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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月12日 (金)

守るために傷つける?

 コメントで、とても重要なポイントであるだけに、緊張感のあるやりとりが続いています。それはやはり「アスペVS定型」という図式の中でのやりとりであるし、またその図式自体が持っていいる緊張感がストレートに出ているという気がします。それはお互いが抱え続けてきた深い傷にさわる部分であるだけに、扱いも難しいし、そこから何か新しいものを生み出せるか、それとも対立図式をさらに固めてしまうことになるのかという、剣が峰にもなる部分でしょう。

 もちろん、このブログがあることの意味は、そういう微妙な問題を避けて「表面的な友好関係」を装うことではなくて、あえてその部分に慎重さを持って入り込んでいくことで、これまでとは違った道を探す事にあるわけですが、そこで私がとても大事だと思うことは、どんなにシビアな問題について語り合う場合にも、決して相手の人格を否定しない、という姿勢を貫くことだということです。

 もちろん同じ一つの言葉が定型にとっては思い遣りの言葉であるのに、アスペの方にとっては自分を否定する言葉になってしまう、というようなこと、あるいはその逆の場合もいくらでもあるわけですし、いくら「人格を否定しないように」と思っていても、知らないうちにそうしてしまっていることは常にありうることですよね。だから私には「姿勢を貫く」という言い方しか出来ないのです。

 姿勢を貫くというのは、自分が全く意図しない形で相手の人格を否定してしまった場合、そのことを相手に指摘されたら、それに反発をしたり否定したりするのではなく、相手がそう感じることの意味を出来る限り受け止めようとする姿勢を貫くことではないかと思います。それは時としてそれまでの自分自身の姿勢を一旦否定しなければならないような場合も少なからず生ずることですから、もちろん簡単なことではない、ということも実感しています。そういう姿勢が保てない状況も現実に存在するとも思います。当然のことながら私もその姿勢をいつでも保ち続けられるわけでもないと言う現実も、繰り返し自覚させられています。でも本当に問題を解決しようと思えば、結局はそのほかに道はないのではないかと思うのです。

 人格とかややこしい言葉をつかわなくとも、もし私たちがこの世界で一緒に生きていくよりないのなら、そのためには相手にもちゃんと生きていてもらわないといけないわけで、相手の人が死んじゃったら、ケンカだって出来なくなるんですよね。ちゃんとケンカが出来るためには、相手にしっかり生きていてもらわなければならない。そんな風に思います。

 

 なんだか口幅ったいことを書きましたけど、今考えているのは、そこにも関係しては来るんだけれど、もうちょっと違うことです。私のパートナーの言葉が時々心臓に突き刺さるような厳しさを持つことがあり、逆に彼女に言わせれば私の言葉や態度が彼女のそれこそ存在を否定するようなものとして受け止められることがあり、でも自分の言葉や態度が相手にとってそういう意味を持つ、ということは自分では全然気づかれなかったり、あるいは「こういうことを言われたりされたりすれば、こういうことを言ったりこういう態度を取るのは当たり前の反撃だ」と思っていたりする。

 アスペと定型のズレに悩んでいる方はそんな経験をいやと言うほど繰り返し体験してきているのですよね。で、私が考えたいと思っていることは、どうしてお互いにそんな風にはっきりと意図もしないのに、相手に深いダメージを与えるような言葉や態度をするようになるんだろうか、ということです。

 一つの考え方としては、「この言葉が相手を攻撃する意味を持つ」という理解がそもそもない場合にはそういうことは起こりえるでしょう。その場合は、仮に自分が同じようなことを言われたとしても全然平気だ、ということになると思います。自分が平気なのに何で相手がそれで傷つくのか分からない、というわけですから、平気で言ってしまうことになる。

 そんなケースも多分あるとは思うんですが、そのほかに「自分を守るためにそれまでの経験の中でほとんど無意識的に作られてきた言い方や態度」というものもあるのではないかという気がするんです。ですからそう言う場合にははっきりと「相手を傷つける意図」が意識されているわけではないんだけど、でも一種の自己防衛の手段として相手を突き刺すという行動が知らず知らずに身についてしまっている場合も有るんじゃないか、ということです。

 定型の私にはなんでそんな言い方をされなければならないのか、ほんとに理解できないけれど、でも極めて的確に、ねらい澄ましたようにぐさっと自分を傷つけてくることをされるという体験を何度か繰り返すと、やっぱり「知らないから」という理解では解決がつかないのです。そんなに偶然にできることではなく、効果を何らかの意味で知っているからそうしているのだろうと思えてしまうんですね。

 もちろん「無意識に」なんていうことを言い出せば、なんでも無意識のせいにされてしまって、「無意識の悪意の固まり」みたいに決めつけられてしまうことだってあるわけですから、この辺、すごくナイーブな問題であるとは思っていて、決して単純に決めつけられるものではないとは思うんですが、でも一部のやりとりについてはその可能性も考えてみる意味があるようには思います。

 どういう意味があるかと言えば、もしそのような意図しない無意識的な「結果的な攻撃」がある場合、それは「自分を守るために仕方なく作り出されたもの」である可能性が十分にあって、そうだとすれば、そういう「傷つけ合い」を減らしていくためには、そういう経験から作り出された言い方や態度などを、そのようなものを身につけなければならなかった事情を理解することで、「そういうやりかたをする必要がない」状態を作っていけばいいということになると思うからです。

 うーんと、つまり言いたいことは、こんなたとえ話でも説明できるかも知れません。昔パートナーとちょっと長い旅行に行ったときに、荷物をいっぱい背負ってよく歩いたんですが、なんだか知らないけど、よく腹が立ってきて、ケンカみたいになったんですね。で、私としてはなんかすごい重要な問題について怒っているのだと思っていたんですが、あるときふと気がついたんです。そうやって腹が立つのは、お腹が減ってきたときなんですね (^ ^;)ゞ。だから食事をするとすっとすっきりしたりする。ほんとに気がついたときは唖然としました。

 もちろん空腹で腹が立ちやすくなる、とか攻撃的な気分になりやすくなる、という話はとても単純なので、ここで問題にしているアスペと定型のシビアな問題にそのまま応用できる訳じゃありませんけど、要するに自分が、あるいは相手がそういう攻撃的な言葉や姿勢を投げかけてくる場合には、本人も気がついてない形で自分の安定とか安全とかがどこか危なくなっているという思いがあって(上の比喩では空腹という生理的な状態)、そこが原因になっていることがあるかもしれないと思うんです。だからもしそこの仕組みが分かれば、何か対処の仕方もわかるかもしれない。

 もちろん漠然と考えていることで、実際どうなのか、本当にそんなものを見つけることが出来るのかはまだ全然分かりません…… (^ ^;)ゞ

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コメント

パンダさんが話されたいことが、僕の感じ取ったものと違うかもしれませんので、もうちょっと考えてみたいと思いますが「お腹が空いているとケンカになる」というのは、分かりすぎるくらい経験ありです。
なので、僕は家族で出かける時などは食事の予定を非常に重視します。(それと、口論のひとつや二つあるだろうという余裕?を持つ)
あんまり「傷つける」というテーマに踏み込んでませんね。(^^)

定型にとって他者からの共感は、空腹時のパンだと思います。
とにかく、少しは落ち着くし。

共感にもいろいろありますが、私が高校生のときの思い出にこんなことがありました。
弓道部員だった私は、夜の練習場に1人で行った時、顧問の先生所有のムラサキ色の羽根がついた矢があり、とても美しかったので、ついその矢で的を射ってみたくなり、弓の弦を引き絞り、親指の上にその矢を乗せたのです。
月明かりの道場で独り、私が放った矢は的から大きくはずれ、屋根のひさしに当たりおれてしまいました。
翌日、先輩も後輩たちも「これ、いったい誰が!」と大騒ぎになりました。
「トマト、顔ひきつってるよ」と同級生の1人が私にささやき「私も付いてってあげるから、先生に謝ろう」と言ってくれました。
学校でも有名な恐い先生でしたから、土下座の勢いで謝りました。
そのとき一緒に土下座してくれた同級生に、先生が「なんでおまえも謝ってるんだ」と聞くと、彼女は「トマトを許してあげて欲しいからです。私も先生の矢を打ってみたいと思った事がありました」と答えたと記憶しています。

先生は意外にアッサリと許してくれました。
「よかったね、トマト」「うん・・本当にありがとう」
同級生の彼女が、私の困った気持ちに共感を寄せてくれて、共同行為をしてくれたことが、先生の怒りを和らげてくれたと思いました。

共感・・というものは、私とあなた を わたしたち にしてくれるものだなぁと・・・思ったものでした。

多分・・・あのときの記憶が、今現在
ASの同僚が一方的に定型上司に怒られているとき、私が「すみません」と割り込む様に謝り、上司が「なんでトマトさんが謝るの」となり、「それは、彼が謝ることを思い当たらないからだと思うからです」「はぁ?」というにぎやかな展開になっているルーツだと思います。

パンダさんちのブログは、かずきさんのむすこさんへの共感、するりさんの理論とバランスのとれた共感、新月さんの片思いの彼への共感、私の共感のツボ入りまくりのボビーさんのコメント・・・と実は豊かな共感が交差しているから魅力的・・・・・・・

と書いていて、では自分の「玄さんやナナセさんへの共感は何だ?」と立ち止まり・・・理解や納得を「共感」と思って「共感」と呼んでいるのかも、理解と共感の境目があやふやなのかも・・と思い当たりました。


世の中、猫も杓子も共感共感ですが、トマトさんの言われるように幾つもの意味が含まれているのでしょうね。

同じ気持ちになる(気持ちを表明し合っている)
同じ感想表現にたどり着いた
他人の感想表現を知って、自分もその表現の通りだと思った
他人の発言を聞いて、理論的に納得した
同じ場面で、同じ情動をした(笑いなど)
同じ状態からの次にしたい行動が同じだった
他人の気持ちを推し量ること
他人の行動を先読みすること
他人の立場で考え行動する(当の他人の思考とは関係ない)
こじれた人間関係を良い方向に持っていこうと作業する

まだまだあるかもしれませんが、僕の考えつくのはこんな感じです。
一緒、あなたと同じ、みんなと同じがキーワードですね。
同じにしておけば、とりあえず安心という発想もあるでしょうし、一緒じゃない奴は敵(攻撃対象)という心理も根は同じように思います。

手段として、相手の顔(険しいとか、悲しそうとか)で気分を読み取り、やっている作業(話中かとか、手が動いているかとか)で忙しさや次の行動を予測するのがせいぜいで、相手の心理を電波でキャッチして心のテレビに映し出すようなことってないように思えるんですよね。
それなのに、「感じ取る」みたいな曖昧な表現で「共感」を説明してくるから、僕は「共感」にもっとオカルティックなイメージを持ってしまう。
定型の方には、相手の心を映し出すモニターがあるんですか?

パンダさんのテーマ「守るために傷つける」の、僕にとっての難しい点は、「相手の受け止め方」についてだからですね。
僕にとって「相手がどう受け止めるか」は、基本的には「予測できるものではないので、出たとこ勝負」です。

僕の言葉で相手が傷つくかもしれませんが、傷つかないかもしれない。
相手の心の余裕があるかどうかは、こちらにはコントロールできないからです。(実際には「コントロール」とはなりませんが、心の余裕をアップさせるサポート言葉を付け加える、という方法が有効な時がある)


厳しい会話を思い出すと、それはもう「雑談」ではなくて、大事なことを話し合っているのですが、それがちょっと脇道にそれた時みたいな気がします。
心の余裕がある時にはスルーできることを、「超シビアモード」の対話に載せてしまい、「日頃から気に入らないポイントが出てきちゃった!このモードだと引くに引けないじゃん」なのではないでしょうか。多分お互いに。

おそらく、そのときの話し合いの本筋の「決めなきゃいけない事」ではなく、意見の食い違いから「発想のズレ」にテーマがシフトして「自分のありかた」「相手の位置づけ」「思いやりとは」「日頃できていないことへの対応」みたいな・・・目標が一緒なら多少のズレがあってもいい事を、一歩も引かない勢いでぶつけ合ってしまう状態。(←我が家のことです。念のため)


パートナーさんがどのような言葉を選び、どのようにパンダさんに突き刺さったのか語られていませんが、パンダさんの大切にしていることの脇をえぐる鋭いものだったようですね。
想像ですが、パートナーさんは日頃からそのポイントに着目し、自分のこととして苦しんでいる。パンダさんはそのポイントを知らず知らずに避けていた、という感じかもしれません。そして、逆もある。
アイデアですが、パンダさんの「一旦自分を否定」を真似すれば、
「一旦、相手を肯定」し「それを言われると、傷つくよ。」と言うのが、いいのかもです。「傷付け合うのが目的じゃない」に気付ければ大成功。

トマトさん

 「ASの同僚が一方的に定型上司に怒られているとき、私が「すみません」と割り込む様に謝り、上司が「なんでトマトさんが謝るの」となり、「それは、彼が謝ることを思い当たらないからだと思うからです」「はぁ?」というにぎやかな展開になっている」

 なんか、トマトさんてほんとにすごい人なんですね。いや、偉そうに聞こえたらごめんなさい。素直にそう感じます。


 玄さん

 「世の中、猫も杓子も共感共感ですが、」

 共感を「押しつけられる」身からするとそう感じることになりますよね。そのことに私は「共感」します。

 今世の中で言われている「共感」は、「同じ」と言うことばかりが強調されていて、自分とは違いを持った、場合によって本当に理解が困難なこともある他者について、人として深い「共感」を求めていく、ということは全然無視されていて、逆に「自分と同じにならないなら排除する」という意味での「共感の強調・強制」になっている場合がすごく多いような気がするんです。私は本当の「共感」というのは、「違い」を前提にしながら、それでもなお「仮に自分がその人のような状況に置かれ、その人のような性格を持っていたとしたら、当然そういうふうに感じ、行動するだろう」としみじみと感じられる、というような意味で使うことが多いので、そもそも「おしつけ」や「排除」とは正反対の気持ちの働きなんですね。
 
 「それなのに、「感じ取る」みたいな曖昧な表現で「共感」を説明してくるから、僕は「共感」にもっとオカルティックなイメージを持ってしまう。定型の方には、相手の心を映し出すモニターがあるんですか?」

 これについては記事でも少し触れましたが、少なくとも定型の場合、相手が泣いていると、何で泣いているのかは分からなくてもなんとなくこちらも悲しい気持ちになってしまうとか、知り合いの場合であれば嬉しそうにしていれば自分もなんとなく元気になるとか、そういう「感情が伝染する」みたいなことは基本としてあると思います。それは理屈で分析してそうだ、とか言うんじゃなくて、もう自動的にそうなっちゃうみたいなことです。

 たしかナショナルジオグラフィックの記事で読んだと思いますが、わりに最近(といってももう10年以上になると思いましたが)、そういうしくみの基本になる脳の働きが、猿のレベルでも偶然発見されたそうです。それは実験者が手を動かすか何かしたときに、それを見ていた猿の「手を動かす」脳の場所が興奮したというような話なんです。

 つまり、相手の身体の動きを見て、それに対応する自分の脳の部分が自動的に興奮すると言う形で「共感」の手がかりが得られていると考えられるんですね。それでそのような形で相手の動きを映し出すように反応する細胞を、たしか「ミラー細胞」とかいっていたと思います。

 赤ちゃんが大人のまねをして例えばスプーンを使えたり、大人に食べさせてあげたり、「真似をする」というのも、なんでそんなことが出来るのかは、理屈で考えるととても不思議なことですけど、「共感」という気持ちを説明する言葉ではなくて、脳の仕組みで説明すれば、ミラー細胞という仕組みがそれを可能にして居るんだということになります。(つまり「相手にこういうことをされる」ということと、「自分がそう言うことをする」ということが「同じ事なんだ」と理解できる)

 そういうことを考えていくと、言葉を含めたコミュニケーションの土台には「相手と同じような(似たような)行動が取れ、姿勢が取れ、それにともなう感情状態が起こる」ということが大事になって、それがあるから「同じような意味を共有する」ことができるわけですから、その点ではアスペでも定型でも基本の仕組みは持っているように思えるんですよね。(ただ、カナータイプの自閉の子はそこがとても弱いと思いますし、その基本の仕組みがどう展開していくかはアスペと定型で違いがあるのだろうと思うのですが)

 ということで、「相手の心を映し出すモニターがあるんですか?」というご質問に対する私の答えは、「相手のまねをする(同じ状態になる)」という仕組みがその「鏡」か「モニター」に相当するものだというものです。で、アスペの人であれ定型であれ、基本的には持っているはずだ、という気がしています。

 

再び玄さん

 「相手の心の余裕があるかどうかは、こちらにはコントロールできないからです。(実際には「コントロール」とはなりませんが、心の余裕をアップさせるサポート言葉を付け加える、という方法が有効な時がある)」

 このあたりの理解のされ方がアスペの方らしいなあと思いました。
 定型でもいろいろな人がありますけれど、多かれ少なかれ、他の人の感情状態には影響されてしまいます。巻きこまれるというか。だから、その自分の感情をコントロールしたいと思えば、その場を離れるか、相手と一緒に感情的な遣り取りの中で調整していくしかない、というのが基本のパターンで、そこでもお互いに感情的に影響し合う、ということがベースになっているのですね。そうすることで、結果としてようやく自分と相手の感情を一緒に「コントロール」できることになりますが、そこは理性的なコントロールという感じではなく、感情の遣り取りの部分が中心だと思います。カウンセラーの人はその辺で感情のやりとりを理性的にもコントロールしたりするわけですが、これは特別の「専門家」の話ですね。あと、政治家とか。

 ただ、一般の定型の人でもだんだん大人になるに従って、そういう相手の感情に「巻きこまれない」で比較的冷静に対応できる「技術」をある程度は身につけていったりもしますが、それは後から「修行」でやっと部分的にできることなんだろうと思います。

 それで、その感情の遣り取りの中で、「傷ついた相手の気持ちを支える」とか、「余裕なくなっている気持ちに余裕を持ってもらう(安らいでもらう)」というようなこともできることがあるのですが、そこで大きな力を発揮するのが「共感」だったりします。

 そう考えると、上の玄さんの発想とはやはりちょっとズレがあって、その部分はお互いの違いを理解する上で大事なポイントの一つなんだろうなと改めて思いました。

「パートナーさんがどのような言葉を選び、どのようにパンダさんに突き刺さったのか語られていませんが、パンダさんの大切にしていることの脇をえぐる鋭いものだったようですね。想像ですが、パートナーさんは日頃からそのポイントに着目し、自分のこととして苦しんでいる。パンダさんはそのポイントを知らず知らずに避けていた、という感じかもしれません。そして、逆もある。アイデアですが、パンダさんの「一旦自分を否定」を真似すれば、「一旦、相手を肯定」し「それを言われると、傷つくよ。」と言うのが、いいのかもです。「傷付け合うのが目的じゃない」に気付ければ大成功。」

 仰るとおりで、「一旦、相手を肯定する」というところがほんとに難しかったんだと思います。結局自分の視点で見てしまうから、「いや、そこはまずいよ」と直感的に感じてしまうんですね。子育ての中での「共感」の問題なんか、特に深刻でした。で、定型的な感覚で「こうした方がいいと思う」というと、それは彼女からすると「自分を否定して認めてくれない」ということになってしまって、どうしていいか分からなくなったことがずっと続きました。

 今又二人の関係に戻って、最近ようやくそのあたり、パートナーのありがたさを素朴に感じるみたいになりつつあるので、これからの変化には期待するところがあります。

 あと、ご指摘のように具体的な中身は書きませんでしたが、私の印象では自分の弱点を突かれる、というより、「自分はここはすごく大事にしたい」と思うところを、あっさり否定されてしまう、みたいなショックが多かったような気がします。そういう意味で「ポイントを的確に突いた」という感じでしょうか。最近は随分そのあたりも変わってきたような気がしています。多分お互いになんだと思います。

共感について言えば、
定型は、共感があることで空気抵抗がなくなる。とても生きやすい。
ASはその反対(の人も多い)。

このように、定型とASの概念が、真逆や逆さまのものって沢山あると思います。

パンダさんへ

私が、定型上司とAS同僚の間に割って入るのは、とっさの行動なのですごいも何もありません。私の住む県の方言で「のうが悪い」という言葉があります。「使い勝手が悪い」という意味なのですが他県の人が聞いたら「脳が悪いと言われた!」とショックを受けます。そんなとき、慌てて言葉の意味を教えてあげますよね。そういうレベルなので、パンダさんも、ASと定型のあからさまなくいちがいを目の当たりにされたら、自然に腰が浮くと思います。うん。

トマトさん

 おもわず「のうが悪い」をググってしまいました (^ ^;)ゞ
 なんか「工合が悪い」とか「使い勝手が悪い」「調子が悪い」とか出てきたぜよ~

 それで、私の場合、もともと腰が重いので、自然に浮くことはないと
 思います~ ぜよ。

 

パンダさんが、傷つく言葉について語り始めて下さっているので、僕からも。
定型の方は「共感」について、「それがないと生きて行けない」「呼吸をするのと同じ」「重要なこと」「あたりまえ」「普通のこと」とあっさりと表現されます。

自分に「共感」が無いと疑っている人にとって、それらの言葉が、どれだけ残酷か。お前達は「生きていないのと同じ」「呼吸していない」「普通じゃない」と、面と向かって存在を全否定されていることが、お分かり頂けるでしょうか。

そうなんです。思い詰めているんです。でも、追い詰めているのは、定型の自己肯定の(無自覚の)言葉そのものなんです。

定型は、誰にでも共感をもって接するのではなく、共感力の強弱を使い分けますよね。それをスキキライ表示に使ったり、敵に対して共感力をoffにしたり。
(そういうシステムがあると仮定すれば、ASの態度が実情と「ズレた信号」として定型に受信されるのは無理もありません。それはまた別の話)

「共感」が話題の時には、定型の人は既に「共感」モードを解除していますから、傷ついているとは想像もしていないのでしょう。
「そんなこと当たり前だよ」と言う人には、「当たり前」をできていない人の気持ちを推し量り、助けの手を差しのべる気は無い。
そんな人の「共感」は、ますます信じられないというのが本音です。

顔色も変えずに自分を全否定してくる人に対して、こちらのできることは?
いつもの通り(顔色を変えず)、普段は機嫌を損ねないために使わないでいる単語を取り出します。最悪ですね。

どうすればいいか。
仮に「そんなの当たり前でしょう?」と言われて、「そうなんですか、知りませんでした。ごめんなさい」と謝っても、「当たり前」を指摘した人の怒りは治まらない。
疲れるか、呆れるかで話が終わるまでひたすら耐える?
窮地に立っている方は、やれる手段が少ないから、窮地なんです。

僕に思いつけるのは、定型が「当たり前じゃない」「普通じゃない」人に出会ったとして、それを”指摘してはいけない”なんです。
当たり前とはなんだろう、普通とはなんだろう、と「自分に疑問を持つ」そうしないと解決しないと思うのです。定型が自分に疑問を持たないから、ASは定型に対して「多数派の思い上がり」を感じているのです。

もちろん、ASは自分の考えに固執してしばしば現実を読み違えています。ボタンを掛け違えたままのことも多々あります。根気よく、現実を見つめ、ボタンの掛け違いを掛け直す柔軟性・身軽さが求められるとは思います。

玄さんへ トマトです。

私は高知県に在住しています。高知県には飲みニケーションという文化があり、酒をくみかわすことが「当たり前の挨拶」という風潮が最近までありました。
さすがに今現在は、飲酒運転の規制概念や、お酒強制のマナー野暮も普及して来て「車で来ました」と言うと無理強いはされなくなりましたが。

数年前までは「俺の酒が飲めんと言うのか!」という無礼となり、「お酒が飲めないなんて可哀想」「人生の楽しみを知らない人」というラベルを張られました。

私は、アルコールを分解する酵素が体内に極端に少ないので「アルコールを飲むと死ぬ」という特異体質なのです。

高知は公私ともになにかと宴会が盛んで、正月盆暮れ、冠婚葬祭に神祭では親戚に「なぜ飲めない!試しにひとくち」
職場の忘新年会、仕事の打ち上げ、パーティーなどでは「練習すれば誰でも飲めるから、まぁ飲め」と、口元に杯やコップを押し付けられられることがしょっちゅうでした。
「飲酒運転になります」と断っても「それがどうした、こちらも車で来た。まぁ飲めや」「そうよ、空気悪くなるから、かたくなに断ったらダメよ」という時代が長かったです。

「人間関係を失うか、命をうしなうか」
周囲の多数派の「フツー」や「当然」は、私にとっては常に生死の危機にさらされるレベルでし
た。

酔っぱらっている相手に、大真面目に「私の体質は・・」という説明をしてもまともに受け取ってはもらえません。

それでは酒席に行かなければ良いという条件は、私の仕事柄も県民性という環境からも無理でした。
「飲めないわけが無い」「絶対、飲める」そんなことを言われ続けながら「飲んだら死ぬ」超少数派の私は、自分の住んでいる地域のフツーに潜在的な嫌悪や恨みを抱いて生きて来ました。

お酒が飲めないことがどうして、人生や人格の全否定になるかサッパリわかりませんでしたし、お酒を飲まないと楽しめない多数派を、逆に哀れみ軽蔑しました。
ひと昔前の高知県民成人のほとんどを嫌ってる・・という感覚でしょうか(笑)。

しかし・・・一番まずいのは「黙っている」ということだと気がつきました。
酒席に出るときは、前もって(もてなす側なら)スタッフや仲間に自分の体質を説明しておく、
客として出席しなければならない場合は、友人知人または隣の席の人に、開式までに告げておく。
そうすると、自分独りで悪戦苦闘しなくても援軍が得られるのです。
誰かに無理強いされそうになると「まぁまぁ」と割って入って守ってくれたり「この人実はね」と、説明してくれる。
本人が言うと「言い訳」や「嘘」ととられがちなことも、第三者が口添えしてくれることで、すんなり通ることは多いと学びました。

私がお酒が飲めないことが信じてもらえなかった理由に、まず「どこから見ても酒豪顔」という悲しい印象があります。
ASの人も外見に「ASならではの特徴」とかがあれば、定型の共感やフツーを押し付けられずにすむでしょう。
人の表情を読み取れると豪語(?)する定型さえ、、読み取れないし察する事ができない「自分と同じあなた」という思い込みで、大き過ぎる誤解が生ずるのです。

「この世の中に酒が飲めない人間も居る」ということが通用しなかった数年前の高知県の未成熟な文化があったように
「共感がわからないという人も居る」ということが通用しない日本の未成熟な文化が今なのです(将来的に変化がくると信じていますが)

ですから、ご自分がASで「こういう点が分らないし混乱する」という自覚がある方は、ASという事まで告白しなくとも、
あらかじめの「こういうことが出来ないのです」という自己説明は、
自分を救うために必要だと考えてもらえないかなと、いつも思うのです。

多数派は、少数派の初回の自己説明の意味が解らないかもしれません。受容しずらいかもしれません。
でも、様子を見ていて「あっ、本当だ、こういうことを言っていたのだ」と納得します。納得したらピンチの場面では口添えしたり、周囲に話したりして、理解の和が広がり、少数派がずいぶん過ごしやすくなると思うのです。

ASの方は、相手や周囲に合わそうと、とたも沢山の努力をされるようですが、その努力の手前に「自己説明」をしておくと、努力が実を結びやすくなると思います。

それが「かけるべき1番目のボタン」になると思うのです。

トマトさん、コメント有難うございます。興味深い比較対象を与えてくださいました。
スゴイですね高知。トマトさんとお酒を飲めそうにないのが残念ですが(^^;)

トマトさんの、アルコールを飲めない体質ということを通しての経験は了解しました。
「全く飲めない」というのは、相手の厳しい反応が予想されます。
「お酒を断る」は即コミュニケーション拒否の意味でしょうから、「人間関係が上手くいかない」というレベルではないですね。
トマトさんは辛い経験をお持ちと思います。

お酒を飲めないのは、特異体質なんですかね。
ある一定の割合で、飲めない人も高知県にも居られるのではないかと想像します。「飲める量」というのがどうやったら測れるかわかりませんが、日本人の許容量をグラフにプロットしていったら、ブロードに広がってスペクトラムになるのでしょう。
沢山飲める人を珍重するというのは、どこにでもありそうですが、飲めない人は見過ごされがちです。過去には、「酒量の程度の差」ができる仕組みや「飲めない人もいる」という事実が知られていなかったのでしょうが、法制度などの環境変化や教育の結果、昨今では理解される下地ができてきたのだと思います。
声を上げれば、今なら理解されるのは実感されていると思います。

僕は、ASを特異体質とは考えていません。
体調によって、出される酒によって、お酒を飲める量が大きく変わるように、ASも特徴が出るかどうかは変動があるはずです。

ASを飲み会に例えるなら、ASは常に自分の飲み物を持ってきていて、注がれるのを拒否する人?
「酒に弱い」人が自分の適量を守る、飲み過ぎた時の対処法を知る、潰れた時の助けてくれる仲間を持っておく、、、などいろんな場面でのノウハウがあるはずですが、これらはいろんな場面でASが上手くやっていく参考になりそうですね。

「お酒を飲めない」が認知された今、ASはどうすれば認知されるようになるのか。ASで直接死ぬ人がいないのが、教育が進まない原因かもしれませんね。

トマトです。

一昔前の高知県に限って・・の例でしたかが「世の中にそういう人もいるかもなぁ」という発想の入る余地の無い・・・とてもじゃないが「そんな人おらん! おるわけが無い! それは言い訳、努力不足、やる気が無い」で決めつけられた時代を経験したので
ASの人が同じワードで決めつけられて「つらい、くやしい、納得がかない、横暴だ」と感じることには「なるほどなあ」と共感するわけです。

多数派が自分たちの当たり前やフツーを「当たり前やフツーって何だろう」と考える時は、自分が少数派寄りの経験や感情を経験したときだけです。
普段は「考えるべき」と言われても考えられません。それこそ押しつけに感じるでしょう。
なぜ定型が「当たり前やフツー」の検証をしないかというと、きっかけが無いからです。

・自分がASまたはAS寄りで、人間関係に傷ついてきた。
・自分の家族や恋人が自閉圏で、理解の方法を探し始めた。
・出逢った人に、興味関心が沸いたらASという言葉に行き着いた。

そういう、自分の知らない当たり前や、想像外のフツーを考えるためには、多数派には「自分に関わるきっかけ」が必要なのです。

「そんな人間おるわけない」と存在否定された私が一気に「そんな人もおるんや!」と大逆転したきっかけは、
職場の人がほんのいたずら心で私のジュースのグラスにビールをスプーン一杯入れて、それを知らずに一口飲んだ私は倒れ、救急車で運ばれ「急性アルコール中毒であわや一命を落とす所だった」という事実を、その場に居た知り合いの人全員が知ったとき
「そんな人もおるんゃぁあああああああ〜!!」
と、認知も理解も「本当にごめんなさい」という謝罪も、さらにはその日以降の酒席で「トマトさんはね、本当にアルコールだめなの、代わりに私が返杯を受けさせていただきます」という、かばいだてまでも手に入れて「酒席にも安心して行ける」人間関係を一気に広げられた事がありました。

私にとっては意図せぬ命がけのきっかけで、こんなことはあってはならないです。
ですが
やはり、ささやかでも、小さくても「きっかけ」が無いと理解や疑問は生じません。

玄さんの言われる
『当たり前とはなんだろう、普通とはなんだろう、と「自分に疑問を持つ」そうしないと解決しないと思うのです。定型が自分に疑問を持たないから、ASは定型に対して「多数派の思い上がり」を感じているのです。』
は正論です。
でも、人はきっかけがないと自分に疑問を持たないと思うのです。

他者に持って欲しい疑問があれば、自らその疑問へのアプローチやヒントなどを与えないとスルーされると思います。

ASの人の概念は、定型にとっては疑問の範疇におさまらない未知の事柄が多いので、自らの考え方をかえりみる・・・というところに到底ベクトルが向かないのです。
それはもう、多数派が少数派にいずれ、未来に「ごめんなさい」と謝る日が来るとしても、今はまだそういう時代なので
「考えて欲しい側」が「考える事すら思い当たらない側」へ、「考える事のきっかけ」を投げかけることは、自分の身を守る自衛手段にも、理解を得る種まきにもなると思うのです。

この「伝える」という発信が、自閉圏の人にとってとても難易度が高い、ということは承知しています。
「ほら、今、言わなきゃ」と定型が思うときASの人は「うまく話し言葉にならない」という咄嗟の表現ができない点もおありでしょう。
「その時、どうして言わなかったの?」と言われても「まさにその時が今なんだ」というタイミングのピントを合わせることが難しいという点もおありでしょう。
意を決して言ってみても「唐突に、今、何を言ってるの?」という時間差ズレもあるかも知れません。


でも・・・相手の理解を待つ、相手の言動に意見を持つだけでは、相手は気がつかないので
「自分から伝えてみる」という行為は、誤解を理解に変える第一歩だと思います。

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