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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 共感の理解のズレ | トップページ | いじらしさ »

2013年7月10日 (水)

ちょっと蛇足かも……

 今日は「共感の問題にこだわる」私の記事について、玄さんからお寄せいただいたコメントを手がかりに「そもそも共感にこだわることにどんな意味がある(あるいはない)のか」ということを考えてみたいと思います。例によって「 」内は玄さんのコメントです。

 「 「共感」は社会を形作る構成要素であり、本能の一面ではあると思いますが、ちょっと「共感」にもたれかかりすぎではないですか?」

 この「もたれかかりすぎ」と言う意味は、定型が生きていくときに「共感にもたれかかりすぎ」という意味で書かれたのか、それとも私が記事で書いたような理解の仕方が「共感」という言葉や概念に「もたれかかりすぎ」と言う意味で書かれたのか、ちょっと判断に迷っているのですが、まずは前者だと仮定して思うことを書いてみたいと思います。

 アスペの方の視点から評価すると、定型社会の作られ方が「もたれかかりすぎ」と感じられるのは私にも分かるようになりました。実際パートナーには「子どものようだ」と言われてもいます (^ ^;)ゞ。 基本的に自分で問題を解決する姿勢を強く持っている彼女からすると、「問題を共有して一緒に考えて欲しい」気持ちがある私は、「自立していない子ども」に感じられるのも無理はないとも考えられるようになりました。

 そのことは一応前提とさせていただいた上で、いいわるいの評価は一応はずして、現実の定型優位社会がどんな風に作られているかというと、やっぱりその「もたれかかりすぎ」と言われるしくみで成り立っていることは、多分まちがいないんだと思います。だからこそ、アスペの方が苦労するのですよね。善し悪しはとりあえず置いて、そういう「現状の理解を試みた」という風に考えていただけると私の記事が意図したことを了解していただけるのではないかと思います。

 もうひとつ、「私が記事で書いたような理解の仕方が「共感」という言葉や概念に「もたれかかりすぎ」」という意味で書かれたとすると、その玄さんのご意見への私の説明はこんな風になると思います。

 玄さんのコメントを頂いて、改めて感じましたけれども、「共感」という言葉は本当にアスペの方にとってはすごい「おしつけ」のイメージがついてまわるものなのですね。私は「共感」という言葉を、今回の記事ではわりに「ドライ」な意味で、たんに身体の仕組みとか、言葉の遣り取りや、相手の感情を理解する(たとえば、「相手は喜んでいる」と分かるようなこと)仕組みがどうなっているのか、ということを考える「道具」として使いました。

 ですから、同じ意味が共有されるのであれば、別に「共感」でなくても、「共振」といっても他の言葉を作っても全然構わないのですが、ただ、「アスペの人は共感が出来ない」という、私には随分乱暴な決めつけのように思える言い方に対して、いや、からだの仕組みを考えても、理屈で考えても、そんなことはないですよ、ということを強調する意味で「共感」という言葉を使いました。

 またすごく「共感」ということにこだわった理由は、アスペと定型のコミュニケーションを可能にする「土台」って何だろう、ということを考えたかったからです。もちろんお互いにコミュニケーションが難しくて苦労しているわけですけれど、でもこうやってたとえば玄さんといろいろ議論が出来る、ということも間違いのない事実です。たとえそこにお互いに「誤解」がいっぱい入り込んでいたとしても、「あ、もしかして誤解しているかも」ということに気がつけることも含めて、コミュニケーションを通してやっぱりお互いの理解が進んできていることは確かだと思います(玄さんの言い方だと二つの○が重なった部分がおおきくなっていくことですよね)。

 じゃあなんでそういうコミュニケーションができるんだろうか?と考えてみると、定型同士で共有されているものとは違いがあるんだけど、やっぱり定型とアスペのコミュニケーションを支えているものがあるのは間違いないので、それを考えてみたいんです。そのときに定型的に言えば「共感」ということを可能にしている仕組みの基本的な部分は、アスペの方との間でも共有されているはずだ、と考えてみたことになります。(ただ、その基本的な部分まで「共感」という言葉で表した方がいいかは問題になりますね)

 そんなふうに「ここは共通した土台になるところ」と、そういう共通した土台を持ちながらお互いにずれていってしまうところと、その二つをちゃんと見つめていくことで、お互いのコミュニケーションを今一歩よい方向に進められるに新しい理解と方法を探そう、というのが私の意図になります。

 「僕が『「共感」にもたれかかりすぎでは?』とまで言うのはなぜかというと、もっとライトな、というか共感をそんなに押し付けてこない人が5割くらいはいる気がするのです。そして、重く押し付けてくる人が時々いる。淡い予想ですが、共感の重い人と、共感の薄い人(AS系)の両方と上手くやっている多数派がいるんじゃないですか?」

 この点については割合が5割かどうかはわかりませんが、私もそう思います。実際私も子どもの頃や学生時代など、ずいぶんと変わり者の定型でしたから、回りから理解されずにそれなりに苦労した思いがあって、「人のことなんて、ほんとに理解することは不可能だ」と思いましたし、「分かる」と言われると、「あんたに何がわかるんだよ!」とむしろ不機嫌になるときもあったりしました。ただそこで「分からない」ということで終わるのではなくて、その「分からない者同士」がどうやってつながりを作れるのか、ということにはずっとこだわり続けてきましたし、昨日の記事のように「理屈から言うとどういうことになるのか」ということにもずっと興味を持ち続けてきました。その点が定型的なのかも知れませんね。

 「重く押しつけてくる人」については、そういうタイプの人がどこにも一定程度いらっしゃるのは私の経験上もその通りだと思います。定型であっても、そういう方との距離の取り方には苦労することもあります。両方共とうまくやっている方については、たとえば仕事レベルのつながりでは結構いらっしゃるようにも思います。ただ、家族のようなとても親密な関係の中でうまくやっている方となると、かなり少なくなるようにも思います。私も修行中です (^ ^;)ゞ

 「「共感社会」と「日本社会」とは、ニアリーイコールなのかもしれませんが・・・そういった社会がはじき出しているのは、ASだけでなく、多数派から外れたあらゆる人々ですよ。 「共感が苦痛」というよりも、「共感の押しつけられ感」が苦痛ですね。」

 はい。私もまあはじき出されている方だと思うので (^ ^;)ゞ、よく分かります(と思います)。ただ、同時にやっぱり共感を求める気持ちも間違いなくありますね。押しつけられるのはいやですけど。

 「「私に共感しなさい&あなたに共感している私を受け入れなさい&みんなと共感しあっている私を認めなさい」という。 共感の仕組みとしては、他人の気持ちを「理解できる・理解した」と「認識してしまう」ことなのではないでしょうか。そこは認識論であるのに「理解」という言葉で表現してくるから、「そんな精緻な脳機能を持つ人間がいてたまるか!僕に共感はない!」という反発が生まれるわけです。」

 はい。上に書いたように私も似たような感覚を持ったこともありました。「認識論である」というのがちょっと難しくて分からなかったのと、「理解」を「精緻な脳機能」とをつなぐところがちょっと見方が違うかなと思います。

 というのは、理屈から言って、人間はお互いに違う身体を持っていて、脳の作りだって全員が違うわけですから、相手の人が体験し、思い、考えていることを、完全に同じように共有することは理屈から言ってあり得ないんですよね。その点を強調すれば「共感」なんて幻想に過ぎない、という主張になることは私なりに分かります。

 ただ、「理解する」とか「共感する」ということは、「完全に一致する」こととは別のことだというふうに考えれば、やっぱりそれがなければコミュニケーションは成り立たないわけですから、少なくとも遣り取りできるレベルでは「理解」も「共感」も可能なんだと思います。だから「精緻な脳機能」は必要ないとも言える。じゃあ、どういう意味で理解や共感と言う言葉を使うか、ということについては昨日の記事などに説明を試みてみました。うまく説明できていないかも知れませんので、どうぞご指摘下さい。

 「ここまで考えて、自分は「自分の知っている字義でしか理解していないのかも」という疑問が湧きました。定型の人が「他人の気持ちを理解する」という文章に使う「理解」は、僕の知っている「理解」とは違った、もっと感情を扱うなりの曖昧さと緩やかさを含んだ意味があるのか?とも思いはじめました。いかがでしょうか。」

 そうですね。上に書いたことになります。あ、それにトマトさんとのコメントのやりとりで、同じ事について議論されているみたいですね。ということはこの記事は蛇足だったかも……(^ ^;)ゞ
 

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コメント

ふと、以前夫と話していて出てきた
「イデア」という存在なのかな、という気がしてきました。

哲学用語で「イデア」というのがあるのですが、

われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」(ByWIKI)
の事らしく、プラトンという哲学者がイデア論として考えていたものだそうです

哲学を勉強していた夫の例えでは
りんご、と言われたら「自分の中で一般的」な、非の打ち所の無い「これぞTHEりんご」というりんごを思い浮かべる
この「これぞTHEりんご」のイメージがイデアである、と。
その時、そのりんご像には、傷も無ければ色むらも品種も無く、
その人がりんご=赤と思えば、赤いりんごの像がイデアである。
それが何処産であるとか、品種は何であるかとか、葉の影の色むらがあるかとか、
枝すれなどの傷があるかとか、そういった事は概念に無い。
ただ、思い浮かべるのは「自分が理想とするりんご」それがイデア。
だそうで、

これを感情にも置き換えられるのでは?と考えると、

「嬉しい」といわれたら「自分の中で一般的な」「これぞTHE嬉しい」という感情(=イデア)を思い浮かべる
このイデアを相手の「嬉しい」の感情に置き換え、疑似体験し表現する

これが共感?

だとすると、
AとBの間のやり取りだとすると
Aの感じた「嬉しい」を聞き、Bは「Bのイデア嬉しい」で同感を示す。

ここで定型は細かい差はさておき共感の事実に安心?する
この安心?こそが求めている物であり?満足出来る?

非定型で共感に抵抗がある人たちはAの感じた「嬉しい」が「Bのイデア嬉しい」と違う事に意識が行く。
そこで「理解していないのに理解したと表現した」という語弊?誤解?が生まれる

という事なのでしょうか・・・

まとまりきらずに書き込んでしまい申し訳ないです。

かずきさんへ トマトです。

ざっくりと「Aの感じた「嬉しい」を聞き、Bは「Bのイデア嬉しい」で同感を示す。」で良いと思います。

それを客観的に言うと
受賞して喜んでいる親しい友人を見て、Aさんは「晴れがましい嬉しさ」Bさんは「今までの苦労が酬われたしみじみとした嬉しさ」Cさんは「込み上げて来る嬉しさ」などその人、その人の「嬉しさの共感」の種類も実は個々別ではあると思います。
でも、嬉しい事には違いないからAさんもBさんもCさんも「受賞した友人と嬉しさを共に分かち合った、共感した」ということになると思います。

私の率直な考えは(定型) 理解が発展して共感 「共感する」とは 浅い共感から深い共感があり定型同士だと 相手が共感しているか?は

こちらの憶測でしかありません 「わかるよ~その気持ち!」と相手が言ったとしても それまでの信頼関係から 浅い共感なのか深い共感なのか 相手の態度からしか判断できないと思います

相手の状況を自分に照らし合わせて 相手の立場になって考えられるかどうか?
私はパートナー(AS) からは それが難しい事だと思いました

 認めると受け入れるのは別物と思います

「、「問題を共有して一緒に考えて欲しい」気持ちがある私は、「自立していない子ども」に感じられるのも無理はないとも考えられるようになりました。」とありましたが


 定型同士なら 夫婦間で相談し合い 一緒に考えるのは当然と思います

自立していない子供とは思いません

 私からすると相談無しで勝手に取り決める事の方が問題と思います
夫婦間では 「共感」 これがないとギクシャクして当たり前ですし
これがないと何とも寂しい人生になると思います 

 追加です! パンダさんは理屈で あ~だこ~~だ 細かく難しく考えていますが
人間の心は理屈では割り切れないんです 理屈では絶対してはいけない事はわかっていても 欲望に負けてやってしまうのが人間なんだと思います

 パンダさんがいくら分析しても奥さんの心は理解できないと思いますよ!
実際 会話一つにしても パンダさんが分析して出た結果を用いる事って至難の業と思います

 ・・・・と言うとこのブログの意味が無くなってしまいますね 気を悪くなさらないでください パンダさん 疲れていませんか? 

ボビーさん

 ご心配ありがとうございます。
 私の場合、記事にも書いたように、育った家庭環境が変わっていて、
 自分の感覚もそれに合わせて作られた部分が大きくて、
 その結果、定型の中の多数派とずれちゃうことが多く、
 「なんなんだ、これは?わかんないよ~」ということになって、
 「共感する」より「頭で理解しようとする」ことが人より多かったと思います。

 それで、「え?なにこれ?」という「異質」なものと出会うと、
 「共感的に理解する」ことも試みますけど、それが全然歯が立たないと
 理屈っぽく考える、ということもしつこくやるようになったんですね (^ ^;)ゞ

 それで、アスペの方とは「なんとなく共感」というのは難しいし、
 理屈っぽくやりとりするとうまくいく所も感じるので、
 今回はちょっと、いつもの「素朴な体験で考える」というモードじゃなくて、
 理屈でやりとりを試みてみました。
 
 やってみて、たとえばかずきさんとの間では
 話がかなり噛み合って進んできてるかなと感じています。

 なんというか、ああでもない、こうでもない、持てる手段はいろいろ使って
 コミュニケーションをよりうまく進める方法を手探りしてる感じです。
 
 「パンダさんがいくら分析しても奥さんの心は理解できないと思いますよ!」

 については、そうとも言えるし、少し視点を変えて考えてみると
 「私はパートナーの心を理解できると思いこんでいる。でも、こういう違いを
 考えると、その理解の仕方では無理だと納得できる。」
 と言う意味で、「自分の今までの理解はだめなんだ」ということを「理解する」
 ことができると思いますし、でもそれは諦めることとは違って
 「じゃあ、別の方法を考えよう」
 という切り換えも出来るようになるので、そんな感じで少しずつ
 コミュニケーションを調整している、ということになる気がします。

 いずれにしても、素朴な体験から考えると言うことは
 これからも大事にしていきたいと思います。
 だって、理屈でどうこうではなくて、自分の気持ちが納得してくれなければ
 問題は前に進みませんものね!
 


かずきさん

 前の記事に頂いたコメントも含めて「ああ、そうなのか!」と
 私なりにすごく納得の感じでした。
 ほんとに、ほんとに実感として「相手の気持ちは知的な推測」
 という感じなんですね!すごいリアルな経験として!

 それはそれで私なりに想像できるところもあるのですが、
 そこで次の疑問が生まれてきました。
 かずきさんの場合、たとえば相手が怒っている、
 という場面に出くわしたときに、知的に推測して、
 という感じではなくて、ほとんど無意識のうちに
 「恐怖を感じる」とか逆に「怒りを感じる」とか、
 そういう感情が生まれる事ってあるのでしょうか?
 「相手が怒っている」という理解の話ではなくて、
 相手の表情を見て自分の感情が直接に揺るがされるような
 そんな体験のことです。

ボビーさん、

皆色々な考えがあると思いますが、
これを書く必要ありました?

「パンダさんがいくら分析しても奥さんの心は理解できないと思いますよ!」


ボビーさんのご主人とパンダさんの奥様は別の人格ですし、ボビーさんとパンダさんも別人格です。ボビーさんが行き着いた結果が「理解できない。」ということなのでしょうが、それをパンダさんに当てはめる必要はないんじゃないですか。

 ナナセさんへ
私はそこまで複雑に考えていません パンダさんが疲れているのでは?と思ったし
人の心の分析は容易なことではないと思ったところもあります 当てはめる?とか そういう複雑なことも考えていませんが・・・・・ もしかして私がパンダさんを追い詰めてる?あるいは攻撃してる?と 勘違いされましたか?

ボビーさん、

攻めているとか攻撃しているとかは思いませんよ。ただ否定的な意見ばかり言うなという印象です。

 ナナセさん
「否定的な意見ばかり言うな」 そうですか? そういう印象ですか?
そういうつもりはないのですが・・・・ナナセさんが指摘された一文だけじゃないですか? 

ボビーさん、はじめまして。AS当事者です。


>夫婦間では 「共感」 これがないとギクシャクして当たり前ですし
これがないと何とも寂しい人生になると思います 


「そんなの言葉尻よ」「複雑な意味なんかないわよ」と言われるかもしれませんが、

「人生」という人間にとって「究極」の、というか「最大の大局的見地」からみて、「ある種のもの=共感が欠けているせいで、人生が寂しいものになると思う」と言われたらちょっと・・・・。


それはそれで「現実」かもしれませんが、一方でその「現実」を踏まえた上でベターな線を探る、ということも多くのAS当事者がなさっていることだと思うのです。特にここに集まってらっしゃる方たちや、社会適応しようとなさっている方達は。
時に的外れだったり、大袈裟すぎたり・・・色々あるでしょう。

でも、そういう姿・・・

私はこういう言い方をするのは苦手ですが、あえて言います。

「定型的共感」を持ってしたら、そういう姿を「いじらしいな」、と思いませんか?

そしてAS、定型離れたところでも「○○のない人生は寂しい」という言葉って、あまり一般受けしないと思いますよ。

たとえば「結婚してない人生って寂しくない?」「子供のいない人生って寂しくない?」・・・違う言葉に置換えても、「○○という要素がないから人生が寂しい」、と決めつけたところで、その○○は手に入りません。
そこに全くポジティブな要素はありません。○○がないから、自分の人生がくだらない、失敗している、諦めようという方向に行ったら悲劇ですしね。


ちなみに私は「定型とは違う質だが、ASにもある種の共感力はある」という立場です。

つらつら書きましたが、批判とかそういう意味で書いたのではありません。伝わりにくいかもしれませんが、「なにかしら伝わればいいなぁ」と思って書いたまでで。

お気を悪くなさらないことを願います。

トマトです。
私はボビーさんのコメントの「パンダさんがいくら分析しても奥さんの心は理解できないと思いますよ!」は、否定的な意見でも、忠告という類でもなく
「やぁー。さすが定型とASのご夫婦を長年やっている者同士ならではの声のかけ方だなぁ」と、ボビーさんからパンダさんへの距離感の近さを感じました。

パンダさんも、ボビーさんの「AS定型の夫婦ならではの苦労や、引いては寄せる波のような混乱や悩み」などを理解された(と私は感じる)上で「ご心配、ありがとうございます」と鷹揚に答えていらっしゃいます。そして「でもね」という持論も落ち着いて伝えられています。

活字としてとらえると「否定的内容」「他人の事にそこまで断言できるのか」になりそうですが、私はまるで「声」のように感じた一文でした。
ボビーさんは「パンダさん疲れていませんか?」と聞いているのに、私はその質問にボビーさん自身の疲れた「声」を感じてしまいました。

こういう解釈の仕方は、このコメントだけの印象ではなく、時系列にボビーさんのコメントの積み重ね(コメントの歴史か?)の上に、このコメントを目にしたので
「ボビーさんは、ずいぶん率直に言ったな」という定型としてのての共感と「これってASの人にはカチンときそうだな」という気がかりと、両方感じた次第です。

コメントをいろんなふうに解釈したり、感じ取ったりできるものだな、という一例として聞き流して下さい。

トマトです。
するりさんのことを「共感力のある方」という印象は、前からありました。
そのするりさんが「いじらしいと思いませんか?」という非常に定型的・・というか定型好みの表現を使われたことに感心しています。

それと、今回するりさんからの「○○という要素がないから人生が寂しい、という言い方はいかがなものか」というコメントには、
私も自分が少数派の体質の部分があるので、自分に絶対不可能なことを「それは寂しい人生ね」「それじゃあ人生が楽しくない」と言われた経験があり「不当にプジョクされた感じ」&「寂しくもないので納得いかない」という両方の気持ちがありました。

で・・・ボビーさんの「夫婦に共感が無いと寂しい人生になる」は、どうなのか?と考えました。まず・・・定型には、共感欲求があるし、共感がないと会話も続きませんし、「定型の100%近くは共感の無い夫婦関係は寂しい、と答えるだろう。」と思いました。
でも「ASとASの夫婦なら、共感が無くても寂しいとは思わないカップルも居るだろう」と思いました。

まぁ・・つまり、少数派の人のことを意識すると、そして尊重すると「それが無いから人生まで寂しくなる」という発想は、多数派と少数派では共有できないですね。

 するりさんへ

 私が初めて「共感」がなくて悲しい思いをした経験です
初産で夜中苦しんでいた時に横で夫は寝てしまいました 仕事で疲れているんだなと思い 起こさずに1人で頑張りました 死に物狂いで朝出産した私に夫はなんの労いもなく「次は女の子頼むね!」と言いました ここには何の「共感」もありません
1人の女性としてこんな悲しい思いをしたのは初めてでした 
これは一例ですが 夫婦間で「共感」が無いというのは 悲しいですよ

 AS定型夫婦での究極の寂しさと思います 子供がいないから寂しい・○○がないから・・・・ と言う例え話とは次元が違う問題と思います
 
 子供がいないから寂しいけど夫とは「共感」しあえる  ならば子供がいない人生でも 幸せを分かち合ったり 悲しみもわかちあえるんじゃないでしょうか? 

夫は全く何もかも共感できないというわけではありませんが このような究極な時に共感がないと 悲しい思いをすると言う事です


  トマトさんへ

 代弁していただいたようで 有難いです 私のコメントの歴史まで(笑)読んでいただいて・・・ 何度も書いていますが 私は難しい事は書いていません それに最近出入りしている外野みたいなものですが 私もASと定型について色々な情報を得たいです
なぜなら 子供が最近 ASとわかった事もあったからです

ナナセさんへ

 混乱させる為、争う為とか そんなつもりは毛頭ありませんが、時にはASに反感をかれるコメントをしてしまうかもしれません 

 パンダさんへ

 不適切なコメントは管理者さんの判断で消去してくださいなsweat01

トマトです。

ボビーさんのことが気がかりになったのでコメントします。

ASのみなさん・・定型には、本能的な共感欲求があり、それは人が生きて行く上に必要な「水」と等しいと思います。
水を与えないと多数の植物は枯れ、動物は死んでしまう。
共感を与えないと多数の心は枯れ、定型は病んでしまう。

ASの人も、ご自分の言動を定型に否定され続けて、つらくしんどい思いをされ、二次障害を起こされる方も多い。
ASと定型との間に、理解や納得へのベクトルを合わせることはできても、この「共感」というものの取り扱いが共有できないので
定型の当たり前・解りやすい・簡単な表現が、ASには違和感・反感・難解になり、その逆も生ずるのだろうと思います。

「共感」というものは、ASの方の弱点とされている「想像力」から生まれでるものらしいです。「これはどういうことだろう?」という疑問が入る余地なく瞬時に自覚する感情反応なので、無意識に言葉にも出てしまうのです。

多分・・・ASの方の中には、ボビーさんの出産の話が、なぜ「共感」と結びつくのか解らない方もいらっしゃると予想します。
ボビーさんの夫の「次は女の子頼むね!」の言葉がいけないのだろうから、ここの箇所の分析や説明がボビーさんには必要、と思われるASの方もいらっしゃるかもしれません。

ASの人の定型への最大の親切と魅力は、冷静に考えて分析や説明ししてくれることにより、定型に未知の概念や知識を与えてくれて、心の落ち着きをもたらしてくれるところだと思います。
しかし、心情的に追いつめられている定型は、ただ心情を察してもらいたくてコメントする場合もあります。

「共感」というのは無意識ながら「それが自分の身におきたことだったら・・」という置き換え発想が下地になっていると思います。

ボビーさんの場合、人生の伴侶の感覚や考えや言動の不可解は、結婚後に気づいた。
それも、出産や子育てや貯蓄など大切なポイントごと「夫婦で一緒に話し合い、2人で作るルール」が理解できず、ことごとくボビーさんがショック過ぎるズレ方になる。

パニックや孤立感や疲労困憊が続くと、人は自然に被害者意識にとらわれたりする。

ボビーさんは妻として、夫に定型社会のルールや感覚をイロハから懸命に伝え、伝わらず、
妻として「夫と共に子育てしたい」「夫に頼って相談したい」「夫とリラックスした楽しい時間を過ごしてみたい」・・・という夫婦ならではの夢やメリットをほぼあきらめながら、ほとんど共感無しという・・・定型にとっては過酷な日々を送って来られた。
そんな最中、子供がASだと知る。

このことは、定型ボビーさんが、子育てに関しては、周囲の定型から、心穏やかに生きて行く上で不可欠な共感を得にくい状況になった。ということです。

自分が夫に理解も受容もしてもらえない暮らしの中で、大切な我が子も周囲に理解も受容もしてもらえないかもという不安。
夫にも理解してもらえないし、周囲にも理解してもらえない自分、その中で子育てをしていく自分。
今の段階でのボビーさんの心情を想像すると、立ちすくむほどの寂しさを感じてしまうのです。

ASの夫やASの恋人がいる定型女性の、質問のコメントの背景には、その人なりの相当な混乱や疲弊感やその人にとっての壮絶な経緯があってのこと・・・ということを前提にすると、ほぼ間違いないと私は思います。

初産の時のお話、お気の毒だと思いました。それは、私でもキレます。


でも実は、そういった類のエピソードが返信として来るだろうなと思っていました。

きっとそういう「残念なエピソード」は沢山おありなんだと思います。

ですが、

「人は、自分の不幸には敏感だけど、他人の痛みには鈍感である」とも思うのです。


ボビーさんが傷ついたのと同様、御主人もきっとボビーさんの態度や言葉で傷ついてきた経験、「お気の毒エピソード」があるだろう、そう思う自分がいます。


ボビーさんにその気がなくても、です。


なので、そういうエピソードを見ても、一個一個、個別のエピソードとして

「それはお気の毒でした。ご主人最低ですね」、あるいは

「え、それって、おそらく深い意味ないんだと思います。ボビーさん、被害妄想気味になってません?」のいずれかのリアクションを取るしかないのです。私としては。

そして、前回のコメントで「いじらしいと思いませんか?」と書きましたが「尊敬の念」でもなんでもいいです。


「この人には欠点もあるけど、素晴らしいところがあるから、長所が欠点を上回るからやっていける」
「ずれた方向だけどこの人なりに努力している」


そういう眼差しはなく、「常識的に考えたらそれはおかしいでしょう」「共感力のない夫婦なんて寂しい」、それ一辺倒では反発されてもしょうがない部分があると思います。

私はたまたまボビーさんの「共感力のない人生なんて寂しい」を取り上げましたが、個人的に近しい相手に言われたら嫌だろうなと思うのは
「そんなのではどこに行っても通用しない」だと思います。

最近、たまたまそういう現場に居合わせて、自分が言われたわけでもないのに身を切られるほど苦痛を覚えました。
これが自分だったらと思うとキツイです。

「一生懸命生きてきたつもりだけど世間的に通用しない人間になってしまった。せっかく両親や恩師や周りの方々が愛情を持って育ててくれたのに。それに報いることが出来なかったんだ・・・なんて体たらくだ・・・」と、心折れちゃいそうです。

でも、最近は年の功で、言った相手も「大概、そこまでの意味合いがなくちょっと腹が立ったから言った」のだろうなということがだんだん分かるようになってきました。

案の定、言った方は「そんなこと俺、あいつに言ったっけ?」と忘れていました・・・よくあることです(苦笑)


「人生寂しい」
「そんなのでは皆から受け入れられない、通用しない」・・・こういう言葉をカッとなったら「ASについ言ってしまう」一部の定型の方の反応を見るにつけ、

「その思いを何年、何十年増幅させていって、自分の気持ちもギスギスして荒廃して、その先に何があるんだろう。ここら辺で負の連鎖を断ち切ってプラスに方向転換しようと思わないのかなぁ(実際出来るかは別として)」とこれまた気の毒に思ってしまう自分がいます。

ずっと悲劇のヒロイン(ヒーロー)でいるより、希望はまだまだあると信じた方が建設的だし、パワーも湧いてくると思うから。

これはAS・定型両者共に言えることです。

トマトさん


「いじらしいと思いませんか?」・・・定型好みになるように頑張りましたよぉ!背中が痒い(笑)!
こういう気持ちではいるけど、こういう言葉を遣うのには抵抗あります。普段使わない言葉ですから。

「脳内定型観察ファイル」から取りだしてきて、「感情の押し付けにならないか?・・・いや、定型的にはそうはならないはず・・・」と検討した上で、書いてみました。

結果、空振りしなかったようでホッとしています。

ところで、「想像力」って、何でしょうね? ときどき疑問に思います。 芸術家や研究者や職人さん等、一般的に「想像力」がないとなれない職業に就いているAS当事者を何人か知っているので、その言葉を聞くたび、不思議に思います。
もしかしたら上記のケースは「独創」の部類に入るのかなぁと推測してはいるのですが。

 トマトさんへ

 凄い 想像力ですね^^ ほぼあたっています ハイ(^-^)/ 何だか嬉しいです^^

それに付け加えると 子供が3人居るのですが そのうち定型が1人だけ 2人は発達障害でした その子供を普通に定型を育ててしまったので 後悔先に立たずです(最近知る事となりました) 私のこれまでの人生を語れば小説になりそうですよw

振り返ると 子育てもかなり大変でしたね 二次障害を二回発病後 夫は単身赴任になったので カサンドラにならなかったのだと思います  別居しなかったらきっと離婚していたと思います それくらい追い詰められていました 
夫婦間ではかなり寂しい思いをしましたが 夫には感謝もあります 健康で働いてくれてたらって思いますね 

 夫は自分はAS傾向がある事はわかっているので きっと努力はしているのだと思いますし 私がAS関連の本を読んでいる事を知ると 喜んでいます

 するりさんへ

 初産のエピソードに「共感」してもらえて大変嬉しいです

私は自分の様々な経験を不幸とは思っていません 良い経験をさせていただいたし 人の気持ちがわかれる人間に成長させてもらったと思っています

 定型と思いますが そんなに人の気持ちを思いやれる優しい人間ではありませんでした むしろ我が儘でしたよ それでも やはり自分の夫とは 「共感」出来たら・・・と寂しさで一杯でした 例えば 子供の成長 歩いた!と2人で共に喜びたい でも夫は 当たり前な感じで・・・・ 子供が出来た・・・・夫は それも当たり前 私は「わお~~やったね~~!!でかしたぞ~!!」 ドラマみたいなリアクションが欲しかったな~って思うんです 

 勿論私も傷つきましたが夫も傷付いた事はたくさんあったはず、何気ない冗談でもまともに受け取り 傷付いたと言われた事もあります 
ASが努力するのもわかります 「いじらしい」と感じたこともありますよ

 「共感」についても全くないわけではありません 美味しい物を食べた時「美味しいね~~!!」と笑いますし 2人で共同作業を成し遂げた時にも「出来たね~~!!」っと
 
 私の人生思い起こすと いつも傍らにASが居ました 自分にはない魅力を感じていました ずば抜けた才能の持ち主 発想の豊かさ ユニークさ 誠実さ そんなところに惹かれて夫と結婚したのだと思います

ボビーさんのエピソード、がっかりされたのですね。
がっかりする、失望する、寂しい思いをする、、、という気持ちは、上手く言えませんが、会話や動作のリアクションが「想定(期待)と違っていた」ときに発生するように推察しています。

定型は感情情報のインプット/アウトプットの優先順位が高いので、どういうリアクションをすると、さらにどういう反応があるのかを、学習済みなのだと思われます。
逆にASは優先度が低いので、相対的に学習がされていないのでしょう。

定型は、学習の結果「あるべきリアクション」がほぼ定まっているのに対して、ASは取り残されているように思えます。算数の九九は、未習の人には魔法のようですが、覚えた人にとっては「当たり前すぎて考える必要もないし、反射的にできる」のイメージです。

僕には、「定型の共感」は「精神的満足」と深い関係がありながら、運用面はそれほど抽象的ではなく、「あるべきリアクション」を実践できるかで決まってくるように見えます。
ですから、ASでコミュニケーションが問題になる人は、そういった「あるべきリアクション」を学習をする機会がなかったと説明できるかもしれません。
優しさがあるかどうかとか、気持ちがわかるだとか、そういうのは「あるべきリアクション」があった時の後付けのコメントな気がします。
なので、もしも「二人で喜び合うというシチュエーションを持ちたい」ならば、そういう仕込み(学習)が必要と思います。

するりさんの疑問の「想像力」は、頭の中のライブラリから妥当なリアクション
を抜き出してくることであって、新たにクリエイトするという意味ではないと思います。
「気持ちを察してよ!」と言われたときも、嬉しいか悲しいか、喜んでいるか怒っているか、忙しいかもっと話したいか、くらいの類型を口ぶりや話のやり取りの中で当てていく、くらいの意味合いみたいですよ。経緯も将来も細かな感想も全てを語る前から知っている、という状況を求められてはいないようです。僕は誤解してました。


ASでも、物事に感想は持ちますが「どういうリアクションが妥当か」に関心がない方が、トラブルになると思います。
一緒に食べている人がいたら「おいしいね」と発言する、重労働をやってくれた人には「大変でしたね、お疲れ様、有難う。」と声を掛ける。そういった妥当なやり取りを、日常生活のほかにも小説とか映画とかで知識として仕入れる前段階があったら、実践しやすいと思いますよ。
出産の話でも、妊娠~出産~育児の講座に参加するなどして知識を得て、危険性や難易度を勉強しておいたら良かったのかもしれませんね。


ASも当然、思い通りの結果を得られずがっかりすることがあります。
むしろ、周りがみんなできているのに「自分だけできない」がっかりの場面は多く、「だれでも普通にできる」という概念自体を信じなくなったり、他人の出来具合から目をそらすようになったり、違いに直面しないように声を掛け合うのをやめるようになったり、やること自体を選ぶようになったり、、、ASによって色々の対応があったはずです。そして、精神面では「がっかり」状態が通常になってしまう、自分が上手くいくことに疑いを持つ、気持ちのアップダウンを消し去って「心の傷つき」を無視しようとする、ということなどが『自分には心がない』という発想に繋がっていると考えています。

ボビーさん


前回の私のコメント、おそらくボビーさんにとってはキツく感じられる言葉もあったと思います。
お気持ちをざわつかせるような表現が含まれていたら、すいませんでした。

でも、私の粗いコメントに対し、ボビーさんがつけてくださった今回のコメントを見て

前回、一番言いたかった

「今お辛いのは充分分かります。でも、それでもまだご主人とうまくやって行きたい、諦めたくないという願いをお持ちだったら、悲観的になってもしょうがないですよ。悲嘆に暮れたまま人生終えるなんてもったいない!相手が変わる望みが薄いなら、自分の気持ちの持ちようをほんの少しだけ変えてみましょうよ。何か見えてくるものがあるかも知れませんよ。」


といったことが伝わったようで、安心しました。


定型的には「書けるなら最初からこう書けよ」とお叱りを受けそうですが・・・^^;

最初から書けたらいいのですが、なかなかツボを最初から把握できなくて。


玄さん


>するりさんの疑問の「想像力」は、頭の中のライブラリから妥当なリアクションを抜き出してくることであって、新たにクリエイトするという意味ではないと思います。
「気持ちを察してよ!」と言われたときも、嬉しいか悲しいか、喜んでいるか怒っているか、忙しいかもっと話したいか、くらいの類型を口ぶりや話のやり取りの中で当てていく、くらいの意味合いみたいですよ。経緯も将来も細かな感想も全てを語る前から知っている、という状況を求められてはいないようです。


答えていただいてありがとうございます。いや~、やっと腑に落ちました!!!

私、ずっと「??」だったんですよ。 親しくさせていただいているクリエーターの方たちを見ても、過去の偉人を見ても、(存命していないのでどこまで正確かは分かりませんが)AS系とか発達障害系と言われているダヴィンチ、ゴッホ、エジソン、ベートーベン・・・そこら辺の人に「想像力」がない???

えーーー、「これぞミスター想像力」という人達ばかりじゃない。さっぱり分からない・・・・

と思ってました。


同じ「ソウゾウ」でも「創造」の方だったんでしょうね、私の思っていたものは。日本語は難しい・・・

遅くなりました。
やっと実家にネットをひけました。

パンダさん
上手く説明できていませんが、伝わったようで嬉しいです。

〉知的に推測して、という感じではなくて、ほとんど無意識のうちに
「恐怖を感じる」とか逆に「怒りを感じる」とか、
そういう感情が生まれる事ってあるのでしょうか?

YESかNOかで言えばYESです。
恐怖に関しては、なぜかその「知的推測」が高速で行われますから
「あの人の表情と足音は怒っている、ってことは・・・」なんて
心の言葉にして考える時間なく、サイレンが鳴る感じですかね。
過去の経験から相手が怒っている事で良いことがあったことはないですから
条件反射に近いです。
怒った顔で近付いてくる体格のいい男性がいたら恐怖を感じますが
それは怒った顔を見た事で過去の暴力やその他の体験から分析した結果の「相手が怒っている時は危険!」と結論が出るまでを自動処理されるからです。
逃げ出すか、怖いのをこらえるか、瞬時に判断しなきゃいけません。
そこら辺はぐるぐる高速で考えていますのではたから見たら反応が早いそうですが・・・

怒り、ですが
私の場合怒りを感じることが難しく、逆に一度怒りを感じるといつまでも覚えているので徹底的に怒ります。
だから気軽に怒りを感じないようにセーブして生きてきているので、もうそれが定着してしまった感じです。
日単位で時間か経ってから
「あれ?あの発言は私怒ってよかったんじゃ?」とか
「あの時の会話は皮肉だったのかな?」とか
もう、それこそ1週間前の会話ややりとりの事を突如怒りだしたりします。
気付かないんですよ、「怒って良い事」だって事に。

たとえば「最近太ったね」と言われても
実際増えていれば「そうなの」で終わるし
増えていなければ「そう見える?」と確認して終わるし
それに悪意があるかどうかその場で気付かないのです。残念なことに。
言われました、即カチン!というのは、
私の場合よっぽど頭が回っている時か、そういう類の発言に構えている時か
事前にシミュレーションしていた時に限られます。

(玄さんのコメントで「会話のセリフは用意してある」というようなコメントがありましたよね。そういう部類のシミュレーションだと思います)

〉相手の表情を見て自分の感情が直接に揺るがされるような
体験は、滅多に遭遇しません。
構えてれば、まれに発生しますが
そんな気力も体力も消耗する状態は日常生活で維持できません。

こんなお返事でお聞きになりたい事が答えられているでしょうか。。。

かずきさん

 どうもありがとうございました。
 いやあ、私が想像していたよりも徹底して「経験を通して<理解>する」
 という知的なパターンになってるみたいですね!
 これはすごい考えさせられます。

 ちょっとマニアックな質問ですみませんが (^ ^;)ゞ
 たとえば話している相手の人の目を見ていたら、
 (そういう場合が少ないかも知れませんけれど)
 その人が何かに気を取られて急に他の方向に目をそらしたとします。
 そのとき、かずきさんは無意識にその人の見た方をつられて見る、
 というようなことはあるのでしょうか?

パンダさん

無意識にみることはありません。
何があったか記憶の中の映像をたどって考えて、
明らかに相手の気を引きそうな物が有る場合、そしてそれが会話のネタになる場合は
話題に持ち出します。
思い当たる物がない場合は会話をしながら、もしくは意図的に黙りつつ、
相手の視線を観察します。

私にも見て欲しいのであればそういう声がけがあるでしょうし
明らかに表情が急変した場合、良い方向の急変なら「何かあった?」と見ますが
悪い方向の急変の場合は「どうしたの?」とまず聞きますね。

いずれにせよ人との会話や関係の中で「無意識」ということはないなーと気付きました。
高速自動処理やマクロはありますが、すべて言葉で説明できる

↑ごめんなさい、途中で送信してしましました。

すべて言葉で説明できる考えの流れみたいな物があります。
記憶が映像、と言う部分も大きいのですが
人との関係において、観察と考察と何通りもの推測を即座に用意し、それに対する考えをまとめ発言可能な言葉に直しておくこと
それをし続けなければリアルタイムの会話が成立しない。
それが私が人と関わると疲れる原因なのだと思います。

かずきさん

 そうですか! つられて同じ方を見る、ということはないんですね!
 私のパートナーの場合はつられることはあるそうですが、
 なんかすごく考えさせられます。
 定型ってそこ、すぐつられやすいですから、
 「相手の人と同じものに注意を向ける」ということを
 ほとんど無意識にやってしまうんです。
 そう言うレベルでも、「共有」ということを常にやってるんですね。

 かなり理屈っぽく考えると、ですけど、
 「相手の人が何かを見ている」というのはどうして分かるんでしょう?
 「そんなの目を見たら分かる」という方もあるかも知れないけど、
 でも、極端な話、その人が実は義眼だったとしたら、
 「見えてないはず」という風に考えられると思うんですが、
 相手の人が義眼じゃなくて、自分と同じように周囲を見ることが出来る、
 ということがどうして分かるのか、そこが不思議です。

 定型の場合は言ってみれば自動的に相手の視線につられてしまって、
 「見る」という体験を共有しちゃうんですね。
 それで「自分もあの人も見てる」という理解が成り立つんだと思うけど、
 そういうことがないとすれば、それでも相手の人が「見てる」ことが
 分かるというのは何でなのか、うーん、ふしぎ~ (^o^)

 この辺、考え出すとすごい興味深いです。
 

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