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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年6月

2013年6月30日 (日)

定型はなぜ普通にこだわる?

 ときどきアスペの方から「なんで定型の人はすぐに<それが普通だ>とか<常識だ>、<当たり前だ>という言葉にこだわって、そこに逃げ込むのか」という疑問を投げかけられます。たしかに私も「そんなの当たり前じゃない」という「反論」をときどきしていました。なんかそう言わずにおれない気持ちになるんですよね。

 何故なんだろう、と考えてみるのですが、まずひとつ言えそうなことは、アスペの方との間で言い争いになった場合、やはり世の中では定型の方が多数派ですから、たとえその場は一対一で言い争っていたとしても、定型の側は「私の言っていることは、他のみんなも認めることだ」という思いが湧いてくるんでしょう。そして「みんなも認めているみたいに、私の言うことは常識だし、正しいことなんだ」ということで自分の言うことをアスペの人に認めさせようとする。少なくとも「自分はそんな変なことを主張している訳じゃないんだ」ということを納得してもらおうとする。

 ところがこの言い方はアスペの方にとっては納得がいかないか、腹立たしいか、あるいは場合によっては訳の分からない言い方になるのでしょうね。だから最初に書いたような疑問が出てくる。

 そこでふと思ったことがあるんですが、私が「だって、それ普通のことでしょう?」とか「常識じゃない」とか言いたくなるときはどんなときなんだろう、と考えてみると、パートナーから「あなたの言ってること(ややってること)は非常識だ」と責められているように感じる場合が多い気がしたんです。と言っても、彼女が実際に言葉でそういうふうに言うわけではありません。ただなにか言い方が「あなたがおかしい」という断言調で言われる感じがして、それがかちんときて、それでつい「私の言うこと(やっていること)はみんながやってる普通のことなんだ」と言いたくなってくるみたいなんです。

 結局そういうときの話はすれ違ったまんまで何も解決されないわけです。

 なんでそういうことが起こってしまうのか、というと、もしかしてこんなズレが有るんじゃないかと思いました。つまり、アスペの方は「個人として考える」ということが基本にあるように思うので、自分が正しいと思ったことをストレートにそのまま主張する。それに対して定型の側は、もちろん自分が正しいと思えるかは関係しますが、同時に「他の人たちにもその考えは通用するか」ということを結構気にしている。

 それで定型の場合は主張をする場合にいくつかの仕方を使い分ける気がするんです。たとえば「自分はこう思っているんだけど、他の人が認めてくれるかどうかは自信がないなあ」というレベルの主張、「自分はこう思うし、多分みんなもそうじゃないかな」と思えるレベルの主張、そして「自分はこう思うし、みんなもほぼ確実にそう思っている」と確信できるような主張。もちろん一般的に言えば、「みんなもそう思っている」と感じられる主張ほど、断固として主張しやすくなるし、そうでないほど、自信なく、「もしかするとこうかも」という感じの弱い主張になって、相手に反論されるとすぐに考え込んだりすることになります。

 これに対してもしかすると、アスペの方の場合は、基本的には「自分が正しいと思うかどうか」ということが一番重要な基準で、「相手がそれをどう思っているか」ということについてはあまり気にならないか、あるいは「そんな相手の考えていることなど、分かるわけがない」という感覚を強くお持ちなのかもしれないと思ったんですね。そうすると、自分の意見を主張するときに、定型のように「回りがどう思っているか」によって、主張の強さを変える、みたいなことはなく、どれも「自分が納得している意見」として堂々と断固として主張されるのかも知れない。

 もしそういうことが起こっているのだとすれば、ここでアスペと定型の間に、相手の主張の仕方についての勘違いが起こる可能性が出てくるのではないでしょうか。というのは、定型から見ると、アスペの方が「私はそれが正しいと思う(考える)」ということで、ぐいぐいと自信を持って(?)主張されてくるように見えるわけです。それは定型的な解釈では「その意見は当然大多数の人にとっても常識だ」という理解があるからアスペの方はそういう言い方をするのだ、というふうに感じてしまう。

 つまり、アスペの方の主張の仕方は定型にとって「私は常識を言っているのだよ」という主張にも聞こえてしまい、それに対して自分(定型の側)が自分の主張を振り返ってみて、周囲のみんなも同じような意見の筈だと思うと、「いや、私の方が常識なんだ」という形で対抗したくなるのではないかと、そんなふうに考えてみたのです。

 このことももしかすると「アスペの方の言葉は裏表がなく、そのまま素直に受け止めるべきなのに対して、定型の言葉には二重三重の意味が含まれていてそういう使い方をする」と言われる事とも繋がってくる問題なのかも知れません。

 何故かというと、アスペの方素直に「自分の主張」をされるのに対して、定型の場合は自分の主張」をするときに、(大体は無意識にだと思いますが)「他の人はその意見にどの程度賛成するだろうか」という見通しみたいなものを入れ込んで主張をする、ということをやっているんだと思うんです。そういう言葉の使い方、主張の仕方、言葉への意味の入れ方のズレが、お互いにズレた解釈を生んでしまって、すれ違った議論になってしまうのかもしれないですね。

 ひとつの可能性としてそんなことを考えてみました。

2013年6月28日 (金)

定型が傷つく理由?

 これまでもやはり何度か少しずつ考えてきたことですが、少し考えがまとまってきたように思うことがあります。それはアスペと定型のコミュニケーションの中でよく問題として言われることですが、アスペの方の発言に定型が傷つく、というできごとが起こる理由についてです。

 もちろん、私のパートナーもよく言いますが、傷ついているのは定型だけではないわけですよね。アスペの方も定型の対応や発言に傷つき続けていて、定型はそのことにたいていの場合は気がついていない。私自身、自分がどれだけパートナーを傷つけているのかと言うことについては、どこまで理解できているのか、全然自信がありません。

 そういう「お互い様」ということは一応前提として、今考えたいのは、定型である私の体験やみなさんからのコメント、パートナーの話などをもとに、「定型が傷つく」やりとりがどうして生み出されるのか、ということについてです。だんだんとその逆の場合についても理解を深めていきたいですが、まずは自分自身わかりやすい身近なところで定型の側から……

 まだ私とパートナーの間に「アスペと定型のズレ」という理解がなかった頃、随分長い間のことですが、ときどき彼女の発言にどきっとさせられたり、傷ついたり、ショックを受けて落ち込んだりすることがありました。内容によっては「この人と人生を共に出来るのだろうか?」と思うこともありました(離婚を真剣に考える前の時の話です)。

 そのころは私は「アスペ的な発想」ということについて、想像することが出来ませんでしたから、彼女が話す言葉はそのまま定型的な感覚で理解していました。そうするとその言い方や内容は、意図的に私や誰かを激しく攻撃し、傷つけようとしているのだとしか思えませんでした。

 お互いの間に「アスペと定型のズレがある」という理解を共有するようになってからも、しばしばそういう私にとってはショックを受けるような、傷つくような言い方は出てきましたが、お互いに話をする中で、だんだんとそれは少なくとも彼女が「傷つけようとして意図して」言っているのではない、ということは、頭では理解するようになってきました。実際、私が彼女の発言に落ち込むと、彼女が「また自分の発言であなたを傷つけた」といってショックを受けて落ち込む、というようなことも何度か繰り返されましたし、決して彼女が私を傷つけることを「意図して」そう言っているのではないことは分かるのです。

 でも私には不思議でした。なぜならそういう発言というのは、ほんとに狙いすましたかのように、ピンポイントで「的確」に急所をズバッと突いてくることが多いからです。わざわざ人を怒らせようとして、あるいは傷つけようとして、攻撃している、という感じにどうしても受け止められてしまうような言い方なんですね。それを「そういうつもりは全然ない」と言われても、ほんとに混乱してしまうと言うわけです。

 最初の頃に私がそれを理解するために考えたことは、「意図的ではないんだけど、本人が気づいていない無意識の所でなにか深い怒りを溜めていて、それがなにかの拍子にほとんど無意識的な攻撃として出てくるのではないか」ということでした。

 実際、コメントなどを拝見していたり、パートナーの話によれば、アスペの方は自分の感情に気づくことに時間がかかる場合がよくある、ということのようです。パートナーの話では、子どもの頃他の子どもたちから虐められていても、それがいじめである、ということに気がつくのにもだいぶ時間がかかったそうです。また自分の感情状態に気がつくことも、それを相手に表現することも、定型的な見方からすれば「苦手」と感じられる場面にしばしば出会います。

 ですから、「本当は無意識に沢山抱えている怒りが、何かの拍子に攻撃的な言葉で本人も意図せずに吹き出してくる」という理解の仕方は、まったく的外れとも言い切れないのですが、かといって本当にそれで理解しきれるのかというと、なにかちょっと違うのではないかという思いが残り続けてきたのです。

 なぜちょっと違うのではないかと感じてきたかというと、その一つの理由は、私がパートナーの発言に、「それは定型的にはすごく攻撃的な言い方に解釈されちゃうよ」ということを伝えたりすると、彼女が時々、不満そうに、「だって定型の人もよくそういう言い方をするじゃない。なんで定型の人はよくて、アスペはダメなわけ?」と言うんですね。

 つまり、彼女としては、こういう場面では定型はよくこういう言い方をしている。自分もその言い方を利用しているだけなのに、なぜ責められるのだろう?と納得がいかないのですね。

 彼女の言うとおり、たしかに定型もそういう、相手を傷つけたり攻撃したりする言い方をする場合はあるんです。だからもし彼女がその言い方に強い印象を受けて、「そう言う言い方をするのが普通なのか」と思ったとすれば、彼女の言うことは分かる気がします。

 問題は定型がそういう言い方をするのは、もうおだやかなコミュニケーションを諦めて、喧嘩別れも覚悟した場合とか、その一歩か二歩前くらいの相手への警告として使う言い方だったりすると言うことです。だから、それは定型的には「普通の言い方」ではないのだけれど、彼女は「こう言うときはこういう風に普通いうものだ」と理解したのかもしれません。

 定型的な感覚から私に言わせれば、それは彼女の誤解で、どういう文脈でその言葉を定型が使っていいるのかについて、その文脈の違いが伝わらなかったと言うことの結果だと思うのです。ですから、定型的にはそういう言い方はするのはまずい、と思うような文脈でもそういう言い方をされてしまって、定型の側がびっくりして傷ついたりすることが起こる。

 彼女に対して少しそういう説明をしてみるんですが、その文脈がどう違うのかをうまく伝えることが難しくて、今のところ彼女も納得するようなうまい説明ができません。

 さて、そこでもう一歩考えたことが今日の私のテーマになるのですが、私のパートナーや他のアスペの方(の一部?)が、どうしてそういう文脈の違いに気づきにくく、そういう言い方が「普通」と考えやすいのか、という、その理由についてです。

 これまでの「アスペルガーは感情理解が困難な障がい」というような見方から言えば、要するにそれはアスペの方の障がい、感情理解能力や文脈理解能力の「低さ」によるのだ、という話でおしまいになりそうです。たしかに「定型的な感情理解の仕方」を基準に考えれば、それはそういう話になるのでしょう。

 でも玄さんがアスペと定型のお互いの感情理解について◎(大きな円が定型の感情理解を表し、小さな円が理解力が「足りなくて」その一部しか理解できないアスペの感情理解を表す)という関係ではなくて、お互いに部分的に重なり合うところのある、違った二つの円なんだと考えるべきということを書いていらっしゃいましたが、私もその視点から考えてみたいんです。

 アスペも定型も、お互いに部分的には感情を理解し合えるところもあるけれど、その背後になかなか理解が難しい、それぞれの個性を持った感情の部分がたくさんある。そういう意味ではどちらが優れているとかいう問題ではなく、「お互い様」の関係にあるわけですが、でもこの世の中では定型が多数派であり、この世の中のコミュニケーションの基本は定型のやりかたが正しい(とか普通とか)と考えられている、という現実は否定しようもないのですね。

 そうするとどういうことが起こるかというと、おそらくほとんどのアスペの方がこれまでの人生の中で体験し続けてきたように、自分の素直な感じ方は周りの人にはなかなか理解されないということが普通になってしまいます。それでも回りに合わせて生きていかなければならないとすれば、よく分からないものであっても、形だけでも相手に合わせていかなければならない、ということが起こってきてしまう。

 でもやっぱりそれはアスペの方にとっては自然な自分の感覚に従っているわけではなくて、「よく分からないけどみんなそうやっているからそれに合わせてやるしかない」という形で身につけていくものになります。たとえば大人になってから外国語を学んだとして、発音なども一生懸命まねをしたとしても、子どもの頃から母語として学んだ人に言わせれば、その発音は決してなめらかなものではないし、不自然だ、と言われてしまうことがほとんどなわけですが、同じように、アスペの方が定型にとって自然なやりかたを身につけて利用しても、どうしても定型から見れば不自然な部分が目立ってしまうと言うことが起こりやすい。

 最初のうちは、まだお互いになれないからだろう、とか、定型の側も余裕をもってアスペの方に対応するでしょうけれども、同じようなズレが重なってくるとそうはいかなくなります。そこでやりとりがなんとなくぎくしゃくしてきて、スムーズなコミュニケーションが取れなくなるわけですが、なんでそうなるのかはお互いに分かりませんから、特に感情的なコミュニケーションを多く使う定型の側は不安になってきたり、いらだってきたり、しまいには怒りをもってきたりして、そしてなぜそんなことになるのかを考えて、「こいつ(アスペの方)がおかしいんだ」「自分のやり方はみんながやってることで<普通>だし<正しい>し<常識>だ」と考えて、アスペの方を責めるようになる。

 アスペの方にしてみれば、自分なりに理解した定型的なやり方をそのままやっているだけなのに、なぜか回りのみんなから責められ続ける、ということがずっと続くことになります。

 こういう状態になったときにはもう定型の方は言ってみれば「我慢の緒が切れかかっている」状態ですから、アスペの方に対する態度はキツイものになりますし、ちょっとしたことでも苛立って攻撃的な言い方をすることが多くなる。そういう状態が続くわけです。

 そしてこの状態で周囲とコミュニケーションをとらなければならない立場に立たされた、少数派のアスペの方は、「ああ、コミュニケーションというのはこういうふうにやるのだろう」と、それが普通のことだと理解せざるを得ない状況に追い込まれるのかも知れないと思うのです。その結果として、定型としてはある種特別な、緊張したとげとげしい雰囲気の中で行っているコミュニケーションの仕方を、アスペの方は「これが普通だ」と理解して身につけ、利用する場合が出てくる。

 

 もしこの理解がある程度実態にあっているのだとすれば、アスペの方の発言で定型が傷つくことがしばしばある、というのは、実はアスペの方がそれまでの人生の中で、ずっと定型からやられてきたことを、悪気がなくやり返されているだけだ、ということになるかもしれません。そしてもしそうなら、この問題は単に「アスペの方がコミュニケーションに障がいをもっていいるからそうなるのだ」という理解ですまされる問題ではなく、お互いのコミュニケーションについての理解のズレが、おかしな形でそういう「相手を傷つける」コミュニケーションを生んでしまっているのだ、という少し違った見方で考え直してみるべき問題だと言うことになると思うのです。

 そうすると(今は具体的にどうしたらいいかというところまでは考えが進んでいませんが)、きっとこの問題への対処法についても、なにか新しい見方からの新しいやりかたが考えられるのではないかと期待したりします。

 

 

 

2013年6月25日 (火)

アスペ的気遣い?

 

ナナセさんがこんなコメントを下さいました。

 「蓮を「綺麗でしょう?」と言わなかった奥様の行動とは私の気持ちが合致します。反対に「綺麗でしょう?」、「美味しいでしょう?」、「面白いでしょう?」などと前もって言われると、一気に心のシャッターが閉まるような感覚がするのです。もうそこでお終いというような。」

 定型だと、「わあきれい! ほら見て! きれいでしょう!」と思わず共感を求めてしまいそうな場面です。もちろん定型でも、そう言われて自分は感動しないこともあります。実際先日母親がある絵に感動したのですが、私は全然感動しなくて、むしろつまらない絵だと感じてしまい、正直にそう話しました。母親は不満そうで、「あなた、こういうものの感じ方がちょっと鈍い(だったか、「偏っている」だったか……)んじゃない」と言われました。私はほんとに全く感動がなかったので、「こういうのの、どういうところにそんなに感動するの?」と尋ねましたけど、あんまりよく分かりませんでした。

 まあ、母親とかではなく、もう少し距離のある知り合いとかが相手であれば、私もストレートに感動しないとは言わずに、感動している相手の人に対して「ああ、そうですか」とか「ふーん、なるほどね」位の感じの、否定も肯定もしないような返事をするだろうと思います。そのあたりはいろいろだと思いますが、いずれにせよ「きれいでしょう!」とか「きれいだね!」とか、感動を共有しようとする言葉に対しては、反発を感じたりすることはあまりないように思いますし、そういう言葉は相手のために控えるべきだ、という風にもあまり思わないだろうと思います。

 ここの点でアスペの(少なくとも何人かの)方は、定型とは全く違った形で相手に対する気遣いをされるのですね。相手から共感を求められると自分自身が困るので、相手にもそういうことは求めることなく、その人なりの感じ方をしてもらえるように何も言わない、という気遣いの仕方なのだと思えます。

 実際、私のパートナーも、私から感想を求められるとよく困った顔をします。自分なりに感じていることは有るんでしょうけれど、ナナセさんの説明で理解すれば、問われたとたんに「一気に心のシャッターが閉まる」のかもしれません。そして自分でも何を感じたのかが分からなくなったり、何を答えたらいいのかが分からなくなったりしてしまう。

 そういう心の動き方は、アスペの方(の一部?)にとっては、きっと自然なことなのでしょうね。定型が「きれいだね!」と共感を求めてしまうことが自然であるように。どちらがいいとか悪いとか、決めつけられるものではないように思いますが、ひとつの見方からすれば、アスペ的(?)接し方は「相手の感じ方を大事に、そっとしておいてあげる」という、より「大人」の接し方だと思えなくもありません。もちろん定型だって、場合によっては相手を気遣って「そっとしておいてあげる」ということは有りますから、もう少し丁寧に考えてみる必要はあると思いますけれど、でも直感的にはそういう定型的な「そっとしておいてあげる」とはまた違った感覚があるような気がします。

 ナナセさんの説明のような「一気に心のシャッターが閉まる」という感じがどうして生まれるのかなど、まだまだよくぴんと来ないことが多いですが、でもその気遣いの仕方については、なんとなく分かる感じもしてきましたし、「ああ、素敵な気遣いだな」という風にも感じられる部分が出てきたように思います。

 

2013年6月23日 (日)

笑いのドツボ

 以前、パートナーの笑顔が欲しくて工夫した話を書きましたが、今日は私が思わず笑ったことでとても責められてしまいました。

 というのは、彼女が100円ショップで買った品物が、いざ使おうとしたらすぐに壊れてしまったのを見て、私も同じような経験がありますし、ふふふ、と笑ったんですね。そしたら、「どうして私が困っているときに人を笑うようなことをするわけ?」と責められました。

 うーんと、これ、思わず笑いが出たんですけど、もちろん彼女を笑ったわけではなくて、彼女が困っていることを笑ったわけでもなくて、あえて言葉にすれば「まあ、100円ショップの品物だね。ほんとに困ったもんだね」ということで「共感して」笑った、ということになります。でもその笑いを聞いた彼女の方は、困っている自分か、あるいは困っている状態を冷たく笑った、と感じ取ったらしいのです。

 これ、難しい問題だなあと思います。笑いって、一緒に笑う気持ちになれる場合にはお互いを温かくつなぐ力がありますし、「自分が笑われた」とか「人を笑った」というような形になってしまうときには、相手を侮辱したり、馬鹿にしたり、傷つけたりする意味を持ってしまいます。諸刃の剣、というやつですね。

 だから、今回の例を考えても、「何を笑ったのか」という文脈の受け取り方がお互いに全然ずれてしまったのですね。そうすると彼女にとっては自分が馬鹿にされたような、傷つけられたような気持ちになってしまう。もちろんこちらにはそういう意図は全くなく、逆に「共感」を求めていたり、同情してだとしてもです。

 笑いとか笑顔って難しくて、昔サザエさんの漫画を、家族の人がアメリカ人(だったと思います)に見せたら、何が面白いのかわからないと言われたそうです。文化とか社会とかが違うと、笑いのツボが全然違うことがよくあるんですよね。逆に「プラトーン」という映画を見ましたけど、アメリカ兵がベトナムの人の笑顔の意味が分からなくて、気持ち悪がって殺してしまう、というシーンがありました。私から見れば「私には敵意がありません。許して下さい。助けて下さい」という意味の笑いに見えましたけど、そうは伝わらなかったと言うことですね。ベトナミーズ・スマイル(ベトナムの笑顔)とか、そんな言葉まであるみたいです。

 大人と子どもでも笑いのツボが全然違って、小学生の頃、友だちと一緒に大笑いした話をいま思い出してみて、何が面白いのか全然分からなかったりしますし、もっと小さい頃、多分4,5歳の頃だと思うんですが、親戚のおばあさんに食堂に連れて行ってもらって、カレーか何かを食べたんですが、どういう分けだか突然吐き気を催して、お皿の上に吐いてしまったんです。
 そしたら、そのおばあさんが、「あらあら」とか笑いながら言って対応してくれて、それから家に帰った後、笑いながらその話をして「まあ、上手にね、お皿の上に吐いちゃったんだよね」みたいなことを言っていました。そのとき、私は吐いたことがショックだったし、なんでこの人は笑うんだろう、と子どもながらに結構不快な気持ちを抱いたことを覚えています。

 こうなると笑いのツボどころではなくて、笑いがドツボにはまる、という状態ですよね。折角関係をよくしようとしたり、緊張している場を笑いで和らげようとしても、結果としてその逆になってしまう。

 うーん、ほんとに難しい。またアスペと定型のコミュニケーションに、なんだか自信が無くなってきました。

2013年6月21日 (金)

男と女のすること

 しばらく前になりますが、ラジオか何かであるおじいさんの話を聞きました。長年連れ添った奥さんを病気でなくされた方ですが、そのおばあさんがなくなる一週間くらい前、いつものように隣り合って布団を並べて寝ていると、おばあさんが、「一緒に寝て欲しい」と言ってこられたそうです。おじいさんはおばあさんの身体を心配しながら、添い寝してあげたそうです。

 その翌朝、おばあさんが(恥じらいながらだと思ったんですが)、「昨日はあなたに男と女のすることをしてほしかった」と言われたといいます。それがおじいさんはずっと心に残っているそうです。おばあさんとしては自分の命がまもなく燃え尽きることを感じながら、最後に大事なおじいさんにもう一度「男と女のすること」をして、つながりを感じたかったのだろうと思いました。そしておじいさんはおばあさんの身体を気遣う余り、そういうおばあさんの気持ちに気づいてあげられなかったことが、心残りになったのではないかと思いました。二人の人生でそれが最後の機会だったのですしね。

 みなさんはどう感じられるかわかりませんが、私はこの話はとてもしみじみと聞いてしまいました。そんな思いをそういう状況で奥さんに抱いてもらえるというのは、幸せな夫婦だと感じてしまうんですね。

 そういう風に感じるのもやっぱり定型的な感覚の一つなのかなあと思ったりもします。というのは、パートナーと話をしていると、やっぱり出会ったときの恋愛感情みたいなものは今はない、ということはよく言われます。そうではなくて、もう家族なのだ、という意味です。その場合家族という意味は多分、親子間で愛はあっても「男と女」の感情があるのは不自然であるように、相手への思いは性愛的な思いとはほんとに切り離されているように感じます。

 で、私もその彼女の感覚を理解し、それを無視せずに大事にしようと考えてきたわけですが、そうしていくと、このところ、関係が劇的に改善してきた頃に私の側に再び芽生えていた、二人が出会った頃を思い出すような感情が、だんだん薄れていっているのに気がつくんです。ある意味で彼女の言う「家族」の感覚に近づいているのかなと思うのですが、でもやっぱり最初に書いたおじいさんとおばあさんの話に感動するような気持ちがなくなるわけではないですね。

2013年6月14日 (金)

知に働けば角が立つ

 夏目漱石の有名な言葉で「知に働けば角が立つ、情に棹さしゃ流される、とかくこの世は生きにくい」というのがありますよね。

 特に日本の中でそうなることが多いような気がするんですが、「議論」と「喧嘩」の区別がつきにくい、というか、同じもののように感じてしまう人が多い気がします。特に相手の意見に対して、自分が「それは違うんじゃないか」と思って、反論をすると、そのこと自体で「喧嘩をしようとしているのか」と相手に思われたり、「私のことを傷つけようとしている」と感じられたりすることが多いんじゃないでしょうか。

 多分それは日本の中の、特に定型の人にすごく目立つことのように思います。それで、相手の人の意見に反対の意見を言うときには、ものすごく気を遣いながら、遠回しに言ったりするのを見ることもよくあります。 

 何が言いたいかというと、アスペの方が自分の意見を言うと、定型の人がすごく傷ついて、そのうちそのアスペの人が敬遠されてみんなから相手にされなくなって、アスペの方は何のことか分からないまま傷つく、というようなことがあると思うんですが、そうなる理由の一つがこの「知に働けば角が立つ」という定型の感じ方に有るんじゃないかと思ったのです。

 これも私の想像に過ぎませんが、アスペの方が時々ものすごく「理屈っぽく」なる(知に働く)ことがあるように思うんですけれど、それは定型との間では感情的なコミュニケーションがずれてうまく行かないので、感情的になることを押さえて理屈で考える、という姿勢が深く身についているからではないか、と、そういう可能性を感じます。

 感情的なやりとりでは全くすれ違いになることが多いですから、それに比べると、冷静に理屈で具体的に話をした方がまだ通じることが多い。

 ところがそういうことでアスペの方が理屈っぽく話をすると、今度は定型の側が「自分が非難されている」とか、「自分が傷つけられている」とか「喧嘩を売られている」と感じてしまうことが起こりやすい。

 私自身の体験からすると、定型は上にもちょっと書いたように、反論するときには相当気を遣って、「あなたを攻撃する気持ちはありません」「これは喧嘩ではなくて議論なんです」ということを相手に分かってもらうように、たとえばことさらに笑顔を強調したり、途中に冗談を挟んだり、明るい声で話をしようとしたり、ある意味涙ぐましい努力をしたりしているわけです。ところがパートナーが私の意見を否定して自分の意見を言う場合、ほんとに「ぶすっ」とした顔で、不機嫌そうな声で話をしたりするので、どうしてもものすごく不機嫌に「喧嘩を売られている」ような感じを受けてしまったんです。(ようやく最近、そう言うことではないんだなと思えるようになってきましたが)

 それでこれは喧嘩を売られているのかと思って、こちらも自動的に「戦闘態勢」になってしまい、本格的に「論争」に応じようとすると、今度は彼女の方がびっくりしてしまって、あるいは怯えたようになってしまって、「なんでそんなに私を否定するの?」という感じになる。で、私は訳が分からなくなって大混乱に陥る、ということがよくありました。

 うーん、やっぱりこの問題も、アスペの方が定型多数派の世の中で、苦労しながら工夫して身につけてきたコミュニケーションのやり方が、定型には別の意味に受け取られてしまってコミュニケーションがうまく成り立たない、という例のひとつなのかも知れないですね。

2013年6月13日 (木)

違った目でアスペ的特徴を見てみる

 最近つらつら感じていることなのですが、一般にアスペの方の特徴として言われているもののうち、かなりの部分が実は理解しにくい定型の世界の理屈に対して、アスペの方なりの仕方でなんとか対処しようと努力する中で生み出されてきたものではないでしょうか。

 するりさんがテレビ番組で有名なお医者さんが「アスペルガーの人は感情がない」という意味のことを発言していたと書かれていました(そういうことを平気でいう人がいるので、私は「専門家」という人たちを、専門家という理由で信用する気持ちに全然なれないんです。よほど「素人」の当事者の方が現実を知っていると思います。「専門家」はほんとに人によると感じます)。

 この「感情がない」とか、少なくとも「感情を理解できない」という理解の仕方は、自分の感覚でアスペの方に特有の感情のあり方や感情理解の仕方が全然わからないで困惑する定型の側が、自分の理解の枠組を守ったまま(私の感情理解こそが本当の感情理解だという決めつけ)、アスペの方を見ようとしたときに、そんな風に思わざるを得なくなるんじゃないかという気がするんです。

 何度か書いたと思いますが、私は学生時代から、カナータイプの自閉の子どもたちとつきあいが結構あったんですね。一緒に遊ぶバイトとかもしてましたし。で、自閉の子の特徴として、「愛着」の関係が出来にくいし、人を避けて一人で遊ぶことを好む、といったようなことが言われてました。じゃあどうしてそうなったのか、と言うことについて、「それは母親の育て方が悪いからだ」と言われていた時期があったんです。

 どう悪いのかというと、「普通」のお母さんは、子どもによく話しかけるし、一緒に遊んであげるし、スキンシップも多いのに、どうも自閉の子のお母さんはそれがすごく少ないというんです。で、実際調べてみても子どもとの関わりが少ない、という結果になって、やっぱりそうだ!という話になる。

 お母さんとしては自分の子どもが「障がい児」だと言われて「自分のせいだ」とすごく自分を責めやすい状態に置かれて居るんですが、さらに(やっぱり「専門家」の「研究」に基づいて)あなたの関わりが悪かったからこうなった、と言われてしまうわけで、これはつらいですよね。

 ところがだんだん分かってきたことは、お母さんが関わりが少なかったから自閉的になったのではなくて、まったく逆だと言うことなんです。つまりお母さんは普通に子どもに関わっていたんだけど、自閉の子の方がそれにはあまり答えなかったり、嫌がったりするので、ごく自然な結果として、お母さんは無意識に関わりを少なくしていっていたんです。その方が子どもが安定したりしますから。

 つまり「関わりが少ない→自閉的な子になる」ではなくて、「子が自閉的に振る舞う→関わりの少ないお母さんになる」というのが事の真相だったというわけです。それまでお母さんが責められたりしたのは、とんでもない「専門家」の一方的決めつけだったわけですね。

 さて、それでそういう自閉的な子と遊んでいたときのことを思い起こせば、感情はすごくあったし、それを激しく表現することもよくありました。それは定型の私たちが「パニック」と名付けるような表現だったりします。ただ、その子が感情に突き動かされていることは分かっても、なんでそういう感情になってるのかがなかなか分からなかったりするんですね。これも付き合いが長くなると、「あ、あれかな」と気づく場合が増えていきますけれど。

 多分そういう体験が根っこにあることも大きく影響して居るんだと思いますが、自閉症スペクトラムという言い方で自閉的な子どもとの共通した性格があると理解されている、アスペの方たちについても、感情がないとか、共感が出来ない、というような話にはどこか引っかかりを持ち続けていたんですね。実際、私のパートナーだって自分の切実な思いが私に伝わらなくって涙ながらに訴えてきたことも何度かあります。

 でもやっぱり私はそれを理解できなかったわけですし、だから感情がないとか共感能力がない、という話ではなくて、彼女の立場からすれば、「感情を出しても、全然理解されず、却って訳も分からない形で責められたりして、そうなら感情をできるだけ出さないようにしよう」となっても当然な状況をずっと生きてきたんだと思うんですね。

 もちろん、音に対する感覚とか、目で見る世界の見え方とか、ほんとに基本的な感じ方の部分から定型とアスペの方の間にはかなりの違いがあったりする、ということはこれまでのコメントなどでも繰り返し語られてきたことです。だからこそ、お互いのコミュニケーションがなんだかよく分からない形でうまく行かなかったりするのでしょうけれど、本当の問題はそうやって「コミュニケーションがうまく行かない」時にどうするか、ということじゃないかと思うんです。

 一つはアスペの方はもともとスキンシップや言葉でのスキンシップ(?)にそれほど欲求がなかったり、あるいは苦手だったりする傾向は強いと思うので(たとえば赤ちゃんでもだっこをいやがる子がありますよね)、コミュニケーションが難しい状態を経験すれば、わりにあっさりと諦めてしまうという可能性を感じます。

 それともう一つは、やっぱりアスペの方は少数派なので、誰とコミュニケーションをとってもうまく行かない場合が多い。逆に定型の方はうまく行くことの方が多い。そうするとアスペの方はある種のあきらめを持たざるを得ない状況に追い込まれやすいと思うんです。その結果、もともと密接なコミュニケーションは苦手な方が多いところに、回りの状況がその傾向をどんどん強めていくとすれば、定型的な見方からして「コミュニケーション能力に問題有り」と見られる状態に自然になっていくんじゃないでしょうか。

 いろいろ具体的な例で考えることも出来ると思いますが、そういう視点で「どうしてそういうコミュニケーションスタイルになっていったか」とか「どうしてそういう感情の持ち方、表現の仕方になっていったか」ということを考えてみると、ちまたで言われているアスペルガーの特徴について、だいぶん違った見方が出来るかも知れないと思います。

 大事なことは、そういう違った見方をしてみることで、アスペと定型のコミュニケーションについて、また違った可能性が見えるかも知れない、という期待をちょっと持ったりするということです。

2013年6月10日 (月)

「一途」と「ほっこり」と

 なんだかいろいろ感じたり考えたりすることがあって、しばらくご無沙汰しておりました。

 まだ頭が整理されるにはほど遠い感じもしますけれど、まあそれはいつものことですので(^ ^;)ゞ、ふと思ったことをまた書いてみたいと思います。

 最近、アスペの方たちについていくつかのことをしみじみと感じることの一つに、アスペの方は本当に「一途(いちず)」な方が多いんだなあ、ということがあります。定型的な見方からすると、その生き方は「融通が利かない」というように、否定的に見えてしまうことがしばしばあったりするわけですけれど、でもよく考えてみれば、ほんとに自分の思いに対して誠実に生きていることなんだ、という風にも思えるし、逆に言えば、定型はなんていい加減なんだろう、という風にも感じられてきます。

 もちろん定型がある意味では「いい加減」に見えるのは、人間関係を柔軟に保って、いろんな可能性をそこから引き出す、という大事な意味もあるのですから、別に定型が不誠実で、アスペの方は誠実で、という素朴な善し悪しの決めつけをしたいわけではありません。それぞれの生き方にはそれぞれの生き方の意味があって、それぞれに大事な役割があると、そんなふうに実感として感じられるようになってきたなあと思えるんです。

 私は場の雰囲気が硬くなって緊張した雰囲気になっているときとか、冗談を言って笑ってもらったり、そういう緊張を和らげるのが好きです。オヤジギャグも連発して、みんなから馬鹿にされたりもしていますが、でも結局それで場が和んだりもするので、それが嬉しかったりするんですね。

 ですから、パートナーがなんか元気がなかったり、しかめっ面をしているような時には、やっぱりついつい馬鹿な話をして気分をほぐしてもらい、にっこりしてもらおうとしてしまうんです。けれども、それがやっぱり逆効果なことがとても多くて、「私をからかってるわけ?」とか「馬鹿にしているの?」とか、そんな風に受け止められてしまうことが多いんです。

 彼女はそんなとき、真面目に話をしていたり、何かで本当に気分がめいっていたりするわけですが、私としては別にそのことを無視したり否定したいわけではなくて、ちょっと視点をずらしてみることで、そこからまた別の見方を探るための、ひとつのきっかけとして「笑い」という緊張ほぐしがしたいだけなのですが、それは「一途」な思いに生きている彼女にとっては「おちゃらかし」に感じられるのだなあと、そういう風に感じられるようになってきました。

 とはいえ、ごく稀には笑ってもらえることもあるので、あきらめの悪い私としては、そのこつをなんとか掴みたいと思っています。笑いのツボを知りたいんですね。それで彼女ににこっとしてもらってこちらも嬉しい気持ちになりたい。関西風に表現すれば「ほっこりした感じ」を求めているということでしょうか。

 
 

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