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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月23日 (火)

定型とアスペの表現のズレ

 新月さんナナセさんのコメントを拝見して、アスペと定型の間で生じがちなズレを理解していくために、もう少し補足的に考えてみた方がいいかなと感じました。もちろん、私の理解ですので、この場合に新月さんがどこまでそう感じられているのかは想像の範囲を出ませんが、私とパートナーの遣り取りの中で起こる「ズレ」と似たものが起こっているように感じられる部分がありましたので、今回のやりとりにも同じようなことが起こっている可能性を感じています。

 まず始めに新月さんの人となりについて、私が勝手に想像したことです。新月というネームを使われているのは、この場合は新月さんの気持ちを表しているようにも理解しました。新月というのは満月と反対で、太陽の光を反射できなくて、地上からは「見えなくなっている」状態ですよね。ものすごく注意をしてみれば、微かに見えるようですが、ちょっと見たくらいでは分からない。でも満月がそこにあるのと同じで、新月も見えにくいけどちゃんとそこにあるわけです。

 つまり、太陽のように自分で光を放って自分がここにいる、ということをみんなに「主張」するような性格ではなく、光る場合にも「他の人に照らし出されて」見えるようなお人柄で、しかも(少なくとも今は)そうやって人から照らし出されて見える状態にもなっていらっしゃらない。そんな自分の状態を「新月」という言葉で表現されたのかもしれないと感じます。そう理解すると、自分の書かれたことを「何言ってるのかわからなかったら本当にごめんなさい」等と何度か繰り返されていることの意味が分かる気がするので。

 仮にそんな理解を前提にした場合、ナナセさんのコメントが、ナナセさんの意図とは違う形で、新月さんにはどんなふうに伝わる可能性があるか、ということをちょっと私なりに想像してみます。この想像も、やはり私のパートナーとの間で起こる「誤解(ズレ)」の経験から、そういうこともありそうだな、と感じることですので、新月さん限定、というわけではありませんけれど、新月さんの場合、特にその辺は気にされる方かも知れないと思いました。

 ポイントとしては、主としてナナセさんの書かれた内容の問題ではなくて、表現の仕方が定型的な表現の使い方とずれるために、ナナセさんの意図が違う意味で伝わってしまう可能性を感じたということになります。

「トマトさんがおっしゃる通りです。私は質問しただけです。」

 文字どおり、質問しただけ、という事実をナナセさんは伝えようとされているのですが、定型の場合、そこに余分にこんな意味を感じてしまう可能性を感じます。

 「私は質問しただけです。(なのにどうしてそんな余分なことを考えて、不必要な応答をするのですか?あなたはおかしいじゃないですか。)」
 この語感のズレがどうして生まれるのか、私にとっても切実な問題の一つなので、いろいろ考えてみるのですが、(特に日本の定型社会では)相手に対して「断言調」で言う場合には、「あなたにはどうしてそれがわからないのですか?」という批判の意味を含むことが多いからだろうと思います。

 ですから、仮に定型が同じようなことを言おうとする場合には

 「言葉足らずでしたが、私としては質問をさせていただいただけで、それ以外の意味はありませんでした。」

 というような形で、「私の意図がうまく伝わらない形になってしまって、私の方も配慮が足らずに申し訳ありませんでした」と軽く謝る、ということをよくやっているように思います。

 そうすると、コミュニケーションにズレが起こった場合にも、「お互いに謝っておだやかに終わる」という雰囲気作りがされるんですね。つまり、「私とあなたは敵対関係にはなりたくない」という意味がその軽い謝りの言葉に含まれたりするわけです。

 逆に言うと、そこがなく、ストレートに内容だけが伝えられると、定型がそうする場合には「あなたとはもうケンカの状態なんだ」という宣言になることがあるので、とてもきつく批判された、という印象を持たれやすくなります。

 こういうのは日本の中でかなり重視されているみたいで、海外の人とやりとりしたりすると、もっとストレートな場合が多いですけどね。ですから「日本的定型スタイル」なのかもしれません。

「新月さんがわざわざ「何言ってるのかわからなかったら本当にごめんなさい^_^;)しかも話がずれまくってますね…」と書かれていたので、「そうです。わかりません。」と反応しました。この一文がなければ昨日のコメントは書き込んでいないと思います。分からない人がいるかもしれないという想定の元に上記の一文を書かれたのではないのですか? 実際分からない人が出てきたら「しばらくコメントは遠慮させていただきます。」という反応は解せないです。」

 ここも、上の説明で想像していただけるかも知れませんが、書かれていること自体はまあ実際事実としてそういうことだったんだろう、と分かるのですが、やはり「断言調」で、一方的に相手のことを「決めつけている」というふうに定型が感じる可能性のある書き方にもなっていると思います。ですから、とても強い非難、という文章に受け取られる可能性がそれなりに高いと思います。

 特に「解せません」という最後の一文は、定型的には次のような言葉を補って理解しいてしまう可能性が大きいです。「解せません(そのくらい、あなたの言うことは訳の分からない、理解不能なことで、そんなあなたとはコミュニケーションは不可能な位です)」

 そういう誤解を相手に与えないように、定型の場合は「ここのところが、私には良く理解できないところでした」というような言い方をすることが多いと思います。そうすると「理解できないことを言うおまえが悪い!」という断言にはならず、「私の理解力がたりないせいもある」ということを表現することにもなりますから、「一方的に相手を責める」という印象が薄れるからです。

 もちろん、以前のコメントでナナセさんが「自分の読解力のせいかもしれない」ということは書かれているので、ナナセさんとしてはそれを前提にこのコメントも書かれているということになるのかと思いますけれど、この流れの中では「自分の読解力のせいかとも思ったけれど、新月さんは自分の書き方が悪いと言っているし、やっぱり新月さんが悪いんだ」ということを改めて宣言された印象になってしまう可能性が高くなると思います。

「以前新月さんはこのように書かれていました。」

 この表現も同じで、「事実を確認する」ということで、コミュニケーションを誤解のないように正確に進めようという意図がナナセさんにはおありなのかなと想像するのですが、定型はしばしば勝手に次のような意味を補って受け取ってしまいがちだと思います。

 「以前新月さんはこのように書かれていました。(あなたはそのことを忘れているのですか?議論はちゃんと一貫したものでなければならないはずです。そういうことがあなたにはできないのですか?)」

 と言う風にやっぱりなんだか自分が責められているように感じてしまうんですね。

「これはとても良い発想だと思いましたが、これもその時感じた「何となく」だっただけなのでしょうか?」

 これは次のような補いが入りそうです。

「これはとても良い発想だと思いましたが、これもそのとき感じた「何となく」だっただけなのでしょうか?(せっかく良い発想と評価したのに、そんなにいい加減な事を主張するなんて、私はもうがっかりです)」

 というような感じで、あくまで私の想像に過ぎませんけれど、アスペの方が

「コミュニケーションを正確に行おうと、事実を確認しながら、議論を整理していこうとする」

という場合、定型の方が普段の癖で、勝手にそこに「事実を相手と争い、どっちが正しいのかを決着付けようとする、闘争モード」に相手の人が入ってしまった、と読み取ってしまい、特に新月さんのように相手の人と対立するような自己主張はしないでおこうと考えていらっしゃる方の場合には、それ以上「闘い」がエスカレートする前に、「身をひく」ということを考えられるのだろうと思います。

 逆に定型の側でも相手がその気なら自分も「闘う」という傾向の人の場合には、そこで闘争モードに入ってしまい、そうすると、今度はアスペの方が訳が分からなくなって混乱する、ということが起こったりするのではないでしょうか。

 こうやって定型流の読み取り方についての「解説」を試みてみながら、アスペの方から見れば、「なんでそんなひねくれた読み方をするのだろう?もっと素直に読めばいいのに」とあきれられるのではないか、という気もしますし、「こんな面倒くさい連中とつきあわなければならないのなら、本当に気が重い」と感じられるかも知れないなあと心配したりします。

 とはいえ、多分定型とアスペのカップルの間では、こういうようなズレの結果、お互いに誤解を重ねて関係がシビアになっている例も少なくないのではないかと想像しますので、まずは「こんなズレがあるんじゃないでしょうか」という、今後を考える手がかりとして書いてみました。

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コメント

トマトです。  「ASと定型、こんなズレあるある」として・・・

ASの人の多くは、相手の意見やコメントの【内容】に忠実に返答や反応しがち。
定型の多くは、相手の意見や内容+【人物像】に向って、返答や反応しがち。
という傾向は「あるある」だと思います。
(あくまでも自己のイメージする人物像なのですが)

私が抱いた【新月さんの人物像】は「ASらしき彼に恋をして、とても好意的に彼の言動を見つめ、彼の感覚を大切にして、理解を深めようとしていらっしゃるまっただ中。恋愛中はとかく、自分の心が揺れて感性が敏感になるから、自分の想いに重なるコメントには触発されて、その時のご自分の思いも言ってみたくなるという立場の女性」です。
ですから、恋の熱に押され気味の「ちょっと意味不明」のコメントを出されたとしてもですよ、その人物像から推し量ると「なるほどね、今の新月さんはそう感じてる訳だ」と、受け止めるというか受け流すということが可能な訳です。

でも、ASの人は、その人の背景とそれまでの経緯とを、目の前に出されたコメントや言動にミックスしにくい・・。
なのでコメントの内容に対しての疑問や、矛盾への不信が湧く。

さらに定型は、定型流儀で
「きれいごとかもしれませんが」
「何言ってるのかわからなかったら本当にごめんなさい^_^;)しかも話がずれまくってますね…」
「極端ですし、また私の勝手な暴論とキレイごとです(-o-;)」
「解りにくいと思いますが」など、
あらかじめのおことわりや謙遜を置くことにより、相手の精査を和らげようとしている姿勢を送り、読む側や聞く側も「謙遜」をキャッチするから「いや、まぁ、今の段階ではまとめなくてもよろしいんじゃありませんか?」と柔らかく譲ったり、受け流すという余裕が生じる。。

しかし、ASはそんな論理的でない、言葉の裏での空気感の取引みたいなことは流儀に無いので、解らないことは素直に率直に聞く。

つまり、その言葉が何を意味して、何を表現しているのか・・・という受け取り方が、定型とASでは違うので、
日本語の使用法のズレ、多いにあるあるだと思います。
どちらが正解とかではなくて。双方の違い・・・です。

【例】「ごめんね、私の言い方、解りにくいよね」
定型「(解りにくいけど)そんなことないよ」と、謝罪ありきの相手を励ます事を優先する。
AS「確かに解りにくいです」と「解りにくいよね」を質問ととらえ、率直に教えてあげる。

新月さぁん、新月さんの彼もね、きっとナナセさんと同じ感覚がおありだと思うのです。
そして、ASの人の質問を封じてしまったり、放置するということは、ASの人との関わりを大切にしないということになると思うんですね。
ASの人から質問されること、これ、定型にとって成長のチャンスでもあると思います。

新月です。でも今日は満月です。
晴れていたら、ぜひ空を見てみてください。

ナナセさん、トマトさん、玄さん、パンダさん、みなさんすみません。みなさんありがとうございます。

私が、発言を引っ込めたのは、トマトさんがおっしゃるように、私が「恋をしている」状態なあまり、しばしば「思いにまかせて」突っ走ったコメントをしてしまうことへの、自分への、ちょっとまてよ。だったと思います。
この場の主題は「ASと定型」の関係を考える場であるのにもかかわらず、その主題からしばしば、逸脱する自分の自己顕示欲への恥ずかしさと自省から、しばらくおとなしくしたい…。となったのです。

ナナセさん、すみませんでした。
ナナセさんに通じるツールを探す自信と余裕もなかったです。誠意にかけるふるまいをして、申し訳なく思います。
(ここが私の小ささと狡さですが、親密な相手になら、その人用のツールをがむしゃらに探しますが、それ以外の人には余裕がなくて、自分の力が追いつかない時は諦めてしまうのかも知れません)

パンダさん、考えを述べてくださったり、いろいろフォローしてくださりありがとうございます。新月を名乗っているのは、「ほんとうに大切なものは目に見えない(星の王子さま)」からです。私自身はパンダさんが予想してくださるような、たいそうな人間ではないです(^_^;)。

トマトさん、いつも鋭いご指摘ありがとうございます。コメントを見るたびに、ASと定型だけではなく男女の違いも含めると、気が遠くなる人間のバリエーションがあるなあ、とよく思います。

トマトです。  パチパチパチ・・!!! 新月さん、よくコメントして下さいました。

今回、新月さんとナナセさんのコメントで、改めて思ったのですが、定型は「なんとなく言ってみた」ということは日常において多いですね。

AS「それはどーいう意味ですか?」
定型「いや別に・・意味ッてほどのものは無いけど」
AS「では、なぜそう言ったのですか?」
定型「なぜって・・・なんとなく、言ってみただけ」
AS「なんじゃそりゃ」

なんとなく言ってみただけの言葉も「会話」として扱うんかい!  と、混乱される方もいらっしゃるでしょうが、説明のつかない「自分の気持ちの感想」みたいなことを定型は(特に私は)言ってしまいがちです。
これはまさに、玄さんの言われた
【整理前の心に浮かんだモノを、「リーク(自己開示)する満足感」&「遮らずに聞いてくれる相手がいる安心感」があるのでしょう。それらが、「雑談」や「コミュニケーション」】ですね。

こういうとき、定型は素の部分をさらけ出し、リラックスを越して無防備な気持ちでコメントしているので「説明するほどの意味や目的があるわけではないその場のおしゃべり」を「楽しむ」とか「味わう」とかそういう状態だと思います。

で、ASの人に質問されたり、ツッコまれると「あ痛、油断してた」みたいなことになったりする訳です(笑)。


ますます何が何だか分からない状態に陥っています。パンダさんの書き込みを読んで、「そうなのだろうか? でも話を膨らませ過ぎのような気もする。」と思ったり、「新月」というネームからそこまで新月さんの人となりを想像することは私にはできないと思ったり。実際パンダさんが想像する新月さんの人となりが合っているのかは確認が取れませんし、しかも当の新月さんは「私自身はパンダさんが予想してくださるような、たいそうな人間ではないです(^_^;)。」と書かれています。ここで混乱するのはこの新月さんの発言が謙遜なのかどうなのかと言うことです。

また新月さんのコメント「私が、発言を引っ込めたのは、トマトさんがおっしゃるように、私が「恋をしている」状態なあまり、しばしば「思いにまかせて」突っ走ったコメントをしてしまうことへの、自分への、ちょっとまてよ。だったと思います。
この場の主題は「ASと定型」の関係を考える場であるのにもかかわらず、その主題からしばしば、逸脱する自分の自己顕示欲への恥ずかしさと自省から、しばらくおとなしくしたい…。となったのです。」を読むとパンダさんの解説とは異なる気がします。でもこれも本当のことなのかどうなのか。

「もう謙遜とか婉曲な言い回しとか私には必要ないので、誰か本当のことを教えてくれ!」と思ってしまいます。


パンダさん、ピンポイントで反論させてください。

〉「私は質問しただけです。(なのにどうしてそんな余分なことを考えて、不必要な応答をするのですか?あなたはおかしいじゃないですか。)」

「私は質問しただけです。」の意味の可能性ですが、「不必要な応答をするのですか?」まではありだと思います。でも「あなたはおかしいじゃないですか」まで読み取るのは受け取り手の方に問題があるんじゃないでしょうか?

ナナセさん

 混乱させて済みません。おっしゃることは私なりには分かる気がするのですが、
 仮にそれがアスペの方に多い考え方だとすると、どうも定型はそれとは
 異なるタイプの考え方をしているらしく思います。だからアスペ的な考え方を
 そこにそのまま応用して理解しようとすると、どうしても矛盾が起こってしまう。

 だから多分、なにか工夫が必要なんですね。理解のための。
 定型がアスペの方を理解するためのひとつのポイントは、
 「感情」の問題について、定型のやり方や理解の仕方を押しつけずに、
 別の形で(しかも定型にも出来る形で)理解し、納得する道を探すこと、
 逆にアスペの方が定型を理解するためのポイントのひとつは、
 「自分と他者の共同作業」ということについて、アスペ的ではない
 別のやりかたが実際にこの定型社会を動かしていることを
 アスペの方にも可能な形で理解する道を探すこと、
 ではないかとちょっと感じ始めています。

 玄さんなどはアスペの方の視点から、この作業にかなり肉迫されていて、
 「ああ、玄さんの説明の仕方なら、定型としても納得できる」
 と感じるものがたくさんありますので、
 大変な作業ではありますが、不可能ではないように思います。

 「ここで混乱するのはこの新月さんの発言が謙遜なのかどうなのかと言うことです。」

 とナナセさんが書かれていることなども、定型の特徴がよく現れているところの
 ひとつだと思います。それでナナセさんがなじんでこられたアスペ的な発想では
 とても不合理に感じられるか、混乱してしまわれるのだと思います。

 単純に言えば「謙遜なのかどうか、どちらかひとつに決めることは難しい」
 という「矛盾」した状態そのまんまが実態なのだと考えられるのです。
 だから定型的な受け止め方としては、「その両方だろうな」
 という予想をしながら、応答を考えていくことになります。
 
 少し言葉を換えて説明してみると、定型がわりと言うことして、
 「人の気持ちは複雑で、矛盾していて、割り切れない」
 ということを強調することがあります。
 単純な例を挙げれば、今お腹いっぱいでもう食べられない。
 ところが目の前に美味しそうなケーキが出てきて食べたい。
 そんなとき、
 「これ以上食べたくない」VS「ケーキ食べたい」
 という矛盾した思いが渦巻くわけですけれど、
 そのどちらの思いも嘘ではなくて、決められなくて迷う。
 で、結局どっちかに決めなきゃいけないんですけど、
 どっちに決めても残りの思いは残り続けるんですね。

 いろんなことについて、こういう「矛盾した思い」を抱えながら、
 とりあえずどちらかに決めて行動している、
 だからそのとき選ばれずに押さえつけられた思いは、
 解決されずにそのままその人の中に残って渦巻き続け、
 いつかまた別の形で顔を出す可能性もある。

 そんな理解の仕方を定型はよくするように思います。
 ですから、ナナセさんが混乱してしまうのはある意味で「正解」で、
 そういう混乱した状態を定型は前提に対応を考える、
 そのとき、(玄さん的に言えば)他人を巻きこんでいくんだと思います。

「でも「あなたはおかしいじゃないですか」まで読み取るのは受け取り手の方に問題があるんじゃないでしょうか?」

 これは問題があるかどうかというより、まずは「そういう受け止め方をする可能性を
 前提に、やりとりを工夫している」のが定型的なやりかたの特徴だ、という
 たんなる事実としてまずは理解していただけるとありがたいと思います。
 

ナナセさんの「受け取り手の方に問題があるんじゃないでしょうか?」という言葉が出てきた背景を考えてみました。

「断言」調子の表現や、他人のコメントに対する「反論・質問」の三つは、発した本人が中立な立場からの他意のない発言のつもりでも、攻撃・言動の阻止・賛同意見の抑制の効果が現れることが実際にあります。
上に挙げた「攻撃・言動の阻止・賛同意見の抑制」の効果を狙って、断言や質問をするテクニックもあり、見分けがつきません。
そこで、運用上、「断言・反論・質問」はネガティブな影響力があることを織り込んで発せられるのだと思います。実際には、あいまいで未完成な意見は、あまり反論や質問にさらされないという状況が多くなっていると思われます。

ASは、その認識度合いが「反論・質問は中立な立場から=ネガティブには受け取られない」というところにセットされがちなので、雑談の場などで「共通認識がない」と知れてしまうのでは?

自分の正しいと信じることに疑いを持つのは、難しいですが。

パンダさん、

パンダさんが書かれた記事の内容ですが、新月さんとは切り離してパンダさんはこう受け取められると書かれていれば混乱はなかったように思います。パンダさんは新月さんの人となりを想像した上で、

〉仮にそんな理解を前提にした場合、ナナセさんのコメントが、ナナセさんの意図とは違う形で、新月さんにはどんなふうに伝わる可能性があるか、ということをちょっと私なりに想像してみます。

と書かれています。それに続いて

〉この想像も、やはり私のパートナーとの間で起こる「誤解(ズレ)」の経験から、そういうこともありそうだな、と感じることですので、新月さん限定、というわけではありませんけれど、新月さんの場合、特にその辺は気にされる方かも知れないと思いました。

と書かれていて、新月さん限定ではないと付け加えてありますが、大筋は新月さん中心に話を進められていると思います。

仮に新月さんが「パンダさんのおっしゃる通りです。」とパンダさんの記事を肯定するコメントを書いていれば、そこでストンと納得いくのですが、パンダさんが前提とされている新月さんの人となりを新月さんが否定されています。するとそもそも前提があり得ないわけで・・・。と謎のループです。

〉「矛盾」した状態そのまんまが実態なのだと考えられるのです。

矛盾しているのに実態で、だから前提は成り立つ??

重ねて言うようですが、定型流儀の一般論として書かれていた方が納得がいったと思いますし、パンダさんが新月さんの代弁的立場を取られたのが私の混乱の一因のようにも感じます。しつこいようですが新月さんが発言を引っ込めた理由はパンダさんの記事の通りですと書かれていればかなり納得なのです。でも多分定型の方が新月さんのコメントを読めば、パンダさんの意見を肯定している情感が読み取れるのでしょうね・・・。

玄さん、

〉ASは、その認識度合いが「反論・質問は中立な立場から=ネガティブには受け取られない」というところにセットされがちなので

私にはそういう認識はありません。私の質問が中立とも思わないですし(主観的だと思っています)、ネガティブに受け取られないとも思っていません。実体験からネガティブに受け取られる経験もしていますし。ASが玄さんがおっしゃるような傾向にあるとはあまり思いませんでした。


皆さんは驚かれるかもしれませんが、私は療育を受けているASです。その甲斐あってか実生活ではほとんど問題がないように思います(表面的には)。かなり矯正されていますからね。ただ表面的なことと内面的葛藤は別問題です。そこでパンダさんのブログにお邪魔してはASの本音で実生活では解明できない疑問をぶつけてしまったりしているわけですが、書き込む度にお騒がせしてしまい申し訳ないです。ここに書き込んでいる私が素の私ですが、やろうと思えば定型流も可能です。多分パンダさんが時々チャレンジするアスペ流よりうまいと思いますよ^o^ ただ実生活では素の自分を出すことはほとんどできないので、ここではそんな鎧を着込みたくはないのですが・・・。


話は戻りますが、「受け取り手の方に問題があるんじゃないでしょうか?」という発言はあくまでも「おかしいじゃないじゃないですか」の一言についてです。その前までの文の意味の可能性は確かにそう取られるかもなと思いますが、「あなたはおかしいじゃないですか。」まで受け取るのは定型の方の中でも個人差がでるのではないかなと思いそう書きました。

ナナセさん、コメント有難うございます。
なるほど、中立好きは僕の趣味でした。一般的かのように表現してしまいました。「自分の主観的な意見が他人の意見から独立している」ということを好む、という感じならよいでしょうか。
自分の意見が「ネガティブに受け取られない」だろうという予測について、ナナセさんの言われるとおり、「ネガティブに受け止められる」ことを予測する状況も確かにありますね。でも、ネガティブに受け止められることでこちらが被るダメージはあまり気にしていないのでは?ネガティブに受け止められることや、自分へのダメージを危惧して、発言をコントロールするモチベーションが低い、ということを申し上げたかったのです。
(わかりにくいですね、、、)

ナナセさん

 「パンダさんが書かれた記事の内容ですが、新月さんとは切り離してパンダさんはこう受け取められると書かれていれば混乱はなかったように思います。」

 ふむふむ。それは分かるような気がします。
 あそこで表現したことは、「定型が応答するとき、<相手の人の状況>みたいなことも
 ほとんど無意識的に想像しながら相手によって応答の仕方を変えたりする」
 ということをやるようで、
 そういう定型的な判断の仕方の特徴の例を書いて参考にしていただけたら、
 ということでした。

 もちろん具体的な<相手の方の状況>は私の想像に過ぎませんので、
 相手の人が納得される場合も、いや違うと思われる場合もありますし、
 理屈を言えば相手の人がそのとき納得されても、将来「いや違っていた」
 と思われることもあるし、その逆もありうるわけですから、
 「絶対の正解」というのは考えられないと思うんですね。
 できるのは、とりあえず今の段階でやりとりして、まあお互いに
 納得できる線を探すことくらいで、それも将来的には動きうる。
 
 それで、今回の新月さんのことについても同じ事は言えるので、
 一応「仮にそうだとして」という姿勢で書いてみましたし、
 それからもし新月さんにはぴったり当てはまらなかった場合でも、
 もう少しアスペの方との関係では一般的に問題になることが
 そこから見えてきているのではないか、というスタンスで書いてみた、
 というのが上の文章でした。

 おっしゃるように、それなら別に一般論だけ書けばいいじゃないか、
 というご意見もわからないでもないのですが、
 最初に書いたように定型的な判断の癖を書いてみたかったのと、
 もし仮に新月さんについて私が勝手に想像したことが
 多少なりとも当てはまることがあるとすれば、
 その一般論がさらに強く新月さんには当てはまるかも知れない、
 という可能性も感じたので、そんな書き方になりました。

 いずれにせよ、現実にはそういう書き方が
 不必要にナナセさんを混乱させてしまったようですので、
 このあたりも注意していかないといけないですね。
 その辺は私も修行の過程です m(_ _)m
 

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