2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 素朴な疑問 | トップページ | 二つの人生観 »

2013年7月19日 (金)

アスペの方の傷

 ちょっと留守にしていましたが、その間にいろんな刺激的議論が展開されていて、よかったです。それぞれ書きたいこともありながら、玄さんの「傷」についてやっぱり考えさせられるところが大きくて、今はそれについて書かせていただこうと思います。

 「定型の方は「共感」について、「それがないと生きて行けない」「呼吸をするのと同じ」「重要なこと」「あたりまえ」「普通のこと」とあっさりと表現されます。自分に「共感」が無いと疑っている人にとって、それらの言葉が、どれだけ残酷か。お前達は「生きていないのと同じ」「呼吸していない」「普通じゃない」と、面と向かって存在を全否定されていることが、お分かり頂けるでしょうか。」

 「共感」を定型が「押しつけてくる」という点については、これまでも繰り返し指摘をされ、またパートナーにも昔から言われ続けてきたことで、アスペと定型のズレということを意識するようになってからは、私もそれなりに「たしかにアスペの方からすればそうなるのかなあ」と思えるようにはなっていました。アスペの方が時々指摘されるように、定型(特に日本社会の)は「同じ」であることを強烈に(しかも暗黙の内に)要求する性格が強く、いじめなんかも「人と違う」ということだけでそのきっかけになってしまったりする、ということを考えると、ほんとに生きづらいし問題が多いとも私も感じます。

 そういうマイナス面がありながら、でも同時に定型同士の信頼関係や絆を作る上で、「相手の気持ちを共有する」ということが大きな意味を持っている、という現実もあって、それがない関係は疎遠な関係か、あるいは敵対的な関係と感じられてしまったりするので、一番親しい人であるはずのカップルの間にそこが感じられないと、とても不安になってしまうし、苦しみの元にもなってしまう、というのがどうしようもない「定型的体質」なんですよね。このことも何度も語られてきたことのように思います。

 一方、アスペの方にとっては「一緒に暮らしている」ということそれ自体ですごく大きな意味を持つものだし、相手を超特別待遇していることだし、そうやって一緒に暮らす中でしっかりと現実的な生活の上で助け合いの関係を作っていて、そこに「信頼」だってあるし、多分アスペ的な感覚での「共感」だってある、ということなわけですよね。私はそのことを理解するのにすごく時間がかかりましたけれど、パートナーの言うことなどを見聞きしながら、みなさんのコメントを拝見しながら、「ああ、そういう見方をすれば少し自分にも分かる部分が出てくる」と思えるようになりました。

 そんなふうにカップルの間で「相手を特別の存在と感じる」とか、「信頼を大事に感じる」という点では多分アスペと定型に違いはないのでしょう。ただ「どういうことで特別の存在と感じるか」とか「なにを信頼の証と考えるか」といった点で、お互いはすごく違いがある。そのズレの部分は相当根っこの深い、感覚的な違いに根ざしているみたいだ。というのが、まあ私の最近までの理解だったわけです。

 でも今回の玄さんのコメントを読んで、「定型は<共感>に飢えている→<共感>を否定されて苦しんでいる」VS「アスペは<共感>の押しつけに困っている」という違いを超えて、定型の共感を求める姿勢がアスペの方にはそれ自体が「存在の全否定」にすらなってしまうという指摘をされて、問題のもうひとつの深刻さをすごく感じたんです。

 そのことをこれまで私がまともに理解できていなかった理由は、結局自分が定型という多数派の立場に守られて、その感覚で理解してきたからなんだなあとも思いました。というのは、アスペの方が「共感の押しつけに困る」のは、単に自分の感覚に合わないことを要求されて迷惑を感じる、という話ではなくて、アスペの方が「多数派に従うことを強要されている」というすごく「権力的」とも言える関係がこの世の中では厳然としてあって、「それができないやつは一人前じゃない」という定型的な基準が前提にされてしまっていて、そのことに逆らえない現実があるということなんでしょう。少数派のアスペの方は自分にとって自然な感覚で生きることは許されず、必死で無理をしてでも多数派に合わせて生きていかなければならないという現実の中でずっとすごして来られた。

 そういう大きな圧力が世の中にある中で、私を含め定型から「定型にとって共感は大事」「それがないと生きていけない」、そのくらい「共感がないと言うことはほんとに定型にはつらいことなんだ」という説明をされることが、「存在の全否定」のような意味を持ってしまうことになる。

 例えはあまりうまくありませんが、仮に人間が「普通」手にモグラのような高性能の爪を持っているとして、カップルは土に潜って地下でお互いの愛を感じ、信頼を感じる、というような心の仕組みを持っているとします。そういう爪のない私は地上で愛や信頼を感じていられるし、感じたいのに、相手は地下に潜れなければそれは実現できなくて苦しい、と訴え続けてこられる。でも私は地下に潜れないし、そんな「不自然」なことをしたいとも思わないのに、「爪を持っている普通の人はそうしているから」それに少しでも合わせられるように、一生懸命血まみれで指で土をほじくってみるんだけど、それも「そんなのじゃダメだ」と否定されてしまう。もうどうしようもない状態で、自分を否定的に見るしかなくなってしまう……

 そんなような関係が成り立っちゃっているんじゃないかと思ったんですね。

 私は定型として「(定型的な)共感」が得にくい状態がとても苦しいと感じる側の人間です。でもその苦しさを理解して欲しい、という訴えが、今度はアスペの方の苦しみを生んでいくことにもなる。

 「お互いの違いを理解して、それをお互いに尊重する」ということは大事なことだと思うし、その気持ち自体は今もゆるがないのですが、ところがその「違いを理解してもらう」ということ自体が、たとえば多数派VS少数派みたいなリアルな力関係が生きているところでは、またもうひとつ難しい問題を生む原因にもなってしまうということになります。だとすれば、そういう事にならないような形で、「お互いの違いを理解し、受け止め合う」やり方を、考えていく必要があるんだなあとしみじみ感じたのでした。

 なんか、ほんとに問題は尽きないですね……

 

« 素朴な疑問 | トップページ | 二つの人生観 »

コメント

トマトです。

共感の概念が、定型とASとで違い過ぎるので、
違いも・・・過ぎちゃうと、調整がとれなくなると思うんですね。

私は、AS・定型に関わらず、相手をもっと理解したい、より楽しく関わりたい、信頼関係を作りたいと思ったら、相手への関心はもちろんですがと共感力を使わないと、他に手段がありません。
特に、ASの人には意識的な共感(自分がこの人の立場だったら、どのように感じるだろうと、相手寄りに想像力を集中させる)をしないと、定型の概念から抜け出せないことも多いです。

とはいえ、圧倒的多数の定型の関わり方、定型のじゃれ方が、少数派のASにとっては打撃ということは理解出来ます。

ここは、もう「慣れ」ではないでしょうか?
玄さんのように「共感に目くじら立てず〜」という自己流の受け流し方を身につけられたり
定型も、自分の無意識な言葉がASの人には、どのように受け取られるかは分らない・・くらいの余裕を身につける。
本来は、コミュニケーションのスキルを増やす努力を、ASの人を介して、定型がもっと積極的に身につけるべきなんですけどね。
その手前に、目の前のお互いの特性に、慣れる・馴染むという気持ちと姿勢を持つしか無いと思うのです。


トマトさん

 「ここは、もう「慣れ」ではないでしょうか?」

 慣れることができるって、人間のすごい能力の一つなのかも知れないですね。
 いつの間にか慣れちゃって、気にならなくなっている。
 以前こだわっていたことが、いつの間にかすっと諦められている。
 あるいはどうでもいいことになっている。

 特に「こだわっていたことにこだわりがなくなる」ということについては、
 「こだわらなくてもやっていける自分」とか「お互いの関係」とかが
 そこには新しく生まれているんじゃないかなという気がします。
 「そんなことにこだわらなくても、こうやってもっと大事なものに支えられる」
 みたいな感じがあれば、そうなれるような気がします。

 そう考えてみると、今私がこだわっているかもしれないことは、
 「自分のこだわりは何を求めてのこだわりなんだろうか?
 そのこだわりをもっと深めて理解することで、アスペと定型に
 共通したこだわり(共通点)に行き着けないだろうか」
 ということなのかもしれません。

 こだわりにこだわることで、こだわりを越えられるかどうか、みたいな。

 トマトさんの「慣れ」はきっと何かに支えられて成り立ったような気がします。
 もしその部分が多くの定型の人にも理解できる形で見えてくると、
 もうそれは「アスペと定型」という小さな枠(?)を越えたところで、
 「定型にとってとても大事なもの」として共有される可能性もあるかなと
 そんなことを考えたりもします。なんとなく…… (^ ^;)ゞ 

パンダさん。
>アスペの方が「多数派に従うことを強要されている」というすごく「権力的」とも言える関係がこの世の中では厳然としてあって、「それができないやつは一人前じゃない」という定型的な基準が前提にされてしまっていて、そのことに逆らえない現実があるということなんでしょう。少数派のアスペの方は自分にとって自然な感覚で生きることは許されず、必死で無理をしてでも多数派に合わせて生きていかなければならないという現実の中でずっとすごして来られた。

この上記の部分は
少なくとも自分自身にとって
社会で生きていく自分の『今』の状況そのものを表しています。
あまりに当てはまり「過ぎて」、職場での叱責を思い出しちゃったくらいでした。
(共感してもらえたという感覚、だと思われます(って第三者的ですみません…))
職場以外では人と関わることがほとんどないもので
どうしても仕事関係でのやり取りでの照らし合わせになってしまうのですが(謝)…

「多数派が、結果的にその所属している場のルールを決める」という集団上の『力』がはたらく以上は
少数派は、所属している場を乱さないべきだということをも含めてそのルールを守らざるをえない、さらにその人なりに守ろうとするんだけれどもそこに相手方との差異を埋める作業が加わる。

…そんな風に自分自身なりの言葉で考えることができました。
感謝です、ありがとうございます。


ふとひとつ、考えたのですが…
…夫婦や友人、兄弟などの「一対一」は「ひとりとひとり」なので
集団としての「多数派と少数派」ではないから
集団ならではの『力』ははたらかない、
その点では関係性は築き上げやすい、のではないだろうか…そう感じています。

あおいよる。さん

 ありがとうございます。

 私が誰かのことを理解しようとするとき、
 「自分の見方からするとこう見える」ということと
 「相手の人はこう見ているんじゃないか」ということとの
 区別を大事にしたいと思っています。
 それで、私が相手の人の理解が深まったと思えるのは
 「相手の人はこう見ているんじゃないか」というところまで
 想像力が働くようになったときです。

 ただ、もちろん「相手の人はこう見ているんじゃないか」
 ということも私の見方に過ぎませんから、
 そこで私が大事にしているひとつの基準があります。

 それはその相手の人に「こういう風に見えるんじゃないですか?」
 と言ってみて、その人が「うん、その通りです」
 と納得してくれるかどうか、という基準です。

 相手の人も「うん、その通り」と言ってくだされば、
 「ああ、自分はだいぶ相手の人を理解できるようになってきた」
 と思いますし、そうでなければ「まだまだ自分の理解は
 偏った自分の見方に過ぎないんだなあ」と考えます。

 ですから、あおいよる。さんが「自分の『今』の状況そのもの」
 と評価してくださったことで、アスペの方たちへの理解が
 ひとつ前進できたんだなと感じられて嬉しくなりました。

「…夫婦や友人、兄弟などの「一対一」は「ひとりとひとり」なので
集団としての「多数派と少数派」ではないから
集団ならではの『力』ははたらかない、」

 という点は、私もとても重要なポイントだと感じています。
 お互いがそんな風に「ひとりひとり」として向き合うことが出来れば、
 ずいぶんと変わってくるだろうと思えます。
 と同時に、定型がやっかいなのは、
 やっぱり自分ひとりの時にも「私たちの常識」が身体にしみこんでいて、
 「ひとりの人間として相手の人と向き合う」ということが
 すごく難しいと言うことだろうと思います。
 アスペの方には「ひとり」であることは当たり前のことでしょうが、
 実は私も含めて定型はそこがほんとに「苦手」なんですね (^ ^;)ゞ
 それは無意識のレベルでそうなっちゃっています。
 だからつい「普通は」とか「常識」とか、そういう言葉で
 アスペの人に反論したくなっちゃうんです。
 これはこういう社会を作り、生きている定型の性(さが)のようなものですね。

 その定型の性を乗りこえて「ひとりとひとり」として
 向き合えている人の話も聞いたことがありますし、
 それは決して不可能なことではないと思いますが、
 そこもいろいろ考えたり、工夫したりする必要がありそうに思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/52517429

この記事へのトラックバック一覧です: アスペの方の傷:

« 素朴な疑問 | トップページ | 二つの人生観 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ