2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 「普通」というあきらめ | トップページ | 「苦しめる」人の苦しみ »

2013年8月17日 (土)

「発達障がい」という障がい

 何をいまさら、と言われるかも知れませんが、アスペルガーって「発達障がい」ということになっていますよね。つまりは「定型的な発達」が「できなくて」、たとえば「他者の感情や視点の理解」について、定型が発達していく道筋のどこか途中までで止まってしまっている、というような見方のことです。それで「障がい」と名付けられることにもなる。

 そういう視点で見ると定型にとっては分かりやすいし、対処しやすいことがある、という風には私も思いますし、アスペの方から言っても、この定型的社会の中で生きていこうとすれば、そういう視点から「自分が出来ないこと」を「理解」して、「適応する」ための工夫をすることがどうしても必要になる、ということも一応は理解します。

 だからその見方がある面ではとても「効果的」だということを否定する気持ちはないんですが、もう一方で、ひとつひとつの人間関係をどうするかと考えたときには、「発達障がい」という見方ではうまくいかないことも結構有るんじゃないかなという気持ちがなくなりません。

 なんで自分がそういうことにこだわり続けるのかなあと思うのですが、私の場合、一番大事なのはパートナーとの関係と言うことになりますけど、なんかその関係を「同じ人間同士」の関係として考えたい、ということなのかなあ。なんかまだぴったりした言葉が見つからないんですが。

 もちろん「同じ人間」ということで「違い」を認めない、認めたくない、という話ではないし、自分のパートナーを「障がい者」と呼びたくない、とか、そんな話でも全然ありません。彼女は「アスペ」と言われる特性をもって生まれてきて、そのことを自分の一部としながら大人になり、私と出会って結婚して、今に至っているわけですから、彼女から「アスペ」と言われる部分を取り除いたら、彼女が彼女でなくなってしまいます。それは「定型」といわれる部分を取り除いたら、パンダがパンダでなくなるのと同じですよね。で、これまでの二人の歴史はそういう彼女と私の間でつくられてきたものな訳ですし……

 うーん、すみません、まだなんかもやもやしていて、何か言いたい気がするんだけど、うまく言葉になりませんでした m(_ _)m

 

« 「普通」というあきらめ | トップページ | 「苦しめる」人の苦しみ »

コメント

パンダさん、、、アスペルガーってモノがあるわけじゃないし、発達障害とはなんぞやも、完全に決まったものではないですよ。対人関係を保ったり、社会的な発想をしたりが後回し的になることで悩む人たちの特徴で、共通点を拾っていくと、グループが作れるんではないか、それを研究したら色々わかるんじゃないか、という「アプローチ」の話ですよ。

「障害」というと字面から「できない」というイメージがありますし、「発達障害」なのだから成長段階で止まっているのだろうとか、欠けているとかに受け取られがちですが、「障害」は『上手くいかない』全般の意味のdisorderの訳語なだけです。かつては「障害者」というと肢体欠損をベースにした物理的に不可能な意味合いだったでしょうが、現在では「上手くいかない」を含めるように意味が拡張されています。

アスペルガーは自閉との共通点が多いとされてから、そういうことを扱う専門家のところに課題として持ち込まれて、取り組みをするための暫定的にまとめて「発達障害」と名づけて、着手をしているということのはずです。
定型と発達障害の位置関係を説明するにあたって「発達の途中で止まっている」というのは字面に引きずられていますよ。


「病気の重さ」が、医者にかかる程かどうか(治療対象となるかどうか)ということを考えた時、「生命に関わるかどうか」が問題となります。豊かな社会になると、「生活に支障があるかどうか」「快適に生きられるかどうか」というように治療対象が広がっていきます。
この「広がり」のどこにいるかによって、本人の困り方と、医師が治療対象と考えるかどうかは、ズレがあってあたりまえですし、医師の間でも考え方(=対応)は違ってくるわけです。

僕には、「障害」→「できない人」→「かわいそうな人」という風に、決め付けた考え方があることに不満があります。
障害というモノの意味合いが、昔よりも広がって境界が曖昧になっているのに、昔の言葉の感覚で理解し対応されている状況がある様に思え、正しくない状況を生んでいると感じています。
「私は障害があるかわいそうな人だから、助けられて当然」という発想を背景にした「私を障害者と認定しろ」という発言も誤っていると思います。
逆に「俺はかわいそうな障害者なんかじゃない」というのも、僕の解釈では誤解が含まれており、もしそういう発言を聞いたら指摘ポイントになります。(^^)

アスペルガー症候群の特徴を持っていて、人間関係にとても困っていても、「障害者」と認められるほどの人は限られていると思います。
ASを捕まえて「お前は障害者だ」というのは、正しいといえません。

「障害者」の言葉が出てくるのは、生活の困難を福祉を受けるなどで支えてもらう必要がある時に、医師が方便で付けるレッテルとしてです。(もちろん、客観的な確認が必要です)。レッテルといったのは、状況によってつけなくても良くなる場合もあるからです。状態は場面・時間・相手などで変化するので、見極めは難しく、判断が分かれたり変わったりすることもあると思います。(だから医師の専門性が問われ、責任は重いのだと思います)

AS的感覚で、モヤモヤと決まらないのが嫌で「ハッキリさせてくれ」ということがあったり、「なぜこの人と上手くいかないのか」という原因を知りたいという思いで診断に突き進む事例がありますが、書いたように、障害者かどうかの線引きと「どのようにしたら、より上手くいくか」というのは別のところにあるのではないか、むしろ別次元なのではないか、というのが僕の考えです。


まとめると、
ASであっても障害者とは限らないということと、人間関係の改善を図りたいというこちらのようなサイトでは、「障害者」という言葉の選び方はふさわしくない場なのではないか、ということです。
パンダさんの「「発達障がい」という見方ではうまくいかない」というのは、そういうことなのではないでしょうか。

プルーンです。

成人の場合、身近な人間がどれだけ違和感を持っていようとも、困っていようとも、本人が困難を感じておらず、内と外を使い分けることができて、仕事を持っていれば、何の診断名もつかず、サポートも得られないことが多いようです。

アメリカの診断基準DMSのVからは、「アスペルガー症候群」という診断名は削除されるそうですね。Ⅳのときも、その診断基準はあいまいだったようです。

特にアメリカでは、集団行動を重要視される場面は多くないようですし、日本ほど「皆と同じであること」は求められないので、多少発達に凸凹があっても困ることは少ないのではないでしょうか。

日本でもいずれ、DSM-Ⅴが診断基準として用いられるようになり、アスペルガー症候群という診断名はなくなるかもしれません。ですが、おそらく、「自閉症スペクトラム」の中に組み入れられるだろうと思われます。

「自閉症スペクトラム」と、杉山登志朗氏の著書「発達障害はいま」に出てくる「発達凸凹」という言葉を使うと、パンダさんのモヤモヤも少しは晴れるかもしれないと考えています。

初めてこのブログを見つけたときは、まったく抵抗のなかった「アスペと定型」というタイトルですが、実は、この概念を知ってから、私はかなり違和感を持つようになりました。内容とは別の話です。

ご存知かとは思いますが、この概念を私流に要約しますと、「発達凸凹というのは、誰にでも発達の偏りがあり、その凸凹が大きい人が自閉症スペクトラムと呼ばれる。スペクトラムとは連続体という意味で、自閉度の高さ、発達の凸凹の大きさは診断名で区切ることができるわけではなく、連続体のように繋がっている。発達凸凹と自閉症スペクトラムとの境界もくっきりとしたものがあるわけではなく、グラデーションのようにつながっている」という感じでしょうか。私の解釈が間違っていなければ、ですが。

また、行政上は、現在もアスペルガーと高機能自閉症は、障害とは認められていませんよね。障害者手帳も発行されないし、障害者年金もありません。二次障害で精神障害者と認められない限り、サポートはないのが現状のようです。

更に、その二次障害が起こる原因が、日本の社会の執拗なまでの「皆と同じであること」に対する要求ではないかと思います。私自身が児童・生徒だったときにも感じていたことですが、特に学校というところは、本当に「どうしてそこまで」というくらい「同じであること」を求めます。それができないと、本人が直に先生から注意されますし、親も先生から注意を受け、更に本人はまた親から責められるという、最悪な状況になります。学校は二次障害製造工場なのではないかと思ってしまいます。

その学校教育という局面をなんとか乗り切り、特性に合った適職と職場環境が見つかればいいのですが。

そういういろいろなハードルがなくなり、本当の意味で「皆違ってみんないい」社会が実現されれば、「発達障害」という言葉も必要なくなるのではないかな、と思ったりします。

発達障害であれ、他の障害であれ、その人の個性を活かして、お互いが支え合っていける社会……無理でしょうねぇ……。

玄さん

 アスペルガーというものを、何か固定したものとして考えない、
 ということは私も賛成です。

 私なりに玄さんの仰ることを自分の言葉で理解してみると、
 「アスペルガー的な性格」とか「特徴」というものはあるけれど、
 それは「障がい」というものとイコールではなくて、
 場合によって社会生活上の困難が著しい場合には、
 「障がい」として対処されることもあるということに留まる。
 だから「アスペと定型のコミュニケーションを考える」ことと、
 「障がい」の問題を考えることはちょっと質が違う問題だ。
 そんな理解でいいでしょうか?

 もしそういうことならおっしゃることは私なりに分かる感じがします。
 と同時に、「アスペルガー」が固定的に考えられないように、
 「障がい」というものも固定的に考えられないよなあ、
 というあたりがなんだか自分の頭に引っかかってくるんですね。
 何を障がいとして扱うか、その線引きの範囲も対象も
 周囲の受け止め方も時代や地域によってすごく違いますし、
 「障がい」ってやっぱり「その時代のその社会のしくみ」と
 裏表の関係で成り立っている考え方なんだと思うし、
 別の言い方をすれば、その時代の多数派の「普通」を基準に
 線引きされて、なんか固定的に扱われるもののように思います。

 それで、今は方向性としてはやっぱりアスペルガーも
 「障がい」の方に線引きされるように急速になってきているのでは
 ないでしょうか。 
 「社会のアスペルガーに対する無理解」が問題として言われ、
 「特別のケアの必要性」が言われるということは、
 「障がい者として特別の扱いをする」という意味を
 暗黙の内に含んでいることになっているように思います。

 たとえば学校で児童生徒に対して特別なケアをすべきだ、
 という話が浸透していくときには、「そういう障がいを持っているから」
 という「理由」がついて回るような気がするんです。
 「障がい」という言葉には、相手を差別したり排除したりする意味と、
 必要に応じて援助をするべき人として見るという意味の
 両方があるように思うんですが、その後者の意味でですね。
 援助の範囲にはその「障がい者」の家族も含まれるでしょうし。

 それで、私自身はその「障がい」の考え方については
 満足しきれないものがあって、そこは多分玄さんの考えとも
 つながる部分が大いにあるように思うんですけれど、
 ただ、現実問題としてたとえば「二次障害」のこととか、
 カサンドラ(カッサンドラ?)症候群のこととか考えると、
 そういう状況をなんとかしなければならないという切実な問題はあって、
 なんかまだ私の中では玄さんのようにすぱっと二つを
 切り離して考えるような整理ができないでいるみたいです。

 そもそもアスペ=定型問題に限らず、
 全ての「障がい」と言われている問題に共通する何かが
 そこにひっかかってくるような気がしているんですが、
 なんか問題が大きくて、ほんとにまだよくわかんないんです (^ ^;)ゞ
 ほんとにまとまらなくてすみません m(_ _)m

プルーンさん

 自閉症スペクトラムという考え方の理解については、
 私もそんな感じなのかなと思っていました。
 あと、日本の人間関係はアスペの方には特に生きづらいだろう
 というのも、実際に他の国の人たちと接してみて感じることがあります。
 特に最近になる程その傾向がどんどん強まっている気がして、
 実はアスペの方に限らず、多くのかたがそのことに悲鳴を上げている
 という現実もあるような気がします。
 なんかほんとにゆとりがないぎすぎすした世の中になってる気がします。
 教育現場もそのひとつなんでしょうね。
  
 大きく言えば地球全体が悲鳴を上げているようにも思える時代なので、
 そうなるもの無理もないところがあるのかも知れませんけれど、
 でもそうなればなるほど、「これじゃやってられない」と思う人も
 増えて来ざるを得ないだろうなと思います。
 アスペと定型の問題もどっかでその問題につながっていくような
 気がしています。

 ああ、あとひとつ、スペクトラムの考え方について、
 みなさんのコメントなどを拝見していて思うことなんですが、
 やっぱり単純に連続している訳じゃなくて、
 その重さ(?程度?位置?)によって、
 いろんな生き方(世の中の理解やそれへの対処の仕方)の違いが
 あるような気がします。
 たとえばトマトさんがよく説明して下さるなくなったお友達の話など、
 私のパートナーと比べて、随分「生き方」が違うなあと
 感じることがあったりしますし、
 それはなんか連続だけでは理解しづらいかなあと思えます。

 そのひとそのひとが抱えている条件をベースにして
 それぞれの人が個性的な工夫をして生きていらっしゃる。
 そこにある種の「質的な違い」も生まれるのかなという気がします。

パンダさん、お返事有難うございます。玄です。
アスペルガー症候群という考え方が、「いくつかの特徴を共通項として持っている人々をまとめて考えてみよう」という発想だということはお話しました。
例えていうなら、「リンゴ」というのは物質的にも品種としても確認ができるハッキリさがありますよね。では、「木の実」ではどうでしょうか。「木に花が付いて、その後で膨らんできたモノ」全般であって、雑多なイメージになるはずです。
「これははリンゴだ」という断定は、どんなイメージをすればいいのか明確で、おそらく食べられるだろうという情報が伝わってきます。
一方で「これは赤い木の実です」という表現は、食べられるかどうかの情報は入っていない。意味の絞れ方という考えで、「アスペルガー」は後者に近いと思っています。つまり、欲しい情報を断定できる意味を持っていないのです。

「赤い木の実」には、美味しいものもあるし、口に合わないものもあります。もちろん、食べる人の好みや、土地の風習によります。個々を手に取って、食べられるという人もいれば、食べられない人もいる状況です。実の熟し方もありますが、種類も雑多でどれのことを言っているのか、ハッキリしないので何とも言えません。
そこで、赤い木の実には「どういった種類があるのか、どうやれば食べられるのか」が研究されているのです。

調べていくうちに、まあ、渋柿みたいに干したり漬けたりすれば食べられるという「上手いやり方」を編み出した人々も見つかってくる。虫が付きやすい痛みやすいという注意が必要なものが混ざっていることもわかってくる。腐ってしまうのは色が赤いせいではなくて、他の色の木の実でも同じだし、取り扱い技術を高めることは、木の実の取り扱い全般に応用できる。たまには、枝に付いたまま干し柿になって、食べれたりする。意外と荒地に強い品種だったりする。。。。
ASの言葉のイメージが、そんな感じになるといいなと思っています。

「障がい」について、
「アスペルガーに対する無理解」と書かれていますが、どのようになれば「理解した」といえるのか僕にはよくわかりません。それに、特に大人で問題となっているのは理解という部分よりも「なぜか感情的になってしまう」「神経を逆なでされる」のところだと思えます。
感情問題の改善には「理解」に加えて何かもう一手が必要な気がします。

全てのASに「特別のケアが必要」でしょうか?
色々な理由で小学校の授業を受けられない体質の子供がいて、「特別学級」が必要なのではないか、という話はありますが、僕はASは教員のリード次第で普通授業が受けられると思っていますし、普通学級での活動を通じて定型の子供も同時に学びを得るのが理想だと考えています。(大人になったら、混ざった社会生活なのですし)

「特別ケアをする」スタンスだと、必ず「線引き」や「理由」が必要になって、境界線上の子供をどうするかに悩む状況が起きます。むしろ、境界線上が多いわけですし。そういったことからも、僕は「全員同じ扱いが望ましい」を主張しています。

結論的には、僕は特別ケアが必要かどうかは、「アスペルガーかどうか」という観点では「しないほうがいい」と思っています。
むしろ、社会人としてルールを守れるか、成績を出せるかできっちり判断してもらったほうがいいです。(定型同士が、人間関係重視ゆえに社会ルールや成績での人物判断にルーズなことが、問題として立ち上がってくるわけですが)

パンダさんが「玄さんのようにすぱっと二つを切り離して」といわれる程、切ってはいなくて、立体図形でいう「ねじれの位置」で、見る角度によっては重なって見える感じです。

僕には身近にカサンドラの実例がなくて、実際に上手くいくかわかりません。
なにより僕の手口は、「両者が一緒にやっていく合意」と「お互いの工夫の積み重ねがあれば、よくなっていくはずという信念」が土台にあって初めて効力があるので。
(例え話や言葉遊びはその付け足しです)

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/52912298

この記事へのトラックバック一覧です: 「発達障がい」という障がい:

« 「普通」というあきらめ | トップページ | 「苦しめる」人の苦しみ »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ