2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2013年8月

2013年8月31日 (土)

ジレンマと信頼

 アスペの方にとっての「感情」の問題が、みなさんのコメントを拝見していて私には「ああこういうことなのかな」とかなりリアルになってきた部分があります。そしてある意味で、アスペの方はこういう体験を日常的にされているのかな、と思えることもあります。 

玄さんは「感情」という言葉の意味自体におおいに疑問を持っていらっしゃるようですし、定型的には感情という言葉で説明することについても、違う言葉で説明、理解されようとしているのだなあということも改めて分かりました。たとえ物理的には同じ現象でも、それをどういう言葉で理解するかによって、その意味の受け止め方や、受け止め方に応じたその人の態度や行動にも違いが生まれてきてしまいますので、そこのすりあわせはとても難しいところだと思います。多分アスペの方同士の間でも、「感情ってどういうものか」ということについてのイメージはかなりそれぞれ個性的な部分をお持ちなのではないかと想像します。

 玄さんの言葉で言えば、日本の社会に多いように、とてもハイコンテキストな状況(はっきり示されない意味を、状況の文脈で読み解くことが要求されるような状況。「空気を読まないといけない」ことが著しい状況)が「普通」とされてしまっている社会がある一方で、欧米や、中国もそうだと思えるのですが、歴史的に「ことば」と「論理」がとても重視されてきた、ローコンテキストな社会の違いは、結局多くの文化や民族が入り交じっている社会で、「はっきり言わなきゃ伝わらない」状況があるからそうなる、という話も良く聞きますが、アスペ定型関係もそんな必要があると言えるんだろうなとも思います。

 ただし、アスペ定型関係がそういう「文化の違い」とも違う部分は、やっぱり「感情」の扱われ方かなと思うようになってきました。たとえば中国はものすごく「論理」を重視する社会ですけれど(と私は感じますけれど)、それはまたすごい強烈な「情」の世界と独特のバランスをとって成り立っていて、「情」のやりとりもまた絶対に欠かすことの出来ないものになっているみたいに感じます。それは多分欧米でもまた中国とは違った形でそうなのでしょう。映画なんか見ていてもそう感じることは少なからずありますし。

 というような、ああだこうだで(あれ?この表現ハイコンテキスト? (^ ^;)ゞ)、私自身、アスペの皆さんとの遣り取りの中で、だんだんと「感情」を係わらせて、そこでの交流を図ることの難しさをすごく実感するようになって(今更何を、と思われるでしょうが、実際その程度の理解力ですので、お許し下さい。すみません m(_ _)m)、で、自分なりの理解で感情を出していこうとすると、逆にアスペの方達から「なんじゃそれ?」というふうにだめ出しをされますので(^o^)、 だんだんと感情を係わらせない方向に自分が変化していくんですね。

 で、上に書いた「アスペの方はこういう体験を日常的にされている」ということの意味は、つまりそういうことです。定型から「自分の考えや感情を素直に出せ」と言われて、じゃあそれなら、と、そうすると定型から総スカンを食って、激しく傷ついてしまう。そういう体験が重なれば、自分の感情はひっこめて、良く理解の出来ない「定型の動き方の形」をとりこむしかなくなる。ところがそれもまた定型的なハイコンテキストからずれてしまったりするので、それをずれないようにすること自体大変だし、ますます知的な推理力を発揮するしかなくなり、自分の感情状態は顧みられなくなる。ちょうどそれと同じようなことを逆の関係で私も体験しているのかなと思ったりするわけです。
 
 まあ、それはそれで現実がそうであれば、それに対応することが必要ですから、やむを得ないこともあるんですが、そうすると今度は定型にとっては「感情を係わらせない(大人の)関係」は、とても「公式」の、「外の世界」の、「冷たい」関係と感じられるように作られているみたいなので、なんだか「親しくなろう」として行うコミュニケーションが、定型的には「冷たい関係」モードでやらなくてはならないというジレンマに陥ってしまいます。

 うーん、こういう仕組みって、ここでも繰り返しいろんな場面について同じようなパターンがあることを書いてきましたけれど、定型アスペ関係ではほんとに普遍的に見られることなんだなあ、としみじみ感じるところです。

 そういう難しい関係の中で、私のパートナーが時々強調するのは、「自分はあなたのことをなんだかんだいっても信頼しているんだから」ということです。この「信頼関係」というのも一体何なのか難しいのは事実ですけど、でも大事なポイントだろうなと思います。
 

2013年8月29日 (木)

傷の話(その1?)

 昨日からちょっと出張に行っていまして、先程帰ってきたところなのですが、安宿で今時珍しくネット環境もなく、また仮にあっても夜中に近かったので、あとは寝るだけ、という状態で、即応が物理的に出来ず、失礼いたしました。

 今、とりあえず少女さんのコメントまで一通り目を通させていただいたところですが、読み進めていく端から次のコメントが届く感じで、これを書いている内にまたコメントがあって、ここに書く内容がそれにあわなくなってしまうかもしれませんが、ご理解いただければ幸いです。

 いずれにせよ、私の理解力の範囲でとても共感できたご意見や、なるほど、と新しい発見をさせていただいたコメントや、うーん、この意味はどういうことなんだろ?と正直よくわからないところや、あるいは少なくとも私の意図とは違う受け止められ方をしているんだなあと感じるところや、とにかくさまざまで、論じられている内容がとても重要と感じているだけに、自分の中でも自分なりに整理して考えていきたい思いはありますし、色んな意味で途中経過で考えたことを書いてみる、ということになります。

 まずはみなさんのコメントの中から、私の頭に浮かんできたことを手がかりに、少し書いて私なりの整理のプロセスを始めて見たいのですが、今言及できないコメントについても、無視している意図はなく、ただ、少しずつ考えをまとめていく私なりの手順の中で、私自身の理解が現時点ではまだそこまでおいつかないために、言及できないのだとご理解いただければ幸いです。

 「傷ついた」と表明することについては、その意味について、肯定的、否定的両方のご意見を拝見しました。そしてコメントされる方によって、その理由はかならずしも同じ視点から論じられているのではなくて、それぞれ違う観点からの理由が述べられて、よく言えば多様な問題提起が実現している、とも感じられました(ただし、お互いの真剣さ、それこそお互いの傷にも触れる部分になるだけに、やりとりが「おだやか」にはなりにくく、見る方によっては「炎上」と感じる方もあるかもしれないとは思いますが)。

 また今回私が学ばせていただいている大きなことの一つとして、そこでの「肯定」「否定」は、定型かアスペか、ということで切り分けられることがないことも知ることが出来ました。「肯定」のご意見の中では、たびたび引き合いに出させていただいて恐縮ですが、素直に感じたことをそのまま書かせていただければ、私にはかずきさんのご意見が一番すっと入ってきて「その通りだよな」と感じるものでした。

 これはある意味では「相性」の問題があるように思えて、どうもかずきさんと私のパートナーが結構似たタイプなのかもしれません(パートナーはとてもじゃないが、自分にはかずきさんのような知的な整理は出来ない、と言っていますが、ある種感覚の問題として)。ですから、これまで私がパートナーと積み重ねてきた対話(やケンカ)の中で考えてきたお互いの理解の仕方に通じる部分が多い、ということが一つの理由なのかも知れません。

 それで、私が「傷ついた」話を書く理由は、ほとんどかずきさんがそのまま書いて下さっているような印象です。するりさんが次のように厳しく指摘されているように、「そもそも、私が使う「傷つきました」と違って、こういう場で、とりわけ定型の女性の方が使われる「ASの人の懇切丁寧な説明」を受けての「傷つきました」表明は、ただ単に「私、傷つきました・・・」ではないんですよね。」仮に「傷ついた」ということの表明が、対話の拒否を意味してしまうのだとすれば、何故そうなってしまうのか、という理由はとりあえず置いて、そのことだけについて考えれば、私にとっても理想的な形ではありません。

 「定型とアスペと、お互いにどういうところで傷ついてしまうのか」ということについて、どちらの側もほんとに理解が難しいことが多い、という現実を見た場合、まず第一に、傷ついたと感じた側が、自分はこういうところは何故か傷つくのです、という「主観的な事実」を伝え、(相手に傷つけようとする意図がある場合は別ですが)第二になぜそういう意図が相手にはないのに、傷ついてしまうということが起こるんだろうかというその理由とか、仕組みとかを考え、第三に、そういうものがお互いに納得できる形でもしある程度見えてくることが有れば、ではどうすることでそこで起こる不毛な対立や傷つけ合いを少しでも軽減し、できることならばもっと積極的な相互理解に結びつけられるかを考える。という作業が必要だと私は感じています。

 少なくとも私が記事で「傷ついた」という私個人の主観的な体験を表現したのは、そういうことを意図していましたし、ですから単に主観的な体験を表現したことで終わらせずに、「なぜそう言うことが起こるのか」ということについての、私がとりあえず考えた理由をその後で書いたということになります。ですから、私のメインの問題意識は後半の方にあったわけですが、コメントを拝見している限りでは、そのような私の意図がうまく共有していただけた場合と、そこがなにかの理由でまたずれてしまった場合とがあるなあと感じましたし、その点についての私の意図は少なくともトマトさんや新月さん、そしてかずきさんが述べて下さったように思いました。

 ただし、私が中庸である、という新月さんの過分な評価については、とてもありがたいことでしたが、でも謙遜とかでは全くなく、とても現実の私にはそういうことは出来ないと、本気で思っています。私に出来ることは自分の感じたことをすなおに表明すること、ただしそれは定型的な感じ方である可能性が大であることに注意すること、その上でアスペの方から見るとどうなんだろうということを想像し、表現してみて、アスペの方やみなさんのそれに対するご意見をいただいて、また考え直すこと、という作業の繰り返しをしようとする姿勢を持つことだけだと思うのです。それはある意味では永遠のすれ違いを含んだ対話の過程だと考えられるのですが、でももともと生きたコミュニケーションというのは本人がそのときは「わかり合えた」と思えた場合でも、また時が経つと「あれ?」という感じにズレが意識されてきたりする、そこでまた新しいコミュニケーションが必要になる。そういうものだと思います。ある意味ではいくらご飯を食べてそのときにお腹が一杯になっても、時間が経つとまたお腹が減ってきて食べないと行けなくなる。食べては出し、食べては出し、おんなじ事をただ繰り返しているだけのようにも見えるけれど、少しずつその経過の中で自分も変わっていって、それが死ぬまで続くのが「生きる」ということだ、ということにちょっと似ている感じもします。

 否定のご意見については、ひとつは上に書いたように、傷つきの表明が対話の拒否をい意味してしまう場合を想定したご意見があると思います。それからこれはどなたかが少し触れられていたかもしれませんが(すみません、今ちょっと思い出せなくて)、傷つきの話は自分のつらい感情体験につながるものともなるわけですから、そもそもそういう部分に触れるべきではない、という考え方もあると思います。

 この点については最近私がわりとこだわって考えているように、「感情の理解の仕方」や「コントロールの仕方」にアスペと定型で異なる工夫がある可能性があって、定型の場合には傷ついた話を「受容的に」聞いてもらえることでそれ自体が傷ついた気持ちを癒し、立ち直りのきっかけになる場合が有るわけですが(カウンセリングなんか、そういうことをよくやりますよね)、アスペの方の場合、少なくとも定型的にそれをやってしまうと、却って混乱がひどくなって、ますます傷ついてしまう可能性がある。そのことは実際にヒカルさんがご自身の辛い体験を紹介されていますし、私のパートナーも同じ体験を語ったりしますし、かずきさんも触れられていますので、ある程度アスペの方には広く強く共有される体験なのかも知れません。(定型でも「傷」については「受容的」に聞かれずに自分を抜きに「客観的事実」としてのみ他者に扱われたり、あるいは著しくは却って攻撃されてしまうように感じられた場合はやはり大きなダメージを受けます。でもここで「受容的」というキーワードが入るあたりはもしかするとアスペの方と違いがあるかも知れません)

 ではそういうことはどう考えたらいいんだろう、ということなんですが、ここは実際にほんとに難しいというのが正直な思いで、「お互いにこういうことで傷つくんだ」ということを理解すること自体はそのことによるコミュニケーションギャップを軽くしていくためにどうしても必要な作業だと思えるし、けれどもそれを理解し合おうとする過程自体がむしろ傷を大きくしてしまう危険性を持っている。前門の虎、後門の狼じゃないですけど、どっちにしたらいいの?という感じがします。

 ただ、ひとつ手がかりとして考えるとすれば、そもそも意図せず「傷つける」ことをしないでコミュニケーションを行うことが可能なら、アスペと定型の問題は半分以上解決したも同然だと思えるので、コミュニケーションを試みる限り、全くお互いに傷つかないですませることは不可能だという現実があります。そうすると選択肢はコミュニケーションをそもそも放棄するか、あるいは意図せずに傷つけてしまいながらも、その可能性に敏感である姿勢を保って、可能な限りそれを学び会って減らす努力を継続すること、のどちらかしかないのではないかと思えます(ここ大きなポイントの一つと思えるので、違う観点のご意見が有れば特にぜひお教えいただきたいところでもあります。実際、かずきさんは後者の観点で考えていらっしゃるように私は理解しましたが、思い違いでしたらすみません)

 とりあえず今の段階でまず思いついたことはそういったことです。このあたりも整理しながらどうしていったらいいのか考えていくべき所ですね。

 あと、まとまった議論でなくて失礼しますが、玄さんがご自分について「たぶん、トマトさんパンダさんを傷つけている筆頭」とかいていらしたのは、私の方はびっくりでした。少なくともいま思い出せる範囲で、玄さんの議論で傷ついたことが思い出せないからです。「謙遜」で書かれたのかも知れませんが、アスペの方の書かれることにあまり裏読みは適切でないとすれば、少なくとも私にとってほんとに玄さんの議論は「厳しい指摘」はあっても、それは「傷つけられた」という感覚とは結びつかず、「うーん、そうかあ」と考えさせられるようなものです。玄さんのコメントがそういうコメントと感じられるのは何故なのか、改めて考えてみることが大事と思いました。「真摯さ」が伝わるかどうか、というところはひとつポイントかも知れません。逆に言えば私が時々失敗するのは「ちょっとユーモア」のつもりで書いたことが「侮辱」のように伝わってしまったように思える場合です。文化が違うと「ユーモア」のツボがすごく違って、相手の方には「馬鹿にされた」としか受け止められない場合もあり、そのことを考えると定型アスペの関係の中ではますます難しいところなのかも知れません。(と頭で考えながら、ついつい「親しみの表現」として下手なユーモアをやってしまうところが、私の救いようのないダメさ加減です m(_ _)m)

 帆掛け舟さんのコメントについては、とても多岐にわたる問題提起があり、私には「ああなるほど」と思える部分も、「これはどうしてそう考えられるのだろうか?」と謎に思うところもいろいろで、改めてコメント欄の方で書いてみようかと思います。

 ではとりあえず。

2013年8月28日 (水)

傷つく

トマトさんが次のように書いていらっしゃいます。

「前々から(このブログに限らず)、ASの人同士の「そこウケました」が解らず、どちらかというとASの人同士で、解りやすいとか同感ですと交わしているコメント内容は「解らないなぁ」か「定型があからさまに愚弄されている感」か、どちらかでした。でもそれ以上に、のびのびとやりとりされていることが良い事なのだと「ちょっと待ったぁ~、その一言傷つくぅ」とは入らずに、流して来ました。(こういうことはASの人も多いだろうと思いますし)」

 ああ、私もやっぱり定型的感覚で同じ事を感じていたのかなと思いました。実際、ほんとに傷つくんです。で、多分他の定型の人たちの多くも少なからず傷ついているんだろうなと想像していました。「公衆の面前で嘲笑されている」感覚です。それは議論の内容自体の正しさに関する判断とはちょっと違う、「扱われ方」についての感覚ですね。

 どうしてそういうことが起こるのかなあと考えてみるんですが、ひとつにはこれもアスペ定型の感覚のズレによって、アスペの方にはそれは「嘲笑」の意味を持たない、という可能性が考えられます。ご自分にとってそういう感覚は発生しないから、当然他者に対しても同じような感覚で特に問題を感じることなくある種「客観的事実を述べる」ような感じで語られているのかも知れません。

 それから、これは私には一つ目の可能性よりも納得がいく感じがするのですが、二つ目の可能性として、同じような経験を、実はアスペの方達がほんとに子どもの内からずっと体験させられ続けてきて、「世の中はそういうものだ」という感覚になられているのかもしれない、ということです。

 この二番目の可能性については、パートナーと関連するような話題で話してみても、ほんとに切実に語るんですね。最初の頃は「定型だってそういう言い方をするのに、なんで私だとだめなの?」という強い疑念として語られました。その頃は私は「いや、そう言う言い方は普通は定型はしない。もしそれをするときは、相手との関係を切るとか、闘いモードに入ったときだよ」と反論していたのですが、もちろん(?)彼女の理解は得られませんでした。

 比較的最近はそのあたりはお互いに変わってきている感じがあって、彼女は「アスペはそういう扱いを定型から受け続けてきて、それに耐えることを<当たり前>として生きるしかないから、定型に対してもそうなる。」という言い方で説明することがありますし、私の方もそれを聞いて、「そうなんだよね、きっと」となんだか納得してしまうのです。

 これは以前に書いたことにもつながると思うのですが、定型は「仲間作り」に敏感な性格をもって生まれているようです。だから、「信頼し会える関係」はとても大事にすると同時に、「信頼できない人々」との境目をはっきりさせようとする傾向があると感じます。このことは多分文化の違いがあっても、定型は共通にそうなのだと思いますし、見てると多くの政治家なんかは盛んにそのことを利用して、「共通の敵」を作ることで「仲間を増やし、固める」ということを一生懸命やっているように私には見えます。いじめの問題だってそのひとつの形だろうと私には思えるんですね。

 だからそういう傾向をもともと強く持っている定型は、仲間内と見なした相手に対しては、信頼関係を壊す形で相手を傷つけるような行動や言い方はできるだけ避けようとするし、もしそういうことをしてしまったら、かなり苦労して相手に謝ったり、関係を修復しようと努力をしたりすることがかなり一般的なように思います。逆に言えば「このひとは仲間じゃない」とか、さらには「この人は敵だ」と思うようになると、そのやり方は様々ですが、相手を傷つけることについて場合によっては「積極的」にもなります。

 いじめを受けている子どもたちは、自分が「敵」とみなされないように、必死なんじゃないでしょうか。

 アスペの方はそういう多数派定型の中に生きてこられるわけです。そしてどういう理由でそうなるのかはさておいても、人間関係の作り方や距離の取り方に定型とズレが生じるので、定型の子どもとしては「普通じゃないやつ」とか、「自分たちの仲間になろうとしない奴」いうレッテル貼りをするようになる。それでもまあ「仲間を増やす」ために、最初の内は「大目に見てやる」とか、ときどき「注意してあげる」というようなことを試みるのだけれど、結局お互いにその意図は伝わらないし、理解されないのですね。そうするとだんだん定型は苛立ってきて、「厳しい警告」のモードに入り始め、そしてついには「攻撃モード」とか「いじめモード」に入っていくのだろうと思います。そういうの大人の社会でも(定型同士の間でも)普通にあります。学校の先生同士のいじめはすごいという話もなんどか聞きました。

 そうすると少数派のアスペの子にとっては実に苛酷な環境が日常になってしまうわけです。そうなれば多くの場合、それにひたすら耐えるしか生きる道がなくなるでしょう。その状況を「普通のこと」「当たり前のこと」として受け入れ、慣れていくしかなくなるわけです。

 だとすれば、パートナーが言うように「なんで定型が普通にやってることを自分がやると怒られるのか分からない」と感じるようになるのは当然ということになります。

 繰り返しになりますが、実際は定型はそのあたりかなり慎重に相手を区別して対応している場合が多いわけで、それが定型の言う「気遣い」のひとつになると思うのですが、アスペの方の立場から見れば、往々にして「気遣いの対象外」といった立場に置かれてしまうような経過をたどることになるので、定型のその理屈は経験上も納得しにくくなるだろう、と思えるわけです。

 で、結局定型の「闘いモード」や「排除のモード」が定型とは違う文脈で使われてしまって、定型の側はわけもわからず傷つけられたように感じ、一層アスペ定型間の関係をむつかしくしてしまう。

 これ、そういう関係について誰(定型かアスペか)が悪いとか言う犯人捜しをしているのではない、ということはご理解いただけると有り難いのですが、仮にそういう展開があるのだとすれば、お互いに傷つけ合う関係が続きやすいのは当然のことかなとも思えるわけです。だからもしそうなら、そのあたりの「しくみ」になんとか手を入れて、あらためて不必要に、意図せずに相手を傷つけないような工夫を探すことが大事になるのではないかと思います。

2013年8月27日 (火)

プルーンさんから

プルーンさんからパンダ個人宛にメールを頂きました。そこにプルーンさんのこの間のコメントを巡るみなさんの議論について、あえてお返事を控えられた事情その他が書かれており、またそこで展開された議論にも誤解に基づくものがあったということでした。
 
 「パンダさんが必要と判断なさるのであれば、このメールの内容を、どのような形であれ、公開してくださって構いません。」と書かれていますが、その後生じうるいろいろな議論については(今の時点では?)対応されることがむつかしいとのことです。

 ということで、残念ながらこの場で「誤解は誤解として解きながら、さらに次の一歩を模索する」、という流れは現時点では難しそうです。とはいえ、いただいたメールの内容からすると、コメントの議論にご参加いただいた皆さんや、それを読んでいろいろ考えられたみなさんには、そういう「誤解」によって議論がずれた方向に展開した可能性もありうることを知って置いていただくことが、今後いろいろな議論を重ね、考えていく上でも必要かもしれない、と私個人として判断しました。
 
 以下、誤解を含んでいた可能性があるポイントについて、私が理解できた形で書いておきますので、どうぞご参考になさって下さい。

1.プルーンさんは「アドバイス」ではなく「共感」
 (お姫様だっこ)を求めに来た、のではないとのこと

 プルーンさんが最初にご自身の体験を書かれたのは、記事の内容から想起された事例の一つとして投稿してみたということ。けれどもその後の展開で本来の意味が変わってしまった。

2.プルーンさんは自分が典型的な定型であるとは
  考えていないこと

 プルーンさんはご自身としては自分をアスペの傾向があると思われているので、「典型的な定型」の事例として論じられることには強い違和感が続いた。

 また誤解の可能性の話とは別になりますが、かずきさんの次の「I(アイ)メッセージだ」という理解のコメントには喜ばれたとのことでした。

 「「自分が何をしても何をやっても苦しみは無くならなくて、だからといって逃げることも許されず、改善しようと起こしたアクションでさえ事態の悪化を招き、誰も助けてくれず、誰も分かってくれず、所詮人は他人事。八方塞がり?いやいや、全方塞がり。自分の周りにある球体の網からは、逃げ出す事も立ち止まることも、隠れることも許されず、楽になる方法で思い浮かぶのはひとつだけ。そんな状態だった頃、私のコメントのような事をぶつけられても、 到底私も受け入れられなかったと思います。この状態が、プルーンさんに通じるものが少しでもあるのなら、プルーンさんの反応は、とても大人な対応に思えます。私には「噛みつく」ように見えなかったので…。 確かに感情的ではありましたが「私は悲しかった」とIメッセージ(私はこう思う)なので、相手を非難?攻撃?しているとは私には読みとれないです。」
 
 以上の点についてもまたご議論はあるだろうと思いますが、プルーンさんとしてはこの場が荒れるような感じにはしたくない、とのお気持ちもあるとのことで、残念ながら現段階ではコメントでのやりとりの方向にはならないように感じられました。

 私個人はその理由は何であれ、対話的関係(真剣という意味で厳しいやりとりは当然そこに含まれると思います)が成り立たない場合には、当事者抜きで議論が展開するのは誰にとってもよい結果にならないだろうと感じます。また当たり前のことですが、たとえば私がプルーンさんのメッセンジャーになることも不可能ですし、また適切でもないように思いますので、以上に書いた点だけ、プルーンさんに確認させていただいた上でみなさんにお伝えするに留めたいと思います。
 
 プルーンさんは今後もこのブログは覗いてくださるようですし、私としてはまたいつか、改めて対話が可能な状況になってコメンテーターとして復活される日が来ることを楽しみにさせていただきます。それまでは「一息入れる」ということで……。

2013年8月26日 (月)

我慢というややこしいもの

 ええっと、今まさに玄さん、トマトさん、そして新たに帆掛け舟さんが参入して展開している議論ですが、私もものすごく重要な議論だと思っていて、いずれ私も考えを整理していきたいと思っています。なのにここではちょっとそこからは激しくずれた、どっちかというとお気楽記事になってしまうのですが、それは決してみなさんの議論が重要じゃないからとか、興味ないし、とかそういう気持ちではない、ということを最初に言い訳させていただいて……

 昼にたまたまネットで見て面白くて反射的にアップした「我慢」についての記事ですけど、当たり前だけど、だれでも多かれ少なかれ「我慢」してるんですよね。別に我慢はアスペ定型問題の専売特許ではない……当たり前ですけど。

 ただ、面白い(?)ことは、同じ「我慢」と言っても、「ここは我慢が当然」と感じられる場合と、「我慢が大事」と無理にこらえる場合と、「ならぬ堪忍するが堪忍」みたいな感じで超人的にする我慢と、なんかいろいろな「我慢」イメージがあるのも確かですよね。

 でも一体何が「当然の我慢」なのか、とか、そういうことを考え出すととたんにややこしくなってくる。人によっても違うし、時代によっても違うし(私の個人的趣味の歴史物でいえば、「葉隠」という、昔のサムライの道徳教科書みたいな本があって、たしか山本常朝とかいう人が自分の若い頃の話とかして、それを聞いた人が本にまとめたんですけど、有名なところでは「武士道とは死ぬことと見つけたり」とかいう話ですね。主君に死ねと言われたら、もうその意味とか何とか、そいうことを考えることすらおかしいんだ。ただひたすら主君に言われたとおりに死ぬ。とか、そんなことを言ったりする。私から見れば「ひえ~」の世界です (^ ^;)ゞ。その中に「最近の若い者はなっとらん」というお小言の一つに、おまえ達、根性がなさすぎ、というのがあって、「自分たちが若い頃は、胆力を鍛えるために自分で自分の太股を刀で刺したんだ」とか自慢するわけです(痛そう!それに太股の動脈間違って切ったら即死だし!)。でもそのころはそれが「我慢が当然」だったんでしょうね)、文化が違っても違うし、とにかく多種多様です。

 それで、「当然」と思えない我慢を続けていくと、やっぱり精神的ダメージが大きくなっていって、もうどうしようもなく「被害者意識」が作られていったりもして、ほんとに大変です。我が家でもそうでしたけど、結局パートナーも私も両方がお互いに被害者意識に凝り固まってたりしましたしね。

 じゃあ、今はすっかりそれがなくなったかというと、なんかまだ根深くどっかに巣くっているような感じもするんです。で、精神的な余裕がないときなんかにふと顔を出したりする。たしかに「相当少なくなった」とまでは言えると思うんですけど、まあそこまでですね。

 人間の心というのは実にやっかいなものです (T T) or (^ ^;)ゞ or (^o^) or ???

 

みんなが我慢していること

 みんな、と言っても夫婦の話ですが、こんな調査があって、ちょっと面白かったのでご紹介を。

(調査期間 2013.8/3~8/4 対象 既婚男女200人ずつ ネオマーケティング調べ)

■夫婦仲が悪くならないよう、我慢していることTOP10
(複数回答)

<夫>
1位 1人の時間を我慢している(36.0%)
2位 興味のない話も我慢して聞く(31.5%)
3位 欲しいものを我慢している(31.0%)
4位 自分の趣味を我慢している(28.5%)
5位 我慢して相手の趣味に付き合っている(15.5%)
6位 ときめきがなくても我慢している(14.5%)
6位 友達づきあいを我慢している(14.5%)
8位 料理がまずくても我慢している(11.0%)
8位 相手の容姿・体型が変化しても我慢している(11.0%)
10位 親孝行を我慢している(5.0%)


<妻>
1位 欲しいものを我慢している(33.5%)
2位 ときめきがなくても我慢している(30.5%)
3位 興味のない話も我慢して聞く(24.5%)
4位 1人の時間を我慢している(23.0%)
5位 相手の容姿・体型が変化しても我慢している(18.5%)
6位 友達づきあいを我慢している(15.0%)
7位 自分の趣味を我慢している(13.0%)
8位 我慢して相手の趣味に付き合っている(10.5%)
9位 親孝行を我慢している(8.5%)
10位 料理がまずくても我慢している(0.5%)

2013年8月23日 (金)

淡い共感の力と蔭

 前の記事にトマトさんかずきさんからまた(私にとっては)大事なコメントを頂きました。

 トマトさんは定型アスペの問題に、そのように意識して長いこと本気で関わりを持ってこられていますよね。また多分そういう関わり方をこれだけの努力で続けられる定型は決して多くないと想像するのですが、その中でそれがトマトさんにとってライフワークのように可能となった理由の大事なこととして、やはりアスペの方との関わりを通して、トマトさん自身の「世界が拡がる」という体験がほんとに大きなことなんだと、改めて思います。

 しかもそのトマトさんの体験が、今度は第三者(主に定型でしょうか?)に定型アスペ問題を理解してもらう大事な手段の一つにもなっている。実際これまでもトマトさんが何度も大事なところで意識的に「通訳」を繰り返して来られたわけですけれど、あの見事な通訳も、そういう体験や視点があるからこそ可能なことなのですよね。

 ですから、少なくとも定型がこの問題に向き合うときには、トマトさんのようにその問題との関わりを通して「世界が拡がる」みたいな体験を実感できることが大きな意味を持つのだろうと思いますし、どうすればそれがよりスムーズに可能になるのか、ということを考える上でも、ほんとに貴重な、膨大な「宝物」(=体験とその理解)をお持ちで、しかもそれは第三者と共有ができるものになっていて、決してトマトさん個人にだけ意味があるものではない、「共有財産」なんだ(って、勝手に人の物をみんなの物にして済みません (^ ^;)ゞ )と思えるのです。

 それからもう一点、トマトさんはアスペの方の「深い洞察力」が「感情をはさまずに考えていらっしゃるのでしょうか」ということを書かれています。そのことで私が自分自身の考えを少し進めることが出来たのですが、他人の感情の理解の仕方には、いわゆる定型的な「共感」をベースにしたものとは少し違うんだけど、でも定型にも納得のいく形での「感情理解」というものがあるんだろう、ということを思ったんです。そのことは今までも漠然と感じてきたことではあったのですが、なんかぐっとはっきり言葉に出せるようになった感じがします。

 それで、私の理解では、そのような「感情理解」は、多分コンピューターの機械的な計算、というような形の物ではなくて、やっぱり定型とも共有する、でも定型的な「厚い共感」に偏るのでもない、あえて名前を付ければ「淡い共感」みたいなものがベースにあるのではないかという気がします。この辺、まだなんとなくイメージで感じているだけなので、うまく説明できませんけれど、そういう視点を入れて問題を考えていく必要があるかなと思いました。

 かずきさんのコメントからは主に二つのことを学ばせていただいたように思えるのですが、ひとつはかずきさんの定型にもそのままの形で説得力を持つように思える理解が、子ども時代の育ち方(お母さんの関わり)によって可能になった部分が大きいと考えられそうなことです。つまり、トマトさんがご自分の経験を通してアスペの方にも通じる理解を可能にしてこられたように、かずきさんもご自分の(教育?)経験を通して、それが可能になられたのだとすれば、定型アスペの間でお互いの理解を進める上で、なんらかの「経験」とか「教育」とかがかなり大事な力を発揮できる可能性がある、ということを感じることができたのです。すでに大人になって頭も硬くなってしまった(^ ^;)ゞ 私たち(?)にそれがどこまでの力を持つかは、ある程度限界があるのかも知れませんが、子どもについては、もっと大きな可能性があるかもしれません。

 そしてもう一つは、これは私にとっては悲しい方向での「衝撃」にもなるのですけれど、そうやってここまで定型を含めた「感情の理解」が可能になってこられたかずきさんですが、そのことが必ずしもご本人のつらい日常の問題や葛藤を解決する上で、そのまま力を発揮できる、ということではないということです。ここでも私が気にしてきた「相手の感情を理解すること」と「自分の感情の問題を理解し、解決(調整)すること」について、定型アスペ間で何か違いがある可能性を感じますし、そのことを考えることの重要さを、より深刻な形で感じさせていただくことになりました。

 もしそこで定型的な感覚で「こういう形でお互いに理解が進めば葛藤が減っていく」と考えられたとしても、もしかするとそれは定型には効果的なんだけれど、アスペの方には限られた意味しか持てない可能性もあるわけですし、場合によっては前向きの意味よりマイナスの負担の方が大きくなってしまう危険性にも注意しなければならないと思えるからです。この点はトマトさんも書かれていたように、玄さんが以前から述べ続けてこられたことが関わってくるところかも知れません。

2013年8月22日 (木)

「身内」を越えた理解の可能性

 たびたび話題に引っ張り出して恐縮ですが、かずきさんのコメントが、私には良い意味で「衝撃的」でした。玄さんのコメントにも良い意味でいくつもの「衝撃」を与えていただいたのですが、私が共通して「衝撃」を受けているのは「アスペの方と、私自身が考え込んでいる問題について、こんなふうに議論が共有できるんだ」ということをとても明確に感じさせていただいた、と言う点です。

 もちろんお二人はそれぞれに異なった個性を持っていらっしゃって、かずきさんのコメントはまた玄さんのそれとは違った側面で私には「衝撃」だったのですが、それはどういうことかというと、ものすごく分かりやすく、そしてクリアに、「それぞれの立場で状況はどう見えるのか」ということを、どちらの見方に偏るわけでもなく、説明して下さっていることです。それはかずきさんご自身がアスペ的な感覚や考え方を持っていらっしゃることを「捨てて」そうなっているわけではなくて、あくまでもご自分の感覚はしっかり保たれながら、なおかつ、定型的な方についても私の感じ方では「偏りない」、素直に納得できる説明をして下さっている。

 アスペの方に対するありがちな「決めつけ」からすれば、そんな風に「他者の視点」に立って議論をするということがそもそも「出来ない、あるいは極めて苦手」なのが「自閉系の特徴」とされているのだと思うのですが、かずきさんの議論はいともたやすく、そういう見方の限界を示して下さっていて、そしてアスペと定型の間で「共通の理解」を生み出していく、具体的な可能性というか、いや、可能性と言うよりもう実際に現実の例を見せて下さっていると思うのです。

 もちろん、定型同様、アスペの方も多様ですから、たまたまかずきさんの個性がそうだったにすぎなくて、他のアスペの方との間には、今回のかずきさんのコメントのような形での「理解の共有」は難しいことが多く、別の模索が必要ということも有るかも知れません。でも、仮にそうだとしても、そしてまだ数少ない例であるとしても、少なくともそれが全く「不可能」ではない、ということを示して下さったということについての「衝撃」なんですね。

 このところ私はしばらく「理性的な理解」と「感情的な納得」の問題にこだわり続けてきましたが、かずきさんのコメントから得られるこの感じは、一体どっちなんだろうかと改めて考えます。ある意味、どちらか一方ではなく、両方がからんでいるようにも思えます。このあたりは私はまだ少し時間をかけて考えていかないと分からないかも知れません。

 私がこのブログでなんとか模索したいと思っているのは、「お互いに」、「ああなるほどね」と素直に納得できる理解です。定型だけが集まって定型的視点のみでアスペの方の「特徴」を決めつけたり、逆にアスペの方だけが集まって共有できる「定型の姿(定型への理解)」ではありません。「身内」だけで成り立つような理解は、なんとかして越えたいのです。

 これは私としては「同じ」であることを押しつけるような「共感」の追求とはちょっと違うことだと考えています。なぜなら、かずきさんのコメントがそうであるように、それは「違い」をお互いに認め合い、その違いに「納得する」作業だと思えるからです。「自分はそうは感じないし、そういう行動はしないけれど、たしかにこういう前提を置いて見れば、その人がそう感じ、そう行動するのは分からないでもない」という風に思え、しかも相手の人もそれを聞いて「言われてみればその通りだな」と思える議論。

 「私(たち)」に閉じこもることでもなく、「私(たち)」を否定することでもなく、お互いを自らを捨てることなく認めあえるような議論。そんな私の「理想」が、もしかしたら本当に可能なのかも知れない、という「可能性の一端」を感じさせていただいたのだと思います。

2013年8月21日 (水)

小さな、でも大事な変化?

 このところ親の介護のことに関して問題になっていた車の運転の件は、パートナーも含めてみんなで説得したことが幸いにも功を奏して、父親は長距離運転を自らあきらめると宣言してくれたとのことでした。予想(期待)を越える展開で喜んでいたのですが、昨日、父親のことでまたちょっと問題があって、母親から助けを求める電話が来ました。まあ問題それ自体はそんなに深刻ではなかったので、私が父親と電話で少し話をして、一応は収まったようなのですけれど、私も正直「やっぱり昔からのパターンがまた起こったか」とちょっとうんざりする気持ちもあって、パートナーに話をしたんです。

 パートナーは彼女の専門的な経験に基づいて、またちょっとしたアドバイスをくれましたが、すでに一応収まった問題でもあったので、私としてはまあ「話を聞いてもらって気持ちを落ち着けた」という感じの会話になりました。

 そのあと、それに続いて私の仕事上の新たな人間関係で最近「さてこれはどうしたものか」と頭を抱えていることがあるので、その話を半分愚痴をこぼすような感じでしたんですね。そうしたらこの問題についても、彼女が彼女の今までの経験から私とは違う視点で意見を言ってくれました。彼女も状況をいろいろ知っているわけではないので、それが完全にぴったり当てはまるということではありませんでしたけれど、その彼女のちょっと違った視点からの意見が参考になって、そも問題やそれに対して私が試みている対処の仕方とかを彼女に説明しているうちに、私の中でその問題が改めてだいぶ整理されて見えてきました部分がありました。多分次の工夫のための大事なヒントの一つになりそうです。

 そういう彼女との遣り取りの中で今回感じたことなんですが、以前はちょっと何か相談すると、彼女の方からすごい強い断定調(と私が感じるようなもの)で、「こうすべきだ」という「指示」が出るような印象があって、ただ、それが私が理解している状況に照らし合わせて考えると、必ずしもぴったりこないものと感じられたりしたので、それにちょっと反論するような形になって、結局彼女の方は「私の意見は意味のないものとして全て否定され、無視される」と傷つき、私の方は「こちらの話を十分に聞いてくれないで、なんだか彼女の意見を押しつけられる」という反発心が残っておしまい、という結果になることが多かったんです。

 ところが今回はそういう風な展開にならずに、おだやかに話が終わって、私も話を聞いてもらって満足、という感じが残りました。

 以前と何が変わったのか、まだはっきりとは分からないのですが、またひとつ、何かが変わりつつあるようです。

2013年8月19日 (月)

感情とことば

 アスペと定型の間で、コミュニケーションの中での「感情」というものが持つ意味、そして自分自身の中で「感情」という問題にどう対応するか、ということがかなり違っているみたいだ、ということを、パートナーとのやりとりや、ここでみなさんからいただいたコメントのご意見、あるいは具体的な例を拝見していて、このところずっと感じ続けてきました。

 アスペの方は定型には自分の感情はうまく伝わらないし理解されない、という思いを持っている方が多いように思います。たとえば、これは前にも書いたかも知れませんが、私のパートナーの場合、子どもの頃、猫がうらやましかったそうです。なぜなら猫はしっぽで自分の気持ちを表すことが出来て、それで理解してもらえる。だから自分もしっぽが欲しかったと。

 さらに私がしばしば驚いたことは、パートナーが私から見て辛そうに見えたり、怒っているように見えたりしたときに、びっくりして心配になってそのことを言ったりすると、「そんなことはない」と完全に否定されたり、あるいは最近比較的多いのは「自分にはわからない」ということを言われたりするということです。

 つまり、アスペの方には「自分の感情とか気持ちは他人には伝わらないもの」だし、「相手(実質は定型)の感情理解は自分には理解しがたいもの」だという、そういうかなり強い思いが根っこの方にあるように思えます。(ただし、亡くなったトマトさんのご友人のように、40歳を過ぎるまで「他の人には他の人の異なる感じ方がある」という理解をしたことがなかった、というタイプの方の場合には、「感情が伝わらない、理解しがたい」というふうな受け止め方よりも、「なんでこの人は自分が当然と思っている行動をしないのか」という怒りや戸惑いが先行することになるように思います)そしてそのような「理解しがたさ」は時にご自分の感情についても及ぶのではないでしょうか。

 かずきさんの「常温の感情は、扱いに慣れていなくて、でも心の冷凍庫はもうパンパンで、凍らせることも、もう出来なくて冷凍庫じゃない所の平均気温も上がってしまって、置いておいても凍ってくれなくて」という説明のされ方は、そういう目から見ると、「ああ、やっぱりそうなんだ」と私にはとても分かりやすく思えるものでした。

 ここで、「感情への対処の仕方」について、大雑把に言って二つの方法があるような気がします。たとえば何かにものすごく腹が立ったとき、ひとつの方法はその原因となった人や状態からできるだけ離れ、そのことをできるだけ思い出さないようにし、だんだんと時間が経って気持ちがおさまってくることを待つ、あるいは忘れられるのを待つ、というような方法です。かずきさんの「冷凍庫で凍らせる」という方法は、このやりかたの強力なものと思えます。また、辛いことがあった場合はひとりになりたい、というのもその一種と考えると私には理解しやすくなります。

 もうひとつの方法は「どうして腹がたったんだろうか」ということについて、原因を理解して、その原因を取り除く工夫をする、というやりかたです。たとえばこのブログのコメントの遣り取りの中でも、相手の方のコメントに腹が立つことがあった場合、なぜそれが腹立たしいのかを説明して相手に理解をしてもらおうとしたり、あるいは何故相手がそういう言い方をしたのかを考えることで、もしお互いに誤解があるのなら、その誤解を解くことで問題を解決しようとしたりすることがその例になります。

 この二つの方法の内、アスペの方は主に最初のやり方をベースにして、衝突した相手との関係を調整しようとする場合は、「衝突しない時の(定型の)やり方」を観察し、それを意図的に利用する、という形で対処されることが多いように思います。もしかすると玄さんのさまざまな優れた「工夫」は、それがとても洗練されたものになっているのかなとも感じます。

 そういうやりかたがアスペの方にとって中心になるのは、圧倒的に多数派である定型の中で育ち、その中で生きていかなければならないからではないでしょうか。なぜなら、「原因を理解し、関係を調整しようとする」ということを試みようとしても、そもそも感情の感じ方や表現の仕方にお互いにズレがあって、それはほとんど不可能に近いという考え方を、おそらく物心ついた頃にはもうしっかり持たざるを得ないのだと思うからです。そのように「他者の理解は基本的には無理」という人生観がそこから育っていくのかも知れません。

 そうなると、自分の感じ方はとりあえず横に置いておいて、多数派の定型同士の遣り取りを見て、何故そう言う遣り取りになるのかは理解しにくくても、とりあえずその「形」を理解して工夫して使う、という方法で事態を乗り切るしかないのではないかと想像します。また、感情を係わらせない理性的な、論理的なやりとりは定型とも共有しやすいので、そういうやりかたを追求し続ける、ということもあると思います。


 一方、定型の方は、アスペの相手の方に自分の感情を受けてもらうことが出来ないことで苦しむし、またアスペの方の気持ちの動きが理解できなくて、自分が知っている「定型流の調整の仕方」を洗いざらい使ってみて、そのほとんど全てが効果を持たないことを知って、どう関わっていいか分からなくなって混乱し続けたり絶望的になったりしています。

 これは定型の人々が「感情の交流」ということをベースにしてずっと生きてきたし、そういう社会を作ってきたということと深い関係があると思います。

 これは玄さんのコメントへのお返事にもちょっと書いてみましたが、定型の社会では、ものすごい昔から、「ものの遣り取り」を「プレゼント交換」のような形でやってきたみたいです。いわゆる「贈与」といわれたりするものです。それで、そのプレゼント交換がどういう風に成り立つかというと、そこに「感情」がものすごく大きな働きをしています。つまり、「もらった」ことにたいして喜びを感じると共に、「いつかお返しをしなければ」という感情が残り続ける。お金で買うのと違って、プレゼントの交換の場合には「全く同じ価値のあるもの」がやりとりされるわけではないので、お返しをされた方もそれで「全てが終わり」になるわけではなくて、なんとなく「またそのうちにお返しを」という感じも残ったりして、それやこれやでやりとりが続くんですね。この状態は「お互いに気持ちの上で絆ができている状態」でもあります。

 このプレゼント交換は「物」に限られるわけではなくて、「ことば」のやりとりもそういう意味を持ちます。励ましの言葉、慰めの言葉、あるいは共感の涙なんかもそれに近いかも知れません。そういう言葉の「プレゼント交換」によって、定型は自分の感情を支えられたり、立て直したり、そしてお互いの絆を確かめ合って、信頼関係を深めていくようです。

 今の経済を支えている「売買」というものも、このプレゼント交換が時間をおかずに、しかも「同じ価値のある商品とお金の交換」という形で行われていて、ただしそこには深い感情のやりとりなどはほとんどなくなっている、というふうに見ることもできますし、さらに企業間の取引でも実際には人間関係や「信頼関係」みたいなものが効いてきますから、そう考えると、今の定型優位な社会の仕組みは、根っこの所に「感情のやりとり」を持っていると考えることもできそうです。

 そうすると、そういう社会に生きるように作られている定型は、人とうまく感情の遣り取りをするためにも、自分の感情を理解して、ある程度コントロールすることが必要になるし、成長の過程でその能力が鍛えられるんだと思います。言葉もそのときの感情理解に大きな働きをすることになる。井戸端会議の「筋の通らない話」も、そういう感情理解の途中経過のように考えることも可能だと思います。そこでは自分の感情理解と、他の人との感情の遣り取りが同時に進んでいるんですね。

 そしてその際、アスペの方との条件の違いは何かというと、回りが大体定型で、感情の理解の仕方とか表現の仕方とか、比較的お互いに分かりやすくできていますので(もちろん完全ではないですが)、物心ついた頃から「理解し合う」という関係をベースに、人間関係を作っていく、という人生観を身につけていくことになるという点でしょう。


 そんなふうに、「感情」というものについて、とくに「感情の共有」ということについての感じ方や経験の大きな違いが、定型とアスペの間で「感情への対処法」や「感情の利用法」の違いを生み、それが異なる人間関係への理解の仕方、対処の仕方、そして人生観を生み出していって、そういうことなった人生観を持った者同士が出会って「アスペと定型のカップル」が誕生することになります。

 そういう理解を仮にしてみると、その後にカップルが遭遇するいろんな深刻な問題をだいぶ理解しやすくなるのではないかと私は思いました。もちろん限られた経験や、皆さんから頂いた限られたコメント(で、私が理解できたように思う範囲)からの想像です。

2013年8月18日 (日)

「苦しめる」人の苦しみ

 

かずきさんの生々しい体験をコメントで拝見して、改めて自分はアスペの方の抱えている辛さを理解できていないんだなあと、そのことを感じて、パートナーに「○○さん(彼女の名前です)も、こんな感じになったりするのかな?」と今更ながらに聞いてみたんです。そしたらやっぱり「そんなこともわかってないのか」という感じの反応でした。

 身近にずっと一緒に暮らしていても、彼女がどういう思いでああいう表情になるのか、言葉に詰まるのか、あるいは突然にきつい言葉が出てくるのか、といったことが実感としてぴんとこないまま、ただ「なにかしんどいんだろう」ということを中身が分からないままに思うだけだったんです。もしかしたら私という個人がものすごい鈍感なのかも知れませんが、いずれにしても、そのしんどさはたとえばかずきさんが表現して下さったようなことだったりするわけですね。

 とはいえ今でも自分が十分に理解できているとは思えなくて、なぜそこまでそこで緊張されるのか、ということが「なるほど、そりゃ緊張するのは当然だよな」というところまでは分からないままです。わかったのは「そこまでの緊張を抱えてしまうんだ!」ということまでですね。でもそこまでだとしても、なんかパートナーに対する見方もまた大きく変わった気がしています。

 もちろんかずきさんも書かれているように、やっぱり「お互い様」ということはあって、

 「「たったそれだけの事」で「ASに傷つけられた」と被害者ぶる定型。「たったそれだけの事」で被害妄想のように「ASのせいで体調を壊した」と主張しASを追い詰める定型」

 と言う風に逆にかずきさんには定型のことが感じられたりするようですから、定型が感じる、鬱になったり自殺を考えたりというところまでも追い詰められるようなつらさは、アスペの方には中々具体的には伝わりにくいのだなあとも思います。「自分の辛さはよく分かるけど、特にその人に苦しめられていると思う相手が抱えている辛さを理解するのはむつかしい」ということはほんとにみんなそうなんでしょう。

 考えてみると、定型は「他者を思いやること、共感的に相手を理解することが上手」ということになっているわけですけれど、でも定型=アスペの関係の中では、どうにもその力が発揮できないわけですよね。そこでの「理解力のなさ」に、定型・アスペ間で違いがあるんだろうか?とそんなことも考えました。結局お互いに、自分の気持ちの動き方をベースにして相手の人の気持ちの動きを理解するわけで、その動き方がわりに共通している者同士では「理解力がある」ということになって、違う動き方をする人たちについては「理解力がない」と見えてしまう。そういう面が大きいんじゃないでしょうか。(いや、これは私個人の鈍感さの問題かもしれないので、そうだったら済みません m(_ _)m )

 改めて自分がパートナーを大事にするってどういうことなんだろうと、そういうことを考えさせられています。(考えるばっかりで、実効性がないじゃないか、とか彼女に言われてしまうかも知れませんが (^ ^;)ゞ)

2013年8月17日 (土)

「発達障がい」という障がい

 何をいまさら、と言われるかも知れませんが、アスペルガーって「発達障がい」ということになっていますよね。つまりは「定型的な発達」が「できなくて」、たとえば「他者の感情や視点の理解」について、定型が発達していく道筋のどこか途中までで止まってしまっている、というような見方のことです。それで「障がい」と名付けられることにもなる。

 そういう視点で見ると定型にとっては分かりやすいし、対処しやすいことがある、という風には私も思いますし、アスペの方から言っても、この定型的社会の中で生きていこうとすれば、そういう視点から「自分が出来ないこと」を「理解」して、「適応する」ための工夫をすることがどうしても必要になる、ということも一応は理解します。

 だからその見方がある面ではとても「効果的」だということを否定する気持ちはないんですが、もう一方で、ひとつひとつの人間関係をどうするかと考えたときには、「発達障がい」という見方ではうまくいかないことも結構有るんじゃないかなという気持ちがなくなりません。

 なんで自分がそういうことにこだわり続けるのかなあと思うのですが、私の場合、一番大事なのはパートナーとの関係と言うことになりますけど、なんかその関係を「同じ人間同士」の関係として考えたい、ということなのかなあ。なんかまだぴったりした言葉が見つからないんですが。

 もちろん「同じ人間」ということで「違い」を認めない、認めたくない、という話ではないし、自分のパートナーを「障がい者」と呼びたくない、とか、そんな話でも全然ありません。彼女は「アスペ」と言われる特性をもって生まれてきて、そのことを自分の一部としながら大人になり、私と出会って結婚して、今に至っているわけですから、彼女から「アスペ」と言われる部分を取り除いたら、彼女が彼女でなくなってしまいます。それは「定型」といわれる部分を取り除いたら、パンダがパンダでなくなるのと同じですよね。で、これまでの二人の歴史はそういう彼女と私の間でつくられてきたものな訳ですし……

 うーん、すみません、まだなんかもやもやしていて、何か言いたい気がするんだけど、うまく言葉になりませんでした m(_ _)m

 

2013年8月14日 (水)

「普通」というあきらめ

 「定型がこだわる」とアスペの方からしばしば指摘される「普通」って、もしかすると定型にとっては「ここまではあきらめる」という線引きの仕方なのかも知れないと思いました。

 このところなんとなくぐちぐちと書いてきたことからふと思ったことなんですけれど、アスペと定型のズレに悩む人だけではなく、定型同士のカップルだって、まあそれぞれにいろいろと悩みを抱えています。もちろんその悩みの大きさはいろいろでしょうけれど、その大きさにしても、実際に物の大きさみたいに何キログラムとか何トンとか測れるものではないし、似たような状況を抱えていると外からは見える場合でも、人によってそれがものすごく重たい悩みと感じている人もいれば、それほどには感じていない人もいる。

 仏教だったらこの世は「四苦八苦」の世界なんでしょうし、キリスト教だったらみんな「原罪」を抱えて神に救いを求めるしかない世界なんでしょうし、イスラム教だったらどうなるのかな。よくわかんないですけど(すみません、どれもいい加減な理解で……(^ ^;)ゞ)、いずれにしても「みんな悩んでる」というのが前提になっているんでしょう。
 最初に書いたことは、そういう悩み多き世の中で、人間関係の悩みというのはすごく大きな割合を占めるんだと思いますけれど、定型が言う「それって普通でしょう」という言葉は、もしかするとこの「普通」のラインまではいろいろ問題が起こっても、まあみんながそういうことで悩んでるんだから受け入れられるけど、ここから先は「我慢の限界を超える」という風に、定型同士の間で暗黙の内に作り上げた線引きなんじゃないか、という話です。

 つまり「ここまではみんな我慢してるから仕方ないから私もそれを受け入れるけど、ここから先はみんなも我慢しないから私も我慢しない」ということを宣言しているのが「普通でしょう」という言葉なのかも知れないと思ったんです。

 そんな風に「普通」ということを考えてみると、人間関係が変われば「普通」もいろいろ変わる、ということにもなりますよね。「当然これは我慢すべき」という範囲もそれによって変わる。そういう見方をしてみると、定型とアスペの間でもめる悩みについても、「まあこれは当然我慢すべきことかな」と感じられる範囲は、条件次第、考え方次第である程度変化していく可能性があることになります。

 もちろんそこが相手に合わせて自由自在に変化可能であれば、それこそ悩みは解決!みたいなことですから、そんなにお気楽に問題が解決することはありえないと思いますけれど、いずれにしても「異なる個性を抱えた人間同士」が一緒に生きて行くには、自分は自分として保ちながらも、その自分がより柔軟な自分に成長していくことが大事だと思えますので、その柔軟さを発揮するポイントとして、この「普通」とそれにともなう「我慢」の問題があるような気がしました。

 ただ、書きながら思いましたが、これって定型的な特徴の発想である可能性もあって、果たしてアスペの方と共有できるかどうかは、まだよくわかんないなあとも思います。

2013年8月11日 (日)

沢山の「困難」

 日本中猛烈に暑かったり暴雨だったり、お見舞い申し上げます。

 私の方は昨日今日と親の所にパートナーと行って、車の運転について親を(かなりいいところまで)説得してきました。彼女の方はさすがに経験豊かで、ポイントをひとつひとつ押さえて無理なくお願いしてくれたので、今回はずいぶんとスムーズだったです。もちろん彼女にすれば「仕事モード」のやりとりになるわけですけれど、一般には定型との人間関係に苦労されるアスペの方も、こんな風に人間関係調整で力を発揮する場もありうるということは、柔軟にお互いの関係を考えていく上でも大事なことだなと改めて思います。

 前の記事の「平等」の話については、いくつかのコメントを頂き、また改めて思うことも少なくありませんでした。一方ではもしかするとかなり多くの割合で実は定型とアスペのカップルなんだけど、お互いそういうことをさほど問題と感ずることなく、また「定型とアスペ」ということ自体に気づくこともなく、どこの夫婦でも多かれ少なかれ衝突することはあるわけですから、その程度の感覚で日々をそれなりに過ごせている方もあるのかもしれないなあと思います。

 たとえば「アスペルガーと定型を共に生きる」の東山夫妻の場合も、カレンさんが身体をこわして仕事ができなくなるまでは、多少の違和感を抱えながらも基本的にはそんなに大きな問題もなく、日々を過ごしてこられたように感じられました。だから、もし仮にカレンさんの体調に大きな問題が起こって、カレンさんの「生きる意義」のような部分が夫婦間で問い直されるようなことがなければ、もしかすればそのまま今までも比較的スムーズに来られている可能性もあるのかなと思ったりします。

 私の所は決定的なことは子どもの問題でしたが、たとえば二人に子どもが出来なかったとして、そういう状況であればその後どういう展開になっていたか、可なりその後とは変わっていた可能性もあると思います。

 けれども、きっかけは色々でしょうが、もし一旦問題を抱え込んでしまった後は、ほんとにそれは容易に厳しいものに発展してしまう可能性があるし、そしてその状態をなんとかしようとしても、実に沢山の困難に向き合っていく必要がありますね。これまでもぼちぼちいろんなことを書いてきましたが、改めて考えてみるとどんなことになるでしょうか。

 まずほんとうに大きな分かれ目の一つは、「アスペと定型のズレ」がお互いの間にあるんだ、ということを「お互いに認める=共有する」ことができるかどうかでしょう。プルーンさんも書かれているように、そのこと自体、決して簡単なことではない。玄さんが何度か強調されたようにアスペの方に「無理矢理認めさせようとする」ということもおそらく多くの場合よい結果を生まないでしょう。

 なぜそれが難しいのか。ひとつには明らかに社会的には「アスペルガー」というのは「障がい」として扱われていて、そして大体の人は「自分が障がい者と言われる人間である」と自分のことを考えたくはないはずです。介護の問題でも「老化でいろいろ<できなく>なって、自分の行動を制約される」ことを受け入れるのはすごい大変なことですし、「自分はそんなに老いていない」と主張する例は決して少なくないのだと思いますけれど、アスペルガーという分類だって、「定型にできることが<できない>人」というマイナスの意味づけを強制的に社会的にされてしまうわけですから、そういう目がある限りは「認めたくない」という思いが強くなっても無理はないと思います。そこにはやはり「少数派」になることへの抵抗感があり、そして社会的にはやはり「少数派」への差別的な見方がなくなってはいないわけです。

 それに加えて最近しばしば考えるのは、「男女」という立場の違いもそこに大きく絡んでくるだろうと言うことです。特にカップルの内、定型が女性である場合、男性の側が自分のアスペ的特徴を認めて女性と協力して関係を調整しようとする、というふうになることは、もちろん玄さんのようなすごい例はあるとしても、大体の場合困難さのレベルが可なり高いんじゃないかという気がするんです。「男」として育てられ、社会的にもそのように扱われ、自分の「弱み」になるかもしれないようなことを受け入れたくはない、ということ。特にアスペの方はそもそも社会の中で厳しい立場に置かれ、困難な状況に傷ついて生きていらっしゃる場合が多いとすれば、さらに家庭の中で奥さんとの関係で自分を<社会的弱者>として見られることが耐えられないといったことが起こる可能性があるように思えるんです。そうなると奥さんの側の苦しみを理解し、共有する可能性も消えていくことになる。

 東山夫妻の場合は、ある意味でカレンさんの命がかかるような状況に追い込まれる中で、その困難を越えて次の展開が生まれていったのかな、とも思います。

 今思ったことですが、やはりこの問題は「カップル」という枠の中だけで解決することは至難の業のように思います。今回私が体験しつつある介護の問題に引きつけて考えても、「老い」という自然な現象を受け入れて、それに応じた現実的な生活を考えていく、ということでも、夫婦や親子だけでは大変なことで、ケアマネさんや私のパートナーなど、いろんな立場の人が係わって「本人の問題を解決するために一緒に考えていく」ような関係が作られていかなければほんとにむつかしい。(えっと、こういうことを書きながら、どうしても視点が定型的なものからの話になってしまうことに気がついてはいるのですが、まだそこは自然には克服できず、課題として残します)

 では現実問題として、カップルが抱える事情も千差万別な中で、そもそも「カップル内の問題」とも言えるところに、はたしてその周囲の人がどう関われるのか、あるいはどうやってその関わりを無理なく作っていけるのかということを考えると、これもほんとに今は手探りというしかない感じがします。そして「そんなことは想像も出来ない。端から無理なこと」と感じられる方も少なくないのではないでしょうか。私も具体的にそうやって事態が展開した例を知っているわけではなく、ただそういうことが重要なのかも知れないと考えるに留まりますので、これ以上はなんとも言えません。

 幸いにしてお互いにお互いの違いを認め合い、そこから出発することを決意することが出来たとして、それは「前進」には違いないと思うのですが、でももちろんそれで問題が解決したわけではなく、「問題に一緒に取り組もうとする姿勢が出来た」ことに留まるわけですよね。

 アスペと定型では、ほんとにかなり深いところで「幸せ感覚」にズレがあったりする、ということを思うと、そもそも「お互いの違いを認める」こと自体に大きな困難が伴います。なにしろ相手の「幸せ感覚」を認めてそれにあわせようとすれば、自分の「幸せ感覚」が失われてしまうかもしれないという危機が待っているのですから。もし「幸せ」を共有できないのだとすれば、何のためにカップルで居なければならないのか、という根本的な疑問を、特に定型の側は持ちやすいでしょう。この点ではアスペの方の言われることを拝見していたりすると、「一緒に暮らしている」こと自体に大きな意義を感じてそれで満足できるようにも思えるのですが、もしそうであれば、その点でもお互いのズレはかなり大きく残ってしまう場合が多いのだと思います。

 この問題については、これまでコメントなどで頂いた意見や私自身の記事などでいくつかの見方があったと思います。ひとつは「幸せ感の共有」といった問題については、ある意味で定型の側が自分の幸せ感覚についてはあきらめの境地に達して、一種の悟りの状態になる必要がある、というようなご意見。あるいは現実の生活の中でお互いに補い合いながら一緒に生きていくことに大事な意味を感じていくことの大切さを語られるご意見。この二つについては、特に対立する見方、と言うことでもないかも知れません。というのは、いずれの場合も、問題を抱えた定型の側が、それまで特に疑うことなく持っていた「幸せ感」について、もう一度考え直し、もっと「深い」「大事な」「生活そのものに密着した」つながりの重要さを求めるべきだ、という形でまとめられる可能性もあるからです。

 この問題は私自身が今直面している問題の一つなのかも知れません。ですから私なりの答えがあるわけでもありません。ただ、少なくとも「自分の幸せ感を放棄する」という風に考えようとは思っていません。「幸せ感を深める」という方向を手探りで探しているように思えます。それができたときに、場合によってはそれまでしがみついていた幸せ感の一部は、わりにどうでもいいことに思えるようになるかも知れません。

 
 

2013年8月 9日 (金)

平等って何?

 アスペと定型のカップルが一緒に暮らしていく場合、定型同士でお互いに気を遣うのとはだいぶ質の違う関係の調整が必要なことが多くなります。

 もちろん同じようなことは定型同士でもある程度はあるのですけれど、たとえば自分は相手のために、と思ってしてあげたことが、相手にとっては実は負担であったり、逆に無視されたように感じたり、というマイナスの意味を持ってしまうことがある。ここでも何度か取り上げた、「辛い思い(病気でも精神的なことでも)をしているときに、側に寄り添ってあげる」という定型のやり方は、「一人になって解決したい」と思うアスペの方にはむしろ迷惑になるし、逆に「一人にしておいてあげる」というアスペの方の配慮は定型には自分を切り捨てられたような思いになることが多い、といった具合です。

 ややこしいのは、「相手は自分とは違う気の使われ方を望んでいる」ということが分かったとき、自分の方が相手のためにそれに合わせたやり方をすると、そのやり方は自分の自然な感覚としては「やってはいけないこと」と感じられてしまうものだったりするので、なにか罪悪感を伴いながら「相手のためにする」という形になってしまうこともある、という点です。

 まあ、簡単に言えば「無理をして、自分にとっては不自然な形で相手に気を遣う」ということが必要になったりするわけですね。私の所でも、いくつかのことで、そういう感じ方の違いが分かってから、ある程度お互いに相手に合わせて自分のやり方を変える、という工夫をしていますが、そうされてすなおに「嬉しい」と思うこともある反面、「彼女に無理をさせているな」という気持ちもあったりして、「あんまり無理させても申し訳ない」というためらいも出てきたりすることがあるのも事実です。

 そんなとき、「お互いに平等に譲り合う」という風に考えようとしたりするわけですが、でも実際は「平等に譲り合う」って何をどこまですれば平等なるのか、よくわからないんですね。たとえば「自分にとって多少我慢が必要なことをある程度相手のためにしてあげる」というときに、自分の我慢がマイナス5で、相手がそのことで得られる満足がプラスの5で、でも相手は本当は10の満足を求めていることから考えると、相手にとってもそれはマイナスの5で……とか、計算をしてマイナスの5どうしだから「平等だ」というような判断、現実にはまずできません。そんな我慢や満足や不満を「測る機械」なんてあるわけないんですから。

 そうすると、「平等に」という言い方自体、なんかぴったりこないんですよね。そういう機械的な話ではなく、お互いに相手のために譲り合うバランスを考えていく必要がある。それってどうしたら出来ることなんでしょう。

2013年8月 8日 (木)

言葉と気持ち

 こんな話を思い出しました。これもまた学生時代のことですが、先輩が夢を見たんだそうです。それは怖い夢で、自分が夜、杭に縛られていて、その自分をめがけて訳の分からない化け物のようなものが襲ってくるんだそうです。それで先輩はとっさに必死の思いでその化け物に名前を付けた。なんでもよくて「りんご」とか「車」とか、そんなことなんですが、そうするとその化け物がふっと消えると言うんですね。そうやって化け物達の攻撃をなんとか避けたという話でした。そして目がさめて思ったんだそうです。「ああ、これが言葉というものの力なのか」と。

 それを聞いて、なんだか面白いなあと感じたんですけれど、つまりこういうことなんでしょうね。自分の中には自分でも訳の分からない力がうごめいている。それは訳が分からないものですから、言ってみればお化けで、自分を脅かす怖ろしいものです。(そう言えば私も3歳の頃だったと思いますが、押し入れからお化けが出てきて布団から逃げ出してとなりの部屋の親の所に駆け込んだことがありました。もちろんお化けは夢だったわけですが、その頃は夢も現実も区別ないですから、ほんとに怖かったんですね (^ ^;)ゞ ) 

 で、その訳の分からない怖ろしいものに対して、先輩がやったのはそれを何でもいいから自分が知っている訳の分かるものにしてしまう、ということでした。つまり、名前を付ける、ということですね。そうやって「ことば」にしてしまえば、その得体の知れないものはコントロールが出来るものになって、恐怖の対象ではなくなっていく。言葉にはそんな力がある、と先輩は考えたんだと思います(と、少なくとも私は理解しました)。

 ここで一旦話は飛びますが、私は趣味で昔の歴史物とか、見たり読んだりすることがあるんですが、ご存じの通り、どこの国や地域にも、「神話」というのがあります。韓ドラとか見ていても、その神話を題材にした歴史ドラマとかもあったりしますが、いずれにせよ神話のことですから、現実にはあり得ない荒唐無稽な物語がずっと展開していきます。

 以前はそういうのを読んで、まあ昔の人はよくこんな荒唐無稽な話を思いついたもんだ、と思ったり、それはやっぱり昔の人が世の中を合理的に理解できなかったからそうなったんだろうなと思ったりしていました。でも分かんなかったのが、なんでそんな荒唐無稽な物語を大まじめに昔の人々が共有し、そして伝え続けてきたんだろう?ということでした。もしそれが何も意味がないことなら、どこかで忘れられ、消えてしまっているはずです。でもどの社会でもそれぞれ何かの神話をずっと伝え続けてきた(もちろん時代によって内容はだんだん変化したりもするわけですけれど)、ということは、人々がなにかそういうものを必要としていたんだと思うんですね。

 で、神話にはいろんな物語が含まれています。化け物の話もあるし、怪獣退治の話もあるし、びっくりするように残酷な闘いの話もあるし、愛の話もあるし、怨みの話もあるし、滑稽な話もあるし、どうやって世界が出来たかみたいな話もあるし、どうして物や場所の名前はそういう名前になったのか、みたいな話もあるし……。

 それで、ここで最初の話と繋がってくると思うんですが、最近もそういうのを読みながら、ああ、これって感情の物語りだったり、人と人との感情的なコミュニケーションの仕方の物語だったりするんだな、という気がしたんですね。

 昔の人間の社会って、今と比べてほんとにいろんな恐怖に満ちていた。今でも戦争はなくなっては居ませんけど、昔はほんとに日常茶飯事。闘いで死ぬ人の数も人口に比べればものすごい割合です。闘いの結果人がごっそりとさらわれていったり、というのも普通のこと。伝染病もよく起こって大量に人はなくなるし、飢饉は繰り返し起こって、餓死したり、もっと悲惨なことが起こったりも繰り返される。

 それ以前に、自然が厳しい。猛獣や毒蛇などにやられちゃうということはこれも日常生活の中でよく起こること。干ばつや洪水や冷害や、そういうこともすぐに人々の生活を脅かし、命を簡単に奪っていく。

 その日々の暮らしの中にありふれた「死の危険性」や恐怖は、今でいえば交通事故と殺人事件とかかがちょっと近いのかも知れないけれど、でもその深刻さは全然比べものになりません。

 そういう不安や恐怖に満ちた世界の中で、人間同士もどこまで信頼できるのかどうか分からない世界の中で、神話の元が生み出されていったんだろうなと、そう思えたんですね。まあ別に私が言わなくても、そんなのとっくに常識かも知れませんけれど (^ ^;)ゞ、まあ、少なくとも私も今頃そんな気がするようになってきたわけです。

 そうやって人々は得体の知れない恐怖をことば(物語り)にすることで、何とか乗り切ろうとした。またそういう物語を周りの人たちと共有することで、なんとかその恐怖の世界をみんなで乗り切ろうとしてきた。そんな風に考えてみると、当時の人々にとって神話というものはものすごく身近でリアルな、そして重要な物語だったのかなあと思えてきたんですね。

 

 さて、それでアスペと定型の話なんですが、このところ、「二つの人生観」みたいな話で、アスペと定型の人々は、それぞれの感じ方や置かれた環境(多数派か少数派かみたいなのも含めて)の違いによって、だいぶ性質の違う「生き方」や「人生観」をそれぞれに作り上げてきたんじゃないか、ということを書いてきました。

 そしてその生き方や人生観が異なると、お互いに相手のことがものすごくひどい人に見えることもある。たとえば定型が井戸端会議で「いい加減」な話をしていたり、言うことがその場その場で「ころころ変わる」ように見えたり、言っていることが本心なのかと思ったら、実はそれは「建前」で、本音は全然隠していて、言ってみたら「騙す」ことをやっている「信用できない人」であったり、というふうにアスペの方からは感じられることがある。

 逆に定型から見れば、アスペの方は空気を読まないけれど、それは「相手を大事に考えていない」ことでもあって、とても身勝手で、人を傷つけるようなことを平気で言ったりする、と言う風に見たりする。

 でも、お互いに相手に自分のことをそう言われると、納得がいかないんですよね。お互いに「ひどいのはあんたでしょう」と思っているし、「私は精一杯相手のために譲歩して頑張ってるのに、そのことも理解していない」と感じたりしている。もちろんもう「相手のために」なんていうことを考える気力もなくなって、相手を攻撃したり拒否したり、といった状態になってる場合も少なくない。

 なんでそうなってしまうのか。そのことを考えるときに、「(恐怖や不安などを含めた)感情の世界をどんな風に言葉の世界につなげていくのか」ということ、そういう意味での「生き方」や「人生観」の違いというものが、もしかすると大きな意味を持ってくるのではないかと思ったんです。そう考えると、さて、アスペの方が「神話」のような物語の世界をどんな風に感じられるか、ということにも興味が出てきました。

2013年8月 7日 (水)

「知ること」の難しさ

 学生時代、他の学部に潜り込んでカウンセリング実習の授業を受けたことがありますが、講師が面白いことを言っていました。

 あるクライエントさんが見た夢をあるカウンセラーに話したそうですが、その中に、棺が出てきたんだそうです。そのクライエントさんは開けるべきかどうか、迷ったという話だったか、あるいはカウンセラーがどう話すべきか迷ったという話だったかどちらかは忘れたのですが (^ ^;)ゞ、 さて、これは果たして中を開けてみるべきかどうか、という問いが出されたんですね。

 つまり、棺の中には、多分そのクライエントさんにとって大事な何かが「隠されている」。それが何かは私たちにはわからないし、クライエントさん自身もそこは見ないように「覆い隠してきた」部分で、自分自身でも分からない。でも夢という形だけれど、「自分にとって大事なもの(あるいは大事なこと)を、私はそこに隠したままにしている」ということに気がついたというわけです。

 隠しておかなければならないようなものですから、何か大事なものだし、でもきっと危険なものかもしれない。扱い方を間違えれば大混乱になってしまうかも知れない。そんな話っていくつかの「物語り」でも出てきますよね。たとえば水滸伝とかも、始まりは伏魔殿に閉じこめられていた108の魔星を役人が開けて逃がしてしまい、それが108人の英雄になって活躍するという話です。魔星ですから危険なのですが、この場合は盗賊の形で英雄となり、最後は滅びていくことになる。

 自分にとって危険かも知れないけど、何か大事なものがそこにあることに気がついた。そのとき蓋を開けて中をはっきりと見るべきなのかどうか。そのときの講師の答えは、「開けずにそっとしておく事も大事だ」というようなことだったと思います。

 絶対に開けてはいけない、という話ではなかったと思います。それは状況とか、クライエントさんの状態とかにもよる。でも少なくとも例えばカウンセラーとか、他人が無理に開けてみせる、というようなことはすべきではないわけですよね。その後の私の勝手な理解では、開けてみてもいいときには、自然と蓋が開いて中が見えるようになるんだろう、と思います。それはその人自身が中を開けてみる「気持ちの準備」ができてきているときだと思うからです。

 この話、一応定型の人の気持ちの整理についての話なわけですけれど、多分アスペの方にも通じるところがあるんだろうなという気がします。とても微妙で難しいところですけれど、共通する部分はあるんだろうなと。ただ、そこも定型的な感覚で理解しすぎるとまたズレが出てくるのだろうとも感じます。そのズレがなんなのか、まだ私にはよくわからないのですが。

2013年8月 2日 (金)

喜び合えること

 介護問題をきっかけに、パートナーにアドバイスをもらえることが多くなり、今日なども介護以外の私の仕事のことについてもとてもいいアドバイスをもらうことが出来ました。ちょっと悩み氷解の大事なポイントを教えてもらえた感じで、感謝感謝です。それも福祉的な見方をずっとしていることも背景にあってのアドバイスとも言えるところでした。

 それで、私が「ああ、救われた!」という感じでにこにこして「ああ、そうか!そう考えたらいいんか!」とか言っていたら、彼女も嬉しそうな表情なんですね。

 なんか、そんな風に素直に「喜び合える」という感じ、定型にとってはほんとに有り難いことです。

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ