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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年6月28日 (金)

定型が傷つく理由?

 これまでもやはり何度か少しずつ考えてきたことですが、少し考えがまとまってきたように思うことがあります。それはアスペと定型のコミュニケーションの中でよく問題として言われることですが、アスペの方の発言に定型が傷つく、というできごとが起こる理由についてです。

 もちろん、私のパートナーもよく言いますが、傷ついているのは定型だけではないわけですよね。アスペの方も定型の対応や発言に傷つき続けていて、定型はそのことにたいていの場合は気がついていない。私自身、自分がどれだけパートナーを傷つけているのかと言うことについては、どこまで理解できているのか、全然自信がありません。

 そういう「お互い様」ということは一応前提として、今考えたいのは、定型である私の体験やみなさんからのコメント、パートナーの話などをもとに、「定型が傷つく」やりとりがどうして生み出されるのか、ということについてです。だんだんとその逆の場合についても理解を深めていきたいですが、まずは自分自身わかりやすい身近なところで定型の側から……

 まだ私とパートナーの間に「アスペと定型のズレ」という理解がなかった頃、随分長い間のことですが、ときどき彼女の発言にどきっとさせられたり、傷ついたり、ショックを受けて落ち込んだりすることがありました。内容によっては「この人と人生を共に出来るのだろうか?」と思うこともありました(離婚を真剣に考える前の時の話です)。

 そのころは私は「アスペ的な発想」ということについて、想像することが出来ませんでしたから、彼女が話す言葉はそのまま定型的な感覚で理解していました。そうするとその言い方や内容は、意図的に私や誰かを激しく攻撃し、傷つけようとしているのだとしか思えませんでした。

 お互いの間に「アスペと定型のズレがある」という理解を共有するようになってからも、しばしばそういう私にとってはショックを受けるような、傷つくような言い方は出てきましたが、お互いに話をする中で、だんだんとそれは少なくとも彼女が「傷つけようとして意図して」言っているのではない、ということは、頭では理解するようになってきました。実際、私が彼女の発言に落ち込むと、彼女が「また自分の発言であなたを傷つけた」といってショックを受けて落ち込む、というようなことも何度か繰り返されましたし、決して彼女が私を傷つけることを「意図して」そう言っているのではないことは分かるのです。

 でも私には不思議でした。なぜならそういう発言というのは、ほんとに狙いすましたかのように、ピンポイントで「的確」に急所をズバッと突いてくることが多いからです。わざわざ人を怒らせようとして、あるいは傷つけようとして、攻撃している、という感じにどうしても受け止められてしまうような言い方なんですね。それを「そういうつもりは全然ない」と言われても、ほんとに混乱してしまうと言うわけです。

 最初の頃に私がそれを理解するために考えたことは、「意図的ではないんだけど、本人が気づいていない無意識の所でなにか深い怒りを溜めていて、それがなにかの拍子にほとんど無意識的な攻撃として出てくるのではないか」ということでした。

 実際、コメントなどを拝見していたり、パートナーの話によれば、アスペの方は自分の感情に気づくことに時間がかかる場合がよくある、ということのようです。パートナーの話では、子どもの頃他の子どもたちから虐められていても、それがいじめである、ということに気がつくのにもだいぶ時間がかかったそうです。また自分の感情状態に気がつくことも、それを相手に表現することも、定型的な見方からすれば「苦手」と感じられる場面にしばしば出会います。

 ですから、「本当は無意識に沢山抱えている怒りが、何かの拍子に攻撃的な言葉で本人も意図せずに吹き出してくる」という理解の仕方は、まったく的外れとも言い切れないのですが、かといって本当にそれで理解しきれるのかというと、なにかちょっと違うのではないかという思いが残り続けてきたのです。

 なぜちょっと違うのではないかと感じてきたかというと、その一つの理由は、私がパートナーの発言に、「それは定型的にはすごく攻撃的な言い方に解釈されちゃうよ」ということを伝えたりすると、彼女が時々、不満そうに、「だって定型の人もよくそういう言い方をするじゃない。なんで定型の人はよくて、アスペはダメなわけ?」と言うんですね。

 つまり、彼女としては、こういう場面では定型はよくこういう言い方をしている。自分もその言い方を利用しているだけなのに、なぜ責められるのだろう?と納得がいかないのですね。

 彼女の言うとおり、たしかに定型もそういう、相手を傷つけたり攻撃したりする言い方をする場合はあるんです。だからもし彼女がその言い方に強い印象を受けて、「そう言う言い方をするのが普通なのか」と思ったとすれば、彼女の言うことは分かる気がします。

 問題は定型がそういう言い方をするのは、もうおだやかなコミュニケーションを諦めて、喧嘩別れも覚悟した場合とか、その一歩か二歩前くらいの相手への警告として使う言い方だったりすると言うことです。だから、それは定型的には「普通の言い方」ではないのだけれど、彼女は「こう言うときはこういう風に普通いうものだ」と理解したのかもしれません。

 定型的な感覚から私に言わせれば、それは彼女の誤解で、どういう文脈でその言葉を定型が使っていいるのかについて、その文脈の違いが伝わらなかったと言うことの結果だと思うのです。ですから、定型的にはそういう言い方はするのはまずい、と思うような文脈でもそういう言い方をされてしまって、定型の側がびっくりして傷ついたりすることが起こる。

 彼女に対して少しそういう説明をしてみるんですが、その文脈がどう違うのかをうまく伝えることが難しくて、今のところ彼女も納得するようなうまい説明ができません。

 さて、そこでもう一歩考えたことが今日の私のテーマになるのですが、私のパートナーや他のアスペの方(の一部?)が、どうしてそういう文脈の違いに気づきにくく、そういう言い方が「普通」と考えやすいのか、という、その理由についてです。

 これまでの「アスペルガーは感情理解が困難な障がい」というような見方から言えば、要するにそれはアスペの方の障がい、感情理解能力や文脈理解能力の「低さ」によるのだ、という話でおしまいになりそうです。たしかに「定型的な感情理解の仕方」を基準に考えれば、それはそういう話になるのでしょう。

 でも玄さんがアスペと定型のお互いの感情理解について◎(大きな円が定型の感情理解を表し、小さな円が理解力が「足りなくて」その一部しか理解できないアスペの感情理解を表す)という関係ではなくて、お互いに部分的に重なり合うところのある、違った二つの円なんだと考えるべきということを書いていらっしゃいましたが、私もその視点から考えてみたいんです。

 アスペも定型も、お互いに部分的には感情を理解し合えるところもあるけれど、その背後になかなか理解が難しい、それぞれの個性を持った感情の部分がたくさんある。そういう意味ではどちらが優れているとかいう問題ではなく、「お互い様」の関係にあるわけですが、でもこの世の中では定型が多数派であり、この世の中のコミュニケーションの基本は定型のやりかたが正しい(とか普通とか)と考えられている、という現実は否定しようもないのですね。

 そうするとどういうことが起こるかというと、おそらくほとんどのアスペの方がこれまでの人生の中で体験し続けてきたように、自分の素直な感じ方は周りの人にはなかなか理解されないということが普通になってしまいます。それでも回りに合わせて生きていかなければならないとすれば、よく分からないものであっても、形だけでも相手に合わせていかなければならない、ということが起こってきてしまう。

 でもやっぱりそれはアスペの方にとっては自然な自分の感覚に従っているわけではなくて、「よく分からないけどみんなそうやっているからそれに合わせてやるしかない」という形で身につけていくものになります。たとえば大人になってから外国語を学んだとして、発音なども一生懸命まねをしたとしても、子どもの頃から母語として学んだ人に言わせれば、その発音は決してなめらかなものではないし、不自然だ、と言われてしまうことがほとんどなわけですが、同じように、アスペの方が定型にとって自然なやりかたを身につけて利用しても、どうしても定型から見れば不自然な部分が目立ってしまうと言うことが起こりやすい。

 最初のうちは、まだお互いになれないからだろう、とか、定型の側も余裕をもってアスペの方に対応するでしょうけれども、同じようなズレが重なってくるとそうはいかなくなります。そこでやりとりがなんとなくぎくしゃくしてきて、スムーズなコミュニケーションが取れなくなるわけですが、なんでそうなるのかはお互いに分かりませんから、特に感情的なコミュニケーションを多く使う定型の側は不安になってきたり、いらだってきたり、しまいには怒りをもってきたりして、そしてなぜそんなことになるのかを考えて、「こいつ(アスペの方)がおかしいんだ」「自分のやり方はみんながやってることで<普通>だし<正しい>し<常識>だ」と考えて、アスペの方を責めるようになる。

 アスペの方にしてみれば、自分なりに理解した定型的なやり方をそのままやっているだけなのに、なぜか回りのみんなから責められ続ける、ということがずっと続くことになります。

 こういう状態になったときにはもう定型の方は言ってみれば「我慢の緒が切れかかっている」状態ですから、アスペの方に対する態度はキツイものになりますし、ちょっとしたことでも苛立って攻撃的な言い方をすることが多くなる。そういう状態が続くわけです。

 そしてこの状態で周囲とコミュニケーションをとらなければならない立場に立たされた、少数派のアスペの方は、「ああ、コミュニケーションというのはこういうふうにやるのだろう」と、それが普通のことだと理解せざるを得ない状況に追い込まれるのかも知れないと思うのです。その結果として、定型としてはある種特別な、緊張したとげとげしい雰囲気の中で行っているコミュニケーションの仕方を、アスペの方は「これが普通だ」と理解して身につけ、利用する場合が出てくる。

 

 もしこの理解がある程度実態にあっているのだとすれば、アスペの方の発言で定型が傷つくことがしばしばある、というのは、実はアスペの方がそれまでの人生の中で、ずっと定型からやられてきたことを、悪気がなくやり返されているだけだ、ということになるかもしれません。そしてもしそうなら、この問題は単に「アスペの方がコミュニケーションに障がいをもっていいるからそうなるのだ」という理解ですまされる問題ではなく、お互いのコミュニケーションについての理解のズレが、おかしな形でそういう「相手を傷つける」コミュニケーションを生んでしまっているのだ、という少し違った見方で考え直してみるべき問題だと言うことになると思うのです。

 そうすると(今は具体的にどうしたらいいかというところまでは考えが進んでいませんが)、きっとこの問題への対処法についても、なにか新しい見方からの新しいやりかたが考えられるのではないかと期待したりします。

 

 

 

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コメント

パンダさん、とても興味深かったです。まだ前半部分しか拝見していないのですが、衝動。
パートナーの方が、的確にピンポイントでグサッとくる発言をされる部分についてですが、パンダさんは「不思議と」とおっしゃっていますが、
たぶん必然的に、「そのツボ」が直感的に解るパートナーの方だからこそ、はじめからパンダさんは惹かれたのかも知れません。パンダさんは非常にご自身に対して厳しく、誠実に向き合う方だと文章を拝見していて感じます。(見当違いで気を悪くされたら大変すみません。)
だからこそ、自分の痛いところを直感的に見抜いてしまうパートナーのかたに惹かれて、求めたのではないかな、と勝手に…。(私の独りよがりで乱暴な推察です。すみません)

私自身の稚拙な経験からですが、
「他者(社会的関係上の身内含む)」の発言に「私」が「かちん」とくる時というのは、
往々にして、
「他者(社会的関係上の身内含む)」はそんなつもりは例えなくとも(ある場合もあります。意識的なのか、無意識はわかりませんが。ああ、ややこしくて、すみません)

「私」がもっとも「つかれて痛いツボ」なことが多いからな気がします。私はそうでした。

「そんなこと」にかちん、と来てしまう自分がまだまだだな、って、私はよく思っていました。
でも最新は、自分の努力では改善できない(したくない)「欠点」はもう、しょーがないなー。これが私だもんなーって思っています。
だからか、他者にも、求めすぎないというか、お互いしょーがない部分あるよね!って思っちゃいます。
がんばって克服できることは努力するけど、努力だけでは、どうしようもない「欠点」は、それぞれ違し、誰にもあるなって思います。

だから、努力で何とかなるだろう!頑張らないのが悪い!って発想が少し苦手です(笑)
欠点と能力は隣あわせだし、その能力もどこでも何にでも通用するとは限らないと思うからです。
できること、できないこと
は千差万別な気がします。
誰でも、それぞれ、違う。
私は、そこに「優劣」は定義できないと思っています。
だからこそ、アスペルガー「症候群」とか「発達障害」とか言う言い方に違和感を感じるのかも知れません。
もちろん、そう言う呼び方を否定はしないです。その方がすっきり納得できる人が双方に存在するなら、それがいいと思います。
私が感じたままのことなので。不快に思われたら申し訳なく思います。

おはようございます。玄です。
取り上げて頂き有難うございます。
僕が「理性的に話す」ように努めているのは、図で表したときの「二つの円の重なった部分」で伝えないと、相手に言いたいことが通じないと思っているからです。重なった部分を積み上げるのが、唯一有効な手段と感じています。(Low contextなわけですが)
想像するに、定型は「二つの円の重なった部分」ではない部分にも「仮想共有スペース」があって、そこを照らし合わせて敵味方をいつも確認したい欲求があるんでしょうね。この「重なっていない部分の照らし合わせ」が「コミュニケーション」と呼ばれているような気がします。
定型は「コミュニケーション」をしたいのに、ASは「二つの円の重なった部分」が基本なので、お互いにイラっとくるのかもしれません。
僕の考えでは、「感情」は円の重なり部分よりも「自分側」のことが多く、積極的に表現に出すコンテンツではないという感覚です。そういったわけで感情が小さいうちは相手に伝えることは少ないのですが、「それはあんまりだ、言うべきだ」という事案は「二つの円の重なった部分」つまり客観的な表現で伝えられるということです。それを受けた定型は「いつもは言わない人が爆発した」「逃げ道の無い厳しい言い方をされた」という感想を持つ、これが新月さんの言われる「突かれると痛いツボ」なのではないでしょうか?

パンダさんは「溜まった感情が噴き出された」という感想をお持ちなんですね。
僕のイメージでは、ASは感情を言語化する習慣が少ないだけで、無意識に抱えているわけではないと思います。それが主観的な感情のうちは、言語化されずにもやもやしていますが、客観的な表現ができる形になると、初めて伝えられる感じだと思います。僕はセリフが完成するまで発言しないので、「タイムラグの後でキツイことを言う」という印象を与えているかも。

新月さん

 「できること、できないことは千差万別な気がします。誰でも、それぞれ、違う。私は、そこに「優劣」は定義できないと思っています。」

 ということ、その通りだと思います。何事もその人が持って生まれたものと、持って生まれた環境によってその人の出発点は、その人の努力や何かと関係なしに決まっているのですから、それぞれのひとが自分の現実を足場に生きていくことしかできないわけですもんね。良いも悪いもないと思います。自分は他人の人生を生きることは出来ないわけで……。

 「パンダさんは非常にご自身に対して厳しく、誠実に向き合う方だと文章を拝見していて感じます。」

 いえいえ、自分自身へのこだわりは強いと思いますけど(その点はアスペの方と通じる?)、いい加減に生きたいと思うことしきりです (^ ^;)ゞ 残念ながら環境がそれを許してくれないところが有るみたいですけど、できるだけサボるようにしてます (^_^)v


玄さん

 「想像するに、定型は「二つの円の重なった部分」ではない部分にも「仮想共有スペース」があって、そこを照らし合わせて敵味方をいつも確認したい欲求があるんでしょうね。この「重なっていない部分の照らし合わせ」が「コミュニケーション」と呼ばれているような気がします。」

 多分、重なる部分を増やしていきたい欲求が強いんだと思います。そして重なる部分が大きければ大きくなるほど、「信頼関係」が深まるような感じになってくるのかな。学生時代にカウンセリング関係の授業を受けたとき、そんな説明を受けたように思うんですが、もしかするとそういう説明の仕方自体、すごく定型的なのかも知れないですね。

 「ASは感情を言語化する習慣が少ないだけで、無意識に抱えているわけではないと思います。」

 ここはパートナーとつきあっていて、ほんとに迷うところです。まあ、この玄さんの書き方から言っても、言語化はされていないけど、感情は沢山持っている、ということが前提な訳ですよね。で、言葉にする、ということは「自分で理解する」という意味もあるし、「相手に伝える」という意味もあると思いますけど、たとえば自分が相手に対してなにか不満などを持っているときに、その感情を言葉にして相手に伝えなければ、不満がたまってしまうようなことはあるように思うんです。そのことを「無意識に抱えている」というような言い方で考えてみました。

 このあたりについての理解の仕方、もしかするとお互いにすこしズレがあるのかもしれないですね。まだよくわかりませんが、大事なポイントなのかもしれないと思いました。

パンダさんの「無意識に抱えている」が少し分かった気がしました。
言葉になっていない状態は、自分で理解していないので、確かに溜まったような状態かもです。意識が言葉の形で像を結んだなら、それはもはや「衝動」ですね。

「不満」で思い出しましたが、不満を相手に伝えるためにセリフを構築中、あるいは不満を伝えずにやり過ごしたい場合に、僕はうっかりするとモロに「不満顔」になるらしいのです。それを見つかり指摘されることは、流れ的に非常に面倒です。
冷静に相手が理解できる形で説明しよう、不満を音声にしないことで互いの気持ちを傷つけずに済まそうとした矢先に、最悪のツッコミ「不満なんじゃん」。

「不満が溜まる」という言い方がありますが、気持ちはあまり蓄積しません。
どちらかというと、揮発性。日々、次々と思い通りにならないことに遭遇するので、いちいち貯めていたらキリがありません。

アスペルガーの人に良心的な解釈は不要です。

定型の人がアスペルガーの人に腹を立ててした言動をアスペルガーが真似ている、
という解釈は間違っています。鶏が先ではありません。

定型の人がアスペルガーの人に腹を立てる、という最初があります。
彼らは、決して真似をしているわけではありません。
なぜ、真似と考える人がたくさんいるのか疑問です。

彼らは全く違うんです。彼らの行動には、むしろ真似が全くなく、すべてオリジナルです。
オリジナルでしか動けないです。

例えば、漢字の読みがおかしいことがよくあります。有名な地名などの固有名詞でも、
オリジナルの読み方をします。

定型の人は、すんなり真似をしますが、アスペルガーの人は真似ません。

よって、アスペルガーの行動は、定型の責任では全くありません。
定型の人は、よく、相手は自分の鏡だ、という言葉があるように、お互いに影響しあっている生き物です。相手を感じて自分も変わります。

でも、アスペルガーは、相手を感じることが出来ません。自分の感情しかありません。

アスペルガーが腹立たしいことを言うのは、定型にも責任がある、なんて考えるのは間違っています。

なおさん

 コメントのルールはご存知でしょうか。
 その決め詰めについて,どうぞ根拠をお示しください。

なおさんからのコメントがルールに抵触すると考えられたので非公開の設定にしてあります。

なおさん,コメントのガイドラインをお読みになって改めてご投稿ください。
ガイドラインはトップページにあります。
http://communicative.cocolog-nifty.com/blog/
あるいは右側コラムの「カテゴリー」からも見ることができます。

ではどうぞよろしくお願いします。

どの点が、違反しているのか思い当たりませんでした。
詳しく書いて頂けると嬉しいのですが・・・。
残念です。

メルアド書いておきます。

この場では比喩的な表現になりますが、すみません。

なおさんがご自分の個人的な体験から、アスペのかたについてこうなのではないかと感じられたことは、それはなおさんの感じかたとして受け止められるし、もしかするとアスペの方にはそういう共通性があるのではないかと想像されることもあって当然です。しかしそれはあくまでなおさんの個人的な体験からの、個人的な意見であって、それが当てはまる人もあるかもしれないし、もしかすればその個人的な体験の理解も単なる誤解や偏見かもしれない。そして定型アスペ間ではそういう誤解や偏見が簡単に起こってしまうという事実を具体的に議論してきたのがこの場なのです。ですからなおさんの体験から感じられたことを、そのまま相手のかたの事実として決めつけることはできないし、ましてやそれを勝手に誰にでも当てはまる事実としてアスペの方全体を貶める表現で決めつける権利はなおさんにはない。ここは「私にはこう見えるし、こう感じられて仕方がないのだけれど、それはどうなんでしょう?」ということをお互いに考え合うための場であって、一方の立場から相手を断罪する場ではありません。

差別というのは一部の人に見られたことで全体をきめつけ、それを根拠に直接関係のない相手を不当に扱うことで起こります。定型に犯罪者がいたから、定型はみんな犯罪者だということのおかしさはなおさんにもわかると思います。その危険性を持つコメントと感じられたので、ルールにしたがって書き直してみてくださいとお願いしたわけです。

自分が正しいとかアスペが間違ってると決めつけて差別してる人の多いこと。


無関係な人までもアスペというだけで攻撃しているくせに自分のそういった罪深さがなぜ、どこが悪いのかすらわかってないんですね。パンダさんに理由を伺ってること自体が驚きましたが、性格悪い人って自分のやってることに自覚が持てないくらいに頭が悪いんですね。


定型者こそ頭に障害を持っていますね。

じょんこさん

一部の事例で「定型は」と一般化して断定するのはガイドラインに反しますのでご注意ください。

息子が子供の頃は近所の人におばさんシワが多いねとか、太ったね、おじさんはげてきたねなどと言うので、困ったことがありました。
何度叱っても子供が何で怒るんだと反発することがありました。
よく相手の立場になって物を考えなさいと言っていたのですが、息子は自分が言われても腹は立たないから相手が何で怒るのか分からないと言います。
息子は熟女好きとか言う意味ではなく、肌がきれいな若い女性の方が良いとか、痩せている方が良いなどの一般的な感覚がなく、ハゲていようが、肌が劣っていようが、人の中身が一番ではないかという感覚のようです。
しかし近所の人は毎回言われると気分が良いものではありませんから息子が悪意で言っている、私が陰で悪口を言っているのではないかと言われたこともあります。
さすがに今はそんなことは言わなくなりましたが、当時は困りました。
私も息子も相手には悪意はなく、むしろ相手には尊敬していたので、悪口を言っていたということはありません。

子育て経験者さん

>肌がきれいな若い女性の方が良いとか、痩せている方が良いなどの一般的な感覚がなく、ハゲていようが、肌が劣っていようが、人の中身が一番ではないかという感覚のようです。

 なるほどと思いました。この息子さんの基本的な感覚を私たちがとらえそこなうんですよね。だから「相手を傷つけている」という誤解が生まれる。むつかしいです。

>私も息子も相手には悪意はなく、むしろ相手には尊敬していたので、悪口を言っていたということはありません。

 ここがほんとに伝わりにくいところだと思います。私もパートナーとやりとりがすれ違う時は、多くの場合そのあたりが関係しているのだろうと思います。

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