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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月15日 (月)

共有すること

 このブログではアスペと定型の「ズレ」のことについてかなりこだわって考えてみていますけれど、それもこれも「改めて一緒に生きていく」とか、あるいは「ここまでずれているのなら、お互いの道をそれぞれが歩んだ方がいい」という見切りをお互いに付けるとか、「あるいはそういうずれがあるのなら、それはもうそういうものとして諦めて、それでも一緒に生きていく」とか、そういうことを考えるときの手がかりを探る、ということが大事だと思ってのことです。

 まあ、世間的には「離婚はしない方がいい」という考えが今も強いのでしょうが、ただ現実問題として人は誰も無限の能力を持っているわけではないのだし、そのひとの価値観とか、幸福についての考え方、感じ方によっては、お互いに別れる方がお互いのため、という場合だって当然あるでしょう。でもそのときにもお互いが「ここまで違っていれば、もうその方がいいね」と言う形で納得した上でその結論に達する方がきっとその後の人生もより前向きなものになるのだと思います。そのためにも「ズレを考える」ことの意味は小さくないように思います。なんていうか、「相手を否定する」ためにズレを考え、「相手を否定」して別れるのではなくて、お互いが自分とはすごく違う人なんだと理解し、それを尊重するからこそ、一緒に生きていくより、それぞれの道を歩んだ方がいいと納得できる方が絶対いいと思うんです。

 ここのところの記事ではコミュニケーションの一番大事な意味は、「正確に相手のことを理解する」ことにあるというよりも、お互いに決して理解しきることはできない相手と、そこに必ず生まれるズレとか溝をお互いに少しでも理解し、調整していくことにあるのでしょう、ということを書いてきたつもりです。そしてやはりそのズレの中でも大きなものとして、「共感」ということをめぐるお互いの感じ方や理解、あるいは「共感の仕方」のズレの問題があるのでしょう、ということを書きました。

 もちろんその共感の問題は現実にアスペと定型のカップルの中では常に問題になることで、いろんな悲劇がそこから生まれてきていると思えるので、そのことを言うこと自体は別に新しいことでも何でもないし、いままでみんなが苦しんできたことを改めて言っただけのことです。その問題の重要性についてはこのブログのコメントでも、トマトさんを中心にずっと語られてきたことでもあります。

 その中で私が今回少し私の視点からもうちょっと整理して考えてみたいと思ったのは、アスペと定型のズレを「共感のあるなし」ですぱっと分けてしまわずに、共感ってなんだろう、ということをもう少し広げて柔らかく考えてみることで、実はかなり根っこの所ではアスペであろうと定型であろうと、「(定型的に言えば)共感」といえるものは共有されていると考えた方がいいんじゃないだろうか、ということでした。そういう共有されたものがあるにも拘わらず、「共感のズレ」が深刻な問題になってしまう、そのしくみを考えてみることで、何か新しい工夫が生まれないかと思ったからです。

 
 そのことについてはまだまだ時間をかけていろいろ考えていかなければならないことがたくさんあると感じます。今日ちょっと書きたく思ったのはここ数日の私の体験です。それは上に書いたような「調整する」というコミュニケーションの意味とはちょっと違った視点から見たコミュニケーションの意味についてです。結論は「共有」ということです。

 これはそれぞれの事情によってもちろん時期は色々なのですけれど、でもやっぱり私たち位の年代になると、「介護」ということがとても大きな問題になってくる場合が多いですね。私の所もご多分に漏れず、なわけですが、なにしろ私の両親はとんでもなく個性的な方たちですので、どんなふうに人生の幕引きへの道を納得のいく形で作っていくのか、そしてそれに子ども(私たち)がどうかかわってサポートできるのか、という、誰にとっても決して簡単ではないだろう問題が、まあびっくりするくらい難しかったりするんですね。全く一筋縄ではいかない (T T)

 そこで今本当につくづくパートナーのありがたさを感じてもいるのですが、彼女は福祉関係の仕事をしているので、そういう老後の「難しい」ケースなんかはいくつも経験してきていて、そこはアスペの方の天職とも言えるのじゃないかと思えるんですが、問題を抱えた家族の複雑な感情の絡まり合い、もつれに巻きこまれることなく、かといって切り捨ててしまうわけでもなく、「今現実に何が必要なのか」ということを冷静に見極めながら、すごく的確に対処できるんです(少なくとも私の目から見て)。

 なんかその辺は玄さんが常に「具体的な問題の解決法を考え、提案することを重視している」というようなことを言われ、実行されていることにも繋がっているように感じます。


 それで、ここ数年間、彼女との間でコミュニケーションの仕方についていろいろ手探りで工夫を繰り返してきたわけですけれど、その甲斐もあって、「親の介護」ということについて、ほんとに「一緒に考える」ということが出来てきているように思うんです。

 これまではたとえば子育ての仕方についても、ほんとに相談と言うことが出来なかった。子どもが大変な状態になっても、私の定型的な目から見て「こういうことが問題なんじゃないか。」「こういう風にしたほうがいいんじゃないか」という話をしても、彼女からはそれはほんとに理解されなかったり、私は何故理解されないのかが理解できなかったし、そしてしばらく話が続くとたいてい「結局全部私が悪いと言いたい分けでしょう」と彼女が言い出して、それ以上の話ができなくなる、ということの繰り返しでした。

 でも今回はもうそういうことはないんですね。私の方もとても素直に彼女の意見を聞けるようになったし、彼女の方も親の状態などを積極的に尋ねてくれたり、また直接連絡をとってサポートしてくれたりしています。そうやって今ようやく、彼女と「人生の課題を共有している」という感覚が私には生まれてきています(彼女の方はもう少したんたんと「当然に必要なことをやっている」という感覚のようですけれど)。


 これはコミュニケーションによって「共感的な関係を作った」というのとはちょっと違う感じがします。それよりもやっぱり「課題を共有した」という感じ。で、そのことはやはり私の場合「一緒に生きている」という感覚にも結びつくんですね。 

 アスペと定型と「共感」という言葉ではなかなか「共感」しあえないけど、「共有」という言葉をキーワードにすると、もしかして人生を「共有」できるのかもしれないと、ちょっとそんなことを考え始めています。

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コメント

トマトです。
私も・・・仕事を辞めようかと追いつめられた悲観的な気分の時、コンビを組んでいたASの同僚が、とても理論立てて、状況を整理した内容のメールをくれて「あなたが辞めることはないのです」と結んでくれたことに、救われました。

定型的な、なぐさめや励ましではなく、分析と見解のような・・・玄さんのコメントに似た文章のタッチなのですが、読んだ感想が「ありがとう、優しい言葉を書いてくれて」という感情よりも
「なるほど、よくわかりました」という納得と前向きな気持ちに導いてくれる内容でした。
こんな事は初めての経験でした。
実際、AS同僚は、私のよくするミスをカバーしようと工夫してくれて、リスクマネージメントに努めてくれました。

定型とASの間で何かの役割を「共有」することは、出来ますし、あると思います。
それはつまりありがたい「協力」になるわけで、感謝や尊敬にもつながる場面ですね。

 私も経験上 ASと定型が「共有」してひとつの問題点に取り組んだ時には お互いの弱点をカバー仕合い 最強のパワーが発揮できると思います 

「介護」関してパンダさんはパートナーさんの知識やスキルを認め、信頼し、リーダーとして接しているように読み取れました。
そのように明確に「役割」が与えられると、ASはシステムの中で「機能」することに、最高の喜びを感じます。
一つの完成形ですね。素晴らしいです。

考えを広げると、仕事を急に辞めてしまうASは、それぞれ理由があり、人間関係不順があると思いますが、先ほどと逆で「役割」が果たせていないと感じて「とにかく、そこにいてはいけない」という悲痛な気持ちに襲われるというのがあると思います。
もしかしたら「付き合っていた人が突然姿を消す」という状況も、似た心理かもしれません。

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