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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月24日 (水)

「素」でいることの迷い

 

ナナセさんからまた問題提起こちらも)を頂きました。

 いくつかのことについて書かれているのですが、とりあえず話を広げすぎないように、ひとつ特に考えさせられたことについてまずは私が考えたことを書いてみたいと思います。

 ポイントと思うのは、ナナセさんが書かれた「実生活では素の自分を出すことはほとんどできないので、ここではそんな鎧を着込みたくはないのですが・・・。」という部分です。

 ここ、すごく重要な問題提起だと思うんですね。というのは個人的なことで言えば、パートナーとの話の中で、二人の関係の中で彼女が「素の自分でいる」ということの大事さと、でも完全に「素」のままだと彼女が意図しないところで私がショックを受けたりすることもあって、それをどうしたらいいのか、ということと、その二つが矛盾してしまって、どう調整したらいいのかをよく考えさせられているからです。

 私自身の理想としては、やっぱりお互いに「素」でいられて、それでお互いの関係がうまくいくことです。家庭という大事な場で、まるで仕事場にいるように「無理に作った自分」を続けなければいけないというのはとても悲しいことだし、もしそれを彼女に対して無理強いするようだと私はとても彼女に悪いことをしている気持ちになります。

 と同時に現実の自分は、彼女の「素」によって傷ついた気持ちになってしまったり、困惑してしまったり、そういうことがやっぱり完全にはなくならなくって、そうなると今度はそういう私の姿を見て、彼女が傷ついたりするんですね。そして「あなたを傷つけるのなら、素を出さない方がいい」ということを言われたりするわけです。

 「素」でいてほしいけど、「素」そのままだと辛さもある、というとても矛盾した状況の中で、一体どうしたらいいんだろう、と迷い、悩みながら今日まできています。今もそのことについてはっきりした答えが見つかっているわけではありません。

 同じように、ナナセさんが「ここではそんな鎧を着込みたくはない」と書いて下さるのは、私はとても嬉しいことなのです。というのは、そこまで「自分を出して語り合ってもいい」場所として、このブログを考えて下さっている訳ですし、それはある種の信頼の証でもあると思えるからです。そんな風にお互いを信頼しながら遣り取りが出来る場は、とても大切だと思います。

 そしてやはり同じように、アスペの方の「素」が、結果として定型にとっては傷つく表現になってしまう場合がある、ということも私には否定できないことで(もちろんお互い様ということも考えるべきですが)、私自身はできれば「素」に近い形でやりとりができればいいとは思っていますが、そういう遣り取りになれていない定型の方が読まれたときに、一方的な誤解が生まれる可能性も十分にあるように思えます。
 これは、ブログという、公開なんだけど、やりとりは結構個人的なやりとりになっていて、そこでの個人同士の関係は親しみや信頼関係がお互いにある場合もあるし、ない場合もあるし、どっちとも決められないような場だから、ということが大きな原因なのでしょうね。

 さて、どうしたらいいのか、「このブログはお互いに出来るだけ素でいられる場にしたい」というようなことを、一種のお約束毎としてホームページに予め明示したらいいのか、それとも仮にお互いに「素」を出すことで、予期しない形で相手の方が傷ついたかも知れないような事態が起こった場合には、その時々に少し調整をする、といったことを心がけたらいいのか、あるいは「素」をそのまま出す場と考えず、「素も」出せるけど、相手に併せた「配慮」も考える、といった感じにしたらいいのか、それとももっと別の工夫があるのか。

 「管理人なんだからおまえが決めろ」と言われるかも知れませんが、すでにこのブログは私の考えだけで成り立っていると言うより、みなさんとのやりとりの場として成り立っていると感じているので、私自身は迷っている状態で、みなさんのご意見も教えていただきたいと思います。(これも玄さん的に言えば定型的に「他人を巻きこむ」方法の一つということになるかも (^ ^;)ゞ)

 忌憚のないご意見をいただければ幸いです。

 ナナセさんのその他の問題提起についてはまたおいおいに……。

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コメント

「素」については、もう少し言葉のニュアンスを確認しながら話を進めた方が、行き違いが鮮明になって、溝を埋めやすくなるのではないでしょうか。

僕の印象では、パンダさんの「素」は、まったく何もまとわない状態というよりは、少しはカバーする物がある気がします。「飾り立てていないが、コントロールはされている状態」と言い換えられるかもしれません。
一方、ASが「素でいいよ」と言われて出すのは、限りなく「地」に近いように思えます。
僕の「地」のイメージは、「コントロールされていない剥き出しの部分」です。

パンダさんは、パートナーさんに「素」でいて欲しいと望まれますが、時に意図せず露わになる「地」にダメージを受けてしまっているような気がします。(僕は、休息モードの時には、「素」を通り越して、周りへの気遣いoffの「地」になっていることが多いです。)
また、「よそ行きの飾り立て」や「鎧の防御」をしていても、肝心なところで自分にも予期せず「地」の反応をしてしまうことが、僕にはあります。

玄さん

 いつもながらまた唸らせられました。
 そうなんですね。「飾り立ててはいないが、コントロールはされている状態」とか、
 まったく「何もまとわない状態と言うよりは、少しはカバーする物がある」とか、
 仰るとおりの感じが私自身しています。

 但し、たしかに先日も親と介護の相談をしていて、腹の立つこともあって、
 そこではぐっと我慢して話をまとまる方向へ進めていく、
 といった場合もありますけれど、そういう「隠す」意味でのカバーとは
 ちょっと違います。

 別になにか無理をしているとか、そういうこととも違っていて、
 なんだかもう素肌自体が人へのなんらかの気遣いと一体に作られている、
 という感じがあって、そこは「脱ごうとしても脱げない」んですね。
 もし脱いだら、素肌が剥がれてしまうような感じになります。
 その意味では「気遣い」を含めて「素」なんだと言えるのかも知れません。

 そのあたり、「素」になるということの意味自体に
 おっしゃるようなズレがあることを意識しながら考える必要がありそうです。

トマトです。

定型は定型同士の「素」による様々な、表現の過不足に寛容です。
ASはAS同士のの「素」による様々な、表現のありかたに寛容な傾向があると感じます。

私は今回、パンダさんの感覚の天秤がナナセさんより新月さんの方に傾いたような印象を持ちました。
いや、感覚というより感情ですね。
それは私が「パンダさんと新月さんはロマンチックな点が似てらっしゃるなぁ」と感じてきたからです。
お二人のやりとりには、お互いの好きな相手を大切にするあまり・・・の「あまり具合」がロマンチストという印象です。
お二人が目の前に居たら私は「おいおいロマンチスト同盟かい?」・・って笑って二人の肩に手をかけるでしょうね。
で・・・パンダさんは無意識のうちに、ナナセさんを語るにもロマンチックな表現になるし、定型の取り違えの例にしても
 「私は質問しただけです。(なのにどうしてそんな余分なことを考えて、不必要な応答をするのですか?あなたはおかしいじゃないですか。)」
と、書かれた。
私個人としては「あなたはおかしいじゃないですか」という文言は、普段の慎重なパンダさんにしては「珍しく責めたな」と感じました。
ですから、ナナセさんの「そこまで言うことないでしょう」的な感情、共感できますよ。

パンダさんの中で、新月さんはパンダさん自身、ナナセさんは奥様、という「語感からくるイメージ」が感応し合っているような気がするんですよねぇ。

私自身、どこまでが「素」なのか明確にふるまうことも書き込む事も出来そうに無いので、今回のパンダさんの提案は、なんか
台所で奥様にちょっと問いつめられて、困ってひねり出した選択みたいな感ぁんじ。

これ忌憚の無い意見。

トマト訂正の巻。

パンダさんは無意識のうちに、ナナセさんを語るにもロマンチックな表現になるし、
               ↓
パンダさんは無意識のうちに、新月さんを語るにもロマンチックな表現になるし、

トマトさん

 ロマンチストパンダです~

 ロマンチックな話、あこがれますね (^ ^;)ゞ
 えっと、冗談はさておき、
 夢と現実についてはこんな感じを持っています。
 現実を見ない夢ははかなく消え去っていく。
 夢のない現実は明日を迎えられず滅びていく。
 現実を通して、夢を作り上げていくこと、
 そんなことができればなと思っています。

 表現はロマンチックなんでしょうかね……(^o^)
 今度パートナーにも聞いてみます。

 「責めた」については、主観的にはそういう意図はありませんでした。
 ほんとに単純に定型にはそう感じる人もいるだろうなあと想像して、
 そのまま書いただけでした。
 もっともナナセさんがお書きになっていたように、
 さんざん定型の流儀を教え込まれる経験を経ていらっしゃるのなら、
 今回の私の記事はナナセさんには釈迦に説法、蛇足だったのかも知れません。
 ただ、他の方には参考になるかもしれないとも思うので、
 まあそれはそれでいいかなと思ったりしています。

 パートナーに責められて、というのは、少なくとも直接にはなかったですが、
 背景にはあったのかな? 私にもよくわかりません。
 ただ、それとは別問題として考えたとしても、
 「お互いの素をどうやって出し合ったらいいのか」については
 やはり考えていく必要のある問題かなと思います。

トマトです。

概念や感覚が違い過ぎて、お互いの素の言動が「誤解」「混乱」「敵意」になってしまうことは
、文化や器質や種族(動物と人の関係にもあります)が違うと当然あるので
コミュニケーションを図る上では
「自分の素」をどう出すか?より「相手の素」をどう受け止めるか
を論じた方が建設的ではないでしょうか?

お互いが素を許さないのであれば
お互いか少しずつ配慮しながらリラックスするしかないのでは?

定型の多くは、ASが頭をフル回転せずに会話できるような話し方をしませんし
ASの多くは、定型語に翻訳せずに話すと相手を傷つける事が多いです。

全くの素になることは、定型とQSにおいてはとても難しいと思います。

ASが素で居るには定型側が発言や不意に飛んでくる刃のような言葉に耐えなければいけませんし
定型が素で居るにはAS側が最大限の定型仕様の言動に切り替えなければいけません。


と、いうか
それ以前に
親しき仲にも礼儀有り、で、他人の前で素になるべきではないと思いますが…

これも素と地の定義の問題ですかね?



定型とQSにおいては


定型とASにおいては

失礼しました

トマトさん

 「コミュニケーションを図る上では「自分の素」をどう出すか?より「相手の素」をどう受け止めるかを論じた方が建設的ではないでしょうか?」

 この問題も重要なポイントだと思います。コミュニケーションの目標をどこに置くか、
 ということにも関係するのかなと思いますが、たとえば「療育」とか「サポート」とか、
 そういう関係の中でうまくコミュニケーションをしていく上では、おっしゃるように、
 「相手の素をどう受け止めるか」が一番大きな問題になるような気がします。

 他方で「カップルとして一緒に生きていく」ということを目標に考えた場合には、
 「お互いにお互いの素をどうやってうまく出せるか」ということが、かなり大きな
 問題になると思うんですね。というのは、「お互いに違いを持った人間が、それ
 を前提に、お互いに努力しあって対等に生きていく」ためには、どちらの「素」も
 どちらの「欲求」も「主張」も、均しく大事になると思えるからです。

 ただ、後者のような考え方は、現実問題としては成り立たない、というような
 前提を立てると、また話は変わってくるでしょうけれど、私としては今のところ
 後者の考え方にこだわって、そこでの可能性を探している感じですね。

 ブログをどういう場として考えたらいいのか、あるいは今までこのブログが
 実際にどういう場として働いてきたのか、ということから実態に合わせて考えてみる、
 ということも大事になるのかも知れません。

かずきさん

 「親しき仲にも礼儀有り、で、他人の前で素になるべきではないと思いますが…」

 これ、なるほど~と思いました。
 ブログという場をどういう場として考えるかによっても意見は変わると思いますが、
 「親しさもある」けど「他人」という理解の仕方は結構説得力ありますね。

 なんかそれはひとつの基準になりそうな気もしてきました。
 同時に時にはほんとに「素」になれる場というものにも
 魅力を感じる私の気持ちもまだなくなってはいないようですけど (^ ^;)ゞ

トマトです。

自分の中の「素」は、相手によって引き出されるとか、自覚させられるようなこともあるのではないでしょうか。
同感や共感を強く感じるコメントには、つい、つられるように自分もコメントを出してしまうとか。
Aさんの率直なコメントにはスルーできるのに、Bさんの率直さには何故か抵抗感がある、などは自分の中の素直な感覚だと思うんですね。

とかく、定型の素は書く時より、実際におしゃべりしているときに出やすいと思います。
少なくとも、私は「読み書きのコミュニケーションの場」で素を出すというのは「書く」と
いう作業が挟まり「感情も書き言葉に直す」ので「どうやれば素を書けるのだろう」という感じです。

トマトさん

 「定型の素は書く時より、実際におしゃべりしているときに出やすいと思います。」

 これはたしかにそう言うところがありそうですね。特に相手の方とある程度
 繋がっていたりするときは。
 逆にネットで炎上したりする場合とかは、あれは<素>なんでしょうか?
 なんか相手に対する配慮なんて何もないですよね。
 ただ相手をやっつけたい、という欲望だけのような感じもします。

 結局定型の場合は「相手の人といい関係を保ちたい」と思うときは
 多少なりとも「配慮」がついてまわって、<素>にはなれないのかも。
 ただ、それが定型にとっては無理していて不自然という感覚ではなくて、
 「コミュニケーション」ってそういうもの、みたいな感覚があるのかもしれないですね。
 だから「定型的なスタイルの配慮」がない言葉については、
 「コミュニケーションを否定する」意図があるように感じてしまう。

 うーん、そういう意味でも「お互いに<素>になる」ってややこしい事なんだな。
 そもそも玄さんが言うようにアスペと定型で<素>の感覚も違うわけだし。

 えっと、この暑さで回らない頭では混乱するばかりみたいです (^ ^;)ゞ


ネットで暴言の応酬炎上などは、コメントの勢いにあおられて、匿名環境をいいことにしてストレス発散、やつあたりをしている人が多いと思います。
素というよりも、たががはずれる、素も良識も見失う瞬間みたいな感じでしょうか。

パンダさんのブログは、日常の悩みや暮らしの中での痛みを、大人の定型と大人のASがやりとりできる場として貴重だと思います。

「どうして伝わらないのか」「なんでこんな表現をされるのか」「じゃあ、やりようがないじゃないですか」そんなことが「素」だと思います。
ということは「素」で押されたりしたときが正念場であり醍醐味であり真実ですね、定型とASのコミュニケーションの。

「素」には、子供のような無邪気な振る舞いをしたい、それを許してほしい、という「甘え」のニュアンスを感じます。
子供が親に甘えるように、子供どうしがじゃれあうように。

カップルの間では、かずきさんの言う「全くの素」というのは、実は求めてられていないのかも。
予想ですが、定型の求めている理想的な「素」の状態は「敬意や労わりや愛情に溢れている」接し方。むしろ純粋にソレだけという気がします。

そうなれればよいのですが、ASが「素」状態になろうとして行き着くのは「自己表現を修飾も抑制もしない」という「手放し運転」状態を意味している気がします。
定型の「素の付き合いがしたい」の意味が「ピュアに労わりや愛情を互いにかわしたい」だとして、ASが「率直に思いついたままを表現、思いつかなければ無言」で応じたら、相当行き違いますね。

トマトさんの指摘されている「炎上」で思ったのですが、僕は「口から出まかせ」と「本心」とは違うと考えています。
「売り言葉に買い言葉」は出まかせのオーバードライブで、言葉のやり取りだけが突き進んだ状態。本心も計画性も無い。それを「素」でひと括りにしていいのでしょうか?僕としては「労わり」系の「素」と一緒にしたくない気分なのですが、労わりの言葉も、もしかして出まかせということ?

なんか「素」の意味のいろんな使い方の整理みたいになって来ていますよね。
実際いろんな意味で使われているわけですね?

でもやっぱり考えてみるとこれも面白い、深い問題があるなあと感じます。
定型で「本音と建て前」みたいに言うときに、本音を「素」と考えると、
それは「相手への配慮をするかどうか」とは別のことのように思えます。
だって、職場でも「お客様への配慮」とかすごい問題になりますよね。
そこでは「建前」が大事になって、「本音」は隠される。
ただ、それはあくまで「給料もらってるから」の話で、
ただで「配慮」している関係ではない。

一方で定型が家庭で「素」でいるということは、
「本音」で話が出来る関係ということを意味しているかも知れません。
ただし、それは「相手に配慮しない」事とは違って、
お金はもらってなくても「この人だから思いやる」みたいな感じ?
「炎上」の場合は「本音」なんだけど、その言い方は「相手への思い遣りがなく、
攻撃的な欲望がつっぱしっている」状態なのかも。

そうすると、「本音」を「どう相手に語るか」という語り方の違いが
定型とアスペの方でなんか違いがあるのかな。

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