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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月31日 (水)

「素」と「本音」のズレ

 「素」のことを引き続いてぼちぼち考えるんですが、やっぱり定型のコミュニケーションって、「この人はどの程度親しい人(味方)として信頼でき、本音を語り合えるのか、それとも丁寧なのは表面だけの建前で、本音は別にある可能性があって、本音で語るのはちょっと注意した方がいい人(普通の人)なのか、あるいは本音を全く隠さず、こちらのことは配慮せずに敵意むき出しでぶつかってくる危険な人(敵)なのか」というようなより分けを、ごく自然にその場その場で判断して、それによって接し方を変えたりするようなことをやっているように思います。

 その意味では「素」というか「本音」を出すのはその中で「ものすごく親しい人」か、それかもう相手なんてどうなってもいい、お互いの関係などどうでもいいと割り切っている「敵」に対してか、というような区別をしていて、中間の「敵でも味方でもない。どちらにもなりうる」人には「敵にしないように、できるだけ味方にするように」慎重に話をすることが多い、というようなことがあるんだと思います。

 なんだか、こうあからさまに書くと、すごい根性の悪い政治家みたいな計算高いいやな人間という感じがしますね (^ ^;)ゞ。 でも、そういう「政治的な駆け引き」って、前にテレビでやってましたけど、チンパンジーでも盛んにやるんですってね。韓ドラとか見ててもそういうのが一杯出てくるし、それこそ「ローマの休日」なんて、「恋の駆け引き」がすごいですし。

 あくまで私の印象ですが、この辺の「駆け引き」を基本的にはアスペの方はほとんどしないんではないかと感じています。その意味では政治家はアスペの方には最も向いていない職業かも知れませんね (^o^) それで、定型は「本音」を語るときにもこの「駆け引き」の枠組の中で「信頼関係の証」として本音を共有しようとするのかなと思うのですが、アスペの方の「素」は、そういう「駆け引き」とは全然関係なく、ほんとに「本音」そのままを表すこと、「相手に気を遣わないですませられる」ことが大事なのかなと、そんな風に理解してみました。

 昨日もパートナーに、「僕に対してはどの程度<素>でいられるの?」と聞いてみたんですが、「<素>でいて欲しいといわれて、<素>になると、そうすると今度は傷ついたりするし、どうしたらいいのかわかんなくなる」と言われてしまいました (^ ^;)ゞ

 そうなんですね。この「ズレ」はなんのズレかと考えてみると、定型にとっては「<素>になること」=「本音を共有すること」=「深い深いつながりを確かめ合うこと」なのに対して、アスペの方にとっては「人に気を遣わなくてもいい、ほんとに素直な自分に戻れること」で、言ってみれば定型が「相手と二人になる」ためだとすれば、アスペの方は「自分一人になる」ために<素>になる、という方向が正反対の関係があるんじゃないかと、ちょっと考えてみています。

 その考え方がどの程度実際にあっているのかはよく分かりませんが、仮にそういう傾向があるんだとすれば、アスペの方が<素>になることは、定型にとっては相手が「一人の世界」に入り込まれてしまうようで、さびしく感じることになりそうです。逆に言えば、アスペの方にとっては、大事な家族の間柄なのに、そこでさえ<素>にさせてもらえなくて、いろいろ気遣いを要求されるのは、まるで職場の苦労を家でもさせられるようでとても疲れる、ということなのかもしれません。

 

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コメント

玄です。僕の感覚に基づいて書かせて頂きますが、
敵か味方か、そういうことは考えないですね。全部「他人」です。
立場の位置関係は意識しますし、互いに立場によって言動にバイアスが掛かると考えています。(仲良くしなきゃいけない/仲良くしちゃいけない、など)

親密か疎遠かの判断基準は、基本的には「実際の距離」ですね。
一緒に寝起きする家族は、親密。めったに会わない人は、疎遠。

「表面だけ丁寧」とか「本音は別」ということは、高度すぎてできません。
常に「素」あるいは「地」でやっているようなものかもしれません。

パンダさんの「ごく自然にその場その場で判断して、それによって接し方を変えたりする」という感覚の「ごく自然に」が厄介ですね。自動化されすぎて、プロセスの高度さを意識していない。できない人のことを理解できないでしょう。
「判断」というと何か理性的な思考があるかのような言い回しですが、むしろ「好き嫌い」が根っこで、それによって行動が振り回されているように見受けます。
そうでなければ、コロコロ態度が変わったり(パンダさんのことではないですよ)はしないはずです。

そう考えると、パンダさんの言う「素」は、「好き嫌いを包み隠さない」状態と言えるかもしれませんね。僕は、「好き嫌い」を活動の基準や根源にしていないので、「素」にしようと思って出てくるのは「地」だけです。(^^)
「一人の世界」は、特別なことではないので、「個を大切にする人」として見守って欲しいです。元々「素」に近く、なにも包み隠してはいないはずですし、キライなわけでもないはずですから。
パンダさんとパートナーさんの間において、「素」というキーワードでは愛情を語り合う土台になりえないということが判ったわけですよね。愛情について語りたいならば、「お互いの愛情について語り合いたい」と率直に切り出した方が、言葉の反応を期待できると思いますよ。「愛情という言葉で思いつくもの」というテーマでもいいと思います。
ズレが露わになるのが怖い?ズレも含めて愛しているんなら問題無しです。

玄さんの今回のコメントは、ちょっと咀嚼するのに時間がかかりそうな感じがしています。なにがどう、ということはまだよくわからないのですが、なにか大事なポイントに繋がりそうな問題で、今は理解することが難しい感じがしています。

「自然」という言葉は、「定型にとって自然」という意味で使ったつもりですが、そう書いた方が良かったみたいですね。定型にとって自然、と言うことの意味は、定型はほとんど意識せずにそういうことをやっているということで、「それが当たり前だ」というニュアンスは含ませていませんでした。また「意識せずにやる」ということは、特にいわゆる理性的にとか、合理的にということではありません。定型的な感情の動き方には多分それ自体の「感情的合理性」とでも言えるような「感情的理屈」があって、それが自動的に動くんでしょうね。それは「好き嫌い」にも関係すると思いますし、同時に「好き嫌い」だけでは収まらない部分をいろいろ持っているようにも思います。「じゃあ何がある?」と尋ねられると、これはなかなかすぐには答えられそうにもありません (^ ^;)ゞ

 「表面だけ丁寧」とか「本音は別」というのは高度過ぎる、と玄さんは書いていらっしゃいますが、「装う」ということはアスペの方は無縁なのでしょうか?たとえばアスペの方は「演劇」の役者になるというのは無理ということにもなるのでしょうか?

 それと、私は玄さんの議論はかなり「高度」だという印象を持っているのですが、そういう「高度さ」とはまた質の違った「高度さ」なのでしょうね?

 すみません、ちょっと今、新しい仕事に取りかかり始めていて、頭がそっちにかなりとられていて、話がまとまりませんでした (^ ^;)ゞ こんな調子じゃしばらくちゃんと応答できないかも…… (って、いつものことじゃん、とか言われたりして (^ ^;)ゞ )

パンダさんへ
「定型にとっての自然」については、僕もそのつもりでしたよ。定型の方が、抵抗無く意識せず自動的にされているという捉え方です。
パンダさんは否定?されていますが、「自然」という言葉には「放っておいても」「あたりまえ」のニュアンスもあると思います。
感情が発生する根拠のお話、お待ちしています。


僕の書いた「表面だけ丁寧」と「本音は別」というのが高度だという話についてですが、実際のところは「装う」をトライしますが、なかなか上手くいかない、という感じです。

演劇の例えでいえば、、、僕はその場が「どういう状況か」を俯瞰して認識できるように、気をつけています。その上で「どういうセリフ・行動があれば妥当か」を自分のキャラ(配役)を加味して考えます。アドリブ劇ですね。
本音を明かさずに別人を演じきるというのは、役を相当作りこんでいないと難しいと思います。表面だけ「装う」というのは、ある程度以上の「つじつま管理」ができているのだと思います。僕の場合は、つじつまが合わなくなるリスクの方が高いのです。
演じるパターンを複数持っていて、テレビのチャンネルを回す(昭和の表現ですが)ようにバシッバシッと切り替えてながら生活している人もいるかと思います。

「高度さ」を僕の話に見出して頂けたことは、うれしいのですが・・・
まあ、かなり気取って書かせて頂いていますし。(^^)
ですが、やることなすこと押し延べて「高度」ではなく、ゴッソリと「苦手な分野」があるのです。定型的な通念として「それができるなら、これも任せよう」というように人の能力を予測し期待して頂くことがあります。
疑問も抱かずに、自分もそうだろう(できるだろう)と思って取り組むのですが、ありえない労力をかけて取り繕うはめになる領域があって、周りも自分も、そのギャップをどう理解したらいいか分からず、苦しむことがあるんです。
そういう状況がありえるという理解、そういう状況が現れたらどう対応したらいいかという道筋を、共有できる社会ができるといいなと思います。

玄さん
>全て「他人」~一緒に寝起きする家族は「親密」
から見ると、「家族」も「他人」という扱いでしょうか。

私自身、親であれ姉であれ(実家)、子であれ夫であれ(今の家族)、全ては
「自分以外の人=他人」という感覚でいるのですが、
それを口に出して言うと猛烈な反発を招くので(TVドラマ知識)
一切言わないで来ました。
そして「家族になったんだから他人じゃない」という発言がある度に一人、勝手にイライラしていました。
(価値観を押し付けるな、という意味でのイライラ)

この、自分以外は全て他人という感覚はASならではなのでしょうか。
そうなると「家族」のくくりはどこにあるのでしょうか。
一緒に暮らしている人?
戸籍上、同世帯の人?
2つの条件がそろう場合ばかりではないと思います。
結婚式の席次などでは「家族席」「親族席」などと分かれていますが
片方が「家族」と思っていても、相手が「他人」と思っていたら?
口語の「家族」というくくりには謎がつきません。


話を「他人」云々にもどしますと
私にとっては自分以外の人、つまり「他人」は「敵」「味方」に分かれている状態です。
というか。敵だらけです。味方なんていません。
こう言ってしまうあたりまだまだ幼稚なのだと思いますが、
「俺が味方になればいい」と宣言した夫が一番の「敵」です。
↑の発言は今の所「嘘」ですから。(宣言したからにはその姿勢を貫くべきだと思うので)
敵味方に分かれているのであれば、味方に出会えていない私にとって、
自分以外全ての人は「他人」であり「敵」もしくは「敵になりうる人」です。

ただ、以前「味方になってくれる人も居る筈だ」と言っていた人が居るので
「他人全てが敵」という言い方はしません。
もし、万が一、味方ができてしまったとしても、自分ではない限り、他人だと思うのです。


パンダさん
>「意識せずにやる」ということは~それが自動的に動くんでしょうね。
これは、マクロのように細かいステップが解説できるものではなく、いきなり答えが出るものなのですが?
それとも、細かく分析したら、一つ一つのステップが解説できるようなものなのですが?


演技に関してですが、
つじつま合わせが破綻しない程度には演技できる私が居ます。
「自分を相手に置き換えて考える」を細かく言うと、
「ある条件下で、出来る限りいろいろな感じ方と表現の仕方、その行方を考察する」
という事になると思うのですが、
ある出来事に関わる人たちの幾通りものリアクションと感情をもつ人達が同時に存在する。
それだけで舞台のワンシーンになりませんか。
人と関わっている以上、こうやって本音でやり取りできる(本音については別記します)関係ではない状態では、
頭の中で「相手の立場」の考察を常にしていますから、その中のどれを演じるか、なだけです。
そして相手別の分析ファイルに「この話題の時、自分はこの路線の反応をした」と記録しておき、その路線を次回以降の参考にします。
もちろん、どの反応で返すかを選ぶときも過去を参考にしますが。

あまりにも本来の自分とかけ離れたり、人によって大きく変えてしまうと
つじつまが合わなくなり、キャラ設定が破綻しますし、
「嘘」は吐きたくありませんので触れ幅はとても狭いと思います。
それを「装う」としないのであれば、「装えません」。

逆に、「演劇」として、キャラ設定がしっかりしていて、台詞外の人格や思考回路、人生観や幼少からの出来事などに納得が出来ればその人間になりきる事は出来るかもしれません。
設定が破綻しないように、私が納得できるまで、その人物の解説をしてくださる方か、一緒に設定を詰めて行ける方が必要ですが。

そういう意味では、私の中で
「本音」=「本来の考えに近い事を表現する」
「本音ではない」=「本来の考えやそれに近い事の全ては表現しない」
という線引きがなされているようです。

そこで「素」を考えると、
「素」=「飾り立てない本来の(喜怒哀楽含めての)姿」
であり、そこから発する言葉や態度は「自分以外には通じない表現」だと感じます。
(ここらへん、玄さんの「地」と、よく考えてみたいのですが・・・)
なので、「相手に適した言語に翻訳」した段階で「素」ではないと、私は考えます。
自室に一人きりで居るときは「素」でしょうが、そこで「他人」がその空間に「侵入」する可能性が少しでもある限り「素」ではいられません。
たとえ「素」で居たとしても、キャパの1割程度は(それ以上かも?)、
いかに「素」からすばやく離れるか、「構える」かのために臨戦態勢を取っています。

こういう私の考えで「素」や「本音」について表現しますと

「素」にはなるべきではない(他人への配慮は欠かしてはならない)。
けれども「本音」を出しやすい場所であって欲しい。

というところです。
実際、私はこちらにお邪魔するようになってからとても救われていますし、
私の思う「本音」でやり取りさせて頂いています。
ありがたく思っていましたので、パンダさんの
「このブログはお互いに出来るだけ素でいられる場にしたい」という言葉に、
若干の今更感がありました。(笑
ただ、「素」だと、トラブルが起こるのでは?と思い「親しき仲にも~」と書き込みました。

「素」でいて許される関係、というのは魅力的ですが
それで相手を傷つけてしまうのであれば、私は24時間「素」にならない事を選びます。
・・・とはいえ、寝ている間の寝相や寝言などは「素」でしょうか?

玄さんの
>定型的な通念として~苦しむことがあるんです。
そういう状況がありえるという理解、そういう状況が現れたらどう対応したらいいかという道筋を、共有できる社会ができるといいなと思います。


前半にとても納得して、
そこから後半に導ける玄さんが素敵だな、と感じました。
私は自分で自分の期待、更には人様の期待を裏切ってしまう自分にあきれ果てて
フリーズしてしまうので。。。
それではいけないと思いますが、どうしても逃げたくなってしまう自分を押しとどめて
立ち向かうまでは出来ませんが、そこに立ち止まっているのでやっとです。
さらに先に昇華できるようになりたいと思いました。


煮詰まっていない考えですが、今考えてる事をつらつらと書かせていただきました。

かずきさん
ある単語について、1、自分で(自分流に)解釈する 2、それを自分の状況に当てはめる 3、自分以外の人の使い方を自分の解釈で認識する

というステップがあるとして、どの段階でもエラーが起こりえると思います。
僕が簡単に「他人」という言葉を使いましたが、かずきさんの使う「他人」ともかずきさんの旦那さんの言う「他人」とも意味が違うかもしれません。

だから、もしも誰かの発言で「イライラ」が発生したとしても、それはある一定の条件が全て揃ったときであって、言葉の解釈や適用が違ったら、イライラしないかもしれません。
僕はそうやって「価値観を押し付けるな!」というイライラ感情に対処しています。気持ちに余裕があれば、可能です。

さて、「他人」について。
僕の捉え方の「他人」が一般的ではないかもしれない、という前置きで言いますが、僕は「自分=一番近い他人」です。
それを口に出しても、猛反発はされませんが、まあ、意味不明という扱いをされますね。(^^;)


「家族」は血縁・生活共同体という意味に加えて利害を超えて協力し合う「味方」という意味づけも色濃い単語です。
結婚で「他人→家族」と変化することをロマンチックに受け止めるのも、世間ではごく一般的なことで、そこに過度にセンシティブになることは、精神エネルギーの無駄です。
言葉の使われ方にイラっとした時、意味づけが食い違っているという状況はお互い様なはずです。一歩退いて、意味の多様性・言葉の豊かさと捉えられれば、次に二三歩前進できそうです。

「他人」と「家族」について僕は同時に起こりえるという感触を持っていますが、一般的には、しばしば対立的に使われる単語ということも承知しています。
血縁や書類上の「家族」に、「味方」としての振る舞いやコミュニケーション上の反応(雑談での同意とか笑顔とか)を期待する人がいるということも、分かってきました。
期待に応えることは、やぶさかでありません。
相手の世界観を包み込んであげればいいと思います。

「敵と味方」については、上手くいっていませんが、僕は暫定的に「敵はない」という仮定でやっています。
敵と味方に区分するのではなく、自分を真ん中に置いた同心円で、自分に近い人・遠い人をプロットします。近い人と関わりあって生きていくしかありません。
(電話での連絡、ネットでの繋がりなどもありますから、リアルな距離ではないですね)
身近な人物を「敵」と位置づけてしまうと、何をされても悪意や攻撃と感じてしまうのではありませんか?そういう受け取り方は、自分から「私はあなたの敵」という旗を立てているようなものですよ。
そういう状態ですと、相手の人が味方に転じてくれる可能性を自分で下げてしまっているように思われます。「自分の力で他人を味方にする」のはとても難しそうですが、相手の方から味方に転じてくれるチャンスまでも潰してしまうのはNGと思えます。そういう意味で、デフォルトで「他人を敵として扱わない」という方針は、そんなに悪い策ではないのではないかと。

ちなみに僕にとって「一番近い他人」である「自分」は、敵か味方か。
味方であって欲しいけど、思い通りにならないこともあるし、裏切られるし、まだ知らないこともあるし。ただ、思考を現実化させる唯一のルートですから、大切にして感謝して、鍛えてメンテナンスする。
・・・自分に二番目に近い家内も、大切にして感謝して、鍛えてメンテナンス。三番目も、四番目も、、、

玄さん
丁寧なコメントありがとうございます。

>僕はそうやって「価値観を押し付けるな!」というイライラ感情に対処しています。気持ちに余裕があれば、可能です。

確かに、余裕があれば可能ですね。
肝心の余裕をもつ工夫が、私には必要なようです。


>僕は「自分=一番近い他人」です。

個人的にはこの解釈をもっと掘り下げて聞いてみたいのですが、
本題とズレて行きそうなのでまたの機会にします。

>期待に応えることは、やぶさかでありません。
相手の世界観を包み込んであげればいいと思います。

私の問題は、その期待が読み解けない、受け取れない事です。
なので「家族なんだからこうしてくれたって良いじゃない」といわれても
「相手に対してどうするかは、今迄の習慣や構築してきた関係によって判断されるものであって家族かどうかは関係ないし、家族だからどうこうというルールは限定的過ぎるし、私は家族だと思っていないし・・・・・以下グルグル」
と思ってしまい、「この人は過去こうして欲しいと思っていた」事しか受け取れず
「この人は今私に何を望んでいるのだろう?どうしろと?」状態で固まってしまいます。
期待には答えたいと思っているので、答える方法が見当たらない時程困り果てることになります。


「敵」「味方」については、
「敵」だから攻撃する、される、というニュアンスではなく、
「期待しない」に近いニュアンスです。語弊を招く表現でしたね。

勝手に期待し(味方だと思い)
勝手に裏切られ(攻撃され)
勝手に悪意を抱く(攻撃したくなる)

のであれば、元から

期待せず(敵と思い)
裏切られること無く(攻撃されること無く)
悪意も抱かずに済む(攻撃したくならない)

ようにという、消極的な考えです。
なので「敵」だから何をされても~というのは私にはありません。
「敵」と思っていても、「期待しない」だけで、個人個人にいい面はたくさんありますから
それはそれで、いい面は「ここはこの人のいい所」と評価するだけの事です。
好意を頂けば、「ありがとう」と受け取るまでで、
「じゃぁあれも、これも」とならないよう、「期待しない」事を心がけています。
期待してしまいそうになったら、「期待しない、望まない、調子に乗らない」と唱えて
自分を止めます。


何故か、自分に対して良い面が探せないので、私自身にとって私自身は
「いいところの見当たらない敵」です。
自分にも期待できません。高確率で裏切られますから。
そうすると自分が許せなくなり、攻撃したくなります。
物理的・精神的かはその状況次第ですが
それ(肉体的、精神的自傷)が良くないとされているならば、
そうならないための予防策が、「自分は敵」という認識です。

ところが
「味方になる」とか、「本当に困ったら一番に相談して欲しい」と言われたら
うっかり信じてしまうのですよね、私は。
言葉をそのまま信じてしまうというか。

そこで「期待して良い」つまり「味方」と思い込んでしまうのです。
上記2つは実際、今までに言われたことがあることです。
そして二人の事をとても信頼していたので疑う事無く信じてしまったのですが、
前者はまだ分かりませんが、後者は言った事すら忘れ、実際相談したらあしらわれました。
調子よく、雰囲気に任せて言っただけ、だったそうです。

相手に悪意があったとは思いたくありませんので、
「うっかり信じて味方を思った自分が悪い。」と処理しています。
「勝手に期待して勝手に裏切られたのだから、相手に怒りをぶつける筋合いは無い」と。
相手が悪意をもってそうしたと分かれば、
それこそ一生をかけて悪意を抱いてしまいそうな自分が居るので
玄さんのおっしゃる何をしてもされても攻撃になる「敵」認定は出来る限りしたくありません。

蛇足ですが、過去にこの考えを話した所
「期待されていない」事にショックを受けて疎遠になった人が居ました。

私には「適度な期待と過度の期待」の判断が出来ないだけかもしれません。
1か0思考、両極端、加減を知らない。
いろいろな言い方がありますが、
もっと器用に、気楽に人と関われたらどんなに楽だろう、と
しみじみ思います。

かずきさん、コメント有難うございます。
かずきさんは「家族」という単語で引っかかっていて、「家族なんだから・・・」という話題すべてに拒絶反応がある様ですね。かずきさんの思い描く「家族」の解釈と、周りの方の使う「家族」という語では意味が違うようなので、かずきさんは「家族」という言葉の意味の多様性を認識するのが、最初のとっかかりかもしれません。

敵・他人という単語は、人間関係を表わす時に頻用されすぎていて、受け取り手個々の強いイメージを呼び起こすために、発言者の意図から離れる恐れがあります。
「敵」という単語は、危険・攻撃される・互いの攻撃準備というイメージにこそ直結するもので、「期待しない」というニュアンスは僕にはありません。なので、語弊ではなく、かずきさんの意図と違うという意味で誤解される言葉選びですよ。

それと、かずきさんのスタンスは「勝手」ポジションに自分で自分を固定している印象です。おそらく、かずきさんの言動がご家族の中でちぐはぐなのは、家族の人々が「家族とは勝手には動かないもの」という共通認識がある中に、かずきさんが「勝手」を貫こうとしたからだと読めました。

勝手に消極的な態度を貫くことは、共通認識に合わないという意味で、罪と目される可能性がありますよ。「勝手」を起点に「敵・味方」という言葉で思考を展開することは、事態を悪化させると思います。
「自分を止める」ことで事態の沈静化を期待されているかもしれませんが、かずきさんの存在を「周りに不完全燃焼を起こさせ、放置している人物」と受け止めさせ、本当の敵として攻撃されかねません。
勝手の逆として「相談」をするのが良いと思われるのですが、その「相談」の定義が、かずきさんとご家族で、また食い違いがありそうですね。


「自分に期待しない」という意味で「自分は敵」と書かれたように見えますが、繰り返しますが僕は「敵」は「期待しない」という意味では使いません。
僕の考え方としては「味方」だとしても「どこまで期待してよいか」については慎重に測ります。かずきさんは「味方」には全てを委ねてよいという定義をされているようですが、それも極端な幻想です。

かずきさんは、宣言をしたらその決意は変化してはならないと考えておられるようですが、誰かの発言が「宣言」か「宣言でない」かをどうやって見分けておられるのですか?「宣言」が時間の経過があっても変わらないという発想は、信じてみたいですが、宣言後に発生したイベントによっては減弱も撤回も起こりえます。
他人への対応を「完全に信じる/一切信じない」の二択で片方に固定するのは、正しい行動設定とはいえません。
ここでも「勝手」が自分の首を絞めている状況と思えます。
「勝手」を改める方策のキーワードとしては「巻き込む」というのも有効と思います。

「適度か過度か」の判断は、僕にはできません。
だからこそ、他人の意見を取り入れる行動姿勢が重要と思っています。
ラクではありません。

玄さん、ありがとうございます。
「家族」だけではなく、私の思う言葉の定義と相手の使う言葉の定義に差が有る場合
相手が「もしかして定義がちがう?」と話しているうちに感じ取るか、
私からそう指摘したときにきちんと自分の考えを説明してくれる方にはこういった反発心は抱きません。
ところが、「自分が使っている意味が正しい、フツーだ、つまりあなたは間違っている、フツーじゃない」と
そのようなスタンスで来られた場合
「あなたがこちらを理解しようとする姿勢がないのなら、こちらもそうします」
という、前回も書きましたが、とてつもなく幼稚な考え方です。
「あなたがどんな姿勢であろうと、私のことを少しでも知って欲しいからアプローチを続けます」
と言うのは出来たら良いな、とは思いますが精神的にも肉体的にもかなりきついものがあるので
私にとってはまだ現実的ではありません。

また、「敵」が「互いの攻撃準備」までを含めるのであれば、誤解をまねく表現ではありませんね。
期待したことによって裏切られる事に備えるわけですから。
「期待しない」事に近いだけで、「敵」という言葉が妥当だと、やはり思います。
確かに「勝手」に固執しているように見えるでしょうし、それによるトラブルも招いてることは自覚しています。
ではなぜ、そのスタンスを貫いているかというと
私が取れる他のどのスタンスよりも圧倒的にトラブルが少ないからです。
現状の私が取れるスタンスはとてもパターンが少なく、それ以外のスタンスを模索しているところではありますが
人間関係だけではなく、それによる精神的、肉体的な私個人のトラブルを数えると
なかなか良いスタンスが見つかりません。
そこが、「自分が幼稚」と書いた理由です。
自分を止めないと期待しすぎてしまう、加減が出来ない。
味方ならすべてを期待する、それがいかに非現実的であるかを理解していても、気を抜くとやってしまうさ
というところも含めて、
他の場所であればこういったオープンスペースに書き込むことも出来ない
私自身の醜さです。

宣言については、約束に置き換えられるのでは、と思います。
強い言い切りは約束になりがちですが(約束の定義も問題になりますが)、
約束は出来る限り破らない前提で考えると
宣言内容の変更、については
考えが変わった時点で相手に伝えるべきと考えます
「あのときはこう言ったが事情が変わりこう言い換えたい」と。
それが著しく前言を反故にするような変更であれば
同時に謝罪が必要だと考えます。
「味方になると言ったが、現状見方になれそうにない、悪かった」

↑ごめんなさい、途中でボタンを押してしまいました。


続きです。

言い方はいろいろあると思いますが、
素直に認め頭を下げること、ただそれだけのことをせず
あーだこーだと言い訳や逆ギレする人をよく見かけます。
「だからやろうとしてんだろ!」とかとか。


楽に人と関わりたい、というのは
定型の多くはそう言ったことを考えなくても出来て、
なぜ出来るか問いかけでもって説明すら出来ないほど、まさに
「何も考えず自然に」そうしているようですから
適切な対応を、何も考えずに出来るというのは楽なのだろうな、と感じたからです。
玄さんが楽そうだと言ったわけではありません。

私も人を見分ける力があったら、
「この人は信頼できるから困った時には助けよう」
「この人は信頼できないから当たりさわわりがない付き合いで、困った時には助けない」と使い分けてたでしょう。

私は小さいときから都合良く利用され(断ればさらにいじめられる)、ばかにされてきましたから、損得感情抜きでそんな人に優しくできるほど心広くはなれません。

現状も変わらず、私も人を見分ける力がわからなくて他人の人間性が見抜けないために表面的な付き合いになる。
向こうはコミュニケーション力がない私を変人扱いしたり、顔や頭が悪いとばかにし、こっちが困ってる時には見て見ぬ振り。
私も助けてくれない人やばかにしてくる人に助けたいと思えない。見て見ぬ振りになる。
こういう部分が「人への思いやりがない」と言われる部分かなと思いました。


また振る舞いの話ですが、演技であれ、本心であれ、「嘘くさい」「心がない」と否定されますからどうにもできません。


ちなみに家族や発達の友人、唯一信頼できる定型知人に対しては奥様と同じスタンスです。
私の接し方は知人にはきついと感じたかもしれませんね(汗)
しらなかった…。


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