言葉と気持ち
こんな話を思い出しました。これもまた学生時代のことですが、先輩が夢を見たんだそうです。それは怖い夢で、自分が夜、杭に縛られていて、その自分をめがけて訳の分からない化け物のようなものが襲ってくるんだそうです。それで先輩はとっさに必死の思いでその化け物に名前を付けた。なんでもよくて「りんご」とか「車」とか、そんなことなんですが、そうするとその化け物がふっと消えると言うんですね。そうやって化け物達の攻撃をなんとか避けたという話でした。そして目がさめて思ったんだそうです。「ああ、これが言葉というものの力なのか」と。
それを聞いて、なんだか面白いなあと感じたんですけれど、つまりこういうことなんでしょうね。自分の中には自分でも訳の分からない力がうごめいている。それは訳が分からないものですから、言ってみればお化けで、自分を脅かす怖ろしいものです。(そう言えば私も3歳の頃だったと思いますが、押し入れからお化けが出てきて布団から逃げ出してとなりの部屋の親の所に駆け込んだことがありました。もちろんお化けは夢だったわけですが、その頃は夢も現実も区別ないですから、ほんとに怖かったんですね (^ ^;)ゞ )
で、その訳の分からない怖ろしいものに対して、先輩がやったのはそれを何でもいいから自分が知っている訳の分かるものにしてしまう、ということでした。つまり、名前を付ける、ということですね。そうやって「ことば」にしてしまえば、その得体の知れないものはコントロールが出来るものになって、恐怖の対象ではなくなっていく。言葉にはそんな力がある、と先輩は考えたんだと思います(と、少なくとも私は理解しました)。
ここで一旦話は飛びますが、私は趣味で昔の歴史物とか、見たり読んだりすることがあるんですが、ご存じの通り、どこの国や地域にも、「神話」というのがあります。韓ドラとか見ていても、その神話を題材にした歴史ドラマとかもあったりしますが、いずれにせよ神話のことですから、現実にはあり得ない荒唐無稽な物語がずっと展開していきます。
以前はそういうのを読んで、まあ昔の人はよくこんな荒唐無稽な話を思いついたもんだ、と思ったり、それはやっぱり昔の人が世の中を合理的に理解できなかったからそうなったんだろうなと思ったりしていました。でも分かんなかったのが、なんでそんな荒唐無稽な物語を大まじめに昔の人々が共有し、そして伝え続けてきたんだろう?ということでした。もしそれが何も意味がないことなら、どこかで忘れられ、消えてしまっているはずです。でもどの社会でもそれぞれ何かの神話をずっと伝え続けてきた(もちろん時代によって内容はだんだん変化したりもするわけですけれど)、ということは、人々がなにかそういうものを必要としていたんだと思うんですね。
で、神話にはいろんな物語が含まれています。化け物の話もあるし、怪獣退治の話もあるし、びっくりするように残酷な闘いの話もあるし、愛の話もあるし、怨みの話もあるし、滑稽な話もあるし、どうやって世界が出来たかみたいな話もあるし、どうして物や場所の名前はそういう名前になったのか、みたいな話もあるし……。
それで、ここで最初の話と繋がってくると思うんですが、最近もそういうのを読みながら、ああ、これって感情の物語りだったり、人と人との感情的なコミュニケーションの仕方の物語だったりするんだな、という気がしたんですね。
昔の人間の社会って、今と比べてほんとにいろんな恐怖に満ちていた。今でも戦争はなくなっては居ませんけど、昔はほんとに日常茶飯事。闘いで死ぬ人の数も人口に比べればものすごい割合です。闘いの結果人がごっそりとさらわれていったり、というのも普通のこと。伝染病もよく起こって大量に人はなくなるし、飢饉は繰り返し起こって、餓死したり、もっと悲惨なことが起こったりも繰り返される。
それ以前に、自然が厳しい。猛獣や毒蛇などにやられちゃうということはこれも日常生活の中でよく起こること。干ばつや洪水や冷害や、そういうこともすぐに人々の生活を脅かし、命を簡単に奪っていく。
その日々の暮らしの中にありふれた「死の危険性」や恐怖は、今でいえば交通事故と殺人事件とかかがちょっと近いのかも知れないけれど、でもその深刻さは全然比べものになりません。
そういう不安や恐怖に満ちた世界の中で、人間同士もどこまで信頼できるのかどうか分からない世界の中で、神話の元が生み出されていったんだろうなと、そう思えたんですね。まあ別に私が言わなくても、そんなのとっくに常識かも知れませんけれど (^ ^;)ゞ、まあ、少なくとも私も今頃そんな気がするようになってきたわけです。
そうやって人々は得体の知れない恐怖をことば(物語り)にすることで、何とか乗り切ろうとした。またそういう物語を周りの人たちと共有することで、なんとかその恐怖の世界をみんなで乗り切ろうとしてきた。そんな風に考えてみると、当時の人々にとって神話というものはものすごく身近でリアルな、そして重要な物語だったのかなあと思えてきたんですね。
さて、それでアスペと定型の話なんですが、このところ、「二つの人生観」みたいな話で、アスペと定型の人々は、それぞれの感じ方や置かれた環境(多数派か少数派かみたいなのも含めて)の違いによって、だいぶ性質の違う「生き方」や「人生観」をそれぞれに作り上げてきたんじゃないか、ということを書いてきました。
そしてその生き方や人生観が異なると、お互いに相手のことがものすごくひどい人に見えることもある。たとえば定型が井戸端会議で「いい加減」な話をしていたり、言うことがその場その場で「ころころ変わる」ように見えたり、言っていることが本心なのかと思ったら、実はそれは「建前」で、本音は全然隠していて、言ってみたら「騙す」ことをやっている「信用できない人」であったり、というふうにアスペの方からは感じられることがある。
逆に定型から見れば、アスペの方は空気を読まないけれど、それは「相手を大事に考えていない」ことでもあって、とても身勝手で、人を傷つけるようなことを平気で言ったりする、と言う風に見たりする。
でも、お互いに相手に自分のことをそう言われると、納得がいかないんですよね。お互いに「ひどいのはあんたでしょう」と思っているし、「私は精一杯相手のために譲歩して頑張ってるのに、そのことも理解していない」と感じたりしている。もちろんもう「相手のために」なんていうことを考える気力もなくなって、相手を攻撃したり拒否したり、といった状態になってる場合も少なくない。
なんでそうなってしまうのか。そのことを考えるときに、「(恐怖や不安などを含めた)感情の世界をどんな風に言葉の世界につなげていくのか」ということ、そういう意味での「生き方」や「人生観」の違いというものが、もしかすると大きな意味を持ってくるのではないかと思ったんです。そう考えると、さて、アスペの方が「神話」のような物語の世界をどんな風に感じられるか、ということにも興味が出てきました。
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