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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年8月18日 (日)

「苦しめる」人の苦しみ

 

かずきさんの生々しい体験をコメントで拝見して、改めて自分はアスペの方の抱えている辛さを理解できていないんだなあと、そのことを感じて、パートナーに「○○さん(彼女の名前です)も、こんな感じになったりするのかな?」と今更ながらに聞いてみたんです。そしたらやっぱり「そんなこともわかってないのか」という感じの反応でした。

 身近にずっと一緒に暮らしていても、彼女がどういう思いでああいう表情になるのか、言葉に詰まるのか、あるいは突然にきつい言葉が出てくるのか、といったことが実感としてぴんとこないまま、ただ「なにかしんどいんだろう」ということを中身が分からないままに思うだけだったんです。もしかしたら私という個人がものすごい鈍感なのかも知れませんが、いずれにしても、そのしんどさはたとえばかずきさんが表現して下さったようなことだったりするわけですね。

 とはいえ今でも自分が十分に理解できているとは思えなくて、なぜそこまでそこで緊張されるのか、ということが「なるほど、そりゃ緊張するのは当然だよな」というところまでは分からないままです。わかったのは「そこまでの緊張を抱えてしまうんだ!」ということまでですね。でもそこまでだとしても、なんかパートナーに対する見方もまた大きく変わった気がしています。

 もちろんかずきさんも書かれているように、やっぱり「お互い様」ということはあって、

 「「たったそれだけの事」で「ASに傷つけられた」と被害者ぶる定型。「たったそれだけの事」で被害妄想のように「ASのせいで体調を壊した」と主張しASを追い詰める定型」

 と言う風に逆にかずきさんには定型のことが感じられたりするようですから、定型が感じる、鬱になったり自殺を考えたりというところまでも追い詰められるようなつらさは、アスペの方には中々具体的には伝わりにくいのだなあとも思います。「自分の辛さはよく分かるけど、特にその人に苦しめられていると思う相手が抱えている辛さを理解するのはむつかしい」ということはほんとにみんなそうなんでしょう。

 考えてみると、定型は「他者を思いやること、共感的に相手を理解することが上手」ということになっているわけですけれど、でも定型=アスペの関係の中では、どうにもその力が発揮できないわけですよね。そこでの「理解力のなさ」に、定型・アスペ間で違いがあるんだろうか?とそんなことも考えました。結局お互いに、自分の気持ちの動き方をベースにして相手の人の気持ちの動きを理解するわけで、その動き方がわりに共通している者同士では「理解力がある」ということになって、違う動き方をする人たちについては「理解力がない」と見えてしまう。そういう面が大きいんじゃないでしょうか。(いや、これは私個人の鈍感さの問題かもしれないので、そうだったら済みません m(_ _)m )

 改めて自分がパートナーを大事にするってどういうことなんだろうと、そういうことを考えさせられています。(考えるばっかりで、実効性がないじゃないか、とか彼女に言われてしまうかも知れませんが (^ ^;)ゞ)

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コメント

トマトです。

いやぁ〜、私もかずきさんの今回の「その場面の心理描写」には、ASと関わる全ての定型の人に読んでもらいたいほどの、ASのコミュニケーションのシステムや苦しさへの解りやすさがあり、改めて目からウロコが落ちまくりました。

やはり定型には、これでもかという細かい説明、具体例が効きますね。

かずきさんのご主人の、徐々にかずきさん対応を身につけようとされている心掛け、なのに気を緩めた途端口に出る、定型ならではのニュアンス曖昧語。
かずきさんからの、ご主人への感謝や、やっぱり理解しにくいテイガタ語への戸惑い。

車中の空気感に、私も手に汗にぎりました。

プルーンさんの実録。かずきさんの実録。するりさんのリアルなメッセージ。
専門家の書よりずっと、ASと定型の関わりが理解出来ます。
こちらの「たったそれだけ」が相手には大打撃。
ASと定型の関係性からは、全ての人間関係に関わる自分の鈍感さが改めて浮き彫りになる気分です。

友人AS君が言ったんです。
「僕は相手の表情から瞬時に何かを感じられない。でも、他の人も僕の気持ちだけ感じ取ってくれない。だからイヤな気持ちになったとき「気持ちの警報」としてウルトラマンのタイマーみたいに、身体のどこか一部がピカピカ光ったり、ブーっという音が出たら良いのに、そしたらお互い気持ちのきっかけをつかめるのに」

今さらそんな言葉を、痛切に想い出しました。


プルーンです。

パンダさん、どうも私はこのブログの雰囲気を壊したり、このブログを訪れる方々の多くを傷つけているように思います。

トマトさんは、優しい言葉をかけてくださるし、玄さんはケーススタディして参考になるとおっしゃってくださいますが……。

かずきさんやするりさんのコメントに過剰反応しているようです。

パンダさんのブログは、女性がアスペルガーの場合、相手がアスペルガーかどうかも斟酌なしに、割と簡単に離婚されたりするように思える中、パートナーの方を気遣い、問題は何か面と向き合って追究し、論理的にまとめられているので、つい、お邪魔してしてしまいます。

なるべく、大人しく読ませていただいて、サラッとしたコメントを心がけますので、たまには、寄らせてください。

パンダさん

取り上げてくださってありがとうございます。

> 「「たったそれだけの事」で「ASに傷つけられた」と被害者ぶる定型。「たったそれだけの事」で被害妄想のように「ASのせいで体調を壊した」と主張しASを追い詰める定型」
 と言う風に逆にかずきさんには定型のことが感じられたりするようですから


ここはトマトさんの、「定型的感覚の「たったそれだけのこと」で寝込まれることの、訳の解らぬ罪悪感は、定型の理論的思考を歪ませます。」に対するもので、
ある意味で悪意を持った定型への歪んだ見方です。
私自身は、一方的にそう(お互いに)思うこと自体、よろしくないと思っているので
意識して悪意を持って思うとするならば。という感じでしょうか。

日常でこんなことは感じませんよ。
実際に「ASに傷つけられた」と感じたことは事実でしょうし
「それによって体調をくずした」と本人が思っているのなら
現実に何があったかではなく、「その人がどう感じたか」が問題だと思うので
「そうなのだろう」と受け取るだけです。
相手がどう考えてそういう受け取り方をされる言動をしたかは、片方の言い分では判断できませんし
推測でこうだったんじゃないか、ああだったんじゃないかと言っても
それは推測の域を出ません。だから無責任な同意は出来ません。
「その人がそう感じている」という事を知れるだけなので「あなたはそうなんだ」と思いますが、通常ならそこまでです。
そう感じていること自体を否定するのは、人間関係を悪化させる手段でもあるので。

と、ここまで書いて気付きました。
推測でも、無責任な(と書くと棘があるかもしれませんが)ものでいいから、
今回プルーンさんは「同意」というか、「共感」して欲しかったのですかね?

もしそうだとしたら、申し訳ないことをしました。
こういうところに、ここまで来ないと気付けないのが嫌になります。
私がASなのだと思い知らされる瞬間です。

トマトさん
>やはり定型には、これでもかという細かい説明、具体例が効きますね。
これ、ASには、に置き換えても言えますね。
玄さんの仰るLow contextでしょうか。

私はおでこに電光掲示板が欲しかったです(笑


プルーンさん

その前のやり取りで精神状態にあまり余裕が無い中でのコメントでした。
そのこと自体、プルーンさんには関係の無い事ですのに、
大変なご迷惑をおかけしました。
あと、傷ついたと教えてくださって、助かりました。
ありがとうございました。

私のブログではないのですが、また、
「ASパートナーに苦しむ定型」としてのお話や
「AS子の定型親」としてのお話を伺えたらいいなと、勝手に思っています。

かずきさん

先程は勝手に巻き込んでしまってごめんなさい!!
無粋なことをしたものだと反省中です…
どうも「ある程度感覚が分かるタイプの人」が、誤解されていると感じると、居ても立ってもいられなくなるのです。結果、ただのお節介人間になっちゃう私です。本当に申し訳ないです…

今回、アドバイスより共感が欲しかったのか…いや、確かに何回もASだけが辛いと思わないでくださいとおっしゃってましたが、「そんなこと思ってもいませんよ!3回も書いてるでしょ、貴方の辛さ、決して軽んじてません」と大真面目に切り返してた私って、相当間抜けな会話してしまってたってことですね…あーあ…。


つくづく、字面人間だと思い知りました…。

かずきさん

 かずきさんのコメント全体の流れの中で、あの表現の仕方は
 ちょっと突出した感じだったので、どういう背景的な意味で書かれたのかなと
 そこは「分からない感じ」を抱きながら、とりあえず
 「字面から大きく外れない理解」で書いてみましたが、
 かずきさんが改めて説明して下さったことから言えば、
 ちょっと「字面」にこだわりすぎた嫌いがありましたね (^ ^;)ゞ

 と、いうことは、文脈を読むことがうまいはずの定型なのに、
 逆に文脈を十分に読めずに、「字面」に引きずられたことになるわけですが、
 こういうことを考えても、やっぱり「定型の特徴」とか
 「アスペの特徴」と一般に言われていることについては、
 あんまり固定的に信じ込んでしまわないほうがいいと分かりますね。
 (いや、単に私が定型の中で特別に文脈を読めない奴なのかも……)

 いずれにせよ、プルーンさんとのやりとりを拝見していて、
 かずきさんがまた「冷凍庫」があふれてしまって大変になられていないか、
 ちょっと気になっていたのですが、今日の一連のコメントを拝見していると、
 そういう印象はなくて(単に感じ損なっているだけかも知れませんが)、
 むしろかずきさんのある種の「たくましさ」を感じてしまいました。
 「女子三日会わざれば刮目して見よ」とか思ったりして (^ ^;)ゞ

 改めて「アスペ」の方のイメージを柔軟に豊かにしなければ、
 と思わせられることでした。

プルーンさん

 私如きが申し上げて失礼に当たれば申し訳ないことですが、
 プルーンさんのほんとうに厳しい状況は私にも私なりに伝わってきますし、
 よくその状況で頑張ってこられたと、頭の下がる思いもします。

 本当に大変な中、ご無理はもちろん申しませんが、
 私の勝手な印象では、ここでコメントを下さるアスペのみなさんは、
 たとえお互いのズレによって衝突が生まれたとしても、
 そのことに誠意を持って向き合おうとされていると感じています。
 場合によってその表現にまたお互いのズレが生まれたりとか
 そういうことはありますけれど。

 ですから、プルーンさんのお気持ちが許す範囲で、
 これからもぶつかりながらも前向きなコミュニケーションを
 模索する場として、ご参加いただければうれしいです。
 もちろん、呉々もご無理のない範囲でですけれど。

するりさん

むしろプルーンさんもごらんになる場所で
欲しかったのは共感?とか聞いてしまうのも定型的にはあり得ないんでしょうか。

辛そうだし苦しそうなのはわかるよ、だったらこんなのはどう?
の、前半をもっと言葉にして丁寧にお伝えすれば良かったのですかね…

はぁ、もう、こんな配慮出来ない自分が嫌いです…

確かに、考えてみれば

自分が何をしても何をやっても苦しみは無くならなくて
だからといって逃げることも許されず
改善しようと起こしたアクションでさえ事態の悪化を招き
誰も助けてくれず
誰も分かってくれず
所詮人は他人事
八方塞がり?いやいや、全方塞がり
自分の周りにある球体の網からは
逃げ出す事も立ち止まることも、隠れることも許されず
楽になる方法で思い浮かぶのはひとつだけ

そんな状態だった頃、私のコメントのような事をぶつけられても
到底私も受け入れられなかったと思います。
この状態が、プルーンさんに通じるものが少しでもあるのなら
プルーンさんの反応は、とても大人な対応に思えます。
私には「噛みつく」ように見えなかったので…
確かに感情的ではありましたが
「私は悲しかった」とIメッセージ(私はこう思う)なので、
相手を非難?攻撃?しているとは私には読みとれないです。
…私の読解力の問題ですかね…
課題は山積みです。

パンダさん

定型は文脈を読むのが得意、と言うのは
定型は「定型の」文脈を読むのが得意という、定型の、の部分が省略されていると思っています。
ASは、「定型の」空気が読めない事が多い
「定型の」文脈や行間が読むのが苦手

逆に言えば、
定型はASの空気や行間を読むのは結構大変そうですよね。
夫は「なにが?え?なぜ今それ?って言うか何でそれが疑問?」ってなります。
とっさに出た言葉なら、かなりの混乱状態だと思うのですが、
それに対して行間や言外の意味を細かく説明すると
「ああ、そう、そうか」と、繋がる?知る?事が出来るようなので。

今回、復帰してから一貫して、ですが
少し悪意ある表現が押さえ切れていない部分があると思います。
まだまだ未熟だな、と反省しています。
ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

冷凍庫の件、心配していただいてありがとうございます。
新たに凍らせることはもう出来ないですし
(多分少しでもあけたら取り返しの付かないことになりそうなので
入れるために開けるのも嫌なんです。希望のないパンドラなんです。)
確かに動揺しましたし、しばらく手が冷え切り
更に震えてタイプミスが多いので一度はウィンドウを閉じましたけど
正直な所、どんなに疲弊していても、
この位の感情のぶつかり合いでダウンしていたら日常生活回りません。
今回は、文字のやりとりであって、音声のやりとりではないのと
耳は良すぎるのに聞き取れない視覚優位なので
面と向かってのお話なら、対応しきれなくて
その後寝込んでたかもしれませんが、私自身反省点が多々あるので
それは自分からの逃げだと思います。

「たくましさ」そう表現してくださったのは初めてです。
「ずるい」とか「卑怯」とは言われたことがありますか。

うまく表現できませんが
心がピューレ状なんです。
これ以上刃物が来ても、突起物が来ても、痛くないし傷も付かない。
踏みつぶされたら、形が崩れちゃうので、復活まで時間がかかりますけど。
逆に形を整えようと、熱を加えて固めようとしてくださる事は
有り難いご好意と分かっては居ますが…その後の刃物を考えると
ピューレ状で居られないのは…覚悟が要りますね…

…このたとえ、理解されたことがないので伝わるのかもの凄く不安ですが…

そもそも、受け取れていない感情も大いにあるかと思うので
実はパンダさんが感じたものよりも、穏やかに受け取っているかもしれませんね。

ごめんなさい、同じ事を書いている部分がありました。
確認不足です。失礼しました。

かずきさん

 「定型は「定型の」文脈を読むのが得意という、定型の、の部分が省略されていると思っています。ASは、「定型の」空気が読めない事が多い「定型の」文脈や行間が読むのが苦手。」

 これは全く同じ事を私も考えます。やっぱりそうなんですね。

「心がピューレ状なんです。これ以上刃物が来ても、突起物が来ても、痛くないし傷も付かない。踏みつぶされたら、形が崩れちゃうので、復活まで時間がかかりますけど。逆に形を整えようと、熱を加えて固めようとしてくださる事は有り難いご好意と分かっては居ますが…その後の刃物を考えるとピューレ状で居られないのは…覚悟が要りますね……このたとえ、理解されたことがないので伝わるのかもの凄く不安ですが…」

 私の理解はすごく即物的にイメージしてみた感じですが、かずきさんの気持ちをシャーベット状のトマトピューレのような状態としてみて、そこに刃物をぐさぐさと刺してみると、まあ刃物は刺さるんだけど、でも抜ければ元通りでトマトピューレはそのまんま。それを熱を加えて(あ、シャーベットだと熱を加えたら固まらない! (^ ^;)ゞ )固めてしまうと、今度は刃物が刺さるともろに切れてしまってダメージが直接心を傷つけてしまう。と、そんな感じで「理解?」しました。そんなイメージでいいのでしたら、私なりによく分かる感じはします。

 定型の場合、多分そういう傷つき方を避けるために、これも比喩で言えば「盾」を、しかも何重にもした盾を使ったりするんだと思います。それがよく言われる言葉で言えば「本音と建て前」の「建前」の部分ですね。そうやって盾を使って適当に相手の剣を避けながら、少しずつ盾を使わなくてもいい避け方をその相手について学ぶか、あるいはお互いに剣を使わない関係を確かめて作っていくか(これはお互いが信頼関係で結ばれることを意味すると思います)、そんなことをするんだと思います。アスペの方が定型のやりとりに「何が本音かわからない」と感じられたりして、しばしば深い不信感をもたれるようですけれど、おそらくそういう「傷つけられることを避けて、限られた人との間で信頼関係(仲間関係)を作ろうとする過程」を見られてそう感じられることも多いのかも知れません。

かずきさん、そこまで気にされなくても大丈夫だと思いますよー。
出してみて周囲を見て「こういう反応もあるのか」と一応知ればそれで。あまり皆が計算しすぎた意見を出して、それが「ASの基準」になったり、(定型流に)傷つきやすい定型が「定型の基準」になったりするのもまた双方に困ったことになるかと……。

ここは互いにすりあわせ術を覚える場のようですし(?)、傷ついた方はその都度「傷ついた」と表明すればよいのではないでしょうか(定型側はそこからなじる意図を読み取ってもらえるとは期待し過ぎず)。あまりに深くすれ違ったら怒ったり去ったりする人も出るでしょうが、それはそれで一種のメッセージになりますし。プルーンさんはちゃんと言語化できる方ですし、ご自分の書く場もお持ちですから発散の仕様があると思えます。それに、あ~ずれちゃってるな~と、傍から助け船を出す人だってきっといますし!(僭越ながら私めもご協力をば)

ピューレ、小分けしておくイメージにするのは無理でしょうか。全部ひとまとめでは危険度が高すぎませんか?


するりさん、傍から「お・おもしろい」と思って見てしまいました(双方の傷ついた方をあざ笑っているわけではありません。私はどちらかというと裏の意図盛り盛りの計算人間なので、加工し過ぎないコミュニケーションを見るのが面白いです)。ずれ方が見える形になるのもまた大事だと私には思えます。私も、居ても立ってもいられなくなる派です(笑)

プルーンさん、読んでいらっしゃるかわかりませんが。そしてまた余計なことを書いて傷つけてしまったらすみません。どちらでコメントしようか迷いましたが、家に乗り込まれたようにお感じになるおそれがありますので、私もこちらに書いておきます。

「アスペルガーの言うことを感情的気受け止めるな」(原文ママ)が私の発言のことでしたら申し訳ありません。正確なところをお伝えできなかったとしたら残念です。「ASの文から情に訴えて説得しようという意図を読むのは誤解ですよ」「情に訴えてASに伝わるとお思いになるのは(伝わったと判断した上で傷ついたり反論なさったりするのは)誤解ですよ」という意味でした。やはり、文脈の読みがずれるのですね。私は普段、定型度の高い友人たちとのやりとりで、そこまでずれを生じたことはないので、無自覚でした(私の困り感は主に意思疎通以外の面にあります)。ともかく、簡潔な説明はぶっきらぼうに見えたり、そこから怒りを読み取ったりするでしょうけど、そういう意図は無いですよということです(少なくともあの場合は無いと思います)。取扱説明書が簡潔な文だからといってそこに怒りを読み取る必要はないのと同じようなものです。また、私は、そうした簡潔な文にこそAS側の誠意も入っているとさえ思います。違いを説明する場合においては、持って回った文では伝わりにくいだろうという。それが定型側に通じるかは別問題として……。

ちなみに、私をASとお思いになるとさらに誤解が生じるかもしれませんので、「一応定型」(定型の変人。主治医にはそういう扱いもされています)が書いたものくらいに取っていただく方がプルーンさんのためにも他のみなさんのためにもよろしいかと存じます。どうか、少しでもお楽になれますように……。

>帆掛け舟さん


いやいやいや、ちっとも気分害してませんよ~、だって本当のことなんだから(笑)
自分でさえ一連の流れを受けて「なんだ、この一人コントは」と脱力したくらいですから、「傍から見たらおもしろい」は当たり前の反応だと思います(笑)

帆掛け船さんの清涼感というか、透明感の中に、温かさがあるコメントに癒されました。

「ASは定型に配慮してもらって当たり前だと思っていらっしゃるのでは」

「辛いのはASだけではないんです」

に、「そんなこと言ってないどころか思ってもいないよ!!」と私は主張し続けましたが、ようやくどこでズレがあるのかが分かりました。


誤解を恐れずに言うと、私はまさか、「自分を日常的に悩ませ、混乱を招いている諸悪の根源」としか言えない特性を持った人達(AS)相手に、「私に同情してください」「共感して下さい」という欲求を定型の方が持つとは、夢にも思わなかったです(皆が皆ではないでしょうけど)

私もASですが、わりと同意や共感が欲しいタイプの人間ではあります。

でも、自分とタイプの近い人や、タイプは違っても「ああ、なるほど、私とあなたは違うけど、あなたの言うことも一理ある」というスタンスの人からの同意や共感は期待してしまうところもありますが、「言っても埒があかない」「立場も違うし分からないだろう」と判断した人には、あっさり(精神面での)撤退というか線引きをしてしまうというか。


だからと言って仲がめちゃくちゃ疎遠になるわけでもなく、一緒に仕事したくないというわけでもないというか。

単純に「ああ、その方面は共有できないな。じゃ、そこは切り離して。他はとてもいい人だし」になっちゃうんです。


こういう例えはどうでしょうか。自分が原爆の被害者だったとして(被爆者の方がいらしたら申し訳ありません、他のたとえが思いつかなくて)、世界各地で原爆の悲惨さを訴える、また、それを使われてしまうに至った時代の背景(軍国主義)とかを説明する活動をする、とします。

でも、原爆を落とした当事者国である「アメリカ」でそれを訴えるのは相当難しいことだと思うんです。

実際の被害、客観的事実は相手に説明すべきでしょう。場合によっては他の国よりも時間を割いて説明することも必要だと思います。原爆を落とした、当事者国なのだから。

だけど、そこに「感情」を「過度」に入れて「アメリカ非難」をしてしまったら。どうなると思います?

そこには「自分の身内を日本兵に殺された人」「捕虜になって壮絶な体験をした人」もいるかも知れない。当たり前です、戦争は、自国だけでなく相手国も大量の犠牲を出してしまうものなのですから。

そうなると、「自分達だって大変な目に遭った」「先に真珠湾攻撃をしてきたのはそちらだろう」とか、色々言い分が出てきます。それぞれの立場で。


「傷ついたのは私だ」「いや、私こそ傷ついた」「いや、私の方がもっともっと傷ついた」を繰り返してても有益でないし、何より、自分の目の前にいるアメリカ人には何の罪もありません。その人が原爆を落としたわけではないのです。

原爆を落とされた国の国民なのに、「表立ったアメリカ嫌い」がそんなにいないのは、先人達がこういう線引きを相当努力してしてきた結果なんでしょうね(ちなみに、私自身はアメリカ好きでも嫌いでもないです)

事実を伝えたり、意見交換はしても、そこで感情的にならないように、「仮想の敵」にしないように、注意を払うことこそが「誠意」だと(AS、定型抜きにして)、私は思います。

・・・また変な方向にずれたかな?

するりさん、面白さの件、他意なく伝わって嬉しいです!

いや、実は、私としては定型がASに共感を期待したというよりは、「私に共感できない人はコメントしないで欲しい」「共感してくれる定型からの慰めだけ欲しい」まで感じてしまうのですが……。質問の形を取った拒否というか。ASも交ざっている場で?それは明記しないと多くのASは読み取れないのでは、別の場で語る方が望む答えは得られやすいのではと思うのですが、それだけ切羽詰ってらしたのだろうとも思います。具体例を事細かに書きすぎると、具体的な提案が欲しいように見えてしまう危険性も上がる気がしますが(特にASには。定型でも男性にはそう取る人が多いような気も)。

AS・定型問わず誰であっても誤解で傷つくのは望ましくないので、まずは心を鎮めなくては……特に定型は心情が落ち着かないことには話を聞けないものだし、と動いてみました(残念ながら無駄足でしょうか)。ご本人だけでなくご主人や、何よりお子さんも心配でした。荒れの連鎖については身をもって知っていますので。また、こういうすれ違いは将来お子さんとの間で起こる可能性が高いのですが、お伝えしきれたのか不明です。

私も同意や共感してもらえると嬉しいタイプです。でも、共感ありきで話をすることには抵抗感があります。気心の知れた内輪での雑談ならともかく、他人同士で意見や知恵を出す場ではひとまず共感欲求は脇に置くようにしています。他人に意見を伝えたい場合、感情を理由にしても説得力は低いですし。「これ欲しーちょーだい!私が欲しいんだからいいでしょ!なんでダメなの?ケチ!」が人を動かせないのと同じことですね(ま、びっくりすることに、こんな台詞を平気で吐く大人はいますけど(笑))。

原爆のたとえ、わかります。

>「表立ったアメリカ嫌い」がそんなにいない

理由としては、先人の努力もあるでしょうけど、敗戦した側だからとか、あちらの文化がそれだけ魅力的に映ったからとか、軍事力や経済力を当てにせざるを得ないところがあるから、などなども思います。長いものには巻かれろで。その点、ASと揉めた経験のある定型にとってASは有用な存在ではないのですから。個人的な敵意をAS全般に拡大してしまえる(?)のが確かに不思議ではありますが、理性ではどうにもならないのでしょう。

トマトです。

定型感覚のコメントの形のひとつ・・・として参考にしていただきたいのですが、
現実の日常生活で、カフェに大きなテーブルがあるとします。そこに7人ほどの定型の複数客が席に着く。とします。知り合い同士も入れば、初対面の人も居る。

隣同士が世間話をしたり、独りで本を読んでいる人も、ぼんやりお茶を飲んでいる人も居る。

ところが世間話をしていた1人が突然、身の上話の苦痛をちょっと声高に隣の知人に訴え出します。
「えっ?」と、他の6人も、その1人に注目します。

訴えている人はすでに感情的になって、他者の視線を気にする余裕が無く、自分の身の上を隣の知人に泣きそうになりながら語り続けています。

内容を聞いているうちに人の感想は、一人一人様々に違ってきます。

同じ経験があり身につまされる人は、無意識にさかんにうなづき
共感力の強い人は、もらい泣きという状態になり、
全くそんな経験の無い人は、始めて聞く話としてなんとなく聞いている
意見や反論が生じた人は、固い表情になる
「あーあ。せっかくのんびりくつろぎにきたのに、何だよこの空気は・・」と、しらけたり苛ついたりする人もいる
「そんなことくらいで。自分はもっと大変なのよ」と思う人もいる。

このように、個々の自分の感情や考えを持つのに、目の前で懸命に自分の苦痛を語っている人を見ると、定型は、自分自身の意見や感想や感情を二の次にして、いったんその場の空気感をその人に譲る・・・という行為をしちゃうと思うのです。

譲る・・というのは、自分の感情や意見を押さえ込むというより、自分のそのときの感情や意見は自然に「潜在意識」として意識下に沈み込んでしまい、自覚できる表層意識としては「大変そう、ギリギリいっぱいの状態なんだなぁ」という「とりあえずの受け入れ感想」が現れる。
これを、定型は空気感の共有として、無意識ながら団体戦で行なえちゃうのです。

この打ち合わせや約束無しの、その場で生まれる団体の「とりあえずの受け入れ感想」が、定型の一般的な共感、フツーの対応、思いやり、などという形になっていると感じます。

つまり定型は、感情的な要素の強いコメントには、内容、表現の精査や自分の意見より、とりあえず「受け入れて」とりあえず「共感」に引きずられ、とりあえず「気分が落ち着いて欲しい」やらその先の「慰めたい、励ましたい」という感情の手順が本能的にあるのだと思います。

家族や親しい間柄なら「なんだ、こんなことで」とか「世の中にはもっと大変な〜」とか「おまえだけじゃない」などという「とりあえず方式」を飛び越せる関係性もありますが

そうでなければ「とりあえず、感じてしまう、相手への優先順位」は、定型特有の社会性のひとつとして備わっているものと思います。

ASの人も「いや、自分も充分、そのような配慮はして対応やコメントしている」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうし、実際、そのようにできてらっしゃる方も多いです。

が・・・「とりあえず」の時間的感覚が、意識して頑張っている分ASの方が短いかなと感じるのです。
「ご同情申し上げます。しかしながら・・・」という進め方と、「同情やねぎらいのみのコメント」をその人に贈り・・・・その人と少し柔らかいやり取りをして現実生活でもブログ上でも、馴染みを感じて、それから「自分の意見を言ってみる」という・・・間合い・・ですかね。

この間合いを「とりあえず」という歩調で図って、他者と親しみや信頼感の距離を縮めていくのが定型だと思うのです。

ブログという、文字化のやりとりの場ですから、この「間合い」をとるのは難しいのかも知れませんが、逆に言うと実生活の定型とのやりとりで「間合いをとる」より簡単かも知れません。

感情がいっぱいいっぱい状態で、状況や感情吐露している定型は、「私のコメントにご意見やご質問があればどうぞ」というスタンスはまず無くて・・・(←ここのところのご理解を帆掛け船さんがしていらつしゃいました)

見ている人に「こういうケースもあるのです」ということを「伝えたい」「聞いて欲しい」という無意識な吐き出しと「自分のコメントから他者が何かの気づきや発見をしてくれることを潜在的に期待して」コメントしているので
まぁ・・・・反論や持論を返すときは「とりあえずの間合い」をとっていただけると、定型は比較的落ち着いて答えられるし、「ごめんなさい、もう来ません」みたいな気分にならないだろうと感じた訳です。

       

トマトさん、
こんにちは。空気を譲る、実社会では(まあ割とネットでも趣味の場などでは)私は普通にやっています~^^一応できなきゃ無理なバイトもしてますし。そこそこできるからAS判定がちゃんと出ないのかもですけど(張り合っているんじゃなくてそういう人もいるっていうご報告です)。

私としては、

>身の上話の苦痛をちょっと声高に隣の知人に訴え出します

の段階でちょっとドキッとはしますけど。それも空気の乱れなので。でもそれだけ辛いからこそ制御できないだろうなともやっぱり思い、調子を合わせておきます。まあ身の上話の人が去ったあと周囲がどう反応するかも知っていますけどね^^;

私の切り替えが早すぎと映ったようですが、あれは意図的なんです~。双方の感覚がそこそこわかる者としては、定型の慰撫や誤解を解くことと同時にAS側の防波堤にもならなくては!というのが喫緊の課題(笑)でした。かずきさんも余裕のない中で書かれていますから。定型もASもどちらも崩れそうで危ない状態だったんです。特にかずきさんはご自分のブログをお持ちでなく、他に吐き出し口や参考先がないようですし。

私の場合、個人あてのメッセージの形を取ってはいても、他の方々が読むこと前提で書いています。慰め専門は定型の方にお譲りして私はとりあえず双方溢れないようにと思ったのですが、定型の方が出てこられなかったですね~。でもご本人のところで慰めてらしたのでそれはそれで大丈夫でしょうとも思いました。

こちらを読んでいるASの中には場の空気に合わせるのが苦手な方も多いだろうと思うので、その中で明文化されていない定型の作法を察してくれというのは少し酷な気もします。できないからこそ悩んでここに来ているわけですから(私の目的は別のところにあります。人の心理や異文化交流やコミュニケーション全般への興味といいますか……)。

定型は共感して話を聞いてほしい・定型からの反応だけが欲しいのか明記し、ASは忌憚ない意見が欲しいのか先に尋ねる方がトラブルは少ない(それに対して不要な場合定型はハッキリ「意見や提案はいりません」と言うことをお勧めいたします。その方がASも傷つかないでしょうから。むしろ後から「察しが悪すぎ、しょせんAS」と言われる方がよほど傷つくと思います)、かもしれませんね……。

帆掛け舟さん


>「私に共感できない人はコメントしないで欲しい」「共感してくれる定型からの慰めだけ欲しい」まで感じてしまうのですが……。質問の形を取った拒否というか。


これを見分けるの・・・難易度が高すぎます(-_-;)
だって、事細かに色々苦しみが書かれていて、「あ、ここで躓いているんじゃないか」「こうしたら良くなるんじゃないか」という改善ポイントがはっきりしているのにって思っちゃうんですよねぇ・・・。

例えるなら(例えが多くてスイマセン)、緊急搬送されてきた人を「うわ、大変ですね」とだけ言って、「でも、今は週末の真夜中だし、偉い先生もいなくて若手の宿直しかいない。月曜になるまでどうすることも出来ないなぁ」と実質、月曜まで放置してしまっているような気になっちゃうんです。
今、この場で明らかに弱っていっているのを見ながら、それを止めない。。

・・・。

「それでもいい」というのが世の中の主流なら、もうひたすら、「私には関係ないしお節介焼かないでおこう。ヘタに焼いて恨まれてもイヤだし。」という感じになっちゃうかなぁ。
なんか寂しいなぁ・・・。

>定型は共感して話を聞いてほしい・定型からの反応だけが欲しいのか明記し、ASは忌憚ない意見が欲しいのか先に尋ねる方がトラブルは少ない(それに対して不要な場合定型はハッキリ「意見や提案はいりません」と言うことをお勧めいたします。その方がASも傷つかないでしょうから。むしろ後から「察しが悪すぎ、しょせんAS」と言われる方がよほど傷つくと思います)、かもしれませんね……。

もうほんっと、これには激しく同意です!!!!! 

ただね、「貴方が欲しいのは提案ですか?それとも共感ですか?」とこちらが聞いて、「何言ってんだ、このバカは!」とキレられるのも困りますから・・・やっぱり基本的に、「ASあるある」「AS心理学」系の話題、そして当事者からの相談にはコメントしても、定型の方からの相談は控えようかな、と。


>私も同意や共感してもらえると嬉しいタイプです。でも、共感ありきで話をすることには抵抗感があります。気心の知れた内輪での雑談ならともかく、他人同士で意見や知恵を出す場ではひとまず共感欲求は脇に置くようにしています。


そうそう!あ、今、「そうそう!」と書きましたけど、こういう「話しの流れで自然とうなずくポイントがあった」的共感は、すごく嬉しいですが、強要される共感はイヤですね・・・というか、最近やたら「共感」「共感」という言葉を聞くような気がします。
ひと昔(10年前とか20年くらい前)って、こんなに「共感」「共感」言ってたっけ?と思う程。

なので若い人達が「共感がないなんてさみしい」「絆って大切」というのは分かるんですが、もう少し年齢のいった方々(失礼!)が、「共感」「共感」と言っていいるのを聞くと不思議な気持ちがします。

一体、この10年くらいで何が起こったのかと思う程です(すいません、これはただの興味です)


>トマトさん


おそらく、そういう「無意識の団体戦」的なものが繰り広げられていて、そこからはずれてしまって「一人コント」状態になっている状態が私には今までもあったのだろうな、と思います(笑)

で、「とりあえずの間合い」なんですが・・・どうなんでしょうね。

>ASの人も「いや、自分も充分、そのような配慮はして対応やコメントしている」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうし、実際、そのようにできてらっしゃる方も多いです。
が・・・「とりあえず」の時間的感覚が、意識して頑張っている分ASの方が短いかなと感じるのです。


と、フォローして下さっているように(AS全般で私のフォローではないのではないかも知れませんが、好意的に受け止めています・・・笑)
私も傍から見たら「あれで?」と思われるかも知れませんが、一応、「辛いお気持ちは良く分かります」という、「私なりの配慮」「私なりの一旦受け入れ」をした上で、話しを持って行って、「最初から持論」を言ったつもりはなかったんですね、あれで(^_^;)
ご指摘通り、超簡潔でしたが・・・

そして、おっしゃるようにあれですら、相当意識的にやっています。
決して「やってやってんだよ」という感覚ではないのですが、自分の素ではない、譲歩の部分はあります。

でも、この意識的にやった「似ているようで定型とは微妙にずれている私なりの配慮」が、却って定型の人のムカつき指数を上げているのだとしたら。

間合いをとっても「なんか違う」になってしまわないかなぁ・・・という思いもあるのです。

だからこそ、「なにぶん、自然のものじゃなくて見よう見まねだから、至らないところや不自然な表現もあると思う。でも、改善しようという気概が見えたら、そこはいじらしいなと思って欲しい」という言葉を以前にも書いたんですが、そういうと「ASは定型に配慮してもらって当たり前と思っているんでしょ!」と言われちゃうのかなぁ・・・。

世の中の99パーセントを占める定型に、「文句言うなよ。仕方ないだろう」と言われて折れていることの方が圧倒的に多いとは思うんですが・・・。

まぁ、その件はもう、諦めがつきました。諦めというか、悟りというのか分かりませんが、自分の中で消化しちゃったというか。

結論としては、「質問と見せかけた拒否」には関わらないことにするのが一番、ということで。

99パーセントってことはないでしょう。定型は全体のまあ、7割。
7人いたら、二人はなんらかの偏りがあって、残りの5人のうち二人くらいが声高に「多数派」を主張する、という具合だと思います。

するりさん

 横からちょっと失礼いたします m(_ _)m

 「間合いをとっても「なんか違う」になってしまわないかなぁ・・・という思いもあるのです。」

 ということについて、今回のプルーンさんとのやりとりにとりあえず限定して
 考えてみると、プルーンさんのコメントを待つ、という「間合い」の取り方だと、
 基準もはっきりしますし、やりとりとしても、現状のように、
 「一方通行」の感じになってしまうことがありませんから、
 ひとつの有効な手段ではないでしょうか。

 こういうところでもお互いに「一息入れてみる」って結構意味のあることかなと
 そんな風に思います。「一息」の長さがどのくらいになるのかは
 私には何とも言えませんけれども……

トマトです。

私の書き方が悪かったかもしれませんが、帆掛け船さんのコメントのタイミングは意識外だったので「えっ、そうなの?」という慌て具合で、前のコメントを読み直したりしていました。

で・・・改めて、帆掛け船さんやするりさんのコメントを読んで、確信したんですけど。
これは私の経験からもあったことなので。

これからの内容はASの方々に「そういう心境もあるのか、ふーん」レベルで聞き流していただきたいのですが。

ここのパンダさんちはブログ主さんが定型でありながら・・・両手を広げてASの方を迎えている・・スタンスがあると感じます。
と、同時に、ASのパートナーがいる定型としての思いをテーマごと投げかけておられるので、同じ立場の定型がとても強く感応したり共感したり(←あえて言いますが)して「ここなら自分の思いを受け止めてくれそう」というイメージで、痛みの吐露というコメントを出すと思うんですね。
で・・・ここから定型流なんですけど「痛い、苦しい」と言っている相手に、痛さを軽減するアドバイスが、傷に染みるという、より追いつめられた痛みになることもある・・・という選択肢なんです。

「痛い、苦しい」と言っている相手に「では、こうすれば痛みは軽くなるのでは?」と提案して「なーるほど、ありがとう」という救済場面もありますが
「これはひどい、痛いねぇ、苦しいねぇ、大丈夫?」と沿って「ありがとう、おかげで落ち着いた」という救済場合もあると思うのです。

そういう「そっちじゃなくて」という場面において、帆掛け船さんは、AS・定型の両者が納得しやすい通訳的なコメントをポンと置いて下さっていたし
するりさんは、やりとりの中で「ただ聞いて欲しかっただけ?」と、自ら気づいたりの選択肢を持っておられます。タイミング的にコントになったとしてもですよ。

で・・今後も、痛みに耐えかねたり、恋愛感情で揺れて混乱したりの「定型女性」が、このブログを見つけて感情的なコメントを寄せることもあろうかと思います。
そういうときの定型女性って、勝手な言い分ですが「ここなら(皆さんが)解ってくれそう」という期待(幻想とも言う)があるんですよね。

感情的になって「誰か、解って」と手を伸ばして助けを求めているスタンスの定型女性は、パンダさんの文章のソフトさに魅かれて、「ここにいらっしゃる優しい皆様、聞いて下さい」という感覚で「言えば伝わる」という無防備なダイビングになっちゃうように感じます。

ところがどっこい、感情のお姫様抱っこはしてもらえない訳です。
よょ・・と体が崩れかけても抱きとめ、背中をなぜさすってもらうより「ところで」と質問されたり「私はこう思います」と意見されたりするわけです。

そういうことに想定の無い、感情ダイビングのコメントをした定型女性は、慌てて態勢を立て直しながら、感情を整理して理性で対応しようとして、しきれなくなり・・なんとなく退場・・というパターンを過去から感じていたのです。

ですから、これはコメントを返された誰の落ち度でも間違いでもなく、あくまで感情的コメントで入って来る型女性の心情をひとつ代弁させていただいただけです。「ふーん」というレベルのことです。

ちなみに、自分の例なら、過去、何気なく「流されるだろう」くらいの気分でコメントした内容に玄さんから繰り返しの質問を受け、とても困惑したことがあります。
それが、玄さんといろんなテーマでやりとりしているうちに、玄さんの思考やなんとなくの生活背景が感じられて馴染みを持つと、自分のコメントに玄さんからの「自分はそうではない」が入ると、なんだか嬉しくなるというか、晴れがましいというかの不思議。
するりさんも、出会いの頃は「折り合いがつかない相手ではないだろうか」と思っていたのが、今は「実際に会ってみたいなぁ、」と思う親近感。

相手のプロフィールに触れ、コメントに触れ、馴染んでいくと「一般的な定型感覚で読むと、なんだかシャープに批判されているみたいだけど、この人がこう書いているということは、相手やこちらのことを思ってのメッセージなんだな」とか・・受け取り方が違ってくるわけです。

馴染みの無い定型女性は、感情に対して理論で返すと傷つく(ことが多い)・・・まぁ、そういう方程式を豆知識として持っていただいていたら「感情レベルの強いコメントだな、今段階はスルーしとこう」とか、ASの方のひとつの目安にならないかな、と思ってコメントしました。

するりさん、そのたとえでいくと、「この人は宗教上の理由で治療拒否する、信仰によってのみ救われる人なんだ、そのうち信者仲間が集ってお祈り唱えにくるはずだから見ないフリして大丈夫」くらいに思ってはいかがでしょう(笑)

傍から見ていて思うんですが、ここに集う方は、双方特に揉めやすいタイプじゃないでしょうか。特に察して共感して欲しいタイプの定型(ASへの恨み強し)と、特に察するのが苦手なタイプのASが集まりがちというか。ここの定型やASをそれぞれの「基準」にするのは大変危険です。ハードル上げ過ぎて。

ここで表に出てくる傷ついた定型=ものすごく病んだ人、AS側はうかつにコメントしない方がいい、実生活では大抵の定型でさえ戸惑うレベルかもと思っておかないと。安定している人やうまくいっているカップルは出てきにくい(そもそも読まないだろう)場なんです。だから、意見に偏りがあるという前提で見ておかないと危険です。でも、ここで起きるズレは実生活で起こりうるズレの最大限のものに近いかもしれないので、そういう意味での参考には双方なるかもしれませんね。

間合いに関しては、私は対面での会話の方がだいぶ取りやすいです。目線での会話や表情が硬くなったり柔らかくなったりという言語外の情報もありますし。電話でも声に感情がこもりますし。私が表情や声音に関して子供の頃から困ったことがないからとも言えますが。なんとなくするりさんもそういう方な気が。やはり文章のみのやりとりは難しいものですね。読書好きな方とのやりとりなんかはまた違って、かなり楽なんですけど。


トマトさん、そうそう、お姫様抱っこを期待している感じですね。私としてはそこはわかりますしそれだけお辛いのだろうとお察しするのですが、今回の場合はご自分のブログをお持ちの方ですし、わざわざこの場に出てこられたからには他の視点が欲しいのかな?とも読めてしまいます。AS度が低く(ひょっとしたら無く)、実生活で不特定多数の定型と接している私にさえそう見えるのですから、察するのが苦手な方ならなおさらそう取ることでしょう。やはり、ご自分の吐き出しはご自分のブログでなさる方が、お姫様抱っこをしてもらえる可能性は高いと思いますねぇ。パンダさんやトマトさんに話を聞いてほしいのでしたら、直接メールなさればいいのですし。

たぶんこの場所自体の見え方が、双方食い違っていることもすれ違いの大きな要因だと思います。傷ついた定型はトマトさんがおっしゃるように「吐き出ししたら慰めてもらえる場」と取り、困っているASは「的確な提案がもらえる場」だと取るという。そしてそれぞれが自分に対して期待しているのと同じ反応を、(好意で)相手にも返してしまうという……。

あっ、それぞれが自分に対して期待しているのと同じ反応を、(好意で)相手にも返してしまう、っていうのは何か違いますねぇ。それならもっと定型がASを(社交辞令であっても)慰めるはずですし。傷ついた定型と傷ついたASを比べた場合、定型の方は受け身度が高くなるのかもしれませんねぇ。

帆掛け舟さんのおかげでまとまらずコメントできていなかった部分がすっきりしてきました。

>この場所自体の見え方が、双方食い違っている。傷ついた定型はトマトさんがおっしゃるように「吐き出ししたら慰めてもらえる場」と取り、困っているASは「的確な提案がもらえる場」だと取るという。

あとはブログという形式への捕らえ方の食い違い。

このブログに求めることが
コミュニケーションである事は「記事」「コメント」として発言する以上皆同じだとおもいますが、(独り言なら自分の日記やちらしの裏でいい)
そこに「ブログ主」からの「(ここの場合)定型側からのコメント」を求めるのか
「ブログ参加者全て」からの「情報」を求めるのか

お店に行って
「大福ください」
と言って
「豆大福です」
と出される。
(人によってはもっと違うものを渡してくるかもしれない。)
「イチゴ大福」かもしれないし「みかん大福」かもしれないけど。
大福は大福なんだけど、「豆」でも「イチゴ」でも「みかん」でもない、
「大福」が欲しい。

その時、省略されているもの、

「(ただの)大福ください」
「(豆)大福ください」
「(イチゴ)大福k…(略

この()の中、それが共通認識ではないという事がそもそもの原因なんですかね。
パンダさんの以前の「そこのお醤油とって」の例えと同じになりますが。

そして、

>傷ついた定型と傷ついたASを比べた場合、定型の方は受け身度が高くなる

と、トマトさんの

>「とりあえず」の時間的感覚が、意識して頑張っている分ASの方が短いかなと感じる


これは、ASの問題に対しての思考パターンみたいなものが関係しているのかな?と思ったりします。
全ての人がそうかどうかは分からないのですが、私と、私の知るASの方(&疑いのある方)は
問題が起こって衝撃を受けると、もちろん感情的な波は立つのですが、すぐに原因探求に移る気がします。

①わー、波が来た、なんだ、なんだ。溺れそうになったよ?!びっくりした。
②この波の原因は何?(私に衝撃を与えた物は何?)
③とりあえずもぐってみたらいいのかな、何かが落ちてきたなら原因が分かるはずだ。
④よし、もぐりに行こう

と。

私から見ると、
(1.5)として、

ね、ね、今の大きかったよね、私の感じ方おかしくないよね?そうだよね、あーよかった。

というのが挟まっているのが定型の多くの反応かなーと思うのですが・・・
違うのかな?あまり自信がありません。

だから、
投稿者のコメントを相手の立場に自分に置き換えてコメントする、という作業の際、
(1.5)が無いわけです。
しかしながら、定型相手ですから、定型流儀に従おうと意識して頑張って1.5を入れようとして
「大きいね(ここが1.5)、なんだったんだろうね(②)調べに行く?(③)」
と簡潔に済ませてしまう。そして「ちゃんと(1.5)入れた」と思えてしまう。
定型では「それでは手順が少ない!」と感じてしまう。

そんな感じでしょうか。
だからAS的にはもう③や④に進んでいるつもりでも、
定型的には(1.5)の途中でしかない

そこで例え「貴方は(1・5)をお望みですか?」と聞いても
「①~④に進むために1.5があって当たり前」な定型は
「馬鹿にするな!」となる・・・感情的になっていればなっているほど。
そして(1.5)を望む気持ち、それを「傷の舐めあい」とか「馴れ合い」という言葉を否定的な意味で使われていると受け取る。

そこで便利な言葉が「共感が欲しいだけだ」だとか。「相手には共感力が無い」だとか。

と、そう見えます。

逆に、ASが「コメント」する段階で自分の中ですでに②に進んでいて、③に進むヒントや提案が嬉しかったりする。
だから長々「それは大きな波でしたね、大変でしたね。お体は大丈夫ですか?心配です」のみのコメントなど、
「③のヒントにならない(1.5)」ものを返されても「埒が明かない」と思えてしまうこともある。
もちろん、共感を得られて(私の場合、これでびっくりした自分はおかしくないんだ、と)
安堵する部分もあるが、かなり大げさに見える上に何も進展しないと若干苛立ちを覚えることもあるかも。
程度によっては「しつこい」とさえ思ったりすることもある。

その体験を参考に(1.5)を捻り出しているASは

するりさんの
>この意識的にやった「似ているようで定型とは微妙にずれている私なりの配慮」が、却って定型の人のムカつき指数を上げているのだとしたら。
という懸念を常に抱えている。
どの程度が適度なのか分からない。過度になってしまえば意図することも伝わらない。
不足していてもダメ。

その懸念はASと好意的に関わろうとしている定型の抱える懸念でもあるのでしょうか。
その上でしたことがASの希望と違ったとき
それをAS側が「定型側ははAS側が配慮して当たり前だと思っているんだろう!」という趣旨の発言をしたら…


通常の例えではAS側の方が手順が多いと思うのですが
ここでは定型側の方が手順が多いのであえて1.5とした意図が伝わるといいのですが…

短時間で結論まで導いた考えなので破綻しているところがあるかもしれません

「共感が欲しいのかどうか」を見極められるまで、コメントせずに控えているという選択肢も常に持っていたほうがいいかもしれないと感じました。

>、「私には関係ないしお節介焼かないでおこう。ヘタに焼いて恨まれてもイヤだし。」という感じ
なこのスタンスが
その態度が
「冷たい」と見られるんだろうな。
「共感しない」=「共感できない」と取られるんだろうな。
ひいては「空気が読めない」になるんだろうな。

と。

帆掛け船さん、するりさん、トマトです。

定型が、とても切羽詰まったつらい現状をコメントした時、ASの方が親切に提案型のコメントをされている感覚は
するりさんの
《例えるなら緊急搬送されてきた人を「うわ、大変ですね」とだけ言って、「でも、今は週末の真夜中だし、偉い先生もいなくて若手の宿直しかいない。月曜になるまでどうすることも出来ないなぁ」と実質、月曜まで放置してしまっているような気になっちゃうんです。今、この場で明らかに弱っていっているのを見ながら、それを止めない。。》
という感覚だっのですね。

そこを定型の多くは《緊急搬送されてきた人に「大変でしたね、では、今から次はこうならないような走り方や歩き方やターンの仕方を教えますね」とは言わず「ここが痛いのですね、わかりますよ、落ち着いて、大丈夫、われわれも居ますからね」と声をかける。つまり・・・あなたを受け入れる人が居る場所ですよ、という安堵感を与えるのが先決》
という感覚だと思うんです。

「誰か、教えてください!」と駆け込んできた人にも「はい、お答えしましょう」ではなく「落ち着いてください、不安だったのですね、解りますよ、よくここに辿り着きましたね」というねぎらいを与えて、冷静に聞く耳を持てるまでの、感情を整える順序として「間合い」をとることは、感情的的に切迫している定型にはとても有効であるし、ASの人の親切を踏みにじる事にならないのではと、言いたかったのです。

『私はこれからどうすれば良いのでしょうか!!』という文面を「質問」と解釈して「すぐに教えてあげなければ!」となるか、「叫び」と解釈して「すぐに感情的慰撫をしてあげなければ」となるかの実は選別があることが、ASの人には「あぁ、ややこしいネックポイント」になると思います。
困っている様子だったから教えてあげたのにどうしてモメちゃうんだろう。は、きっと定型の「自分の今のこの混乱を受け止めてくれる相手探し」がASの人に「解答者探し」に映るからなのかなと思います。

この点に関して、ASの方に定型は「申し訳ありません」と謝るほか無い、と私は思ってます。「ややこしくてごめんなさい」以外に、ASの人に言うべき言葉があるでしょうか。

ちなみに私は、帆掛け船さんの
《それぞれが自分に対して期待しているのと同じ反応を、(好意で)相手にも返してしまうという……》は大賛成、同一意見です。
定型が、傷ついたASの人に慰めを上手く返せないのは、そのASの人の悩みがそのまま自分の身近なASの人へのストレスと連動してしまい、優しくなりきれない・・・ということもあるかも知れませんし、
やりとりの中で、そもそも概念がずれていて、勘違いに気づかずコメントしちゃってる事も多いと思います。

かずきさん、トマトです。

とても解りやすい、定型からみると的確な分析をありがとうございます。

本当に、ASも定型も好意のつもりがモメごとのアプローチになるなんて、こんな残念な、気持ちも行動も「かいがない」ことはありませんね。

ASの本の中に「保健室へいくとき」という例がありました。
授業中に、AS生徒がお腹が痛くなり苦しそう。先生が定型生徒に「保健室までつきそって行ってあげなさい」と言う。廊下を歩きながら「イタタ」とお腹を押さえながら歩くAS生徒の顔を定型生徒が「大丈夫?」と覗き込む。AS生徒は「大丈夫じやないから保健室へ行ってるんじゃないか、何聞いてるんだ!」と苛立つ。

このエピソードを、かずきさんの
「かなり大げさに見える上に何も進展しないと若干苛立ちを覚えることもあるかも。」という、現場救済に何の役にも立たないし助けにもならない、定型行動の典型として想い出しました。

順番通りではないですが・・・


>帆掛け舟さん


どうやら私、自分に嘘をついていたようです。

「悟った」「諦めた」と思っていましたが、本当はまだ、「見殺しなんて、そんなむごいこと出来ない・・・」
と、モヤモヤしてしていたんでしょうね・・・

ですが、

>「この人は宗教上の理由で治療拒否する、信仰によってのみ救われる人なんだ、そのうち信者仲間が集ってお祈り唱えにくるはずだから見ないフリして大丈夫」くらいに思ってはいかがでしょう(笑)

↑これを読んで。

・・・不謹慎ですが、5分程腹筋がよじれそうなほど爆笑し、その後迷いが完全になくなったというか、「ストン」と納得しました。
文字通り「腑に落ちた」という感じです。


確かに「信仰」には勝てません(苦笑)

私は言うなれば「無神論者」か、「異教徒」のようなものですね(^_^;) 
別の神様を信じている人達の下に突っ込んでいってもあちらにはあちらの正義があるんですもの、これでは意味がないです。

それにしても、なんて分かりやすい言葉を使われるのでしょう。

参りました!!
と、同時に、

私を「救済」して下さって、感謝します(笑)!!!

いやぁ、肩の荷が下りた・・・。


そして

>ここで表に出てくる傷ついた定型=ものすごく病んだ人、AS側はうかつにコメントしない方がいい、実生活では大抵の定型でさえ戸惑うレベルかもと思っておかないと。安定している人やうまくいっているカップルは出てきにくい(そもそも読まないだろう)場なんです。


そう、こことても大事な基礎というか骨組みの部分ですよね。
この部分を外したら他も狂ってきてしまうので、肝に銘じます。


あと、ご指摘通り、私も人の表情や声色はほとんど読める・分かるんです。自分自身も表情や声を活用しています。

ですが、こういう文章形式は苦手ですね。。でも、面白いとは思います。
苦手と嫌いはまた別なので。

>玄さん

99%もいないはずなのに、本当はおそらく仰る通り、「10人いたらその中の2人くらい」が声高に主張しているだけのはずなのに、どうも声のでかさに惑わされそうになります。

そこは常に手綱を引くようにコントロールして頭も心も柔らかくしておかないといけませんね。


>パンダさん


それも確かに一つの目安ですね。 そういうルール、そして「ルールからはみ出た時の対処法」も併せて知って上手く立ち回りたいです・・・。

>トマトさん

>これはコメントを返された誰の落ち度でも間違いでもなく、あくまで感情的コメントで入って来る型女性の心情をひとつ代弁させていただいただけです。「ふーん」というレベルのことです。


気を遣ってくださり、ありがとうございます(笑)


>『私はこれからどうすれば良いのでしょうか!!』という文面を「質問」と解釈して「すぐに教えてあげなければ!」となるか、「叫び」と解釈して「すぐに感情的慰撫をしてあげなければ」となるかの実は選別があることが、ASの人には「あぁ、ややこしいネックポイント」になると思います。
困っている様子だったから教えてあげたのにどうしてモメちゃうんだろう。は、きっと定型の「自分の今のこの混乱を受け止めてくれる相手探し」がASの人に「解答者探し」に映るからなのかなと思います。


まさにその通りです。

ちょっとキツい言い方になりますが、いつも 「なんで怒ってるの? 貴方の性格や過去を否定したりしてるわけじゃなくて、単純にこれからの解決法を言っているだけなのに。赤の他人の私の言うことすら反発するんだったら、目の前に居る相手になんか到底冷静になれないんじゃないの?」と思っていました。

>かずきさん


>、「私には関係ないしお節介焼かないでおこう。ヘタに焼いて恨まれてもイヤだし。」という感じなこのスタンスが、その態度が、「冷たい」と見られるんだろうな。
「共感しない」=「共感できない」と取られるんだろうな。
ひいては「空気が読めない」になるんだろうな。
と。

「提案」したら、「自分達だけが辛いと思うな」とキレられ、その経験から恐れをなして「お節介焼かないでおこう!」と口を出したくても出さずに我慢していたら「冷たい」→「共感しない」→「共感できない」→「空気が読めない」、となる・・・。

対極の方向に振り幅が移動しているのに、結局「空気読めない」という、「帰結する地点」は同じ地点(苦笑)

でもまぁ、あくまで私のケースですが・・・私、帆掛け舟さんの

「この人は宗教上の理由で治療拒否する、信仰によってのみ救われる人なんだ、そのうち信者仲間が集ってお祈り唱えにくるはずだから見ないフリして大丈夫」という「スキル」を「ここではこれから使うことにしよう」と思ったら、途端に罪悪感も焦燥感も悲しみも全部吹っ飛びましたので、これの応用形を日常でも使えるようにしたらいいかもしれませんね。

深刻にならなくても大丈夫ですよ、多分!!

かずきさん、(1.5)!!面白いです~!
そうですね、狭間にいる私の場合は(1.5)って必要です。気温や食べ物の傷み具合みたいに健康に直結することや、問題ではなく雨が降っている事実といった意味での天気やたわいもないドラマの感想などの話なら、(1.5)の意味は大きいですけど((1.5)自体が主役の話というか。柔らかい空気を作ることにも役立ちますし)、本当のところを聞きたい真剣な悩みの相談などでは、

>「コメント」する段階で自分の中ですでに②に進んでいて、③に進むヒントや提案が嬉しかったりする。

もあります。(1・5)は要るけど掛ける時間はかなり短くてOKなタイプです。相談に乗ってくれる相手の貴重な時間をいただいて申し訳ないという思いから、なるべく短縮してもらおうとする面もあります。相談する本人が、普段から客観的な批判(事実の指摘)をされ慣れているか、指摘や提案に耐えうるだけの精神の安定感を備えている状態か、というのも大きそうですね。

>「ちゃんと(1.5)入れた」
>「貴方は(1・5)をお望みですか?」

勝手にすみません~、面白いです!(笑)

>その態度が
「冷たい」と見られるんだろうな。
「共感しない」=「共感できない」と取られるんだろうな。
ひいては「空気が読めない」になるんだろうな。

について。こういう文字交流の場では、コメントをしない(出てこない)ことによって防げると思います。出てこないようにするための心理対策は、するりさんにお伝えしたようなのでいかがでしょう。実生活では、感慨のこもった「ああ……(+うなずき)」程度に返しておけば大丈夫かと。というか、私の場合はそれで済んでいます。全然自分にないところからひねり出している訳ではないので。かなり演技しないといけない方の場合の本気っぽさの演出の仕方や免除のされ方は、ん~、まだ、私ではちょっとわかりません……。「変人」という特権的地位を得られれば免除されることもありますけど(職種やファッションによる裏付けがあればなおよし)。関わらざるを得ない身内の対応などは、定型同士であっても困っている人は多いですし、正解は中々見つからないですね。


トマトさん、あ、ええそう、それですねぇ。

>そのASの人の悩みがそのまま自分の身近なASの人へのストレスと連動してしまい、優しくなりきれない・・・

というのが、ホント強いですよね。むしろ身近な人へは言いにくい分、溜まった鬱憤が類似点を持つ他人に爆発しがちとも思えます。


するりさん、どういたしまして~^^お楽になってよかったです。
ええ、こういう文字でのやりとりもまた楽しいですよね~。伝わるのかな?と冷や冷やもしますけど。実生活では中々出会えない(出会うまでに時間がかかる)社交辞令度の低い、本音に近いところも見られますし。

帆掛け船さん、トマトです。

帆掛け船さんの『自分のブログをお持ちの方が、わざわざこの場に出てこられたからには他の視点が欲しいのかな?』というコメントで思い当たったのですが、
ブログ主さんも人恋しい・・と思うんですね。

ブログでも趣味のサークルでも会社でも、自分が主宰・管理という立場と、いち参加者という立場では気分もかかわり方も違うと思うのです。

ふと見ると、共感してくれそうなよそのブログ主さんが居て、そこに参加しているAS当事者の人のコメントを読むと、自分が暮らしの中で関わっているAS者とは全くイメージが違って、理性的でなんだか、何を言っても「受け止め理解」をしてくれそうな雰囲気で、いち参加者として受け止めて欲しい・・・と、
思っちゃうんですよね。

私も過去、パンダさんのAS版のような、定型を理解しようというスタンスのASブログ主さんのブログに「助けの神々が居る」くらいの勢いで、泣きついたことがあります。
そのときは、「ここにいらっしゃるASの皆さんなら、私の気持や状況はきっとわかってくれるはず」という、今から思うと無謀な思い込みで、ダイビングしちゃいました。
その時は「なぐさめ、励まし、共感、優しいアドバイス以外は無いはず」くらいの、ものすごく自分勝手な確信しか無かったんです。

で・・ブログ炎上状態になって、自分としては世の中がデングリ返るくらいの概念の違いもあるんだということを知って、もう、そちらのブログにはお邪魔しちゃいけないんじゃないかというくらい、混乱したり、恐縮や萎縮しました。

でも・・・実生活では、身近に居るAS友人のことを「語る相手」が居なかったのです。「そんなに悩むんなら絶交しちゃえば良い」とか「そういう人も居るんじゃない?」とか・・・
ASに無関心な定型、ASを誤解ばかりしている定型世間より、ずっとネットの当事者の人のほうが話してみたい相手になっちゃうんですよね。

実際、日常にリアルに会話したり一緒に仕事しているASの人より、ネット上でコメントしているASの人は「知性的で頼もしい」というイメージが強いのです。
定型視点や発想にない、意見や分析力や洞察力に、魅かれまくった時期もありました。

ASのブログ主さんに「AS当事者はネット上のイメージと、実際の姿にはかなりの隔たりがありますよ」と忠告されたくらい、勝手に美化しちゃうというか。

ですから、気持ちが極限にきた定型とくに女性は「そこに解ってくれる人が居る」という人肌のぬくもりを求めてコメントする場合が多いと思いますので、
それがASの人との宗派の違いということでしょうが、よろしくお願いします、というかそんな感じです。

トマトさん、あぁ、それはそうですね。管理人と一参加者とでは責任の重さが違いますものね。管理人は自分の記事を書くことに加えて、すべての参加者・すべてのコメントと流れを把握して適宜調整しなければいけませんし。穏やかな波を作り、嵐が起これば身を挺して防がなければなりませんし……。たまには管理する重圧を逃れたい気持ちもわかります。

炎上させたご経験がおありとのこと、お辛さ、お察しいたします。実は私も、人との関わりが楽しみなのと同時に、冷や冷やしております。文字では表情がわかりませんから。

そう……、「炎上」という言葉で思い至ったのですが、ブログは、普段見えているのがすべてじゃないのが怖い点で、穏やかに見える場所でも発言次第ではどう転ぶかわからないんですよね。その怖さはやっぱり参加者全員が踏まえておかないと、ほんと誰でもいつでも傷つくおそれがありますね。

それと、今回の場合ご本人のところはアメブロですよね。私、趣味のも含めて普段いくつものアメブロを読んでいるのですが、あれの利用者には特に共感的つながりの好きな方が多いように思います。あの雰囲気に馴染んでいる方は、そこはそういう性質に特化した場所だから、他所でも同じ反応が得られるとは限らないということは頭の片隅に入れておいた方が、やっぱり事故は防ぎやすくなるかもしれません。

普通のブログでさえ炎上する危険性は常にあるわけですから、こういう、心に関する繊細な問題を扱う場所では特に慎重にならないと怖いでしょうね。お姫様抱っこを期待する方は、まずはコメント欄の雰囲気をつかむため数か月読み手に徹して様子も見て、なんなら管理人さんや常連さんにメールで打ち明けて一対一でやりとりして、……と何重にも安全網を張った上でようやく入ってくるくらいの方が丁度いいかもしれないですね。傷ついて余裕のない方には難しいかもしれませんが、入ってくる方も相当間合いを計らないと余計傷つくおそれがあるということです……。以上は、また他の傷ついた定型の方が入ってこられるときのためにも書いてみました。傍から見た印象でまとめただけですけど……^^;

正直、ここへ出てくる方たちの違いは、トマトさんのおっしゃるような「宗派の違い」というよりは、するりさんもおっしゃるように「無神論者か異教徒」と原理主義者くらいの差があると思います。まぁAS側は、他人の信仰を尊重して、同じ宗教の信者が助けに出てくるまでそっとしておく(下手に慰めるよりは穏やかな沈黙で受け入れる)方が双方安全だと思えます。

トマトさん

アルペルガーライフBlogの穴熊猫さんが過去かいてらっしゃる記事で
定型発達者は感情への対応優先の会話を好む、という所からヒントを得てコメントしますと。

お腹が痛いけど歩いて保健室へ行っている相手

に対して

「大丈夫?」だけでは何を聞いてるのか分からないんだと思うんですよね。

「大丈夫?トイレによる?」
なら、保健室の途中でトイレによるという選択肢もある、それによってルートが変わるかもしれないので必要な質問
と受け取ることも出来ますし、

「大丈夫?歩ける?(おぶる?)」
なら、この先に階段があるのかもしれないし、状況は分かりませんが、
「これまで歩けているけども、この先も大丈夫か」という確認
もしくは「現在歩けているが、歩けなくなったら協力する」という意思表示
とも取れるので、

私にはセーフです。
「大丈夫?」だけじゃ、何を聞きたいのか分からないんですよ。
「何かが大丈夫かどうか」を聞いてるのだと受け取ってしまうので。
言葉が足りないなーと思ってしまうんですね。
今後も歩けるかどうかの判断も、トイレによるかどうかの判断も、本人がすることで
他人が口を挟むことではないと思っているからなんです。


で、穴熊猫さんの記事を読んで気付いたのが
「定型は他人の判断に加担したがる」という事です。
なので、「大丈夫?」という言葉で「判断するときは協力しますよ」という
オーディエンスアピールをしているのであって
「自分で判断する」事を多くしてきたASとしては、
それは必要ない、と感じるのかな、と思います。

経験を積んで観察することができれば、「大丈夫?」の意図することや、
「いう事に意味がある」という所に気付いて、苛立ちとかも感じる前に
「ああ、この人はこれを言う人」と受け止めることが出来れば
「大丈夫じゃないから保健室に~~!」が出力されなくなるんだろうと思います。

私のとっては、「定型流の違和感あるやり取り」が、「この人はそういう人」という受け止め方によって
「だったら自分はどう対応しよう」という所に進めているんだと感じています。
根底には、自覚しない苛立ちや戸惑いがやっぱりあって、
それを私が作り出した「個人分析ファイル」の重みで押さえ込んでいるだけなのかもしれません。

するりさん、帆掛け舟さん

1.5の解釈、伝わってよかったです。
こういう文字だけのやり取りですと、確かに、
悪く言えば「逃げ」な
「その場に居るか居ないか分からない」
「見てるか見てないか分からない」
という状態を利用することも出来ますよね。
自分も、相手も守るために。

リアルで会話となると、こうはいかなくて
1.5を求められていることが分かっているのに十分な1.5を返せなくて…というような
個人的には「葛藤」とも言いがたい、「無力感」に近いものがあるのです。

浅瀬仲間だからなんでしょうか、私も「若干の1.5」を入れて会話して下さると落ち着きます。
無くちゃ困る、程でもないので無くてもいいというスタンスです。
(私にとって)過度になると逆に不安になってしまうので、
そういう事が少ない傾向がある男性との友人関係が多かったように思います。
まぁ、それがまたトラブルの種になったりするので困るところですが。

1:1で明らかな相談であり、明らかに何かしら助言やヒント、アドバイスが欲しいと分かる場合は、助かりますね。
高速で1.5をすっ飛ばして(一言で済ませて)②や③に行けますから、気を使わなくていいというか、こちらペースで話が出来るというか。
私が相談されやすいというのは、そういう時に張り切っちゃうからかもしれません。
張り切りすぎると(調子に乗ると)痛い目見るんですがね(汗

多数で話をしていて、相談なのか、愚痴なのか、分かりかねる時は
ものすっごく口を出したいし、
「それって思い込みでしょ?」とか
「相手にはこう見えてるからその反応だったんじゃないの?」とか
言いたいけど、言いたいけど、
「どーせ反感買うだけだし」と黙って「うん、うん、そうなんだ」と話を聞いていると
「わかるー」的発言が無いので
「かずきって話し聞いてるけど聞いてないよね、冷たいよね」
になって攻撃対象がいつの間にか私に。。。
という事はもう、数え切れないくらい体験してきました。
だからといって「わかるー」と無責任に言えない私は、やっぱり孤立していくんです。


今回の事だけじゃなくて、ネット上だけじゃなくて、
こういう1.5の部分というのは、難しいです。
余裕があって、がんばって空気が読めているときは出来ているのか、
それとも周りの人達が我慢して付き合ってくれているのか
そこすら分からない私です。

かずきさんへ。 トマトです。

かずきさんの、今回の噛み砕いた内容、大変良く解ります。
ASの人の感じ方と、定型からの接し方ノウハウとして、とても解りやすいコメントで、ありがたいです。

ASにとって「大丈夫?」は、主語が無いので相手の意図が解らない。具合が悪いときに、意味不明なことを言われるとよけい具合も気分も悪くなりそうですね。

ところが定型にとってこの「大丈夫?」はありがたい。こんな近くに自分を案じてくれている人が居るという安堵や励みや慰めと感じてしまう言葉。「大丈夫?」が広範囲な場面やケースで「弱った人、混乱している人、意識があるかないかの人、ボー然としている人、泣いている人、興奮している人、疲れている様子の人、しょんぼりしている人、我慢している人、痛がっている人、考え込んでいる人、病気やケガで寝ている人など」それら90%ほどのマイナス的状況に置かれている相手と自分とを結ぶ「絶対ワード」となっている定型社会。
私はあなたを心配している、気にかけているという「絶対サイン」としてやりとりしている定型社会。

そこを「絶対じゃないよ」とひっくりかえすには、時に真っ向からの感情が入った訴えより、「なーるほど! それも面白い考え方だね」という「関心を持たせるという意味の面白さのある説明」が、有効で手っ取り早いということはありますね。

私は、専門書や専門家の言うことではまかなえない、眼の前のAS友人を何とか理解したくて最初に飛び込んだのが、「穴熊猫さんがブログ主のアルペルガーライフBlog」で、ちょうど「定型発達者の研究」というテーマで、AS側から見た定型について、非常に的確に定型の思考や言動を分析されていて、ひとつの言葉や行動に対してのASと定型の反応の比較を、わかりやすくライトなタッチで書かれているところに、親近感を覚えました(訪問当時1人だけだった定型を受け入れて下さったことに感謝しています)

定型もASも両者が傷つくことなく、不快や違和感なく、納得できる説明・・・これが「平等」ということなのでしょうね。

この手の説明は、どちらかというとですが、フツー概念に支配されている定型より、独自の視点を持たれているASの人の方が上手いように思えます。
定型は、自分たちのフツーを説明するので精一杯で、感情は入るし、共感は求めちゃうし、どうもそこから中心点を見失いがちです。

問題も感情も、煮詰まったらもう「笑うしか無い」とこまで持っていければ、するりさんの言われるストンと腑に落ちる域に達するということですね。

私は歯医者と産婦人科はやさしい医師に限るという持論者ですが。
AS・定型を学ぶスタンスのブログは、マニアックで平等精神があり親切な主さんが良いですね。パンダさんの奥様マニアのおかげで、誰にも平等で親切なブログが維持されていることに感謝です。

かずきさん


高速1・5人間のするりです。


>悪く言えば「逃げ」な「その場に居るか居ないか分からない」「見てるか見てないか分からない」という状態を利用することも出来ますよね。自分も、相手も守るために。


もう、「逃げ」「自衛」なんて一ミリたりとも思わなくていいと思います(笑)

「夏バテには豚肉がいいですよ!」と善意で勧めても、「豚肉を食べたら地獄に落ちる」と思っている文化圏の人には「ほっといてよ!あんたがそんな悪魔の食べ物の話なんかするから話聞いただけで夏バテしたわよ!」と言われるのがオチです。

ところで、「オーディエンス・アピール」の一環に入っているのがこの前仰ってた「言ってくれればよかったのに」だと思います。

勿論、単純に「なんだ、そんな簡単なこと、言ってくれれば私が解決したのに」という時もあるのでしょうが、多分4割くらい?は、「オーディエンスアピール」というか、まぁ、早い話が「この人が勇気を持って言ってくれた手前、自分が責任を持って動かないと!」・・・なんて、そんな大層なことをイチイチ考えて言っていないと思います。

せいぜい、「言ってくれたら余裕があれば検討した、かも??」くらいで、もし事前にこちらが「言っていた」場合も、素通りされたり腹を立てられたりしていなかった可能性はゼロじゃない・・・というか、今現在のトラブルとはまた別のトラブルが起こっていた可能性だってある。

なので、「言ってくれればよかったのに」と言う人は多いですが、「私はここにいるよ」くらいの、存在アピールというか、定型句くらいに思っていたほうがいいような気がしてきました。

「<自分にはよく分からん何か>を、もっと早い段階で頭が割れそうなくらい考えて発信しなければいけなかったのか。そしたら、結果はバラ色だったのかorz」と落ち込むようなものでもないですよ。

多分、大した違いはないです(笑)


そうそう、私も狸穴猫さんの定型研究は、一時期暗記するくらい読みました。

あれはもはや「古典」というか、バイブルですよね。

玄です。「大丈夫」について気になったので。
「大丈夫?」は、主語述語が省略されている形になっていますが、むしろ元の意味から離れた呼びかけ語で使われていますよね。(ホントの元の意味なら「ガタイのいい男」)
現代口語では、体調が良いかどうかという質問というよりも、「続行でよいか?」という意味合いで発せられることが多い気がします。

「保健室への付き添い」の例での「大丈夫?」を翻訳すると、「保健室まで、このまま自分で歩いていけそうですか?肩を貸しましょうか?」という声かけのはずです。
「大丈夫?」「うん大丈夫!」であれば、
「続行できますか?出来ないならば、そばに居るから助けますよ」「自分でもうしばらくやります。有難う!」になると思います。
そういう、文面に表出しない意味合いをやり取りするのはHigh contextなんですが、ASだって意味を了解しさえすれば、High contextコミュニケーションが可能だと思うのです。そうなってくれば、「定型ならではの心の交流」という説明は崩れてくるし、実際に社会で多くのASがそれと知られずに活躍できているのが理解できます。
ASが「ノンバーバルコミュニケーション」あるいは「字義通りでない言葉」に弱い特性があるという点は認めざるを得ませんが、それは「心」の問題ではなく、High contextの情報が不足している状態。そういった「情報の取り扱い」の問題なのに、「心が無い」という攻撃をされたり、あるいは「自分には心が無いのではないか」という自虐に苛まれたりで、心を閉ざしていく、という見かたは出来ませんでしょうか?

話が飛ぶようですが、定型の言う「そんなのフツーだよ!フツーわかるでしょ!」に代表される諍いが起きたときに、定型側が「分かって当たり前」的な反応になるのは、「それはね・・・」という説明が出来ない、説明能力の低さという面があると思うのです。これは個人攻撃でなくて、学校教育として相手にわかるように説明する訓練がされていない。あるいは説明に必要なボキャブラリーが少ないので、ASを説得しきれていない状況なのではないかと感じるのです。
これは「ASが理解しようとしない」と表裏一体のものと思います。

図式としては、
「字面どおりの意味以外は受け取ろうとしないAS vs 通じないときの説明ができない定型」で、すれ違うばかり。
「内面を説明できないAS vs (内面と接続されていない)表情や態度から内面を読もうとする定型」もかみ合いません。

僕は、ASと定型のすれ違いの問題点は、「ASが定型の気持ちを理解しない」ということにあるのではなく、上の2組の対立のように、「情報を扱うスタイルやスキル」がちぐはぐなことが原因ではないかと思うようになってきました。
この4つのポイントで、食い違いを乗り越えるノウハウがあるかどうかで人間関係トラブルの発生率がかなり変わってくるのではないでしょうか。
乗り越えるノウハウがある場合には「大丈夫、やっていける」になると思います。

玄さん、その通りだと思います。 あっ・・トマトです。

【字面どおりの意味以外は受け取ろうとしないAS vs 通じないときの説明ができない定型」で、すれ違う。
「内面を説明できないAS vs (内面と接続されていない)表情や態度から内面を読もうとする定型」もかみ合わない。】

定型は、成長する過程で「察すること」「空気読むこと」をかなり重要視して磨きをかけます。玄さんの言われるHigh contextですね。
しかし「説明力」という面は手薄です。玄さんの言われるLow contextですね。
「知りたい」という気持ちは「説明したい」につながるような気がします。
説明したいから(しなきゃならないも含め)知る必要が生じることもある。

私は過去、ASの方々が「定型はどうしてワイドショーのゴシップや、人の噂話やが好きなのでしょう」とやりとりしているところに「それは、親しく無い者同士であっても、うなずきが得られやすいからでしょう」というコメントを入れてしまい「うなずきってどういうものですか?」「うなずきはどうして必要なのですか?」「うなずきの練習をしていますが、うなづき過ぎてかえって不信を買いました、うなづくタイミングをはかるコツは?」と複数の質問を受けて、自分が日頃、無意識に反射的にしている行為を説明することの難しさを知りました。辞書で「頷き」を調べたり、自分に「なぜなんだ?」と問うたり、説明するために改めて知る、ということになりました。

もうひとつ。定型がASという存在を、ASの共通項のウィークポイントを、知識として知っていたら、さらに、目の前のこの人がASなのだということを了解していれば、少なくとも無自覚無防備には「フツー」を連発したり「わかるはず」という決めつけて、傷つけたりはしないと思うのです。

定型の多くが「察せない」「共感が解らない」をへ理屈とか冷たいとしか理解できないのは
定型が、目の前のASの人を「説明しないとわからない人なのだ」と知らないからで、知れば「説明の必要性」も感じて、なんとか気長に、工夫をしたりしてコミュニケーションを図る定型は多いのではないでしょうか。

実生活で定型に一番必要な説明(Low context)は「私はアスペルガーといって、察することが苦手な特性があるので、主語や、求めることの具体化が必要です」という自己説明なんですね。
ここの部分なくして、モメない、キレない、誤解しないという大丈夫への一歩は踏み出せないと思うのです。
もちろん、現実にはカミングアウトという形の説明は、様々な理由で簡単には出来ないと思いますが。
でも定型が「世間は」「フツーは」「できて当然」をつつしむべき相手も居るのだということに気がつけば、無用な傷つけはずいぶん減ると思うのです。

玄です。
トマトさんは、AS側からのカミングアウトを求めておられますが、それこそ、定型は察しが良いのでしょうから、「通じなさ」を感じたらアスペルガーかどうかに関わらずLow contextにシフトダウンすればよいのではないでしょうか。
(繰り返しになりますが、AS側は「通じなさ」を感じたら、自分の状況認識や言語感覚を疑えるスタンスを持つことが、歩み寄りに役立つと思っています)

「説明しないとわからない人の存在」をを認めるということは、外国人・専門外の人・認知症の人への対応などへ応用範囲は広いです。「説明ができる人」は、自然とASへの対応も耐性が強い気がします。(パンダさん、トマトさんや、ASが身近にいる人は自然とそうなるでしょうけど)
ASは、状況的に周りじゅうが「自分の言葉では通じない人」なので、常に「説明対応」をしているうちに、「くどい、理屈っぽい人」という人物像になってしまうのではないでしょうか。

トマトさんの要望される「カミングアウト」のためには、「アスペルガーとは」を自分が勉強して知り、相手も勉強して知り、それをすり合わせるというプロセスが必要になります。この作業は、パンダさんのサイトでこれだけ話し合っても話題が尽きないのですから、ハードルが高いというか、現実的ではないような気がします。
カミングアウトされる側がよほど勉強済みでないと、知らされても誤解が先行して、取り扱いに困る内容なのです。しかも、取り返しがつきません。
僕は、「通じない人」はASだけではないと思っていますので、「アスペルガー」に特定せず「通じさせるための姿勢・話し方」を全員が身につけるのが大切と思っています。
体の状態は人によっていろいろ違う(高齢者や妊娠している人、食物アレルギーやアルコールに弱い人、障害者、もろもろの自閉圏)という話の一環として知識を得るのはいいかもしれません。

玄さんのコメントを読んで。
そう、AS由来の現象なのか、少数派由来の現象なのかは見極める必要がありますね。危機的な状況に追い込まれた人は、自分を知ることができるもんですし(自分内の常識が通じないところへ追い込まれて初めて説明する必要性が生じる)。

コミュ力のかなり高い定型知人たちを見ていると、外国人相手でもAS(かも)な人相手でも、違いを楽しんでうまくやっている印象があります。定型全般がASに対して対して不快感を持ったり無能だと思ったりするわけではなく、「コミュ力の低い定型」(説明能力が低く、心に余裕がない状態の定型)がASを制御できずに苛立つ……というものだと思います。

子供のころから議論の仕方(互いの話をちゃんと聞いた上でのすり合わせ術の会得)を定型・AS関係なくしっかりすべきですね。内容についての討議と人格への批判は全く別のものだという前提を皆が共有することも、重要なことです。討議から人格批判と取るのは無駄足(じっさい人格批判されてもスルーすべき)だし、討議に人格批判を持ち込んではいけないという。こういうのは、別にAS対策だけでなく、ほんと、対人関係全般に役立つ意識です。

ASは、察する術を身に着けるよりも、定型を苛立たせず説明する口調(ええ、口調や声音次第で受け入れ度は大きく変わります)を学ぶことが大事で、定型は説明術を学ぶことが大事、そして双方すり合わせるべき、ですね。……というのが、「心を~」となじるよりはずっと建設的なやり方ではないでしょうか。

かずきさん、するりさんもおっしゃっていますけど「逃げ」じゃないですよ~~(笑)なんといっても実生活が大事ですし!

愚痴か相談か不明な場などで、「わかるー」を言わなくても、相手の状況を整理して返すだけでも、親身になって聞いてあげている感は出せますよ~。もちろん相手にもよりますけど。または、「そういうことってあるね~(あるかもね~)」と返したりして。これでも抵抗あるでしょうか?「ああ……」の後の溜めを長く取ることで(2秒くらい?)、考えてあげている感が出たりもします。たとえ常々思っていた指摘をしたいときであっても。どうしても「でも」を言いたい場合はその後に加えると、反論!!という感じは出にくいです。

私はそんなに考えず相手に調子を合わせてしまえるのですが、振り返ってみると反論したい時にはこうやって対処している気がします。出来事の全体像を把握している感じを見せるのが大事ですね~。というか、「わかるー」って、状況を把握したよという確認程度な場合も多い気がしますねぇ。まあ特に親しい相手なら「ああ、でも~」で済んで、私もそういう展開の方が早くて楽ではありますけど。


以下、玄さんのコメントとも被りますが、
「大丈夫?」=「何か要望があれば聞きますよ」や「辛さの程度はどのくらいですか」に脳内で読み替えてはいかがでしょう。アメリカの医療ドラマでよく見かける場面に「10段階で表すと今の痛みはいくつですか?」というのがありますが、そんな感じで「10段階中6」とか勝手に言ってしまうのもアリじゃないでしょうか。

私は「大丈夫?」には別に疑問なく合わせていたのですが、突き詰めて考えるとこういう意図もあると思います。相手としては要望や10段階評価を聞いているのに、「大丈夫じゃないから保健室に行くんだ」と返されると「状況把握や方針決定は無意味だろう!」と怒鳴られているような気分になるわけです。聞き手が期待する返答と、判断できる大丈夫度としては「大丈夫……」>「(力ない笑み)」>「うう……(うめき)」>「…………(無言で顔面蒼白)」みたいなのがあって、それによって保健室へ連れて行くより運びに来てもらう方がいいかもといった判断もできるので。

あとは、聞き手のまともさアピールですね^^;狸穴猫さんは「自尊心」と書かれていますが(あの例を見ると、我が家では一応定型寄りの会話がなされています。口調はもっと現実味のある言い方ですが)。一応聞いてあげなきゃ人非人みたいな気分になりますし(それは私もです)、一般的にはそういう扱いをされがちです。そこを汲んでもらえないと、「自尊心を傷つけられた」と取るわけで。まあ私は、この人は「大丈夫?」って聞かれるのが嫌な人だとわかっている場合は省いたり、「迎えに来てもらう?」と具体的な質問にしたりで済ませていますけど。

定型文化では、「何かしてあげる」というのは高確率で「してあげる私って素敵!」(相手を使って自分が満足したい)です(笑)実は、定形界が善意にあふれていて、その善意を拒否するASが悪い人というわけではないんですよね~。これは別に定型を否定するわけではなく、それはそれで健全だし、でもそのへんの事情を糊塗してASを追いつめたりASが追いつめられたりするのは不毛だということです。あ、別に私一人の考えではなく、上のコメントで書いたようなコミュ力の高い知人たちや一般的定型たちと話して導き出した考えです。

トマトです。

玄さんの
【それこそ、定型は察しが良いのでしょうから、「通じなさ」を感じたらアスペルガーかどうかに関わらずLow contextにシフトダウンすればよいのではないでしょうか。「説明しないとわからない人の存在」をを認めるということは、外国人・専門外の人・認知症の人への対応などへ応用範囲は広いです。】
という箇所が、実は、現実生活においてのASと定型のコミュニケーションの「最難関」となる部分だと思います。

相手への理解や適正な判断に重要な「可視化」。つまり「目で見た印象で判断する」があります。「相手をよく見て(相手に合わせて)対応しましょう」は、定型の教育にも概念にもあるものです。
定型の多くは、外国人や身体の障害の有無、社会的な相手の立場や、おかれた状況などの他に、最も日常に多い判断材料として「年齢相応」という対応基準を持ちます。

「保健室へ行くASと定型の会話」の場合も、体調が悪い人が「言葉のニュアンスがまだ把握できないであろうひとけた年齢の子供、もしくは聞き取り力や発信力が弱くなっているであろう高齢者」なら、成人定型は「大丈夫? 」にプラス「保健室まで歩いて行ける?(→おんぶしようか? 車椅子を持ってきましょうか?などにバリエーションが広がる)、先にトイレに行く?」などと、より具体的な声かけをするでしょう。
二桁年齢同士なら「大丈夫?」という短縮した言葉のニュアンスが「当然通じるはずだ」という、定型側の思い込みがあるのです。
「思い込まないでください」と言っても無理なレベルのものです。

ASと定型のコミュニケーションのつまづきの第一歩を、アルペルガーライフBlogの穴熊猫さんは「可視化できない障害」と言われています。
知能や身体能力の何らかの遅れが、目で見てあきらかにわかる場合、状態が理解できますがASの人の場合、軽度であるほど「認識、表現の一部に配慮の必要な相手」だと全く気づかず、ことが進むということになります。

「この人にはLow contextというものが必要なのだ」という手がかりが、目で見てわからないので、いつものコミュニケーションで通じるだろうと思い込んでしまうのです。

実際に多い例を言います。
職場でASを知らない上司に、ASの同僚もしくはASっぽい人(玄さんの言われる通じにくい人ですね)のアシストを任されたとき、私は「いちいち主語をつけて指示してあげて下さい。一度に複数の指示を与える場合には、メモ書きでお願いします」と、ノウハウを上司に言います。
すると上司は決まって「子供相手じゃないんだから、そんなこと出来ないよ」と言います。
私は「それでは(上司が溺愛している5歳の孫の)Aちゃんに解るように(を意識して)、指示してあげてください。」と、言い換えます。つまりLow contextの基準を、相手の定型の一番身近な、受容しやすいところに近づけます。
すると、そこで初めて上司は、大好きな孫という入り口からイメージを広げて「そういうことか」と、ASもしくは通じにくい人への指示対応意欲がやっとやっと、湧くのです。そこからのスタートだと思います。

この手法は、上司だけでなく、AS対応のあらゆる場面で、あらゆる成人定型に「そういうことか」で受け入れられやすいものです。
そしてお決まりの「そういうふう(そんな配慮が必要)には、全く見えないんたけど」と言います。

私の個人的な経験から言わせていただくと「配慮の必要性が全く見えない相手に配慮をするには、誰かがその必要性を言わなければ、配慮のきっかけ、つまりスムーズなコミュニケーションが始まるきっかけが無い」です。

私は、ASも含め少数派の説明については「説明行動を起こしてくれる多数派に任せるのが理想形」と思っています。多数派なら、多数派が理解しやすい表現や受け入れやすい言葉のチョイスも知っているわけですから。


ですが・・AS、定型の場合、定型への説明に成功したとしても、説明されたASが「自分を5歳児に例えるなんてひどい!」など、当事者のプライドを傷つける説明の仕方が、より定型には解りやすい説明になることが多いので、
カミングアウトでも、そうでないにしても、なんらか「自分はここの部分が克服しがたいので、こうして欲しい」と伝える事をしないと定型の「そうは見えないから、自分から言ってもらわないと解らない」という理由で、誤解されっぱなしや、双方の混乱や疲弊が続く・・という懸念をお伝えしたかったのです。


玄です。帆掛け舟さん、コメント有難うございます。

おっしゃるとおり、ASは「察する技術がない」の類を言われることが多いので、「察する技術が身に付けられない」と感じて落ち込みますね。それよりも、定型を「苛立たせない」話し方や態度の方が、ASが身につける方法があるという考え、素晴らしいと思います。
ASと定型が、互いに歩み寄れる発想ができればいいですね。
今後ともよろしくお願いします。


保健室に行く付き添いならば、「到着するまでの間のサポート」が任務なのですから、「大丈夫?」という言葉が「容態のチェック」という解釈もできそうなもんですが。。。大丈夫じゃない度合いによっては、「歩くこともできないから、保健の先生を呼んできてくれ!」だってあるだろうし。

「自尊心の表れ」という見方も分からなくもないですが、僕には「なすべきことをなす」という意識と感じます。割り振られた役割と全うする、これは社会人として時間を守るとか、治安を乱さないとかに拡張していっていい根っこの発想だと思います。やるべきことをやったときに覚える満足感は、健全と思います。

まあ、ASは常識とか社会的役割とかよりも、自分の感覚を優先しがちで、挨拶とか人間関係の維持の刷り込みができておらず、むしろ疎かになりがちですもんね。
その辺の基本行動はいつ頃どうやって教えるのか、上手なやり方があればいいのですが。


トマトさんへ

トマトさんは、アルコールを受け付けない体質とのことでしたが、それは目に見えないですよね。そういった、「見た目で判断できない」の話をしているのです。
ASが「相手の視覚的情報を利用しない」という部分は若干行き過ぎかもしれませんが、「見た目のみ」で判断されるのではうまく行かない状況は、トマトさんがお感じの通りです。

ASと定型のうまく行かないことの7割くらいは、「お互いの思い込み」でまとめられる話かもしれませんよ。極論すれば、「無理」という思い込みを、お互いに何とかしようとしているところではありませんか。

今回のトマトさんとの対話でハッキリした事は、「見た目では、目の前の人にLow contextが適するかどうかは、わからない」ということです。
有難うございました。

トマトさんが職場で色々工夫をされたエピソードで、上司の方が考えを軟化させるのに5歳児を持ち出さなくてはいけないというのは、スタートとしては良いですが、まだ語彙が足りない。このような上司・AS同僚・トマトさんが、納得できる説明を共有できなかった点が「ボキャブラリーが足りない」と指摘させていただいた部分です。でも、僕は希望を失っていません。ASを言い表す良い表現や考え方が、こうやってネット上での話を続けていくことで、洗練されていく事を期待しているからです。

「見た目では不要そうでも、必要なサポート(自分がやってあげられること)がある」という発想を呼び起こせれば、ASも定型も、相手のことを考られるようになって、うまく行くかもしれませんね。

「スムーズなコミュニケーションが始まるきっかけが無い」で良いと思います。
むしろ、そういう話がスムースに行かない「引っかかり」を見つけることがLow contextに切り替えるチャンスになります。
そもそもLow contextはスイッチバックのように、「スムーズでないながら着実に積み重ねる」スタイルですから。

トマトさんは「「説明行動を起こしてくれる多数派に任せるのが理想形」と思っています。多数派なら、多数派が理解しやすい表現や受け入れやすい言葉のチョイスも知っているわけですから。」と書かれていますが、僕はこれには反対意見です。
まるで「アスペルガーは(グレーも含め)全員自首して、多数派の意見に従え」というように読めます。繰り返しますが、カミングアウトは取り返しがつきません。正しい対応方が社会に定着しているとは、まだ言えないからです。
現段階で僕の考えは「説明行動をするなら『自分の説明』に徹するべき」。分かってもらえないのは自己責任です。

説明を多数派に任せて「あいつは5歳児レベル」という評価が一人歩きしたら、極端な話、「やる仕事も報酬も5歳児レベル」になりかねません。プライドだけの問題でないのです。
状況説明、自己分析、相手にわかる説明を自分なりにした上で、その結果は引き受けるのが当たり前と思います。評価は、相手がするものですから。
社会・組織のルールの理解度やそれに基づく言動は、自分に跳ね返ってきて当然です。

トマトさんは「本人が申し出をすべき」という論調ですが、「見た目に反して、うまく行かない人がいる」ということを、本人も気付いていないこともあるのですから、「本人から」という方針も機能しないことがあるのです。
必要なのは「見た目では分からない、うまく行かない人」がある程度の割合でどこにでもいるものなのだ、という常識を「全員が」持つ。そういう人は定型の「スランプ」とか「体調不良」とも見分けがつかないので、Low context監視(サポート)体制を敷く。
高度な接客業などのLow contextが許されない業務内容の場合には、適正を確認するなどの対応があっていいかもしれませんね。

トマトさんの立ち位置は、そういうLow context監視(サポート)体制時のサポーターのようなものだったのかもしれませんね。もし、そうであるならば、「片方への説明の成功」ではなく、次からは両者の橋渡しをして「両方が理解できる言葉で、両者の納得を導く」サポートをしていただければいいなと思います。(^^)

玄さん、こちらこそよろしくお願いします^^
社会的になすべきことをなした充足感と自己肯定感は、わかります。私にもあります。が、すべてそう取るのは(いや、玄さんは別にそうはおっしゃっていないかもですが)ちょっと性善説的過ぎです(笑)

もし、行動しただけで充足感が得られるなら、相手に水を差されても怒らないのではないでしょうか(「大丈夫じゃないから保健室に行くんだ」と言われたり、相手から感謝されなかったりしても気にしないはず)。しかし、ゼロでもOKなはずのところを、マイナスと取る人も多いように思うので。大抵の場合、「好意の受け止めがあったかどうか」の方が重視されている気がします。相手の助けになりたい<自己満足で。

ですから、「大丈夫?」と尋ねることは、時間を守ることや治安を乱さないことは、少々性質が違うように思います。プレゼント(贈り物)に近い性質のものではないでしょうか。贈り手のプライドの問題が絡まってきます。

本当に、なすべきことをしただけで充足感を得るタイプのすごい人(感謝されたい欲がない人、その欲と戦い打ち勝つ人。「恩人」になりたがらない人)もいて、そういう人のことは私も心の底から尊敬していますけど。残念ながら(?)そういう方は稀有な存在です。自分からは、なした行動について触れ回らないので目立たないのかもしれませんけど(まあ、本人が語らずとも、他者によって語られる場合も多いですが)。

基本行動については、私の場合は、我が家はしつけが割と厳しかったおかげか、私が浅瀬タイプ(もしくはほぼ白?)なためか、自然にできた感じでまあ不自由したことがないのでちょっと不明です。そのあたりは、もう少しAS度が高い方のご意見や克服体験の方が参考になりますね~。

トマトです。玄さん、コメントありがとうございます。

玄さんの言われる、「両方が理解できる言葉で、両者の納得を導くサポート」には、まだまだ精進が必要です。ASと定型の場合「両方が理解出来る言葉探し」もが一番、難しいですね。

比較的、スムーズにASをサポートできる場面は、病院や福祉です。知識がある人の居る環境では、「この人アスぺなんです」ではなく「この人はアスペルガーという部分もあるのです」という「やんわり」が伝わるので。
ASと接遇経験がある定型の医療・福祉関係者なら「苦手な食べ物はありますか? ・・・そうですか。それは全く食べられないほど苦手ですか? 少しは食べられますか? …私の 少しというのは2口までならという程度ですが」など、Low contextで質問してくれます。

それでも・・・ASを知識でしか知らないお医者さんは、いちいち「私の言ってること解ります?」と確認を取り過ぎてASの人を「それくらい解りますよ、バカにするな」とムッとさせたりしたこともあります。
保健師さんも教科書の「ASの人には、ゆっくり明確に話す」を大きな声で「こ・ん・に・ち・わー」と、耳の遠い人に言う様に実践したのでASの人を「バカにされてるみたい」と怒らせたりしました。
知識を得るは易し、実践するは難し ですね。

定型には「年齢相応」というコミュニケーション概念があるので「こんな年上の人に、いちいち子供に言うような細かい言い方(Low context)をするのは失礼にあたる。そんな失礼なことはとても出来ない」と感じる人は多いのです。
相手の年齢に合わせて、という定型コミュニケーションに刷り込まれた概念にとらわれるゆえの、Low contextへの抵抗感、違和感ですね。

「そこまで言わさないでよ」「そこまであからさまに言ってはいけない」を心掛けて不快や摩擦を避けてコミュニケーションをとっている定型が、成人の人にLow contextをとろうとするときは相手が「日本語が堪能でない外国人だから、病気や障害があるから」などのコミュニケーション上の理由が必要となってくるのですね。

定型が、成人ASの人にLow contextを、相手の個性と感じて自然に使いこなせる様になるまで、かなりの馴染みと理解とに、年月が必要かと思います。

人はそれぞれ感じ方、考え方、知識、育ち方、環境、経験値がちがいますから、受け入れのきっかけ、タイミングもさまざまで、説明ではだめで感情に訴える方が良い人も居ます。心情への共感を求めてもダメで、説明や解説の方が納得にとどく人も居ます。自分が言ってはねつけられた事柄を、別の人が言うとすんなり受け入れられることもあります。

前述の「上司への理解を5歳の孫という例を持ち出したこと」で、上司はAS(及びASっぽい)部下に、頭ごなしに怒鳴るような言い方はグッとこらえてくれるようにはなりました。可愛い孫という基準がひっかかり、怒鳴ることに感情的にブレーキがかかるのでしょう。
しかし、当事者には「5歳の孫」は失礼千万のなにものでもない。

この様に、定型への様々な形のアプローチが、さまざまなASの人の納得にマッチするのは難しいですが、理想を捨ててしまうと、自分を見失う事になると思うので、玄さんの言われるように「両方が理解できる言葉で、両者の納得を導く」サポートを目指さなくてはなりませんね。

私は、ASの友人と「その友人の説明の表現方法」について、沢山言い争いをしましたが、結果的に「僕が自分のことを説明するより、トマトさんがした方が俄然、僕にとって良い環境変化につながるので、なんだか気に入らないことも沢山言うけれど・・・それは僕の要求を通す手段なのだと思えば、許してあげましょう」と言っていたので、本来なら定型への説明は定型に任せる方が、本末転倒や主旨行方不明にならなくて良いかなと思ったのです。

しかしAS友人は「手術は成功したが気持ちは死んだという例もあるでしょう」と苦言も呈していたので「架け橋にしようとする言葉」というのは、もっとデリケートにすべき。

そのことを想い出させてくれた玄さんのコメントでした。


玄です。

トマトさんから、「ASを知識で知っていても、対応方法を知らなかったり、対応方法を間違えていたり」するという事例を挙げて頂きました。医療者でもこういうことは、まだあると思います。
トマトさんは「やんわり伝える」という提案をされましたが、つまり相手の理解や知識によっては、上手い対応を期待できないかもです。

言葉を理解してるかを細かく確認したり、話すスピードを遅くしたりは、Low contextのひとつとしてよいと思います。一方的にやっても上手くいかなくて、両者の歩み寄りがないとなぁ、と思わせられるエピソードですね。

「年齢相応」コミュニケーションは、Low contextと相容れない考えではないと思います。相手の受けとめを無視した「いちいち子供に言うような細かい言い方」は「Low context」とは違いますから、まだ、トマトさんはお解かりで無いと思われます。トマトさんがASのことを「細かい言い方をしないとわからない人」と受け止めているようにさえ、読めてしまいます。
Low contextは、専門外の人に物事を説明する時にも使われる、当たり前のコミュニケーションですよ。

「失礼にならないように」と、「情報を正しく共有し、互いに納得」と、どちらが大切でしょう?そういった疑問で対話が立ち止まったとき、「互いに納得」が大切と両者が合意して、それまでの「礼」を傍において膝を交えて話す状況がLow contextに重なると思います。
分かる部分を細かく言うのは、ムダです。分からない部分を噛み砕いて伝え、相手は汲み取ろうとする、そういう作業のはずですよ。
トマトさんのコメントからは「この人はASだから、この(一方的な)話し方で発言すればOK」という理想形を探そうとしているような雰囲気を感じますが、それでは「情報交換をしようとしているASとは」話が噛み合わないと思います。
トマトさんは、Low contextを「個性と感じて自然に使いこなせる様に」と考えておられるようですが、僕は逆で、感じ取れたものとは違う現実を直視して、不自由でも確実なコミュニケーションをする、というモードと考えています。

トマトさんは上司氏が、怒鳴ることを「感情的にブレーキ」していると書かれていますが、「5歳扱いは失礼だし、パワハラになるから、理性的に止めよう」という発想だって、あってよいです。
怒られ側は、「パワハラ防止」を傘にするのではなく、状況に甘んじないで「怒られない言動」を研究する。そういう歩み寄りがあれば、5歳云々は関係なくなると思います。

僕は、友人氏のトマトさんに頼りきる姿勢と、なにより勉強(改善)する気が無い態度が不服です。そういったメンタリティについては、また考えたいと思います。

5歳児扱いの件。
ここを知人に読んでもらったところ、「定型の5歳児とはそもそも違うから、単に定型的に年齢レベルを落とせばいい話ではない」というようなことを言われました。なるほど~!です。風習や心理的背景の違う外国人相手くらいのつもりがいい(その程度でいい)ってことですね。伝わるような言葉を選べば伝わる可能性は高い、わかるような伝え方をすればできることは多い、と。

玄さんが詳しく書いてくださっているのと、同じようなことです。「暗黙の了解の内容を明示すること」「相手に伝わるような説明の仕方をすること」が必要で、それは5歳児扱い(しかも定型の)とはまた別物ってことですね。

トマトです。

玄さんへ
私のか書き方が悪かったのだと思いますが、ASの友人は、論理性や平等にこだわりほぼ玄さんと同じ事を言っていて、さかんに自己説明のチャレンジはしてきたのです。
「トマトさんの言い方は、失礼だ、人権侵害だ! 今後は僕が自分で説明します、話して来ます、決めて来ます」
で・・・「ちゃんと話してきましたよ」と言うわりには、相手に主旨が伝わってなかったり、誤解されていたり、頭っから否定されて許可がおりなかったり・・が多かった。長々と脱線討論になっていたこともありました。

As友人は、質問とそれに対する答え・・・なら確実性は高いのです。でも、そこに少しでも世間話のような広がりが出来ると、相手が伝えたい事を覚えてなかったり、相手の主語の無いはしょり言葉を誤解して返答し意に添わぬ事になった・・・とか「会話」にまつわるトラブルが多かったので、
、亡くなる3ヶ月前に、彼のお気に入りの病室確保や、入院中のさまざまな感覚過敏などの点についての理解を病院側や周囲に求めていたとき「「僕が自分のことを説明するより、トマトさんがした方が俄然、僕にとって良い環境変化につながるので、なんだか気に入らないことも沢山言うけれど・・・それは僕の要求を通す手段なのだと思えば、許してあげましょう」と言ったのです。 もっと彼に耳障りの良い言葉の選択もあったでしょうが、現実というものに差し迫られると「彼には独特の世界感があり、それは文化の違いであり」という、彼が好む言い方ではらちがあかず、切迫した瞬間、瞬間の理解へのアプローチが必要でした。

今から思うと「もっと手前から、充分な彼の説明をしておいたら、切迫した状況でもソフトな表現が出来たかな」と、思っています。

要は、自己説明ならちゃかしても謙遜しても良いのですが、自分以外の人の説明は難しいということです。

帆掛け船さんへ

私は上司に「あの(ASあるいはASかも)社員さんを五歳と設定して下さい」という意味で言ったのではありません「上司のお孫さん(5歳)にも解る様に」と言ったふくみとして「悪気があるわけではないので」「突然、怒鳴るような注意はしないで欲しい」「主語、目的語は必要」ということをイメージして欲しかったのです。
それは、人として当たり前のことなのですが、「30歳でそんなことがわからんはずがない」と思い込んでいる上司には「それは人それぞれ」という論調より、もっと上司の瞬時に受け入れやすいワードとして「五歳の孫」が最適だったと思ったのです。
ですから上司は「うちの孫?」と考えているうちに「そういうことか」と、AS(らしきも含む)
社員さんの邪気の無さ、怒鳴ったときの途方に暮れている表情、返事が無いのは考えているからなのか? などを思い当たった・・・ということです。

人は、興味の強い事柄や愛着の対象からでないと、なかなか理解しようという姿勢を持たないこともあります。
正しきを正しきと言って・・伝わらず。

AS、定型かかわらず、ひとつのことを伝えるのに、難度でも、いろんな言い方、様々なアプローチで「あきらめない」ことが大切だと思っています。

その中で、気に入らない例えもあるかもしれません。
ASの方からも「こう言ったらスムーズにつたわった例」とかあったら、是非、教えて下さい。

文章での伝え方は、本当に敬服しています。

トマトさん、あっすみません。
正直、会話の方が相手の反応をチェックしやすく、こまめに軌道修正しやすくて楽です~^^;

トマトさんにそのおつもりがなくても、その上司の方の内面や、ここを読んでいる他の方(コメントしない方も含めて)がどう取るかはわかりませんので、一応ご指摘を。実際、私が感想を尋ねた知人も上記のように受け止めたわけですし。玄さんの「やる仕事も報酬も5歳児レベル」になりかねない、というのもそう受け止めた結果ではないでしょうか。危険なキーワードであることは間違いないように思います。

そして、細かいことを申せば、定型の5歳児に悪意が無いか?というのもかなり疑問です(私にだって悪意ありましたし)^^;

私の書いた、「風習や心理的背景の違う外国人相手くらいのつもりがいい」というのはいかがでしょうか。

「そんなことがわからんはずがない」が私にはほとんど無いらしいんですよ(コミュニケーション面で不足を感じたり指摘されたりしたことはほぼないです)。そういう点、有用なLow context()に関しては、困っていたものの克服したAS、何やら提示されたけれどやはり理解不能に終わった経験のあるASの方のご意見が参考になりますね。


ASの皆さま、何か言いたいことがあるけどまとめきれない場合の補助なら私もお役に立てるかもしれませんよ~(立てないかもしれません。期待しすぎず、諦めすぎずでどうぞ)。

Low context(「背景情報の共有を図ること・図り方」でいいんですよね?)
が抜けておりました~。すみません。

訂正ついでに、少し上のコメントでの
時間を守ることや治安を乱さないこと「と」は
でした。

こういう場ですと、どこまで省略や失敗をしても大丈夫なのか?は不安&気になるところです^^;意味が取れなければどうぞご遠慮なくご指摘ください。

連投すみません。補足というか蛇足かもですが。

>人は、興味の強い事柄や愛着の対象からでないと、なかなか理解しようという姿勢を持たないこともあります。

AS対策に「情」の類を絡めるのは、話をややこしくする元ではないでしょうか。この例でいくと「孫を思い浮かべていろいろ大目に見てやったのに、なんだその態度は!結局また同じ失敗をしているじゃないか!うちの6歳の孫だって(←大きくなった(笑))もうそんな失敗はしないぞ!」とかなりそうです^^;そのケースでならなくとも、他の人が使った場合なる確率が高そうです。結局、ASはその方の可愛い孫ではないのですから。

外国人に日本の風習について説明するときや、自らの信じる宗教の解説を無神論者にするときを浮かべる……くらいがちょうどいいように思いますね~。

帆掛け船さんへ

本当に「外国人に日本の風習について説明する」たぐいが、定型が、目の前のASの人のことを理解しようとするきっかけになったら、どれほど穏便かと思います。

現実生活において、定型がASについて理解の入り口に立つ時のきっかけは「この違いは何だろう?その人の出身地の風習とか、宗教か何かの影響だろうか?」とは感じなくて「すでに混乱や感情的になっている」のですね。

ASの人に不向きな「感情から訴える」が定型にきとても有効なことが多く、感情的になっている人に理論で応酬するのは火に油を注ぐことも多いです。
感情的になっている定型には「まぁまぁ」という意味不明な言葉や、「落ち着いて、あ、お茶でも入れますね」とか、何らかのクッションが有効であり必要だと思います。
そんな工程をへて、さてどう言えば「この人にとっての、考える入り口になるかな」と考えます。

上司への「お孫さんにも解る様に」は、上司の感情の刃先を丸くするワードがたまたま「孫」だった訳です。
帆掛け船さんは充分ご承知でしょうが、定型は、思考と同時に感情も動いてしまうので、思考に感情が悪くからみついているとき、その感情を良いからみにすることは必要だと思います。思考から感情をひっぺがすのは、人間関係がテーマの場合、無理難題となります。

まずは、感情から入って、感情から視点を変えてもらうことが第一段階。
上司は部下をよく見ていると「悪気はないのだなあ」というプラス面も見えて来ます。
次に「部下は30才だが、孫(5歳)との共通点(表情やふとしたときの仕草や返答の仕方など)もある、これは何だ?」
ここまで落ち着いてくれたら、そこで能力の凸凹の説明ができて「そういうことか」で受け入れられ、
上司の方から「その部下のことをもっと知りたい、理解したい」という理由で「仕事の後、時間があればお茶でも飲みながら話したいが」とリアクションをおこしてくれるまでになったら
そのとき初めて「風習や心理的背景の違う外国人」という成熟した文化的表現の例もはねつけられずに耳を傾けてくれて一段階アップの「そういうことか」という納得も得られやすい傾向があります。

理解の段階と、理解の仕方の成熟には、定型ひとりひとりに合わせた、入り口探しが必要で、最初からドンと一律の価値観(こう考えるべき)をもっていくと、閉ざされてしまうことも多いのと思います。

もしかしたら、私が上司に「5歳の孫」の例をあげたことで、私がAS全般を5歳程度と思っていると印象を持たれたかも知れませんが、それは違います。

職場で問題となったASの人の、上司が腹が立っている視点に、上司の感情を和らげるフィルターをかける意味で上司の受け入れやすいワードを探したのです。

伝えたい相手によっては「頑固な哲学を持っている人として見てみて欲しいんです」や「動線の法則人として、仕事のやり方にワンパターンがあることを認めて欲しいのです、現にASさんの動きにこちらが合わせることで、すごく効率が上がってるんです。」とか、さまざまな表現になりますが、
その中で年齢相応の概念が強い人には、年齢の例えが、その後の対応の余裕と言うか柔らかさにつながることもあるのです。

例えとして、ASの人には一番気分を害されるワードを用いた事、お詫び致します。

トマトさん、

>もしかしたら、私が上司に「5歳の孫」の例をあげたことで、私がAS全般を5歳程度と思っていると印象を持たれたかも知れませんが、それは違います。

いえ、上司の方がそう取ってしまうと、あるいはここを読んでいる方(特に定型)がそう取ってしまうと大変危険だ、ということです。

>思考と同時に感情も動いてしまう

は、私もそうです。ですが、大変なエネルギーを割いて、意識的に切り離して考えます。「大人」って、そういうことではないでしょうか??私がすべてにおいてそう振舞い切れているとは申せませんが、大人でありたいとは思います。

私が(結構な数の人と接する機会があります)感じる多くの方の傾向としては、トマトさんとは異なり、「最初のキーワードはかなり慎重に選ばないと、動かしがたいレッテルになってしまう」ですね。そのキーワードに見合う情報を好んで集める方向へ動いてしまいがち、ということです。たとえ、それが事態の悪化を招く結果になっても。とりわけ、「あの人ってAB型だから~」「おうし座だから~」とか、大好きな日本人も多いですからね~。嘆かわしいことです。そのレッテルにより苦しむ人のことは、まるで眼中にないわけで。

外国人のたとえは、穏便なたとえというよりは際立った差のあるものとして出したのですが……。もし日本文化大好きな人への茶道の説明程度と取られたなら、意味がずれてそうです。そう特異ではないようなしぐさ一つとってみても、相手の文化によっては侮辱的な意味を持つとか、無神論者と唯一神を信ずる者とでは、意識にすさまじい差があるとか……。大変な緊張感を要することだ、という意味です。でも相手の、人間としての尊厳の部分に変わりはないし、知的に見くびる必要はない、ということです。

AS側の方々も、不当に卑屈にならず、ご自分の選択や尊厳を大事にして生きて行かれたらいいな、と思いますね~。尊厳>現実的問題解決、という手段だってあるんですよ。

では、出てくるとします、するりです(笑)

まず、前提を確認しておきますが、私はここで使われている「5歳児の孫扱い」という表現そのものにもう、差別がとうちゃらと今更特別腹立たしく思いません。

ある意味、こういう表現で感情的になるのは定型の方かなぁと思うのです。

そして、その上で、なんですが、帆掛け舟さんの

>「定型の5歳児とはそもそも違うから、単に定型的に年齢レベルを落とせばいい話ではない」というようなことを言われました。


ここ、多分定型の方は「ASが差別的なことを言うな!と噛みついている」と受け取るかも知れないので私なりに解釈しますと。

「そもそも、ASは実際の5歳児だった段階から違っていた」と仰っているのではないでしょうか。
AS児童は、定型5歳児の発達ルートと別ルートの発達方法だったと思います。

一括りには出来ないでしょうがAS5歳児は「妙に大人びているところもある」と言うようなような評価を受ける子も多いと思います。

理屈っぽかったり、他の子供がわいわい騒いでいるところで一人で遊んでいたり、他の子が関心を持たない妙に難しい本を読んでいたり・・・等。

定型5歳児と同じ道をたどってきていないので、「年齢相応」という概念がなく、「大人びていると思えば子供っぽいところも言うアンバランスな変わった人」だと思うんですよね。

そういう、「これもあれも5歳児としての平均レベル」とは違う人に対する対応は・・・うーん。


確かに「背に腹は代えられない」というのはあると思います。

ですから、とっかかりとして、「部長の5歳のお孫さんに喋るようにしてみてくださいませんか」でもいいとは思うのですが、これが通常運転になっていつも「部長!お孫さんに喋るようにお願いします!」という風に一本槍になれば・・・

それこそ帆掛け舟さんが書かれているように、情に訴える手段で納得させるやり方ですから、「部長の情、メンタル次第」で、情が枯渇というか湧かなくなったら終わりでしょう。


「うちの可愛い可愛い孫だったらまだ許されるよ。でも、なんで30歳過ぎた赤の他人のオッサンにこんなこと言わないとならないんだよ」という流れに簡単に傾きます。
というか・・・そもそも、既にしっかりと「困ったチャン認定してしまっているAS社員」に対して「情」って湧きます?

「優しい自分」「寛容な自分」という自己イメージがわりと強いのが定型だと思うんです。

そんな定型が「自分の中の情の枯渇」を、ある日突然、突きつけられてしまったら・・・その瞬間、病むのは必至だと思います。

だからこそ、「情の無駄遣い」というか、「情の(バナナの)たたき売り」をしない方が、定型の方も自分の身を守ることになるのではと思うのですけどね。

同様に、AS側も「部長の情(奥さんの情、友人の情・・・)」に依存していたら、部長がその人ではなくなった時、確実に困ります。
依存している最中はそんな意識ないですけど、今、特に不都合を感じていなければ、理解のある人や運に恵まれたというだけで、それがずっと続くと胡坐をかいていては落ちた時の失望感が半端ではないと思います。

だから、どちらの心にも負担にならない「エスペラント語」を勉強するのが、遠回りのようであって、互いにとって最もストレスのかからないことだと思うのですが。

トマトです。

当事者の方にとって5歳というワードは、とても不愉快だと反省します。
ごめんなさい。

「5歳の孫」のイメージですが、あくまで「その上司」の感情から発生することによるその先の判断に訴えるということです。
「5歳児に接するように」ではなく「お孫さんに、理解出来るようにを意識して指示を出して」ということは「その上司」にしたら「怒鳴っても萎縮するだけで、反省につながらないのか」「主語を割愛すると、勘違いするかも」「一度に、あれとこれとそれと・・を言うとこんがらがるのか」とか・・・相手への配慮を「考えるきっかけ」なのです。
「その上司」ということは、別の上司にはまた違うきっかけワードを探すということです。

「僕の場合入り口は、「孫」だったが、こちらも工夫しているとAS社員の言わんとしていることが、だんだん解る様になった」という上司が居るが
「入り口は、「頑固な哲学者」だったが、意識的な(コントロールできる)こだわりと、無意識の(コントロールできない)こだわりを知った」という上司も居る。

その人ごとに、考えるきっかけのピントが違う、ということです。

皆、共通のきっかけや一律の説明の仕方、理想的な説明の仕方では「わからん」という人が多いという現実です。
専門書などでも、「ASは思いやりがわからない」「冗談がわからない」と書かれて、ASの多くの人が傷ついたり「そんなことは無い」と反発します。
その本のままの内容で決めつけられちゃたまらない、というご気持ちはもっともです。
しかし、反面、「そうか、あの時、冗談だとわからなかったから怒ったのか」「思いやりという概念が自分とは違うのか」という気づきのきっかけになっている人もいる事も事実です。

本来は、その人の尊厳やプライドや気分や生き方を傷つけず、そこねない言い方が良いのは「人として当たり前」のことで、充分承知しています。

ASの友人が、長い時間をかけて私にゆずってくれた理解の中に「自分を侮辱するような例を出されたとしても、その先の自分の生きやすさを目指す目的のための、手段としてなら(そこにこだわるのは我慢して)許してあげましょう」と言った・・という例です。

ワードにこだわりを持つ人には、耐えられない例だったかも知れません。
そこのところ、おわび致します。

んん???トマトさん、上の私やするりさんのコメントをお読みになっていますか???別にワードにこだわっている人が怒っているわけではないですよ?特に「5歳児」限定ではなく、ワードの投げかけは慎重の上にも慎重を重ねるべき、投げかけられた方(上司)は、そのワードに基づく証拠集めをするだろうという意味です。占いの結果や性格診断に縛られる人のごとく。


するりさん、そーです!そういうことです。話が通じてラクです~(笑)(他の方へ、念のため。こういう「通じやすさ」は、別にAS・定型に限った話ではないです。ちゃんと相手の話を聞くかどうかということです)

実はするりさんによる5歳児のまとめは(双方発達の仕方が違うからという話)、知人もそれに近いことを言っていたのですが、私の感覚で(自明だろう、と)短くまとめてしまいました。短縮の結果誤解を招いたようですみません。

「情」押しの弊害についても、ありがとうございます~!そう、「情」を使ってしまうと、頼られる方としては気分良くても、本人のためにはならないんですよね。情が湧かなくなったときは施す方の精神も危険、確かにそうですね。そもそもすでに失敗しているASに対して情が湧くか?のご指摘、「情の(バナナの)たたき売り」、笑いました~。

こちらを読んでもらった知人が言っていた「この方(トマトさん)はもしかして、『発達障害』という名称からの推測で、当事者が発達していないと考えているのではないか」という意味がようやく理解できてきました。トマトさーん、定型とASでは、そもそもの土台が違い、発達のルートも違うのですよ~。どっちが高等・下等という話でもなく。「定型で言えばこの年齢相応の発達段階」とは言えないということです。

卑近な例で言えば右利きと左利きの違いのごとく(違いを浅くたとえ過ぎかもですが)。くじらも魚も泳ぐために似たような形に進化したものの、別種の生き物で、身体の使い方(酸素の取り入れ方など)も違う、みたいな……。

これも知人からの指摘ですが。
トマトさんは今まさに、「ASは言葉にこだわる」というレッテルから修正が利かない状態に陥ってらっしゃるのではないでしょうか。私が最前から申し上げている「レッテル貼りの危険性」(レッテルに基づく証拠集めをしてしまい、事実を見ない)というのは、まさに、こういうことなのです。

上で挙げた尊厳の件もその知人からの発想です。他の方と共にこちらを読んで感想を言い合うのは楽しく、また別の着眼点を得られて楽しいです。私の周囲にはネットの苦手な方が多いので、私が適当にまとめてお伝えするしかないですけど。そのために振り落としが生じる可能性はありますけど。

おお少し筆が滑りました。楽しいの重複だとか(笑)
ともかく、「相手はこういう風に取っているのか?」の確認と修正はこまめに必要ですね~。相手の誤解を察知したときや意味がわからない箇所については、ほんと双方、すぐ疑問を提示していかないと、ズレが大きくなってしまいます。

帆掛け船さんへ。 ありがとうございます。
『定型とASでは、そもそもの土台が違い、発達のルートも違うのですよ~。どっちが高等・下等という話でもなく。』という認識がありながら、上司のような「定型感覚ゆえの年齢相応の言動を強いる」相手には、「30歳であろうとも、そこは柔軟に」の「柔軟の」の部分を「孫にも理解出来る説明の仕方」と伝えたのです。

これは、定型社会ではよくある設定の仕方で、例えばCMを作る時「どの年齢層をターゲットにするか」で、CM作品の内容が決まったり、
難しい社会問題を「高齢者から小学生まで、飽きずに、解りやすく表現するには」と考えるとアニメーションという手法を使ったり、
私は仕事でやはり「小学生が聞いて解るような表現」と指示されたり、表現を意識するときのめやすとして「年齢層」は、よく使われるものだという認識があります。

最近では、20代の人の使う言葉の意味がよくわからず、意味をきいてもよく解らず「私を80歳のおばあちゃんだと思って、もっとわかりやすく説明して」と息子に言ったこともあります。もし「トマトさんには、ASでいうところの5歳での説明を」と言われたら「トホホ」と思っても、それがとても解りやすいものであったら「5歳でおねがいします」と、わかりやすさの基準として使います。

ASの人が「1対1の会話が理解しやすい、複数だと解らなくなる」と言われますが、正直、私も同じだと気がつきました。

前々から(このブログに限らず)、ASの人同士の「そこウケました」が解らず、どちらかというとASの人同士で、解りやすいとか同感ですと交わしているコメント内容は「解らないなぁ」か「定型があからさまに愚弄されている感」か、どちらかでした。
でもそれ以上に、のびのびとやりとりされていることが良い事なのだと「ちょっと待ったぁ〜、その一言傷つくぅ」とは入らずに、流して来ました。(こういうことはASの人も多いだろうと思いますし)

ですから、もしかしたら定型同士が理解しやすく共感しているコメントや言い方は、それが例えASの人への理解のステップであってもASの人見れば「傷つきます」「心外です」「それは間違いです」というものも多いかも知れません。

それがまさしく、帆掛け船さんの言われる「そもそもの土台が違い、発達のルートも違うのですよ~。」というところからくる「感じ方や取り様の違い」というものかも知れませんし、一度このズレに陥ると、どのように説明を重ねても一致点は見いだせない「地雷」みたいなものかもです。

ASと定型が向かい合っているときは、気を使っていますが、定型同士がASを AS同士が定型を語る時、その共感のノリが、「そんなひどい表現するなんて」というギョっとしたりショックなやりとりに感じられて、「あぁね本心はこうなのか」と不信感を抱くのではないでしょうか。

トマトさん、私の感じるところによると、ASかどうかよりも、どちらかというと、読書好きかどうか(日本語が読めるか、ちゃんと文脈を把握できるか、異文化への調整ができるか、楽しめるか)、文化資本などによって、通じやすさや共感、ウケる箇所の共有はできていますね。定型であろう著者の話でも、伝えることの危うさや繊細さをしっかり認識しているものは、大変読みやすく、また結構共感もできますし。私は周囲に読書好きが多いのですが、そういう人たちとはここまでの齟齬を生じた経験がありませんので。

ところで、

>トマトさんは今まさに、「ASは言葉にこだわる」というレッテルから修正が利かない状態に陥ってらっしゃるのではないでしょうか。私が最前から申し上げている「レッテル貼りの危険性」(レッテルに基づく証拠集めをしてしまい、事実を見ない)というのは、まさに、こういうことなのです。

についてはどう思われますか?大変重要な箇所だったのですが。

>占いの結果や性格診断に縛られる人のごとく

という私の表現が、もしかしたら、占いのお好きな方には通じなかったりするかも!と思い至りました。血液型、星座、四柱推命とかタロットとか……。

占い好きでも、個人の嗜好の問題なので、それはそれで結構ですが(他人に押しつけない限りは)、もしそうでしたらその旨をお書きくだされば、「そういう背景のある発言」として、いろいろと納得できそうです。どうもトマトさんのコメント全般が、普通の定型の意見としては納得しがたいところ(すれ違うこと)が多すぎますので。占いの大好きな知人の話の持って行き方・その知人との話の噛み合わなさにとてもよく似ています。

またまた出てくるタイミングが分からない私ですが…するりです。


「5才児」というワードそのものに対する嫌悪感はないということは前のコメントで書いた通りですが、相対的に「レッテル貼り」に神経質になる傾向はあると思います。
このお話しをするのは控えてきたのですが、「レッテル貼り」で、物凄く苦しんだことがあります。

学生時代からだから、ウン十年の付き合いになる、恐らく一番の親友と言える友人がいました。

彼女はまた、ビジネスパートナーでもありました。


私の人生の暗黒期は元夫のモラハラ、そして元夫のモラハラの一環としての診断受けろ攻撃に屈服して、という不本意のAS診断、DV…でしたが、もう一つ大きな出来事としては、心から信頼してきたその親友に「私、アスペルガーなの」と告げたところ、彼女自身は「それがどうした、あんたのことは子供の頃から、誰よりも知っている」と、涙を流しながら励ましてくれたのです。

最初は。


でも、彼女の旦那さんは認識が違いました。


彼女の旦那さんが、最初にアスペルガーについて知ったのは連続殺人事件の犯人の精神鑑定でそう報じられたのが最初だったようです。


一度、イビツな入り口から入るとそこから軌道修正するのは大変なんでしょうね。
その方は「世の中のほとんどの犯罪は発達障害者によるもの」ぐらいの認識を持ってしまったみたいで、「私」を見なかった。
「私」が、どういう人間か、それは見なかった。

奥さん(親友)に「そんな人間と関わるな」と相当釘を刺していて、彼女は板挟み状態で辛かったようです。

そう言った事情をつい最近、知りました。

もう、一緒に花火大会に行ったり、バーベキューをしたりという関係に戻れそうにはないです。
めっきり誘われなくなりましたし、こちらからの誘いも、やんわり断られるようになりました。

私は彼女の家庭が不穏になることは望みませんから、諦めています。

「そんなことで友人を見捨てるような人はそこまでの人だったのよ」と言う励ましも、「連続殺人事件のアスペルガー疑いリストばかりを毎日見ていたらそうなってもおかしくないよ。そんな毒にも薬にもならない気休め言わないで!」と言い返したくなります。

世間の認識はまだまだそんなもの。

だから私は、安易なカミングアウトもレッテル貼りも、オススメ出来ません。

同じく出てくるタイミングがよくわからないパンダ です。

 するりさんの上のコメント、なんだかびっくりするくらい、
 「するり」(しゃれです、失礼しました m(_ _)m)と気持ちの中に入ってきました。

 「ああ、それはそう考えて当然だな、私でもわかる」
 という感じ。定型的な表現にすれば「共感成立」です。

 なんでなんでしょう?なんかほんとに素朴に(?)
 ご自分が傷ついたときの体験を語られているからなのかな。
 それと、そういうことなら傷つくのは当然と思える内容だったから?
 
 じゃあ、なんですっと共感できない場合が有るんでしょう?
 「何故傷つくか」もよくわからないことがあるし。

 なんか何でか分かんないことだらけですが、とにかく上のコメントは
 ほんとに素直に私の気持ちに入ってきました。
 (あ、別に他の考え方の可能性を否定しているつもりはありません)

トマトです。

私もするりさんのコメントに、とても同意というか共感しました。

毎度おなじみの友人AS君ですが、我が家では、私がいつもASくんのことを話題にしていたので、家族も「なんだかおもしろい人」というイメージがあったらしく、私が「もう疲れた、AS君とは関わりを断ちたい」と言ったとき「それは無責任、うまく距離感をとりながらでも関わってサポートすべき点はすべき」と背を押してくれたのは家族で、彼の入院や葬儀のときも駆けつけてくれました。
不思議なご縁かも知れませんが、夫は自閉圏の社員さんを雇用していて、息子2人もそれぞれ自閉圏の友人が居て、ASという言葉が世に出ないうちから、知らず知らず家族それぞれが、なんとなく自然に関わりを持っていたという経緯があります。
そういう家族環境だったので、自由にASくんと関われてきました。

でも、もう1人の親しい友人は、やはり家族にASに偏見を持つ人がいて、AS君に会うのは秘密にしていました。

だから「入り口」というのは、一面、大切だと思います。

レッテルの問題ですが、私生活で友人としてつき合う面では、ASという認識より個性として感じられます。だから「ASだろうが何であろうが」という対等感で、ASくんと喧嘩したり、わがままをぶつけたりぶつけられたり、教えたり教えられたりの日々でしたね。

でも・・・1対1のつきあいではそれが成り立つのですが、第三者が入ると(友人や病院や福祉や警察や全てに)なんらかの問題がおきたとき「説明」というサポートや保護が必要で、そのとき必要に応じて「ASなんです」ということから説明を始めました。

職場でも、AS社員さんの言動が周囲との摩擦や誤解に走り、上司や先輩から怒鳴られたり、いかにも理解できそうにない注意の仕方をされていると「そういう注意の仕方ではなくて」とお願いの形で割って入る時、やはり「どうして一般的な注意の仕方やアドバイスの言い方が通じないのか」という点の納得が一番必要になってくるのです。
そこの納得なしには次に進めないというか・・。
そういうときに「AS」への、最低限の知識や認識は持ってもらわなくては、対応側の変化が得られないと感じます。
ですから、職場や公的な場では、誤解が理解に変る起爆剤としてレッテルが必要なときはあると思います。

ものごとに常にプラスとマイナスがあるように、レッテルが偏見につながることも、理解と受け入れにつながることも両方あります。

ここに「何のために張るのか」という意味が問われると思いますし、「張ったあとはどうするのか」という姿勢が問われます。
その人を守るためのものであるため、受容するためのものであるべきと思います。

そのためには、もっと世間がASを身近に感じて「私、ASなの」に対して「私も、ここの部分はASっぽいわ」と、一部自分にもある部分だという認識が広まればなぁと思っています。

「この人はASだから、挨拶をすることにイマイチ必然性を感じないのだな(全ての例ではありません」「この人、更年期障害だから、突然イライラしちゃうんだな」「暴走しちゃった、さすがB型」という、日常の付き合いでの理解や納得の仕分け、と言う意味では、実は様々なラベリングをしているのかも知れません。

日頃は、意識していない潜在意識を、帆掛け船さんに見抜かれた・・というか、「やっぱりASの人の洞察力はすごい」と、これもラベリングでしょうか、でも、すごいと思いました。

するりさん、いつでもご遠慮なく出ていらしてください(笑)別に私のブログじゃないですし、その時展開中の話題に合わせる必要もないですし(そんな感じの複数話題並行って、こちら、よくある気が)。いや、乗ってくださると嬉しいですけど。

ラベリング、それは大変でした。ご本人をよく知っていてさえそうなるのですから、他人が勝手に触れ回るなんてのは絶対にしてはならないんですよね。

私、もっと軽い件ですが面白がって勝手に触れ回られ、大変嫌な思いをしたことがあります。友人にそういうことをされるとは思っていませんでした。というかその件以外にも常識はずれすぎて、もう「元友人」ですが。なんであっても情報を出すということは、話のネタにされうるということなんだな、一人に打ち明けるということは世間に触れ回るのと同じことと覚悟しておかねば、としっかり学びました。ほんと、一度植え付けられた印象は中々、いや、ほぼ払拭できないものですね。


パンダさん、他の方(ちゃんと相手の話を聞いて、しっかり語ってみたい方)が出てきやすいよう、展開が明後日な方向へずれないよう、調整してくださると助かるのですが(^-^;ナンチャッテ

その方がパンダさんのまとめ記事のための意見もいっぱい出てきますよ~^^


トマトさん、

>日頃は、意識していない潜在意識を、帆掛け船さんに見抜かれた・・というか、「やっぱりASの人の洞察力はすごい」と、これもラベリングでしょうか、でも、すごいと思いました。

お褒めのお言葉、ありがたく頂戴いたします^^
そう、ですからコメントはトマトさんでも私でも誰でも慎重に……。まあ頑張ったところで、普段の言動が透けてしまいますけどね。

その「洞察力はすごい」が相手や場所を選ばず適用されて「ちゃんと見抜けるはずだから察しろ。不安なんてありえないはずだ」みたいになると、ラベリングとしての弊害がまた出てくるわけです。見抜かれうるから身を引き締めよう、程度ならいい作用じゃないですか?


他のAS・定型の方々へ。ご覧のように、話のずれる原因はAS・定型間のずれ以外にもありますよ~。実生活では相手の情報を他の人と共有できて(何にはまっている人だからそれ相応のお付き合いで済まそう、とか)、その点はラクですけどね。

補足。私の最後の文が誤解を招かないように。
宗教や占いやねずみ講など、「何かにはまる」のは本人の選択の結果であり、生まれついてのものとは全く別物です。はまることによって距離を置かれることは知った上ではまっている面もありますしね。

パンダさん

おそらく、このコメントについて、パンダさんが「分かりやすい」と思ったのは私が今回、「ああ、これはいくら理論を言っても届かないわ。実体験書かないとな」と思い、封印していた実体験を意図的に書いたこと(プライバシーのことを考えて、いつもはなるべく書かないようにと制御しています)、
そして私が「すごく苦しんだ」という言葉を使ったからではないでしょうか。

「すごく苦しんだ」は・・・あまり言いません、普段は。

だって、特にこの場合だと板ばさみになった友人も苦しんでいるわけで・・・「自分がどう感じたか」を一方的に表明するのは卑怯とまでは言いませんが、なんか気持ち悪さを感じてしまうのですね。
特に誰も悪くない場合はそれが顕著です。
うまく説明出来ないのですが。


>トマトさん


>ものごとに常にプラスとマイナスがあるように、レッテルが偏見につながることも、理解と受け入れにつながることも両方あります。ここに「何のために張るのか」という意味が問われると思いますし、「張ったあとはどうするのか」という姿勢が問われます。
その人を守るためのものであるため、受容するためのものであるべきと思います

本当にその通りだと思います。
必要な時もあります。例えばAS君がお父さんにちくわだけ食べさせて栄養失調になってしまった時の対応とか。

そして、物事はそうそう上手く予定調和のように運ぶわけでもないし、しょうがない部分もあるということは承知しています。

ただ、「定型対応マニュアルが出来た!これでOK!」となるのではなく、最善を尽くしたいという気持ちはいつも持ち続けたいなと思っています。

>帆掛け舟さん


帆掛け舟さんも、災難でしたね・・・。そう、旧知の間柄でさえそうなるという事実は堪えましたよ。

実は、「そんなことで見捨てるような友人なんかにこだわってもしょうがない。ASって、ただ空気読めない人の総称で、殺人犯なわけないだろう。 これだけメディアとかで色々取り上げられているのにそういうこと何も知らないような無知な人はほっときな」と言ったのは、医者です・・・。

「あんたこそ空気読めよ」と言いたかったです(苦笑)

するりさん

 ありがとうございます。今回のコメントもほんとにすっと気持ちの中に収まる、
 という印象を持ちました。

 するりさんは意図的に書き方を普段と変えられた、ということがあって、
 そのことが私に「(とても素朴な感覚での)わかりやすさ」をもたらしたのだとすると、
 そのことの意味はすごく大きいものがあるように感じます。

 そのような書き方はもしかするとするりさんにとって不本意なものだけれども、
 定型(またはパンダ)に対する配慮とかサービスとかとしてされた
 ということであれば、一方的にご負担をかける形は好ましくはないとしても、
 少なくともアスペのするりさんの側からは、
 すでに定型に理解させるすべをこんな形でお持ちなのだと言うことになります。

 逆に言えば、定型の側からアスペの方の気持ちに
 ストンと落ちるような表現の仕方はまだよく見いだせていないのかも知れませんが、
 いずれにせよ、工夫次第で定型の側からもそれが出来る可能性を
 今回のするりさんの書かれ方は感じさせて下さっているように思います。

 もう一つ言えば、そこでの「すっと気持ちに収まる」感じは、
 かずきさんの文章や分析がほんとにわかりやすくて感激する、というのとも、
 玄さんの分析がとても鋭いところを明確に突いて下さるというのとも、
 どちらともちょっと違う感じがします。
 その違いがなんなのか、まだ言葉で説明はできそうにありませんが、
 本当に素朴な印象としてそう感じます。

「だって、特にこの場合だと板ばさみになった友人も苦しんでいるわけで・・・「自分がどう感じたか」を一方的に表明するのは卑怯とまでは言いませんが、なんか気持ち悪さを感じてしまうのですね。特に誰も悪くない場合はそれが顕著です。うまく説明出来ないのですが。」

 この、「それは卑怯だろう(or気持ち悪い)」という、
 コミュニケーション作法に関する感覚を説明して下さるのは、
 とても大きな意味があると感じます。
 お互いのコミュニケーションにズレがあるとき、
 どうやら人は「相手は作法を知らない、あるいは無視する困った奴だ」
 とまずは感じることが多いようで、それも双方がそう思いこむ。

 「いや、そういうことじゃなくて、そもそもの作法の感覚や内容に、
 お互いにズレがあるんだ」
 ということが発見できれば、それはとても大きいことだと思うし、
 それは一種の「文法理解」となって「通訳」ということの可能性を
 ぐっと現実のものに近づけてくれるような気がするからです。
 
 

横からすみません。 ASの主人と40年近く暮らしてきた、定型妻です。

トマトさんのおっしゃっていること、とてもよく解ります。
そして、帆掛け舟さんとお二人の、理解を求めての真摯な意見交換を拝見していて、
今更ながら、つくづく難しいなぁと思いました。

まるで、私と主人の毎日を見ているようです。

このズレは、どうしたらよいのでしょうか・・・。

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