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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年8月22日 (木)

「身内」を越えた理解の可能性

 たびたび話題に引っ張り出して恐縮ですが、かずきさんのコメントが、私には良い意味で「衝撃的」でした。玄さんのコメントにも良い意味でいくつもの「衝撃」を与えていただいたのですが、私が共通して「衝撃」を受けているのは「アスペの方と、私自身が考え込んでいる問題について、こんなふうに議論が共有できるんだ」ということをとても明確に感じさせていただいた、と言う点です。

 もちろんお二人はそれぞれに異なった個性を持っていらっしゃって、かずきさんのコメントはまた玄さんのそれとは違った側面で私には「衝撃」だったのですが、それはどういうことかというと、ものすごく分かりやすく、そしてクリアに、「それぞれの立場で状況はどう見えるのか」ということを、どちらの見方に偏るわけでもなく、説明して下さっていることです。それはかずきさんご自身がアスペ的な感覚や考え方を持っていらっしゃることを「捨てて」そうなっているわけではなくて、あくまでもご自分の感覚はしっかり保たれながら、なおかつ、定型的な方についても私の感じ方では「偏りない」、素直に納得できる説明をして下さっている。

 アスペの方に対するありがちな「決めつけ」からすれば、そんな風に「他者の視点」に立って議論をするということがそもそも「出来ない、あるいは極めて苦手」なのが「自閉系の特徴」とされているのだと思うのですが、かずきさんの議論はいともたやすく、そういう見方の限界を示して下さっていて、そしてアスペと定型の間で「共通の理解」を生み出していく、具体的な可能性というか、いや、可能性と言うよりもう実際に現実の例を見せて下さっていると思うのです。

 もちろん、定型同様、アスペの方も多様ですから、たまたまかずきさんの個性がそうだったにすぎなくて、他のアスペの方との間には、今回のかずきさんのコメントのような形での「理解の共有」は難しいことが多く、別の模索が必要ということも有るかも知れません。でも、仮にそうだとしても、そしてまだ数少ない例であるとしても、少なくともそれが全く「不可能」ではない、ということを示して下さったということについての「衝撃」なんですね。

 このところ私はしばらく「理性的な理解」と「感情的な納得」の問題にこだわり続けてきましたが、かずきさんのコメントから得られるこの感じは、一体どっちなんだろうかと改めて考えます。ある意味、どちらか一方ではなく、両方がからんでいるようにも思えます。このあたりは私はまだ少し時間をかけて考えていかないと分からないかも知れません。

 私がこのブログでなんとか模索したいと思っているのは、「お互いに」、「ああなるほどね」と素直に納得できる理解です。定型だけが集まって定型的視点のみでアスペの方の「特徴」を決めつけたり、逆にアスペの方だけが集まって共有できる「定型の姿(定型への理解)」ではありません。「身内」だけで成り立つような理解は、なんとかして越えたいのです。

 これは私としては「同じ」であることを押しつけるような「共感」の追求とはちょっと違うことだと考えています。なぜなら、かずきさんのコメントがそうであるように、それは「違い」をお互いに認め合い、その違いに「納得する」作業だと思えるからです。「自分はそうは感じないし、そういう行動はしないけれど、たしかにこういう前提を置いて見れば、その人がそう感じ、そう行動するのは分からないでもない」という風に思え、しかも相手の人もそれを聞いて「言われてみればその通りだな」と思える議論。

 「私(たち)」に閉じこもることでもなく、「私(たち)」を否定することでもなく、お互いを自らを捨てることなく認めあえるような議論。そんな私の「理想」が、もしかしたら本当に可能なのかも知れない、という「可能性の一端」を感じさせていただいたのだと思います。

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コメント

トマトです。

私個人はアスぺの方の魅力のひとつに、定型では及びもしないユニークな視点と卓越した分析力、深い洞察力があると前々から感じていました。
定型の例え話はどうしても感情を含んだ文科系になりがちですが、一部のアスぺの方はそこを幾何や数式的なパノラマ、ときにカラリとした噺家の話術のように見せてくれて、その発想や表現の仕方は、定型の概念の死角や盲点を楽しく突いてくれます。

からくりを解くときのように、感情をはさまず考えていらっしゃるのでしょうか。

こちらも、とても面白い講義や謎解きを聞いているときのように、抵抗感も違和感もなく一気に魅き込まれる、いわゆるエンターテイメント性を感じるのです。

そしてそれは、そのまま逸話として記憶にのこり、誰かに伝えたい「話」となります。なぜなら、それは、第三者にも解りやすく興味深い内容として受け入れられやすいからです。

自分の一生懸命の、渾身のコメントでも、感情や欲求という生々しいものが入っていると、かえって伝わりにくいのかな・・・そういうことを前々から玄さんは言われていたのかなと、ものすごい時間差で納得したりしています。


>「それぞれの立場で状況はどう見えるのか」ということを、どちらの見方に偏るわけでもなく

そう受け止めてくださっている事に安心しました。
どちらかに偏ることが無いようにと、心がけているので。


私がそう受け止めて下さるような考え方が出来るようになったは、
恐らく母の教育の賜物です。

「かずきは違うかもしれないけど、社会の多くの人はこう感じる、
 だから社会の一員として生きていく以上は、そっちも知らなくちゃいけない」

「みんな感じ方は違う、違っていい。だけど、違うんだという事を念頭に置かないと、
 かずきが違うんだという事も受け入れてもらえない」

「全てのものには理由がある。
 どんな言葉でも、無意識でも、「その言葉」を選んだのには理由がある。
 その理由をあらゆる立場に立って推測しないと、その人の言葉の裏の気持ちは分からない」

「どんなときでも、少なくとも3つ以上の視点に立って、物事を見、感じなさい。
 そうすれば意見が対立した時でも、相手の言いたい事が受け入れやすくなり、
 ひいては自分の意見も伝わりやすくなる」

「人の立場になって考えなさいとは自分を置き換えるのではなく、その人になりきって考えること。
 そうすればその人の感じ方、考え方が分かって、その人と話すのが面白くなる。」

要約するとこのような事を、幼稚園の頃から、けんかしたりなんだりする度に毎日言われて育ってきました。
おかげで、ある出来事に対して、「(自分にとって)最良」「素直に感じたこと」「(自分にとって)最悪」の3つはすぐに浮かんできますし、
少しでも時間がたてば5個、6個。調子がよければもっと、立場や見方、それによって生じる感じ方の差というのを想定できるようになりました。
もちろん、それは私の中で考えている以上、必ずしもそうだと言い切れないという事も叩き込まれていますが。

ASとか定型とか、そういった事が概念としてなかった母ですが、
母が苦労してきた事を踏まえて、「自分にそっくり」な私に対して厳しく言ってきたのだと思います。
そこが、私を「決め付けへのこだわり」を許さず「他者の視点」を想定する事に「こだわる」ようにしてきたのだと思います。

もちろん、はじめからそうできたわけではなく、幼稚園では入る前からの友人たちとしか遊ばなかったり、小学校ではいじめを受けたり、中学高校では教師とトラブルになり登校拒否になったり
そういったトラブルから、母の言いたかったことが、時間をかけて裏付けられ
「自分の感じ方やり方ではダメなんだ」という完全な自己否定を受け入れて始めて出来るようになったことです。
(もちろん、母が言っていた事全てが正しい訳ではないという事も含めて)
そしてそこから始まる観察と分析が好きというか、面白いというか。生来のそういうところが手伝って、今に至っています。

その完全な自己否定の裏づけとしてASだと分かり、自己「否定」じゃなく自己「保留」でもいいのでは?と思い始めているのが今の私です。

今の養育の現場を知らないので分かりませんが、
自己否定からではなく、自己保留する事からこういう事に気付けるASが増えれば、
そして定型側も自己保留する事が出来れば、もっと、
お互いを受け入れた上での人間関係の構築が進み、ASだの定型だの、「違い」を意識せずに付き合っていけるようになるのでは、と考えています。

とはいいつつ、定型な夫の「本気で俺のほうがASな気がしてきた」とか
母の私より強いASな部分とかを見るに付け、
無条件に「ガッ!」とイライラしてしまう私ですので
本当に理想にはまだまだです。

あと、ここに「ゴム皮」発言の父の考えは全く入っていないというのも、私のアンバランスさの原因でもあります。
実際に一桁の年齢の頃から一緒に居なかったり(海外単身赴任)、母への裏切り(現地で家庭を持つ)だったりで、この考え方が完成するころになって家に戻ってきた父の意見や考えで役に立ったのは
「嘘を吐いてはいけないと思うのなら、嘘にならない表現方法を身に着けるために語彙を増やしなさい」という事だけでした。

父がASの傾向があるかすらも分からないくらいの交流しかありませんが、
幼少期から父のか関わりがあったら、違う考えも出来るようになっていたかも知れません。

と、すごくえらそうに書いていますが、現実の私は問題だらけで、
0か1か思考で、自分がOKか、NGか、じゃ無いと安定しない、
自己「保留」ではどうにもならない自分を抱えて毎日お手上げ状態で生活しています。

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