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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月 8日 (月)

感情を意識すること

 また少し考えが進むところがありました。

 昨日書いたのは、アスペの方は感情を人との関係をつないだり切ったり、調整したりするものとしてはあまり考えることがない、というかなり強い傾向をもたれていて、その点で感情のやりとりによって人間関係を作り上げる定型との間でお互いに理解できないコミュニケーションが生まれてしまうのではないか、ということでした。

 ですから、定型は「言葉」の直接の意味だけではなく、その「言い方」や「言外の意味」などに感情を載せて、そこでいろんな人間関係上の調整をしているのだけれど、アスペの方にはそこは伝わらない。アスペの方は人間関係の調整はそういう感情的な遣り取りとは別の面で行われるものであって、「言葉」はそのままの意味で考えるという基本的な態度をお持ちなので、定型の言葉の使い方に大変に混乱され、しばしば不信感をもたれる。

 というふうに、アスペの方にとって感情の調整は基本的に「個人の内部で行われるもの」になっているわけでしょうね。だから定型は特に親しい関係にあるアスペの方とのやりとりでとても寂しい思いをすることになります。

 さて、今日少し考えが進んだことは何かというと、玄さんやトマトさん、ナナセさんのやりとりの中で改めて問題になっている「感情を意識するかどうか」ということについてです。

 この問題、「感情を言葉にして自覚したり表現したりするか」ということととても深いつながりがあると感じています。というのは、自分の経験していることを「言葉にする」ということの意味は、たとえば相手にそれを伝えることですし、また自分でその経験を言葉の形で記憶して、それについて考える、ということだと思います。

 だから、たとえばナナセさんが「最初にトマトさんの書き込みを読んだ時は「ある気がする。」と思ったんですよ。でも自分のメモリーをザッと検索したら具体的な記憶が全くなく、自分でもびっくりでした。」

 と書かれていることは、とても分かりやすいことだと思うんです。つまり、アスペの方の多くは、感情的な体験を「言葉」という形で「記憶」しておくことがない(か非常に少ない)から、後から改めて意識的に思い出そうとして、思い出せないということです。

 つまりこんな理解の仕方が成り立ちそうです。

「アスペの方の多くは自分の感情体験を個人的なものとして、人とやりとりするという姿勢はとても薄い(という文化?を持っている)」
=「自分の感情的体験を言葉にしてやりとりするということも少ない」
=「自分の感情的体験を自分で意識的に自覚したり、思い出したりということも少なくなる」

 定型はその逆のパターンですね。そんなふうに理解すると、お互いの「分からなさ」が少し分かってくるように私は感じましたが、どんなものでしょうね?
 

 

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コメント

トマトです。
私は今回のパンダさんのテーマは、自閉圏と自閉圏でない双方の「感情」と「言葉」の概念の照らし合わせが、わかりやすく書いて下さっていると思います。
自分の中でも、玄さん、ナナセさんに導かれ、理解の定着が進んだように感じます。

ただ・・・パンダさんの内容に重複しますが、
ナナセさんの
ご自分の中に「ある気がする。」と思った過去の感情の記憶が、改めてメモリーをザッと検索したら具体的な記憶が全くなく、自分でもびっくりされた・・・
ということに

感情の記憶自体はあるのだけれど、その途中、感情を言葉に変換する機能が可動してなくて、自覚や表出できないので「記憶(自体)が全くない」と感じておられるのではないかなぁ
ということも感じました。

と、いうのは・・・感情が平坦なときには想い出せないことが、ものすごく腹が立った、爆発的におもしろかったなどという場面で「そういえば、過去もこんな気分のことがあったな」と
、その瞬間の感情の機動につられて過去の「感情的な記憶」が想い出されることは、ASにも定型にもあるのではないかと思うからです。

特に、ASの方は、知識や名称や数字的な記憶は、瞬時に答える方がおられますが、こと感情的な思い出は、なかなか想い出せないというか言葉にならない・・・という印象がありまして。

ですから、タイミングやアプローチの仕方で「無いと判断したメモリーに実はあった」ということも・・・あるのではないかなぁ・・・と思った次第です。


いまいち整理しきれずご無沙汰しておりました、かずきです。

感情は個々の管理下
という感覚は持っているのですが

大切な人が喜んでいたら嬉しい
とか
大切な人が悲しんでいたら悲しい
というもの持ち合わせている私です。

私の場合という限定条件ですが、
それは共感の類ではなくて

「この人が喜んでいる」という事実に「自分が喜んだ」だけで
イコールではないんです。
「相手が喜んでいる」事は、その様子や原因などが相手の分析ファイルに入るだけで
「自分が喜んだ」事も、自分の分析ファイルに入るだけで
そこにつながりはないんです。
ただ、そこで「自分が喜んだ」事を表現してしまうと
トラブルが多く起こってきた経験から
「自分の感情をアピールすること」=「余計なトラブルを招きやすい」
という意識が強いです。

「皆」とズレが判明すればここぞとばかりに叩かれる世の中ですから
「調子に乗らない」とか「思い上がらない」とか
「弱みになること(この場合感情の表現)を控える」とか
相手を心配していればしているほど、強く求めてしまう傾向があると思います。

「~して、何がしたいの?」
「それを伝えてどうして欲しいの?」
という疑問は私の場合
「~は弱みになり易いけど、自覚してるの?」
に近い感覚で聞きます。
相手に攻撃の隙を与えている事に気付いていない様子なので。

それに「一緒に喜んで欲しくて」と答えてくれれば、共感して欲しいんだと分かりますが
大抵の場合、機嫌を損ねてしまいます。
そんなことで機嫌が悪くなるくらいなら大して喜んでないのではないかと思うのですが
どうも違うのですよね?

なぜ、「共感して欲しい」と素直に伝えないのでしょう?
共感して欲しいと伝えてないのに答えてもらえないと怒るのでしょう?

言わなければ伝わらないのに感情や思いを伝えずに
相手に察することを強要する
相手が察せなければ相手を責める

これが当たり前となっている異常さに皆が気付くべきでは?と考えています。


と、ずっと考えていますが、考えることに疲れてきました。
何をどう考えていけば建設的に定型との関係を保っていけるのか
日々会話がなくなっていく家で一人考えています。

トマトさん

 言葉にならない感情的な記憶、というのはきっとあるんですよね。
 私もそう思います。

 そう言えば、前アスペの問題を取り上げていたテレビで、
 アスペの方はフラッシュバック(衝撃的な体験をありありと思い出してしまう)が
 多い、という話をやっていたように思います。

 ということは、やっぱり感情的な記憶はちゃんとあって、
 でもそれは言葉にならない形でそのまま記憶されていて、
 だから意識して「検索」するようなことはむつかしく、
 フラッシュバックのように「勝手によみがえってくる」のかもしれません。

 そんなふうに整理してみると、ちょっと分かりやすい感じがしました。

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