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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年6月25日 (火)

アスペ的気遣い?

 

ナナセさんがこんなコメントを下さいました。

 「蓮を「綺麗でしょう?」と言わなかった奥様の行動とは私の気持ちが合致します。反対に「綺麗でしょう?」、「美味しいでしょう?」、「面白いでしょう?」などと前もって言われると、一気に心のシャッターが閉まるような感覚がするのです。もうそこでお終いというような。」

 定型だと、「わあきれい! ほら見て! きれいでしょう!」と思わず共感を求めてしまいそうな場面です。もちろん定型でも、そう言われて自分は感動しないこともあります。実際先日母親がある絵に感動したのですが、私は全然感動しなくて、むしろつまらない絵だと感じてしまい、正直にそう話しました。母親は不満そうで、「あなた、こういうものの感じ方がちょっと鈍い(だったか、「偏っている」だったか……)んじゃない」と言われました。私はほんとに全く感動がなかったので、「こういうのの、どういうところにそんなに感動するの?」と尋ねましたけど、あんまりよく分かりませんでした。

 まあ、母親とかではなく、もう少し距離のある知り合いとかが相手であれば、私もストレートに感動しないとは言わずに、感動している相手の人に対して「ああ、そうですか」とか「ふーん、なるほどね」位の感じの、否定も肯定もしないような返事をするだろうと思います。そのあたりはいろいろだと思いますが、いずれにせよ「きれいでしょう!」とか「きれいだね!」とか、感動を共有しようとする言葉に対しては、反発を感じたりすることはあまりないように思いますし、そういう言葉は相手のために控えるべきだ、という風にもあまり思わないだろうと思います。

 ここの点でアスペの(少なくとも何人かの)方は、定型とは全く違った形で相手に対する気遣いをされるのですね。相手から共感を求められると自分自身が困るので、相手にもそういうことは求めることなく、その人なりの感じ方をしてもらえるように何も言わない、という気遣いの仕方なのだと思えます。

 実際、私のパートナーも、私から感想を求められるとよく困った顔をします。自分なりに感じていることは有るんでしょうけれど、ナナセさんの説明で理解すれば、問われたとたんに「一気に心のシャッターが閉まる」のかもしれません。そして自分でも何を感じたのかが分からなくなったり、何を答えたらいいのかが分からなくなったりしてしまう。

 そういう心の動き方は、アスペの方(の一部?)にとっては、きっと自然なことなのでしょうね。定型が「きれいだね!」と共感を求めてしまうことが自然であるように。どちらがいいとか悪いとか、決めつけられるものではないように思いますが、ひとつの見方からすれば、アスペ的(?)接し方は「相手の感じ方を大事に、そっとしておいてあげる」という、より「大人」の接し方だと思えなくもありません。もちろん定型だって、場合によっては相手を気遣って「そっとしておいてあげる」ということは有りますから、もう少し丁寧に考えてみる必要はあると思いますけれど、でも直感的にはそういう定型的な「そっとしておいてあげる」とはまた違った感覚があるような気がします。

 ナナセさんの説明のような「一気に心のシャッターが閉まる」という感じがどうして生まれるのかなど、まだまだよくぴんと来ないことが多いですが、でもその気遣いの仕方については、なんとなく分かる感じもしてきましたし、「ああ、素敵な気遣いだな」という風にも感じられる部分が出てきたように思います。

 

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コメント

トマトです。

「共感」をキャッチしたり求めたり喜びに変換したりする機能がなければ、それは「押しつけ」という感覚として感じるでしょうから・・・どうしてもこうしても無い。ということになりますね。

定型がASより沢山の感覚や理解の種類を持っているのなら、ASの人の少なさに合わすべきなのですが「どういうふうにすれば合わせられるのか」が解らないわけです。

多い少ないというより、想定外の質の違いに、お互いビックリ「信じられないそんなこと」シリーズ。
でも、自分の家族や恋人や大切な友人が定型とASの組み合わせならば、慣れる事も難しいけれど飽きる事も無い関わりが続きます。

私の「ねぇねぇ、アレきれいねぇ」「見て、可愛い!」に、「圧を感じる」とAS友人に暗い表情で言われたことがあります。
「そうか共感は圧力か違和感になるのかぁ」頭では解ったような気がしても、すぐ本能的に「わぁ、すごいねえ」と、はしゃいでAS友人の手を引っ張ったりしてました。
迷惑な話ですわ。

お互い・・・迷惑行為をし合いながら、それでも夫婦で恋人で友達であり続けたら、それはもう本当に尊い関係性だと思います。

「あなたのことが分かる」「あなたの考えていることが分かる」「あなたと同じ気持ち」という言葉は、定型同士では共感表明ですので人間関係を近づけたいというプラスのシグナルになるのだと思います。
僕の場合ですが、定型→僕でそういった言葉が発せられると、「なぜそんな事が断言できるんだ?」という不信感が湧きます。定型はそういうことを口に出すタイプなんだという理解をすることができたので、そこをツッコミポイントにはしなくなりましたが。
AS→定型では、そういう発言は出てこないと思います。(決めつけたい時の言い方としてはあり得ます。)言い方としては「僕はこう感じます(こう思います)。似てますね。」というのなら、可能です。

トマトさんは、定型の感情概念を◯で図示した時に、ASDの感情概念の範囲が狭い、つまり、より小さい円で描いているような印象を受けます。(図形としては◎のかたち)
仮説というか、僕の考え方ではありますが、定型の感情世界の広がりとASのそれとは、二つの◯が部分的に重なっている図で表せると思っています。定型同士は重なり部分を重視し、ASは(重なりを確認する方法を見失っているので)自分の把握している範囲を元に話をせざるを得ない。互いに、自分から見えない部分の存在を謙虚に尊重できれば良いですね。

他人と一緒に生活をするということは、重なっている部分を一緒に増やしていく作業だと思います。
定型の人は、「感想を発信~他人の感想を受信」という感情情報の「トラフィック量」をある程度維持していないと精神が不安定になるようですから、ASはそれにある程度合わせてあげることができれば良いかもしれません。相手の感想を予測して断定的に話題にしてみるとか。
ASの特性として「おうむ返し」するというのがありますが、僕の想像では、「ASが定型に合わせてあげた習慣」が固定化したものと思っています。ASが無口傾向なのも、素直な感想を口に出して面倒なことになった経験から、「思ったことを安易に言わない」が習慣になったのかもしれません。「発達障害」といいますが、そういう風に環境に順応しようと発達した成果でもあるはずです。

初めまして。出会って3年の彼がASかもしれないと感じています。
パンダさんのブログ、みなさんのコメントを読んで、知り合ったばかりの頃の違和感を思い出しました。
散歩をしている時に、月が綺麗だねと言うと、ふーん と興味のなさそうな返事と無表情、その後の沈黙があり、この人はそんな話には関心がないのだと思いました。
しかし後日『外を見て』というメールがきて見上げると綺麗な満月でした。私はうれしくなり、この前の態度はただ無口なだけだったと思うことにしました。
しばらくして、今夜は綺麗な満月だよ、とメールしてみると『既に見た』とそっけないメール。あれ?やっぱり興味なかったのかな?とまた考えてしまいました。
後日、彼にやり取りから感じたことを伝えると、メールをくれたのは『君は月を見るのが好きなんだろ。だから知らせた』と、彼が綺麗だと感じたことを知らせてきたのではなく、私が好きなものだから知らせてきたということでした。
そして私がメールした満月のことは、『君が見た月を僕も見たよ』と返事をしたと。思いもしなかった思考でした。
彼は私にとってまるっきり新しい考え方の人なので、最初はハテナ?ばかりでしたが、今は慣れてきました。
共感については、彼はこちらを肯定や否定ではなく、感じ方をそのまま尊重してくれるので、一緒のところでわぁー♪っと共感する機会は少ないですが、思いやりを感じて暖かい気持ちになります。
最近は、私これが好き、これ綺麗だと思う、これが楽しい。と自己完結する言葉で自分の気持ちとして伝えています。反応は相づち程度なので、言わば一方通行の会話ですが、その分彼も自分の感じることを私の反応を気にせずに少しずつ言ってくれるようになったかなとも思います。以前のような違和感は薄れてきました。

 私も 綺麗な蓮の花があれば 迷わず「ね~~ね~~あれ!綺麗でしょ!」と言ってしまいますね ・・・で 反応が悪ければガッカリです でも その言葉を押し付けとは思っていませんでした よく主人が「押しつけは良くない」とか 言ってたのはこういう事だったのですね 納得です!

 話は変わりますが 子供達への教育が全く出来ないんです おそらくこの押し付けから来てるのでは?と思います 二言目には「本人が納得しない限り いくら言っても無駄!」とか「自分で考えさせなければダメ!」とか 言います でも ある程度の年齢になればそれもわかるのですが 園児や小学生には親が正しい方向に導いてあげたり助言する事も必要と思うのですが・・・・・ 子供に面と向かって話合い等 した事はないまま子供達は大きくなってしまったのです^^; 話が横道にそれてすみません

玄さん

 「僕の場合ですが、定型→僕でそういった言葉が発せられると、「なぜそんな事が断言できるんだ?」という不信感が湧きます。」

 この感じ、私にも分かる感じがするんです(……断言ではありません)。
 というのは、私も定型の中では家庭環境がすごく変わってましたし、人間関係では
 「常識」が他の定型の人と違って苦労したことも多く、「人を理解することの難しさ」
 を感じ続けてきたところがありますから、逆に言えば相手からも自分のことはそんな
 に理解してもらえない、という思いが結構あったんですね。
 
 だから、気楽に「わかるわかる」とか言われると、「あんたに何がわかるの?」
 とか、ちょっとむっとしてしまうこともあったりしました。
 ということで、なんか玄さんの話に似ているようにも思えるんです。

 ただし、私の印象ですけれど、そういう思いの強さは、玄さんの方が
 私よりもかなり強力で断固としているような気はします。


あすかさん

 そうですか。似たような体験をされ、似たような思いをもたれたんですね。
 なんかちょっと自信になりました。

 「以前のような違和感は薄れてきました。」

 これがすごいなあと思います。まあ、私も今はそうなりつつありますけど、
 そうなるまでの葛藤がすごかったので (^ ^;)ゞ

 また、ご紹介いただけるようなエピソードがありましたらよろしくお願いします。

あすかさん、素晴らしい!
「言わば一方通行の会話」とおっしゃいますが、「一方通行ではない」と感じられるという域に達しているではないですか!
あすかさんのコメントを読んでいて、ASと定型では「間が違うのかな」と思いました。ASの間は、ことによると三日とか十日とか掛かったりもあるし、ひねり方も違う。それでも、「反応」を見逃さなければ「やり取り」になるんだなぁ。

パンダさん
私も葛藤だらけです。一年目は訳わからず過ぎてゆき、二年目には私も思うことがあると言うようになってきたので、ぶつかる(というより、シャッターを閉められる)ことが多く波乱の時期に。そして、そのぶつかった時の彼の反応から少しずつ気づいたことがあり、それを彼に聞いて確かめたりするうちに受け取り方の違いに気づいて違和感が薄らいできたところです。まだまだ謎はてんこ盛りですが、穏やかな気持ちでは過ごせるようになりました。
彼の行動の基本には、こちらを否定したり悲しませたり怒らせると思ってしていることはないと、強引なポジティブで捉えるように、常に自分に言い聞かせています。あと一番大きな発見は、私ばかりではなく、彼も自身と全く違う私のあれこれに合わせようとしてくれている努力に気づいたことです。気持ちが楽になりました。

玄さん
『間がちがう』さらに『ひねり』まで入るという解釈、非常に納得です。
投げたメッセージがキャッチボールのように返ってくることは稀で、返ってこなかったり、忘れたころに来たり、こちらの考えとは全然違う解釈をされたものが返ってきたり。
最近は、こちらも相手がキャッチしたのかどうか、そして返してくれるのか関係なしに思うことをぽんぽん投げるイメージです。
当てにしないというのは、ちょっと乱暴な表現かもしれませんが、相手が私を否定しているわけではないという前提を信じて、受け取るかどうかは彼に託して、放って置く感覚です。
それでも、たまには寂しくなったり、不安になったり、そういったマイナスの感情になることがありますが、その時ストレートにすぐその気持ちを伝えると、思わぬ反応から別れ話になったりしかねないので、必ず時間を置いて話すようにしています。ポジティブを忘れずに話すには、冷静になる時間を置かないと難しいです。彼も突然思いもしなかった私の悲しみや怒りの反応が飛んでくると、かなり戸惑うようです。

あすかさん

 「あと一番大きな発見は、私ばかりではなく、彼も自身と全く違う私のあれこれに合わせようとしてくれている努力に気づいたことです。気持ちが楽になりました。」

 これ、共感です! そこに気がつくことが出来ると、ほんとに自分の気持ちの持ち方が変わっていきますよね。なんかほっとするというか、信頼感が高まってくると言うか。

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