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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月 7日 (日)

ちょっと悲しかったその後

みなさま

 「ちょっと悲しかったこと」などにいろいろ思い遣りの言葉や大事なコメントをありがとうございました。久しぶりに、全く予期しないところから、すっとカミソリが入った感じになってしまって、以前ならそれを「意図的な攻撃」と思いましたから、即座に「防衛体制」に入るところ、今はそういう意図がないことは頭でよく分かっているし、逆に私の反応を見てパートナーがいろいろ申し訳なさそうにしたり、気を遣ったりしてくれるのも分かるので、なんだか血を流しながら静かに横たわって傷を癒す、という感じでした。

「パンダさんと奥様の今回の会話は、弾んだ気持ちで「嬉しかったよ」と報告した時に『そういう話を人に言いふらすことに意味があるわけ?』と言われたら・・・ 言葉を失いボーゼンとして「言いふらすって・・」と立ちすくんでしまうだろうなぁ という強い共感を勝手に感じてしまったのです。」

 と言うコメントや、ボビーさんのコメントをいただいて、あくまで「定型としては」という条件付きですが、自分の気持ちの動きもやっぱりそんなに不自然なものではないんだよな、と確かめた気持ちです。

 今日もパートナーとそのときのことについて話をしたんですが、

「トマトさんへのお答えとして少しだけASを擁護するとすれば、「うれしい」「悲しい」は、非常に個人的な財産で、自分で密かに消化して日常に戻るべきもの、という文化がある、という感じです。「気持ちの一致の喜び」も、厳密には確かめられないので、自分の中で喜ぶスタイルです。 感情的なアップダウンは判断を誤らせる原因になるので、お互いのためにマナーとして極力排除します。」

 というコメントなども参考にしながら、どういうふうに考えて「人に言いふらすのか?」という疑問が彼女に生まれてくるのか、私なりに考えてみました。ああ、もしかしてこういうことかもしれないなあと、私自身は多少理解できるように思えてきたのですが、それも「定型的」な偏った理解かもしれません。そのあたりはまたパートナーとも少しずつ考えていきたいし、玄さんや皆さんのご意見も参考にさせていただければと思っています。

 どういうことを考えたかというと、玄さんの表現は少し微妙なところがあるような感じもするのですが、パートナーの話とか振る舞いを見聞きしていても、基本的に「うれしい」とか「悲しい」とか、あるいは「感激する」「腹を立てる」といった「思い」はアスペの人だって当然のようにあるのだと感じます。

 ただ、定型とアスペで大きく異なるのは、まずひとつめとしては、そういう「思い」(定型的に言えば感情でいいんでしょうが)を抱いたときに、それを他の人に表現するかどうか。伝えたいと思うかどうか。相手にも同じ気持ちになってもらいたいという感覚を持つことがあるかどうか。ということではないでしょうか。

 この点で言うと、前に蓮の花について書いたことがあるように、パートナーもまれにですけれど、伝えてくれることはあります。また羽化さんも写真という手段を使って、あるいみしずかにひっそりと自分の感じた世界を他の人にも見せてくださっています。そういう伝え方はあるんですよね。でも決して「ほら、これ美しいでしょう!」とか、そういう伝え方ではなくて、ものすごく控え目な伝え方です。そのことについてはナナセさんも こんなふうに表現されていました。

 「蓮を「綺麗でしょう?」と言わなかった奥様の行動とは私の気持ちが合致します。反対に「綺麗でしょう?」、「美味しいでしょう?」、「面白いでしょう?」などと前もって言われると、一気に心のシャッターが閉まるような感覚がするのです。もうそこでお終いというような。」

 「思い」はそれぞれの人がひっそりと自分の中で感じ、味わうもので、自分の思いを直接人に伝えると言うことは相手に対する押しつけになってしまう。できることは自分が「いいな」と思ったそのものを相手の人にも見せてあげることまで。あとはその人がその人なりの思いを味わってくれればそれでいい。アスペの方の姿勢にはそんな印象を持つのです。

 そしてもうひとつ、そのことに深く繋がる問題のように思えるのですが、次のことが大事な意味を持つのではないかという気がするのです。再び玄さんのコメントにヒントを得させていただきますが、玄さんは定型同士で感情のぶつかり合いがお互いの感情の対立を解決することがある、という意味の私の文章について、そんなことがどうしてありうるのか?という疑問を書いて下さっていました

 「申し訳ないのですが「感情をぶつけあう喧嘩」というのがよく分かりません。何が食い違ってケンカになって、どう収束して仲良くなるのか、よかったら教えて下さい。」

 「怒りの感情と人間関係(仲直り)とは次元が違うように思えます。」

 ここに書かれていることは「雨降って地固まる」というのとはだいぶん違った見方のように
思います。知り合いの中国人に教えてもらった中国のことわざには「ケンカをしなければ本当の仲良しにはなれない」というのがあるそうですが、それとも違うし「ケンカするほど仲がいい」という日本の言葉とも違う。

 つまり、定型はお互いの感情をやりとりして、そこで絆を深めたり断ったり、あるいは調整したりと言うことをよくしていると思うのですが、アスペの方にとって感情というものはそういう意味を持たないのではないだろうか、ということを思ったわけです。

 そう考えると、たとえば辛い思いをしているときに、人に慰めてもらって支えられる、とは思えない、というパートナーの言葉の意味が分かる気がします。感情はあくまで個人のものであって、相手の感情を自分がどうこうすることはできない。ただ見守ったり、物理的に支えたりすることだけで、あとはその人が自分で解決するよりないのだ、という感覚。

 だから病気をして辛いときは、側にいて励まされるよりも、一人そっとしておいて欲しいと感じるし、また身近な家族が病気になったときも「一人にしておいてあげる」ことが大事だと考える。


 定型にとっては感情というのは「お互いに影響し合うし、感情的コミュニケーションによって人は支えられたり、逆に傷ついたりする。人の幸せも不幸もそのことと深く関係している」という感覚がとても自然だろうと思います。感情的に支えてもらえる人が多ければ、あるいは深く感情的に支えてもらえる人が一人でもいれば、とても幸せだと感じる。

 その点で、なぜなのかはまた改めて考えなければならないことだと思いますが、アスペの方の「自然」はそうではなく、あくまでも「個人のこと」と感じられている。

 
 仮にそんな風に理解をしてみると、「言いふらしたいのか?」というパートナーの疑問が私にも分かるような気がするのです。なぜなら、私が自分のそのうれしさを彼女に伝えることに意味があるとも必要があるとも彼女には思えないからです。もしそうなら、そんな意味のないことをわざわざ言ってくる理由を考えると「この人は<自分は人気がある>と自慢したいのだろうか?」とでも考えるよりなくなってくる。


 パートナーにその理解を話してみましたが、まだすっと納得するようなものではないようです。それは彼女の場合、人に説明されたことを自分なりに理解するためにかなり時間を使う傾向があるからなのか、それとも私の理解の仕方が不十分なのかはよくわかりません。ただ、一つの可能性として、そう考えると私にもあの発言の意味が分かるような気になりますし、それだけではなくて、「感情」という問題について、アスペと定型の間でどういう感じ方のズレがあるのか、ということについても、今まで疑問だったことのいくつかが分かってくる感じがします。
 
 ところで玄さんが

「パンダさんはパートナーさんの言葉の解釈として「自分の思い違いに過ぎなかった、という体験を繰り返した」と記されていますが、僕には「思い違いかどうか確かめられない」ので、表に出す勇気がなく、体験にはなりません。」

 と書いていらしたことについては、私のパートナーが「思いすぎに過ぎなかった」ということを感じたのは、自分がアスペルガーだということを自覚してから後のことでした。それまでは「仲がいいと思っていた人がいつのまにか離れていってしまう」ということを繰り返し体験してきたことについて、「仲がいいと思っていた」ことが勘違いだったのだ、という理解をするようになったようです。体験の事後的な解釈という感じなのでしょうか。

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コメント

 やはりパートナーさんは御自分の今までの経験で 言ってしまった発言だったのですね 『そういう話を人に言いふらすことに意味があるわけ?』

「仲がいいと思っていた人がいつのまにか離れていってしまう」ということを繰り返し体験してきたことについて、「仲がいいと思っていた」ことが勘違いだったのだ 

 この事でさぞかし傷ついたのだと思います だからきっとパンダさんが これから久々に会う事を言った時に  そのような 発言になったのですね 

誰かと同じ気持ちになることは、とても貴重なことと思います。その記憶を大切にしたい、という気持ちも起こります。
「生命活動の同期」は、サンゴが満月の晩に一斉に産卵するように実際にあるのですから、人間も「感情の同期」があってもおかしくないと、僕は考えています。
なにか同じ現象を目にして、「同じ事を思う」というのは、同じ行動に繋がるということで、とても強いムーブメントが起きる予感になります。
そういう「みんなが動く」というのが、日本人は大好きですよね。だから兆しを探し、流れに乗り遅れまいとする。
そういうセンス(=自分の本能)を追認している自己肯定状態を、他人からネガティブっぽく指摘されたら「なんでそんなコト言うの?」と、怒りが湧くのも分からなくもありません。
定型はASの発言に傷つきやすく、ASは傷つけやすいのでしょうね。

「雨降って地固まる」については、僕は感情の側面を考えずに解釈していました。基本的に、こちらからは他人を嫌いになることはなく、いがみ合った状態になるのは「相手が突っかかってきた時」と「こちらの指摘に相手が強く反応した時」です。でも、存分にディスカッションできて「肝胆相照らす」状態になれば、より深く知り合う関係になれる。そういう意味と捉えています。(相手が離れていった場合には「地固まる」になっていませんが)

僕の発想では、「ケンカ(意見が違う)しても人間関係には影響がない」というのがありますが、定型にはむしろそこに愛憎が強く入り込むので、「上手くいった時の状況」をひと言で表わした「ことわざ」が生まれてきたように思います。

パンダさんの「つまり、定型はお互いの感情をやりとりして、そこで絆を深めたり断ったり、あるいは調整したりと言うことをよくしていると思うのですが、アスペの方にとって感情というものはそういう意味を持たないのではないだろうか、ということを思ったわけです。」
というのは、僕にはほぼその通りで、人間関係の「くっついたり離れたり」はコントロールしないし、「感情」をそのための指標として使う習慣がありません。


驚かれるかもしれませんが、僕は幼少の頃、自分を「普通」と思っていました。
大人になって、他人と比べて異常にエネルギーが必要な事柄(上手くいかないこと)がまだら模様に存在することに気付き、原因を調べるうちに、アスペルガー症候群という概念にたどり着きました。
「普通」ってなんなんだ!というのは自分への問いかけなのです。

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