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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月 9日 (火)

共感の理解のズレ

 このところ、次々と何時にもまして、とても大事な刺激的ご意見をコメントしていただいていますが、もしかするとかずきさんのコメントについて少し考えてみると、アスペと定型の感情についての理解のズレがもう少し分かりやすくなるかも知れないと感じました。ちょっと試みてみたいと思います。「 」内はいずれもかずきさんのコメントです。

「感情は個々の管理下という感覚は持っているのですが大切な人が喜んでいたら嬉しいとか大切な人が悲しんでいたら悲しいというもの持ち合わせている私です。」

 ここは私のパートナーもそうだと思います。ただ、私の印象では私が落ち込むと、「彼女が」落ち込んでしまう、という感じではあります。いずれにせよ、後で書くことについて、この「嬉しい」という状態が一緒になる、ということは大事なポイントとして考えたいと思います。

「私の場合という限定条件ですが、それは共感の類ではなくて「この人が喜んでいる」という事実に「自分が喜んだ」だけでイコールではないんです。」

 やはりそうなんですね。私のパートナーについても同じ感じで理解すると分かりやすい感じがしています。

「「相手が喜んでいる」事は、その様子や原因などが相手の分析ファイルに入るだけで「自分が喜んだ」事も、自分の分析ファイルに入るだけでそこにつながりはないんです。」

 ここがすごくポイントになるような気がするんです。
 だいぶ前にも少し書いたことがあったような気がしますが、「共感」した感情は一体誰のものなのか、ということについて、こんな(たとえ話による)説明の仕方を読んだことがあって、私はとても納得しましたが、みなさんはどうでしょうか?まずはたとえ話に入る前に、「感情」というのを身体の仕組みで考えるとどういう話になるかをちょっと考えてみます。

 感情というのもドライに見てしまえば、脳やホルモンや、それに影響された身体のある状態ということになると思うのですが(怒りはアドレナリン、とか、なんか昔習いましたよね)、脳の感情にかかわる場所が自分の身体のその動きを一応コントロールしていることになると思います。

 それで、これも理屈っぽく書くと、脳の活動というのは沢山の絡まりつながりあった神経が興奮することで、その興奮というのは、それぞれの神経がばらばらに勝手にするわけじゃなくて、つながりあった神経がまとまりをもって、なんだか複雑なリズムを持って起こるんですよね。

 つまり、感情というものをドライに見れば、そういう脳の神経のまとまりが、なんかのリズムを持って活動し、それに応じてホルモンが出たり、身体の状態(興奮とか鎮静とか、それに応じた身体の動きとか)が起こることだ、というふうに、まあ見ることができるんだと思います。

 さて、ここで「相手が喜んでいることが分かる」というのは、なんでかというと、かずきさんの例で言えば、「相手が<うれしそうだ>」ということを見たからだと思うんですが、そのとき、(「相手のうれしい心」がテレパシーのように直接伝わるという魔法のような話はなしにして考えれば)、かずきさんが「相手が喜んでいることが分かる」のは、理屈から言って、実はかずきさん自身の「脳」が相手の姿や表現に影響されて「喜び」を感じ、そしてそのことを「相手が喜んでいる」こととして理解し、感じているという状態になるからだという説明になると思います。

 ちょっとわかりにくいかも知れないので、もう少し言葉を足して説明してみます。

 もしかずきさん自身が「(相手の)喜びの感覚」を自分の脳を使って(例の複雑なリズムとして)感じられなければ、相手の喜びと、自分の喜びが、同じ「喜び」という共通の言葉で表せるものということに気がつくことも無理でしょう。

 たとえば猿が「笑っている」表情というのがありますけど、少なくとも猿と親しいおつきあいのない私の場合、その表情を見て「猿が喜んでいるなあ」とかなんとか、その猿の感情を感じられることはないし、自分が嬉しい気持ちになることもありません。猿の「笑い」を見ても、私自身の脳に「喜びの感覚」が生まれないからです。飼い犬との関係のように、親しくなればそういう感覚が生まれていくこともあると思いますが、人間同士の場合それがほんとに赤ん坊の頃から自然に起こるわけです。

 理屈から言っても、「喜び」の感覚を「自分の脳で」感じ取ることと、「相手の喜びの表情」を「目で」見ることは、別のことです。いくら相手の「喜びの表情」を目で見ても、自分の脳(の一部)が「喜びの状態」になっていかなければ、意味の分からない猿の笑いを見るのと同じ事です。そうではなくて、相手の「表情」を見て、何らかの意味で「相手の感覚」を「(脳を使って)自分の中で」想像したりして再現できるから、自分自身の喜びの感覚を手がかりにして、「ああ、これは喜びの感覚だね」と分かるわけです。それは相手の表情が無意識のうちに影響して、相手の喜びを自分の脳を使って感じている、とでも言える状態で、自分の感情と相手の感情がなんだかごちゃごちゃに混じったような状態とも言えると思います。

 ただし、かずきさんの場合、そこですぐに「この喜びの感覚は、相手の人のもので、自分のものではない」という形でそれぞれの「ファイル」に感情の体験者と原因を入れて、それで相手と自分をはっきりわけた形で理解が安定されるのだと思います。理性的に考えれば、私と相手とは別の人間な訳ですし、身体も、脳も別のものを持っているわけですから、そんなふうにはっきり分けて考える、という理解の仕方も私も分からないではありません。


 ただしそこでその理解の仕方のもう一歩先を考えてみたいんです。先に書いたある「(たとえ話による)説明の仕方」というのがここで活躍することになります。で、まずここで仮に二つのピアノがあるとします。

 ピアノというのはご存じの通り、弦をハンマーで叩いてリズムを持って振動させ、その振動が空気を振るわせて、私たちの耳に伝わって音楽が聞こえる、という仕組みになっています。で、このとき、二つピアノが並んでいると面白いことが起こります。というのは、例えばAのピアノの弦を叩くと、同じ高さのBのピアノの弦も同じようなリズムで振動するんです。こういうのは「共振」という言葉で理科でもならったような気がしますが。

 そうすると、Aのピアノからドならドの音が出ますが、そのドの音(空気の振動)に共振したBのピアノからもドの音が出てくる状態になります。

 さて、この状態の時、果たしてドの音を鳴らしているのはAでしょうかBでしょうか。

 上にも書いたように、やぱり「AもBも」が正解で、Aだけではないし、Bだけでもないし、しかもAからBに伝わった振動は、今度はBのピアノの弦から音が出ることで、またAに逆に伝わってきてAの振動に力を与えますから、それぞれの振動は別々に起こっているものではない、ということになります。つまり「共振」状態になっているわけです。

 これがさっきの感情の話と同じ理屈になっていることはおわかりいただけるでしょうか。(あるいは何か誤魔化しを感じられるでしょうか?)何故同じかというと、どちらも「振動(リズム)が相手に伝わって、同じような振動(リズム)を相手にも引き起こす」ということで、「ほぼ同じような状態が共有された状況が生まれる」という点で、全く理屈が同じなのです。

 もしこの話に納得していただけるとすれば、「相手の人が喜んで、自分も嬉しい」という状態は、「相手も自分も」両方共が嬉しい状態だと言うことになりますし、その意味で感情の面で「共振」とも言えるようなことが起こっているのだと考えられることになります。

 もちろん、ピアノにもそれぞれ癖があって、同じドの音を出しても、音質とか微妙に異なったりはしますから、AとBを区別することも可能です。でも「同じドの音を、お互いに影響し合って出している」という点ではAとBにはっきりと線を引いて区別することが出来ず、AとBが一体となって音を出しているような状態と言えます。

 同じ事で相手の人と自分とでは、ピアノよりはるかに複雑なしくみで成り立っている脳のことですから、それぞれの個性がすごくあって、「喜ぶ」ことにもその人の個性が色濃く表れることは間違いありませんし、その限りでは二人を区別することは出来るのですけれど、「相手が喜ぶのを感じて自分が嬉しくなる。」そして「そのように相手の人が自分のことを喜んでくれているのを感じて、自分の喜びがさらに大きくなる」といったような、お互いに影響し合ってなりたつ「共振」のようなことが起こっている場合、「おなじように喜ぶ状態になっている」という意味では、二人を区別することが出来なくなるのです。

 この状態を定型は普通「共感」という言葉で表しています。そして今説明したような仕組みにもし納得していただけるのであれば、アスペの方も「相手が喜んでいるのを見て嬉しい」と感じたその時点で、まさに定型の言う「共感」ということが生じていることになります。そこは定型もアスペも基本は同じだと考えられる。

 違うのは、そのあと、アスペの方は「しかしこの喜びは私のもので、あの喜びは相手のもの」という風にお互いの違いの部分をとても重視されるという点だと思います。そのためにかずきさんが言われるように「共感ではない」という理解の仕方がなされることになるのでしょう。

 ではなぜ定型とアスペと、基本の所で共通するものを持っていると考えられるのに(強弱はあるかも知れません)、そのことについての理解の仕方、表現の仕方、感じ方がこんなに大きく異なっていくのでしょうか?

 そこでひとつ大事な問題が、かずきさんの次の文に表されていると思うのです。

 「ただ、そこで「自分が喜んだ」事を表現してしまうとトラブルが多く起こってきた経験から「自分の感情をアピールすること」=「余計なトラブルを招きやすい」という意識が強いです。「皆」とズレが判明すればここぞとばかりに叩かれる世の中ですから「調子に乗らない」とか「思い上がらない」とか「弱みになること(この場合感情の表現)を控える」とか相手を心配していればしているほど、強く求めてしまう傾向があると思います。」

 定型とアスペで、生まれながらに脳の働かせ方の違いがある程度ある、という可能性はもちろんあります(ただし、大人の脳でその働きの違いが見つかったとしても、それは生まれつきなのか、育つ過程でつくられたものなのか、どっちもありうるし、また両方が複雑にからんでいる可能性もあるし、簡単に決められることではないと私は思っています)。でもここでかずきさんが強調されていることは、生まれつきの問題と言うより、これまでの人生経験の中で共感される体験が少なく、むしろ否定される体験を繰り返してきたことで、感情の表現をしないようになっていった、ということですよね。

 なぜ共感される体験が少なくなるのか、ということはまた別に考える必要がありますが、とにかく「共感」ということはアスペであれ定型であれ、たとえ強弱などには違いはあるかもしれなくても、仕組みとしてはどっちも持っているにも係わらず、アスペの方は「共感は成り立たない」という体験がベースになって、そのことを前提に相手との関係の取り方を考えるようになっていく。それが安定してくると、「そもそも共感なんて幻想に過ぎない」という理解の仕方も強まっていくことになります。

 逆に定型の場合は「共感」が成功する場合が多いですから、そちらを強調してより「共感を求める」方向で自分の生き方を作り上げていく。当然「共感」を作り上げるいろいろなテクニックも自然に上手になっていくことでしょう。そしてその「共感」に支えられて生きる生き方を身につけていき、「共感」を得られないことに不幸を感じるようになっていく。

 そういうふうに感情の表現がもたらす結果について、すごく異なる体験を持ち、異なる感覚を育てているので、定型のやり方を見ると、かずきさんはたとえばこんな風に感じられるわけです。

 「 「~して、何がしたいの?」「それを伝えてどうして欲しいの?」という疑問は私の場合「~は弱みになり易いけど、自覚してるの?」に近い感覚で聞きます。相手に攻撃の隙を与えている事に気付いていない様子なので。」

 実際は定型同士の関係では「~は弱みになりやすい」ことはなくて、むしろお互いの関係を深める上で「強み」になることが多いのですが、定型とアスペの関係では少数派のアスペの方にとってそこが「弱み」と感じさせられるような状況を生きていらっしゃるのだ、ということだと思えます。だから「相手に攻撃の隙を与えていることに気づいていない」のではなくて、定型的にはそれは「絆をつくる手段」として無意識に、自然にやることなのですが、かずきさんにはご自分の体験から、そうは感じられないのですよね。それもまたかずきさんの経験を踏まえて考えれば、当然のことに思えます。私のパートナーも同じような感じだと思います。

  「それに「一緒に喜んで欲しくて」と答えてくれれば、共感して欲しいんだと分かりますが大抵の場合、機嫌を損ねてしまいます。そんなことで機嫌が悪くなるくらいなら大して喜んでないのではないかと思うのですがどうも違うのですよね?」

 そうなんです。この「どうも違うのですよね」と感じて下さったことはとても大きな事だと思います。どう違うのかを上に長々と説明をしてみましたが、はたしてうまく理解が共有されるでしょうか?パートナーにはしばしば「あんたの話はくどくどしくてわかりにくい」と言われるので、ちょっと自信がないのですが (^ ^;)ゞ

「なぜ、「共感して欲しい」と素直に伝えないのでしょう?共感して欲しいと伝えてないのに答えてもらえないと怒るのでしょう?」

 これは定型の側が、そのこと(「共感して欲しい」)を言う必要がある、という考え方が全然なくて、「言わなくても当然そういうことは相手に伝わっている」と思いこんでいるからそうなるんだと思います。そのことは定型にとってはあまりに当たり前のことに感じられるので、その「定型にとっての」当たり前に反する応答をされると、全く予想外のことでびっくりしてしまい、「なんでこんなに当たり前のことをしてくれないんだ!」と怒りだしてしまうのだと思います。これは「相手の人も同じ感じ方を当然に共有している」という思いこみの結果ですよね。そこに違いがあるんだ、と知っていれば、すこしは変わるはずなのに。

 「言わなければ伝わらないのに感情や思いを伝えずに相手に察することを強要する相手が察せなければ相手を責めるこれが当たり前となっている異常さに皆が気付くべきでは?と考えています。」

 定型にとっては、多数派の中で自分のやり方はうまく行くことが多いので、それで全然問題ないんだと頭から思いこんでしまっていると思います。だから、「それ以外のやり方がある」と気づくのはほんとうに難しいことなんですね。私もカナータイプの自閉の子との付き合いは結構あったにも係わらず、パートナーのアスペの問題についてはそういう理解にたどり着くのにものすごい時間がかかってしまいました。そのくらい、難しい問題だったんだと思います。こうやって、すこしずつ対話の中で見えてくるものが蓄積されていけば、もっと早く気づくきっかけも出てくると思いますけれどね。

「と、ずっと考えていますが、考えることに疲れてきました。何をどう考えていけば建設的に定型との関係を保っていけるのか日々会話がなくなっていく家で一人考えています。」

 あくまでうちの経験ですけれど、やっぱり彼女がアスペだと言うことを自分で理解して、私に話してくれて、アスペと定型のコミュニケーションのズレの問題としてこれまでの二人の様々な葛藤をもう一度理解し直して、次の新しい関係を一緒に模索していこう、という気持ちにお互いになったこと、その上で会話を成り立たせるにはどうしたらいいのか、というような基本的なことから始めて、ほんとに手探りで進んできたことにはそれなりの意味があったように感じています。ですから、「一人で考える」ことにはどうしても限界があるし、疲れてしまうのも無理ないという面があるように思いました。

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コメント

トマトです。

そうですね。定型にとって「共感」は、人と人を結ぶに不可欠なもので、温かく、ありがたく、安心や喜びや救いになっているもの・・・それ以前に「共感」なくしては会話も進まず、つまりは社会の構築の一歩でもあるものなので
ASの人から唐突に否定的なものとして表現されると、驚き過ぎて混乱してしまうのですね。

それに対して・・・現実に「共感」に対して苦痛を感じる事が多く、マイナスイメージしか持たない人も存在する。

でもね、「共感が苦痛、共感は不確かで自分勝手な錯覚」という感覚を理解しようとすればするほど、定型は頭脳だけではなく、自分の中の共感力を駆使していると感じます。

ASの人が、定型特有の感情や心理を理解しようとするとき、懸命に分析力や洞察力を駆使して理論だてて、自分の中に落とし込むように。

定型のサガとして、どんな相手にも動物に対しても・・・理解しようとしたら共感がくっついてくる。共感から、親しみや愛情が深まって来る。
そういうシステムになっていると思います。

ですから定型にとっては「共感」を否定されると、コミュニケーションの命綱を断ち切られるようなものだと感じます。


トマトさん

 「それ以前に「共感」なくしては会話も進まず、つまりは社会の構築の一歩でもあるものなので」

 ここ、すごく大きなポイントですよね。定型の「共感」は定型が社会を作るときの接着剤みたいなものというか、あるいは「共感の仕方」は社会の設計図を含んでいるというか、そういうものだと感じています。だからそういう接着剤や設計図で作られた社会の中では、アスペの方は苦労する。その社会に参加しづらくて、はじかれてしまうんだと思います。

 「「共感が苦痛、共感は不確かで自分勝手な錯覚」という感覚を理解しようとすればするほど、定型は頭脳だけではなく、自分の中の共感力を駆使していると感じます。」

 カナータイプの自閉の子の場合かなり難しいんだけど、アスペの方の場合、このブログでやってるみたいに言葉でやりとりしたり、ということはすごくできる。もちろんそこに思わぬ「誤解」が入り込むことはよくあるとしても、議論が出来て、ある程度お互いの理解を広げていける、と言うこと自体、考えてみればすごいことだよなと思ったりするんです。

 で、なんでそんなすごいことが出来るんだろう?と考えてみたときに、たとえば同じことばを使って同じものをイメージできる(たとえば「お茶碗」という言葉で大体似たものをイメージできる)、という基本的なレベルで言えば、共感というのか、共有と言うべきなのか、そういう力は絶対にあるわけですよね。そしてさらに「相手の感情を読み取れる」ということもあるわけですから、そこには記事に書いたような意味での基本的な「共感」の力は共有されていると思うんです。このへんは「共感的に理解する」というよりも、なんか理屈で言えばそういうことでしょう?みたいな感じですが……(^ ^;)ゞ

 少なくともその辺りまでは共有されていながら、どうしてその後すごいズレが生まれてしまうんだろう、とかいうことについて、さらに考えてみたいなあと感じています。その辺までズレのしくみが分かってくると、なんか新しい工夫とか、新しい気持ちの持ち方とかが出てきたりしないだろうかと、ちょっと期待もしてるんですね。さて、どうなることやら、ですけど…… (^o^)

「共感」は社会を形作る構成要素であり、本能の一面ではあると思いますが、ちょっと「共感」にもたれかかりすぎではないですか?
僕が『「共感」にもたれかかりすぎでは?』とまで言うのはなぜかというと、もっとライトな、というか共感をそんなに押し付けてこない人が5割くらいはいる気がするのです。
そして、重く押し付けてくる人が時々いる。淡い予想ですが、共感の重い人と、共感の薄い人(AS系)の両方と上手くやっている多数派がいるんじゃないですか?
「共感社会」と「日本社会」とは、ニアリーイコールなのかもしれませんが・・・そういった社会がはじき出しているのは、ASだけでなく、多数派から外れたあらゆる人々ですよ。

「共感が苦痛」というよりも、「共感の押しつけられ感」が苦痛ですね。
「私に共感しなさい&あなたに共感している私を受け入れなさい&みんなと共感しあっている私を認めなさい」という。

共感の仕組みとしては、他人の気持ちを「理解できる・理解した」と「認識してしまう」ことなのではないでしょうか。そこは認識論であるのに「理解」という言葉で表現してくるから、「そんな精緻な脳機能を持つ人間がいてたまるか!僕に共感はない!」という反発が生まれるわけです。
ここまで考えて、自分は「自分の知っている字義でしか理解していないのかも」という疑問が湧きました。定型の人が「他人の気持ちを理解する」という文章に使う「理解」は、僕の知っている「理解」とは違った、もっと感情を扱うなりの曖昧さと緩やかさを含んだ意味があるのか?とも思いはじめました。
いかがでしょうか。

玄さんへ、トマトです。

玄さんの「理解」への思い当たり、大正解だと思います。
「共感」も「理解」も、100人居れば100人なりの濃淡や角度があり、グラデーションの幅が広いです。

上の空に近い「うん、うん、そうだね」も、心底強く思う「うんうん、そうだね」も、定型には共感だし理解の範疇です。
(関係性や話題の深刻さにより、共感や理解の期待度や重要度が変ってきますが)

辞書に書かれている文字とその意味を軸に、ふわぁ〜っとひろがっていく「語感」で、定型はやりとりしています。
共感という言葉にも理解という言葉にも、全員一致のレベルを示しているのではなく、個々の受け取り方や感じ方の裁量に任せて「共感」や「理解」という言葉を使っている場合が多いです。

ですから、押し付けているという意識がなく、合いの手みたいに、会話の流れのリズムのひとつとして「ねぇ、そうだよね」「ああ、まぁね」と言っている場合も多いのです。


トマトさん、有難うございます。
そうだとすると、頭の整理に時間が要りそうです。ちょっと画期的。

「定型は他人の気持ちが分かる」というのは、厳密には分かっていないけど、分かった気になっていて、互いにそれでOKなんですね。
で、(安心できなくて?)「分かった気になった部分」や「分かって欲しい部分」をリークしあって、互いに修正を図る。それを「コミュニケーション」と呼ぶ。
集団の中を、グッドニュース・バッドニュースとも滞りなく行き渡らせるために、常日頃から
情報交換ルートのメンテナンスを怠らない。これが「雑談」の目的か。


「あいまいな概念をそのまま扱う」か「把握できる部分を積み上げる」かという、方針の違いが何かの切っ掛けで発生して、ずっと突き進んだ、のかなぁ?

玄さん、定型にもすごく解りやすく納得しやすく、コミュニケーションや雑談を語って下さいましたね。さすが! すご〜い!!!!

丁寧なコメントありがとうございます。

一点、
「「相手が喜んでいることが分かる」のは、理屈から言って、実はかずきさん自身の「脳」が相手の姿や表現に影響されて「喜び」を感じ、そしてそのことを「相手が喜んでいる」こととして理解し、感じているという状態になるから」
という部分なのですが

自覚的には
相手の言動を見てから

過去から現在までの相手の感情や表情の情報(データベース)と照らし合わせ、「この表情や仕草は喜んでいる時の確率が高い」という予想が出る。
そこで始めて
「今相手は嬉しい『かもしれない』」
となるわけで

例えば初対面などの、データベースの乏しい相手だと
「今まで関わってきた人の多くはこういう表情、所作の場合は『喜んでいるかもしれない』がこの人はどうだろう?」
というところで止まるのです。
そこで相手の言動から決定的な何か
「嬉しいことがあった」などの言葉があれば、

「この人のこの表情、所作は嬉しいことがあったとき」とデータベースに登録され、それが次回から役立つわけです。


その時に、自分の喜んでいる感覚に引き合わせて感じる、といった事は無意識下では分かりませんが、自覚としては無いのです。
あくまでも、相手のものさしで相手の感情を量っているので、基準となるものが違う所に自分のものさしは置けません。
自分のものさしで考えたら、その表現は大して嬉しくない時かもしれませんし、その理由では喜びもしないかもしれません。
でも目の前の相手は喜んでいるのです。


猿や犬やアシカの「笑顔」に関しても、
「目尻が下がり、口角が上がり、それを維持していて・・・etc」だから「笑顔」に見える
と分析・判断しているだけで
この例えを利用すると、
「笑顔に見える」事が多くの場合「喜び」に関係するかもしれない、と知っているから
「笑顔」はほぼイコールで「喜び」と受け取れるわけです。

これが出来るようになる為に
「こんな時どんな顔したらいいのか分からない」
「笑ったらいいと思う」
・・・という分かりやすい会話ではないですが、
幼い頃から
「嬉しいなら笑って『ありがとう』といいなさい」
とか
「悲しかったら泣いて良いんだよ」等々
礼儀や作法、常識として
不適切な表情や発言の修正と、『正解』をおしえてこられたわけです。


きっと幼い頃の私にそれを教える人が居なければ
私は自分が感じている感情がどの言葉にあてはまるのか、
それをどう表現すれば他人に正しく伝わるのか、
未だに知らなかったと思います。


それを踏まえてピアノの例えなどを見ていくと
「正確に調律されていること」が前提ですよね。
「それがドの弦」という共通認識(共振適応可能な弦)があって始めて発生する現象です。

なので納得、というのも
そもそもが違うんだなー、という逆の方向ですっきり納得した感じです。

現在4歳の自閉症傾向のある息子の
「いやなきもち」が
不満なのか怒りなのか不安なのか
はたまた恥ずかしさなのか喜びなのか
察せる私と、察せない夫の違いもここにあるのかな、と思いました。

トマトさんと玄さんのやり取りを読んでいると、

相手の状況を「知った」
相手の状況を「分かった」
相手の状況を「理解した」

この境界線がものすごく曖昧過ぎる為に(むしろ一緒くた?)
「知った」段階で「そうだよねー」など言えてしまう

という事でしょうか。

「相手がこうだと知った、同意できる部分もあるが全体が理解できたわけではない」
この状況でも
「そうだよねー、わかるー」
と言えてしまう。
ということは
「私はあなたの事分かっているのよ、私は貴方の理解者なのよ」アピールでもなんでもなく、
「はい」とか「ええ」とか「そうですか」
と同レベルの
「話を聞いてますよ」「続きを話して下さい」という「返事」の一環でしかないということ?

いくら親しくても他人を「理解」する事は不可能だと思っている私は
「私にはわかるわ」と理解者発言をしている人でも全く理解していない無責任な人間や発事に憤りを感じていて
だからこそ私自身は簡単に「わかる」と他人に言えないのですが

上記のように考えて
「私は理解者よ」という人であっても「私は知ったわよ」としか言っていない
と解釈(自動翻訳)すれば、裏切られてダメージを受ける事も無くなるかも知れない。
逆に考えると誰も信じなくなるわけですから諸刃ですが・・・
ちょっと衝撃的で混乱中です。

で、玄さんの表現を借りると
今後も情報のGIVE&TAKEを続ける為に、
「私達は会話を続けられる関係」という確認の為に雑談をする。
その中で情報入手ルートを強化したい場合に私には誇張にも思える「共感フレーズ」を多様する
という事でしょうか。

かずきさんへ

・・・・まぁ、なんせ、定型は身構えてないし、言葉の意味を精査しながら日常会話していることも少ないので、本当に無意識に、まばたきくらい無意識に「共感フレーズ」を言っちゃってることも多いと思います。

「私はあなたの理解者よ」という言葉は、「すでに100%理解できてます」という意味ではなく「これからも理解しようとするし、あなたを肯定的に受け入れようとする者よ」という、スタンスや
「もっとリラックスして」「もっと信頼して欲しいな」という気持ちを
伝える言葉としても用いられます。

「私はあなたの理解者よ」と言わなければならない場面を想像すると、相手が自分に向って不信感や敵意や苦手感や緊張感のオーラを放っているときでしょうか。

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