぞれの思いを持って集っている。そこでそれぞれの方が何か拾える物があればうれしいし、拾えなくてもぼーっと釣りをして行かれても良いし、真剣な議論に参加されてもいいし、お互いなぐさめあったり、はげましあったり、心配し合ったり、アドバイスを考えたり、愚痴をこぼしたり……。

 そんな場が定型もアスペも両方の方達がつどいながら続いていくことが、私の一つの理想と言えるかも知れません。スニフもスナフキンもミーもニョロニョロも、いろんな個性がなんだか集まってこられる場。そこでお互いの個性がお互いを刺激し合う場。

 私は私で自分の視点から、ぼちぼち考えていきたいことがあります。でも別にそれが共有されるかどうかは、私はとくにこだわりのようなものは全然なくて、そういう私の考え方に何かヒントを得て、ご自分の考えを展開してくださる方がいらっしゃればうれしい、という位のことです。もともとが私とパートナーの関係での悩みをどう考え、どう対処していったらいいか、という私個人の視点でものを考えてますから、何か普遍的な基準をそこで提供できるようなものでもありませんし。

 もちろん、何かみなさんのなかで「共通理解」が部分的に生まれることがあっても、それはそれで素晴らしいことだと思います。より多くのかたがそのことで刺激を受けて、ご自分の抱えている問題にまた新しい見方で取り組めるとすれば、それはもちろんいいことなわけですから。でも「共通理解」が優先事項になってしまったりすると、なんだかぎしぎししてしまいそうです。ムーミン谷がムーミン谷でなくなってしまう。

 そんな雰囲気に物足りなさを感じる人もいて当然だし、逆にそういう雰囲気に良さを感じる方もあるでしょうし、そこも人様々。

 と、ここまで書いてみて、定型アスペのカップルの関係もそんな関係ってありうるんだろうかとちょっと考えました。現実のカップルの関係はまたちょっと違うんでしょうね。でもそれはそれ、これはこれで、別に一緒である必要もないのかも。うん、そんな感じがします。

 プルーンさんはこの場が壊れてしまうことをものすごく心配されていたのですけれど、日々一杯一杯の思いで生きていらっしゃる方の一人だから、もしかするとそういうなんだか茫漠とした、ほわっとした場をもともとは必要とされたのかも知れません。真剣な議論とほわっとした場が適度なバランスで共存できるような、そういう場になるといいなあ。

 

二つの理解と自己否定

 もしかして、もう何度か似たようなことを書いたかも知れませんが、なんとなくまた書いてみたくなりました。

 「相手を理解する」ということについて、私は二つのステップを区別して考えています。ひとつは「自分としてこう理解する」とか「自分たちではこういう理解が共有される」というレベルの「理解」です。それまで漠然とした思いしかなくて、はっきりと自覚できなかった相手の像が、自分の中で、あるいは自分たちで話し合う中で形が見えてくる段階。

 この段階でもそれまでわからなかったものが「分かった」という感じになりますから、自分としては大きなステップと感じられます。多くの場合、「これで分かった」という感じになるかも知れません。特に複数の人と(まあ、最低二人でもそうなりますが)それが共有されれば、もうそれは「客観的事実」くらいの重みを持って感じられてくることもある。

 でもほんとはその次のステップが大事なんじゃないかなと思うんです。それは「相手からは自分はどう見えるんだろうか」ということに思いが及び、そういう相手の見え方を「理解する」というステップ。

 もちろん、そんなことが完璧に出来るはずはありません。お互い違う人生を生き、違う身体を持って生きてきた人間同士な訳ですから、完全に一致するはずがない。ありえないことです。

 でも、そこで「ことば」が面白い働きをするわけですよね。言葉って、他人の経験を間接的に伝えてくる力を持ちますから。もちろんどなたかが仰っていたように、言葉がそういう力をもつからこそ、逆にお互いの「見え方」「常識」のズレが見えにくくなってしまうということはあるわけですが。たとえば「黄色」は東洋(中国かな)では高貴な色だけど、英語だと「臆病」みたいなイメージがあったりするわけですよね。でも言葉にすると同じだから、そこで理解される内容にとんでもないズレが生まれたりはするわけです。

 にもかかわらず、やっぱり言葉って大きな力であることは否定できなくて、言葉の力がなければ人間はこんな複雑な社会を一時も運営することが出来ません。

 そしてズレを生むのも言葉だけど、ズレを調整するのも言葉の力なんですよね。言葉ってその二つの面を同時に持っている「生き物」という気がします。

 だから、相手のことを「理解する」なんて、ある意味ではおこがましいことなんだけど、でも「こういう理解をしてみたんだけど、どうでしょう?」と尋ねてみることは出来る。そこでズレが発見されれば、また調整してみることも出来るし、分からなければ分からないことが分かるようにはなる。

 以前、知り合いの全盲の人と視覚のない世界について話をしたことがあって、すごく刺激的だったんですが、たとえばその方は「見る」という単語をよく使われるんです。昨日テレビを見た、とか、そんな感じで。話してるとそれはごく自然に違和感なく聞こえて、でもあとから考えて、「あれ?でも<見えない>はずなんだよな」とか驚くわけです。

 体験としては同じ体験では理屈から言ってもあり得ないんだけど、でも体験のコミュニケーションによる共有はある程度の所までいけちゃうんですね。ご本人も違和感なく「見える」という言葉を使っているし。

 そんな言葉の力を使って、第二のステップを模索することが出来ると思います。私が相手の方を「理解できた」と感じるのは、この第二のステップまで来たときです。「こんな感じですか?」と尋ねてみて「そうそう、そうなんですよ」と言われたとき。ああ、やっぱりそうだったんだ、と安心します。

 そこまで行くと、私の体験ではズレがあっても、調整はかなりスムーズになります。でももちろんそこに到達するのは結構大変で、やっぱり「自分の見方」を一度横に置かなければならなかったり、著しい場合は一度は否定してみなければならなかったりします。それはとてもしんどい作業になることもあります。でも面白い作業にもなる。

 そういうスタンスを大事に考えると、なんか「断定調」がしにくくなってくるんですよね。「こうかもしれない。」「ああかもしれない。」という幅がどうしても必要になる(って、これも断定調か (^ ^;)ゞ )。でも慣れてくると、結構そういう「断定しない」スタンスによって、いろんな可能性が見えてきたり、自分が豊かになった感じがしたりします。

 と、ここまで書いてきて思ったんだけど、パートナーの話を聞いてたりすると、彼女は自分の感覚を否定され続けて生きてきたんですね。かく言う私も、ずっと定型的「普通」を無意識の基準にして、それで彼女を判断したし、彼女にショックを受けたし、彼女に怒りを感じたし、文句もつけてきたわけです。だから少なからぬアスペの方にとって、この「自分の感覚を横に置く」とか、著しくは「否定する」ということは、ある意味普通のこととしてやってこられた部分があるのでしょう。そうすると「断定しない」スタンスというより「断定させてもらえない」状況を強要されてきたことになる。

 もしそうだとすれば、私にとっては大事な第二のステップの一部分は、そのままではアスペの方にとってはむしろ自分を苦しめてきたやりかたになるのかもしれないですね。自分を豊かにするなんてとんでもない、ということにもなる。うーん、そうか。そういう可能性も考えられるんですね……

 もしそうなら、アスペ定型関係で、とりあえずまず定型に必要なのは自分を相対化することだけど、逆にアスペの方達には自分を絶対化することが大事だったりするのかも知れないわけか。もちろんその段階で留まっていては先がないと思うけど、でもそれはお互い不可欠なことかも知れません。

 そうすると、その段階で定型とアスペの方が出会い、コミュニケートをするということは、お互いに質の違う課題を背負って出会うことにもなりますね。もしそうなら、そこでもお互いの遣り取りにすごいすれ違いの原因が隠れている可能性が出てきます。さて、実際にはどうなのか、気にしていきたいポイントの一つになりました。

 

2013年9月 3日 (火)

昼食が外食になった話

 いろいろとパートナーに怒られて「ごめんなさい」を連発している今日この頃ですが、ちょっと感動したことがありました。

 というのは、これまでは、たとえば仕事から帰ってきたときなど、まず最初はものすごく不機嫌な(と私には見える)顔をして、私のいろいろな失敗について(あるいは私の失敗と彼女が理解したものについて)文句が並びます。それで、私は意気消沈して、あるいは誤解と思われるところは何とか弁解をして、そういうのが一通り終わって、ようやく帰宅後一段落する、という感じのことが多くありました。

 そういうパターンは私にはしんどい、ということは何度も伝えていたのですが、中々それはどうなるものでもありませんでした。

 ところが、今日の朝、早起きの彼女に続いて私が起き上がっていくと、笑顔であることについて御礼を言われたんですね。もちろん御礼を言われることはこれまでもありましたが、それはまあ単独で、のことでした。けれども今日は、その後に二つ、お小言が続いたんです。たとえばひとつは網戸の位置がいつもと違っていたので、それに気がつかないまま彼女が窓を開けっ放しにしてしまい、あやうく家猫が外に出てしまうところだった。もし出たら探しに行くのが大変だった。というようなことだとか、あと電話の子機が(これは完全に私のうっかりで)別の部屋に置きっぱなしになっていて、探すのが大変だったとか、そんな話です。で、締めくくりの結論は「パンダは自分のしたことの後をちゃんと確認しないからこういうことになる」ということで、まあその点は言われてもしょうがない凡ミスを私も繰り返してきましたので、「すみません m(_ _)m」ということになります。

 で、そのときの彼女の表情とか言い方とかが、今までとはすごく違って、なんかやわらかくて、穏やかだったんですね。最初に笑顔で御礼から始まったのも、あるいは後半のお小言へのクッションだったのかも知れないし、そのあとのお小言もクッションが入っていた感じだったわけです。

 なんか、彼女なりに私に気を遣って、そんな工夫をしてくれたのかな、と思って嬉しかったんですね。勿論、すごく無理をしてそういうことをしてくれているのなら、私もちょっと申し訳ない感じになりますが、今のところそこまでの感じはないので、素朴に「うれしい」で済ませています (^ ^;)ゞ。

 あ、あともうひとつありました。先日久しぶりに子どもたちも揃ったので、一緒に外食でも行きたいなと思って子どもに聞いてみたら、子どもは「いいよ」ということだったのですが、パートナーは「え?」という感じで、なんだか抵抗感があるみたいでした。もしかすると何か家での食材の処理の予定が崩れるとか、そういうことがあったのかもしれません。

 以前なら私はそういうとき、「なんでみんなで楽しもうとすると水を差すの?」と思い、不機嫌になって「じゃあもういい」と言っておしまいになることがよくあったんですが、最近はそういうときは「いや、別にそうじゃなくてもいいけど」とか、クッションを置くようにしてたんですね。このときもそうしましたし、そしたら彼女も夕食が近づいてきた頃に「どっかいくの?」と改めて聞いてくれたんですが、私は「いや、まあ行かなくても良いよ」と譲りました。

 そうしたら、夕食後、「明日のお昼でもどっかへ行く?」と提案してくれたんですね。それでめでたく翌日は子どもの提案してくれた飲食店でお昼を食べました。めでたしめでたし……って、なんか書いてて自分は何をしょうもないこと書いてるんだろう、と恥ずかしい気分にもなりましたが、折角書いたので、このままアップします (^o^)

 

感情と信頼

 ただいま仕事から戻ったところですが、玄さんから「信頼」についてのご質問がありました。

 「もちろん、誰かに向かって「信頼してるよ」という声かけは、「注目していますよ」「貴方が上手くいくことを前提に、コスト配分していますよ」「良い結果を出して、利益をこっちに廻してください」という含みがあるということは、シチュエーション分析で分かっているつもりです。その他に、感情的なニュアンスがあるようでしたら(もちろん、パンダさんの捉えている意味合いも)、ぜひ教えてください。」

 信頼って何か、ある意味で定型にとっても永遠のテーマのような感じもします。信じたり、裏切られたり、裏切ったり、そういう中で人も自分も信じられたり信じられなくなったり……

 素朴な感覚で思い起こしてみれば、「信頼」という言葉をどういうシチュエーションで使うかによっても意味はいろいろな感じがしますし、「信頼の深さ」みたいなことも問題になるように思います。

 比較的「浅い」信頼の例としては、たとえば相手の技能などについての信頼があるように思いますし、逆に「深い」信頼の例としては、極端な場合には自分の命をかけてもこの人は自分を守ってくれるだろう、とか、自分のために頑張ってくれるだろう、と思える場合があります。

 昔若い頃に職場の先輩に教えていただいた言葉で「刎頸の友」というのがありましたが、仮にその友人が「おまえの命がどうしても必要だ。」と言えばその友に黙って首を刎ねられても構わない、そんな「信頼関係」のことをいうと言います。相手が本当にそれを必要とするなら、自分の命も投げ出す。じゃあ、残された家族はどうするの?という話になれば、当たり前のこととして、友はそこまで責任を持つことが暗黙の了解ですし、また自分が命を投げ出すことによって相手が何かを実現しようとすることの手助けになるし、そして相手がそうやって自分の命を奪ってまで実現しようとしていることの価値を、無条件に自分も信ずることができる。場合によっては何を実現しようとしているか分からない場合でさえも、です。

 今の世の中ではそういう関係は、もしかすると「やくざ」さん達の間に残っているかも知れない、というくらいではないでしょうか。友人関係ではなくても、主君と家臣の関係のひとつの理想はそういうものだった、というのは以前に「葉隠」という本について書かせていただいたとおりです。現実にそれがどこまで実現していたかは別の問題として。でも昔はほんとに「殉死」を多くの人がしたわけですし、そういう主従間のある種の「信頼関係」は現実に一定程度は存在していたのでしょうね。私には感覚的に理解仕切れないところがありますが。

 (すみません、私、結構極端な例を思い浮かべながら、その問題がどの程度の幅で成り立ちうるのか、ということを考えたりするくせがあって、「あんたの話極端だよ」と言われることもあるんですが(^ ^;)ゞ、まあ、でも人間ってどういう幅、どういう可能性の中で生きているのかに思いを馳せると、どうしてもそうなってしまいます。)

 いずれにせよ、少なくとも定型の場合、「信頼」、特に深い信頼は「仲間関係」と切り離せないように思います。それは「お互いに相手のために努力を惜しまない」という関係です。「この人は自分に都合が悪くなれば、自分を捨ててさっさと逃げていくだろう」と思えば信頼関係は成り立たない、ということも、上に書いた「自己を犠牲にしても相手のために」ということと裏表の関係になりますね。

 感情との関係ですが、そんな風に「相手のためには自己犠牲をいとわない」という側面が「(定型的?)仲間関係」にはつきものなので、それはある意味で「計算」とか「打算」を越えた関係です。もう少し視野を広げれば、その人自身には益はなくても、家族に益が生まれるとか、大きな枠の中ではバランスが取れている可能性はあると思いますが、でも少なくともその人自身には直接の利益はないし、またそこで利益について「計算」すること自体がある種の「不純」な動機になってしまう、ということになり、それは「自己犠牲」ではなく、「商売」とか「打算」だ、という形で排除されるでしょう。

 そんな損なことをするわけですから、「理性」では中々乗りこえられないものもあります。葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」は極端な例の一つですが、普通の理性では理解しがたい、強烈な「感情」がそこには絡んでくると思います。前にご紹介した、胆力を鍛えるために自分の太股に刀を刺す話だって、たとえば今私が刀を渡されて「やってみろ」と言われたってできっこない。ある種異常とも言える感情の高まりと、そのコントロールが必要になる行為だと思います。そしてそういう胆力と、主君の為には命を投げ出す、ということがつながっても来る。そんなところにもよく現れているように、自己犠牲的な人の行動を突き動かすエネルギーとして「感情」が大事な役割を果たすことになるんだと思います。そしてそれが「深い」人間関係の形成とか維持に係わることになる。

 そこまで極端な話をしなくても、やっぱり友だち関係には「この人のためだから一肌脱ごう」みたいなことは普通にあるわけでしょうし、それは友だち以外にはあまりできないことです。だからこそ、それとは正反対の性質を持つ「博愛」という言葉もあって、その自己犠牲を伴って相手のためになる、その対象が「友人」などに限定されない姿をいいますよね。(でも実際にそんなことが出来る人がほんとにいるのかどうかというのは意見の分かれるところでしょう。ある人は「マザーテレサ」以外にはそんな人はいない、と言っていました。それもどうなのか、私にはわかりませんが。)

 と、思いつくままにぐだぐだ書いてきてしまいましたが、少なくとも定型の深い信頼関係には「自己犠牲」の問題が絡んでくるし、そこには小さな計算では割の合わないことを敢えてする「感情」的な要素がからんでくる、という側面があるように思います。この考え方でどこまで「信頼」を説明できるかは、まだとりあえずの思いつきで書きましたので、よくわかりません  (^ ^;)ゞ


 アスペと定型の問題に引きつけて考えてみると、今回の遣り取りの中で、ある意味すごいなあと思ったことがあります。たとえばかずきさんとか、するりさんとか、私の議論について、「議論から逃げている」と感じられたりしているわけで、もちろん私は主観的には全く逆なのですが、そのあたりは「見えている世界の違い」の問題がおそらくかなり大きな問題としてあって、相当に話が噛み合ってないのだろうと感じています(もちろん定型アスペの問題ではなく、パンダ個人の分からなさの問題かもしれませんが)。

 で、仮にこういう大事な議論について、自分に都合が悪くなれば逃げて誤魔化す、という姿勢がはっきりしているとすれば、定型的にそれを見れば「信用できない」ということになると思うんですね。「ああ、こいつは結局自分の利益でしか動かない、その程度の奴なんだ」という評価になりますし。ところがほんとにありがたいことに、かずきさんはパンダに対する信頼は崩れていない、ということを書いて下さっている。するりさんもトマトさんについて「信じて良かった」と書かれている。

 この「信頼」ってなんなんだろう、とすごく思います。上に説明した信頼のパターンとは、少なくとも表面的には違って見えます。もしかするとこの信頼についての感覚や理解のズレに、逆に定型アスペ間を結びうる大事なポイントが隠されているかも知れない、と思ったりします。
 
 
 

2013年9月 2日 (月)

この間のやりとりについて

 帆掛け舟さんとの遣り取りは、帆掛け舟さんが「もうこれ以上理解力のないパンダに何を言っても無駄だ。ただ、そのことを皆さんが理解できるような形で、白日の下にさらけ出してみることは出来たから、これでおしまいにする」という趣旨の宣言をされて、一方的に終了されましたので、帆掛け舟さんから呼び出されて、「逃げるなよ」と念を押されて話を始めた私としては、あれ?という思いはありますけれど、あきれかえられて見捨てられたことについては、私の方でどうこうできることでもありませんので、「はいわかりました」ということで一段落になります。

 何にせよ、今回のやりとりが全体としてみたときに一体何だったんだろう?ということについて、とりあえず今の段階で私が想像出来る範囲で私なりのまとめをしてここに残しておきましょう。またいつか見直してみることで、「ああ、パンダはこういう無理解な人間なんだ(あるいはそうだったんだ)」ということがさらに見えてくるかも知れませんし、定型アスペの問題として考えてみる素材になるかも知れません(帆掛け舟さんは定型アスペの問題ではない、と繰り返し念を押されていますが、帆掛け舟さんの議論にアスペの方がかなり共感されていたと言う意味ではそういう見方からも考えることが可能と思います)。

 とにかく多くの方の参加や注目があったことは事実ですし、多分重要な問題だったのだろうと思うので、私も含め、今後いろいろ考えていく上での素材として残しておきたいと思います。

 ひとつひとつコメントを読み返して確認しながら書いているわけではありません。それが必要という考え方もありますが、むしろ私の「記憶の流れ」を書いておくことで、それを実際の遣り取りと対比させてチェックしてみると、そこにいろんな思い違いとか、記憶違い、大事な漏れなどが見えてくることもあると思いますし、そういう「ズレ」もまた私の議論の問題点をチェックする上では意味ある素材の一つにもなると思います。

 私自身の理解した問題の流れとしては、最初はプルーンさんとのやりとりから始まったのかなと思います(あ、プルーンさん、別にプルーンさんのせいだとか言う話ではないですので、そこは御了解のほどを)。プルーンさんはご自分の「傷」をこの場で「事例として呈示」されたということですが、その表現の仕方、論じ方の姿勢などを巡って、アスペの方達から批判があいつぎ、それについて噛み合った議論が成立することなく、プルーンさんは「私は傷つきました」と言って引っ込んでしまわれました。

 その後、プルーンさんへの呼びかけもありましたが、プルーンさん不在のままで議論が進む形になり、プルーンさんに対する厳しい批判が主にアスペの方達から繰り広げられました。そのとき私が重要かなと思ったポイントは、プルーンさんの議論が定型の視点を絶対化して、その定型の視点からの「アスペ像」で批判を行っていて、アスペの方達も傷ついたにも拘わらず、「私は傷つきました」という言葉を残して消えてしまったことかなと思います。それは定型に特有の優越意識を無意識に持っていて、相手が同じように傷つく人間であることを(事実上)認めないことになってしまっていて、そんなことを許していいのか、という「義憤」を何人かの方に引き起こしたように思います。後にするりさんは「人権(意識)」の問題として訴えられるようにもなったと思います。

 この問題について、当時の私が考えていたことは大体次のようなことだったように思います。まずプルーンさんの「事例の提供」以降のやりとりについてのアスペの方達の批判内容は、私も共感できるものが多くありました(また後出しだ、と言われそうですが、まあ、私の記憶の中の事実の問題としてはそうです)。もしプルーンさんがその後も消えてしまわれずに、さらに同様の事態が続いた場合、私がそこに介入することになったかどうかは、よく分かりませんし、実際この段階で私がなんらかの直接的な介入をするとはありませんでした。

 なぜそういう対応になったかについてはすでに少し書きましたが、補足しながら改めて書くと、「差別的な発言(ご本人の意図は別として)」については、私はこのブログの初めの方で、発言された方を名指しにして記事で正面から問題を問いかけたことがあります。その際、逆に当時の常連の方達から「おいおい、そんなに(ブログ主宰者の)あんたが熱くなっちゃダメだよ」と言われたりしたこと、そしてその後のその発言をされた方のコメントなどを拝見していると、その方自身がこの場をとても大事な場と感じてくださっていて、ご自分の発言がそこを乱したと思われたことについて、大きな引け目を感じていらっしゃるようで、結局場から消えて行かれました。その経験から、私の役目は「少し引いた地点から、環境を整えること」にあって、そこで自らの「正義」を振りかざして介入することではない、という思いを持つようになりました。大事なのは参加者の皆さんの中でしっかりとした議論が行われていくことで、その場を間接的にに支えていくことが私の役割と認識したことになります。もちろん、そこで差別的な発言が放置されている状況なら、もう少し私が参加者の一人として議論を提起する必要はあると思っていますが。

 今回の場合、まず第一に、すでに参加者の少なくない方達から問題提起が活発に行われていました。そこで(名ばかりではあっても)ブログ主の私が介入することは控えるべきだろうという判断がありました。第二に、ある意味で議論自体はもう決着がついていて(と私には感じられました)、プルーンさんも引っ込まれたままで出てこられなかった状況ですから、にもかかわらず、たとえ正しい議論であったとしても、当事者の一方を欠いたまま行われる「身内の議論」は、それ自体は理想的なものではない、という判断がありました。

 そこで私が果たそうとした役割は、問題の背景となることなどをより一般化した形で記事で考えてみる、ということでした。
 そうこうするうちに、私が危惧している事態が起こってきました。それはプルーンさん不在の場で、プルーンさんを揶揄するような(これは定型的感覚からの見え方です)議論が進み出したことです。主張の中身が正しいことと、それをどのように他者と共有し、また表現するか、ということは切り離して考えるべき問題だと私は思っています。後者がどのようなものであっても、前者によってそれが正当化されることはない、というのは私の考え方です。「目的は手段を正当化するか」という議論の一部として考えることも出来るでしょう。

 そういう中で、プルーンさんからパンダ個人に対して謝罪のメールが届きました。プルーンさんは公開されても構わないと書かれていましたが、同時にそのことでまた混乱することを恐れること、そしてたとえそうなっても自分は対応できないことが書かれていました。実際その内容は、すでに批判が展開されていた内容の繰り返しの部分が多く、プルーンさんの「危惧」はその通りだろうと思えるものでした。

 ただし、二点だけ、プルーンさんが不在の場で進んだ議論が、プルーンさんによれば誤解に基づいているとされることがあり、仮にそうであるとすれば、そこで展開された議論はやはり方向性がおかしくなってしまう可能性があると感じられました。そういう議論の展開は当事者の一方がいない状況で「正義」が共有されていく際にしばしば起こりがちなことだと私は感じています。そこでそういう危険性を最小限にするため、私の責任で事実誤認のある可能性のあるポイントをまとめて(一応ご本人にも確認していただいた上で)、記事としてご紹介をしました。もうひとつ、コメントの中でかずきさんがプルーンさんが傷ついているのではないか、ということをとても心配されて、お返事が欲しいと書かれていたので、かずきさんの発言についてはプルーンさんは喜んでいらした、ということについて付け加えました。

 あくまで私の想像に過ぎませんが、この展開はアスペの方達にこう受け止められた可能性があると思います。パンダはアスペと定型がお互いを尊重して議論する場を模索すると言いながら、これだけあからさまにアスペの人たちが傷つけられた(あるいは人権が侵害された)状況を放置し、あろうことか、その「加害者」の代弁者として登場するに至った。これはこれまでパンダを信頼して、安心して議論に参加してきた人々への裏切りに等しい。

 まあそこまで厳しくは考えられなかった方もいらっしゃるかと思いますが、いずれにせよ、パンダに対する信頼性が大きく揺らぎ、どう理解したらいいのか、悩まれた方もいらっしゃったのだろうと思います。

 そのアスペの方達の疑問を代弁されたのが、あるいは帆掛け舟さんではなかったかと思います。そしてさまざまな挑発的言辞を駆使されつつ、なんとか「責任者出てこい!」という状況を作って行かれたことになります。このころまたプルーンさんから謝罪のメールがあり、「私のせいでパンダさんに矛先が向いてしまい、お詫びのしようもない。でも自分が出て行くとまた事態を悪化させるだけだから、出られない」とのことでした。

 この時点で私は、この状況はこの場に参加されている定型の方にとっては脅威になりうる、ということを心配していました。コメントの場の状況は「定型糾弾」の雰囲気が強くなっていると感じさせるものがあり(これは単純に批判的コメントの量の多さだけでもそのような雰囲気が作られるものです)、とりわけ帆掛け舟さんの問題提起の仕方は、定型的感覚(とパンダが理解するもの)では強い恐怖感を抱かせる可能性のあるものにも見えました。また帆掛け舟さんの議論の仕方についても、(帆掛け舟さんに依れば「きれいごと志向」の)パンダは、定型の参加者には疑問や場合によって恐怖心を抱くようなものになっていたと感じていました。何人かの定型の方がいくつかの表現でその問題を指摘されていましたが、アスペの方達からはそのポイントについての理解は得られることがなく、ここは「どういう表現で信頼できるやりとりが可能か」ということについての感覚の違いがよく現れたと感じます。

 ということで、度重なる催促を受ける形で、この場でのコミュニケーションの「仕方」の問題について、パンダは帆掛け舟さんと議論をすべきだろうという判断をするに至りました。その後の展開はコメント欄でご覧頂いていたとおりです。その中での私の議論については、少なくとも現時点で私は変更が必要な部分があるとは感じていません。

 現段階で私が理解している両者のズレは、アスペの方達の代弁者としての帆掛け舟さんの追求ポイントは、パンダがプルーンさんによるアスペの方達への「攻撃」を放置した責任を問うことが中心であり、加えてアスペの方達が受けた傷をどう考えるのかを問い詰めることが問題だったのに対し、パンダはそのことを議論する前提的な部分で、まずは「どうやって異質な者同士の議論を成り立たせることが可能か。その視点から見たとき、果たして帆掛け舟さんのアプローチは有効と言えるか」ということを問題にしようとしたことにあったと思っています。そのようなパンダの姿勢は帆掛け舟さんには「きれいごと好き」の症状にしか見えなかったようで、しばらく遣り取りの後、「こいつは言っても分からないし、無駄だ」という判定をされて、議論から身をひかれました。

 およそ以上のようなことがこの間の展開についての私個人の理解の概略になります。それが正しい認識かどうか、私のその時々の判断が適切であったかどうか、私は評価する立場にはありません。私に出来ることは、皆さんに考えていただく素材の一つを提供することまでです。

 この問題の評価については、私は結論はいそがないほうがいいと考えています。昔読んだ本に書いてあって面白かったのですが、毛沢東が海外の記者にフランス革命の評価を聞かれ、「あれはまだ200年ほどしか経っていないから、歴史的評価を下すには時期が早すぎる」といって記者をおどろかせたという話でした。いかにも中国的という感じがするエピソードですが、気分としてはそのくらいの感じで、じっくりと色んな角度から考えていくことが出来ればと思っています。もちろんコメントなどでご議論いただくことについて、それを否定するという意味では全くありません(し、もともとそんな権限も私は持ちませんし)。

 では、とりあえず現在の時点での事態の認識の記録と言うことで、この程度にさせていただきます。今後の記事については、また今までのような記事を期待してます、というメールなども頂いていますし、私もそうしたいと思っていますので、なにか特別の事情が発生しない限りは、そういうことで進めたいと思います。また、この記事については、今後いずれまた似たような問題が発生することも当然予想されますが、そのときにパンダはどういう反応をするだろうか、ということの予測をする素材としてもお使いいただければと思います。

2013年9月 1日 (日)

ひえ~の日々。

 最近私とパートナーとの関係で生じてきている変化の一つと感じるんですが、いろいろな場面で私が「いじめられ」て、「ひえ~」となって、彼女には笑顔が生まれるということがあるんですね。

 これは内緒の話ですけど、パートナーは自分はSなんだと最近言ってます。私はどっちかというとM系なので、うーん、これもちゃんと組み合わせになっていたのか、と変なところで感心したり (^ ^;)ゞ

 今朝は私の足が彼女の布団にのっかっていたのですが、彼女は先に起き上がって、それを見るなり、うちわでバシッと叩き、にやにやしながら「ええい、汚い!」と言って出て行きました。わたしは「ひえ~」と嘆いて、起きてから「お母さんに虐められた」と娘に訴えたんですが、「そんなの当たり前じゃん」でおしまい (T T) 。で、「汚いと言って叩かれた」と言いつけたら、今度は彼女に対して「それはだめだ。汚いは禁句だよ。うっとうしいならいいけど」と母親に説教をしていました。

 家事のことでも叱られることが多く、「ひえ~」の日々が続いております …… (^ ^;)ゞ

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