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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月29日 (月)

ヘルプ!の人生観

 「素」の問題については引き続き考えて行かなきゃなあと思っていますし、皆さんからもいくつかのヒントを頂いています。ただし、私の能力では今すぐに素晴らしいアイディアが生まれそうにもないので、さらにぼちぼち時間をかけて考えていきたいと思います。

 とりあえずはかずきさんの「親しき者にも礼儀あり」が、こういう性格のブログについての具体的な提案としては説得力を感じたので、一応そのあたりを中心にして、ただ、ナナセさんも仰るようにやっぱり「素」で表現したい気分や問題もあるでしょうから、そのときは「素」でもOKくらいに考えておいてはどうかと思います。

 とはいっても、「素」で「意図に反して傷つけ合う」ようなことは最小限にできればそれにこしたことはありませんから、もしそういうことが問題になりそうな気がしたら、気がついた方がちょっとフォローする、ということでもいいのかなと。大事なことは「本当に言いたいことを言う」ことであって、「どういう言い方をするか」は「言いたいことをうまく伝える」ために必要な工夫な訳ですから、「素」を隠すことで「本当に言いたいことを言えなくなる」としたら、それは本末転倒という気がします。だから「言いたいことを大事にする」ということが大前提で、その上で言い方については「親しき者にも礼儀あり」を心がける、という感じじゃないでしょうか。とりあえずですが。

 

 さて、タイトルのヘルプ、なんですが、昨日ショッピングセンターに行ったら、BGMでなつかしのビートルズのヘルプが流れてました。で、その歌詞を聞いてたら、あれ?これってもしかして定型的な感覚なのかな?とふと思いました。

 要するに、自分が若かったときはつっぱっていて、誰の助けも要らないと思ってた。でもいろいろあって、自信もなくなって、落ち込んじゃって、どうか助けてちょうだい!という話ですよね(めちゃくちゃ大雑把 (^ ^;)ゞ)。

 もちろん定型でも人によっては最初から上手に人に助けてもらえる性格の人もいるんだけど、(特に男は?)つっぱって自立しようとする。思春期なんて、いじめられても親に絶対言わないのは、ひとつにはそういうつっぱった気持ちがあるからですよね。

 で、パートナーの話とか聞いていると、子どもの頃から誰にも助けてもらえない、孤立した状態を生きなきゃならくて、「誰にも助けてもらえない」とか「自分で解決するしかない」という気もちは、自分の中から自然にでてくると言うより、回りの状況で強制されるような感じがするんです。だから「世の中そう言うもんだ」というすごく強い人生観がそこで作られていって、大人になってもはっきりと続く。

 定型の場合は思春期とかに突っ走り始めても、もともとが「人に助けてもらう」ということが当たり前だった子ども時代を過ごしていて、いつでもその気持ちを保っていて、でも途中で「自立する」ころになると、その気持ちをある意味「押さえつけて」一人前になろうとする。だからちょうどそのころ、「親からは自立」すると同時に、甘えられる人、つまり「恋人」が欲しくてしょうがなくなってくるんでしょう。

 老人になるとまた強烈に「わがまま」になったりするのは、結局それまで我慢し続けていた「甘え」の気持ち、「助けて!」という気持ちが抑えられずに、ストレートに表に出てくるんだと考えることも出来そうです。

 そういうのが定型の甘えと自立のごちゃまぜになった人生観なのかも知れない。それに対してアスペの方はほんとに「甘え」が許されない環境に育って(「定型的な甘え方」はできないから、定型の親はそれに対応できない)、どうしょうもなく「ひたすら自立」の人生観が作られていくんじゃないか……と、そんなふうにふと思ったのです。

 もちろんこの問題は、単に「育ち方」の問題だけでいえるのでもないと思いますけど、ただ「ひたすら自立(と私には感じられたりする)」アスペの方の生き方は、単純に「アスペだから」ということではなくて、育ち方によってそんなふうに作られていく部分が結構あるんじゃないかと。その辺、大事な見方になるんじゃないかと思いました。

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コメント

トマトです。

ASの人は、心のありようを言葉に出して表現することが苦手だったり困難だったりするそうですから、助けを求めるとか相談する、という他者への橋渡しを・・・しない・・というか思いつかない方も多いと思います。

自分独りで模索して進む姿から「幼いときは、親や周囲の受け入れや可愛がられがなくて可哀想だったろうな」と思うASの人も居ます。
でも・・「愛情ゆえに抱きしめたり叩いたり」がわからないASの人なら、人それぞれの愛情や友情の示され方が解らず育ったと思うんですね。

そういうASの人には「愛情や心配があるからこそ、怒られたんだよ」という説明が通じないことがあって、マイナスの記憶がより印象深く残る場合もあるそうです。

ですから、自閉圏の人には、年齢に関わらずわかりやすい誉め方や、叱るなら具体的な説明をしないと、定型の好意は伝わらない・・・。
では、AS同士ならスムーズに関われるかというと、どうでしょう。
ASの人数が多くなって、定型と半々になったとして、いや多数派になったとして、ASの人にとってラクな環境になるのかなぁ・・・と考えたりします。

ASが比較的、表現がされるまでのハードルが高いということはあるかも知れませんが、それは個々に取り組んでいることで、「こういうものだ」と納得するなり、「もっと」と工夫をするなりしているはずです。

表現の苦手さを「ASかどうか」で区分けするよりも、全体として「苦手な人もそうでない人も色々いる」でよいのではないでしょうか?

愛情や友情については、その示し方段階から「人それぞれ」で、その受け取り方も「人それぞれ」という捉え方からすれば、「解らず育った」という言葉は随分と他人の生き方に横槍を入れているようで失礼を感じます。少なくとも、評価者自身に「解って育った」という思い上がりがあっての発言です。

僕は、「わかる」という言葉の曖昧さがまだよくわかりません。
自分勝手に情報を解釈して「わかった」と確信し、覗けもしない他人の理解を「わかっていない」と評することができる、その言動を把握し切れていません。

トマトさんはASには「マイナスの印象が強く残る」と想像されていますが、同じだけ「プラスの印象も強く残る」と言わせていただきます。誰しも自分の心の支えとなるエピソードや言葉があると思います。それはASにも同じです。

トマトさんは「自閉圏の人に合わせるには・・・」という発想になりがちのようですが、そういうときこそ、ご自分がどういう社会で生活しているかを考える場面と思います。まさに「色々な人が混ざって暮らしている社会」ですから、相手がどんな人であっても通じる言葉を使って語る。それがLow Contextです。

トマトさんの「ラクな環境」は、High contextを指しているのだと思いますが、ASはLow Contextコミュニケーションが当たり前になっていて、ラクを目指してはいない気がします。

玄さんへ  トマトです。

玄さんの言われる【「ASかどうか」で区分けするよりも、全体として色々いる」でよいのではないでしょうか?】という視点、共感できます。
この共感は「自分が少数派だったらこう思う」という少数派視点から生まれます。

はなからハンディとして見るのではなく、それぞれの個性として見れば良いのに・・という気持ちは、自分が少数派の立場に身を置いた時、自然にそう思いました。

しかし、多数派の立場に立つと、少数派の存在に気づいて理解したりかばったりする・・・又はその逆で、少数派に偏見を持ったりいじめたりするなどの、
対等感以上の感情や意志をを持つことも、これまた自然です。

私は、定型同士の相互理解の仕方と、定型とASの相互理解の仕方では、感覚も言葉の使い方も、表情よりペンを使えというコミュニケーションの種類も…根本から違うと感じるのです。

定型の「相手がどんな人であっても」の範疇に「言葉の概念が違う人」が入ってなくて「どんな言葉を使っても通じない」になりがちなのが現実だと思うんですね。
それは、ASのほうからも同じことが言えるのではないでしょうか。
High か Lowではなく other という感じなのですが。

定型の言う「わかる」「わかった」は感覚的な言葉で「あなたの言っていることを肯定します、同意します」や「あなたと同じ気持ちになったことがあると感じました」などのサインとして「わかる」という言葉をチョイスしていると思います。
また、相手とさらに親しくなりたい時や、なぐさめたり励ましたいときも「わかる」を使います。

定型同士では「わかる」の応酬がLow Contextで、「わかる」を説明することはかなりのHigh contextになっちゃいますね。


トマトさんへ

まず、トマトさんは「定型同士では「わかる」の応酬がLow Context」と書かれましたが、「説明しなくても通じる」というコミュニケーションのあり方はHigh Contextですよ。

次に「自然」についてですが、似た者同士が集まって、相容れない者を排除するというのは、一つの局面としては存在しえると思います。そういった意味では、自然です。
鎖国には鎖国の良い面があるわけですが、永久に鎖国が続くわけではないという感じに、状況に応じて「似ていない者との交流」が発生するのだと思います。
鎖国の状態はラクで「太平」だと思いますし、異文化交流は痛みを伴うのでイヤだというのも、また自然だと思います。(生きることは痛みを伴うというのも摂理と思います)

トマトさんは、「根本から違うと感じる」と書かれていますが、「根本から違う」と感じるのは、(個人の感覚ですから)それでよいと思います。ただ、その言語感覚に疑いを持って、「今自分が感じた根本って?」という段階に進めるかどうかです。

僕の考えでいけば、「どこまでが一緒で、どこからが違うのか」を共に捜し求めることが必要です。漠然とした「根本」をさらに詳しく見ていく必要があると思います。
通じさせたい話があるのでしたら「どんな言葉を使っても通じない」のは、「まだ不十分」ということを示していると思えます。
共通の土台に達するまで、根本の根本に降りていく。共通の土台から話し始めるのがLow contextです。この場合、otherはありません。

ASの話し方は、日常からLowに近いと考えられるわけですが、それは話が通じない定型相手に、通じる言葉選びの試行錯誤をしているスタイルゆえです。
丁寧すぎて回りくどい話し方や、セリフをあらかじめ考える方法や、常に敬語であったり等は、「通じない相手への模索」という意味でLow contextですし、それでも上手くいっていないのは、道半ばということでしょう。
大勢のAS素因がある方が、上手くいく言葉選びができるようになって社会で活躍されているはずです。ASだからダメ・・・ではなく、方法と学び次第だと思います。

ASの話し方のマネをしたらASに上手く通じるかというと、そうではないのは、形だけ真似しても「共通のところに降りる」ということができていないからだと思います。

High か Lowかは、人の分類のことではなく、コミュニケーションのモードであって、使い分けるべきツールですよ。Highは知識や文化の共有が必要なので、すぐには難しいですが、Lowは共有できている知識や文化を探ってそれをベースに話すという手法なので、そのベースを探し当てるのがひと手間です。
ベースを探さずに「通じない」というのは早計です。

「通じない」は「同じ文化のはずなのに・・・」という意識が背景にあるからだと思います。もしも通じさせたいという気持ちがあるならば、日本語を話していても「同じ文化ではない」という割り切りと、互いを学ぶ気持ち、共通の土台探しが必須だと思います。

玄さんへ トマトです。

玄さんの言われる
【「説明しなくても通じる」というコミュニケーションのあり方はHigh Contextですよ。】
【共通の土台から話し始めるのがLow contextです。この場合、otherはありません。】
は、理論上・・・ということだと思います。

私は感覚的に、High context→難易度が高い という意味で、定型の多くにとっては目の前のASの人の特徴に合わせ、理論上のLow Contextを実行することは、定型の多くにとっては高度なHigh context感覚になってしまう・・ということを言いたかったのです。

相手と共通の土台が見当たらない・・・場合は「探す」より「全く新しい土台を創造する」というotherのものをあえて自分の中に創り出す感覚でもあります。

ASの知人の例ですが、突然アポ無しで訪問されるので「前もって、こちらの予定を聞いたり、今から行きたいとか、せめて一言、電話でもメールでもして下さい、こちらも都合があるので」と言ったら、それからふっつり姿を見せなくなったのです。数年後に「前もって相手の予定を聞く、あらかじめ連絡する」ということがそのASの人にとっては、とても苦痛な行為で、それが壁になって来たくても来られなかった・・・と知りました。
「では、どういえば良かったのだろう? 今後、どう言えば良いのだろう?」
こういう場合は、自分の中の「できるだけ解りやすく、具体的に」という手法は役に立たず「何か自分の知らない新しい考え方が必要なのだ」と考えます。これが私のother感覚・・・という意味です。


玄です。
トマトさんと僕は、high/low contextについてまだ言葉の意味を共有していないですね。
トマトさんがASに話を合わせるのが感覚的に難しいと感じている、ということは分かりましたが、high/low contextは難易度が高い/低いという話ではありません。

使われている文例は、検索すればいくつも見つかると思います。


「連絡無しに来るな→来なくなる」の件、
電話やメールに、悪い思い出があるのだろうとは想像できます。それが、乗り越えられるものなのか、乗り越えられないものなのか、じっくり検討したらいいと思います。

乗り越えられるのであれば(手助けが必要かもしれませんが)、やったらいい。
時間等の制約でできないということであれば、できないということを土台に、互いに納得いく方法を考えたらいいと思います。
「連絡無しには来ないで下さい」→「行かない」は一つの解であって、両者が納得しえる対応と思いました。(納得できないならば、もっと話し合う)
今回の場合、「行かない」という結論をトマトさんと共有するプロセスがなかったことが、納得できなかったポイントだと思います。

訪問前の連絡方法が、置き手紙だろうと、伝書鳩だろうと、互いが納得する方法が見つかればそれでいいわけですし、それは互いにとって「新しい」ことで全く問題ありません。お互いの言葉で「納得の共有」が得られればよいのですから。

玄さんへ  トマトです。

あぁ! ごめんなさい!
high/low contextの意味、解っていませんでした。
high context→言わなくてもわかる、察する
low context→全て言葉で言う 
ですね。種類が違っていたのですね。語感だけで判断していました。すみません。

アポイントメントが苦手なAS知人は「せっかく来てくれても、こちらが外出していたとか用事をしているとかであなたの相手をできないときがあるでしよ。だから、来る前に電話かメールをしてくれないかな?」とか、いろんな言い方をしてみたのですが、やはり、その行為事態がイヤみたいです。忘れた頃にひょっこりアポ無しの訪問に・・・こちらが慣れる、受容するしか無い、という結論であきらめました。

ひとつ反省点は、その知人は息子の同級生で、小学生のころから突然来てフラリと帰るという子で(当時はASという言葉もなかったような)、ある日は屋根の上に座っていたり、外出中に入り込んで部屋の隅に、ざしきわらしのように密やかに丸まっていた・・・ということは度々でした。
田舎の家なので鍵もかけずという習慣があり、その子は無口だけど可愛らしかったので、私も家族も「あら、また来てたの」とか「おっ、こんなところにおったんか」とか、叱らず注意もせずおおらかに接していたのです。

だから「知人」と呼ぶほど成長してから「来るときは前もって知らせて」という、彼にしてみれば「突然のルール変更」は受け入れられないのかも知れません。

玄さんの
【今回の場合、「行かない」という結論をトマトさんと共有するプロセスがなかったことが、納得できなかったポイントだと思います。】が正解なのでしょう。

寂しいのは、息子の同級生なのに、息子はそのAS同級生と全く遊ばないし会話もしないことです。「中学生の頃までとれていたコミュニケーションが、とれなくなった」という理由で。
その子がASと診断されたのは大学生になってから。まぁ、その分、私は、その子の高校時代も一緒に映画を見に行ったり買い物に行ったり・・親子のような友達のような楽しい関わりでしたが。
当時、ASの知識があれば、奨学生の彼とルールを作り共有することが出来た・・かも知れません。


玄です。
トマトさんがわかって下さったようで、うれしいです。
何がうれしいって、物事の解釈が、言葉の定義の変更でガラッと入れ替わることを体験してもらえた様だからです。
こうやって、意味の共有を丹念にやっていけば、自ずと粘り強く、互いの違いに寛容になれる気がします、、、そう期待しています。
行き違いの修正作業は、徒労感がありがちですが、無駄ではないと思います。
僕が間違っている事もありますので、どうぞご指摘ください。
宜しくお願いします。

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