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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年7月

2013年7月31日 (水)

「素」と「本音」のズレ

 「素」のことを引き続いてぼちぼち考えるんですが、やっぱり定型のコミュニケーションって、「この人はどの程度親しい人(味方)として信頼でき、本音を語り合えるのか、それとも丁寧なのは表面だけの建前で、本音は別にある可能性があって、本音で語るのはちょっと注意した方がいい人(普通の人)なのか、あるいは本音を全く隠さず、こちらのことは配慮せずに敵意むき出しでぶつかってくる危険な人(敵)なのか」というようなより分けを、ごく自然にその場その場で判断して、それによって接し方を変えたりするようなことをやっているように思います。

 その意味では「素」というか「本音」を出すのはその中で「ものすごく親しい人」か、それかもう相手なんてどうなってもいい、お互いの関係などどうでもいいと割り切っている「敵」に対してか、というような区別をしていて、中間の「敵でも味方でもない。どちらにもなりうる」人には「敵にしないように、できるだけ味方にするように」慎重に話をすることが多い、というようなことがあるんだと思います。

 なんだか、こうあからさまに書くと、すごい根性の悪い政治家みたいな計算高いいやな人間という感じがしますね (^ ^;)ゞ。 でも、そういう「政治的な駆け引き」って、前にテレビでやってましたけど、チンパンジーでも盛んにやるんですってね。韓ドラとか見ててもそういうのが一杯出てくるし、それこそ「ローマの休日」なんて、「恋の駆け引き」がすごいですし。

 あくまで私の印象ですが、この辺の「駆け引き」を基本的にはアスペの方はほとんどしないんではないかと感じています。その意味では政治家はアスペの方には最も向いていない職業かも知れませんね (^o^) それで、定型は「本音」を語るときにもこの「駆け引き」の枠組の中で「信頼関係の証」として本音を共有しようとするのかなと思うのですが、アスペの方の「素」は、そういう「駆け引き」とは全然関係なく、ほんとに「本音」そのままを表すこと、「相手に気を遣わないですませられる」ことが大事なのかなと、そんな風に理解してみました。

 昨日もパートナーに、「僕に対してはどの程度<素>でいられるの?」と聞いてみたんですが、「<素>でいて欲しいといわれて、<素>になると、そうすると今度は傷ついたりするし、どうしたらいいのかわかんなくなる」と言われてしまいました (^ ^;)ゞ

 そうなんですね。この「ズレ」はなんのズレかと考えてみると、定型にとっては「<素>になること」=「本音を共有すること」=「深い深いつながりを確かめ合うこと」なのに対して、アスペの方にとっては「人に気を遣わなくてもいい、ほんとに素直な自分に戻れること」で、言ってみれば定型が「相手と二人になる」ためだとすれば、アスペの方は「自分一人になる」ために<素>になる、という方向が正反対の関係があるんじゃないかと、ちょっと考えてみています。

 その考え方がどの程度実際にあっているのかはよく分かりませんが、仮にそういう傾向があるんだとすれば、アスペの方が<素>になることは、定型にとっては相手が「一人の世界」に入り込まれてしまうようで、さびしく感じることになりそうです。逆に言えば、アスペの方にとっては、大事な家族の間柄なのに、そこでさえ<素>にさせてもらえなくて、いろいろ気遣いを要求されるのは、まるで職場の苦労を家でもさせられるようでとても疲れる、ということなのかもしれません。

 

2013年7月29日 (月)

ヘルプ!の人生観

 「素」の問題については引き続き考えて行かなきゃなあと思っていますし、皆さんからもいくつかのヒントを頂いています。ただし、私の能力では今すぐに素晴らしいアイディアが生まれそうにもないので、さらにぼちぼち時間をかけて考えていきたいと思います。

 とりあえずはかずきさんの「親しき者にも礼儀あり」が、こういう性格のブログについての具体的な提案としては説得力を感じたので、一応そのあたりを中心にして、ただ、ナナセさんも仰るようにやっぱり「素」で表現したい気分や問題もあるでしょうから、そのときは「素」でもOKくらいに考えておいてはどうかと思います。

 とはいっても、「素」で「意図に反して傷つけ合う」ようなことは最小限にできればそれにこしたことはありませんから、もしそういうことが問題になりそうな気がしたら、気がついた方がちょっとフォローする、ということでもいいのかなと。大事なことは「本当に言いたいことを言う」ことであって、「どういう言い方をするか」は「言いたいことをうまく伝える」ために必要な工夫な訳ですから、「素」を隠すことで「本当に言いたいことを言えなくなる」としたら、それは本末転倒という気がします。だから「言いたいことを大事にする」ということが大前提で、その上で言い方については「親しき者にも礼儀あり」を心がける、という感じじゃないでしょうか。とりあえずですが。

 

 さて、タイトルのヘルプ、なんですが、昨日ショッピングセンターに行ったら、BGMでなつかしのビートルズのヘルプが流れてました。で、その歌詞を聞いてたら、あれ?これってもしかして定型的な感覚なのかな?とふと思いました。

 要するに、自分が若かったときはつっぱっていて、誰の助けも要らないと思ってた。でもいろいろあって、自信もなくなって、落ち込んじゃって、どうか助けてちょうだい!という話ですよね(めちゃくちゃ大雑把 (^ ^;)ゞ)。

 もちろん定型でも人によっては最初から上手に人に助けてもらえる性格の人もいるんだけど、(特に男は?)つっぱって自立しようとする。思春期なんて、いじめられても親に絶対言わないのは、ひとつにはそういうつっぱった気持ちがあるからですよね。

 で、パートナーの話とか聞いていると、子どもの頃から誰にも助けてもらえない、孤立した状態を生きなきゃならくて、「誰にも助けてもらえない」とか「自分で解決するしかない」という気もちは、自分の中から自然にでてくると言うより、回りの状況で強制されるような感じがするんです。だから「世の中そう言うもんだ」というすごく強い人生観がそこで作られていって、大人になってもはっきりと続く。

 定型の場合は思春期とかに突っ走り始めても、もともとが「人に助けてもらう」ということが当たり前だった子ども時代を過ごしていて、いつでもその気持ちを保っていて、でも途中で「自立する」ころになると、その気持ちをある意味「押さえつけて」一人前になろうとする。だからちょうどそのころ、「親からは自立」すると同時に、甘えられる人、つまり「恋人」が欲しくてしょうがなくなってくるんでしょう。

 老人になるとまた強烈に「わがまま」になったりするのは、結局それまで我慢し続けていた「甘え」の気持ち、「助けて!」という気持ちが抑えられずに、ストレートに表に出てくるんだと考えることも出来そうです。

 そういうのが定型の甘えと自立のごちゃまぜになった人生観なのかも知れない。それに対してアスペの方はほんとに「甘え」が許されない環境に育って(「定型的な甘え方」はできないから、定型の親はそれに対応できない)、どうしょうもなく「ひたすら自立」の人生観が作られていくんじゃないか……と、そんなふうにふと思ったのです。

 もちろんこの問題は、単に「育ち方」の問題だけでいえるのでもないと思いますけど、ただ「ひたすら自立(と私には感じられたりする)」アスペの方の生き方は、単純に「アスペだから」ということではなくて、育ち方によってそんなふうに作られていく部分が結構あるんじゃないかと。その辺、大事な見方になるんじゃないかと思いました。

2013年7月27日 (土)

一呼吸置く

 相変わらず我が家は親の介護の問題で、パートナーに知恵を借りながら、きょうだいで情報を交換したり、対策を相談したりの日々が続いています~。

 で、ひとつ深刻な問題は、やっぱり「自動車の運転」という問題なんですね。だいたい年をとるとだんだん足が弱くなりますから、「移動」というのが大変になる。「行けるところ」が少なくなる。だから「車を運転する」って、すごく大きな意味を持っちゃうんです。運転すれば、身体さえ持てばどんな所へでも行けちゃうわけですから、言ってみれば「自分の能力が格段に大きくなる」わけで、逆に言えば運転できないとなると「自分の能力が奪われる」ことになってしまう。

 もちろん健康で運動などにも問題なければいいんですけど、でもやっぱりいろいろ問題は出てくるのが当たり前で、周囲は見ていて心配でしょうがなくなるんですね。で、いい加減運転は諦めて、必要ならタクシーででも移動してもらった方が、車の維持費を考えたって安上がりになるし、絶対安心なわけです。

 というわけで、パートナーも言ってましたけど、福祉の現場ではこの「老人の運転」という問題が家族の中でも、介護者の人にとっても、とってもシビアな問題になることが多いんだそうです。

 うちもご多分に漏れず。まさに今、対策を考え中な訳ですけど、そのことに関連して、どんなふうに「説得」できるかとか、そんなことをパートナーと話をしていたとき、私が考えていることと、彼女が「こうすべき」と思うことがちょっとずれて、やりとりになったんです。で、私は彼女の考え方がもうひとつぴんとこなくて、なんか大げさな感じがして、すぐには賛成できず、いろいろ言ってたら、彼女の方はなんだか矢継ぎ早に「じゃあ、これはどうなの?」とか「これはどうするの?」とか、「責めてくる」印象を受けました。

 そういうとき、やっぱり普段とは印象が違って、なんか「余裕なく怒って問い詰めてくる」というような感じがしてしまうんです。それで「なんか怒ってる?」と聞くと、「怒ってない」というのもいつものことなんですが、やっぱり私の印象としては「喧嘩腰」に感じられてしまうので、正直に「なんだかちょっと余裕がないみたいだから(実際時間的にも余裕がなかったです)、またあとで話をしない?」と提案して、そういうことになりました。

 それから半日以上経って、またその話をしたんですが、私の方も「責められて防戦」という緊張感がとれてきていましたし、彼女の方も矢継ぎ早に問い詰めてくる、という感じがなくなっていて、まあわりにおだやかに話を進めることが出来たんですね。

 ちょっと緊張感が出てきたように感じられるときに、「一呼吸置いてみる」って、定型・アスペの関係でもやっぱり大事なことなのかな、と思ったりしました。

2013年7月24日 (水)

「素」でいることの迷い

 

ナナセさんからまた問題提起こちらも)を頂きました。

 いくつかのことについて書かれているのですが、とりあえず話を広げすぎないように、ひとつ特に考えさせられたことについてまずは私が考えたことを書いてみたいと思います。

 ポイントと思うのは、ナナセさんが書かれた「実生活では素の自分を出すことはほとんどできないので、ここではそんな鎧を着込みたくはないのですが・・・。」という部分です。

 ここ、すごく重要な問題提起だと思うんですね。というのは個人的なことで言えば、パートナーとの話の中で、二人の関係の中で彼女が「素の自分でいる」ということの大事さと、でも完全に「素」のままだと彼女が意図しないところで私がショックを受けたりすることもあって、それをどうしたらいいのか、ということと、その二つが矛盾してしまって、どう調整したらいいのかをよく考えさせられているからです。

 私自身の理想としては、やっぱりお互いに「素」でいられて、それでお互いの関係がうまくいくことです。家庭という大事な場で、まるで仕事場にいるように「無理に作った自分」を続けなければいけないというのはとても悲しいことだし、もしそれを彼女に対して無理強いするようだと私はとても彼女に悪いことをしている気持ちになります。

 と同時に現実の自分は、彼女の「素」によって傷ついた気持ちになってしまったり、困惑してしまったり、そういうことがやっぱり完全にはなくならなくって、そうなると今度はそういう私の姿を見て、彼女が傷ついたりするんですね。そして「あなたを傷つけるのなら、素を出さない方がいい」ということを言われたりするわけです。

 「素」でいてほしいけど、「素」そのままだと辛さもある、というとても矛盾した状況の中で、一体どうしたらいいんだろう、と迷い、悩みながら今日まできています。今もそのことについてはっきりした答えが見つかっているわけではありません。

 同じように、ナナセさんが「ここではそんな鎧を着込みたくはない」と書いて下さるのは、私はとても嬉しいことなのです。というのは、そこまで「自分を出して語り合ってもいい」場所として、このブログを考えて下さっている訳ですし、それはある種の信頼の証でもあると思えるからです。そんな風にお互いを信頼しながら遣り取りが出来る場は、とても大切だと思います。

 そしてやはり同じように、アスペの方の「素」が、結果として定型にとっては傷つく表現になってしまう場合がある、ということも私には否定できないことで(もちろんお互い様ということも考えるべきですが)、私自身はできれば「素」に近い形でやりとりができればいいとは思っていますが、そういう遣り取りになれていない定型の方が読まれたときに、一方的な誤解が生まれる可能性も十分にあるように思えます。
 これは、ブログという、公開なんだけど、やりとりは結構個人的なやりとりになっていて、そこでの個人同士の関係は親しみや信頼関係がお互いにある場合もあるし、ない場合もあるし、どっちとも決められないような場だから、ということが大きな原因なのでしょうね。

 さて、どうしたらいいのか、「このブログはお互いに出来るだけ素でいられる場にしたい」というようなことを、一種のお約束毎としてホームページに予め明示したらいいのか、それとも仮にお互いに「素」を出すことで、予期しない形で相手の方が傷ついたかも知れないような事態が起こった場合には、その時々に少し調整をする、といったことを心がけたらいいのか、あるいは「素」をそのまま出す場と考えず、「素も」出せるけど、相手に併せた「配慮」も考える、といった感じにしたらいいのか、それとももっと別の工夫があるのか。

 「管理人なんだからおまえが決めろ」と言われるかも知れませんが、すでにこのブログは私の考えだけで成り立っていると言うより、みなさんとのやりとりの場として成り立っていると感じているので、私自身は迷っている状態で、みなさんのご意見も教えていただきたいと思います。(これも玄さん的に言えば定型的に「他人を巻きこむ」方法の一つということになるかも (^ ^;)ゞ)

 忌憚のないご意見をいただければ幸いです。

 ナナセさんのその他の問題提起についてはまたおいおいに……。

2013年7月23日 (火)

定型とアスペの表現のズレ

 新月さんナナセさんのコメントを拝見して、アスペと定型の間で生じがちなズレを理解していくために、もう少し補足的に考えてみた方がいいかなと感じました。もちろん、私の理解ですので、この場合に新月さんがどこまでそう感じられているのかは想像の範囲を出ませんが、私とパートナーの遣り取りの中で起こる「ズレ」と似たものが起こっているように感じられる部分がありましたので、今回のやりとりにも同じようなことが起こっている可能性を感じています。

 まず始めに新月さんの人となりについて、私が勝手に想像したことです。新月というネームを使われているのは、この場合は新月さんの気持ちを表しているようにも理解しました。新月というのは満月と反対で、太陽の光を反射できなくて、地上からは「見えなくなっている」状態ですよね。ものすごく注意をしてみれば、微かに見えるようですが、ちょっと見たくらいでは分からない。でも満月がそこにあるのと同じで、新月も見えにくいけどちゃんとそこにあるわけです。

 つまり、太陽のように自分で光を放って自分がここにいる、ということをみんなに「主張」するような性格ではなく、光る場合にも「他の人に照らし出されて」見えるようなお人柄で、しかも(少なくとも今は)そうやって人から照らし出されて見える状態にもなっていらっしゃらない。そんな自分の状態を「新月」という言葉で表現されたのかもしれないと感じます。そう理解すると、自分の書かれたことを「何言ってるのかわからなかったら本当にごめんなさい」等と何度か繰り返されていることの意味が分かる気がするので。

 仮にそんな理解を前提にした場合、ナナセさんのコメントが、ナナセさんの意図とは違う形で、新月さんにはどんなふうに伝わる可能性があるか、ということをちょっと私なりに想像してみます。この想像も、やはり私のパートナーとの間で起こる「誤解(ズレ)」の経験から、そういうこともありそうだな、と感じることですので、新月さん限定、というわけではありませんけれど、新月さんの場合、特にその辺は気にされる方かも知れないと思いました。

 ポイントとしては、主としてナナセさんの書かれた内容の問題ではなくて、表現の仕方が定型的な表現の使い方とずれるために、ナナセさんの意図が違う意味で伝わってしまう可能性を感じたということになります。

「トマトさんがおっしゃる通りです。私は質問しただけです。」

 文字どおり、質問しただけ、という事実をナナセさんは伝えようとされているのですが、定型の場合、そこに余分にこんな意味を感じてしまう可能性を感じます。

 「私は質問しただけです。(なのにどうしてそんな余分なことを考えて、不必要な応答をするのですか?あなたはおかしいじゃないですか。)」
 この語感のズレがどうして生まれるのか、私にとっても切実な問題の一つなので、いろいろ考えてみるのですが、(特に日本の定型社会では)相手に対して「断言調」で言う場合には、「あなたにはどうしてそれがわからないのですか?」という批判の意味を含むことが多いからだろうと思います。

 ですから、仮に定型が同じようなことを言おうとする場合には

 「言葉足らずでしたが、私としては質問をさせていただいただけで、それ以外の意味はありませんでした。」

 というような形で、「私の意図がうまく伝わらない形になってしまって、私の方も配慮が足らずに申し訳ありませんでした」と軽く謝る、ということをよくやっているように思います。

 そうすると、コミュニケーションにズレが起こった場合にも、「お互いに謝っておだやかに終わる」という雰囲気作りがされるんですね。つまり、「私とあなたは敵対関係にはなりたくない」という意味がその軽い謝りの言葉に含まれたりするわけです。

 逆に言うと、そこがなく、ストレートに内容だけが伝えられると、定型がそうする場合には「あなたとはもうケンカの状態なんだ」という宣言になることがあるので、とてもきつく批判された、という印象を持たれやすくなります。

 こういうのは日本の中でかなり重視されているみたいで、海外の人とやりとりしたりすると、もっとストレートな場合が多いですけどね。ですから「日本的定型スタイル」なのかもしれません。

「新月さんがわざわざ「何言ってるのかわからなかったら本当にごめんなさい^_^;)しかも話がずれまくってますね…」と書かれていたので、「そうです。わかりません。」と反応しました。この一文がなければ昨日のコメントは書き込んでいないと思います。分からない人がいるかもしれないという想定の元に上記の一文を書かれたのではないのですか? 実際分からない人が出てきたら「しばらくコメントは遠慮させていただきます。」という反応は解せないです。」

 ここも、上の説明で想像していただけるかも知れませんが、書かれていること自体はまあ実際事実としてそういうことだったんだろう、と分かるのですが、やはり「断言調」で、一方的に相手のことを「決めつけている」というふうに定型が感じる可能性のある書き方にもなっていると思います。ですから、とても強い非難、という文章に受け取られる可能性がそれなりに高いと思います。

 特に「解せません」という最後の一文は、定型的には次のような言葉を補って理解しいてしまう可能性が大きいです。「解せません(そのくらい、あなたの言うことは訳の分からない、理解不能なことで、そんなあなたとはコミュニケーションは不可能な位です)」

 そういう誤解を相手に与えないように、定型の場合は「ここのところが、私には良く理解できないところでした」というような言い方をすることが多いと思います。そうすると「理解できないことを言うおまえが悪い!」という断言にはならず、「私の理解力がたりないせいもある」ということを表現することにもなりますから、「一方的に相手を責める」という印象が薄れるからです。

 もちろん、以前のコメントでナナセさんが「自分の読解力のせいかもしれない」ということは書かれているので、ナナセさんとしてはそれを前提にこのコメントも書かれているということになるのかと思いますけれど、この流れの中では「自分の読解力のせいかとも思ったけれど、新月さんは自分の書き方が悪いと言っているし、やっぱり新月さんが悪いんだ」ということを改めて宣言された印象になってしまう可能性が高くなると思います。

「以前新月さんはこのように書かれていました。」

 この表現も同じで、「事実を確認する」ということで、コミュニケーションを誤解のないように正確に進めようという意図がナナセさんにはおありなのかなと想像するのですが、定型はしばしば勝手に次のような意味を補って受け取ってしまいがちだと思います。

 「以前新月さんはこのように書かれていました。(あなたはそのことを忘れているのですか?議論はちゃんと一貫したものでなければならないはずです。そういうことがあなたにはできないのですか?)」

 と言う風にやっぱりなんだか自分が責められているように感じてしまうんですね。

「これはとても良い発想だと思いましたが、これもその時感じた「何となく」だっただけなのでしょうか?」

 これは次のような補いが入りそうです。

「これはとても良い発想だと思いましたが、これもそのとき感じた「何となく」だっただけなのでしょうか?(せっかく良い発想と評価したのに、そんなにいい加減な事を主張するなんて、私はもうがっかりです)」

 というような感じで、あくまで私の想像に過ぎませんけれど、アスペの方が

「コミュニケーションを正確に行おうと、事実を確認しながら、議論を整理していこうとする」

という場合、定型の方が普段の癖で、勝手にそこに「事実を相手と争い、どっちが正しいのかを決着付けようとする、闘争モード」に相手の人が入ってしまった、と読み取ってしまい、特に新月さんのように相手の人と対立するような自己主張はしないでおこうと考えていらっしゃる方の場合には、それ以上「闘い」がエスカレートする前に、「身をひく」ということを考えられるのだろうと思います。

 逆に定型の側でも相手がその気なら自分も「闘う」という傾向の人の場合には、そこで闘争モードに入ってしまい、そうすると、今度はアスペの方が訳が分からなくなって混乱する、ということが起こったりするのではないでしょうか。

 こうやって定型流の読み取り方についての「解説」を試みてみながら、アスペの方から見れば、「なんでそんなひねくれた読み方をするのだろう?もっと素直に読めばいいのに」とあきれられるのではないか、という気もしますし、「こんな面倒くさい連中とつきあわなければならないのなら、本当に気が重い」と感じられるかも知れないなあと心配したりします。

 とはいえ、多分定型とアスペのカップルの間では、こういうようなズレの結果、お互いに誤解を重ねて関係がシビアになっている例も少なくないのではないかと想像しますので、まずは「こんなズレがあるんじゃないでしょうか」という、今後を考える手がかりとして書いてみました。

2013年7月20日 (土)

二つの人生観

 

新月さんが相手の方について

 「私が先に感想を言うことを求めます。その結果「おおむね同じ感想」を持つことに驚くようです(一緒にいると何となく解る…)」

 と述べられています。それは玄さんの「違っているのが前提で「同じ感想に行き着いた時」に、驚きと喜びがある感じです」という言葉に触発されて書かれたコメントの中でのことですが、新月さんの相手の方と、玄さんと、とても似た感じ方がされているわけですよね。

 これはもしかすると「定型的<共感>手法」によるものなのか、あるいはアスペの方にも共有されるやり方なのか、まだ私自身はよく分かりませんけれど、そんなふうに書かれるお二人(玄さんと新月さんの相手の方)の視点にできるだけ身を寄せてみると、本当に自分とは違う世界の見え方がそこにある、という感じが実感としてしてきます。

 「相手が自分と違う感じ方や考え方を持っている」ということを「理解できる」というのは定型でもできることです。でも定型が「同じ」ということがわかって「驚く」ことができるかというと、そうなるのは「てっきり<この人>は全く違う人だと信じていた」のに「同じ」だったから「驚く」という場合に限られるでしょう。アスペの方(玄さんと新月さんの相手の方)はそうではなくて、「違う」ことがあたりまえだから、「同じ」だと「驚く」という感じですよね。

 素朴な感覚として「他人は違う人で、私には分からない」ということが出発点にある人の作り上げる人生観と、「(違いもあるけど)基本的には通じ合うことが前提」という出発点を持つ人の作り上げる人生観と、その二つの人生観は随分違ったものになるだろう、ということは想像できます。具体的に細かくどこがどう違う、ということまでは分からなくても、とにかく相当違った人生観が作られるだろう、ということは分かる感じがします。

 なんか今私がもっと理解していきたいと感じていることの一つは、そういう「人生観」の違いについて、もっと詳しい違いとか、あるいはどうやってその異なる人生観が作られていくのかと言うことのようです。

2013年7月19日 (金)

アスペの方の傷

 ちょっと留守にしていましたが、その間にいろんな刺激的議論が展開されていて、よかったです。それぞれ書きたいこともありながら、玄さんの「傷」についてやっぱり考えさせられるところが大きくて、今はそれについて書かせていただこうと思います。

 「定型の方は「共感」について、「それがないと生きて行けない」「呼吸をするのと同じ」「重要なこと」「あたりまえ」「普通のこと」とあっさりと表現されます。自分に「共感」が無いと疑っている人にとって、それらの言葉が、どれだけ残酷か。お前達は「生きていないのと同じ」「呼吸していない」「普通じゃない」と、面と向かって存在を全否定されていることが、お分かり頂けるでしょうか。」

 「共感」を定型が「押しつけてくる」という点については、これまでも繰り返し指摘をされ、またパートナーにも昔から言われ続けてきたことで、アスペと定型のズレということを意識するようになってからは、私もそれなりに「たしかにアスペの方からすればそうなるのかなあ」と思えるようにはなっていました。アスペの方が時々指摘されるように、定型(特に日本社会の)は「同じ」であることを強烈に(しかも暗黙の内に)要求する性格が強く、いじめなんかも「人と違う」ということだけでそのきっかけになってしまったりする、ということを考えると、ほんとに生きづらいし問題が多いとも私も感じます。

 そういうマイナス面がありながら、でも同時に定型同士の信頼関係や絆を作る上で、「相手の気持ちを共有する」ということが大きな意味を持っている、という現実もあって、それがない関係は疎遠な関係か、あるいは敵対的な関係と感じられてしまったりするので、一番親しい人であるはずのカップルの間にそこが感じられないと、とても不安になってしまうし、苦しみの元にもなってしまう、というのがどうしようもない「定型的体質」なんですよね。このことも何度も語られてきたことのように思います。

 一方、アスペの方にとっては「一緒に暮らしている」ということそれ自体ですごく大きな意味を持つものだし、相手を超特別待遇していることだし、そうやって一緒に暮らす中でしっかりと現実的な生活の上で助け合いの関係を作っていて、そこに「信頼」だってあるし、多分アスペ的な感覚での「共感」だってある、ということなわけですよね。私はそのことを理解するのにすごく時間がかかりましたけれど、パートナーの言うことなどを見聞きしながら、みなさんのコメントを拝見しながら、「ああ、そういう見方をすれば少し自分にも分かる部分が出てくる」と思えるようになりました。

 そんなふうにカップルの間で「相手を特別の存在と感じる」とか、「信頼を大事に感じる」という点では多分アスペと定型に違いはないのでしょう。ただ「どういうことで特別の存在と感じるか」とか「なにを信頼の証と考えるか」といった点で、お互いはすごく違いがある。そのズレの部分は相当根っこの深い、感覚的な違いに根ざしているみたいだ。というのが、まあ私の最近までの理解だったわけです。

 でも今回の玄さんのコメントを読んで、「定型は<共感>に飢えている→<共感>を否定されて苦しんでいる」VS「アスペは<共感>の押しつけに困っている」という違いを超えて、定型の共感を求める姿勢がアスペの方にはそれ自体が「存在の全否定」にすらなってしまうという指摘をされて、問題のもうひとつの深刻さをすごく感じたんです。

 そのことをこれまで私がまともに理解できていなかった理由は、結局自分が定型という多数派の立場に守られて、その感覚で理解してきたからなんだなあとも思いました。というのは、アスペの方が「共感の押しつけに困る」のは、単に自分の感覚に合わないことを要求されて迷惑を感じる、という話ではなくて、アスペの方が「多数派に従うことを強要されている」というすごく「権力的」とも言える関係がこの世の中では厳然としてあって、「それができないやつは一人前じゃない」という定型的な基準が前提にされてしまっていて、そのことに逆らえない現実があるということなんでしょう。少数派のアスペの方は自分にとって自然な感覚で生きることは許されず、必死で無理をしてでも多数派に合わせて生きていかなければならないという現実の中でずっとすごして来られた。

 そういう大きな圧力が世の中にある中で、私を含め定型から「定型にとって共感は大事」「それがないと生きていけない」、そのくらい「共感がないと言うことはほんとに定型にはつらいことなんだ」という説明をされることが、「存在の全否定」のような意味を持ってしまうことになる。

 例えはあまりうまくありませんが、仮に人間が「普通」手にモグラのような高性能の爪を持っているとして、カップルは土に潜って地下でお互いの愛を感じ、信頼を感じる、というような心の仕組みを持っているとします。そういう爪のない私は地上で愛や信頼を感じていられるし、感じたいのに、相手は地下に潜れなければそれは実現できなくて苦しい、と訴え続けてこられる。でも私は地下に潜れないし、そんな「不自然」なことをしたいとも思わないのに、「爪を持っている普通の人はそうしているから」それに少しでも合わせられるように、一生懸命血まみれで指で土をほじくってみるんだけど、それも「そんなのじゃダメだ」と否定されてしまう。もうどうしようもない状態で、自分を否定的に見るしかなくなってしまう……

 そんなような関係が成り立っちゃっているんじゃないかと思ったんですね。

 私は定型として「(定型的な)共感」が得にくい状態がとても苦しいと感じる側の人間です。でもその苦しさを理解して欲しい、という訴えが、今度はアスペの方の苦しみを生んでいくことにもなる。

 「お互いの違いを理解して、それをお互いに尊重する」ということは大事なことだと思うし、その気持ち自体は今もゆるがないのですが、ところがその「違いを理解してもらう」ということ自体が、たとえば多数派VS少数派みたいなリアルな力関係が生きているところでは、またもうひとつ難しい問題を生む原因にもなってしまうということになります。だとすれば、そういう事にならないような形で、「お互いの違いを理解し、受け止め合う」やり方を、考えていく必要があるんだなあとしみじみ感じたのでした。

 なんか、ほんとに問題は尽きないですね……

 

2013年7月15日 (月)

素朴な疑問

 中島美嘉の「雪の華」を聞いていたんですが、歌詞にこんなところがあります。

 「のびた人陰を舗道ににならべ、夕闇の中を君と歩いている。手をつないでいつまでもずっと、そばにいれたなら、泣けちゃうくらい」

 それとかこんなのもあります。

 「今年、最初の雪の華をふたり寄り添って眺めているこの瞬間に幸せがあふれ出す。」

 あと、印象的なのに次のもあります。

 「君がいるとどんなことでものりきれるような気持ちになってる」

 「どんな悲しいことも僕が笑顔へと変えてあげる」

 まあ、つまり「よりそって歩いていたら(眺めていたら)幸せだ」とか「相手がいてくれることで自分が支えられる」とか「自分はあなたを幸せな気持ちにさせてあげたい(あげられる)」と言ってるわけですよね。

 これって、アスペの方のコメントとか見ていたら、もしかすると「うそでしょう?」とか「よく無責任にそんなこと言えるもんだな」とか感じられるのだろうか、とふと疑問が浮かびました。

共有すること

 このブログではアスペと定型の「ズレ」のことについてかなりこだわって考えてみていますけれど、それもこれも「改めて一緒に生きていく」とか、あるいは「ここまでずれているのなら、お互いの道をそれぞれが歩んだ方がいい」という見切りをお互いに付けるとか、「あるいはそういうずれがあるのなら、それはもうそういうものとして諦めて、それでも一緒に生きていく」とか、そういうことを考えるときの手がかりを探る、ということが大事だと思ってのことです。

 まあ、世間的には「離婚はしない方がいい」という考えが今も強いのでしょうが、ただ現実問題として人は誰も無限の能力を持っているわけではないのだし、そのひとの価値観とか、幸福についての考え方、感じ方によっては、お互いに別れる方がお互いのため、という場合だって当然あるでしょう。でもそのときにもお互いが「ここまで違っていれば、もうその方がいいね」と言う形で納得した上でその結論に達する方がきっとその後の人生もより前向きなものになるのだと思います。そのためにも「ズレを考える」ことの意味は小さくないように思います。なんていうか、「相手を否定する」ためにズレを考え、「相手を否定」して別れるのではなくて、お互いが自分とはすごく違う人なんだと理解し、それを尊重するからこそ、一緒に生きていくより、それぞれの道を歩んだ方がいいと納得できる方が絶対いいと思うんです。

 ここのところの記事ではコミュニケーションの一番大事な意味は、「正確に相手のことを理解する」ことにあるというよりも、お互いに決して理解しきることはできない相手と、そこに必ず生まれるズレとか溝をお互いに少しでも理解し、調整していくことにあるのでしょう、ということを書いてきたつもりです。そしてやはりそのズレの中でも大きなものとして、「共感」ということをめぐるお互いの感じ方や理解、あるいは「共感の仕方」のズレの問題があるのでしょう、ということを書きました。

 もちろんその共感の問題は現実にアスペと定型のカップルの中では常に問題になることで、いろんな悲劇がそこから生まれてきていると思えるので、そのことを言うこと自体は別に新しいことでも何でもないし、いままでみんなが苦しんできたことを改めて言っただけのことです。その問題の重要性についてはこのブログのコメントでも、トマトさんを中心にずっと語られてきたことでもあります。

 その中で私が今回少し私の視点からもうちょっと整理して考えてみたいと思ったのは、アスペと定型のズレを「共感のあるなし」ですぱっと分けてしまわずに、共感ってなんだろう、ということをもう少し広げて柔らかく考えてみることで、実はかなり根っこの所ではアスペであろうと定型であろうと、「(定型的に言えば)共感」といえるものは共有されていると考えた方がいいんじゃないだろうか、ということでした。そういう共有されたものがあるにも拘わらず、「共感のズレ」が深刻な問題になってしまう、そのしくみを考えてみることで、何か新しい工夫が生まれないかと思ったからです。

 
 そのことについてはまだまだ時間をかけていろいろ考えていかなければならないことがたくさんあると感じます。今日ちょっと書きたく思ったのはここ数日の私の体験です。それは上に書いたような「調整する」というコミュニケーションの意味とはちょっと違った視点から見たコミュニケーションの意味についてです。結論は「共有」ということです。

 これはそれぞれの事情によってもちろん時期は色々なのですけれど、でもやっぱり私たち位の年代になると、「介護」ということがとても大きな問題になってくる場合が多いですね。私の所もご多分に漏れず、なわけですが、なにしろ私の両親はとんでもなく個性的な方たちですので、どんなふうに人生の幕引きへの道を納得のいく形で作っていくのか、そしてそれに子ども(私たち)がどうかかわってサポートできるのか、という、誰にとっても決して簡単ではないだろう問題が、まあびっくりするくらい難しかったりするんですね。全く一筋縄ではいかない (T T)

 そこで今本当につくづくパートナーのありがたさを感じてもいるのですが、彼女は福祉関係の仕事をしているので、そういう老後の「難しい」ケースなんかはいくつも経験してきていて、そこはアスペの方の天職とも言えるのじゃないかと思えるんですが、問題を抱えた家族の複雑な感情の絡まり合い、もつれに巻きこまれることなく、かといって切り捨ててしまうわけでもなく、「今現実に何が必要なのか」ということを冷静に見極めながら、すごく的確に対処できるんです(少なくとも私の目から見て)。

 なんかその辺は玄さんが常に「具体的な問題の解決法を考え、提案することを重視している」というようなことを言われ、実行されていることにも繋がっているように感じます。


 それで、ここ数年間、彼女との間でコミュニケーションの仕方についていろいろ手探りで工夫を繰り返してきたわけですけれど、その甲斐もあって、「親の介護」ということについて、ほんとに「一緒に考える」ということが出来てきているように思うんです。

 これまではたとえば子育ての仕方についても、ほんとに相談と言うことが出来なかった。子どもが大変な状態になっても、私の定型的な目から見て「こういうことが問題なんじゃないか。」「こういう風にしたほうがいいんじゃないか」という話をしても、彼女からはそれはほんとに理解されなかったり、私は何故理解されないのかが理解できなかったし、そしてしばらく話が続くとたいてい「結局全部私が悪いと言いたい分けでしょう」と彼女が言い出して、それ以上の話ができなくなる、ということの繰り返しでした。

 でも今回はもうそういうことはないんですね。私の方もとても素直に彼女の意見を聞けるようになったし、彼女の方も親の状態などを積極的に尋ねてくれたり、また直接連絡をとってサポートしてくれたりしています。そうやって今ようやく、彼女と「人生の課題を共有している」という感覚が私には生まれてきています(彼女の方はもう少したんたんと「当然に必要なことをやっている」という感覚のようですけれど)。


 これはコミュニケーションによって「共感的な関係を作った」というのとはちょっと違う感じがします。それよりもやっぱり「課題を共有した」という感じ。で、そのことはやはり私の場合「一緒に生きている」という感覚にも結びつくんですね。 

 アスペと定型と「共感」という言葉ではなかなか「共感」しあえないけど、「共有」という言葉をキーワードにすると、もしかして人生を「共有」できるのかもしれないと、ちょっとそんなことを考え始めています。

2013年7月13日 (土)

本丸は見えてきたか?

 またまた玄さんの名解説が続いていて、次のコメントなどもほんとにアスペと定型のズレを考える上でわかりやすく、刺激的なお話しに感じました。

 「するりさんの疑問の「想像力」は、頭の中のライブラリから妥当なリアクションを抜き出してくることであって、新たにクリエイトするという意味ではないと思います。「気持ちを察してよ!」と言われたときも、嬉しいか悲しいか、喜んでいるか怒っているか、忙しいかもっと話したいか、くらいの類型を口ぶりや話のやり取りの中で当てていく、くらいの意味合いみたいですよ。経緯も将来も細かな感想も全てを語る前から知っている、という状況を求められてはいないようです。僕は誤解してました。」

 「気持ちを察してよ」の意味が、「経緯も将来も細やかな感想も全てを語る前から知っている」ということではない、というふうに玄さんが理解されるようになったことなんて、なんだかすごいことのように思います。定型は多分ほとんど意識してないけど、大体はそういうことでコミュニケーションしていると思うのですが、玄さんに改めてそう指摘されて「ああ、そうか」と感じるようなそんな「発見」でもあります。

 わたしの印象では同じ定型の中でもどの程度深く細かく瞬時に気持ちを察するかについては人によって、あるいは経験によってかなりの違いがあるし、また「相性」のようなものもあって、「あの人の気持ちはすごくよく(深く細かく)わかる」という組み合わせもあれば、「なんだかあの人は何を考えてるんだか、わかりにくいなあ」ということになる組み合わせもあります。

 そこで玄さんも最近少し書かれているように、定型同士のコミュニケーションというのは、そういう大雑把な理解を確かめたり、細かくしたり、深めたりするという意味がとても大きいのです。アスペの方からおそらく無駄話に思えるような「些細な経験」を語り合いたがるのも、不断からその人が生きて経験している「経緯」を共有しておきたいのですね。そうすれば、次に何かがあって明るい顔や暗い顔をしていたときに、「あ、あのことに関係しているかも」という推測がすぐに出来やすくなったりするのです。

 定型の中で相手の気持ちをすごく察することの出来る人は、そういう他人の「経緯」とか、「性格」とかについて結構普段から理解することが好きで、そういう推測をするのが上手だったりすることになります。

 そういうことが、たとえば関係のいい老夫婦のようにほんとに長年続いていくと、もうほとんど口で何を言わなくても、「あ、今のこの状況なら相手はこう思っているだろう」とか「こういうことを望んでいるだろう」とかが予想がつくようになってしまって、「以心伝心」みたいな関係になっちゃったりするんでしょうね。

 そういうことについて、玄さんは「僕は誤解していました」と書かれるわけですし、するりさんも「やっと腑に落ちました!!!」と感激されていますので、アスペの方でこのポイントの理解が定型のやっていることとずれてしまった方は少なくないのかも知れません。逆に言えば「そんなことどうして分かるのか分からない」というアスペの方の疑問が、多くの定型には多分「そんな当たり前のことがなんで分からないの?」と感じられて、理解できない原因のひとつにもなるのでしょう。

 もし「気持ちを察してよ」という意味が、玄さんが誤解されていた意味で言われたとしたら、定型だって「そんな魔法みたいな事できるわけないじゃない」と感じると思います。占い師さんとか、経験や勘でほんとに小さな手がかりから人の結構深いところもズバッと言い当てたりすると「ああ、この人は不思議な霊能力を持っている」とか思われるくらいですから。ああいうの、種明かしを知れば、そんな大したことじゃないんですけどね。(全ての占い師さんや霊媒師さんがそうなのかは断言はしませんけど、まあほとんどはね)……今玄さんから新たなコメントがあったようですが、そこでの疑問「定型の方には、相手の心を映し出すモニターがあるんですか?」もここに繋がる話になると思います。

 つまり、玄さんも書かれていたように、コミュニケーションというのはもともと「お互いの分からない部分、ずれた部分を調整するためにある」と考えた方がいいんだと思います。それを小さい頃からずっとやり続けているのが定型的な生き方になります。じゃあなぜアスペの方はそういう生き方が少なくなるのか、定型が多くなるのか、その違いの原因は私にはまだよく分かりませんが、少なくともその結果「理解の仕方」に大きなズレが生まれる原因の一つではあると言うことでしょう。

 もう一点重要なポイントと感じたことは、「気持ちを察して」という言葉は、細かい具体的内容を理解して、という意味よりも、まず大前提として自分が傷ついているとか、喜びを感じているとか、そういう状態にあることを理解して欲しい、という意味が大事だと言うことですし、またそういう「気持ち」を前提にして、たとえば「傷ついているときには優しく接して欲しい(いたわって欲しい」とか、「喜んでいるときにはその気持ちを受け止めて、一緒に喜んで欲しい」といった、アスペ的に表現するといわゆる「共感の押しつけ」的な願いが大事にされているということです。このことについてはトマトさんがいろいろ言葉を換えて、定型が生きていく上でなくてはならないこととして説明してくださっています。

 ここについてはアスペの方から「ああそうだったのか。じゃあ対応してあげなきゃ」というふうにはなかなかならない所なんだなあ、ということがしみじみと感じられています。多分そこで「そうだったのか、じゃあそうしてあげよう」というふうに簡単になれることなら、もともと定型とアスペのズレが生み出す数々の悲劇は存在しないとも言えるような、一種この問題の「本丸」ともいえるような部分なのでしょう。もちろん立場を変えて定型の側から見ても、「アスペの方はその定型の願いは受け止めがたいものなんだ」ということで簡単に「ああそうなのか。それじゃあそういうことで」と諦めることも出来ない部分になるわけですね。特に「親しい人」との関係では。他人だったら別にどっちでもいいとも言えるわけですが。

 さてこの本丸にどうたどり着き、どういう決着の付け方を模索できるのか……。

 

2013年7月12日 (金)

守るために傷つける?

 コメントで、とても重要なポイントであるだけに、緊張感のあるやりとりが続いています。それはやはり「アスペVS定型」という図式の中でのやりとりであるし、またその図式自体が持っていいる緊張感がストレートに出ているという気がします。それはお互いが抱え続けてきた深い傷にさわる部分であるだけに、扱いも難しいし、そこから何か新しいものを生み出せるか、それとも対立図式をさらに固めてしまうことになるのかという、剣が峰にもなる部分でしょう。

 もちろん、このブログがあることの意味は、そういう微妙な問題を避けて「表面的な友好関係」を装うことではなくて、あえてその部分に慎重さを持って入り込んでいくことで、これまでとは違った道を探す事にあるわけですが、そこで私がとても大事だと思うことは、どんなにシビアな問題について語り合う場合にも、決して相手の人格を否定しない、という姿勢を貫くことだということです。

 もちろん同じ一つの言葉が定型にとっては思い遣りの言葉であるのに、アスペの方にとっては自分を否定する言葉になってしまう、というようなこと、あるいはその逆の場合もいくらでもあるわけですし、いくら「人格を否定しないように」と思っていても、知らないうちにそうしてしまっていることは常にありうることですよね。だから私には「姿勢を貫く」という言い方しか出来ないのです。

 姿勢を貫くというのは、自分が全く意図しない形で相手の人格を否定してしまった場合、そのことを相手に指摘されたら、それに反発をしたり否定したりするのではなく、相手がそう感じることの意味を出来る限り受け止めようとする姿勢を貫くことではないかと思います。それは時としてそれまでの自分自身の姿勢を一旦否定しなければならないような場合も少なからず生ずることですから、もちろん簡単なことではない、ということも実感しています。そういう姿勢が保てない状況も現実に存在するとも思います。当然のことながら私もその姿勢をいつでも保ち続けられるわけでもないと言う現実も、繰り返し自覚させられています。でも本当に問題を解決しようと思えば、結局はそのほかに道はないのではないかと思うのです。

 人格とかややこしい言葉をつかわなくとも、もし私たちがこの世界で一緒に生きていくよりないのなら、そのためには相手にもちゃんと生きていてもらわないといけないわけで、相手の人が死んじゃったら、ケンカだって出来なくなるんですよね。ちゃんとケンカが出来るためには、相手にしっかり生きていてもらわなければならない。そんな風に思います。

 

 なんだか口幅ったいことを書きましたけど、今考えているのは、そこにも関係しては来るんだけれど、もうちょっと違うことです。私のパートナーの言葉が時々心臓に突き刺さるような厳しさを持つことがあり、逆に彼女に言わせれば私の言葉や態度が彼女のそれこそ存在を否定するようなものとして受け止められることがあり、でも自分の言葉や態度が相手にとってそういう意味を持つ、ということは自分では全然気づかれなかったり、あるいは「こういうことを言われたりされたりすれば、こういうことを言ったりこういう態度を取るのは当たり前の反撃だ」と思っていたりする。

 アスペと定型のズレに悩んでいる方はそんな経験をいやと言うほど繰り返し体験してきているのですよね。で、私が考えたいと思っていることは、どうしてお互いにそんな風にはっきりと意図もしないのに、相手に深いダメージを与えるような言葉や態度をするようになるんだろうか、ということです。

 一つの考え方としては、「この言葉が相手を攻撃する意味を持つ」という理解がそもそもない場合にはそういうことは起こりえるでしょう。その場合は、仮に自分が同じようなことを言われたとしても全然平気だ、ということになると思います。自分が平気なのに何で相手がそれで傷つくのか分からない、というわけですから、平気で言ってしまうことになる。

 そんなケースも多分あるとは思うんですが、そのほかに「自分を守るためにそれまでの経験の中でほとんど無意識的に作られてきた言い方や態度」というものもあるのではないかという気がするんです。ですからそう言う場合にははっきりと「相手を傷つける意図」が意識されているわけではないんだけど、でも一種の自己防衛の手段として相手を突き刺すという行動が知らず知らずに身についてしまっている場合も有るんじゃないか、ということです。

 定型の私にはなんでそんな言い方をされなければならないのか、ほんとに理解できないけれど、でも極めて的確に、ねらい澄ましたようにぐさっと自分を傷つけてくることをされるという体験を何度か繰り返すと、やっぱり「知らないから」という理解では解決がつかないのです。そんなに偶然にできることではなく、効果を何らかの意味で知っているからそうしているのだろうと思えてしまうんですね。

 もちろん「無意識に」なんていうことを言い出せば、なんでも無意識のせいにされてしまって、「無意識の悪意の固まり」みたいに決めつけられてしまうことだってあるわけですから、この辺、すごくナイーブな問題であるとは思っていて、決して単純に決めつけられるものではないとは思うんですが、でも一部のやりとりについてはその可能性も考えてみる意味があるようには思います。

 どういう意味があるかと言えば、もしそのような意図しない無意識的な「結果的な攻撃」がある場合、それは「自分を守るために仕方なく作り出されたもの」である可能性が十分にあって、そうだとすれば、そういう「傷つけ合い」を減らしていくためには、そういう経験から作り出された言い方や態度などを、そのようなものを身につけなければならなかった事情を理解することで、「そういうやりかたをする必要がない」状態を作っていけばいいということになると思うからです。

 うーんと、つまり言いたいことは、こんなたとえ話でも説明できるかも知れません。昔パートナーとちょっと長い旅行に行ったときに、荷物をいっぱい背負ってよく歩いたんですが、なんだか知らないけど、よく腹が立ってきて、ケンカみたいになったんですね。で、私としてはなんかすごい重要な問題について怒っているのだと思っていたんですが、あるときふと気がついたんです。そうやって腹が立つのは、お腹が減ってきたときなんですね (^ ^;)ゞ。だから食事をするとすっとすっきりしたりする。ほんとに気がついたときは唖然としました。

 もちろん空腹で腹が立ちやすくなる、とか攻撃的な気分になりやすくなる、という話はとても単純なので、ここで問題にしているアスペと定型のシビアな問題にそのまま応用できる訳じゃありませんけど、要するに自分が、あるいは相手がそういう攻撃的な言葉や姿勢を投げかけてくる場合には、本人も気がついてない形で自分の安定とか安全とかがどこか危なくなっているという思いがあって(上の比喩では空腹という生理的な状態)、そこが原因になっていることがあるかもしれないと思うんです。だからもしそこの仕組みが分かれば、何か対処の仕方もわかるかもしれない。

 もちろん漠然と考えていることで、実際どうなのか、本当にそんなものを見つけることが出来るのかはまだ全然分かりません…… (^ ^;)ゞ

2013年7月11日 (木)

いじらしさ

 ええっと、最近また毎日今までになく多くのかたが熱心に何頁も読んで下さっているようなのですが(いつの間にかもうヒット数も48万頁を超えていてもうw(゚o゚)wです)、 コメントの中のするりさんの言葉を読んで、「あ~、このブログにも意味があるんだなあ。僕の願いを共有して下さる方がしっかりいらっしゃるんだなあ」とすごく深く感じて、ちょっと感動してしまいました。それは次の文章です。

「それはそれで「現実」かもしれませんが、一方でその「現実」を踏まえた上でベターな線を探る、ということも多くのAS当事者がなさっていることだと思うのです。特にここに集まってらっしゃる方たちや、社会適応しようとなさっている方達は。」

 ここではAS当事者の話として書かれていますが、定型の方でもそういう方たちが読んで下さっているのだろうと、これまでのコメントなどから推測しています。それから、

 「でも、そういう姿・・・ 「定型的共感」を持ってしたら、そういう姿を「いじらしいな」、と思いませんか?」

 と書かれていることも、実は最近私のパートナーのこれまでの生き方、今の生き方を改めて考えたときに、ほんとにそういう感じになってきていたんですね。別にのろけを言いたいわけではなくて、ほんとに「冷静に」そう感じるのですが (^ ^;)ゞ、彼女の生き方をアスペと定型のズレの問題を前提にして、アスペ的な生き方としてりかいするようになると、どれほど一生懸命、誠実に生きようとしているのか、ということを感じずにはおれないのです。

 でもそうやって彼女なりに誠実に生きようとする結果が、定型には(そして私もその一人なわけですが)ほんとに理解されないできた。そのことでずっと苦しみながら、でも必死で生きてきたのだと思うと、もう「いじらしい」という表現がぴったりの感じがします。それに比べて自分がいかにひねくれた人間なのだろう、という風にも思えたりするんです。

 もちろん変にひとを美化するのも自分を卑下するのも、結局誰にとってもいい結果にはならないだろうと思いますし、そこは私なりに慎重に考えたいと思っていますが、でもある見方からすれば、素朴にそういう風に感じることも出来る、ということはなんか否定できない気がしています。

 そういうそれぞれが持っている良さ、すばらしさを、お互いに自然に感じあえるようになれば、関係はすごく変わってくるでしょうね。そのことだけで問題が解決するわけではないと思うけど、問題に向かう上で大事な足がかりになるように思えます。

2013年7月10日 (水)

ちょっと蛇足かも……

 今日は「共感の問題にこだわる」私の記事について、玄さんからお寄せいただいたコメントを手がかりに「そもそも共感にこだわることにどんな意味がある(あるいはない)のか」ということを考えてみたいと思います。例によって「 」内は玄さんのコメントです。

 「 「共感」は社会を形作る構成要素であり、本能の一面ではあると思いますが、ちょっと「共感」にもたれかかりすぎではないですか?」

 この「もたれかかりすぎ」と言う意味は、定型が生きていくときに「共感にもたれかかりすぎ」という意味で書かれたのか、それとも私が記事で書いたような理解の仕方が「共感」という言葉や概念に「もたれかかりすぎ」と言う意味で書かれたのか、ちょっと判断に迷っているのですが、まずは前者だと仮定して思うことを書いてみたいと思います。

 アスペの方の視点から評価すると、定型社会の作られ方が「もたれかかりすぎ」と感じられるのは私にも分かるようになりました。実際パートナーには「子どものようだ」と言われてもいます (^ ^;)ゞ。 基本的に自分で問題を解決する姿勢を強く持っている彼女からすると、「問題を共有して一緒に考えて欲しい」気持ちがある私は、「自立していない子ども」に感じられるのも無理はないとも考えられるようになりました。

 そのことは一応前提とさせていただいた上で、いいわるいの評価は一応はずして、現実の定型優位社会がどんな風に作られているかというと、やっぱりその「もたれかかりすぎ」と言われるしくみで成り立っていることは、多分まちがいないんだと思います。だからこそ、アスペの方が苦労するのですよね。善し悪しはとりあえず置いて、そういう「現状の理解を試みた」という風に考えていただけると私の記事が意図したことを了解していただけるのではないかと思います。

 もうひとつ、「私が記事で書いたような理解の仕方が「共感」という言葉や概念に「もたれかかりすぎ」」という意味で書かれたとすると、その玄さんのご意見への私の説明はこんな風になると思います。

 玄さんのコメントを頂いて、改めて感じましたけれども、「共感」という言葉は本当にアスペの方にとってはすごい「おしつけ」のイメージがついてまわるものなのですね。私は「共感」という言葉を、今回の記事ではわりに「ドライ」な意味で、たんに身体の仕組みとか、言葉の遣り取りや、相手の感情を理解する(たとえば、「相手は喜んでいる」と分かるようなこと)仕組みがどうなっているのか、ということを考える「道具」として使いました。

 ですから、同じ意味が共有されるのであれば、別に「共感」でなくても、「共振」といっても他の言葉を作っても全然構わないのですが、ただ、「アスペの人は共感が出来ない」という、私には随分乱暴な決めつけのように思える言い方に対して、いや、からだの仕組みを考えても、理屈で考えても、そんなことはないですよ、ということを強調する意味で「共感」という言葉を使いました。

 またすごく「共感」ということにこだわった理由は、アスペと定型のコミュニケーションを可能にする「土台」って何だろう、ということを考えたかったからです。もちろんお互いにコミュニケーションが難しくて苦労しているわけですけれど、でもこうやってたとえば玄さんといろいろ議論が出来る、ということも間違いのない事実です。たとえそこにお互いに「誤解」がいっぱい入り込んでいたとしても、「あ、もしかして誤解しているかも」ということに気がつけることも含めて、コミュニケーションを通してやっぱりお互いの理解が進んできていることは確かだと思います(玄さんの言い方だと二つの○が重なった部分がおおきくなっていくことですよね)。

 じゃあなんでそういうコミュニケーションができるんだろうか?と考えてみると、定型同士で共有されているものとは違いがあるんだけど、やっぱり定型とアスペのコミュニケーションを支えているものがあるのは間違いないので、それを考えてみたいんです。そのときに定型的に言えば「共感」ということを可能にしている仕組みの基本的な部分は、アスペの方との間でも共有されているはずだ、と考えてみたことになります。(ただ、その基本的な部分まで「共感」という言葉で表した方がいいかは問題になりますね)

 そんなふうに「ここは共通した土台になるところ」と、そういう共通した土台を持ちながらお互いにずれていってしまうところと、その二つをちゃんと見つめていくことで、お互いのコミュニケーションを今一歩よい方向に進められるに新しい理解と方法を探そう、というのが私の意図になります。

 「僕が『「共感」にもたれかかりすぎでは?』とまで言うのはなぜかというと、もっとライトな、というか共感をそんなに押し付けてこない人が5割くらいはいる気がするのです。そして、重く押し付けてくる人が時々いる。淡い予想ですが、共感の重い人と、共感の薄い人(AS系)の両方と上手くやっている多数派がいるんじゃないですか?」

 この点については割合が5割かどうかはわかりませんが、私もそう思います。実際私も子どもの頃や学生時代など、ずいぶんと変わり者の定型でしたから、回りから理解されずにそれなりに苦労した思いがあって、「人のことなんて、ほんとに理解することは不可能だ」と思いましたし、「分かる」と言われると、「あんたに何がわかるんだよ!」とむしろ不機嫌になるときもあったりしました。ただそこで「分からない」ということで終わるのではなくて、その「分からない者同士」がどうやってつながりを作れるのか、ということにはずっとこだわり続けてきましたし、昨日の記事のように「理屈から言うとどういうことになるのか」ということにもずっと興味を持ち続けてきました。その点が定型的なのかも知れませんね。

 「重く押しつけてくる人」については、そういうタイプの人がどこにも一定程度いらっしゃるのは私の経験上もその通りだと思います。定型であっても、そういう方との距離の取り方には苦労することもあります。両方共とうまくやっている方については、たとえば仕事レベルのつながりでは結構いらっしゃるようにも思います。ただ、家族のようなとても親密な関係の中でうまくやっている方となると、かなり少なくなるようにも思います。私も修行中です (^ ^;)ゞ

 「「共感社会」と「日本社会」とは、ニアリーイコールなのかもしれませんが・・・そういった社会がはじき出しているのは、ASだけでなく、多数派から外れたあらゆる人々ですよ。 「共感が苦痛」というよりも、「共感の押しつけられ感」が苦痛ですね。」

 はい。私もまあはじき出されている方だと思うので (^ ^;)ゞ、よく分かります(と思います)。ただ、同時にやっぱり共感を求める気持ちも間違いなくありますね。押しつけられるのはいやですけど。

 「「私に共感しなさい&あなたに共感している私を受け入れなさい&みんなと共感しあっている私を認めなさい」という。 共感の仕組みとしては、他人の気持ちを「理解できる・理解した」と「認識してしまう」ことなのではないでしょうか。そこは認識論であるのに「理解」という言葉で表現してくるから、「そんな精緻な脳機能を持つ人間がいてたまるか!僕に共感はない!」という反発が生まれるわけです。」

 はい。上に書いたように私も似たような感覚を持ったこともありました。「認識論である」というのがちょっと難しくて分からなかったのと、「理解」を「精緻な脳機能」とをつなぐところがちょっと見方が違うかなと思います。

 というのは、理屈から言って、人間はお互いに違う身体を持っていて、脳の作りだって全員が違うわけですから、相手の人が体験し、思い、考えていることを、完全に同じように共有することは理屈から言ってあり得ないんですよね。その点を強調すれば「共感」なんて幻想に過ぎない、という主張になることは私なりに分かります。

 ただ、「理解する」とか「共感する」ということは、「完全に一致する」こととは別のことだというふうに考えれば、やっぱりそれがなければコミュニケーションは成り立たないわけですから、少なくとも遣り取りできるレベルでは「理解」も「共感」も可能なんだと思います。だから「精緻な脳機能」は必要ないとも言える。じゃあ、どういう意味で理解や共感と言う言葉を使うか、ということについては昨日の記事などに説明を試みてみました。うまく説明できていないかも知れませんので、どうぞご指摘下さい。

 「ここまで考えて、自分は「自分の知っている字義でしか理解していないのかも」という疑問が湧きました。定型の人が「他人の気持ちを理解する」という文章に使う「理解」は、僕の知っている「理解」とは違った、もっと感情を扱うなりの曖昧さと緩やかさを含んだ意味があるのか?とも思いはじめました。いかがでしょうか。」

 そうですね。上に書いたことになります。あ、それにトマトさんとのコメントのやりとりで、同じ事について議論されているみたいですね。ということはこの記事は蛇足だったかも……(^ ^;)ゞ
 

2013年7月 9日 (火)

共感の理解のズレ

 このところ、次々と何時にもまして、とても大事な刺激的ご意見をコメントしていただいていますが、もしかするとかずきさんのコメントについて少し考えてみると、アスペと定型の感情についての理解のズレがもう少し分かりやすくなるかも知れないと感じました。ちょっと試みてみたいと思います。「 」内はいずれもかずきさんのコメントです。

「感情は個々の管理下という感覚は持っているのですが大切な人が喜んでいたら嬉しいとか大切な人が悲しんでいたら悲しいというもの持ち合わせている私です。」

 ここは私のパートナーもそうだと思います。ただ、私の印象では私が落ち込むと、「彼女が」落ち込んでしまう、という感じではあります。いずれにせよ、後で書くことについて、この「嬉しい」という状態が一緒になる、ということは大事なポイントとして考えたいと思います。

「私の場合という限定条件ですが、それは共感の類ではなくて「この人が喜んでいる」という事実に「自分が喜んだ」だけでイコールではないんです。」

 やはりそうなんですね。私のパートナーについても同じ感じで理解すると分かりやすい感じがしています。

「「相手が喜んでいる」事は、その様子や原因などが相手の分析ファイルに入るだけで「自分が喜んだ」事も、自分の分析ファイルに入るだけでそこにつながりはないんです。」

 ここがすごくポイントになるような気がするんです。
 だいぶ前にも少し書いたことがあったような気がしますが、「共感」した感情は一体誰のものなのか、ということについて、こんな(たとえ話による)説明の仕方を読んだことがあって、私はとても納得しましたが、みなさんはどうでしょうか?まずはたとえ話に入る前に、「感情」というのを身体の仕組みで考えるとどういう話になるかをちょっと考えてみます。

 感情というのもドライに見てしまえば、脳やホルモンや、それに影響された身体のある状態ということになると思うのですが(怒りはアドレナリン、とか、なんか昔習いましたよね)、脳の感情にかかわる場所が自分の身体のその動きを一応コントロールしていることになると思います。

 それで、これも理屈っぽく書くと、脳の活動というのは沢山の絡まりつながりあった神経が興奮することで、その興奮というのは、それぞれの神経がばらばらに勝手にするわけじゃなくて、つながりあった神経がまとまりをもって、なんだか複雑なリズムを持って起こるんですよね。

 つまり、感情というものをドライに見れば、そういう脳の神経のまとまりが、なんかのリズムを持って活動し、それに応じてホルモンが出たり、身体の状態(興奮とか鎮静とか、それに応じた身体の動きとか)が起こることだ、というふうに、まあ見ることができるんだと思います。

 さて、ここで「相手が喜んでいることが分かる」というのは、なんでかというと、かずきさんの例で言えば、「相手が<うれしそうだ>」ということを見たからだと思うんですが、そのとき、(「相手のうれしい心」がテレパシーのように直接伝わるという魔法のような話はなしにして考えれば)、かずきさんが「相手が喜んでいることが分かる」のは、理屈から言って、実はかずきさん自身の「脳」が相手の姿や表現に影響されて「喜び」を感じ、そしてそのことを「相手が喜んでいる」こととして理解し、感じているという状態になるからだという説明になると思います。

 ちょっとわかりにくいかも知れないので、もう少し言葉を足して説明してみます。

 もしかずきさん自身が「(相手の)喜びの感覚」を自分の脳を使って(例の複雑なリズムとして)感じられなければ、相手の喜びと、自分の喜びが、同じ「喜び」という共通の言葉で表せるものということに気がつくことも無理でしょう。

 たとえば猿が「笑っている」表情というのがありますけど、少なくとも猿と親しいおつきあいのない私の場合、その表情を見て「猿が喜んでいるなあ」とかなんとか、その猿の感情を感じられることはないし、自分が嬉しい気持ちになることもありません。猿の「笑い」を見ても、私自身の脳に「喜びの感覚」が生まれないからです。飼い犬との関係のように、親しくなればそういう感覚が生まれていくこともあると思いますが、人間同士の場合それがほんとに赤ん坊の頃から自然に起こるわけです。

 理屈から言っても、「喜び」の感覚を「自分の脳で」感じ取ることと、「相手の喜びの表情」を「目で」見ることは、別のことです。いくら相手の「喜びの表情」を目で見ても、自分の脳(の一部)が「喜びの状態」になっていかなければ、意味の分からない猿の笑いを見るのと同じ事です。そうではなくて、相手の「表情」を見て、何らかの意味で「相手の感覚」を「(脳を使って)自分の中で」想像したりして再現できるから、自分自身の喜びの感覚を手がかりにして、「ああ、これは喜びの感覚だね」と分かるわけです。それは相手の表情が無意識のうちに影響して、相手の喜びを自分の脳を使って感じている、とでも言える状態で、自分の感情と相手の感情がなんだかごちゃごちゃに混じったような状態とも言えると思います。

 ただし、かずきさんの場合、そこですぐに「この喜びの感覚は、相手の人のもので、自分のものではない」という形でそれぞれの「ファイル」に感情の体験者と原因を入れて、それで相手と自分をはっきりわけた形で理解が安定されるのだと思います。理性的に考えれば、私と相手とは別の人間な訳ですし、身体も、脳も別のものを持っているわけですから、そんなふうにはっきり分けて考える、という理解の仕方も私も分からないではありません。


 ただしそこでその理解の仕方のもう一歩先を考えてみたいんです。先に書いたある「(たとえ話による)説明の仕方」というのがここで活躍することになります。で、まずここで仮に二つのピアノがあるとします。

 ピアノというのはご存じの通り、弦をハンマーで叩いてリズムを持って振動させ、その振動が空気を振るわせて、私たちの耳に伝わって音楽が聞こえる、という仕組みになっています。で、このとき、二つピアノが並んでいると面白いことが起こります。というのは、例えばAのピアノの弦を叩くと、同じ高さのBのピアノの弦も同じようなリズムで振動するんです。こういうのは「共振」という言葉で理科でもならったような気がしますが。

 そうすると、Aのピアノからドならドの音が出ますが、そのドの音(空気の振動)に共振したBのピアノからもドの音が出てくる状態になります。

 さて、この状態の時、果たしてドの音を鳴らしているのはAでしょうかBでしょうか。

 上にも書いたように、やぱり「AもBも」が正解で、Aだけではないし、Bだけでもないし、しかもAからBに伝わった振動は、今度はBのピアノの弦から音が出ることで、またAに逆に伝わってきてAの振動に力を与えますから、それぞれの振動は別々に起こっているものではない、ということになります。つまり「共振」状態になっているわけです。

 これがさっきの感情の話と同じ理屈になっていることはおわかりいただけるでしょうか。(あるいは何か誤魔化しを感じられるでしょうか?)何故同じかというと、どちらも「振動(リズム)が相手に伝わって、同じような振動(リズム)を相手にも引き起こす」ということで、「ほぼ同じような状態が共有された状況が生まれる」という点で、全く理屈が同じなのです。

 もしこの話に納得していただけるとすれば、「相手の人が喜んで、自分も嬉しい」という状態は、「相手も自分も」両方共が嬉しい状態だと言うことになりますし、その意味で感情の面で「共振」とも言えるようなことが起こっているのだと考えられることになります。

 もちろん、ピアノにもそれぞれ癖があって、同じドの音を出しても、音質とか微妙に異なったりはしますから、AとBを区別することも可能です。でも「同じドの音を、お互いに影響し合って出している」という点ではAとBにはっきりと線を引いて区別することが出来ず、AとBが一体となって音を出しているような状態と言えます。

 同じ事で相手の人と自分とでは、ピアノよりはるかに複雑なしくみで成り立っている脳のことですから、それぞれの個性がすごくあって、「喜ぶ」ことにもその人の個性が色濃く表れることは間違いありませんし、その限りでは二人を区別することは出来るのですけれど、「相手が喜ぶのを感じて自分が嬉しくなる。」そして「そのように相手の人が自分のことを喜んでくれているのを感じて、自分の喜びがさらに大きくなる」といったような、お互いに影響し合ってなりたつ「共振」のようなことが起こっている場合、「おなじように喜ぶ状態になっている」という意味では、二人を区別することが出来なくなるのです。

 この状態を定型は普通「共感」という言葉で表しています。そして今説明したような仕組みにもし納得していただけるのであれば、アスペの方も「相手が喜んでいるのを見て嬉しい」と感じたその時点で、まさに定型の言う「共感」ということが生じていることになります。そこは定型もアスペも基本は同じだと考えられる。

 違うのは、そのあと、アスペの方は「しかしこの喜びは私のもので、あの喜びは相手のもの」という風にお互いの違いの部分をとても重視されるという点だと思います。そのためにかずきさんが言われるように「共感ではない」という理解の仕方がなされることになるのでしょう。

 ではなぜ定型とアスペと、基本の所で共通するものを持っていると考えられるのに(強弱はあるかも知れません)、そのことについての理解の仕方、表現の仕方、感じ方がこんなに大きく異なっていくのでしょうか?

 そこでひとつ大事な問題が、かずきさんの次の文に表されていると思うのです。

 「ただ、そこで「自分が喜んだ」事を表現してしまうとトラブルが多く起こってきた経験から「自分の感情をアピールすること」=「余計なトラブルを招きやすい」という意識が強いです。「皆」とズレが判明すればここぞとばかりに叩かれる世の中ですから「調子に乗らない」とか「思い上がらない」とか「弱みになること(この場合感情の表現)を控える」とか相手を心配していればしているほど、強く求めてしまう傾向があると思います。」

 定型とアスペで、生まれながらに脳の働かせ方の違いがある程度ある、という可能性はもちろんあります(ただし、大人の脳でその働きの違いが見つかったとしても、それは生まれつきなのか、育つ過程でつくられたものなのか、どっちもありうるし、また両方が複雑にからんでいる可能性もあるし、簡単に決められることではないと私は思っています)。でもここでかずきさんが強調されていることは、生まれつきの問題と言うより、これまでの人生経験の中で共感される体験が少なく、むしろ否定される体験を繰り返してきたことで、感情の表現をしないようになっていった、ということですよね。

 なぜ共感される体験が少なくなるのか、ということはまた別に考える必要がありますが、とにかく「共感」ということはアスペであれ定型であれ、たとえ強弱などには違いはあるかもしれなくても、仕組みとしてはどっちも持っているにも係わらず、アスペの方は「共感は成り立たない」という体験がベースになって、そのことを前提に相手との関係の取り方を考えるようになっていく。それが安定してくると、「そもそも共感なんて幻想に過ぎない」という理解の仕方も強まっていくことになります。

 逆に定型の場合は「共感」が成功する場合が多いですから、そちらを強調してより「共感を求める」方向で自分の生き方を作り上げていく。当然「共感」を作り上げるいろいろなテクニックも自然に上手になっていくことでしょう。そしてその「共感」に支えられて生きる生き方を身につけていき、「共感」を得られないことに不幸を感じるようになっていく。

 そういうふうに感情の表現がもたらす結果について、すごく異なる体験を持ち、異なる感覚を育てているので、定型のやり方を見ると、かずきさんはたとえばこんな風に感じられるわけです。

 「 「~して、何がしたいの?」「それを伝えてどうして欲しいの?」という疑問は私の場合「~は弱みになり易いけど、自覚してるの?」に近い感覚で聞きます。相手に攻撃の隙を与えている事に気付いていない様子なので。」

 実際は定型同士の関係では「~は弱みになりやすい」ことはなくて、むしろお互いの関係を深める上で「強み」になることが多いのですが、定型とアスペの関係では少数派のアスペの方にとってそこが「弱み」と感じさせられるような状況を生きていらっしゃるのだ、ということだと思えます。だから「相手に攻撃の隙を与えていることに気づいていない」のではなくて、定型的にはそれは「絆をつくる手段」として無意識に、自然にやることなのですが、かずきさんにはご自分の体験から、そうは感じられないのですよね。それもまたかずきさんの経験を踏まえて考えれば、当然のことに思えます。私のパートナーも同じような感じだと思います。

  「それに「一緒に喜んで欲しくて」と答えてくれれば、共感して欲しいんだと分かりますが大抵の場合、機嫌を損ねてしまいます。そんなことで機嫌が悪くなるくらいなら大して喜んでないのではないかと思うのですがどうも違うのですよね?」

 そうなんです。この「どうも違うのですよね」と感じて下さったことはとても大きな事だと思います。どう違うのかを上に長々と説明をしてみましたが、はたしてうまく理解が共有されるでしょうか?パートナーにはしばしば「あんたの話はくどくどしくてわかりにくい」と言われるので、ちょっと自信がないのですが (^ ^;)ゞ

「なぜ、「共感して欲しい」と素直に伝えないのでしょう?共感して欲しいと伝えてないのに答えてもらえないと怒るのでしょう?」

 これは定型の側が、そのこと(「共感して欲しい」)を言う必要がある、という考え方が全然なくて、「言わなくても当然そういうことは相手に伝わっている」と思いこんでいるからそうなるんだと思います。そのことは定型にとってはあまりに当たり前のことに感じられるので、その「定型にとっての」当たり前に反する応答をされると、全く予想外のことでびっくりしてしまい、「なんでこんなに当たり前のことをしてくれないんだ!」と怒りだしてしまうのだと思います。これは「相手の人も同じ感じ方を当然に共有している」という思いこみの結果ですよね。そこに違いがあるんだ、と知っていれば、すこしは変わるはずなのに。

 「言わなければ伝わらないのに感情や思いを伝えずに相手に察することを強要する相手が察せなければ相手を責めるこれが当たり前となっている異常さに皆が気付くべきでは?と考えています。」

 定型にとっては、多数派の中で自分のやり方はうまく行くことが多いので、それで全然問題ないんだと頭から思いこんでしまっていると思います。だから、「それ以外のやり方がある」と気づくのはほんとうに難しいことなんですね。私もカナータイプの自閉の子との付き合いは結構あったにも係わらず、パートナーのアスペの問題についてはそういう理解にたどり着くのにものすごい時間がかかってしまいました。そのくらい、難しい問題だったんだと思います。こうやって、すこしずつ対話の中で見えてくるものが蓄積されていけば、もっと早く気づくきっかけも出てくると思いますけれどね。

「と、ずっと考えていますが、考えることに疲れてきました。何をどう考えていけば建設的に定型との関係を保っていけるのか日々会話がなくなっていく家で一人考えています。」

 あくまでうちの経験ですけれど、やっぱり彼女がアスペだと言うことを自分で理解して、私に話してくれて、アスペと定型のコミュニケーションのズレの問題としてこれまでの二人の様々な葛藤をもう一度理解し直して、次の新しい関係を一緒に模索していこう、という気持ちにお互いになったこと、その上で会話を成り立たせるにはどうしたらいいのか、というような基本的なことから始めて、ほんとに手探りで進んできたことにはそれなりの意味があったように感じています。ですから、「一人で考える」ことにはどうしても限界があるし、疲れてしまうのも無理ないという面があるように思いました。

2013年7月 8日 (月)

感情を意識すること

 また少し考えが進むところがありました。

 昨日書いたのは、アスペの方は感情を人との関係をつないだり切ったり、調整したりするものとしてはあまり考えることがない、というかなり強い傾向をもたれていて、その点で感情のやりとりによって人間関係を作り上げる定型との間でお互いに理解できないコミュニケーションが生まれてしまうのではないか、ということでした。

 ですから、定型は「言葉」の直接の意味だけではなく、その「言い方」や「言外の意味」などに感情を載せて、そこでいろんな人間関係上の調整をしているのだけれど、アスペの方にはそこは伝わらない。アスペの方は人間関係の調整はそういう感情的な遣り取りとは別の面で行われるものであって、「言葉」はそのままの意味で考えるという基本的な態度をお持ちなので、定型の言葉の使い方に大変に混乱され、しばしば不信感をもたれる。

 というふうに、アスペの方にとって感情の調整は基本的に「個人の内部で行われるもの」になっているわけでしょうね。だから定型は特に親しい関係にあるアスペの方とのやりとりでとても寂しい思いをすることになります。

 さて、今日少し考えが進んだことは何かというと、玄さんやトマトさん、ナナセさんのやりとりの中で改めて問題になっている「感情を意識するかどうか」ということについてです。

 この問題、「感情を言葉にして自覚したり表現したりするか」ということととても深いつながりがあると感じています。というのは、自分の経験していることを「言葉にする」ということの意味は、たとえば相手にそれを伝えることですし、また自分でその経験を言葉の形で記憶して、それについて考える、ということだと思います。

 だから、たとえばナナセさんが「最初にトマトさんの書き込みを読んだ時は「ある気がする。」と思ったんですよ。でも自分のメモリーをザッと検索したら具体的な記憶が全くなく、自分でもびっくりでした。」

 と書かれていることは、とても分かりやすいことだと思うんです。つまり、アスペの方の多くは、感情的な体験を「言葉」という形で「記憶」しておくことがない(か非常に少ない)から、後から改めて意識的に思い出そうとして、思い出せないということです。

 つまりこんな理解の仕方が成り立ちそうです。

「アスペの方の多くは自分の感情体験を個人的なものとして、人とやりとりするという姿勢はとても薄い(という文化?を持っている)」
=「自分の感情的体験を言葉にしてやりとりするということも少ない」
=「自分の感情的体験を自分で意識的に自覚したり、思い出したりということも少なくなる」

 定型はその逆のパターンですね。そんなふうに理解すると、お互いの「分からなさ」が少し分かってくるように私は感じましたが、どんなものでしょうね?
 

 

2013年7月 7日 (日)

ちょっと悲しかったその後

みなさま

 「ちょっと悲しかったこと」などにいろいろ思い遣りの言葉や大事なコメントをありがとうございました。久しぶりに、全く予期しないところから、すっとカミソリが入った感じになってしまって、以前ならそれを「意図的な攻撃」と思いましたから、即座に「防衛体制」に入るところ、今はそういう意図がないことは頭でよく分かっているし、逆に私の反応を見てパートナーがいろいろ申し訳なさそうにしたり、気を遣ったりしてくれるのも分かるので、なんだか血を流しながら静かに横たわって傷を癒す、という感じでした。

「パンダさんと奥様の今回の会話は、弾んだ気持ちで「嬉しかったよ」と報告した時に『そういう話を人に言いふらすことに意味があるわけ?』と言われたら・・・ 言葉を失いボーゼンとして「言いふらすって・・」と立ちすくんでしまうだろうなぁ という強い共感を勝手に感じてしまったのです。」

 と言うコメントや、ボビーさんのコメントをいただいて、あくまで「定型としては」という条件付きですが、自分の気持ちの動きもやっぱりそんなに不自然なものではないんだよな、と確かめた気持ちです。

 今日もパートナーとそのときのことについて話をしたんですが、

「トマトさんへのお答えとして少しだけASを擁護するとすれば、「うれしい」「悲しい」は、非常に個人的な財産で、自分で密かに消化して日常に戻るべきもの、という文化がある、という感じです。「気持ちの一致の喜び」も、厳密には確かめられないので、自分の中で喜ぶスタイルです。 感情的なアップダウンは判断を誤らせる原因になるので、お互いのためにマナーとして極力排除します。」

 というコメントなども参考にしながら、どういうふうに考えて「人に言いふらすのか?」という疑問が彼女に生まれてくるのか、私なりに考えてみました。ああ、もしかしてこういうことかもしれないなあと、私自身は多少理解できるように思えてきたのですが、それも「定型的」な偏った理解かもしれません。そのあたりはまたパートナーとも少しずつ考えていきたいし、玄さんや皆さんのご意見も参考にさせていただければと思っています。

 どういうことを考えたかというと、玄さんの表現は少し微妙なところがあるような感じもするのですが、パートナーの話とか振る舞いを見聞きしていても、基本的に「うれしい」とか「悲しい」とか、あるいは「感激する」「腹を立てる」といった「思い」はアスペの人だって当然のようにあるのだと感じます。

 ただ、定型とアスペで大きく異なるのは、まずひとつめとしては、そういう「思い」(定型的に言えば感情でいいんでしょうが)を抱いたときに、それを他の人に表現するかどうか。伝えたいと思うかどうか。相手にも同じ気持ちになってもらいたいという感覚を持つことがあるかどうか。ということではないでしょうか。

 この点で言うと、前に蓮の花について書いたことがあるように、パートナーもまれにですけれど、伝えてくれることはあります。また羽化さんも写真という手段を使って、あるいみしずかにひっそりと自分の感じた世界を他の人にも見せてくださっています。そういう伝え方はあるんですよね。でも決して「ほら、これ美しいでしょう!」とか、そういう伝え方ではなくて、ものすごく控え目な伝え方です。そのことについてはナナセさんも こんなふうに表現されていました。

 「蓮を「綺麗でしょう?」と言わなかった奥様の行動とは私の気持ちが合致します。反対に「綺麗でしょう?」、「美味しいでしょう?」、「面白いでしょう?」などと前もって言われると、一気に心のシャッターが閉まるような感覚がするのです。もうそこでお終いというような。」

 「思い」はそれぞれの人がひっそりと自分の中で感じ、味わうもので、自分の思いを直接人に伝えると言うことは相手に対する押しつけになってしまう。できることは自分が「いいな」と思ったそのものを相手の人にも見せてあげることまで。あとはその人がその人なりの思いを味わってくれればそれでいい。アスペの方の姿勢にはそんな印象を持つのです。

 そしてもうひとつ、そのことに深く繋がる問題のように思えるのですが、次のことが大事な意味を持つのではないかという気がするのです。再び玄さんのコメントにヒントを得させていただきますが、玄さんは定型同士で感情のぶつかり合いがお互いの感情の対立を解決することがある、という意味の私の文章について、そんなことがどうしてありうるのか?という疑問を書いて下さっていました

 「申し訳ないのですが「感情をぶつけあう喧嘩」というのがよく分かりません。何が食い違ってケンカになって、どう収束して仲良くなるのか、よかったら教えて下さい。」

 「怒りの感情と人間関係(仲直り)とは次元が違うように思えます。」

 ここに書かれていることは「雨降って地固まる」というのとはだいぶん違った見方のように
思います。知り合いの中国人に教えてもらった中国のことわざには「ケンカをしなければ本当の仲良しにはなれない」というのがあるそうですが、それとも違うし「ケンカするほど仲がいい」という日本の言葉とも違う。

 つまり、定型はお互いの感情をやりとりして、そこで絆を深めたり断ったり、あるいは調整したりと言うことをよくしていると思うのですが、アスペの方にとって感情というものはそういう意味を持たないのではないだろうか、ということを思ったわけです。

 そう考えると、たとえば辛い思いをしているときに、人に慰めてもらって支えられる、とは思えない、というパートナーの言葉の意味が分かる気がします。感情はあくまで個人のものであって、相手の感情を自分がどうこうすることはできない。ただ見守ったり、物理的に支えたりすることだけで、あとはその人が自分で解決するよりないのだ、という感覚。

 だから病気をして辛いときは、側にいて励まされるよりも、一人そっとしておいて欲しいと感じるし、また身近な家族が病気になったときも「一人にしておいてあげる」ことが大事だと考える。


 定型にとっては感情というのは「お互いに影響し合うし、感情的コミュニケーションによって人は支えられたり、逆に傷ついたりする。人の幸せも不幸もそのことと深く関係している」という感覚がとても自然だろうと思います。感情的に支えてもらえる人が多ければ、あるいは深く感情的に支えてもらえる人が一人でもいれば、とても幸せだと感じる。

 その点で、なぜなのかはまた改めて考えなければならないことだと思いますが、アスペの方の「自然」はそうではなく、あくまでも「個人のこと」と感じられている。

 
 仮にそんな風に理解をしてみると、「言いふらしたいのか?」というパートナーの疑問が私にも分かるような気がするのです。なぜなら、私が自分のそのうれしさを彼女に伝えることに意味があるとも必要があるとも彼女には思えないからです。もしそうなら、そんな意味のないことをわざわざ言ってくる理由を考えると「この人は<自分は人気がある>と自慢したいのだろうか?」とでも考えるよりなくなってくる。


 パートナーにその理解を話してみましたが、まだすっと納得するようなものではないようです。それは彼女の場合、人に説明されたことを自分なりに理解するためにかなり時間を使う傾向があるからなのか、それとも私の理解の仕方が不十分なのかはよくわかりません。ただ、一つの可能性として、そう考えると私にもあの発言の意味が分かるような気になりますし、それだけではなくて、「感情」という問題について、アスペと定型の間でどういう感じ方のズレがあるのか、ということについても、今まで疑問だったことのいくつかが分かってくる感じがします。
 
 ところで玄さんが

「パンダさんはパートナーさんの言葉の解釈として「自分の思い違いに過ぎなかった、という体験を繰り返した」と記されていますが、僕には「思い違いかどうか確かめられない」ので、表に出す勇気がなく、体験にはなりません。」

 と書いていらしたことについては、私のパートナーが「思いすぎに過ぎなかった」ということを感じたのは、自分がアスペルガーだということを自覚してから後のことでした。それまでは「仲がいいと思っていた人がいつのまにか離れていってしまう」ということを繰り返し体験してきたことについて、「仲がいいと思っていた」ことが勘違いだったのだ、という理解をするようになったようです。体験の事後的な解釈という感じなのでしょうか。

2013年7月 6日 (土)

ちょっと悲しかったこと

 仕事上のおつきあいの方と久しぶりにお会いして仕事の話をすることになったんですが、気が合うというのか、単に「仕事で会う」ということだけではなくて、久しぶりに会えることをその方がとても喜んでくださったんですね。

 で、私もうれしくて、その話をパートナーにしたんです。そしたら、ちょっと言葉は正確ではないかも知れませんが、「そういう話を人に言いふらすことに意味があるわけ?」という反応でした。

 「いや、言いふらすって、○さん(パートナーの名前)だから言うんだけど。誰にでもいう話じゃなくてね。嬉しかったし、○さんは僕のことを心配してくれているから、いいことがあったら伝えたいし。」というような説明をしたんですが、納得がいかないようでした。

 パートナーが嬉しそうにしているときは私も嬉しい気持ちになるし、しんどそうな顔をしているときには私もつらくなるし、そして同じように私がつらそうな顔をしているときは、パートナーも落ち込んだ感じになるわけです。そういうこともあるし、嬉しいときには嬉しいことを伝えたく自然になるんですね。

 それからしばらくしてその話になったんですが、「相手が自分(パートナー)との関係を喜んでくれている、というのが、単に自分の思い違いに過ぎなかった、という体験を繰り返した。」ということと、「パンダは相手から喜ばれていると過剰に思いすぎる傾向があるんじゃないか」という危惧感とを抱いているから、そういう話を聞いても素直に喜べない、というのが(私が理解できた範囲での)とりあえずの彼女の説明でした。

 その説明を私自身がすっと気持ちで納得できるわけではありませんけれど、理屈としては理解は出来ます。でもやっぱり寂しいという思いは誤魔化すことが出来ませんね。彼女も「一緒に喜んであげられないことは申し訳ないと感じる」と言ってくれるのですけれど。

 トマトさんじゃないけど、寂し~!

2013年7月 2日 (火)

ちょっとうれしかったこと

 昨日ふとそんな気になって、平原綾香が歌う「なごり雪」を聞いていました。それに気がついたパートナーが「イルカ(の歌)聞いてるの?」と言った後、「ずいぶんセンチメンタルな歌を聴いてるんだね」と言いました。

 そうなんです。ちょっと感傷的な気分に浸っていたんです。

 会話はそれだけで、それ以上何を語り合ったわけでもないんですが、なんだかちょっと嬉しい気持ちになりました。私の気分を理解してくれたような気がして……

 いや、ただそれだけの話でした (^ ^;)ゞ


 

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