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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年6月13日 (木)

違った目でアスペ的特徴を見てみる

 最近つらつら感じていることなのですが、一般にアスペの方の特徴として言われているもののうち、かなりの部分が実は理解しにくい定型の世界の理屈に対して、アスペの方なりの仕方でなんとか対処しようと努力する中で生み出されてきたものではないでしょうか。

 するりさんがテレビ番組で有名なお医者さんが「アスペルガーの人は感情がない」という意味のことを発言していたと書かれていました(そういうことを平気でいう人がいるので、私は「専門家」という人たちを、専門家という理由で信用する気持ちに全然なれないんです。よほど「素人」の当事者の方が現実を知っていると思います。「専門家」はほんとに人によると感じます)。

 この「感情がない」とか、少なくとも「感情を理解できない」という理解の仕方は、自分の感覚でアスペの方に特有の感情のあり方や感情理解の仕方が全然わからないで困惑する定型の側が、自分の理解の枠組を守ったまま(私の感情理解こそが本当の感情理解だという決めつけ)、アスペの方を見ようとしたときに、そんな風に思わざるを得なくなるんじゃないかという気がするんです。

 何度か書いたと思いますが、私は学生時代から、カナータイプの自閉の子どもたちとつきあいが結構あったんですね。一緒に遊ぶバイトとかもしてましたし。で、自閉の子の特徴として、「愛着」の関係が出来にくいし、人を避けて一人で遊ぶことを好む、といったようなことが言われてました。じゃあどうしてそうなったのか、と言うことについて、「それは母親の育て方が悪いからだ」と言われていた時期があったんです。

 どう悪いのかというと、「普通」のお母さんは、子どもによく話しかけるし、一緒に遊んであげるし、スキンシップも多いのに、どうも自閉の子のお母さんはそれがすごく少ないというんです。で、実際調べてみても子どもとの関わりが少ない、という結果になって、やっぱりそうだ!という話になる。

 お母さんとしては自分の子どもが「障がい児」だと言われて「自分のせいだ」とすごく自分を責めやすい状態に置かれて居るんですが、さらに(やっぱり「専門家」の「研究」に基づいて)あなたの関わりが悪かったからこうなった、と言われてしまうわけで、これはつらいですよね。

 ところがだんだん分かってきたことは、お母さんが関わりが少なかったから自閉的になったのではなくて、まったく逆だと言うことなんです。つまりお母さんは普通に子どもに関わっていたんだけど、自閉の子の方がそれにはあまり答えなかったり、嫌がったりするので、ごく自然な結果として、お母さんは無意識に関わりを少なくしていっていたんです。その方が子どもが安定したりしますから。

 つまり「関わりが少ない→自閉的な子になる」ではなくて、「子が自閉的に振る舞う→関わりの少ないお母さんになる」というのが事の真相だったというわけです。それまでお母さんが責められたりしたのは、とんでもない「専門家」の一方的決めつけだったわけですね。

 さて、それでそういう自閉的な子と遊んでいたときのことを思い起こせば、感情はすごくあったし、それを激しく表現することもよくありました。それは定型の私たちが「パニック」と名付けるような表現だったりします。ただ、その子が感情に突き動かされていることは分かっても、なんでそういう感情になってるのかがなかなか分からなかったりするんですね。これも付き合いが長くなると、「あ、あれかな」と気づく場合が増えていきますけれど。

 多分そういう体験が根っこにあることも大きく影響して居るんだと思いますが、自閉症スペクトラムという言い方で自閉的な子どもとの共通した性格があると理解されている、アスペの方たちについても、感情がないとか、共感が出来ない、というような話にはどこか引っかかりを持ち続けていたんですね。実際、私のパートナーだって自分の切実な思いが私に伝わらなくって涙ながらに訴えてきたことも何度かあります。

 でもやっぱり私はそれを理解できなかったわけですし、だから感情がないとか共感能力がない、という話ではなくて、彼女の立場からすれば、「感情を出しても、全然理解されず、却って訳も分からない形で責められたりして、そうなら感情をできるだけ出さないようにしよう」となっても当然な状況をずっと生きてきたんだと思うんですね。

 もちろん、音に対する感覚とか、目で見る世界の見え方とか、ほんとに基本的な感じ方の部分から定型とアスペの方の間にはかなりの違いがあったりする、ということはこれまでのコメントなどでも繰り返し語られてきたことです。だからこそ、お互いのコミュニケーションがなんだかよく分からない形でうまく行かなかったりするのでしょうけれど、本当の問題はそうやって「コミュニケーションがうまく行かない」時にどうするか、ということじゃないかと思うんです。

 一つはアスペの方はもともとスキンシップや言葉でのスキンシップ(?)にそれほど欲求がなかったり、あるいは苦手だったりする傾向は強いと思うので(たとえば赤ちゃんでもだっこをいやがる子がありますよね)、コミュニケーションが難しい状態を経験すれば、わりにあっさりと諦めてしまうという可能性を感じます。

 それともう一つは、やっぱりアスペの方は少数派なので、誰とコミュニケーションをとってもうまく行かない場合が多い。逆に定型の方はうまく行くことの方が多い。そうするとアスペの方はある種のあきらめを持たざるを得ない状況に追い込まれやすいと思うんです。その結果、もともと密接なコミュニケーションは苦手な方が多いところに、回りの状況がその傾向をどんどん強めていくとすれば、定型的な見方からして「コミュニケーション能力に問題有り」と見られる状態に自然になっていくんじゃないでしょうか。

 いろいろ具体的な例で考えることも出来ると思いますが、そういう視点で「どうしてそういうコミュニケーションスタイルになっていったか」とか「どうしてそういう感情の持ち方、表現の仕方になっていったか」ということを考えてみると、ちまたで言われているアスペルガーの特徴について、だいぶん違った見方が出来るかも知れないと思います。

 大事なことは、そういう違った見方をしてみることで、アスペと定型のコミュニケーションについて、また違った可能性が見えるかも知れない、という期待をちょっと持ったりするということです。

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コメント

パンダさん、トマトです。
仕事柄、カメラマンさんが周囲に多いのですが、プロの人は他者の作品を見て、それがどんなに素人の駄作で稚拙でヘタクソなものであっても無防備に「ひどいなぁ」とか「何だコレ」とか、
腐さないことに気がつきました。

その理由を、ごく最近、1人のプロカメラマンに聞いたのです。そしたら
「条件があって結果がある。だから・・作品を見て「あれぇ」と感じたら、どんな条件下で撮影したからこうなったのだろう?という目で見る、作品に評価を与えることより、作品の本質や理由を考える」
と答えてくれました。

その言葉にとても感銘を受けました。
自分と相手との差異や違和感や理解不能を感じたとき、それを「おかしい」「それは違う」と安易に否定したり評価することよりも「どんな環境で居たのだろう?」「もしかして自閉圏?」
と、相手の持っている条件を推察する姿勢が「だからこういう言動や考え方なのか」という理解や納得につながるのですね。

まぁ、それで頭の理解につながったとして、肝心な知識を実践として生かせるか、が難しいのですが、とにかくスタートの仕方のひとつになりそうだと思いました。


するりさんが見た番組が私が見た番組と同じなら、専門家が言った言葉は「心の目が見えない」ですね。この発言に関して当事者や支援者からは反論や反感が出て当然ですが、私はあまり気にならなかったですね。というのはあの番組は当事者や支援者を対象にした番組ではなく、ASDの存在を全く知らない人に向けた番組だったからです。ASDを全く知らない、でも身近にASDがいてその関係に悩んでいる人がいたら、初めの一歩として「心の目が見えない」という説明は案外しっくりくるのではないかと思いました。そしてその人が二歩三歩と踏み込んで行けば「心の目が見えないのではない。見え方が異なるのだ。」ということを理解してもらえるのではないかと。専門家が事細かにASDの特徴を説明していたら、すぐにお腹いっぱいになってチャンネルを変えられてしまいますよ。
私はむしろ番組で取り上げられていた方たちが高学歴な方のみだったことの方が気になります。

パンダさんは専門家に不信感をお持ちのようですね。確かに当事者の方が現実を知っています。でも現実を知っているだけに近視眼的になるし、感情的にもなります。問題が起きた時の解決方法も分かりません。当事者がそういう状態で様々な困難を当事者だけで解決するのは不可能です。当事者から一歩離れたところで客観的なアドバイスをしてくれる専門家は貴重なのではないですかね。確かに人に依りますが、ひとりふたりの専門家が理解ない言葉を発したからと言って「私は「専門家」という人たちを、専門家という理由で信用する気持ちに全然なれないんです。」と専門家を一括りにして否定してしまうと全く先に進めない気がします。
私は一緒に涙してくれる先生より問題点をズバッと指摘してくれる先生の方が相性がいいです。でもそういう先生が他の方の心の傷をえぐることもあるだろうとは推察します。

トマトさん

 頭じゃ分かっても身体がついていかない。
 これって実は色んな所で体験することなのかも知れませんね。
 アスペと定型のズレの問題に限らずに。

 でもアスペと定型の間ではほんとにシビアな問題になりやすいのでしょう。
 特に夫婦という密接な仲ではどうしてもそうなりがちですよね。
 今のところ私は少しずつ変化している段階なので、
 まだ絶対的な壁にぶつかった、という感じはありませんけれど、
 でもほんとに時間をかけて少しずつ、という状態だと思います。

 全く訳も分からずに苦しかった時期を考えると、
 信じられないくらいに前向きになったなあと思えるのは救いです。
 何か外側に基準を作って「あれができない、これができない」と考えるより
 「ああ、こんなことができるようになったなあ」ということに注目する
 という姿勢に切り替わるのがひとつは大事なのかも知れない。

 ま、先のことはほんとに分かりませんけれど (^ ^;)ゞ

ナナセさん

 試しに私が「こういう感じだろうか?」と想像した
 アスペの方に多い遣り取りの仕方で
 コミュニケートを試みてみたいと思います。
 「全然違うよ」とか、ありましたらまた教えて下さい。

 実際どの番組でどういう発言だったのかは私は
 分かりませんのでそれについてのコメントはできません。
 「心の目が見えない」という発言については
 私は比喩としてもやはりよくないと思います。
 それより最初から「見え方がすごく違います」
 と言って、具体的な例を挙げた方が、より正確だし、
 具体例なら理解もしやすいと思います。
 もしそうなら「見えない」という否定的な形で
 決めつけのように表現する必要はないでしょう。

 私が専門家に不信感を持っていると誤解されたようですが、

 「私は「専門家」という人たちを、専門家という理由で
  信用する気持ちに全然なれないんです。」

 と書いたように、「専門家」だから信じられる、とは
 考えないという意味です。これはある意味で、「アスペ
 だから」「定型だから」ということで十把一絡げに
 できないのと同じだと考えています。やはりその人が
 どんな人なのか、ということがとても大きな意味を持つ。

 実際、これは幸か不幸か分かりませんが、予備校時代
 医学部を目指している人を何人か知ったのですが、
 「え?この人が医者になるの?」と仰天したことが
 なんどかあります。また実際いろいろなお医者さんに
 かかりましたが、全くひどいお医者さんがいるのは
 確かだと思います。

 カウンセラーについても、私自身がカウンセリングに
 興味があったので、大学で実習授業を受けたことが
 ありますし、その裏面も沢山見聞きしてしまったので、
 これも人によって信頼できるかどうかは全く違う
 ということを思い知らされた経験があります。

 病気や「障がい」についても「専門家」のいうことは
 人によって随分違いますし、実際「アスペルガー」と
 いう項目は次のDSM(アメリカ精神医学会の診断のため
 の基準をまとめたもの)でなくなってしまうらしいで
 すね。そういうことはこれまでもいくらでも起こった
 ことだと思います。

 もちろん当事者の目ではなく、少し距離を置いて
 冷静に分析することに大きな意味があることは当然
 ですが、今私が問題と思っていることは、そういう
 「冷静」な見方が実は定型的な視点でのまとめに
 すぎないという限界がある、ということです。
 だから、当事者の視点からもう一度問題を見直して
 みることで、今までの「冷静」な見方が見失って
 いたものを、新しく見つける可能性があると思い
 ますし、そうでなければ「アスペは定型の正しい
 コミュニケーションができない劣った障害者だ」
 という、ありがちな見方がそのまま大手を振って
 これからも通用してしまうと思います。

 ということで、私は専門家一般に不信感を持っている
 のではなく、「専門家だから信じる」ことはできない
 という意味で書きました。そして当事者が当事者だから
 こそ持っている力を大事にしようと書きました。

トマトさん、

「試しに私が「こういう感じだろうか?」と想像したアスペの方に多い遣り取りの仕方でコミュニケートを試みてみたいと思います。」
 
なぜアスペに多いやり取りの仕方を想像してコミュニケートを試みるのですか? 以前似たようなことをしてアスペ側から厳しいコメントを出されていたと思います。ご自身のやり方でいいと思います。

「実際どの番組でどういう発言だったのかは私は分かりませんのでそれについてのコメントはできません。」

今回の記事はするりさんが書いた「アスペルガーの人には感情がない」というコメントから話を膨らませているようなので、今更どの番組で云々と書かれるのは解せないです。やはりするりさんが見た番組と私が見た番組は別物で、「アスペルガーの人には感情がない。」と専門家が言った方はパンダさんも視聴されていたということなのでしょうか?

「心の目が見えない」と「専門家」についてのパンダさんのご意見は分かりました。
ただ「だから、当事者の視点からもう一度問題を見直してみることで、今までの「冷静」な見方が見失っていたものを、新しく見つける可能性があると思いますし」や、「当事者が当事者だからこそ持っている力を大事にしよう」というご意見はあまりに抽象的で、実際何をするのか全く見えてきません。


ナナセさん(?)

 トマトさん宛に書かれているようですが、内容は私のコメントへの反応に見えたので、
 私もコメントします。

「なぜアスペに多いやり取りの仕方を想像してコミュニケートを試みるのですか? 以前似たようなことをしてアスペ側から厳しいコメントを出されていたと思います。ご自身のやり方でいいと思います。」

 理由を書きます。アスペと定型の間にどういうコミュニケーションが可能なのかを
 いろいろな工夫を試しながら、また情報交換しながら考えていくことがこのブログの
 一番大きな目的です。そのためには「相手を自分の見方で理解する」のではなく、
 少なくとも「自分の理解の仕方ではうまく理解できない」ことを知ることが大事だと
 いうことはずっと語られ続け、そして何人もの方から同じ意見が得られました。

 そして「自分が相手のためになると思ったやりとりが逆の効果を持ってしまう」と
 いうことも繰り返し問題になってきたことです。

 そこから言えることは、自分のやり方は自分のやり方として維持することは当然
 として、同時に相手が別の感じ方で別のやり方をする、ということについて、無視
 せずに可能な限り理解する努力をすることが大事だろう、ということで、このことは
 ブログの記事でずっと言い続けてきています。

 さて、今回ナナセさんの遣り取りを見ていて、定型の私としては「とてもアスペ的」
 と感じました。それは私のパートナーとのコミュニケーション体験からそう思いました。
 そして当時私がそうだったように、やはり今回もナナセさんの書き方は、非常に
 とげとげしく、相手を傷つける書き方に感じられてしまいました。

 ナナセさんにその意図があったと言いたいわけではありません。しかし、そう感じ
 られるという私の事実も否定できません。そしてそういうとげとげしく感じられる
 やり方は、定型的感覚からすると、相手と喧嘩をしたい、とか、相手を否定したい、
 という意図を表明するものと理解されてしまいます。

 そしてそれが定型側の一種の思いこみ、誤解だとすれば、次に可能な限り知りたく
 なるのは、アスペの方がそうされる場合、どういう気持ちでそうされているのかと
 いうことです。また、そのやり方でコミュニケーションが実際に稔り豊かなものとして
 持続することが可能かどうか、どうやれば持続可能かを知りたいと思います。

 しかし、頭で想像することには限界があります。だからたとえ形だけの猿まねで
 あっても、とりあえず、まずは形から入ってみて、そこから理解を模索する、という
 ひとつの方法を採ってみています。経験上それは「相手の立場に立ってみる」と
 いうやり方の一つで、それなりに効果のある場合があると知っているからです。

 実際、アスペの方は定型が多数派の社会の中で、自分とは違う感覚で、中々
 理解できない定型のやり方を、とりあえず形からまねをしてみる、ということで
 なんとか定型社会でのコミュニケーションを保っているというのが現実です。
 しかし逆に定型がアスペ的なやり方をみにつける努力をする、ということはほと
 んどないでしょう。それは多数派だからそんなことをしなくても生きていけるからで、
 少数派のアスペの方が自分たちに合わせるべきだと無意識に思っているからです。

 そういう関係が続く限り、対等な立場で相手を理解し合おうとする、ということは
 成り立ちません。結局多数派が少数派を従わせておしまいです。
 私はそういう関係を理想とは考えません。

 まとめて簡単に言うと、アスペの方が苦労して定型のやり方をまねせざるを得なく
 なる状況の中で、アスペの方だけではなく、定型の側もアスペ的なコミュニケーション
 を学んで理解する努力が必要だと考えているからです。

 もちろん、アスペの方が定型のやり方を真似ても、そのまねの仕方がまた
 定型のやりかたとずれてしまって、誤解され、苦労されていることも知っています。
 同じように、私がいくらまねをしてみても、その真似の仕方自体がずれていて、
 誤解される可能性はいくらでもあります。

 そうであるにも関わらず、やはり少しずつでもそのお互いのズレ、そこから
 うまれる誤解の仕組みを探っていくことはとても大事なことだと考えます。
 いろんな本や「専門家」の説明の中に、一番足りないと思えるのは、
 そういう工夫、努力の積み重ねだと感じています。


 「実際どの番組でどういう発言だったのかは私は分かりませんのでそれについてのコメントはできません。」

 については、文字通りの意味です。私はそういう発言に関する番組は見ていないので、
 それについて直接のコメントができません。

 
「だから、当事者の視点からもう一度問題を見直してみることで、今までの「冷静」な見方が見失っていたものを、新しく見つける可能性があると思いますし」や、「当事者が当事者だからこそ持っている力を大事にしよう」というご意見はあまりに抽象的で、実際何をするのか全く見えてきません。
 
 具体的にはこれまで記事で繰り返し書いてきたつもりですし、その見方に賛同
 して下さるコメントも少なからずありましたので、ある程度は伝わる書き方だった
 と思いますが、やはり人によって伝わりにくい方もあるのだと改めて感じました。
 さらに私が工夫すべき所だと思います。

 昨年の6月1日の記事「『リハビリの夜」:当事者だからこそ」でも、当事者として
 ご自身が脳性マヒでかつお医者さんとしても活躍されている熊谷さんという方の
 ことをご紹介しました。彼はこれまでの医学的な脳性マヒについての説明や
 対処の仕方が、当事者から見てひどく一方的で、当事者の体験を理解できた
 上での対処になっていない、と感じ、ご自身の体験を丁寧に説明しながら、
 「当事者研究」という新しい分野で活躍されています。

 たとえば、そういう記事で書いたことについて、どういうことがわかりにくいかを
 具体的に指摘していただければ、それに合わせた具体的な説明をします。


(ちょっと定型モードに戻ります。やっぱり猿まねの限界なのかも知れません。
 こういう書き方は私はとても緊張するし、疲れますね。どうしても「戦闘態勢」
 の雰囲気になってしまうんです。これを「戦闘態勢」ではない、本当にお互いに
 理解し合おうとする形で、なおアスペの方のやりかたが十分取り入れられて
 いるようなスタイルがどうやったら成り立つか、大きな課題だなと感じます。
 もしかすると「そんなの最初から無理だよ」と言われるかも知れませんね (^ ^;)ゞ)
 

すみません。先のコメントはトマトさんではなくパンダさん宛てした。

「ちょっと定型モードに戻ります。やっぱり猿まねの限界なのかも知れません。」と書かれていますが、私にはパンダさんの定型モードと猿まねの差がわかりませんでした。せっかく書いて頂いたのに申し訳ありません。

具体的ということについてもパンダさんの記事の多くは「のような気がします。」や「かもしれません。」、「考えてみたいと思います。」など曖昧な終わり方が多く、その後曖昧に終わった記事の結論や具体案を期待して読み続けていますが、具体案が出てきた記憶がありません。つまり分からないというよりは具体案を読んだことがないというのが正直なところです。

ですので「具体的に指摘していただければ、それに合わせた具体的な説明をします」とおっしゃいますが、指摘できる箇所がないのです。あえて言うなら全部です。色々パンダさんがお考えなのは理解しています。ただいつも記事を読み終えたあと「で、どうなのよ?」という感想を持ってしまうのです。
やはり一時期多くのASの方が去った時に一緒に去るべきでした。何か期待してしまっていたんですよね。

全く理解してくれない人とはあまり揉めない気がします。理解してくれそう、手が届きそうと感じるギリギリのラインにいる方とはどうしても揉めてしまいます。

ご迷惑をお掛けしました。

すみません。上のコメントはナナセの書き込みです。名前の欄に宛名を書いてしまいました。

パンダさん、

「リハビリの夜」を読みました。私にはあれは単なる書評に思えました。具体的に本の内容を説明していますね。

最後の一段落でAS当事者も類似の本を書いてくれればいいなぁと示唆されているのですか? 私が具体的ではないと感じるのは、アスペと定型ついてです。では「我々はどうしたらいいか。」です。熊谷さんの本を参考にどんどん情報を発信しましょうということでしょうか? この本を参考に色々考えて見てくださいという単なる投げかけですか?

書評としては本当に具体的だと思いますが、私がいう具体的とは趣旨が異なるのです。

ナナセさん

 まず、質問して下さって本当にありがとうございます。本心から嬉しかったです。
 無理に私の想像するアスペモードで書くのはとりあえずやめて、普段通りの
 自分にとって自然な書き方に戻りますね。

 「最後の一段落でAS当事者も類似の本を書いてくれればいいなぁと示唆されているのですか? 私が具体的ではないと感じるのは、アスペと定型ついてです。では「我々はどうしたらいいか。」です。熊谷さんの本を参考にどんどん情報を発信しましょうということでしょうか? この本を参考に色々考えて見てくださいという単なる投げかけですか?」

 ということいついてですが、AS当事者(そのパートナーも含めて)が同じような本を書いてくれることはもちろん歓迎ですけれど、あの文章で強調したかったところはそのことではなくて、今世の中に広まっているAS理解は、とても偏っていて、アスペの方は「(定型的な基準からすれば)こういう特徴を持っている」だから「定型の側はこういう風に気を遣ってあげるべきだ」とか「アスペの側はこういう所に気をつけて定型社会に合わせなければならない」という考え方が主流になっているように私は感じるんです。

 もちろんそれは現実的な面でそうせざるを得ないところはあります。でもその見方だけになってしまうと、アスペと定型がそれぞれ自分の特徴をその人にとって自然なものとして受け止めながら、その上でお互いに無理のない、誤解の少ないコミュニケーションを模索していくことができなくなる。でもそれはとても大事だし、そのためにはまず、当事者自身の見え方、感じ方をできるだけ自分に自然な形で、なおかつ相手にも少しでも伝わりやすい形で、お互いに伝え会うことが必要だという「基本的な考え方」の重要さを強調したかったのです。

 そしてそういうことが決して不可能とは言えないことが、脳性マヒの方という、違った「障がい」を生きている当事者の方から主張されていて、それもとても具体的に自分の体験を説明されている。実際、それを読んで私も多少なりとも熊谷さんの思いを追体験できたところがありました。

 そういう意味で、私たちも自分の素朴な体験をお互いに伝えあいながら、そこから新しいコミュニケーションのありかたを探っていけるのではないでしょうか、という私の考えを表現したのがあの文章と言うことになります。そして実際にアスペの方が自分の感じ方、見え方などを説明して下さることで、私は本当に多くのことを学びましたし、今までとはすごく違う視点でアスペの方を理解できる部分が着実に増えてきたと感じています。

 ナナセさんがこの書評が「具体的でない」と言われるのは、直接にアスペと定型のことについて書かれていないから、という意味でしょうか。もしそういう意味なら仰るとおりだと思います。ただ、アスペと定型の相互理解にとっても重要な問題提起が、とても具体的な熊谷さんの個人的体験を通して行われている、と言う意味ではアスペと定型の問題に深く繋がっていると私は理解しました。

 たとえば以前書いたように、私がパートナーと話をするときに、彼女の表情を見るととても否定的な感情を表されていて、話をすることに私が罪悪感を感じてしまうのですが、彼女に聞くとそういうつもりはないということなので、私が目をつぶりながらはなしをしてみたら、わりとうまく言った、というような「具体的な工夫」とかハウツーは実生活の中でとても意味があると思います。そのことは全然否定しているつもりはありませんし、この例のように時々私なりの工夫についても紹介をしてきたと思います。

 と同時に、そういう具体的な工夫などを通して、「どうしてこういう工夫が必要なのだろうか」とか「どうしてこういう工夫は効果があるのだろうか」あるいは「この工夫が失敗したのは何故なんだろうか」ということを考えていく、というちょっと具体的ではない作業も大事だと思うんですね。そういう具体的ではない作業の積み重ねの中に、「どんな見方をしてこの問題を理解したり、理解の工夫をしたりするのがいいのだろうか」というちょっと抽象的なことについても、ときどき頭の整理をしていくことが意味があるのだろうと思います。

 そしてそのレベルでいわゆる「専門家」の人たちは、いろんな理論を立てたり、アスペの特徴を整理しようとされているのだと思いますが、私が当事者の一人として感じることは、その理論づくりや整理の仕方がまた「定型基準」になってしまっていて、それだけでは「定型がアスペに対応する」やり方はある程度分かっても、「アスペと定型がお互いに対等にコミュニケーションを育てていく」というやりかたを見つけるには、却って逆効果になることが多いように思えるのです。

 熊谷さんの本は、お医者さんという「専門家」の立場を持ち、その視点も理解しながら、同時に当事者として、単なる「専門家」には理解しにくい、自分の体験からの問題の整理と理論づくりをしようとされている。それはアスペと定型の問題を考えるときにも本当に参考になる見方だなと思いましたし、その見方をベースにして、アスペと定型の間の具体的なコミュニケーションの工夫が可能になってくる部分があるだろうと思います。

 ちょっと説明がくだくだしくなってしまったようで、またわかりにくいと怒られそうですが (^ ^;)ゞ、 どうぞわかりにくいところや、へんだと思えるところは教えて下さい。また説明の仕方を考えますので。

パンダさん、丁寧なご返信ありがとうございます。

最後の一段落を持ってきました。

「こういう本って、やっぱり当事者じゃないと書けないなあと思います。でも当事者がそうやって書いてくれれば、当事者でない人間にもある程度は共有できる部分が出てくる。「読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。」という熊谷さんの狙い通りの結果ですね。」


↑この文章に

「あの文章で強調したかったところはそのことではなくて、今世の中に広まっているAS理解は、とても偏っていて、アスペの方は「(定型的な基準からすれば)こういう特徴を持っている」だから「定型の側はこういう風に気を遣ってあげるべきだ」とか「アスペの側はこういう所に気をつけて定型社会に合わせなければならない」という考え方が主流になっているように私は感じるんです。

 もちろんそれは現実的な面でそうせざるを得ないところはあります。でもその見方だけになってしまうと、アスペと定型がそれぞれ自分の特徴をその人にとって自然なものとして受け止めながら、その上でお互いに無理のない、誤解の少ないコミュニケーションを模索していくことができなくなる。でもそれはとても大事だし、そのためにはまず、当事者自身の見え方、感じ方をできるだけ自分に自然な形で、なおかつ相手にも少しでも伝わりやすい形で、お互いに伝え会うことが必要だという「基本的な考え方」の重要さを強調したかったのです。

 そしてそういうことが決して不可能とは言えないことが、脳性マヒの方という、違った「障がい」を生きている当事者の方から主張されていて、それもとても具体的に自分の体験を説明されている。実際、それを読んで私も多少なりとも熊谷さんの思いを追体験できたところがありました。

 そういう意味で、私たちも自分の素朴な体験をお互いに伝えあいながら、そこから新しいコミュニケーションのありかたを探っていけるのではないでしょうか、という私の考えを表現したのがあの文章と言うことになります。」

という意味合いがギュッと凝縮されているのでしょうか。もしくは最後の一文以外は熊谷さんのことを書いていますが、そこにもパンダさんの伝えたいことが散りばめられているのですか? 私には全く読み取れないのですが。

「ナナセさんがこの書評が「具体的でない」と言われるのは、直接にアスペと定型のことについて書かれていないから、という意味でしょうか」

書評は具体的ですが、アスペに関しては何も書かれていない(具体的なことは何も書かれていない)という意味です。

「アスペと定型の相互理解にとっても重要な問題提起が、とても具体的な熊谷さんの個人的体験を通して行われている、と言う意味ではアスペと定型の問題に深く繋がっていると私は理解しました」

こういう一文や上記に引用したパンダさんの解釈が記事に書かれていれば、私の解釈もガラッと変わったとおもいます。


パンダさんは具体的に書いていると思っている、私は全く具体的ではないと思っている、そのズレの原因が見えてきました。他の記事についても同様のことが起こっているのですね。
今回のようにASや当事者などのキーワードが全く出てこない文章からパンダさんの真意を読み取るのは私には困難に思えました。


ナナセさん

 またご意見をありがとうございました。
 とりあえずコミュニケーションが続いたので、ほっとしています。
 もちろん時間に追われるように義務的にやりとりする必要は全くないと思いますし、
 やりとりが面白いとか大切とか感じられたら、
 ゆったりとコミュニケートできれば、それが一番いいと思います。
 どうぞよろしくお願いします。

====================================
↑この文章に

「……」

という意味合いがギュッと凝縮されているのでしょうか。もしくは最後の一文以外は熊谷さんのことを書いていますが、そこにもパンダさんの伝えたいことが散りばめられているのですか? 私には全く読み取れないのですが。
====================================

 えっと、まあ文章全体でそう言っている、ということだと思いますが、まとめると
 引用していただいた最後の文章になると思います。

 つまり文章全体で「熊谷さんはこういうことを主張してるけど、すごく大事なことを
 言われていると私は思います」ということを言いたかったんですね。

 ただ、そのことがうまく伝わる文章になっているかどうかについては、もしかすれば
 定型の方でも「そんなの私にもわかんない」と言われる可能性もあるなあと思いま
 す (^ ^;)ゞ

====================================
書評は具体的ですが、アスペに関しては何も書かれていない(具体的なことは何も書かれていない)という意味です。

「……」

こういう一文や上記に引用したパンダさんの解釈が記事に書かれていれば、私の解釈もガラッと変わったとおもいます。
====================================
 については、ああそうなんだ!と思いました。
 つまり、そう言う書き方をすれば伝わりやすくなるんだ、という意味です。

 言い訳ではありませんが、このブログはアスペと定型のことについて
 考えるために書いているつもりなので、これまでの記事は多分すべて
 それに関連したことを書いてきていると自分では理解しています。
 仮に直接文章の中にアスペとか定型という言葉が出てきていなくても、
 背景としてこういうことも考えてみると役立つのではないかなとか、
 こういう問題も関係してくるだろうなと思えるものを書いています。
 ただ、それがどう関係するかについてはあまりはっきりとは書かずに、
 みなさんのいろんな見方に任せる、という感じにしているので、
 それがわかりにくさに繋がったりするのでしょうね。

 そのほかの記事でも断言することはできるだけ避けていますけれど、
 やっぱりいろんな可能性を考えてみたいという気持ちの表れなんです。
 ある意味でひとつの考え方、ひとつの見方で決めつけることは
 簡単なんだけど、でもやっぱりこの問題はとても複雑で、
 簡単に割り切れるものではないように思うんですね。
 実際同じアスペの方たちの間でも、すごく意見が割れたりしますし。
 だからいろんな可能性を積み重ねながら、幅を持って考えを進めたいと
 そんな風に思っています。

 そして、一見対立して見える異なる考え方についても、
 実はどこかで繋がっているのではないかとも思うので、
 そのつながりをゆっくり探していきたいと思うんですね。
 そういう意味でも早急な判断は避けようとしています。
 急がば回れ、ということでしょうか。

 そんなスタンスなので、「だから何が言いたいの?」という
 感じや疑問を持たれるのも当然だと思います。
 この問題はどうしたら一番いいのかよくわかりませんが、
 まあ、いろんな方が(ほんとに私は全く予想もしなかったです)
 いろんな視点から読んで下さっていますので、
 それぞれの方の視点から、なにか一部でもお役に立つことが有れば
 というふうにとりあえず今は考えています。

はじめまして。
凄く何が仰りたいのかがわかった気が勝手にしました。

わたしは、アスペやら定形やら分類することを
いやらしい、無意味なカテゴライズだと感じます。
仰る通り感覚能力が薄い方が、ご自身の未知なものに対して、自分の手持ちのものさしだけで図るしかできないから、
自分の既存な論理的思考で「解る」ものとしてカテゴライズしたいんでしょうか?

わたしは狭間にいるように最近よく感じます。

私が勝手に片思いしている男性も、おそらく自分がアスペだと自分なりに感じて、世間と折り合いをつけている人ではないかと思っています。

彼は一見(社会的には)、穏やかで誠実で人あたりがいい、非常に真面目な人です。

私はなるべく彼の分かりやすい形で好意を伝えようとしていますが、上手く出来ているのかはわかりません(笑)
ただ、そこからたまに返ってくる短いレスポンスで

非常に繊細で傷つきやすく、自己評価が低いように感じます。私は彼の自分の弱さと向き合うところに、逆に強さを感じます。
慎重に自分はこんな部分もあるけど受け入れてくれるかということを暗に彼は自分の好きな音楽を通して訴えて試しているんだなと思うことが最近多いです。
好きなものを提示される度に、私には彼のこれまでの苦悩が、何となく感覚的に解る気がするのです。
でも友だちなどに話してもいまいち通じてないきがします(笑)気のせいじゃない?とか、考え過ぎじゃない?とか(笑)

でもわたしには何となくわかんないけどわかる、というか。

仰る通り、彼らには、感情がないわけなどなく、
感情を他者に表現する方法が彼にとってはある偏りがあったりするだけで、伝えたい気持ちはあって、自分なりに
精一杯で必死なんだな、と感じることが多いです。

これが好きな曲です(好き嫌い分かれるけど)、と彼から宿題を与える度に
彼は、音楽を使ってわたしに何か伝えたいのかな?と思います私が感じるのは、

彼は、自分の内面は熱く激しいドロドロした感情をもて余しているということではないかと勝手に思います。

私は今はわかってほしいよりも、解りたいし、守りたいと思っているのですが、これはキレイ事に過ぎないのでしょうか?

新月さんへ 定型トマトです。

新月さんは『わたしは、アスペやら定形やら分類することをいやらしい、無意味なカテゴライズだと感じます。』と思いながら、片思いの彼の本質をきちんと見つめているし、理解しようとされているベースに、知らず知らずアスぺという概念で他者との区切りがあるように感じられます。

人を分類する、というとドライな印象がありますが、目の前の明らかに概念や感覚の違う相手を、何かにカテゴライズすることで、冷静に考える、誤解や間違った解釈に走らない様に受け取る・・・という対峙のスタンスや考え方のメドになると思います。

理解をしようとしない、関わりを避ける、偏見だけで発言する人が、アスぺだの定型だのと言うといやらしいですが、日常の関わりを大切に、実践しながら、もっと理解したいという姿勢で「まだまだ理解に追いつかないあなた」という言う替わりに「アスぺ」「定型」と呼び合う事は不自然でも悪いことでもないと思います。

新月さんの『私は今はわかってほしいよりも、解りたいし、守りたいと思っているのですが、これはキレイ事に過ぎないのでしょうか?』は、
キレイ事ではなく、キレイな気持ちで居られる距離感なのだと思います。


新月さん

 はじめまして。どうぞよろしくお願いします。

「自分なりに精一杯で必死なんだな、と感じることが多いです。……私が感じるのは、彼は、自分の内面は熱く激しいドロドロした感情をもて余しているということではないかと勝手に思います。」

 こんな風に感じ取れるというのは、私からすると、すごいなあと感じます。
 私がそんな風な視点でも考えて見るようになったのはほんとに最近ですし。
 アスペの方がどう感じられるかは分かりませんが、私の目から見ると、
 そんな風に理解すると分かりやすく感じる場合がぼちぼちあります。

 きれい事かどうかについてはトマトさんがきれいに応答して下さいましたね (^o^)

トマトさん、パンダさん、貴重なご指摘ありがとうございました。

トマトさん、先の書き込みは感情的で言葉足らずで申し訳なく思います。
私が定形とかASとかカテゴライズすることに違和感を感じているのは、定形×定形でもすんなり話が通じあえるわけではないし、AS×ASでも同様だろうなって思うからかも知れません。
逆に定形×ASでも価値観と言うか感覚と言うかフィーリングのようなもの(何だかわかんないけど好きなものキライなもの)がまるきり同じではなくとも似てるなって思えると、例え言葉が足らなくても、何となくわかってくると思うことが増えるからかも知れません。
私の場合は、彼の好きなものと、彼が社会的に受け入れられるためにとっている振る舞いがそのまま「こういう人だよね」って周囲の人に言われ続けているのが疲れるんじゃないかなって、思います。でも、ありのままの自分じゃ受け入れられないっていう恐れがあるのかな、とか。でも、定形の方でもそう言う方いっぱいいらっしゃいますよね?
人は、誰しも同じ言葉をまるきり同じように受け取ったり解釈したり使用してはいないと勝手に思います。
彼が言っていたことで最近印象深かったのは、「話していても、感覚的な話が通じる人と、通じない人がいると思う。通じない人とは自分とは違う世界を生きているんだな、と思う。例えば同じ空を見てても僕とは見方をしていたり、見えてる空の色が違うと言うか…」
私はそう言うところに彼が「皆まで言わ」なくても、ああ、何が言いたいかわかるな、って思うのです。
私も定形ではないのかも知れないですね(笑)
だからこそ、定形とかASとかカテゴライズしていくことって何だろう?って最近、思うのかも知れませんね。
かなり、変人バイアスのかかった意見です。気に障ったら申し訳ないです(汗)


何度もごめんなさい。後半部分の補足ですが、彼の好きなものと、世間体のギャップ、に疲れるのでは、ということです。
純粋さゆえに自分に嘘をつくことに疲れるのじゃないかなーと、これまた勝手に(笑)

新月さん、

ASのナナセです。

新月さんの発想はASが見えない障害故の発想に感じます。新月さんはASD全体をカテゴライズすべきではないとお考えですか? それともASに特化してのお考えですか?

立ち位置は違うものの「ASなんてただの性格の問題」と片付ける人たちと同じ結論をお持ちのように思えます。

新月さん

 「純粋さゆえに自分に嘘をつくことに疲れるのじゃないかなーと、これまた勝手に(笑)」

 これ、私もそういうことを感じることがあります。結構大事な視点なのかも知れませんね。
 
 カテゴリーの問題については、たとえば「男と女」というカテゴリーも、
 使い方によってはすごい決めつけにもなるし、逆にお互いの違いを理解して
 相手を大事にするための手がかりになることもあるし、
 「諸刃の剣」みたいなところがあるのかなと感じています。
 「お互いの関係をよくするために」利用できる部分は利用していきたいですね。
 そんなふうに思っています。

ナナセさん、パンダさん、ご指摘ありがとうございました。

ナナセさん、私の発言はおそらく自分と彼の関係について、私が感じる、考える、主観的な部分が強いと思います。
ゆえに、強いて言えば「AS」に特価したものかも知れないです。

パンダさん、なるほどと思いました。
お二人の考えを拝見して、
カテゴライズした(された)方がすんなり腑に落ちて納得したり、安心するタイプと
カテゴライズする(される)と違和感を感じるタイプがあるように思いました。
どちらもアリだと思います。何が正しいかなんて誰にも決められないと思うからです。
最近よく、自分の「普通」は他者にとって時に「普通」ではなく、他者の「普通こうじゃない?」は時に自分にとって「私には普通じゃない」ことが、けっこうたくさんあると思っています。それこそ、定形、アスペ、男女、関係なく。

今、パンダさんの最新の書き込みを拝見してちょっと思ったのですが、
定形の人から見るとアスペが「普通とズレてる」ように見えるのでしょうが、
アスペの人から見ると、定形の方が「普通とズレてる」ように見えてるんでしょうね。
「お互いさま」(笑)私もそう思います。
多数派か少数派かの違いかなと。
でも多数派だからと言って正しい訳ではないような…。
よくわかりませんが。

能天気な理想論かも知れませんが、
個々の関係を重ねていくなかで、日常の振る舞いや物言いなどから、この人はこういうものが好きで、嫌いだから、こういう時には、こういった考えかたをするかも知れない、だから、こういった言い方になるのかな、っていうように
できれば、お互いが考えられる余裕があると、お互いを思いやれるようになるのかも知れませんね。

頭ではわかってもすんなり受け入れて、出来るわけでもないと思いますが…。自分も含めて。

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