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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 「素」と「本音」のズレ | トップページ | 「知ること」の難しさ »

2013年8月 2日 (金)

喜び合えること

 介護問題をきっかけに、パートナーにアドバイスをもらえることが多くなり、今日なども介護以外の私の仕事のことについてもとてもいいアドバイスをもらうことが出来ました。ちょっと悩み氷解の大事なポイントを教えてもらえた感じで、感謝感謝です。それも福祉的な見方をずっとしていることも背景にあってのアドバイスとも言えるところでした。

 それで、私が「ああ、救われた!」という感じでにこにこして「ああ、そうか!そう考えたらいいんか!」とか言っていたら、彼女も嬉しそうな表情なんですね。

 なんか、そんな風に素直に「喜び合える」という感じ、定型にとってはほんとに有り難いことです。

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コメント

私の勝手な推測・・・というか余計な事を考えず私に置き換えたら、の話ですが、
今回の事は喜び合っている、のでしょうか。

奥様は以前、提案をことごとくパンダさんに却下され(たように感じ)、
「自分はパンダさんの役に立てない」と感じて
、何とか役に立つ提案をしようと矢継ぎ早に提案し、
それが「喧嘩腰に取られる言動」になっていたと仮定するならば。

今回の「嬉しそう」なのは、「自分がパンダさんの役に立てた」事に対する「嬉しさ」
に見えます。
つまり自分に対する喜びですよね。
私なら「また役立たずにならずによかった」と「安心」しますが・・・

役立つ提案をもらって嬉しい
役立つ提案を出せて嬉しい

これは喜び合うことになるのでしょうか。

嬉しがる相手が、嬉しい

のとはまた違う気がしますが。

トマトです。

かずきさんの、このご質問はASの人ならではの感覚だと思います。
定型だと、まず思いつかない。(感心よ)

感情の流通、気持ちの伝わり、この感覚的なことの説明はうまくなりたいですね。

さっそく、パンダさんの「素」の喜びのエピソードに対して定型なら「いい話ですね、よかったですね」的な共感を感じるところ(なぜなら今までのご夫婦の歴史の経緯をふまえ、親の介護の場面で・・というところにグッとくる)、
かずきさんは「パンダさんのそ(素)の嬉しさの質」を聞いて来られた。

私は意表を突かれ感覚的にはびっくりしたけれど、理論的には「なるほど、パンダさんはどういう説明をされるのだろう」と、目をこらす気持ちです。

なぜなら、かずきさんのこのご質問は、本当に自然に感じられた素の疑問だと思うからです。


かずきさん トマトさん

 答え注目のパンダです (^ ^;)ゞ

 うーんとまず一番目に、大雑把なところで、かずきさんの疑問と私の話の違いは
 「大雑把さのレベルの違い」なんだろうという気がします。
 つまり、私は大雑把に「こういうところ共通しているよね」でOK.
 それに対してかずきさんは「もうちょっと細かく見ていくと共通していないよね」で×。
 ただ、理屈をつきつめていくと、かずきさんの話も「パンダにかずきさんの言うことが
 伝わるだろう(そして実際トマトさんにも伝わった)」ということについて、もしかずき
 さんが「これは正確に伝わっている」と考えているとすると、それはやっぱり大雑把で、
 もっとしつこく考えていくと、きっとかずきさんとトマトさんの考えていることは違うし、
 私が理解した事とも違うでしょう、と思えるので、
 そういう意味でかずきさんがここで提起された問題は「大雑把さのレベルの勝負」
 だというふうに私は思います。定型は大雑把でひとくくりにすることをよくやるし、
 アスペの方は定型レベルの大雑把さには耐えられない思いを抱かれるという
 ことかな。

 それで、ふたつめのこととして、「一体喜び合えているんだろうか?」という疑問に
 私が私の理解で答えようとすると、「イエスあんどノー」。になります。

 前に使ったピアノのたとえ話を少し応用して説明してみます。
 前の話は二台のピアノの一台を弾いたら、という話でした。
 今度は二台のピアノの同じドの音を両方とも(ただしちょっと時間差を入れて)
 鳴らしたら、というたとえ話になると思います。

 「自分のしたことで、相手が喜んでくれると嬉しい」という感情は、
 たとえば福祉の仕事なんかでパートナーは感じていると言うことです。
 そういう感覚がアスペピアノにあることを一応前提に考えてみますね。

 まず定型パンダピアノがドの音を鳴らしました(にこにこよろこびました)。
 そしたらそれを見て、今度はアスペパートナーピアノがドの音を鳴らしました。
 ではこのとき何が起こっているのかというと、
 会場にドの音が鳴り響いている(会場の空気がドの音の振動を起こしている)
 わけですけど、パンダピアノの引き起こしたドの音の振動がパートナーピアノに
 伝わって、多少なりともそのドの弦を振るわせました。
 (ここでどこまで強く振るわせるか、共振させるかはちょっと分からないのですが)
 そしてそれがきっかけになって、パートナーピアノはドの音を自分で鳴らしました。
 そのドの音の振動がパンダピアノに伝わって、さらにパンダピアノの振動を
 大きくしました。
 で、会場の空気はその両方の振動で震えている状態になります。

 こういう状態にあるとき、聞こえている「ドの音」は一体なんなのか?
 ということについて、二つの見方が出来ると思います。

 ひとつは、「どうしてそのドの音が出たんだろう?」ということを考えると、
 直接的にはそれぞれのピアノがそれぞれ別々にドの音を出したからです。
 こういう見方をすれば、かずきさんのコメントの意見になるでしょう。

 もうひとつは、「そのドの音が混じり合って部屋に響いているし、
 お互いに影響もし会っている(ただし影響の強さはお互いに違うかも)」
 という点に注目すると、そこにはちゃんと「共鳴」の関係があり、
 「同じ状態を共有している」ことになります。
 こういう見方をすれば、私が記事で書いたような話になるでしょう。

 じゃあどっちが正しいのでしょうか?
 と、考えると、それは目の付け所の違いの問題で、
 どっちをベースに問題を考えるかの違いですから、
 別にどっちが正しいと言うこともなく、どっちも正しいんだと思うんですね。
 正しくないのは「どちらか一方だけが正しい見方だ」という見方でしょう。
 
 「どういうところから見ればそう考えられるのか。別の見方をすると
 どうなるのか。」ということを考えて、その全体を理解することが
 大事なんではないかと、そんな風に思うのでした。
 (もちろん、一人では出来ないので、色んな人の意見が交流される
 ことが重要だと思っています)

 

パンダさん
ありがとうございます

話が伝わった伝わっていない、に関しては後述します。

ピアノの例え、ありがとうございます。
わかりやすかったので確認ですが、
私は「ピアノ二台がそれぞれ同じ音を出した」事を感じ
パンダさんは「二台のピアノが同じ音を出した」事を感じた、ということてしょうか
私の「感情は個人の所有物」という枠組みがそう思わせているように思います。
一方でパンダさんは、「同じ音を出しているピアノが同時に存在している」ことで
「~し合った(喜び合った)」と感じる、と読みとりましたが

此処で重要なのは
「同じ状態がどちらかからもたらされ、その状態が同時に双方に存在している」
ことでしょうか?
「同じ状態」は、条件として必要なのがわかりますが、
「同時に双方に存在」しないと「~し合った」、とならないのですか?

例えば、その場では「参考にならない」とした提案が、後から役立ち助かった。(喜んだ)
それを人づてに聞いた奥様が、役立つたからなのか、パンダさんが喜んだからなのか、
理由はどうあれ喜んだことをパンダさんに伝えた。
この場合、同時に喜んだ訳ではないと思いますが、「喜び合えた」事になるのでしょうか

もうひとつ、更に、
奥様が喜んでいた、とパンダさんが後から人づてに聞いた場合。
同時でもありませんし、目の前で奥様が喜んだ訳でもありません。
この場合も「喜び合えた」事になるのでしょうか。

私の質問の真意というか、目的は
「パンダさんにおける、『~し合う』という言葉の位置づけ(定義)を知る」ことにあり、
そこにおいて、「正確に伝わっている」と思う必要もありません。
というのも、「どう受け取ったか」は、この場合パンダさんのコメントが有るまでわかりませんし
関わりが浅い以上、私の中のパンダさんの分析データが少なすぎて判断しかねます。
だからそもそも、正確に伝わるように、と思っておらず、
疑問点を私にとってわかりやすく、かつ今までの経験上他人に分かりやすいようにと書いたので
なので、パンダさんのコメントで、あれ?ここは伝わらなかったな、と言うところは
こうして補足したりすり合わせたり、逆にそこからどう考えているのかを聞いたりして、
分析データを増やしていくだけなのです。
「~し合う」定義についても同じです。
今後のこのブログやパンダさんのコメントに対する理解の助けになります。

今回、トマトさんには、ご自身は抱かない疑問だ、と思える風に伝わったようですが、
質問の意図が正確に伝わったかどうかはわかりません。


そもそも人間が違えば完全に正確には伝えようがないのですから
正確に伝えようなどと思うのは(私には)思い上がりに思えてしまい、
そんな風に思ってしまったのなら、自分の語学力を鑑みても、
自分を律し、悔い改め戒めなければならないと思っています。
ーと、書くと、なにやら高尚なことをしようとしているようですが
実際は「思い上がるな、調子に乗るな、期待するな」と唱えているだけです。
奥底では「思っていることがそのまま伝わって欲しい」と思っては居ます。
アスペ診断の面接で「USBで良いから、直接脳を繋ないで考えをそのまま伝えたい」と発言しカウンセラーを困らせました…

なので、確かにいろいろな見方を出来て、お話しできればよりスムーズなのかもしれませんが
少なくともパンダさんは「喜び合った」と思える状況だったのだと知りましたから、
他にもそう感じる方がいらっしゃるかもしれない、となると
そういう方々の「共感欲求」に答えるためにどうしたらいいかのヒントにもなります。
答えられる範囲で、出来るだけ相手がプラスに感じてくれる反応を示したいものですから

今回は、パンダさんのコメントで、パンダさんの中の線引きが何処なのか、
これは一緒、ここまでいくとちがう、こっちは…判断できない等々
それが知りたいことなのです。
勿論、私にとって、「世間一般、常識」を知るには統計を取るしか有りませんので、
みなさまにお聞きしたいことではあるのですが
今回はパンダさんのお話から、ということでパンダさんに限定して書かせていただきました。

かずきさんへ トマトです。

ASの人と関わりを持った事がある、もしくは継続中の定型の、感覚例として読んでくだされ。

パンダさんのコメントに
ひっかかりなく、うんうん、と頷き共感できる定型は、少なからずASの人との関係性で、なかなか言葉も気持ちも通じず寂しい思いの蓄積のある定型だと思うんですね。

パンダさんちのブログで、パンダさんと奥様の歴史をかいま見て来てこの場面のやりとりに「到達した」ということに感慨があるのです。

パンダさんの投げかけられるテーマは、奥様を見つめるがゆえに生まれる疑問で、それにはいつも「寂しさ」をまとっています。
定型はASの人との問題において基本、通じ合えなくて「寂しいから」悩み、考え、もっと理解しようとする。つまり「寂しくなくなるため」に頑張っているという要素は大きいと思います。

パンダさんはもしかしたら、将来的に「あの日、喜び合ったと思ったがどうやら違ったのか?」・・・になるのかも知れません。
そのとき「かずきさんは、こういうことをおっしゃっていたのか」と、思い当たるかも知れません。

でも今は・・・せめて今だけでも、
パンダさんが奥様に対して「ああ、救われた!」という感じでにこにこして「ああ、そうか!そう考えたらいいんか!」としゃべりかけると、奥様も嬉しそうな表情をした。というコメントに

定型は「こんな柔らかい雰囲気になってよかったなぁ」「感謝や、知識やアドバイスへの尊敬の念が伝わるなんて素晴らしい」という感想を持ってしまう。
「こんな場面が、自分にも来ると良いなぁ」と思ってしまう。

私は、パンダさんの表現方法で
【そんな風に素直に「喜び合える」という感じ、定型にとってはほんとに有り難いことです。】と、「喜び合いました」と書かず「自分としてはそういう感じがした、しかしそれだけでも本当にありがたい」という姿勢で
「喜び合った感」を、手放しではなく、非常に謙虚に慎重に書かれているところに、ASの人へのメッセージ感を感じました。

定型夫婦なら、すんなり「夫婦で喜び合い、二人の絆がより深まったと感じました!」と書いてしまいがちなところ、「勘違いかもしれないが、そんな感じがしたことだけでも、ありがたい」

ここの「こんなことが、ありがたいんです」というメッセージがASの人に伝わったら良いなと願います。

この心情的な謙虚さは、ASと付き合い込んでない定型(いわゆる多数派)には、解ってもらえないだろうなと思います。

・・・という、私個人の感想でした。

 

トマトさん

私の読解力の問題かもしれませんが、全く理解できなかったので
もう少し詳しい説明をお願いしたいのですが

「通じ合えなくて「寂しいから」悩み、考え、もっと理解しようとする。つまり「寂しくなくなるため」に頑張っているという要素」
ここは、「理解してもらえないが故の寂しさ」ですよね?
それはASが定型の身近な人に対して常に持っていてもおかしくないものですが、
定型側のその感情だけが特別扱いなのですか?

パンダさんと奥様の過去の一部に関しては、ブログを遡って読んだ範囲で存じ上げていますが、
そこがなぜ「感謝や、知識やアドバイスへの尊敬の念が伝わるなんて素晴らしい」
になるのかが分かりません。
そもそも、どこに感謝や尊敬の念が表現されてあるのでしょうか。
「ありがとう」も何もありませんが。
そして、さらにそれが伝わったとどこで判断できるのでしょうか。

リアルタイムにパンダさんの苦悩を存じ上げないからかもしれませんし、
物事の順序や流れを推測する事を一番の苦手としている私だからかもしれませんが
その感想に行き着くまでの思考ステップが想像できません。

本文の、「素直に「喜び合える」という感じ、定型にとってはほんとに有り難い」
というところから、
定型は「喜び合える事」が嬉しいのだろう
ということは読み取れましたが
どこから
「勘違いかもしれないが、そんな感じがしたことだけでも、ありがたい」
という事が導き出されるのでしょうか。

勘違いかもしれない、という点は明記されていませんし、
「自分が「喜び合えた」と思えたことが有り難い」
そこには相手がどうか、という事に関して一切の記述がありません。
自分がそう感じたことが有り難い、のであって、相手が実際どうだったかが関係しているかどうかがありませんでした。


なので、「じゃぁパンダさんが喜び合えた、と思える条件はなんだろう」
「AS(=私)に関わる定型が「喜び合えた」と思える為にはどう反応し、どう表現したらいいのだろう」
そのヒントがあれば、というところから質問しました。


「当たり前の事が当たり前に出来る、それがどんなに凄い事か」

それは「AS」だろうが、「ASと関わりのある定型」だろうが
どちらにせよ少数派であれば持ち合わせていておかしくない感情です。
そして多数はには理解してもらいにくい事、というのも同感です。
ですが、多数派になる機会の多い少数の定型よりも
少数派の事が多いASの方がそれは常に感じている確率が高いのではないでしょうか。

トマトさんの文面からは謙虚さよりも傲慢さを感じました。
「多数派定型には分かってもらえないような、ここまで謙虚な心情を自分たちは持ち合せているのだからASはそれを読み取れ」と。

それを「歩み寄り」だとか「寄り添う」だとか表現する人も居ますが、
それは違うような気がします。

パンダさんの本文は、もっとアサーティブな
「自分はこう感じて、こう思えた。それが自分にとって有り難かった。」というものであるように思えました。

もちろんトマトさんの他のコメントを拝見していて、
そういった「無理解な自称理解者」の姿勢の方では無いだろうと希望的観測も込みで
思っていますので、ここも私の読解力の無さでしょうね。

トマトさん
本当に申し訳ありません。
コメントを読み返すと、重箱の隅つつきでした。
嫌がられる事だというのが頭から抜けていて
配慮なく思ったことを思ったままに書いてしまいました。
ごめんなさい。

この文脈や行間を読み取れるように、もっと気をつけなければいけませんね。
お気を悪くされたかもしれません。
申し訳ありませんでした。

玄です。横入りで失礼します。
かずきさんが踏み込んでくれた部分は、考えていけば「共感」の成り立ちが見えてくるかもしれませんね。

違う人物同士では、「同じ感情」はありえないと思える、この点は僕も同じです。

定型は「同じ感情」になることを尊ぶ発言をするので、かなり純度の高い同質・同量・対称性があることに確信を持てる情報を受け取っているのだろう、だからこそ、それだけのことを言えるのだろう、という予測をしてしまいます。
そして、それだけの情報(他人の心理状態)を読み取る能力が標準で備わっているのだろう、という想像が強まります。

でも、これまでの話を総合すると、他人の心理を読み取るテレパシー的な能力というものは存在しなくて、表情や声色や動作などを元に、想像をたくましくして、「お互いに一人合点(ひとりがてん)」している状況が「共感」の本質であるように思えてきました。
「気持ちを読むのが得意な人」は、「洞察力や経緯の記憶力が長けていて、先回りして言語化してくれることで、気持ちよくさせてくれる人」なのでしょう。

「一人合点」は、一発勝負で正確な答えを出すのではなく、正解率を上げるために、「自分の実情」や「相手の表情からイメージされた相手の状況の予測」をリークしあって徐々に積み上げていくという印象です。
そういった手法で「確かめ合う」作業をしていき、どのくらいで「お互いの気持ちが同じだ」と感じられるかのレベルは、また個々人の感覚の差があるはずですが、引き続いて行われる「同じだね!」「私も同じと感じた!」というリーク交換による「すり合せ」で、「気持ちが同じ」の結論が形成されていくのだと思われます。

ピアノでの例えは、「リーク」「すり合わせ」の考えが抜けており、シンプルすぎて、「自分の状況を小出しにし、多少の違いがあっても互いの結論を収束させて、団結を強める結論に持っていく」という人間の心の方向性が説明しきれないと思います。


かずきさんが指摘されている「喜びの理由の差異」は立場が違うので埋めることができないのですが、すり合せを進めるうちにテーマは「喜んでいるかどうか」といった感情部分にシフトし、互いが喜んでいるらしいと分かってきた場合には、さらに「喜び合っている」ことを確認しあうフェーズに進む。このあたりはパンダさんの言われる「会場が響く」に相当する気がします。
この流れがスピーディーに進むことが当たり前で、定型にとって「自然」なのだと思います。

それと、特に家庭内での会話には結論がほぼ「よかったね」ありきということが、「自然に相手の感情がわかる」という錯覚を引き起こしているのではないでしょうか。

ASの場合、最悪の進行としては、表情を情報として読まない~一人合点しない~リークしない~すり合わせしない~「よかったね」という結論に向かって話を進めない・・・という感じかも。
トマトさんは「よかったですね」という感想を直感されました。話の落とし所は常にそういうことになっていて、そこに毎回着地できるということが「人間関係の確認」になっているような気がします。(テーマによっては「残念でしたね」などにもなります)

「感情の(概ねの)一致」、「人間関係の確認」は、個々の会話の発端がどんな話題でも、上記のルールで進行させて着地に持っていく共同作業なのではないでしょうか。
ASは「話題の発端」の情報交換に重点を置くので、定型とっては孤独に一人合点をさせられた上に、感情一致や人間関係の確認の部分は不完全燃焼になっていると想像します。

パンダさんが気にされている、「ASに共振するピアノがあるかどうか」については、僕の考えではASにも「相手が喜んでいることを知って、自分も嬉しくなる」ということは十分あります。自分の気持ちをリークさせる習慣が、少しずつでも身につけば、定型の求めるコミュニケーションにかなり近づくと思います。

補足です。
トマトさんの言われる「寂しさ」は、僕のコメント中の「不完全燃焼」に相当すると思います。


かずきさんへ トマトです。

お気遣い、ありがとうございます。
かずきさんは、コメントを読み返されて、私への配慮を下さったのですが、現実の日常生活でのASと定型の会話では、
定型が自分の感覚に素直にものを言うと、ASの方にとっては高い確率で、疑問、抵抗感、不快があるのでしょうね。そしてその場ではすぐに言葉にならず後でふつふつとひっかかりが強まるということもおありなのだろうと思います。

かずきさんも「思った事を思ったままに」と書かれています。
今回、私もほとんど「思った事を思ったままに」書きました。

ですから、かずきさんのコメントを読んで「パンダさんが書いていないことを、私が勝手に膨らませたり、勝手に察して書き加えたコメント」は、ASの人には抵抗感や違和感を感じるもの・・・ということを(知識としては仕入れていたのに)つい、やっちゃったなぁと反省しておりました。

かずきさんに「傲慢さを感じました」と言われた背景に、確かに自分には
ASの人に関わるとき、ASの当事者にも理解されない自分が居て、日頃は話がすんなり通る定型にもASの話となると理解されない自分が居て、両方に理解されない寂しい自分、そして同じ立場の定型者の気持ちを潜在的にアピールしたい気持ちがあったのかもしれないと思いました。

玄さんのコメントの【「感情の(概ねの)一致」、「人間関係の確認」は、個々の会話の発端がどんな話題でも、上記のルールで進行させて着地に持っていく共同作業なのではないでしょうか。】は、哲学的にまとめておられて
「私を含め定型がやっていることはこういうことなのか」と腑に落ちました。

すいません、いろいろな議論がありますが、
とりあえずかずきさんのお尋ねについて書きますね。

「私は「ピアノ二台がそれぞれ同じ音を出した」事を感じ
パンダさんは「二台のピアノが同じ音を出した」事を感じた、ということてしょうか」

 私の場合も「ピアノ二台がそれぞれ同じ音を出した」と「考える」ことは可能ですし、
 ピアノの音色がそれぞれ個性があって、私にそれを聞き分ける能力があれば、
 「二台が同じ音を出した」と「感じる」こともできると思います。
 でも、自分にとって普通に聞けば「二台のピアノが同じ音を出した」と
 「感じる」ほうが多いだろうと思います。

「私の「感情は個人の所有物」という枠組みがそう思わせているように思います。」

 このかずきさんの書かれたポイントが、この問題を考えるときに
 すごく重要だろうという気がしています。
 つまり「どういう枠組で自分が経験したことを理解するか(感じるか)」ですね。
 そこにアスペと定型にズレが出てくるのでしょう。
 いずれの場合でも
 「どちらのピアノもドの音を出している」という事実は変わらないのに、
 そのどの点を大事に感じ取るか、という「枠組」に違いが出てくる。

 何でその違いが生まれるかもとても大事な問題だと思います。

「此処で重要なのは「同じ状態がどちらかからもたらされ、その状態が同時に双方に存在している」ことでしょうか?「同じ状態」は、条件として必要なのがわかりますが、「同時に双方に存在」しないと「~し合った」、とならないのですか?」

 「喜び合える」という風に表現するときは、同時に存在するかどうか、というより、
 「お互いに相手が喜んでいることを知って、そのことでまた喜びが高まる」
 という二人の関係が大事なんだと思います。
 だから、それは時間がずれて起こることもあると思いますし、
 「喜び合えた」と感じるのはとりあえず一人ひとりがそう感じるわけですから、
 実際は相手は喜んでいないのに、勘違いして「喜び合えた」と思う場合も
 あると思います。

 たとえば、これもまた比喩で説明してみると、
 別々の部屋で同時に同じテレビ番組を見ていて、
 それでそれぞれが喜んだとしても「喜び合う」とは言えないですよね。
 それから仮に二つの並んだ部屋の壁にハーフミラーがはめ込まれいて、
 Aさんはテレビを見ていて、Bさんはハーフミラーの向こうから
 同じテレビを見ていて、それで二人とも「喜んだ」として、
 BさんはAさんが喜んでいるのを見ていますから、「Aさんも喜んでる」
 ということでその喜びがさらに高まることもあると思いますが、
 逆にAさんの方はBさんも喜んでいることは知りませんから、
 一人で喜んでいるだけ、ということになります。
 この場合も「喜び合う」とは言えないと思います。
 やっぱり同じ部屋で見て、お互いの喜びを感じてないと
 喜び合うことの前提が成り立たないでしょうね。

 時間差で喜び合う、と表現できそうな例としては、
 たとえば、遠くに単身赴任している夫に、妻が「赤ちゃんができたよ!」
 と手紙を出したとします。
 それに対して、夫が「やった!よくやったね!ありがとう!」
 とか感激の手紙を返事として出したとします。
 その手紙を見てまた妻がうれしくなる。
 こんな状態があったときには「喜び合う」と言えると思います。

「「どう受け取ったか」は、この場合パンダさんのコメントが有るまでわかりません」

 この問題はさらに突っ込んで考えようとすれば、
 たとえ私のコメントがあっても「どう受け取ったか」は分からないのではないか、
 という疑問に答える必要があると思っています。

 簡単なことで言えば、私が本当の事を言うかどうか分かりません。
 かずきさんが私のコメントで「分かった」と思って下さるのは、
 パンダはここで嘘をつかないだろう、という信頼を持って下さっているからで、
 でも冷ややかに見れば、その信頼はかずきさん個人のものとも言えるので、
 やっぱりそれが「本当のこと」なのかどうか、保証はないんですよね。
 もっとつっこんで考えれば、かずきさんが「パンダがこうコメントした」
 と思うのは、単にかずきさんが夢で見たことだったとか、
 あるいは「幻覚」だったという可能性も考えられます。

 一応そういうところまで疑った上で、相手と実際にコミュニケーションをして、
 「相手の存在を認めて、相手を理解すると言うことの意味を考える」
 ということをしようとすると、「私が感じたことは私個人のものだ」
 という理解の枠組だけでは理屈があわなくなってくると私は思っています。
 
 ほんとに基本的なことだけ、私が大事と思うことを書いてみると、
 「私はいる」という感覚や理解が意味を持つのは、
 「私じゃない人がいる」からだということとセットになったときでしょう。
 もし「私じゃない人」がいないのなら、世界は私だけですから、
 「私」という「限定」をする意味が無くなっちゃうわけですよね。
 そうすると議論が宙に浮いてしまう。
 議論は自分と相手が居て、お互いに影響し合っている、
 というところからしかちゃんとは成り立たないんじゃないかと思うんです。

 理屈っぽく言うと、そういう問題に繋がっていくと思います。

「パンダさんのコメントで、あれ?ここは伝わらなかったな、と言うところはこうして補足したりすり合わせたり、逆にそこからどう考えているのかを聞いたりして、分析データを増やしていくだけなのです。」

 はい。ここがコミュニケーションにとってはすごく大事な事じゃないでしょうか。
 玄さんもちょっと書かれていたと思うけど、結局コミュニケーションって、
 「すりあわせていく作業」なんだと思うんです。
 で、理屈から言えば「二人が完全に同じ状態(理解)になる」ことはあり得ませんから、
 常にズレは残るわけですけど、でもたとえば「そこのお醤油とってくれる?」
 というような生活上のコミュニケーションでは、多少お互いの理解がずれていても、
 なんとかやりとりが成り立つんですよね。
 もしずれたら「いや、それじゃなくって、それはソースでしょう?右側のちょうだい」
 とか言って調整をすればまあ醤油は手に入る。 
 そのレベルでコミュニケーションはうまく言っているとは言えると思いますし、
 理解が共有されているとも言えると思うんですね。

 でも、これも理屈っぽく考えると、じゃあそのふたりの「醤油」の理解が
 完全に一致しているのかというと、それまでの醤油についての体験は
 お互いに違うわけですし、醤油にも色んな種類がありますから、
 どの範囲を醤油と考えるかもお互いに違ったりする可能性もある。
 そう考えても「完全に共有できている」というふうにも言えないわけでしょう。
 でも普通はそこまで細かく考えないし、その必要もないのだと思います。

「そもそも人間が違えば完全に正確には伝えようがないのですから正確に伝えようなどと思うのは(私には)思い上がりに思えてしまい、そんな風に思ってしまったのなら、自分の語学力を鑑みても、自分を律し、悔い改め戒めなければならないと思っています。ーと、書くと、なにやら高尚なことをしようとしているようですが実際は「思い上がるな、調子に乗るな、期待するな」と唱えているだけです。奥底では「思っていることがそのまま伝わって欲しい」と思っては居ます。アスペ診断の面接で「USBで良いから、直接脳を繋ないで考えをそのまま伝えたい」と発言しカウンセラーを困らせました…」

 ここにお書きになったこと、すごく私には大事なことと感じました。というのは、アスペの方の人生観が形作られていく道筋のようなものが、ここから私にも「ああそういうことなんだ」というふうに、納得できる感じがあるからです。

 中でも大事と思えることは、「思い上がるな、調子に乗るな、期待するな」という言葉と、「思っていることがそのまま伝わって欲しい」というお気持ちを書かれていることでした。「伝わって欲しい」という気持ちをある意味で切実にお持ちだからこそ、逆に(特に定型との間で)それがうまく行かないことが多い、という現実に突き当たって、「思い上がるな」と自分自身の思いを抑制しなければならない。そういう中で生きてこられたのだと感じられるのですね。そしてもしそういう状況で生きてこられたとすれば、たとえば「感情は個人の所有物」という「枠組」をとても強く持つようになられるのも、理解できる感じがするんです。その意味で、「個人」というものをとても強調して生きる人生観は、生まれたときからそうだったと言うよりも、育っていく中で、周囲の人たちとのコミュニケーションの中で作ってこられた部分がとても大きいと思えるんですね。


 うーんと、ひとつだけ、トマトさんの書いて下さったコメントに、かずきさんが疑問を述べられていたことについて書いてみます。私はトマトさんの書いて下さったことについて、特に私がどういう感じでコメントを書いたかについてのトマトさんの理解について、「ああ、そんな風に理解して下さるんだなあ」と改めて「脱帽」というところもありました。ただ、かずきさんが仰るように、そこは私の文章の中には「明示」はされていないんですよね。

 それで改めて思ったんですが、やっぱりある文章があったときに、それをどういう文脈の中で理解するかについて、定型には定型的な「暗黙の規則」みたいなものがあるんじゃないかと思うんです。だけどそれはやっぱり「暗黙の規則」で、書いている本人もはっきり意識している訳じゃない。たとえば日本語をしゃべれても、日本語文法は分からない(私のことです (^ ^;)ゞ)ということは普通にありますよね。だからたとえば外国人に、「なんで日本語ではそういう表現をするの?こういう言い方はどうしてダメなの?」と聞かれても説明が出来なかったり、「だって、そんなの当たり前じゃない」としか言えなかったり……。

 そんな感じで、自分でも意識出てない定型的「文法」があって、それはアスペ的「文法」とはずれている。そのずれがお互いによく分かっていないところが多い。そういうことがあるんじゃないでしょうか。

玄さん
後出しの様で間抜けな感じもしますが、
「パンダさんのような書き方をする場合、多くは「よかったね」と同調して欲しいのだろう、
そういう意図が本人になかったとしてもそして定型の多くはそう反応するのだろう」
という事は推測出来ていました。
なのでナナセさんが以前仰っていた「定型流」で対応することもおそらくは可能でした。
うまく出来るかはわかりませんが。

それを感情的にやってしまう定型の、考え方や概念が知りたくての質問でした。
当初の質問の先には
「共感とはどう違うのか」という事まで伺えたらいいな、というのもありました。
流れによって、と思っていたので書きませんでしたが、
とても似通った違和感を感じたので。


>「同じだね!」「私も同じと感じた!」というリーク交換
「相手の感情を自分の感情と同じだと感じられるか否か」
これが共感にも、「~し合う」と認識するにも重要になるのかな、とおもいました。
ここで、「それは違う」となり、「喜び合えない」となると、
「気が合わない」だとか「空気が読めない」だとかになりますし。

喜びの理由は、共感であれば相手に由来するものであれば何でもいいのですね。
喜んだ状態かどうか、それが自分からもたらされているものかどうか。
パンダさんのピアノの例の「振動が増幅しているか」ではなく、
「自分の音が多少なりとも影響して音が出ているかどうか」
が問題なのだろうと感じました。


>特に家庭内での会話には結論がほぼ「よかったね」ありき
これにはびっくりしました。
家庭内ですらそれを求められるのですね。
家族だって個々の感情や感覚を持ってる、という所ではなく
家族だから共感や共有、なのですか。。。


しかし、
>、「自分の実情」や「相手の表情からイメージされた相手の状況の予測」をリークしあって徐々に積み上げていく
わりには、そこで自分の予測、「一人合点」から外れれば外れるほど
不機嫌になっていく人が多いように感じます。
結果「意味が分からない」とか「理解できない」「話が通じない」となるような。
その「一人合点」が間違っているかもしれない、という想定が欠如している確立も高いと思います。

そこらへんが、共感の強要、「~だよね」と通じるものがあるように思えました。

逆に、リークし合う事すら出来ないことが不完全燃焼になるのだという事、
一言質問すれば意見も聞けるでしょうが、そこも暗黙で要求しているのですね。


何度もお話に出ている、「全ての人は個々で違う」基本概念か、「ある程度が同じ人間」という基本概念か、
そこから来る差なのだとつくづく感じました。


定型が望む方法をするための対処法を、より定型が不自然に感じない方法で出来るように
もっと知識をつけて行きたいです。


パンダさんの
> 「相手の存在を認めて、相手を理解すると言うことの意味を考える」
 ということをしようとすると、「私が感じたことは私個人のものだ」
 という理解の枠組だけでは理屈があわなくなってくると私は思っています。

そうですね。その言葉だけでは足りないかもしれません。
>、単にかずきさんが夢で見たことだったとか、
 あるいは「幻覚」だったという可能性も考えられます。
ここから分かるように
「勝手に自分がそう感じた」だけに過ぎないと思います。
そこで、「だからそうに違いない」ではなく、「だかしかし違うかもしれない」
というところにお互いに常に立てればいいな、と思います。

「私」とは何か。
他人が認識するから、他人と区別する必要があるから成立する。
ならば「我思う、故に我あり」でなはい?
ここはよりディープな哲学的な部分に入ってきますね。

お醤油の例えですが、
「そこのお醤油」を取って欲しいと依頼したわけですから、
限定された「そこのお醤油」とはどれの事なのか、が共通認識として成り立てば
「醤油」の理解が違っていても「会話の理解がずれている」事にはならないと思います。
ちょっと意地悪く言うと
そこで、「お醤油とって」と依頼したら、「どのお醤油?」となりますが。

パンダさんの出した「暗黙の規則」が、それこそ無意識で省略される
「言わずもがな」や「行間の意」であったり、(もちろん故意に省略もされますが)
そこを説明、解説して欲しいと言っても、恐らくとても難しいのでしょうね。
聞かれるまで考えたことも無い事なのでしょうから。
そしてそれが分からない人は居ないと思っている。(ことが多い)


定型とASの、共通言語が出来たらいいのかなと感じています。
定型が「AS語」で会話するのは、完全なる別言語とまで行かないので難しいかもしれません。
ASもしかりで「定型語」で生活するだけでもかなりの負担がかかります。
そこで第三の共通言語があれば、通訳する必要もなくなりますよね。
中国語の方と日本語の方、英語で双方が会話できれば、中国語と日本語が分からない事は問題になりません。

でも、この共通言語は、はやり相手一人ひとりによって代わってくるものなのでしょうか。
つまり相手一人ひとりに合わせて共通言語を膨大な数作り上げなければならない。
しかも共同作業で。

今、私にあまり余裕が無いようで、まとまらないコメントが続き申し訳ないです。

玄です。

僕のコメントで、「会話の結論を「よかったね」に収束させるルール」的なことを書かせて頂きましたが、それは「味方同士であるときにありがちなこと」という感じであって、「味方同士でないとき」には「よかったね」に持っていかないのかもしれません。あるいは、「よかったね」にならなかった時に「不完全燃焼」を感じて人間関係ラベル「敵」を貼り付けるのかも。

「誰か攻撃をする標的を決めていないと精神が安定しない」というように見える人もいます。根が意地悪なように思える人もいます。会話の全てが「よかったね」に繋がるとは限らないから、会話の結論の「よかったね」が定型にとっての「味方かどうか」の検出に使われるのだと思います。


世間では「コミュニケーションの下手な人」を「アスペ」と呼ぶ風潮さえあります。専門的なアスペルガー症候群かどうかはひとまず置くとして、「コミュニケーションが下手な人」というのは大勢いるという気がします。
ASを含め、「コミュニケーションが下手な人」は、かずきさんも指摘された『「一人合点」から外れれば外れるほど不機嫌になっていく人が多いように感じます。』というお話に重なってくると思います。
つまりは、「自分の一人合点を微調整できない人」=「頑固」という一般的な話です。

自分から「一人合点」を微調整をする発想が起きない(仕事の上役とか、お客様とか、親戚の中の年長者とか)人々が、世の中にはいます。意見を汲み取ってもらうのが当たり前で、周りが自分に合わせるのが当然と考えています。
そういう人を許容する現実があるならば、そういう人に「合わせない」方針を持つことは、孤立とトラブルを予感させます。

他人に「合わせない」態度を自分から取ることは、自分が「仕事の上役である・お客様である・年長者である」ことを主張する態度であって、実際にそうではない場合には周りの人は「自分」を受け容れないでしょう。「合わせない人」「頑固な人」が反発される背景は、こんな流れではないでしょうか。


かずきさんの「一番トラブルが少ない場所に落ち着こうとする」発想は、同感です。その結果、色々なタイプのASが、同じような特徴的な習慣に行き着くような気がします。

 かずきさんが書かれた

「「そこのお醤油」を取って欲しいと依頼したわけですから、限定された「そこのお醤油」とはどれの事なのか、が共通認識として成り立てば「醤油」の理解が違っていても「会話の理解がずれている」事にはならないと思います。」

 というところが、ここでは一番のポイントなんじゃないかなと感じています。
 つまり、問題を「お互いの認識していることが一致できるか」という話から、
 「会話+それにともなう具体的やりとり」を中心にした
 「お互いの関係の調整」ということに
 目の付け所の焦点を移していくことが大切なんじゃないかと。
 「認識の一致」の話は、「関係を離れた個」から問題を解き始めると
 きっとドツボにはまって脱けられなくなると思えるんですね。
 最後は自分を自分で肯定することも出来なくなってしまって。

 玄さんが前から強調されていたことで言えば、「具体的な工夫」(でしたっけ? (^ ^;)ゞ)
 を見いだしていくことの大切さ、という問題にもつながると思います。
 それは「個」も「関係」もどっちも必要とした「工夫」ですよね。
 あるいは「自分」も「相手」もどっちも必要。
 相手があるから工夫が必要なわけですしね。

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