2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 伝わる? | トップページ | アスペ的「愛」と定型的「愛」? »

2013年5月 4日 (土)

フツー対自分のみ

 トマトさんが書かれている「話の前提が、定型は「世間一般と自分が同化した所のフツー」からスタートしているのに対して、ASは「あくまで自分のみ」からスタートしていることが多い」ということ、「ああ、そうそう、そんな感じ、そんな感じ」という風に思いました。ちょうど最近もわもわとイメージが湧いてきて、どういう言葉で表現したらいいだろう、と思っていたことを、うまいこと言葉にして下さった感じがします。

 玄さんが「会話で伝わるのは三割」と書いていらして、パートナーに聞いてみたら、彼女の場合は一割か二割という感覚だそうです。で、逆に聞かれたんですが、漠然とした感覚から言えば、定型同士の普通の話なら7,8割は伝わるし、少し込み入った話でも6割は伝わる感じで話をするという印象が自分にはあります。もちろん細かく突っ込んでいけば微妙なズレはいろいろある筈なので、もっと低い評価になるでしょうけれど、まあ大雑把な感じでは。

 それにたとえば「自分の親は自分のことを自分以上に理解してるところがある」とか、「親友に指摘されて初めてそれまで分からなかった自分が分かるようになった」というように、定型の場合は「自分以上に相手が自分を理解する」ということがあると感じたりもします。私も定型の中では聞き上手と言われることがありますが、相手の人の話を聞いて「それって、つまりこういうことかな」と自分が理解したことを言うと、「そうそう、そうなんです。」とか「あ、そうか、自分が考えていたことはそういうことだったんだ!」とか、すごく納得されることもあります。

 その話をパートナーにしたら「気持ち悪い」と言われました。なんとなく彼女がそう感じることがわかる気もするんですが、もしかするとそういう「場合によって本人より他人がその人のことが分かることがある」という世界は、アスペの方にとっては一種「オカルトの世界」に感じられるのかも知れません。テレパシーの世界とか。

 でも別にそんなややこしい世界の話ではなくて、相手の人の話の筋や置かれた状況を整理して考えていけば「それならこういうことになるだろうな」とか、相手の人の表情や行動や言葉からいろんな手がかりが得られますから、そこから考えれば「当然こういう事だろう」という推測が働くだけのことなんです。ある意味とても「合理的」な理解なんですね。ただし「感情の動きの理解」も含めての話ですけれど。

 すると彼女から「じゃあ、なんでアスペの人のことは分からなくて苦労するわけ?」と聞かれたんですが、そこはやっぱり定型とアスペの感じ方や考え方にかなりの違いがあって、定型にとっては「合理的」に思えることが、アスペの方の考え方には通用しないことがとても多いからだろうということになります。定型同士で威力を発揮する「理解の仕方」が通用しない世界を持っていらっしゃるから、難しいんですね。そこは逆に言えばアスペの方の「理解の仕方」が定型の世界では通用しないので、アスペの方が苦労するのと同じだと思います。

 それで、定型的な理解の仕方と、アスペ的な理解の仕方の違いは何だろう、ということをいろいろ考えていくときに、最初に引用させていただいたトマトさんの見方がかなり大事なポイントを指摘されて居るんじゃないか、という気がするんです。

 人とのコミュニケーションは、まあ大体の所は通じる、という漠然とした感覚を持って生きている場合と、逆に通じることはとても難しいことだ、という感覚を持って生きている場合では、世の中の見え方もすごく変わるでしょうし、コミュニケーションするときの構えも違うでしょうし、相手に対する「信頼の持ち方」なんかも違ってくると思えます。

 その違いは生まれながらにと言うより、実際にコミュニケーションをする中で通じたり通じなかったりという経験を積み重ねることで、できあがってくるものだと思います。(もちろん、アスペの方が定型の中で通じないという経験を多くするのは、コミュニケーション以前の所で感じ方や注目するポイントの違いとか、生まれながらの違いがベースにあると思えるのですが)

 その結果として「個人」を出発点として考えることが徹底していて、その感覚で他者との関係を調節するアスペと、「常識」という他の人と共通しているものを出発点として、その感覚で他者との関係を調節する定型との、「社会性」の違いが生まれてくる。定型はアスペの方からしばしば「それが普通でしょう」とか「常識でしょう」「当たり前じゃない」とか、そういう言葉を投げつけられて苦しむ、ということを訴えられていますけれど、定型がアスペの方とのコミュニケーションに苦労したときには、やっぱり「共通する常識がある」という強い感覚にすがるんだと思います。

 定型の中では「個性派」と言われ、お互いに「個性的」であることを大事にしてきたつもりの私でも、パートナーとの間ではやっぱり最後には「そんなの常識でしょう」という言葉が出てきましたものね。それだけ定型の「常識の共有」への無意識の信念を足場にした生き方は強烈なんだと思います。逆に言えば「個人」を無意識の信念にしているアスペの方の生き方も強烈なんでしょうけれど。

« 伝わる? | トップページ | アスペ的「愛」と定型的「愛」? »

コメント

「自分のみ」を補足したいです。
いってみれば「人は個々に他人と違う価値観を持っている」という世界観みたいなものですね。
ASは、相手も自分と同様に「自分と他人は意見が違っていて当然と思っているはず」「人は皆、個々のはず」という認識が基本にあると思います。
だから、相手と違う意見を述べることに抵抗がない。
話を整理していて、相手の話の先を言い当てることは、論理的に考えるだけの情報が揃っていれば、問題なくできます。ただし、その前提として必要な情報があればですが。

他人の話の先読みは「気遣い」みたいなものでしょうが、そのためには必要な前提を、表情とかの情報を抜きにして考えなくてはならないし、「普通」という枠を超えて想定するので、膨大な演算が必要で、それが「疲れ」を自覚するひともいるんでしょうね。

玄さん(ほかのASの方にも聞きたいのですが・・・)教えて欲しいのです。

今さらの質問で恐縮ですが、相手の表情からそのとき人の感情が伝わってこないって、どんな感じなのでしょう?

「強がって言ってるけど、目にうっすら涙が浮かんでいかにも切なそう」とか「言葉は丁寧だけど目元、口元から不愉快そうな歪みが表れて来たぞ」とか、感じないわけですよね。
と・・いうことは、相手の声が、ほとんど一本調子の音声として聞こえている状態で、尚かつ相手の顔が無表情に見える・・・という感覚なのでしょうか?

よく飼い主が自分の飼っている犬とか猫を見て「あ、すねてる」とか「笑ってる」と感じるときがあるけれど、それを言われてもほかの人は「犬は犬の顔」としか認識できない・・・みたいな理解で良いのでしょうか?

いやがおうに(それが勘違いであったとしても)相手の所作や表情から、感情的なものを感じてしまうサガの定型。感じてしまう側から、感じ取れない側の感覚を少しでも想像したいのですが、今まで具体的に聞くことなく過ごしてしまいました。

この質問で、不快になられるASの方がいらっしゃったら申し訳ないのですが、出来たら教えて下さい。

トマトさんへのご質問に。
僕の答えが一般的なのかどうか、僕も知りたいところですが、僕の考えでは、表情は見えているのですが、それがどういう理由かの「意味の可能性の幅を広げ過ぎ」ており、情報として受け止める前にオーバーフローするので、「事実上スルー」という状況。
相手の表情が「無表情に見える」のではなくて、何の表情かを特定できないので、困惑のまま時間が過ぎてしまうのです。
自分の感じ方をそのままブーストさせる機構がOFFであるとは思います。
表情や口調を意味のある情報に変換しきれないので、言っている内容に着目せざるをえない、そういった状況が凝り固まって、「表情を認識しない」とか「字義どおり解釈」とかになるのではないかと。

表情や口調が伝える意味は結構パターンが決まっているようで、「解釈を大胆に絞り込んでも大丈夫」という割り切りを持つことで、ひとまず視覚情報を受け止められるようになり、僕はだいぶラクになりました。

横から入って失礼します……

表情の理解についての玄さんの説明、なるほど! です。
ポイントは「なんでその表情になっているのか、その文脈が分かりにくい」ということなんですね。それだと表情のことに限らず、私のパートナーも、話をしていて、私が「そのこと」とか、「それは」とか言うと、「それって何のこと?」とよく聞かれることとも繋がってきますね。

多分定型は「これまでの話の流れから言えば、次はこういう話題になる」という「暗黙の約束事」みたいなものがいろいろあって、人の話を聞くときに無意識にその約束事を使って予め玄さんの言う「情報」の選択肢を絞り込んでしまっているのだと思います。だから無限に可能性を考えて立ち止まってしまうことがない。

最近、プロの将棋の棋士に、将棋のソフトが勝ち越す、という出来事がありましたけど、そのときに八段の棋士に勝ったソフトは、一秒に1億手を読めるのだったかな。それに対してたとえば羽生さんなんかは一手進めるために読むのは400手くらいで、それでも普通のプロから見れば驚きの数字なんだそうです。もちろん私のようなヘボから見れば神様のようなものですが。
 
じゃあどうしてそれでこれまでソフトが勝てなかったのかというと、将棋のソフトはあらゆる可能性を全部読んでいって、その中から一番いい手を選んでいくということらしくて、それはものすごく無駄が多いんだそうです。それに対してプロの方は予め有力な可能性に絞って読んでいくので、数がすくなくても効果は高い。強いプロというのはその筋の絞り方が上手と言うことなんでしょう。

で、定型は表情の読み方について多分子どもの頃から「暗黙の約束事」を学び続けて、大体の場合はすぐに読めるようになっているんでしょうね。将棋のプロのように。それに対してアスペの方は表情を手がかりにそういう約束事を学ぶことが苦手なのか、あるいは「約束事の作り方」が定型と違うのか、そのあたりの仕組みはよく分かりませんが、少なくとも定型的な約束事は理解しにくいので、コンピューターのように「すべての可能性を読む」必要が出てきて、大変になるのですね。

関連して興味があるのは、私のパートナーはときどき「自分の感情についてもよくわからない(分かるのにすごく時間がかかる)」と言うことで、そのことは他のアスペの方も書かれていたような気がします。もしそうなら他人の感情についても理解しにくくなるのは当然かなと思えるのですが、問題はどうして自分の感情についてもよくわからないということになるのだろうかということです。もしかするとこのことと、定型とのコミュニケーションで通じにくさが生じることがかなり関係しているのではないかと考えてみています。

玄さんのお話し、私も感覚的に近いかもと思いながら読みました。 
私も表情が分からないというより「相手がその表情に至るプロセス」が掴み切れていない、というケースがほとんどだと思います。 
あと、自分がやらない表情は分からないですね。自分自身は、泣くときは泣く。笑うときは笑う。不快な時は不快という。感謝の言葉は感謝の気持ちを込めて言う…くらいの、極めてシンプルな世界に生きてるんで、よく聞く、「ニコニコしてるけど目元は笑ってない」なんて高度な芸当、絶対出来ませんね… 

人の表情の勉強に一番適してるのはドラマや映画鑑賞かも。 
なぜなら、ドラマや映画は、表情に意味を持たせることによって話しが展開していくから。 
映画なんかは一回見てストーリーを分かった後で、「さっきのセリフ、どういう心境で言ったんだろう」と繰り返し見たりして見落とした箇所がないかチェックすることが多いです。あ、勿論、楽しみながらやってます。 
ASとか知らないころから自己流「療育」やっていたのかも知れません。

玄さん、早速の返信、ありがとうございます。
「意味の可能性の幅を広げ過ぎ」という視点は、未知の概念だったので教えてもらって、本当に良かったと思います。

するりさん、「相手がその表情に至るプロセスが掴み切れていない」という感覚は解るような気がします。定型は相手の言葉や所作で表情が変わるので、ASの人が無意識のまま、怒らせてしまったり、笑わせてしまったなら「何故、こんな表情になるのか」と思うでしょう。
また、定型が会話中に(先月からずっと言っているのに、まだ解らないのか)と内心思いながら早々にうんざりした表情をしたら、ASの人は「会話がはじまってすぐ、どうしたんだろう?」と思うでしょう。

表情の意味の想定の幅が極端に広い。その表情に至るまでの経緯がつかみにくい。

これは、ASと定型との「表情」でのトラブルの際、ちゃんと理由にも説明にもなる内容です。
玄さんとするりさんに、すごく有意義なコメントをいただきました。
パンダさんの要約は、とくに男性受けしそうです。


コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/51487553

この記事へのトラックバック一覧です: フツー対自分のみ:

« 伝わる? | トップページ | アスペ的「愛」と定型的「愛」? »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ