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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月20日 (土)

二つの人生観

 

新月さんが相手の方について

 「私が先に感想を言うことを求めます。その結果「おおむね同じ感想」を持つことに驚くようです(一緒にいると何となく解る…)」

 と述べられています。それは玄さんの「違っているのが前提で「同じ感想に行き着いた時」に、驚きと喜びがある感じです」という言葉に触発されて書かれたコメントの中でのことですが、新月さんの相手の方と、玄さんと、とても似た感じ方がされているわけですよね。

 これはもしかすると「定型的<共感>手法」によるものなのか、あるいはアスペの方にも共有されるやり方なのか、まだ私自身はよく分かりませんけれど、そんなふうに書かれるお二人(玄さんと新月さんの相手の方)の視点にできるだけ身を寄せてみると、本当に自分とは違う世界の見え方がそこにある、という感じが実感としてしてきます。

 「相手が自分と違う感じ方や考え方を持っている」ということを「理解できる」というのは定型でもできることです。でも定型が「同じ」ということがわかって「驚く」ことができるかというと、そうなるのは「てっきり<この人>は全く違う人だと信じていた」のに「同じ」だったから「驚く」という場合に限られるでしょう。アスペの方(玄さんと新月さんの相手の方)はそうではなくて、「違う」ことがあたりまえだから、「同じ」だと「驚く」という感じですよね。

 素朴な感覚として「他人は違う人で、私には分からない」ということが出発点にある人の作り上げる人生観と、「(違いもあるけど)基本的には通じ合うことが前提」という出発点を持つ人の作り上げる人生観と、その二つの人生観は随分違ったものになるだろう、ということは想像できます。具体的に細かくどこがどう違う、ということまでは分からなくても、とにかく相当違った人生観が作られるだろう、ということは分かる感じがします。

 なんか今私がもっと理解していきたいと感じていることの一つは、そういう「人生観」の違いについて、もっと詳しい違いとか、あるいはどうやってその異なる人生観が作られていくのかと言うことのようです。

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コメント

ごめんなさい、連投トマトです。

パンダさんの「違うことに驚く」「同じことに驚く」という内容で想い出したことがあります。

故人となったAS男性友人が、とても恋い焦がれた女性が居て・・でもコミュニケーションのズレに耐えられなくなった女性から「しばらく距離を持ちましょう」と言われたことがありました。
3ヶ月ほど会えない期間を過ごしたでしょうか。
両者の友人であった私は、お節介心で、女性に「せめて2週間後のクリスマスイブにはお茶くらい一緒にしてあげたら」と再会を勧めました。答えはYES。

AS友人は、指折り数えるという感じでクリスマスイブを待ちました。
そしてその間、彼女に渡すプレゼント探しに熱中しました。
彼はどうしても、映画のワンシーンに出て来たスノーボール(プラスチックの透明な球の中に街や家やサンタクロースのミニチュアが置かれ、ひっくり返すと金銀や白い粉のようなものが降り注ぐ)でないといけないと、こだわりました。

ありそうでないスノーボール。
彼は、連日、商店街を歩いたり、私の車で郊外のショップを覗いたりして、やっと小さなスノーボールを見つけました。

そして迎えたクリスマスイブ。
「やぁ、お久しぶりです」長身の彼は、身をかがめるように彼女に微笑みながらテーブルにつき、少しおしゃべりして「つまらないものですが、一応クリスマスプレゼントです」と照れながら小さな包みを彼女に差し出しました。
すると彼女も「私からもプレゼントよ」とリボンのかかった包みを彼に差し出しました。

そして二人が包みを開くと、同じ小さなスノーボール。

彼女も、会えない間、なんとなく彼のことが気がかりで「そういえばクリスマス関連の映画を見て、ストーリーよりスノーボールのことばかり言ってたわ」と彼を想い、お店に行くと、無意識にスノーボールを探して過ごしていらしいのです。

ですから彼女は、2つのスノーボールを見た時「会えない時間、別々の場所で、お互いに同じ思いをしていたのだ」と嬉しさが込み上げ、彼を愛しく感じたそうです。

しかし、AS彼は、お互いの手の中できらめくスノーボールを見た瞬間
「しまったあ! かぶってしまった! なんたる失態! ダサイことになってしまった! しかし、しかし、こんなことってあるんだろうかぁあ!」と、ものすごく驚いたのです。

「同じで嬉しくないの?」と悲しそうに問う彼女。
「かぶってしまったことが嬉しい? どういうこと?」と混乱する彼。

せっかくのクリスマスイブの再会で、また気持ちの距離があらいてしまったという結末でした。

後日、AS友人は「おんなじだと嬉しい・・おんなじだと嬉しい?」と、何か謎解きのようにつぶやいていました。

同じ品が同じ思いを象徴している・・ということは「理論としては解るのですよ、しかし、それが嬉しいというのが、どうも解らないのです」と彼は言っていました。

まぁ・・・彼にしてみたら「かぶっちゃ台無し」が優先されて「同じ・・の意味」に考えが及ばなかったのかもと思います。

今回のテーマや、AS友人のエピソードについても、やはり潜在的に共感ありきがベースになっている人生観と、個々人確立がベースになっている人生観の違いではないかと感じます。


トマトさんのコメントに、いつも反論ぽくて申し訳ないのですが。玄です。

信頼するトマトさんから「クリスマスに女性と会う」というミッションを与えられ、「クリスマスプレゼントはスノーボールを贈る」という場面を演じきることにがミッション・コンプリートだと思い定めたのでしょう。もしかしたら、スノーボールが手に入らなかったらその日は外出しなかったかもしれません。
互いのプレゼントが同じだった時の反応「しまったぁ!」は、大げさでわざとらしかったのでは?痛い・・・

彼には、何事にも「他人と行動が重なったらダサい」という定義があったかも。
(ここでの「行動が同じ」は「感想が同じ」と別物であるという認識が結構大切と思います。)
同じプレゼントがテーブルに並んだ光景に「ダサい」印象を受けたかもしれませんが、なにより「想定外の出来事」が起きたことにショックを受けたのだと思います。

後付けの説明(予想)ですが、彼がスノーボールを個人的に好きならば、既に部屋に飾っていたと思います。(実際にそうだったかもしれません)
今回の場合は、重要なのは「男性が女性にスノーボールを贈る」という「シチェーションの再現」だったと想像します。
プレゼントを渡すことで自分の持ち場は終了しており、贈った後のリアクションは相手が寸劇に乗ってくれるかどうかというだけのことですから、喜ぶかとか嬉しいとかは、関知しないと思います。
思い通りのリアクションが得られなかったら、まあ不満ですが不可抗力なので、帰って寝るだけ。

このエピソードは、「一緒がうれしい」という考え方が「ない」から「ある」へパラダイムシフトがなされる場面に立ち会ったということだと思います。
(何日も掛かっているようですが^^)
ペアルックであるとか「お揃い」という言葉とかで例示して、そういう考え方があることを物的証拠を元に説明されたら良かったと思います。


それよりも根本的に、お話からは彼が「人間関係を深めたい」というイメージが読み取れなかったので、トマトさんの思い描く「恋焦がれる」という心理ではないのかもしれませんよ。
そんな彼にとっては、クリスマスデートのセッティングが「人間関係を深める」目的としては認識できず、「プレゼントを渡すセレモニーを再現する場面」という理解だったかもしれません。(ちなみに僕は、「プレゼントを渡すセレモニー」は「気持ちの距離」に関わらず重要と思っています。)

彼が「気持ちの距離」に無関心であれば、「距離があいてしまったという結末」は、失敗にはカウントされないと思います。
彼女さん側も「いつも、リアクションが面白いひと。」という大らかさがある方ならば、「距離があいてしまった」と感じるのはトマトさんだけになりますね。

パンダさん、トマトさん、コメントに対してのご発言ありがとうございます。
まず、玄さんが私の彼と似た考えをお持ちなのかは、私にはわかりません(^_^;)。人の頭の中は覗けないので…。
今、ちょっと思ったんですが、自分の頭の中をずかずかと覗こうとされたり、「あなたはこういう人」って決めつけられることに拒否感がある人もいると私は思います。
私も以前は、そう言うタイプだったかも知れませんが、最近は、「自分から見える私」と「いろいろな他者から見える私」は違っていいのかな、と思うようになってきたので、他者から、その人なりにどうジャッジされても構わないと思えてきました(^^)。「自分から見える私」は「他者からこう見られたい私」でもあるのかな、と。
でも、「他者が私をどういう人だと思うか」は私には決められないし(操作出来ない不可侵域)、逆に私が「他者はこういう人だ」と思ったところで、それは本人にとっては的外れだったり、不本意だったりするのかも知れません。(操作してはならない不可侵域)
私は彼に対してだけでなく、他者に対して気をつけるのは、
・「相手を自分の望み通りに変えようとする権利は誰にもない」ということです。
例えば、「私の思い通りに反応してくれないから凹む」のは、私は私のエゴだと思っています。
もちろん、親しい間がらでは、自分の意見や考えは「表明」しますが、「説得」はしないようにしています。
なぜなら、私は自分の考えが変化し、定着してきた遍歴を思い返すと、「人に言われたから」ではなく「自発的に気付いた」ことだけが、身に染みついているな、と思うからです。
きっかけはいろいろあると思いますが(人に言われたとか笑)、自ら変化を望んだ時しか、真の変化は訪れないと考えています。
「自ら望んで」か「言われて致し方なく」ではけっこう違うと思うのですが。
論点ずれてたらすみません。

成育歴と人生観、価値観、についてはいろいろ考えることがあるのですが、また次回に譲りたいと思います。

新月さん

 「「自分から見える私」は「他者からこう見られたい私」でもある」

 というのは、少なくとも定型の場合、その通りだと思いますね。先日も介護の問題で父親と話をしてきましたが、父親は昔から「自分はこういう人間である」という信念を強く持っていて、それを強烈に主張し続けるタイプです。ところが周囲の人たちが父親を見ると、全然その逆のタイプだったりするんです。そして実際の行動も全然父親が主張する信念とは矛盾しています。

 それがあまりに食い違ってしまうものだから、周囲の人が「現実的にこう対処すべき」と考えることが、父親には全く受け入れられず、でも実際の父親の行動は周囲の人が理解するとおりなので、常に混乱が起こり、大変な状況になります。

 そういう例を沢山見てくると、「自分が自分のことを一番よく分かっている」という考え方も「他人にはその人のことは分からない」という考え方も、どちらもその通りとは思えなくなってしまいます。結局それぞれが「見ているところが違う」し、そこにそれぞれの「願い」も入ったりしますから、どれかだけが正しい、ということはないんだろうと思います。どれも一面の真理をついているし、またどれも偏った見方になっている。だからこそ、そういう一面的な見方しか出来ない人同士、コミュニケーションによって色んな面から考えられることが大事なのではないかと思っています。

 そう考えた場合、コミュニケーションは決して一方的に相手を操作することではないし、同時に決して不可侵でもないと思えるんです。問題なく関係がうまく言っているときにはとやかく言う必要はなくても、その状態で苦しみが生まれているとき、やはりお互いに語り合うことが必要で、お互いに変わっていく必要がある。「相手だけを変える」のは「操作」だと思いますが、お互いに変わっていくのは「操作」ではなくて「対話」ではないでしょうか?コメントを拝見してそんなことを感じました。

 「成育歴と人生観、価値観、についてはいろいろ考えることがあるのですが、また次回に譲りたいと思います。」

 これ、とても楽しみにしています (^o^)

パンダさん
>そこにそれぞれの「願い」も入ったりしますから、~
>その状態で苦しみが生まれているとき、~「操作」ではなくて「対話」ではないでしょうか?
なるほど、そう言う捉え方をする人もいるのだなと思いました。
最近よく、「コミュニケーション」とはなんだろう、「愛」とはなんだろう、と言うことについてよく考えます。
「コミュニケーション」も「愛」も、
目に見えて、手にとれるものとして確認と共有をして実感を得たい人と、(具体的な言葉や行動、はっきりわかりやすいもの)
はたからは見えないし、手にもとれないけど、感覚として感じられれば納得する人と、(ニュアンスやフィーリング、はっきりわかりづらい野性的な勘のような…うまく表現出来なくてすみません)
はたまたその狭間な人もいろいろいるんじゃないかなと、思います。(例えば、座標には無限のバリエーションがあるように…)

以前、友人に「あなたにとって愛するってどういうこと?」と聞かれたことがありまして、私は即答できなかったのですが、そのあとゆっくり今の状態を考えて「相手が気のすむまで、したいことが出来て、何の憂いもなく過ごして欲しいってことかな」と思いました。
だから、私は愛するけど、見返りを求めないというか。
最悪、相手が自分以外の人を選んだとしても、相手にとってその方が幸せならそれがいいと言うか…。そうなったとき悲しい自分は確かにいます。でもその時、新しく思ったのが、「私の愛」と「私の傷」は別物だ、ということでした。
「私の愛」は確かにある。けど「傷ついた私」も、私はヨシヨシ)\(-_-)ってしてあげていい、という感じです。
(極端ですしまた私の勝手な暴論とキレイごとです(-o-;)
何言ってるのかわからなかったら本当にごめんなさい^_^;)しかも話がずれまくってますね…
蛇足ですが、私がパンダさんと言説や考え方が似ている、と勝手に感じる、よくいろいろな話をした元同僚がいるのですが、彼女がいつか私のことを、「○○さんは、野生児だから」って言ってたことを今思い出しました。どういう意図かはわかりませんが、私は嬉しかったです(^^)

〉何言ってるのかわからなかったら本当にごめんなさい^_^;)

何度読んでも本当に何が何だか分からない状態です。自分がASだからなのか、読解力が足りないのか。どういう流れでこういうコメントになっているのかさえ読みとれません。「これってもしや自分はこういう人間です。」と自己紹介しているだけなのかなとも感じます。

こういう質問は新月さんに失礼だと思いますが(すみません)、パンダさんやトマトさんには「なるほど。」と合点がいくポイントがあるのでしょうか? もしあるならば噛み砕いて解説して頂けるとありがたいです。面倒なことを言って本当にすみません。

ナナセさん、
いいえ、すみません。ナナセさんの、読解力の問題ではなく、私の文章表現能力のなさと、自己満足でしかない文章だと思います。

パンダさん、
大変すみません。勢いで書き込みしてしまい、かなり論点がずれていますので、スルーしてくださってけっこうです。
どうも、浮いたことばかり書き込みがちなので、しばらくコメントは遠慮させていただきます。いろいろ混ぜかえしてすみません。

ナナセさんへ。 トマトです。

ナナセさんの「新月さんのコメントわから〜ん!」ってコメント、なんだか解るような気がします(←よけいややこしい 笑)

私にとってこのナナセさんのコメントは「喋り言葉」の感覚で伝わってくるんです。
ですから文章として「読む」と、理論的ではないので「何を言いたいの?」ということになるかも。
その人のコメントを読むとき、その人の、ここに書かれてあるだけのささやかなプロフィールを前提にするんですけど、新月さんはASらしき彼に恋してる状態なので、今は「こんな愛」のイメージを持って語っておられるんだなぁ〜・・と感じながら拝読しました。

定型がAS(らしきも含む)の人に出会い、短期間に感性や視野や考え方が広がったり変化したとき「もっと知りたい」「自分の想いを言ってみたい」とASゾーンの誰かとやりとりしたくなる期間って、あると思うんですね。私はそうでしたし、今も継続しています。

で・・ふと定型の素の部分が出ちゃうときも、あるんですよね。

定型が「ふぅ〜ん」で受け流したり「うんうん、わかる(どの程度の理解かは怪しくとも)」と軽く相づちを打ってしまいがちな所、ASの人に「どういう意味ですか?」と聞かれ、本人もほかの亭型も、説明となるとこれまた細かい作業に入り込んでしまうので↑上記のような「大変すみません。勢いで書き込みしてしまい」ということになりがちでねぇ。

ここら辺が「定型のなんとな〜く」を「亭型がなんとな〜く」受けて、なんとなく会話が流れる・・・・というやつです。

新月さん、ナナセさんはシンプルに質問されただけなので、ここで「しばらくコメントは遠慮させていただきます。いろいろ混ぜかえしてすみません。」なんてかしこまると、ナナセさん、びっくりしちゃうかもよ。
質問に対して、謝罪や自粛って、それこそ混乱ですわいね。

私も自己満足的なコメントして、玄さんに突っ込まれるのが内心嬉しくなったりして(M体質になったか!)元気に参加してますから、そんなに恐縮しなくて良いと思いますよ。

ナナセさん (と新月さん)

 ナナセさんからのご質問ですけれど、新月さんご自身が
 「うまく表現できなくてごめんなさい」とか書かれているように、
 まだうまく表現できない「曖昧な思い」を言葉にしてみて、
 それを遣り取りする中で、思いをはっきりさせていこうとされている、
 そんな感じなのかなと思いました。

 私もなんとなく書かれていることの意味がおぼろげながらに
 見えてくるまでに何度も読み直してみたというのが正直なところです。

 「自分でもはっきりとは表現できない思い」を
 手探りで人に語りながら明確にしていこうとする、
 というのを定型はよくやるんだと思います。
 それで私のパートナーも私の「曖昧な話しかけ」に
 「一体何を言いたいの?何て答えて欲しいの?」
 と聞いてくることがときどきあって、私も答えられなくて困るんです (^ ^;)ゞ

 新月さんの書かれたことについてはトマトさんも書かれているように、
 多分、アスペとおぼしき彼との関係で、「愛」を考えられた、
 ということなのかなと想像しました。

 ただし、新月さんの場合、それは相手の人がアスペだから
 書かれたような愛についての理解を持っている、というよりも、
 新月さんにとっての愛というのは誰が相手であっても
 そういうものなんだとおっしゃっているような気がします。
 しかも「暴論」とか「きれい事」と書かれているように、
 ご自身でも「こういう愛の考え方はどこまで貫けるんだろうか?」
 ということについてはもしかすると迷っていらっしゃるのかも知れません。

 コメントの流れについては、これも何度か読んで考えてみましたが、
 私が「対話」の形でのコミュニケーションについて書いたことに対して、
 新月さんは「はっきりと語らないし聞かない」形での
 「自分自身の思い」を大事にする関係が新月さんが今考えている
 「愛」の関係だということを強調されている、
 という流れになっているのかなと想像しました。

 うーんと、この説明もまただいぶん曖昧な気もしますし (^ ^;)ゞ
 私自身も十分理解できずに、勝手に想像で書いていますので、
 新月さんに対しても、ナナセさんに対しても
 ちゃんとしたお答えになっているか、自信がありません (^ ^;)ゞ 
 

トマトさん、パンダさん、

丁寧な解説をありがとうございます。


〉ここら辺が「定型のなんとな〜く」を「亭型がなんとな〜く」受けて、なんとなく会話が流れる・・・・というやつです。

〉「自分でもはっきりとは表現できない思い」を手探りで人に語りながら明確にしていこうとする、というのを定型はよくやるんだと思います。


こういう定型の方の会話法には混乱します。でもお二人の説明で、だから自分の身近な一部の定型の方に私が不信感を抱く一因になるのだなということがよく分かりました。

定型の方は何となく話す → こちらは 何を言っているのかよく分からないので真剣に聞いてそれなりに理解する。

後日また定型の方が同じことについて話す → 言っていることが前回と異なっていて混乱する。

その繰り返しの結果、「言う事がコロコロ変わる信用できない人」という印象を持ってしまうのですね。

女性は恋愛話が好きですね。私も女性なのでどうしでもグループや集団での活動がある時は恋愛話を聞かざるを得ません。で、いつも思うのは愛を声高に語る人ほど変わり身が早いなということですが、これも定型の会話法による認識の違いなんですね。


トマトさんの「自己満足的コメント」の意味、今なら分かる気がします。
整理前の心に浮かんだモノを、「リーク(自己開示)する満足感」&「遮らずに聞いてくれる相手がいる安心感」があるのでしょう。それらが、「雑談」や「コミュニケーション」で定型が期待する満足感なのではありませんか?

この考え方で合っているならば、「発表した意見を、より洗練させるために、反論や注釈を受け付ける」という(僕に日頃ありがちな)スタンスとは随分違います。そういった差が、ナナセさんの「何が何だか」になったのだと思います。
「そういう表現方法もあるんだな」に加えて、「そういう表現方法をするに至る『スタンス』もあるんだな」という発想があれば、ナナセさんにも受け止められるかもしれません。(ASにとって、消化不良のままでよい、というのはパラダイムシフトを要しますが)

パンダさんの言葉を借りれば「遣り取りする中で、思いをはっきりさせていこうと」という、『自分の』意思決定のプロセスに、信頼できる相手を巻き込むシステムととらえていいかもしれませんね。
「意思決定以前のイメージ」を提示している意味合いとしては、「もし本当に主張として発言した場合に、反論や抵抗をされたくない」から探りを入れているような感じだと思います。その段階で「反論や厳しい質問」的な反応が来たと感じて新月さんは謝って引っ込めた。
たぶん、あるべき反応としては(何がなんだか分からなくても)「ふぅ~ん」と言って、新月さんがさらに考えを進めて、さらに発言してくれるのを待つ、という感じなのかもしれません。どうでしょうか。

トマトさんは強い方で、とても有難いです。
トマトさんが、語り合う相手として玄のことを「キツイ反論がくる」人だと理解して下さっている。僕はその役割ならば受け持つことができるので、できる役目を果たしたいと思うのです。
語り合いとは、相手に同意するばかりでなく、時に正し、時に補う場面もあるはずです。僕もトマトさんのコメントに新たな発見をたくさんしていますし、刺激されて考えを深めることも、自分を振り返ることもずいぶんさせてもらいました。
「違うからこそ補い合える」というのは、アスペと定型の付き合い方の理想の一つと思います。有益な突っ込みができるように頑張ります!

新月さん、

トマトさんがおっしゃる通りです。私は質問しただけです。

新月さんがわざわざ「何言ってるのかわからなかったら本当にごめんなさい^_^;)しかも話がずれまくってますね…」と書かれていたので、「そうです。わかりません。」と反応しました。この一文がなければ昨日のコメントは書き込んでいないと思います。

分からない人がいるかもしれないという想定の元に上記の一文を書かれたのではないのですか? 実際分からない人が出てきたら「しばらくコメントは遠慮させていただきます。」という反応は解せないです。


以前新月さんはこのように書かれていました。

〉玄さんの言いたい事を伝えたいから、やむなく筋道を立てているのです。から思い出したのは、「伝えたいこと」が「伝わるため」にはどうすればいいのかな、と言うことです。
伝えたい切なる思いが伝われば「ルート(経緯)」や「ツール(手段)」は何でもいいと思います。
自分の手持ちの三角定規(ツール)が使えないならば、誰かにコンパス貸してm(_ _)mって借りてみたり。玄さんは方々からツールを拾ってくる、あるいは借りてくる方だと思います。
それこそ、相互理解の近道だと思うのですが。いかがでしょうか。


これはとても良い発想だと思いましたが、これもその時感じた「何となく」だっただけなのでしょうか?

玄さん、

〉あるべき反応としては(何がなんだか分からなくても)「ふぅ~ん」と言って、新月さんがさらに考えを進めて、さらに発言してくれるのを待つ、という感じなのかもしれません。どうでしょうか。

待つことはできるかもしれませんが、結論が出ているのかを見極めることは難しそうですね。極端ですが今度は延々と「ふーん」で流してしまいそうです。

玄さんの

「『自分の』意思決定のプロセスに、信頼できる相手を巻き込むシステムととらえていいかもしれませんね。」

 はちょっと感動的です。こういう表現であれば、かなり重要なポイントの理解を共有できるんだな、としみじみ思いました。

 もう少し私の理解を加えると、「信頼できる相手を巻きこむ」ということに加えて、「信頼関係を新たに作ったり、あるいは深めたりする」という意味もあると思います。

「「意思決定以前のイメージ」を提示している意味合いとしては、「もし本当に主張として発言した場合に、反論や抵抗をされたくない」から探りを入れているような感じだと思います。その段階で「反論や厳しい質問」的な反応が来たと感じて新月さんは謝って引っ込めた。」

 なぜ新月さんが引っ込められたのかについては、私の理解を次の記事に書いてみました。今回の新月さんのコメントは、「反論されたくないから探りを入れる」というより、「自分でも曖昧な思いを、遣り取りの中で少しでも理解を深めていきたい」という気持ちの方が中心だったのではないかと(勝手に)想像しています(新月さん、違ってたらごめんなさい (^ ^;)ゞ)。 

 ですから、あまり「議論する」というモードには入りたくなかったのではないでしょうか。「一緒に考える」というモードが新月さんにはあっていたような気がします。もちろん「議論する」というモードだって「一緒に考える」ことになるじゃないか、という理解の仕方もありうると思いますが、そこはもしかすると、丁々発止とやりとりする、ということではなくて、「気持ちを受け止め、理解してもらう」というスタイルの「一緒に考える」モードを暗黙の内に求めていらしたような気がします。これも「定型的な共感的関係」の一種かも知れません。

 これも私の勝手な想像に過ぎませんが、新月さんが今回書かれた問題は、新月さんにとってかなりナイーブな問題で、でも大事に考えていきたい問題で、傷つきやすい問題でもあったのかなという気がします。たとえ話で言うと、蝉とか蟹とか、脱皮するときに、脱皮によって新しい、成長した姿になるわけですけれど、その脱皮の直後って身体は柔らかくて無防備で、一番危険な時ですよね。新月さんもそういう「柔らかい自分」を無防備な形で表現されたので、「議論」というモードは傷つきやすくなるから避けたかったのではないかと、そんな風に感じます。

 このあたりも、お互いの素直な考えや素直な思いを、どうやってうまくコミュニケート出来るのか、工夫が必要なことの一つかも知れません。(ほんと、私の勝手な誤解でしたら申し訳ありません)

玄さんへ トマトです。

【たぶん、あるべき反応としては(何がなんだか分からなくても)「ふぅ~ん」と言って、新月さんがさらに考えを進めて、さらに発言してくれるのを待つ、という感じなのかもしれません。どうでしょうか】
本当にそう。定型的には抵抗無く↑こういう感覚が生じますね。
私も恋愛中には、やたらアフター5に友人を呼び出して、自分の中の興奮や混乱やときめきや不安を聞いてもらってました。いわゆる吐き出し効果というのでしょうか。
そして、友達の恋愛中には、私も聞く側になったりしました。

前の話題に戻りますが
AS友人に関わって、私は「プレゼントの概念」というものを改めて考えましたね。
彼は、一昨年のクリスマスイブに、とにかくスノーボールなるものを好きな女性に贈りたかった。実は、スノーボールが出て来る映画は、私と彼と二人で見たのでした。
エンディングシーンで、クリスマスイブに老夫婦の妻がベッドの上の夫にスノーボールを渡す場面に友人は「シビレた」ようでした。(← 過去に玄さんが使われた表現で私のお気に入り)
見たあと、映画館のロビーに出た途端「ぼくはトマトさんにスノーボールをプレゼントしますよ!」と声高らかにきっぱりと宣言したので、こちらも負けじと「要りません!」と答えました。
彼は、会えなくなった女性をずっと恋しがっていたので、再会のチャンスにここぞとばかりスノーボールをプレゼントしたかったのでしょう。

彼の謎として残ったことは「自分はスノーボールを贈り物に決定した、その理由はスノーボールがプレゼントとして最高のものだと思ったから・・・だから僕がプレゼントにスノーボールを選択するのは当然だけど・・・彼女がスノーボールを選んだ理由が解らない、彼女はスノーボールに関心があるなんて一言も言った事ないし」

それは、あなたへの想いが「あなたの好きな物」を連想させたから・・・という私の説明はなかなか納得できなかったようです。

【彼女さん側も「いつも、リアクションが面白いひと。」という大らかさがある方ならば、「距離があいてしまった」と感じるのはトマトさんだけになりますね。】
だと良かったのですが、彼女には「悲しく寂しいリアクション」になったらしく「久しぶりに会ってお互いのプレゼントが一緒なのに、気持ちは全く交わらないのね」と、またしばらく会わない結果になってしまいました。

「いゃぁ、なんだかトマトさんの好意を無にしてしまったようで、すみませんでしたね」と彼は言いました。
こういうところは、とても気がつくというか察しが良いのに、恋愛となるとなかなか、好きな相手に気持ちが届かないもんだと、私も意外な展開にしょんぼりのクリスマスイブでした。

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