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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年8月 9日 (金)

平等って何?

 アスペと定型のカップルが一緒に暮らしていく場合、定型同士でお互いに気を遣うのとはだいぶ質の違う関係の調整が必要なことが多くなります。

 もちろん同じようなことは定型同士でもある程度はあるのですけれど、たとえば自分は相手のために、と思ってしてあげたことが、相手にとっては実は負担であったり、逆に無視されたように感じたり、というマイナスの意味を持ってしまうことがある。ここでも何度か取り上げた、「辛い思い(病気でも精神的なことでも)をしているときに、側に寄り添ってあげる」という定型のやり方は、「一人になって解決したい」と思うアスペの方にはむしろ迷惑になるし、逆に「一人にしておいてあげる」というアスペの方の配慮は定型には自分を切り捨てられたような思いになることが多い、といった具合です。

 ややこしいのは、「相手は自分とは違う気の使われ方を望んでいる」ということが分かったとき、自分の方が相手のためにそれに合わせたやり方をすると、そのやり方は自分の自然な感覚としては「やってはいけないこと」と感じられてしまうものだったりするので、なにか罪悪感を伴いながら「相手のためにする」という形になってしまうこともある、という点です。

 まあ、簡単に言えば「無理をして、自分にとっては不自然な形で相手に気を遣う」ということが必要になったりするわけですね。私の所でも、いくつかのことで、そういう感じ方の違いが分かってから、ある程度お互いに相手に合わせて自分のやり方を変える、という工夫をしていますが、そうされてすなおに「嬉しい」と思うこともある反面、「彼女に無理をさせているな」という気持ちもあったりして、「あんまり無理させても申し訳ない」というためらいも出てきたりすることがあるのも事実です。

 そんなとき、「お互いに平等に譲り合う」という風に考えようとしたりするわけですが、でも実際は「平等に譲り合う」って何をどこまですれば平等なるのか、よくわからないんですね。たとえば「自分にとって多少我慢が必要なことをある程度相手のためにしてあげる」というときに、自分の我慢がマイナス5で、相手がそのことで得られる満足がプラスの5で、でも相手は本当は10の満足を求めていることから考えると、相手にとってもそれはマイナスの5で……とか、計算をしてマイナスの5どうしだから「平等だ」というような判断、現実にはまずできません。そんな我慢や満足や不満を「測る機械」なんてあるわけないんですから。

 そうすると、「平等に」という言い方自体、なんかぴったりこないんですよね。そういう機械的な話ではなく、お互いに相手のために譲り合うバランスを考えていく必要がある。それってどうしたら出来ることなんでしょう。

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コメント

はじめまして(時々、読ませていただいているので、初めてではないかもしれませんが……)。プルーンと申します。

我が家の場合、診断もうけていないし、夫自身はそういう傾向があることを認めないので、平等以前の問題なのですが……。

夫の場合、病気などの場合は、まさに「そっとしておいてほしい」人です。結婚当初は、あれこれ世話を焼こうとして、怒りをあらわにされたことも何度かありました。それで、同じ空間にいるとどうしても罪悪感にかられるので、夫が具合の悪いときは、思いきって外出してしまうようになりました。それでも気になりはしますが…。。
逆に私の具合の悪いときは、どういうわけか、的はずれな構い方をしてきて、却って休めないことが多いーー例えば、「なにか買ってこようか?何がいい?」と聞いてきて、しんどさのあまり何も考えられず「なんでもいい」と言うと、「それじゃ、わからない」と怒り出すとかーーので、釜ってもらわないことにしました。まぁ、それでしかたがないと思っていました。

でも、結婚15年目にして子を持つことになってから、このことで散々苦しむことになりました。帝王切開したばかりの妻を置いて、シャワーを浴びに家に帰って何時間も戻ってこない(家族でも使っていいシャワールームがある産院だったのに)、5歳でアスペルガーと診断されてやっと睡眠障害だったかもとわかった娘が乳飲み子の頃からずっと昼間は10分15分しか寝ない、食物アレルギーで死にかかる、私が一人で責任を感じて疲弊していても気づかず、ついにうつ病で寝込むことになりました。
そのときも、夫は仕事の他に、朝、娘に朝食を食べさせ、保育園に送り、休日は買い物(平日の夜はベビーシッターさんと、私が体を引きずって面倒を見ていた)という生活が続いて疲れてきたときに、「面倒を見られないなら産むな。母親失格」と言い放ちました。そのことも本人は覚えていません。

平等でなくてもいいから、本当にどうにも辛いときだけでも、こちらの立場にたってくれればと思ってしまいます。

今、私はまだうつ病を抱えながら、一人でアスペルガー娘の学校のことに心血を注いでいます。入学直前、あまりに重圧を感じすぎ、倒れて過労で入院となってから、ずいぶん変わりましたが、本人が自分の感覚が人とは違うことを認識しないので、結局は私の負担になるばかりです。(娘の現在形の記事 http://s.ameblo.jp/humming-ami/)

娘と二人同時に別々のことでパニックを起こされたり……。

平等は、遠い遠い話です。そういう段階に到達したいと、願いつつ、諦めるしかないとも思っています。

なんだか、この記事のテーマとは外れている気もしますし、単なる愚痴になったかもしれません。平等とか、対等、という関係になるには、まず、お互いがお互いの持つ感覚が、相手とは違うことを認識するのが始まりで、またそこにたどり着いても、新たに別の悩みが発生するのだな、と感じました。

トマトです。
プルーンさんのコメントも、かずきさんのコメントも、そして時々のするりさんのコメントからも・・・到底、ASと定型の双方の精神の痛み具合には、平等とかを持ち込む段階ではないような、もう自分を保つのに精一杯という臨場感が伝わって来ます。

家族や恋人など、ひとつの土俵で接近関係を続けると、より平等感覚が失われるような気がします。

友達とか同僚とか知人とか・・距離感が自由にとれる関係性にゆとりとして平等感が生まれるのであって・・・生活の中で常に揺れるバランスをとらなければならない潜在的な緊張感をまといながら「平等」と言う平和や理性的や穏やかな響きの意識が維持できるものでしょうか。

人としては平等だけれど、暮らしの中では言動が被害者と加害者の関係になってしまったり、「どうせ理解出来ないのだから」というお互いを見切ったような感覚が生じたりが、現実なのですから平等とはほど遠く・・・だからこそ、ふとした時の出来事、空気感、やりとりが無性に嬉しかったり、感謝や尊敬や愛しさを明確に感じられるような気がします。

そうなんですよね。

私は以前、かずきさんへのコメントに「ご自分が悪くない場面まで<自分にも責任があるからこういう事態になっているのだ>と過度に自分の粗探しをして疲弊しないで下さい」
と書きましたが、定型の場合も「ハンディのある(と思われる)相手に寛容になれない自分に対する苛立ちや失望」を慢性的に抱えていたりするのだろうなと思います。

結局どちらも「自己肯定感」が満たされにくいという意味では共通していると思います。


「相手と違うことを認識することがスタート」、その通りなんですが、これは口で言うのは簡単ですが、一部の例外を除き、大多数の場合、AS・定型双方共に相当難易度が高いと思います。

「自分は異質な人間なんだ」と認識する方(AS)も、「相手は異質な人間なんだ」
と認識する方(定型)も、それを穏やかに受け取れる人間がはたしてどれだけいるでしょうか。

認識しても、最初の数年はASは「自分には分からない世界があるんだ、きっと自分のせいだ」となったり、定型も定型で「ハンディを持つ相手にこれ以上期待するなということか・・・」になったりするだけで、中々「では、どうしたらいいか?」という具体案は出てこない場合が多いと思います。でも、それでも時間は止まらないまま、試行錯誤は続く。


この試行錯誤は例えて言えば、山伏の修行のようなイメージです。滝に打たれるくらいの難行苦行をやった末にようやく「悟り」を得るようなものだと思います、当人達が好むと好まざると。(山伏の実態を知らずに書いてすいません・・・あくまでイメージです)

いつゴールにたどり着くか分からないような耐久レースを乗り切るには上手に息抜きしないと倒れます。

「相手からの反応」で「自分の値打ち」を決めちゃうと、「落ち込む」か、「相手に反発するか」の二択しかなくなってしまうので、益々追い込まれます。

仕事とか趣味とか、友人とか、なんでもいいですけど、意識的に「いろんなところに逃げ道を確保しておく」ことが自分の身を守ることになると思います。

全くまとまらない文章になり、すいません・・・。


パンダさんの最初のお話しを読んで思いましたが、自分の気遣いと相手の気遣いが同じタイプ・同じ量であることを願うメンタリティは、面白いですね。それと、「相手は自分とは違う気の使われ方を望んでいる」と言われるように、「互いに気を使ってもらいたい」というのが前提なんですね。
いずれにしろ、「労わりあいの理想形」があって、それを「口で言わずに実現したい」という二つのポイントが、パンダさんの心の負担の元になっているように読めました。

僕は、「そっとしておく・邪魔をしない」ということは、「無視して放置する」というのとは違う、労わりの一つの現われと思います。ですが、パンダさんは「そっとしておく」を自分の行動として積極的に認められないようです。「労わりあいの理想形」が固定されていて、他の形を認められない頑なさを感じます。

かといって、常に、ASに対する対応が「邪魔をしない」では、定型側が関わりを放棄していることになるでしょう。ASだって助けが欲しいことはありますよ。

僕の感覚では、他人に手助けをすることを躊躇する内面としては、他人への介入の前段階において、仮に「やりにくい」ように見える状況があったとしても、それを乗り越える作戦中かもしれない、その状況を楽しんでいるかもしれない、慣れてしまって変える方が面倒なのかもしれない、全く気にしていないかもしれない、助けてもらうことは恥ずかしいと思っているかもしれない、、、といった「配慮」が働いて助ける行動に踏み切れない、というのがあります。
定型は、そういう「介入しない配慮」を低く見てスルーし、「介入する配慮」ばかりを優先する特徴というか、傾向がある様に思います。

本質的には、「どうしたいのか」を共有しなくては結論が出ないと思います。
「どうしたいのか」が分かれば、「介入する/しない」レベルは問題でなくなるはずです。つまりここで、「口で言わずに実現したい」という願いは破綻して頂かなければならないということです。
お互いに、「どうしてあげたいか」「どうして欲しいか」を伝え合うことができる環境・間柄であれば、気遣いの気苦労はかなり減ると思います。
口で伝えあうのなら「気遣い」じゃないよと言われそうですけどね。(^^;)
付き合いが長ければ、無言でもクリアできる部分かもしれませんが。

あと思い出したこととしては、たぶん定型の特徴ですが、何かを「やってあげる/やってもらう」の貸し借りを、まるで「測る機械」があるかのようにやりとりしますよね。
僕はそういう感覚がとても弱いです。やってあげられることは、全部やってあげてしまうし、相手が出し惜しみをしているなんて考えられない。駆け引きがないんです。
そういった部分で、パンダさんは「貸しが貯まってる」と感じるときに「平等じゃない」と感じるのかもしれませんね。

玄さん

 「僕は、「そっとしておく・邪魔をしない」ということは、「無視して放置する」というのとは違う、労わりの一つの現われと思います。ですが、パンダさんは「そっとしておく」を自分の行動として積極的に認められないようです。「労わりあいの理想形」が固定されていて、他の形を認められない頑なさを感じます。」

 ここでは「頭では理解する」ということと、「感情的には受け入れにくい」ということのズレの問題を考えてみています。これはもしかすると定型的な感覚なのかもしれません。この問題について具体的に言うと、「私が素朴に感じる労り合いの理想」と、「私が頭で彼女にとってそれが労りになると理解できること」の間にズレが生じてしまって、その調整がむつかしい、ということになります。固定されやすいのはそのうちの「素朴な感覚」の方なんですね。これはもうほとんど生まれつきと言っていいくらい根深く身体に染みついていますので、いくら頭で「彼女は違う」と理解しても、そこは簡単には変化することはなくて、いろいろ難しく感じるところです。

 似たようなこととしては、カルチャーショックとかもあげられると思います。たとえば昆虫をおいしそうに食べる人たちがいて、「その人たちには美味しいんだろうな」と頭では理解しますけど、「さあどうぞ」と差し出されても中々手が出ない、とか。私自身経験がありますけど。逆に言えば、タクアンを美味しい美味しいと私が食べても、海外の人には「私はそれが好きだ」と分かっても、本人はその臭いが耐えられなくて手が出ないとか……

 ですから、

 「本質的には、「どうしたいのか」を共有しなくては結論が出ないと思います。」

 ということについて、「相手がどうしたいのかを知る」ことは前提としてとても大事だと私も思うのですけれど、少なくとも多くの定型の場合、「相手はそれを喜ぶ」と頭で理解しても、気持ちの上で納得しきれなくて、躊躇してしまう場合がいろいろ考えられるんです。

 これもまた極端な例で言えば、たとえば幕末明治頃は「武士の生き方」が残っていましたから、人々は感情的にもそれを受け入れていて、明治の始めに吉田松陰のおじさんが自分の姪に「自分は先祖の墓の前で腹を切るから介錯を頼む」と言ってきたときも、その姪御さんはすぐに了解して介錯したんだそうです(司馬遼太郎ネタです (^ ^;)ゞ)。

 でも今の人たちだと、頭では「この人はそうされることを望んでいる」と理解できても、「そうしてあげる」ことは難しいですよね。いくらその場で刀を手渡されたって、身体が硬直して言うことをきかないと思います。(もちろん今それをやれば殺人罪か、少なくとも自殺幇助かなんかになるでしょうから、処罰されることを嫌って、という意味もありますけど、かりに処罰がなくても、今の人はほとんどはやっぱりできないと思えます)

 そんな問題にもつながってくるところがあるように私は感じるのですが、次のことはとても興味深く、大事なことのように思いました。

「あと思い出したこととしては、たぶん定型の特徴ですが、何かを「やってあげる/やってもらう」の貸し借りを、まるで「測る機械」があるかのようにやりとりしますよね。僕はそういう感覚がとても弱いです。やってあげられることは、全部やってあげてしまうし、相手が出し惜しみをしているなんて考えられない。駆け引きがないんです。 」

 定型優位の社会って、贈り物の交換とか、挨拶の交換とか、そういうのが世の中を動かす根っこにあるようで、商売もそういうやりとりの一種として成り立つみたいなんです。政治的な駆け引きとか交渉ごともそうですし。で、贈り物とか挨拶とか「されてうれしい」とか「恩を感じる」とか、そういう感情が大事な意味を持っていて、それがつぎのやりとりの動機になったりする。

 逆に言うと「変なものを送られた」とか「へんな挨拶をされた」となると、感情が悪くなって、関係がうまくいかなくなったりするので、みんな結構気を遣うんですね。ところがこの贈り物の交換の仕方とかも、時代とか社会が違うと「普通のやり方」がすごく違うみたいなんです。だから、海外の人に贈り物をするときなんか、結構難しかったりするんですね。そこでも場合によっては「頭では分かるけど、感情的に抵抗感がなくならない」ということが起こります。

 なんか、定型は宿命的にそういうことでも「お互いの感情の調整」とか「自分の中での頭の理解と気持ちの納得の調整」ということに気がまわって、そこから抜け出すのは至難の業なんだろうと思います。もちろん完全に抜けてしまったらこの定型社会の中で生きていけなくなりますし。そういうことで、「頭で理解しても気持ちが」という問題は、少なくとも多くの定型にとって、アスペと定型の間のやりとりを調整していく場合でも、なんとかしないといけない深刻な問題になるのだと思います。

パンダさん、丁寧なお返事を有難うございます。

パンダさんの「私が素朴に感じる労り合いの理想」が「ほとんど生まれつきと言っていいくらい根深く身体に染みついています」という感覚であるということは理解しています。
ですが僕の解釈では、「何かで見聞きして学んだ理想像」に「根深く身体に染みついたもの、根底から湧き上がるもの」という様に頭が「位置づけ」をしている、つまり「ラベリング」をしているという捕らえ方をしています。

この「根底から」と感じている「位置付け」を変えるというのは、並大抵の改心ではないはずです。(この領域におきる変化は、パラダイムシフトと呼んでいいと思います)
そして、こういった「根深いところから来ている」と互いに位置づけた「考え方」同士がぶつかり合うのが、このサイトで語られる数々の悩みの中心なのではないでしょうか。
ぶつかり合った時の力関係によってAS側と定型側のどちらもが、「パラダイムシフトを強いられて、強い抵抗を感じる」側になりえる。だからプルーンさんのようにカサンドラ症候群という状況があるのだし、同様にASもパラダイムシフトを強要されたと感じて瞬間的に逆ギレしたり、うつになったりするのだと思います。

吉田松陰さんの話で介錯を頼まれて、それをやるかどうかっていうのは、倫理的・人道的・技術的に議論すべき点が多いっていうか、吉田松陰が自分の勝手に決めたワールドを他人に押し付けてしまった事例になってますね。極端すぎる気がするので、そういう場面の心理を参考にしていいのか分かりませんが、生きるか死ぬかの緊張感だけは拝借するとして、僕だったらできたらいいなと思うのは、第三の道の模索です。
二つのワールドがぶつかって、勝ち負けみたいになるのはどうもよろしくない。両者が納得できる事が最重要というのが、僕の案です。それには、「私にはこの方法しかない/この方法は絶対イヤ」ということをお互いに捨てるのが近道と思います。
それが、僕の考える「平等」でもあります。

まあ、僕個人(AS側)としては、「日常的に使う言葉」や「世の中の仕組み」の解釈を広げたら、すごく納得のいくことがちょいちょいあるので、一個ずつでも直していく(AS的な言葉の意味解釈→AS的と定型的の両方の意味解釈を受け入れる)ようにしています。話が繋がる事が増えてくるので、暮らしやすくなる感じです。
一方、定型がAS的な言葉の意味解釈を記憶することは、あまり使い道がないかもしれないので、積極的にやる気にならないのは、理解できます。
極端ですが、自分が少数派と思っていない段階のASは、「みんな自分と同じに、個々に悩むのだろう」→「全ての人は、自分自身を基準にしてやっているはず」→「自分はスタンダードと考えていい(やって来れている)」→「他人から学ぶ必要はない」・・・という感じで、「学ぶ気がない定型」と「学ぶ気がないAS」が衝突している図式も考えられます。

パンダさんは、AS側が修正や改善の範囲・ボリュームが多かったら、平等感はどのような反応を呼び起こしますか?
僕にとっては、気持ちや気遣いに量という概念は無いので、自分では答えの無い質問ですが。

玄さん

 やりとりが少しずつ問題の核心に近づいているような気もします。

「この「根底から」と感じている「位置付け」を変えるというのは、並大抵の改心ではないはずです。(この領域におきる変化は、パラダイムシフトと呼んでいいと思います)そして、こういった「根深いところから来ている」と互いに位置づけた「考え方」同士がぶつかり合うのが、このサイトで語られる数々の悩みの中心なのではないでしょうか。」

 一点をのぞいて全くそのまま賛成です。
 一点というのは「考え方」同士がぶつかり合う、という「表現のしかた」についてで、
 これは「考え方」という言葉にどんなイメージを持っているかですれ違いが起こる
 かも知れないところと思いました。

 すこし私のイメージを図式化して説明してみたいのですが、
 定型の場合は「理性的理解」と「感情的納得」というのが
 お互いに関係し合っていますけれど、でもしばしばずれることが多い、
 そういう、なんというのか精神の仕組みを持っているように思います。
 「頭じゃ分かっても、身体が言うことを聞かない」とか
 「そうかもしれないけど、気持ちがついていかない」とか
 そんな矛盾をいろいろ抱えて生きていると思うんですね。
 
 それに対して、これはアスペの方一般なのかどうかはまだ分からないのですが、
 少なくとも玄さんのコメントを拝見してなんとなく感じてきたことは、
 「理性的理解」の力がとても強い、ということです。
 上の定型との対比で言えば、「理性的に納得できればそれですぐに
 行動に移せる」というスタンスで議論が展開されているように感じます。

 それは玄さんがものすごく理性的な方で、怖ろしいほどに頭がいい方で、
 理性的な整理でだいたいのことは対処できてしまう、
 ということなのかもしれないし、あるいはこの定型優位の社会の中で、
 子どもの頃からそういう生き方を育ててこられたのかも知れないし、
 そのへんは私にはまだよく分かりませんが、そんな印象を持つんです。

 それで「考え方同士のぶつかり合い」と表現されるときに、
 私が「考え」という言葉に持つイメージはまあ「理性的行動」に
 つながるものになるので、「理性的に考えを変えればそれで十分
 問題に対処可能」という議論に聞こえてしまいます。

 けれども上に書いたように定型の場合「理性と感情」の矛盾に
 多少なりとも苦しみながら生きていたりしていて、
 定型とアスペの間に発生するズレは、まさに「感情」のレベルで
 「納得が難しい」話になるんだと思うんです。
 ですから、もしアスペの方が「理性的に考え方を変えることで
 生き方を切り換えられる」のだとして、それを定型が見習おうと
 した場合、まず間違いなく無理が積み重なって、鬱になったり、
 かなり精神的に参ってしまう、ということが起こると思います。

 ある意味とても不便なわけですが、定型はそういう問題を
 宿命的に抱えて生きていると私は感じるので、
 そこについては定型は定型にあった工夫が必要になると
 思うんですね。

 とはいえ、玄さんもこんな風に書かれています。

「ぶつかり合った時の力関係によってAS側と定型側のどちらもが、「パラダイムシフトを強いられて、強い抵抗を感じる」側になりえる。だからプルーンさんのようにカサンドラ症候群という状況があるのだし、同様にASもパラダイムシフトを強要されたと感じて瞬間的に逆ギレしたり、うつになったりするのだと思います。」

 ここの見方は私も全く賛成なんです。
 で、もしこの見方を前提にすると、アスペの方も「パラダイムシフト」を強要されると、
 逆ギレや鬱と言った感情的な反応が出てこざるを得ない、ということでしょうから、
 定型とは少し違った形である可能性があると思いますが、
 アスペの方にもやっぱり「理性」と「感情」の関係の問題はあると思えます。

 仮にこの見方が正しいとすれば、定型は定型で「理性と感情」の問題を抱えていて、
 アスペの方はアスペの方で「理性と感情」の問題を抱えていて、
 ただその問題のあり方がそれぞれの特徴を持っているので、
 お互いの関係を調整するとき、とくに「生き方」につながるような根深い部分で
 それを行おうとするとき、その両方のズレの問題に注意をして、
 考えてみる必要があると思えるんですね。

「「吉田松陰さんの話で介錯を頼まれて、それをやるかどうかっていうのは、倫理的・人道的・技術的に議論すべき点が多いっていうか、吉田松陰が自分の勝手に決めたワールドを他人に押し付けてしまった事例になってますね。」

 ちょっと説明不足だったかも知れませんが、松陰のおじさんが切腹したことについては、すでに明治に入ってからのことですので、法律上なにか問題があったかもしれません。でもその後も第二次大戦後まで軍人などよく切腹したり、事実上それを強要されたりしてましたし、明治初期の頃は一般の人々も基本的にはそういうことを「立派なこと」や「当然のこと」として受け入れる価値観や感情を持っていたと思います。ただ、現代の私たちの感覚とはずれますけれどね。その意味で「松陰のおじさんが勝手に決めたワールド」ではなかったと思うし、単に「押しつけ」にはなっていなくて、相手の姪御さんもある種当然の「義務」としてそれを受け入れたのではないかと思います。そう言えば乃木希典夫妻の「殉死」も随分賛美されたのではなかったでしょうか。

 「二つのワールドがぶつかって、勝ち負けみたいになるのはどうもよろしくない。両者が納得できる事が最重要というのが、僕の案です。それには、「私にはこの方法しかない/この方法は絶対イヤ」ということをお互いに捨てるのが近道と思います。」

 基本的には玄さんと私で考える方向性にそんなに違いはないか、あるいはすごく一致しているように感じるのですが、どうやったら「私にはこの方法しかない」といったような固定的な姿勢を変えることが出来るのか、そこを実現しようとすると、どんな問題をクリアしていかなければならないのか、ということを考えるときに、多分アスペ的な感覚で考える場合と定型的な感覚で考えるときに何かズレが起こって、お互いのやり方をそのまますぐに自分に応用することは難しいところがあるのかなと思うんです。どこがどうその点でずれるのかについてはこのところの記事で少しずつ考えてみています。

 「パンダさんは、AS側が修正や改善の範囲・ボリュームが多かったら、平等感はどのような反応を呼び起こしますか?」

 私も玄さんと一緒で、そういうボリュームを物理的に量って比較する、みたいな作業はまあできないだろうと思っていますので、難しい質問です (^ ^;)ゞ

 私とパートナーで話したことがありますが、私が「○○さんもものすごく大変だったんだよね」というようなことを言うと、彼女は「でも私は鬱にはならなかったけど、あなたはなったんだから、あなたの方がダメージが大きかった」と何度か言っていました。少なくとも通院して投薬が必要になる、という意味では彼女の言うことは「客観的」にはそうなのかもしれません。ただ、そう言われても、やっぱり彼女は彼女なりのすごい苦労をしてきたんだろうという思いはなくなりませんでしたし、そこで「優劣」を付けるような気持ちにはなれなかったですけれど。

 そいう「ダメージ比較」の問題でもなくて、「努力のボリューム比較」の話で考えるとすると、ほんとにわからない、というのが正直なところです。第一、私が努力している部分は彼女にうまく伝わっていなかったり、その逆だったりということもよくあって、比較の前提の前提の部分もなかなか成り立ちそうにありませんし (^ ^;)ゞ

玄さん、パンダさん、

新月です。
横からすみません。

お二人のどこか咬みあいきれない部分が、自分の経験と似てる部分もあって、もぞもぞした気分になり書き込んでしまいました。そして、ハッとしました。

パンダさんがおっしゃる、
「頭では分かるけど、感情的に抵抗感がなくならない」
タクアンを美味しいと私が食べても、海外の人には「私はそれが好きだ」と分かっても、本人はその臭いが耐えられなくて手が出ないとか…

と、玄さんのおっしゃる、
「何かで見聞きして学んだ理想像」に「根深く身体に染みついたもの、根底から湧き上がるもの」という様に頭が「位置づけ」をしている、つまり「ラベリング」をしているという捕らえ方をしています。

僕だったらできたらいいなと思うのは、第三の道の模索です。
二つのワールドがぶつかって、勝ち負けみたいになるのはどうもよろしくない。両者が納得できる事が最重要というのが、僕の案です。それには、「私にはこの方法しかない/この方法は絶対イヤ」ということをお互いに捨てるのが近道と思います。
というやりとりで、私が、感じたのは、
『タクアンを美味しい、と言って食べる私。と、美味しいってあなたが思っているのはいいけど、好きになれないから食べないわたし。』が、
同じ食卓で、食事をすることがパラダイムシフトかな?って思いました。
『美味しいと思うから、あなたにも一緒のモノを食べてもらいたい』のではなく、『一緒に食事をして、共通して食べるモノもあるし、すごい好物、どうしても食べられないモノもお互いあるけど、相手に食べさせようと無理強いしない』
のがパラダイムシフトかなと。
この比喩での本質は「大事なのは同じモノを食べるかじゃなくて、同じ食卓で一緒に食べること」です。
食べると生きるは似ている気がします。


検討違いかも知れません。玄さん、パンダさん、忌憚なくご意見いただけると嬉しいです。

玄さんに質問ですが、
第三の選択肢にパラダイムシフト、は、したくてしているのですか?せざるを得なくてしているのでしょうか。

「したい」気持ちの方が、「すべき」よりも勝ることはありますか?

私の好きな人も、パラダイムシフトが習い性になってるんだろうな、と思うことが多いので、聞いてみたくなりました…。

新月さん、コメント有難うございます。
パラダイムシフトについて、僕の感覚では「世界がガラッと変わる」感じの認識の大変化という意味で使いました。

「食の好みが違うけど一緒の食卓」の例は、第三の道としてとても良いと思います。
パラダイムシフトというには大げさかもしれませんが、本人同士にとっては、「同じものを食べるべきvs絶対ムリ」と思っていたことができるようになった、「上手くやっていける一つの前進」として共有できればいいのだと思います。

パラダイムシフトには、僕の感覚では、痛みを伴います。
それまでやってきた自分ルールをメリメリと引き剥がして、新たなルールを導入して知識との整合性をつける作業です。
しないで済むなら済ませたい、というスタンスがどうしてもあって、それは見た目には「頑固」なのかもしれませんね。

玄です。
パンダさんの「「頭じゃ分かっても、身体が言うことを聞かない」とか「そうかもしれないけど、気持ちがついていかない」とかそんな矛盾をいろいろ抱えて生きている」という部分、基本的に一緒だと考えていいと思います。比率とか濃さとかが人によって違うというだけで。
まあ僕は、理性的考え方のリミッターを外しているようなアレですが。(^^;)

吉田松陰さんの話の中で、パンダさんと僕の違いがあるとすれば、僕が「勝手な」ワールドと読み取ったのに対して、パンダさんは「一般の価値観」を感じ取っておられるというところです。
そういう風に、今の感覚ではありえないことなのに、「ああこれは一般的だ」と思えてしまうのが不思議です。
自分の価値観でなく、「周りのみんながそう思っている」という幻影に流されてしまうというのが、日本人の特徴なんでしょうが。(僕も日本人ですが)

新月さんからの質問に答えていませんでした。
パラダイムシフトは、自分が正しいと信じて守って来た「自分ルール」をご破算にするということなので、できればしたくないのです。
ですが、切っ掛けは外側にあるにしろ、自分が主体的にルール改訂をしないと、パラダイムシフトは完成しないと思います。強制された変更は、不完全だったりひずみを残したりしそうです。

そう考えると僕は、「自分ルール」よりも上位に歩み寄りの前提」があり、ルールを決めるのも変えるのも主である自分という位置づけをしているということになりますね。

新月さん

 食卓を共にする、という例、いろんなことに使える分かりやすいいい例だなと思いました。
 何よりも「違う者同士が一緒に生きていく」ということのひとつの形が見えますよね。

 あと、定型とアスペのカップルで生まれやすい問題としてイメージする例は、
 ちょっと漫画化した表現ですけど、
 定型の側が「愛し合うふたりはラブラブでひとつのフルーツパフェを二人で食べる」
 という思いを真剣に持っていて、それに対してアスペの相手の人は
 「一緒のテーブルでそれぞれ別々に食べる」ことが当たり前と思っていて、
 それを言われた定型の側が「だって、一緒のテーブルで食べるだけだったら、
 たんなる友だちと何も変わらないじゃない」と悲しむんだけど、
 アスペの側は「一緒に食べることがすごく大事なことじゃないか」と感じている。

 なんか、そういう感じのズレの場面でしょうか。
 

玄さん

 「パンダさんの「「頭じゃ分かっても、身体が言うことを聞かない」とか「そうかもしれないけど、気持ちがついていかない」とかそんな矛盾をいろいろ抱えて生きている」という部分、基本的に一緒だと考えていいと思います。比率とか濃さとかが人によって違うというだけで。」

 ああ、やはりそう理解していいんですね。私の場合「比率」とか「濃さ」といった
 「量の違い」に加えて、そういう「量の違い」があるが故に、
 生き方や見方(玄さんの言葉で言えばパラダイムでしょうか)にも
 違いが出てこざるを得ない、ということはあるように思えて、
 その辺をずっと考えているところです。

「吉田松陰さんの話の中で、パンダさんと僕の違いがあるとすれば、僕が「勝手な」ワールドと読み取ったのに対して、パンダさんは「一般の価値観」を感じ取っておられるというところです。」

 えっと、あと松陰さんではなくて、松陰さんのおじさん(玉木文之進といったと思います)
 の話なんです。松陰さんは切腹ではなくて、幕府に首を斬られてなくなりました。

「そういう風に、今の感覚ではありえないことなのに、「ああこれは一般的だ」と思えてしまうのが不思議です。自分の価値観でなく、「周りのみんながそう思っている」という幻影に流されてしまうというのが、日本人の特徴なんでしょうが。(僕も日本人ですが)」

 なぜそこに「当時の一般性」を想像することが出来るか、という問題は
 結構奥の深い問題ですよね。
 さらに一般的に言えば、「そもそも他人がどう考えているかなんて
 誰がどうして分かると言えるのか」ということにもつながる問題だと思いますけど。
 でも少なくとも「一般的」と感じる心の働きが現にあることは確かではないでしょうか。
 その「感じ方」に対して慎重かどうかと言う差は人によってあるにしても……

 そういう心の働きがないと、そもそもこういうやりとりすら成り立ちませんし、
 ほんとにシンプルに理屈の世界で考えれば、「完全な理解の一致」はあり得ないし、
 かといって「完全な個人的世界」も不可能だということになると思います。

 あとは「個人」の側面にこだわるか、「関係」の側面にこだわるか、
 そういうその人の重点の置き方の違いの問題以上のことではなくて、
 さらになぜそういう重点の置き方に定型とアスペでかなりの違いが出来るか、
 ということもそれぞれが生きている状況を考えてみると、
 結構わかりやすくなるように思います。

玄さん
お答えありがとうございます

パラダイムシフトについて、やはりいろいろ考えさせられます。
玄さんのおっしゃる、外部からの「引っ掛け」を私は「無意識にフックしてきた要因」と捉えています。嬉しさ、怒り、悲しみ、様々ですが。

なぜ「フックするか(嬉しいか、怒るのか、悲しむのか)」は玄さんが常々おっしゃるように、「自分の問題」で、「自分の受け止めかたに原因がある」ように私も思います。

だから、「自ら」「望んで」、パラダイムシフトが必要だと考えるのかも知れないと思うのですが。

すごく乱暴な質問ですが、例えば、連れ合いのかたに、
「私といる時は、パラダイムシフトは必要ないから、自分ルール(王国憲法)で過ごして欲しい。それが私の望みです」と言われたとしたら、玄さんは
逆に迷惑だったり、困ったりしますか?

不躾で恐縮ですが、もう一つ、
玄さんは無意識に欲してることを意識化しにくい(しない方がいいと自分でセーブする)経験はありますか?

私はたまにある気がします。

思想混乱中です(^_^;)
しかも玄さんのコメントを自分が、今気になる(自国ルールや自国の事件…汗)解釈で、一方的に聞きたいことばかり質問してすみません。

パンダさん、ありがとうございました。
パフェの例え、ツボです。
「友だちと変わらないじゃない」「一緒に食べてるのに?」
ズレはたぶんそこかも知れないですね。

最近いまさら、あらためて、「私の普通」と「他者(AS、定型だけじゃなく)の普通」は違うなーと痛感します。私の好きな人は、私が思うよりもずっと、苦労したり、孤独を感じていると思います。

パンダさんは日々その繰り返しと思いしらされ感に翻弄されているのだろうな、と思います。
なんかまとまってなくてすみません。


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