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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年6月30日 (日)

定型はなぜ普通にこだわる?

 ときどきアスペの方から「なんで定型の人はすぐに<それが普通だ>とか<常識だ>、<当たり前だ>という言葉にこだわって、そこに逃げ込むのか」という疑問を投げかけられます。たしかに私も「そんなの当たり前じゃない」という「反論」をときどきしていました。なんかそう言わずにおれない気持ちになるんですよね。

 何故なんだろう、と考えてみるのですが、まずひとつ言えそうなことは、アスペの方との間で言い争いになった場合、やはり世の中では定型の方が多数派ですから、たとえその場は一対一で言い争っていたとしても、定型の側は「私の言っていることは、他のみんなも認めることだ」という思いが湧いてくるんでしょう。そして「みんなも認めているみたいに、私の言うことは常識だし、正しいことなんだ」ということで自分の言うことをアスペの人に認めさせようとする。少なくとも「自分はそんな変なことを主張している訳じゃないんだ」ということを納得してもらおうとする。

 ところがこの言い方はアスペの方にとっては納得がいかないか、腹立たしいか、あるいは場合によっては訳の分からない言い方になるのでしょうね。だから最初に書いたような疑問が出てくる。

 そこでふと思ったことがあるんですが、私が「だって、それ普通のことでしょう?」とか「常識じゃない」とか言いたくなるときはどんなときなんだろう、と考えてみると、パートナーから「あなたの言ってること(ややってること)は非常識だ」と責められているように感じる場合が多い気がしたんです。と言っても、彼女が実際に言葉でそういうふうに言うわけではありません。ただなにか言い方が「あなたがおかしい」という断言調で言われる感じがして、それがかちんときて、それでつい「私の言うこと(やっていること)はみんながやってる普通のことなんだ」と言いたくなってくるみたいなんです。

 結局そういうときの話はすれ違ったまんまで何も解決されないわけです。

 なんでそういうことが起こってしまうのか、というと、もしかしてこんなズレが有るんじゃないかと思いました。つまり、アスペの方は「個人として考える」ということが基本にあるように思うので、自分が正しいと思ったことをストレートにそのまま主張する。それに対して定型の側は、もちろん自分が正しいと思えるかは関係しますが、同時に「他の人たちにもその考えは通用するか」ということを結構気にしている。

 それで定型の場合は主張をする場合にいくつかの仕方を使い分ける気がするんです。たとえば「自分はこう思っているんだけど、他の人が認めてくれるかどうかは自信がないなあ」というレベルの主張、「自分はこう思うし、多分みんなもそうじゃないかな」と思えるレベルの主張、そして「自分はこう思うし、みんなもほぼ確実にそう思っている」と確信できるような主張。もちろん一般的に言えば、「みんなもそう思っている」と感じられる主張ほど、断固として主張しやすくなるし、そうでないほど、自信なく、「もしかするとこうかも」という感じの弱い主張になって、相手に反論されるとすぐに考え込んだりすることになります。

 これに対してもしかすると、アスペの方の場合は、基本的には「自分が正しいと思うかどうか」ということが一番重要な基準で、「相手がそれをどう思っているか」ということについてはあまり気にならないか、あるいは「そんな相手の考えていることなど、分かるわけがない」という感覚を強くお持ちなのかもしれないと思ったんですね。そうすると、自分の意見を主張するときに、定型のように「回りがどう思っているか」によって、主張の強さを変える、みたいなことはなく、どれも「自分が納得している意見」として堂々と断固として主張されるのかも知れない。

 もしそういうことが起こっているのだとすれば、ここでアスペと定型の間に、相手の主張の仕方についての勘違いが起こる可能性が出てくるのではないでしょうか。というのは、定型から見ると、アスペの方が「私はそれが正しいと思う(考える)」ということで、ぐいぐいと自信を持って(?)主張されてくるように見えるわけです。それは定型的な解釈では「その意見は当然大多数の人にとっても常識だ」という理解があるからアスペの方はそういう言い方をするのだ、というふうに感じてしまう。

 つまり、アスペの方の主張の仕方は定型にとって「私は常識を言っているのだよ」という主張にも聞こえてしまい、それに対して自分(定型の側)が自分の主張を振り返ってみて、周囲のみんなも同じような意見の筈だと思うと、「いや、私の方が常識なんだ」という形で対抗したくなるのではないかと、そんなふうに考えてみたのです。

 このことももしかすると「アスペの方の言葉は裏表がなく、そのまま素直に受け止めるべきなのに対して、定型の言葉には二重三重の意味が含まれていてそういう使い方をする」と言われる事とも繋がってくる問題なのかも知れません。

 何故かというと、アスペの方素直に「自分の主張」をされるのに対して、定型の場合は自分の主張」をするときに、(大体は無意識にだと思いますが)「他の人はその意見にどの程度賛成するだろうか」という見通しみたいなものを入れ込んで主張をする、ということをやっているんだと思うんです。そういう言葉の使い方、主張の仕方、言葉への意味の入れ方のズレが、お互いにズレた解釈を生んでしまって、すれ違った議論になってしまうのかもしれないですね。

 ひとつの可能性としてそんなことを考えてみました。

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コメント

 最近私もつくづくそう感じていました 

 人間は皆、自分の育ってきた環境や親からの育てられ方+本来持っているもので人格が形成される思いますが・・・

なぜに?どうして? こんなに話が噛み合わないのだ? 常識とか考え方とは人それぞれですが 日本人ならではの「郷に入っては郷に従え」ってあると思うのですが

ASは「何が普通なんだ? 誰が言えば普通なんだ? 普通って何人の人が言えば普通なの?」と来る  なので最近では「一般的な考え方は・・・」と言葉に変え

 会話をする時は できるだけ感情を入れない(入れると嫌がる) でも 人間には感情があるのだ 感情を入れて事実はねじ曲げようとは思わないのだが 

どうも 意図的にねじ曲げようとしている 話を誘導していると取られる 勿論夫と話をするのにそこまでの頭はない  そうなると 収集がつかなくなりお互いにそれこそ感情的になって 喧嘩腰になるというパターンです 

ボビーさん

 「お互いにそれこそ感情的になって 喧嘩腰になる」

 やっぱりお互いに感情的になっちゃいますよね。
 定型同士だと、感情をぶつけ合うことで「雨降って地固まる」になって、
 却ってお互いの関係が深まることも少なくないと思うんですが、
 アスペと定型のズレを抱えながら感情的にぶつかると、
 ほんとにそうなりにくいと、私は自分の経験では感じています。

 だからある意味感情を抑えて理性的に対処する方法を考えるけど、
 でもそもそもずれている部分が「感情のあり方」の部分だったりすれば、
 「感情を抑えて理性的に話し合って問題を解決する」
 ということが無理と言うことにもなりますよね。

 そこがほんとに難しい。
 それで「感情を抑えて」ではなくて、かといって「感情的に相手を否定する」
 のでもなくて、「お互いの感情を理解する」道を探ろうとしているわけですが、
 まあ、ほんとに難しいことです…… (^ ^;)ゞ

 ボビーさんの場合も、単にお二人の間の関係の問題だけではなくて、
 パートナーの方が仕事で定型の人々と抱えているいろんな苦労に
 怒りを貯めていて、それがボビーさんにも向けられる、という要素も
 有るのかも知れないし、そうなるとますますややこしい……

 私自身、ほんとに「牛歩の歩み」というのか、
 迷いつつ迷いつつ、半歩ずつでも歩いていくしかない、
 という感じがしています。
 (でも、気がついたらぐるっと回って後ろの方に歩いていた、とかだと
 しゃれにならないですけど…… (^o^) )

こんばんは。玄です。
申し訳ないのですが「感情をぶつけあう喧嘩」というのがよく分かりません。
何が食い違ってケンカになって、どう収束して仲良くなるのか、よかったら教えて下さい。

言い争いの状況の一例ですが、僕が「それは重大なルール違反だ」と感じることがあると、それを大きい声で強く伝えることがあり「感情的」だと評価されることがあります。違反行為は正すべきでも、その人をキライとかではないので、話が終われば僕は元の状態に戻ります。ケンカと思わない時も多いくらいです。ところが、むしろ「感情」を幻視した相手の方が、いつまでも引きずる印象があります。こちらは行動面の修正すべき点を指摘しているだけなのに「あなたの気持ちがわかった」とか言い出します。

何が言いたいのかというと、持って行きたい話のスジが、互いに違うのでしょうね。ASを相手に「感情を探る」というのは、「痛くない腹を探られる」ような居心地の悪さかも。
定型にとっては論理的に問題点を整理されても、感情の落とし所がないと腑に落ちないのでしょうね。

「普通」という言葉に抵抗を覚えるASは僕を含め、多いようなので、とても興味深いポイントです。
定型は「普通」という言葉に、ASが捉えにくいニュアンスを持たせて運用しているようです。一方、ASは自分の捉えられる意味の範囲で「普通」という言葉が使われていないことに憤慨し、知り得ない存在の不気味さに怯えている。そのために決然と「普通」という言葉を使った意味を聞く、というのがありがちなのでは?

 私(定型)の中の普通とは色々な意味があり 普通→一般的→自分の中の常識になる 
常識とは前に書いたが 生まれ育った環境(親からの影響)社会に出てから身に付いた物 今の環境から身に付いた物 と思う

 当然、ASも同じだが 生まれ育った環境がそもそも定型とは違った物にもなりうる 社会に出たら捉え方も違うだろうし 、ASの両親はどちらも或いはどちらかがAS傾向がある場合が多いはず、そうするとそもそもの常識が定型家庭とは違ってくるし 物事の捉え方も当然違うはず、 

 なのでどちらの常識も存在するはず、 だから定型と発達障害はそもそもの常識が違っているのも当然と思う 

 その中での議論になると当然のように噛み合わないだろうしとかくASは色黒つけたがるが 定型はグレーの線でもありなのだ でもでも ASはプライドが邪魔して一歩も譲りたくない 自分が例え間違ったと思っても 認めない 

 そううち、感情を入れた発言をすると誘導してるとか事を大袈裟に言ってるとか 挙句に捻じ曲げるとか なる おそらく玄さんのおっしゃる 「知りえない不気味さ」とは このことなのかな?と思います

 ↑ 色黒←白黒の誤りです^^;

ボビーさん、コメント有難うございます。よろしくお願いします。
ボビーさんのおっしゃるとおり、「常識」の内容が違っていると考えていいと思います。
なるほどASは「白黒つける」のが好きなように見えるのですね。
どんなことに「白黒」つけてきましたか?
僕の感覚で恐縮ですが、白黒の線引きを強弁する事案は、なにかそれを決めるに至った経緯がありそうです。
グレーで済ませられるなら、そうすると思います。
グレーを受け入れるには、パラダイムシフトが必要な状況なのだと思いますよ。
自分の考えに固執する態度を「プライド」や「頑固」と表現されるかもしれませんが、何が「邪魔をしているのか」は考える価値があるかもしれません。
この考えは「AS側の考えを改めさせる」ことに固執すると見失いがちです。

僕のヒントとしては、その考えが「感情を排除して」たどり着いた結論の可能性です。

トマトの、ものすごく個人的な定型側私見です。

「定型ってこうだよね、その点、ASってああだよね」
という言い方で、定型の日常会話は進んで行きます。それは主旨やニュアンスや、言っている人の経緯や気持ちを「感じながら聞いている」からだと思います。
相手の歴史や環境や性格を知っていると、さらに安心して、細部の言葉を省きます。
「主語がなくて、目的語をアレ・ソレ・コレと言い換えても、文法的にメチャクチャでも、すごく偏見の強い断定口調でも、本心と真逆な強がりでも、主旨が解ればOK」
これが定型の、リラックスした日常会話だと思います。(誤解や勘違いがあろうとも)

ASの人と話す場合、
「定型の一部にはこういう傾向の人も居ると私個人は思うのです、その点、ASの人の中にはああいうタイプの人も居るのではないかと考えます」
という言い方になります。
文法的には間違いは無いか? 十羽ひとからげの表現になっていないか? 相手の嫌いな言葉を使ってないか? 断定表現になっていないか?・・・・ 
とにかく国語に注意を払わなくてはなりません。
どこかにしくじりがあれば、主旨ではなく、ひとつの言葉尻や表現を問われ、そこから別のテーマが勃発し話の力点はソレまくり「何の話をしてたんだっけ?」になるパターンは多いと思います。

定型の日常会話の多くは、へたくそな草野球を楽しんでいるような図で、へろへろ玉でもちょいと乱暴な球筋でも「ヘイヘイOK」と流して、だいたいを「セーフ」にしてる。

ASの人との会話は、ボール・ストライク・アウト・セーフを公式戦並に精査される感覚。

定型の、あまりのルーズでずさんで乱暴な会話に、混乱したり悩まされるAS。

玄さんの
【自分の考えに固執する態度を「プライド」や「頑固」と表現されるかもしれませんが、何が「邪魔をしているのか」は考える価値があるかもしれません。】
というコメントに私は
「邪魔をしているのは、プライドや頑固ではなく、他の概念が存在することを知らなかったから瞬時には受け入れられない立ち止まり状態ではないか」
と思うのですが。


玄さん みなさん

 「申し訳ないのですが「感情をぶつけあう喧嘩」というのがよく分かりません。
何が食い違ってケンカになって、どう収束して仲良くなるのか、よかったら教えて下さい。」

 という玄さんの質問、とても興味深いというか、いろいろ考える手がかりが
 得られるかも知れないという気がしました。

 「感情をぶつけ合う喧嘩」というのは、どう説明したらうまく伝わるかわかりませんが、
 とりあえず手探りで書いてみますね。

 まず、前提として、人と話をするとき、怒りだとか悲しみだとか恐れだとか喜びだとか、あるいはいらだちだとか、いわゆる感情というものが面にほとんど出てこない場合があると思います。たとえば、「そこのお醤油取ってくれない?」と言い、「これ?はいどうぞ」と渡し、「ありがとう」と受け取る。これも簡単な会話ですが、このとき普通はなみだを流しながら話したり、大笑いしながら醤油を受け渡ししたりすることはなく、たんたんと事が進んでいくと思います。

 「○○に行くにはどうしたらいいの?」というような「行き方を聞く」会話でも、少なくともやりとりがうまく進んでいる場合は感情はほとんど表に出てこないと思います。

 こういう場合はどちらも平静に、冷静に話をしている状況という言い方が出来ます。

 ところがたとえば「○○に行くにはどうしたらいいの?」という質問に対して、相手が知っているにも係わらず、「そんなの自分で調べれば」と無視されたとします。ここでアスペの方ならどう感じるかはよく分かりませんが、少なくとも定型の場合、大体はちょっとむっとして、気分が悪くなるでしょう。怒りの準備段階みたいな状態です。それでもまだ怒りを表に出すことなく、さらに「そんな意地悪言わないで教えてよ。知ってるんでしょう?」と聞いたとします。そこで相手が教えてくれれば、まあちょっとからかわれた、位で遊びの範囲で問題は起こらないと思いますが、そうではなくて全く無視されたり、「自分で調べろっていってるでしょう」とぶっきらぼうにまた言われたとします。そうすると、定型なら多くの場合、怒りのレベルがさらにアップして、「喧嘩の準備OK」みたいな状態になるでしょう。

 もちろん同じ定型でも、そこで喧嘩に行きやすい人(や場合)も、我慢して「あ、そう。じゃ自分で調べるわ。」と言いながら、こころの中で「なによ、このけちんぼ!」とつぶやくことに留める人もあると思います。問題は喧嘩に行きやすい人の場合ですね。「あんた、なんで教えてくれないのよ!」とその会話は「おしえてちょうだい」という依頼の会話ではなく、「相手を責める」会話になっていくでしょうし、当然のように感情的には怒りが湧いてきていることになります。

 さて、この場合、相手の人が教えない理由ですが、もちろんいろんな場合が有るでしょうけれど、ひとつ考えられることはその相手の人自身が何かに苛立っていたり、怒っていたりして、「あんたなんかに親切に教えてあげたくない」という気持ちを持っていたり、「私は怒っているんだからね」ということを暗黙のうちに伝えようとしたりしている場合がありえます。

 ということは、そういう場合は、やりとりをしているふたりの感情状態はもうどっちも「怒り」の状態になっているわけですね。そうなると、最初の「道を聞く」という会話のテーマはどこかへ飛んでしまって、「なによ、あんた!」「あんたこそなによ!」というような怒りの感情のぶつけ合いになり、さらに「私は○○のことで怒ってるんだからね!」みたいな別の話になっていったり、その後の展開がひどいときには暴力的な喧嘩になる場合もあり得るでしょう。

 たとえば一つの例としては、こういう方向へ進むとき、私は「感情をぶつけ合う喧嘩」という風に表現すると思います。

 もうひとつだけ例を挙げるとすれば、お互いに相手の言うこと、主張することがよく分からなくて、一生懸命説明するんだけど通じないとか、一生懸命聞くんだけど理解できない、ということが続くと、だんだんと(定型の場合?)怒りがたまってくることがあります。「なんでこんなことがわからないの?」とか「なんでもっと分かりやすく説明できないの?」とか、理解できないことの責任を相手に求めて、いらだちをぶつけたりすることもあります。学校の先生が分からない子どもに勉強を教えるとき、だんだんとそうなってしまう場合もあると思います。

 こういう場合も、もともとの「相手の知らないことを伝える(教える)」というコミュニケーションが、いつの間にか「相手を責める」怒りのコミュニケーションに変わってしまっています。こんなときにも「感情をぶつけあう喧嘩」になると思います。

 以上のようなことでどこまでうまく説明が出来たか分かりませんが、とりあえず次に進むことにして、そういう感情のぶつけ合いからそれが修復される場合はどのように、という質問について説明をしてみたいと思います。もちろん例です。

 先程の例を使うと、「道を教えてくれない」人は、「自分はあなたに怒っているんだからね」ということをそのことで伝えている可能性があります。そういう伝え方をする場合を考えてみると、ひとつの可能性としては「自分は相手に腹を立てているのに、相手はそのことに気がついていないか、あるいは軽く考えている」というふうに思われている場合を考えることが出来ます。

 そうすると、「なんで教えてくれないのよ!」と怒った側が「この人はどうも怒っているらしい」ということに気づくきっかけが与えられることになりますし、その結果、「何をこの人は怒っているのか」ということを理解するチャンスにもなり得ます。道を教えなかった側にしてみれば、それまで自分の怒りに気づいて欲しかったのに気づいてくれなかったことでさらに怒りが増していたり、あるいは怒りを隠しておこうと思っていたけど、やっぱり我慢が出来なかったりという場合だと考えられるので、その「自分の中に隠していた(あるいは溜めていた)怒り」を相手に理解させるチャンスにもなるわけです。

 もちろんその「怒り」について、それでお互いにすなおに「ああそういうことか」と理解し合って終わりと言う場合だけではなく、怒りの理由が伝わらなかったり理解されなかったり、あるいは「正当な怒り」として認められずに否定されたりすれば、やりとりはさらにとげとげしく、厳しい喧嘩になっていくかも知れません。そこで仲直りができるかどうかの境目は、結局「何に怒ったのか」をお互いに理解できるかどうか、相手の怒りをある意味で「当然の怒りだ」というふうに受け入れられるかどうか、そして必要な場合には相手に謝ったり、あるいは同じようなすれ違いが起こらないような解決法を見つけられたり出来るかどうか、ということにかかってくると思います。

 うまく仲直りが出来た場合の会話の例としては「ああ、そのことで怒ってたんだね。気がつかなくてご免。これから気をつけるよ」「私もちょっと言い方がきつかったかもね。許してね」という感じで終わる場合が考えられます。

 なんか、こういう説明の仕方って、うまく伝わるんでしょうか?それとも「そんなことはわかってるんだけど、そうじゃなくって、違う問題を聞きたいんだ」ということだったりするんでしょうか?

 玄さんへ
 こちらこそよろしくお願いします 「白黒」の質問にお応えします
実例ですが 子供への注意と言うことで 中学校へ行った時の話です 学年主任の先生が 事の発端から経過の話を始めました  定型ですと一連の話を聞いた上で、自分の子供に関わることや曖昧な箇所又は、知っておかなければならない点については 質問するというパターンになります(私はです 他の定型の方はどうかはわかりません)
 ところがAS+ADHD(夫)の場合は 経過の話をする度に、一旦中断させ 私からすればどうでもいいこと(グレーでもよいこと)を逐一確認(白黒つける)作業をするのです
おそらく事実なのか?真実なのか?の確認作業のつもりなんでしょうね 

 どうでもいい事 これも 定型とASの価値観の違いなんでしょうが とかく白黒つけないと気持ちが悪い(こだわりの一種)んだと思います 

 そうしているうちに 学年主任先生はイライラが募り 不快な思いをしている事に気が付かないASは どんどんその作業をする そして爆発させるというパターンです こんな感じです わかりますか?  

ボビーさん、ご回答有難うございます。
相手の話を中断させて「確認」をする状況は、僕にも思い当たります。
ボビーさんがおっしゃるとおり、「ハッキリさせないと気持ちが悪い」という心理でよいと思います。
真実かどうかを疑っての質問ではない気がします。(もちろん想像なので、実際は疑っていたのかもしれませんが)

僕の場合でお話すると、話の後で「何かの判断や対応策を答えなくてはならない」面談なら、できるだけ話の内容を正確に把握したいです。曖昧な部分があった場合、可能性のあるだけ想定パターンを用意し、パターンごとに同時平行でストーリーを把握をしなくてはならなくなるので、不明点が複数出てくると想定パターン数が跳ね上がり、頭がパンクしそうになります。そのために、一つ一つ疑問点をその場で解消していきたいのです。日本語をチェックとか文法が正しいかとか、そういう意図は無いはずです。質問の仕方として「主語は誰になるのですか?」という風になるので、誤解されがちなのだと思います。
もしも疑問点が解消されずに話が進んでしまったら、思考は分からなくなったところでループします。判断や対応策は期待できないでしょう。そのぐらい真剣な深刻な、せっぱつまった内面事情で「話を中断」してもらっているので、どうかご協力をいただきたいと思います。
最近のプレゼンではよほど時間の余裕がない場合には「質問は最後にまとめて受け付けます」ということもありますが、「話の途中でも疑問点がある場合には挙手して下さい」という話し手も増えていると思います。ASを想定しているわけではないと思いますが、ASにも対応する準備が出来ている、よい例と思います。
中学校の先生は、話の途中に質問されてイライラしたようですが、そういった方が先生とは残念ですね。
AS気質の生徒・保護者は必ずいるわけですから。。。

「どうでもいいと思えること」については、「どうでもいいかどうかは答えを聞くまで分からない」と思います。
他人と違う着眼点があるというのは、giftですよ。多少の軋轢があっても、前向きに捉えて活かしていくのがよいと思います。ボビーさんには、こころの余裕を持って接して頂きたく。(^^)

 玄さん 返信ありがとうございます

玄さんのおっしゃる「疑問点が解消されずに話が進んでしまったら、思考は分からなくなったところでループします」この事についてですが また逆戻りしますが

 まづは、相手の話を最後まで聞いた上で 重要な部分(白黒つけないといけない部分)重要でない部分(グレーでもOKなところ) それらを分類した上での質問とはならないのですか?  そもそもの背景は 学校側は休日でも私達親子の為に時間を割いてもらってるわけですし、それぞれの立場もあるのです 

 学校側は保護者の気質まで把握する必要性があるのでしょうか?

 追加事項です 「事実」と「真実」とは違います AS傾向夫はこの点についてのこだわりもあり、猜疑心満々です とかく初対面だと尚更で、まるで決闘に行くかのよな意気込みになるのです coldsweats01 

ボビーさん、分かり難かったかもしれませんね。
繰り返しになりますが、僕の場合、話の途中で解らない部分があると、続きが全く耳に入らなくなるのです。白黒つけたいのではなく、話を正しく捉えたいから確認するのです。話の意味を掴めていないのですから、重要か重要でないかは、確認するまで分かりません。

話の内容や立場と旦那さんの態度がマッチしていなかったということを仰りたいのならば、そうだったのでしょうね。僕から旦那さんへのアドバイスは、演技力を鍛えましょう、です。
最後の「把握」については、必要は無いと思いますが、AS気質を素早く見抜いて、要領いい話し方をする、というくらいのことを教師に期待してはダメでしょうか?

玄です。
パンダさんの例え話「○○に行くにはどうしたらいいの?」について、「そんなの自分で調べれば」と応えていれば、それは既に無視ではないように思えますが?
答えた人は、たぶん自分で調べたことがあるのでしょう。「調べれば分かる」とディレクションを与えてくれていますから。
「甘えて、怒って、毒づいて」は、誤解が発端のみっともない一人芝居のように読めました。

「意地悪な(or物分かりの悪い)人vs怒りっぽい人」ではケンカになり易いということは理解できますが、このサイトに来られる方々は、そういうのを目指しているとは思えません。
別の例で、しかも上手く収束できた「感情のぶつかり合い」はありますか?

議論の余地がある考えを書きます。
単に黙っていること、ぶっきらぼうなことが「怒っている」と受け止められて、メンドクサイことが時々あります。僕は自分の怒りなどの感情を態度や表情から読み取って貰おうとは思わないし、読み取っての対応をされたくないです。そもそも感情を態度で発信していないから、誰かが何らかの信号を受け取ったなら、それは既に誤解です。逆もそうで、どんな態度の人にも「いつも通り」に接することが、その人が「いつもの自分」を取り戻すきっかけになると考えています。

怒りが収まるのは、怒りの理由を誰かに理解された時ではなく、「原因に対する見解を変えることに成功した時」だと思います。見解の変化は自分の中から起きる時もありますし、外からやって来ることもあります。そう考えると、怒りの感情と人間関係(仲直り)とは次元が違うように思えます。

 玄さんへ

 「話の途中で解らない部分があると、続きが全く耳に入らなくなるのです。」なるほど そう言う事なのですね そう言う事情を抱えている事が 定型に理解されていないから トラブルの原因になるんだと思いました 実際私も今 やっと解ったところです 

 「AS気質を素早く見抜いて、要領いい話し方をする、というくらいのことを教師に期待してはダメでしょうか?」 これは教師の質の問題と思います

良い先生って少ないですよ  とかく事が大きくならないように隠蔽する体質を持っていますしね (論点からずれていますが^^;)

玄さん

 「パンダさんの例え話「○○に行くにはどうしたらいいの?」について、「そんなの自分で調べれば」と応えていれば、それは既に無視ではないように思えますが?答えた人は、たぶん自分で調べたことがあるのでしょう。「調べれば分かる」とディレクションを与えてくれていますから。」

 ここは書きながら、もしかすると玄さん(またはアスペの方)にはそういう受け止められ方をするかも知れない、と思っていた部分でした。やはり定型とアスペの「相手の言うことをどう理解するか」という、理解の仕方の違いが、こういうところにひとつはよく現れるのですね。

 で、玄さんの指摘に対する私の見方ですが、その一言だけを取り上げて考えれば、可能性としては玄さんの言われるような意味で相手の人が言ったということはあり得ます。ただし、これが定型同士の会話であった場合、その可能性は相当低くなると思います。特に、このたとえ話は展開の仕方からして、それなりに親しい関係にあることが想像できるので(そして実際私としてはそういうイメージで書いていますので)、その可能性はほぼゼロに近くなると理解されます。

 なぜそのように私が考えるかについて、聞かれた側が知っているという条件は前提としながら、少し二人の関係が親しいか知らない人かといった場合分けして、説明してみたいと思います。

 まず一般に「教えて欲しい」という依頼に対しては、「無視する」「自分で調べろと言う」「教える」といったいくつかの対応の選択肢を考えることが出来ます。そのうち二人の関係が知らない人同士、例えば実際に街で人に道を聞かれたような場合を考えてみます。その場合、基本的には「教える」ことが「親切で望ましい対応」という、暗黙の基準が少なくとも定型にはベースにあるようです。それを基本にして、「忙しいから無視する」とか「キャッチセールスと間違えて無視する」とか、あるいは「不親切な人なので無視する」といったなんらかの理由での「無視」の対応も、「望ましいとは言えない対処」としてあると考えます。いずれにせよ、お互いの関係は「親しくない」者同士、「知り合いでない」者同士なので、そのように「無視」したとしても、それほど強く非難されるようなことにはならないと思います。ただし、「自分で調べろ」という応答は、よほど特殊な事情がない限りまず考えにくいことです。単に教えないだけでなく、「自分で調べろ」という言い方は、相手に喧嘩を売っているような意味を持ってしまう可能性が高いからです。この場合は非難の対象にもなり得ると思います。

 次に、二人が親しい関係である場合には、知らない人同士以上に強く、「教える」ことが当然のことと考えられると思います。ここはもしかすると定型的な特徴かも知れませんが、「親しい者同士」はお互いに助け合う、ということが重視されているからです。ということは、そこで自分が説明できる立場にあるにも係わらず、「無視する」とか「自分で調べろ」と言う、ということは、「親しい者同士で守るべき態度」をあえて意図的に否定していることになります。そのような(定型的に見れば)「否定的な態度」を相手に対して取る場合は、なにかよほどその人が気分が悪いか、相手に対して怒りを持っている場合である、という可能性が極めて高くなるわけです。

 という風に考えてみると、少なくとも定型的に考えた場合には、玄さんの言われるような理解が成り立つ可能性はかなり小さいということになりそうです。逆に言えば玄さんがそういう理解の可能性を重視されたと言うことは、上に書いたような「こういう場合はどう対応するのがよいのか」ということについての基準と、それをしないことがどういう意味を持ち、どういうメッセージを相手に伝えるのか、ということについての理解の仕方が、私と玄さん、あるいは多分多くの定型と多くのアスペの方で異なっている可能性が見えてくるように思います。

「「甘えて、怒って、毒づいて」は、誤解が発端のみっともない一人芝居のように読めました。」

 これはどの部分について指摘して下さっているのか、ちょっと分かりませんでした。

「「意地悪な(or物分かりの悪い)人vs怒りっぽい人」ではケンカになり易いということは理解できますが、このサイトに来られる方々は、そういうのを目指しているとは思えません。
別の例で、しかも上手く収束できた「感情のぶつかり合い」はありますか?」

 一応上の「親しい人同士の場合」に近いと思いますので、少なくとも定型同士の関係では先に書いたような例でも説明になると思います。ただ、今回書いた上のような説明について、疑問を持たれる場合はまた別に考える必要があるでしょうから、ご意見をいただければと思います。

玄さんへ トマトです。

パンダさんのコメントと重複するかと思いますが
【「○○に行くにはどうしたらいいの?」について、「そんなの自分で調べれば」】
と答えると、定型感覚ではまず100%「なにもそんな言い方しなくてもいいのに、感じ悪い」となり、
玄さんのいおっしゃるところの「感情のぶつかり合い」を誘発するやりとりになると思います。
定型同士であれば。

定型には
【「調べれば分かる」とディレクションを与えている】なんて全く感じられないし、そんな意味や意図があったなんて、説明されても「いやいや全く理解出来ない」となるでしょう。

現実に、ASと定型ではスルーする点とひっかかる点が、違い過ぎる・・ということは多いですね。

例えば
【「○○に行くにはどうしたらいいの?」について、「そんなの自分で調べれば」】
のやりとりを、質問したのが定型で、答えたのがASとします。
定型「どうして、さっきあんなふうに答えたの?」
AS「どうしたらいいかと聞かれたから」

これが
定型同士のやりとりであったなら・・・
定型「どうして、さっきあんなふうに答えたの?」
定型「ごめんごめん、ちょっとイラついてて、ぞんざいな言い方しちゃったね」もしくは「いいかげん腹立つよ、もう甘やかさないから」など・・・。

定型とASの人のズレる場面例として
遅刻したAS社員に、定型上司が「今、何時だと思ってるんだ!」という怒り方をすると、AS社員は質問されたと思い「10時20分です」などと答える。という例が引用されますが
こり例と同様だと思います。

こうなると、定型の怒りにASの混乱がからまり、同じ土俵での感情のぶつかり合いは成立せず、誤解の上の混乱のぶつかり合いという、異種格闘技になってしまうと感じます。


まあ、まさに「アスペと定型」の会話ですね(^^;)
道を尋ねる人(Aさん)と聞かれた人(Bさん)が親しい間柄とは、まったく思っていませんでした。

パンダさんが、ご自分の中で了解して省略した部分が(僕が確認を怠ったので)伝わらなかったのでしょうね。

もちろん、Bさんがいつも物事を教えてくれている人という設定で、その日に限って教えてくれない、というシチュエーションならば、それが異変を示していることくらいは分かります。Bさんが意地悪、ケンカを吹っかけようとしている、という発想は思いつきませんが。

AさんがBさんに道を尋ねた場面は、いきなり見知らぬBさんに情報を寄越せと言い、教えて貰えなくて怒り、「けちんぼ!」と捨て台詞。というパターンが浮かびました。
AさんとBさんが親しい間柄、という設定の可能性は、Bさんが「親切に教えなかった」時点で、消えていました。

AさんとBさんのこれまでの付き合いが全くわからなかったわけで、もし「直近の別れ際に口論になった」のという情報があればケンカの続きということを折り込んで理解するのはもちろんです。

僕は、子供から「教えて」といわれたら、「自分で調べなさい」と言いつつ「調べ方を教える」ことのほうが多いです。

トマトです。

あまりに玄さんの
【AさんとBさんが親しい間柄という設定の可能性は、Bさんが「親切に教えなかった」時点で、消えていました。】という解釈が個性的なので、斬新でした。

定型の多くは「話し方」で距離感を感じ取ると思います。
道で出逢った初対面の人同士や親しくない関係性で
「○○に行くにはどうしたらいいの?」「そんなの自分で調べれば」と、やりとりすることは、まず無かろう・・と思います。

初対面や親しく無い間柄なら
「すみませんが○○に行くにはどうしたら良いですか?」と、無意識に「すみません」という呼びかけや「教えていただきたいのですが」という丁寧な言い方になると思います。

どこを手がかりにするか、何をヒントにするかで、モノゴトの解釈や理解が全く違うものになる
・・・ということは理屈ではわかっていても、
ASと定型の解釈のフックとなるものが違い過ぎて、想像が追いつかないほどの差異が広がってしまうのが、この「日常会話」の難しいところですね。

でも、今回のやりとりの例は、ASと定型のズレが解りやすくて良かったと思います。

玄さん、おっしゃることがおぼろげに理解出来る気がします。
特に
「調べれば分かる」とディレクションを与えてくれていますから。
「甘えて、怒って、毒づいて」は、誤解が発端のみっともない一人芝居のように読めました。
「意地悪な(or物分かりの悪い)人vs怒りっぽい人」ではケンカになり易いということは理解できますが、

僕は自分の怒りなどの感情を態度や表情から読み取って貰おうとは思わないし、読み取っての対応をされたくないです。そもそも感情を態度で発信していないから、誰かが何らかの信号を受け取ったなら、それは既に誤解です。

という部分は、私が私の相手を見て、時間を共有して感じてきたことと重なる部分が多いと思います。

以前されていたグレーを受け入れるには、パラダイムシフトが必要な状況なのだと思いますよ。
と言う発言にもピンと来たところがありました。

それは、相手を自分の望むように「変えさせたい」のではなく私が「自分で望んで」、お互いの違いをすり合わせたり、落としどころを探ったり、目を瞑って折り合いをつけたりってことではないでしょうか?

比喩ですが、自分の住む王国の広さを客観的に知ること、外国を偏見なく見ること、国境を感じること、その国に旅してみること、を今の私はしたいのだと思います。
もっと見たい、もっと知りたい。

まとまってなくてすみません。最近、自分で自分がASなのか定形なのか、わからなくなってきました(^_^;)

新月さん、コメント有難うございます。
「王国」の比喩、素敵だと思います。
「自分の国の形のいびつさ・内患外憂・国境紛争」に悩み、手を焼いているワケですね。(^^)
それと、自分は王様という所が、特にいいです。

生きる上での悩み事は、ASかどうかばかりではなく他の問題も沢山ありますよね。

玄さん、ありがとうございます。
「自分が王様」と言う含み、を解ってくださってちょっとびっくりしました。
私はコメント内で「自分が王様」とまでははっきり表記しなかったのに、玄さんは、言外の文脈から意図を察したのだな、と。
まさにそう言うことを言いたかったのです。

あえて「王国」でしたから。
「もっと見たい、もっと知りたい」というのもいいですね。

新月さんへ トマトです

彼に対して「理解をしたい、解りたい」と思うあまり「自分で自分がASなのか定形なのか、わからなくなってきました(^_^;)」という域に入って行く感覚は、私も経験したことがあります。

きっと新月さんは、共感力の強い方なのだと思います。

新月さんと彼・・・のお二人の関係性に、第三者や定型社会との折り合いの必要性が入って来なければ、新月さんの「彼を見つめる→ASの世界感を肯定的に好意的に感じようとする」行為のみで持続できると思います。

ASの人と供に定型社会を生きる定型者には、共感力と同時に変換力(アレンジ力)と、
身近にいる大切な存在のASにも、
周囲の圧倒的多数の定型にも、
平行対応し続ける精神力が必要と感じます。

新月さんの彼との出会いは、ASへの理解の最良のきっかけだと思います。
愛があるので。

トマトさん、ご意見ありがとうございます。
>二人の関係性に、第三者や定型社会との折り合いの必要性~>供に定型社会を生きる定型者には、共感力と同時に変換力(アレンジ力)と、身近にいる大切な存在のASにも、周囲の圧倒的多数の定型にも、平行対応し続ける精神力が必要
ここ、すごく大事な視点だと思います。だからこそ、私の相手がマジョリティの中で生き抜くことを出来ることなら、支えたいと思うのかも知れません。
また比喩ですが、
私たち「vs.」世界。ではなく
私たち「and」世界、になっていけるように、
精神力の持続、愛の持続、が理想なのですが、甘いんですかね…。実生活になるといろいろあるでしょうし。

トマトです。

私たち「are」世界・・になったときの、新月さんの心意気に賭けるのみです!

トマトさんの

「あまりに玄さんの
【AさんとBさんが親しい間柄という設定の可能性は、Bさんが「親切に教えなかった」時点で、消えていました。】という解釈が個性的なので、斬新でした。」

 という指摘が、すごく大きなポイントの一つだなあと感じています。
 多分あの例を定型が読むと、AさんとBさんがどういう間柄かを直接に書いていなくても、
 展開やことばの表現などを手がかりにして、「まあ親しい関係なんだろう」
 というふうにほとんど無意識に思ってしまうだろうと思えます。

 でも、「直接書いていない」ということでは、たしかに玄さんのような解釈が
 全くありえないとも言えない筈なんですよね。

 なにがそういう解釈の仕方の違いを生むのだろうかと考えてみるんですが、
 ひとつの可能性としては、「教えてあげない」ということが、
 単に「教えない」ということ以上の意味を裏に持っている、という理解の仕方を
 定型はすぐにしたがるのに、アスペの方はそうでない、ということがあるのかも。

 これはトマトさんの説明で言えば

「遅刻したAS社員に、定型上司が「今、何時だと思ってるんだ!」という怒り方をすると、AS社員は質問されたと思い「10時20分です」などと答える。という例が引用されますが
こり例と同様だと思います。」

 ということでもありますね。

 さらに玄さんは

「もちろん、Bさんがいつも物事を教えてくれている人という設定で、その日に限って教えてくれない、というシチュエーションならば、それが異変を示していることくらいは分かります。」

 とも書かれているので、上の可能性だけでもなさそうです。玄さんは
 その言葉が直接意味していること以外の意味もあることを当然と思っていらっしゃるし、
 実際以前にも、言葉にいくつもの意味があることに興味を持っている、
 ということを書いていらしたとも思います。

 そうすると、問題なのは玄さんの次のコメントでしょうか。

「Bさんが意地悪、ケンカを吹っかけようとしている、という発想は思いつきませんが。」

 つまり「教えない」ということが、何か特別の意味を表している、
 という可能性は玄さんも想定していらっしゃるんだけど、
 それがこの場合「意地悪、ケンカをふっかけようとしている」という意味だ
 という理解にはならないわけですよね。

 これも定型は多分ほとんど無意識にそういう読み取り方をしてしまうと
 思うんですが、「なんでそう読めるの?」と改めて問われると、
 説明するのはちょっと大変そうな気がします。

 いやあ、これ、定型はなんでおんなじような読み方をするんでしょうね?
 はっきりそう書いているわけでもないのにね。

 

新月さんの

 「比喩ですが、自分の住む王国の広さを客観的に知ること、外国を偏見なく見ること、国境を感じること、その国に旅してみること、を今の私はしたいのだと思います。
もっと見たい、もっと知りたい。」

 と言うコメント、私も感激しました。
 私がこのブログで実現できたらいいなと思い続けてきたことが、
 ほんとにそのことだったからです。

 「違う人」とのつながりが、自分を見つめ直し、
 自分の人生を豊かにしてくれる可能性を探すこと。
 もちろん「違う」ことがいろんな矛盾や悲劇をも生むかも知れないんだけど、
 そうならずに豊かさに繋がる道を探していきたいです。

パンダさん、リアクションをありがとうございました。恐縮です。

まとめていらっしゃったのに蒸し返して申し訳ないのですが、
書きそびれたことがありまして、私は玄さんの少し前のコメント、議論の余地がある、以下の部分が引っかかっています。あえていつも通りに接することがその人にとっての「鏡」になるのではというような、感じがしまして…

怒りが収まるのは、怒りの理由を誰かに理解された時ではなく、「原因に対する見解を変えることに成功した時」だと思います。見解の変化は自分の中から起きる時もありますし、外からやって来ることもあります。

私がこの部分から感じたのは、
外部からのなんらかの刺激に

自分がなんで怒っているのか、
不満があるのか、
満たされないのか、
は、他者や自国外の因子だけがもたらしたものでしょうか?と言うことです。
私の場合、そういうとき自分の問題かな、と最近思うようになりました。
アイツがこう言った、ムカつく(怒)と思うとき、相手はそんなつもりがなくても、自分が怒りを感じるとしたら、そこは、自分が突っつかれて痛い部分だったのかな?って思うようになってきました。

この辺が「王国」と「他国」の比喩の所以です。
私の勝手な見解ですが、昨今、自分の「王国」を「他国」より優位に立たせたい向きが、強くなっている気がします。
私は「自国」も「他国」も対等であると考えたいです。

玄さんのご意見が気になるところです(^^)。

> いやあ、これ、定型はなんでおんなじような読み方をするんでしょうね?

 ……。

 定型だから同様になるのではなく。同様になる内の際多数の集団を、定型と称しているだけではないかと。

×際多数
○最多数

 確認した筈が、つもりだけ……orz

新月さんのご質問に上手く答えられるかどうか・・?
国の例えで行けば、「同盟」を重視する国と「独立」を重視する国があるみたいな?
対等と思う国同士もあれば、「一方的に格下扱いしてくる」他国もある。対等は理想の一つで、現実は様々な気がします。
国民の意見はモザイク状に複数の考えが同居していて、その上で国のトップの考えが表に出てくる、という感じ?

「怒り」について、考えを進めてみました。
怒りが収まるという状態は、他人が怒りに同調してくることからは得られない。怒りの原因(と自分が思っている対象)が、不利益をこうむることで「溜飲を下げ」ても、解決には繋がっていない。怒りの原因が「消滅」したとしても、次の出現に脅えることになるので、根本的解決には思われない。

怒りを感じるのは「自分」であって、怒りは物事の「捉え方」なのだと考えれば、自分「王国」のrulerは、物事の捉え方というルールを「改めるの令」を発布すれば、変えようもある??

では、「悲しみ」は?「喜び」は?
僕の硬質な説明では、「感情」とは状況から受け取った情報を一定の自分ルールで(定型はココロというブラックボックスで)処理して、出てきたアウトプット情報、と言えます。

アウトプット情報をどのように扱うか。ASは人によっては「うれしい」とか「かなしい」とかの名前を付けることもなく捨ててしまう(かつての僕)わけです。
パンダさんをはじめ定型の方は、そういった感情情報を他人に伝えることにしているし、「他人からも貰えるのが当然。貰ったらすぐに返信」という姿勢なのでしょう。
そういう理解に至ってからは、猿マネもしやすくなったし、なにより自分の感情が湧いてこなくても、”相手が漏らした感情情報を素早く鸚鵡返し”するだけで相手が非常に安定するということが分かってきました。

玄さん、ご見解ありがとうございます。
非常に思考が刺激され面白かったです。
同盟重視が定型に多い傾向(例外あり)があり、独立重視はASに多い傾向(例外あり)が気がするのですが。対等と格付け好きは、定型、AS、という枠に収まらず、どちらにもいる気がしました。
「国民の意見」は自分の中でもばらばらと散らかっている、対立的な考えのように感じました。国のトップは私の場合、その時々で形勢が入れ替わったりします。まさに政治的。
「怒り」については、ほぼ理解と納得できます。同様に考えます。
「悲しみ」「喜び」の部分は、やはり「イン・アウト」の法則(自国の憲法?)が人それぞれ全く違ったり、似ていてもグラデーションがあったり、ということでしょうか?
他者を知りたいと思うときは、「自国の憲法」は「括弧に入れ(保留し)」た上で、「他国の憲法」を知ること、お互いの重なる円を探って、「折り合いをつける」というのが私の考えです。無理してやむなく、ではなく、自分自身が望むからそうしたいから、しているだけですが。「猿まね」はつらく聞こえました。玄さんは非常に他者を気遣われる方に思います。私の相手も、第三者やパブリックスペースでは、「猿まね」的気遣いをしていることを、なんとなく察します。しんどい思いを重ねてきたのだと思うと、つらく感じます。見当違いな邪推であれば申し訳なく思います。

追記、玄さんのおっしゃる、
【定型の方は、そういった感情情報を他人に伝えることにしているし、「他人からも貰えるのが当然。貰ったらすぐに返信」という姿勢なのでしょう。】
という部分について思ったのは、私は、自分の感情は相手に対して「思いにまかせて」ぶつけてしまいますが、思い通りの(目に見える)反応が返って来なかったとき、関係が浅い頃は「違和感」や「残念さ」を感じましたが、ある時「この人は他意なく、こういう人なんだ」と私なりに理解した時から、私は自分が
「感情的に思いを伝えたいから、伝える」だけで、どう受けとるか、受け取れないかは相手次第だし、それは私の「自己満足」だよなと思うようになりました。したいからする。しかし「折り合う領域外」だから、したいからするけど、相手に見返りは求めない。という感じです。最近「見えないけどあるもの」(星の王子さまっぽいですね)についてよく考えます。昼間の星であるとか、新月の月であるとか。あ、おセンチ過ぎますね。長々と失礼しました。

私の兄がアスペなんですが…

悪いですが、アスペの人たちの言うことが屁理屈にしか思えません。

それに、兄もそうなんですが、

アスペは語りが長いし、

文書かせれば文長すぎるし、
(だから誰も読む気が起きない)

屁理屈長いし、
(非生産的)

アスペが語る自己正当化の長文と定型を見下すような屁理屈…読む気になれません。

1000年後にアスペの人たちだけが住める星でもできればいいですね。

アスペ同士の喧嘩って思いやりがないから見てて半端じゃないです。

アスペ同士って、言いたい放題なので、健常者以上に喧嘩が多く、

黙って聞いてると、

「お前があたまおかしい!」「いやおまえが頭おかしい!」

このやりとりばっかり続くことがある。

どっちもおかしいのに。

アスペ同士の喧嘩、何回も見たことがあるんですが、

アスペだけの星ができたとしても、きっと戦争が争いは耐えないと思う。

率直に言うと、「定型」とも呼ばれたくありません。

普通に健常者と呼んでね、と言いたい。

こんぺいとうさん

 はじめまして、どうぞよろしくお願いします。

 多分、このブログでいちばん長いコメントを書いてるのは私かと (^ ^;)ゞ

 お話しの趣旨は私なりに理解したつもりですが、
 このブログでは、お書きになったこと全体に
 「  」をつけて、という風に私には見える、
 というスタンスで論じていただけるとありがたく思います。

 こんぺいとうさんにとってそう感じられるし、そうしか見えない、
 ということは理解しますし、そのことの意味を考えることは
 とても重要だと思いますが、そのことと、
 アスペの方にとってもその理解で納得がいくかとか、
 あるいはほかの定型(でも健常者でもいいですが)の方が
 どう理解するかはまた別で、様々でしょう。
 
 「雨降って地固まる」で、本気でケンカして問題が前に進むことも
 ありますが、この問題についてはそれでは結局徒労感に終わることは
 多分こんぺいとうさんご自身が長年の体験でいちばんよく
 ご存じではないかと思います。

 そのことを認識した上で、さてどうしたものかと
 うだうだ考えているのがこの場ですし、
 こんぺいとうさんにはいらだちしか生まなかったかもしれない
 アスペの方達の書き込みで、とても救われたり、学んだ気持ちになったり
 そういう定型の方達も何人もそういうことを書き込んでこられています。

 ですから、こんぺいとうさんにはそんなふうに感じられるし、
 そんな風に見えるんですね、ということ、
 それはそれなりに分かる気がするけれど、
 でもそれだけでは言い切れないよなあとも思う、
 そういう「決めつけ」姿勢をしないことを大事にしたいと思っていますので、
 どうぞよろしくお願いします。

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