笑いのドツボ
以前、パートナーの笑顔が欲しくて工夫した話を書きましたが、今日は私が思わず笑ったことでとても責められてしまいました。
というのは、彼女が100円ショップで買った品物が、いざ使おうとしたらすぐに壊れてしまったのを見て、私も同じような経験がありますし、ふふふ、と笑ったんですね。そしたら、「どうして私が困っているときに人を笑うようなことをするわけ?」と責められました。
うーんと、これ、思わず笑いが出たんですけど、もちろん彼女を笑ったわけではなくて、彼女が困っていることを笑ったわけでもなくて、あえて言葉にすれば「まあ、100円ショップの品物だね。ほんとに困ったもんだね」ということで「共感して」笑った、ということになります。でもその笑いを聞いた彼女の方は、困っている自分か、あるいは困っている状態を冷たく笑った、と感じ取ったらしいのです。
これ、難しい問題だなあと思います。笑いって、一緒に笑う気持ちになれる場合にはお互いを温かくつなぐ力がありますし、「自分が笑われた」とか「人を笑った」というような形になってしまうときには、相手を侮辱したり、馬鹿にしたり、傷つけたりする意味を持ってしまいます。諸刃の剣、というやつですね。
だから、今回の例を考えても、「何を笑ったのか」という文脈の受け取り方がお互いに全然ずれてしまったのですね。そうすると彼女にとっては自分が馬鹿にされたような、傷つけられたような気持ちになってしまう。もちろんこちらにはそういう意図は全くなく、逆に「共感」を求めていたり、同情してだとしてもです。
笑いとか笑顔って難しくて、昔サザエさんの漫画を、家族の人がアメリカ人(だったと思います)に見せたら、何が面白いのかわからないと言われたそうです。文化とか社会とかが違うと、笑いのツボが全然違うことがよくあるんですよね。逆に「プラトーン」という映画を見ましたけど、アメリカ兵がベトナムの人の笑顔の意味が分からなくて、気持ち悪がって殺してしまう、というシーンがありました。私から見れば「私には敵意がありません。許して下さい。助けて下さい」という意味の笑いに見えましたけど、そうは伝わらなかったと言うことですね。ベトナミーズ・スマイル(ベトナムの笑顔)とか、そんな言葉まであるみたいです。
大人と子どもでも笑いのツボが全然違って、小学生の頃、友だちと一緒に大笑いした話をいま思い出してみて、何が面白いのか全然分からなかったりしますし、もっと小さい頃、多分4,5歳の頃だと思うんですが、親戚のおばあさんに食堂に連れて行ってもらって、カレーか何かを食べたんですが、どういう分けだか突然吐き気を催して、お皿の上に吐いてしまったんです。
これ、難しい問題だなあと思います。笑いって、一緒に笑う気持ちになれる場合にはお互いを温かくつなぐ力がありますし、「自分が笑われた」とか「人を笑った」というような形になってしまうときには、相手を侮辱したり、馬鹿にしたり、傷つけたりする意味を持ってしまいます。諸刃の剣、というやつですね。
だから、今回の例を考えても、「何を笑ったのか」という文脈の受け取り方がお互いに全然ずれてしまったのですね。そうすると彼女にとっては自分が馬鹿にされたような、傷つけられたような気持ちになってしまう。もちろんこちらにはそういう意図は全くなく、逆に「共感」を求めていたり、同情してだとしてもです。
笑いとか笑顔って難しくて、昔サザエさんの漫画を、家族の人がアメリカ人(だったと思います)に見せたら、何が面白いのかわからないと言われたそうです。文化とか社会とかが違うと、笑いのツボが全然違うことがよくあるんですよね。逆に「プラトーン」という映画を見ましたけど、アメリカ兵がベトナムの人の笑顔の意味が分からなくて、気持ち悪がって殺してしまう、というシーンがありました。私から見れば「私には敵意がありません。許して下さい。助けて下さい」という意味の笑いに見えましたけど、そうは伝わらなかったと言うことですね。ベトナミーズ・スマイル(ベトナムの笑顔)とか、そんな言葉まであるみたいです。
大人と子どもでも笑いのツボが全然違って、小学生の頃、友だちと一緒に大笑いした話をいま思い出してみて、何が面白いのか全然分からなかったりしますし、もっと小さい頃、多分4,5歳の頃だと思うんですが、親戚のおばあさんに食堂に連れて行ってもらって、カレーか何かを食べたんですが、どういう分けだか突然吐き気を催して、お皿の上に吐いてしまったんです。
そしたら、そのおばあさんが、「あらあら」とか笑いながら言って対応してくれて、それから家に帰った後、笑いながらその話をして「まあ、上手にね、お皿の上に吐いちゃったんだよね」みたいなことを言っていました。そのとき、私は吐いたことがショックだったし、なんでこの人は笑うんだろう、と子どもながらに結構不快な気持ちを抱いたことを覚えています。
こうなると笑いのツボどころではなくて、笑いがドツボにはまる、という状態ですよね。折角関係をよくしようとしたり、緊張している場を笑いで和らげようとしても、結果としてその逆になってしまう。
うーん、ほんとに難しい。またアスペと定型のコミュニケーションに、なんだか自信が無くなってきました。
こうなると笑いのツボどころではなくて、笑いがドツボにはまる、という状態ですよね。折角関係をよくしようとしたり、緊張している場を笑いで和らげようとしても、結果としてその逆になってしまう。
うーん、ほんとに難しい。またアスペと定型のコミュニケーションに、なんだか自信が無くなってきました。
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コメント
この記事へのコメントは終了しました。
トマトです。
笑いのツボが全く違うと「ムカッ」や「イラッ」になっちゃいますね。
よく「小学生のかけっこなどで、同級生が転んだときASの子がそれを見て笑って周囲の定型の児童に責められる」・・・という例が言われますね。
ASの児童は「その瞬間の転んだポージングに反応して笑った」だけで悪意は無い。
定型児童は「あっ、痛そう」「可哀想」「一生懸命走ったのに残念!」という同情反応をするから、笑うなんてとんでもないと憤慨したり、意地悪だと誤解する。。
一緒に笑う、同時に吹き出す、同じ場面で涙する・・・という行為は、ASの人にとって安堵や信頼や親しみにならないのでしょうか? 気持ち悪いことでしょうか?
語弊がありますね、ASの人によっては・・という質問です。
投稿: トマト | 2013年6月23日 (日) 20時01分
トマトさん
私の経験ですが、パートナーと知り合った頃、彼女が私を小さな池につれていってくれました。そこには蓮の花がひとつ咲いていて、とても美しかったんですね。彼女は「ほらこれ」という位しか話をしなかったと思います。「綺麗でしょう?」とか、そういうのはなかったです。
後から聞いたところでは、「綺麗だったから見せてあげたかった」ということではあるようなんだけど、「それをどう感じるかは相手の感覚の問題だから、自分がどうこういうことはできない」という気持ちを持っているとのことでした。もちろん、相手が喜んでくれることは彼女にとってもいいことなんだと思いますし、その意味では「共感」にはなるのかもしれないけど、「あなたの感じ方を私は大事にする」という意味ではやっぱり「個人個人」という線は崩れないんでしょうね。そこがやっぱり違うところなのかな。
そうするとトマトさんの言う「安堵」とか「信頼」とか「親しみ」はそこにどう関係してくるのでしょう?たしかに私の感じでは「同じだから安堵する」とか「親しみを感じる」という感覚は彼女からはそれほど伝わってこない気がします。アスペの方から言うとそれはどうなのか、私には分かりませんけれど。
仮にそういう感覚があまり生まれないとして、それはもともとそういう傾向が強いと言う部分もあるかも知れないし、子どもの頃から「同じ」ということよりも「違う」ことを突きつけられ続けてきて、「同じ」を期待して「安心」を得ようとすることを諦めるしかなかったのか、なんかその辺も今どっちなんだろうな、と考えています。パートナーの話を聞いていると、子どもの頃からの経験も利いているような気もしますし。
投稿: パンダ | 2013年6月24日 (月) 21時02分
初めまして 初めて投稿します
私は定型 主人がAS傾向(ADHDもあり)です 同じ状況であれば 私も奥さんと同様に 感じて不快に思ったと思います それは日頃から 私に落ち度があれば主人は馬鹿にする 自分が優位に立ちたい 私に対してライバル意識があるからです
だから 笑われると馬鹿にされたと思ってしまいますね
それはASとか定型とかの問題では ないように思います
投稿: ボビー | 2013年6月25日 (火) 01時44分
ボビーさん
はじめまして。どうぞよろしくお願いします。
大事なポイントをありがとうございました。
私自身は自覚できるレベルでは「優位に立ちたい」という気持ちよりも、
「認めて欲しい」とか「対等な関係になりたい」という気持ちだったように思いますが、
パートナーは子どもの頃からほんとに(私が見ていると)親から認められずに
馬鹿にされてきたと感じ、かわいそうに思っていましたし、
うちでも子どものことになると、私も「その接し方では子どもとうまくいかない」
とか「こういう風にやった方がいい」ということを言い続けてきたので、
それは自分なりに真剣に誠実に頑張っていた彼女にとっては
自分のことを全く認めずに、頭から否定されている気持ちになったそうです。
今はそのあたり、だいぶん緩和されてきたようには感じるのですが、
でもやっぱり子どもの頃から続いてきた「否定され続けている」という思いは
そうそう簡単になくならないのかも知れないですね。
それが今回のような形でも出るのかも知れません。
いずれにせよ、ボビーさんの視点から考えてみると、
ここにもアスペと定型との気持ちの動きに共通するものが
確かにある、ということが言えそうです。
お互いの理解にとって、ひとつの大事な足がかりにもなるかも。
投稿: パンダ | 2013年6月25日 (火) 07時50分
パンダさん、
私はボビーさんやパンダさんの奥様とは異なる背景をもっているせいか、100円ショップの件では腹が立たない気がします。でも蓮を「綺麗でしょう?」と言わなかった奥様の行動とは私の気持ちが合致します。反対に「綺麗でしょう?」、「美味しいでしょう?」、「面白いでしょう?」などと前もって言われると、一気に心のシャッターが閉まるような感覚がするのです。もうそこでお終いというような。
トマトさんが書かれている「一緒に笑う、同時に吹き出す、同じ場面で涙する・・・という行為は、ASの人にとって安堵や信頼や親しみにならないのでしょうか? 気持ち悪いことでしょうか?」を読んでずっと考えていたのですが、私の場合気持ち悪いとは思いませんが、安堵や信頼や親しみにはならないですね。ただ「一緒に笑った、同時に吹き出した、同じ場面で泣いた」というだけです。
信頼できる人や親しみを感じる人は私にもいるのです。ただ信頼できる関係がどうやって生まれたかは自分では説明できません。もしかしてトマトさんが書いた行為でなのかと考えてみたのですが、やはりしっくりこないのです。
投稿: ナナセ | 2013年6月25日 (火) 08時44分
ナナセさん
安堵、親しみ、信頼、そういうものがどこから生まれてくるのか。とても知りたいところです。
まあ、定型の側も「説明しろ」と言われると難しいかも知れませんが (^ ^;)ゞ
投稿: パンダ | 2013年6月26日 (水) 20時00分
なるほどです >>パートナーは子どもの頃からほんとに(私が見ていると)親から認められずに馬鹿にされてきたと感じ<< ここのところは 私も同様です
なので ASとか定型ってより育てられ方にも問題があり それによっても受け取り方、捉え方が変わってくるんじゃないかと 思いました
投稿: | 2013年6月26日 (水) 20時08分
すみません 名前を入れ忘れました↑
投稿: ボビー | 2013年6月26日 (水) 20時10分
ボビーさん
「ASとか定型ってより育てられ方にも問題があり それによっても受け取り方、捉え方が変わってくるんじゃないかと 思いました」
育て方は実際大きいと思います。おなじアスペの方でもある意味ゆったりと育った方や、親に肯定され続けて育った方なんかは、比較的定型の世界でも余裕をもって生きやすかったりするのではないかと感じることがあります。まあ、今までのコメントなどを拝見していて感じたことですから、実際にこの目で具体的に見て確かめたことではありませんけれど。なんか、そんな気がするんです。
あとたとえ同じような育てられ方をしたとしても、アスペ傾向の子どもと定型傾向の子どもではその受け止め方の強さとか、影響の出方とかに違いが出てくることもあるように思います。具体的にそのへん、どうなのかは、またぼちぼち考えていきたいテーマでもあります。
投稿: パンダ | 2013年6月26日 (水) 20時55分