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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年5月12日 (日)

アスペ的「愛」と定型的「愛」?

 

掲示板の方で玄さんが書かれていた

「僕の家族へのありかたは「存在」そのものです。家族の各メンバーの「健康管理・精神的な安定・社会に触れる・知識欲をかきたて満たす」といった各プロジェクトを推進するリーダーといった感じです。「愛ありき」ではありません。愛がなくなったら解散するというものではありませんから。」

 という説明が、ようやく感覚的にも少し分かり始めてきたように思います。以前私はどなたかのコメントでロマンチストだというような感想を頂いたことがありましたし、多分アスペのパートナーをお持ちの方で特に苦しまれる方にはそういう傾向の方が多いのではないかとも思うのですが、何にしても「家族には愛が必要」という感覚は、定型の側は比較的持ちやすいのではないかと思います。

 言い換えると、もしかすれば定型同士のつながりというのは、アスペの方に比べてとても変化しやすく、ある意味でもろさを持っているのかも知れないですね。よく言えばそれは柔軟性を持っていると言うことでもあるんでしょうけれど。だからなんかの形で「愛」の持続とか、発展とかを確かめ合えなくなると、危険な状態になっていく。

 だからそのもろさを持った「家族」というものを保つために、なんだかいろんな工夫を積み重ねてきたのが定型中心の人間の歴史なのかなと言う気もします。以前、動物からの進化ということから人間の家族の特徴を考える、みたいな話を聞いたか読んだかしたのですが、何で人間は他の動物と違って一年中発情期(!)を持つようになったのか、というと、「子供を作る」ということ以外に、「夫婦をつなぎ止めておく」ための仕組みとしてそういう身体になったんだ、という説でした。

 生物としてそういう仕組みを作り上げてきて、さらに社会としても、たとえばキリスト教のカトリックなんかでは「結婚は神との約束」だから一度結婚したら最後まで添い遂げなければならない、という事になっているみたいですし、それだと離婚が出来なくなるので、イギリスの王はわざわざカトリックをやめてイギリス正教会を作って離婚OKにした、という話も聞いたことがあります。もちろんそれで離婚はOKになったとしても、夫婦が夫婦である限りは特別な関係として持続「しなければいけない」という、宗教的な制約はなくならないわけでしょう。

 そんな風に社会的な力で「夫婦」をつなぎ止めないといけない不安定さを定型が多数派の世の中はいつも持っているんだと思います。それで定型は性愛にもつながるような「愛」の確認をお互いにできなくなると、精神的にも「危機」が訪れやすいんじゃないでしょうか。

 その点ではアスペの方の感覚はだいぶ違うのかなと思います。わざわざ社会的に制約されなくても、「結婚したらそのまま添い遂げるのが当たり前」で、「具体的に生活を一緒に作っていく」「その中でお互いに相手のことを考えて助け合う」というつながりがそこにあれば、それこそが大事だし、ある意味それで十分なのだろうと想像します。定型的な感覚での「愛」というのはそこで必要とは考えられない。というか、そうやって一緒に生きていくことそれ自体がアスペ的な「家族愛」のあり方と言った方がいいのかも知れませんね。パートナーを見ていると、そんな気がします。
 
 

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コメント

「愛ありきではない」と書きましたが、「存在してくれていることに存在することで返す感謝の念」という自分なりの愛にあふれた日常のつもりなんですよ。(そこへ「あなたといると疲れる」などと言われたら、存在する価値も理由も見出せなくなって精神ガタガタになる)

僕は「愛情の形」は、ASか定型かという対立項で捉えるのでなく、誰もが一人一人違う、という風に考えたいのですが、それはAS的発想なのかも。
定型には「相手と同化したい、相手を同化させたい」という欲求があって、それを「愛情」と呼んでいる、とASは理解すればよいでしょうか?
僕には、そういう同化欲求よりは、個々の尊重の方が強いのは確かですね。

パンダさんの指摘された「不安定さ」は、コミュニケーション欲求と表裏一体なのでしょうね。ASは、成長過程で「不安定さ」を見落としたまま来てしまい、コミュニケーションの修練が不足したままの状態といえるかもしれません。

玄さん

「「愛ありきではない」と書きましたが、「存在してくれていることに存在することで返す感謝の念」という自分なりの愛にあふれた日常のつもりなんですよ。(そこへ「あなたといると疲れる」などと言われたら、存在する価値も理由も見出せなくなって精神ガタガタになる)」

 やっぱりそうなんですね。こういう風に文字で表現していただくと、一層「ああ、そうなんだな。ある意味定型と同じなんだな」と思えるんですね。それが実際に向き合って話をすると、表情や声の調子などの別の表現が加わって、そこが伝わりにくくなってしまうんだと思いますが、私は最近は随分慣れてきた感じがしています。

「僕は「愛情の形」は、ASか定型かという対立項で捉えるのでなく、誰もが一人一人違う、という風に考えたいのですが、それはAS的発想なのかも。」

 これは両面があるのだろうと私は思っています。たしかにアスペにも定型にも個性は様々にありますし、報道に依ればどうもDSMというアメリカの精神医学会の診断基準集みたいな本から、次のバージョンではアスペルガー症候群はなくなる予定だそうですね。細かいことは書いてありませんでしたが、あまりに多様性が大きいからなのかも知れないなあと想像したりします。

 同時にやっぱりアスペだと言われる方の意見を拝見したり、パートナーの言動を見ていると、やっぱりびっくりするくらい共通するところが見えるのも事実です。その一つが「ひとりひとりみんな違う」ということの強調の強さみたいなところでしょうね。確かに定型でも「個性」を重視する人や「自立」を大事にする生き方を目指す人もいます。でもそれは「みんな一緒」という感じ方とセットになっているように思えるんです。それに対して、アスペの方が「個性」を強調するときは、ほんとに他者とは切り離された「個人」という感覚こそが強力なベースになっている印象をうけます。つまり、同じように「個性の重視」ということを語られるときにも、なにかそのベースの感覚に定型とアスペの方に違いの部分があるような感じがするんです。

 まあ、そうは言っても「自閉症スペクトラム」とか言うくらいですから、その「違い」も人によって様々で、違いの大きさも人によってなだらかに変化していくのかも知れませんから、アスペと定型の間にはっきりとした線引きが出来るのかどうかは私にもわかりません。多分このへんはちょっと複雑な問題がからんでくるのかなと想像しています。

「パンダさんの指摘された「不安定さ」は、コミュニケーション欲求と表裏一体なのでしょうね。」

 これはほんとに仰るとおりだという気がします。だから調子が悪いときには人に支えてもらいたいとか、コミュニケーションを取りたいとか、一緒にいて欲しいとか、そんな風になるんでしょうね。ある意味で「不安定」だからこそ、他人を必要とするし、コミュニケーションを必要とするのだろうと思います。

お久しぶりです。
とても、わかりやすく玄さんが書いて下さったので、
でてきました。

今のわたしにとっても、
愛を家族愛として、捉えたら、玄さんの定義と似た感じになるかと思います。

でも、長年、わたしは、夫に対して恋をしていたので、
恋する感情を愛と信じて、報われない感情を持て余していました。

今となっては、夫に対しては子育ての同士であって、
恋愛感情はほとんどないので、
玄さんの言わんとすることが、なんとなくわかります。
(わかっている気になっているだけかもしれないですが。)

好きだとか嫌いだとかがなくなって、関係性が楽になってきました。
ただ、人を恋する気持ちもどこかで持ってはいたいので、
このまま枯れ切るのもさみしいという思いもあります。

玄さんも奥様に恋する季節はあったんですよね?
その恋から愛へ切り替わる時期なり、きっかけって何なんでしょうか?

入り込みすぎた質問だったり、
的外れなこと言ってたらすみません。

定型は、ASの人と友情や愛情や「情」の部分を深めたい関係におちいると・・・それが見当たらなくて、とても人恋しくなるんですよね。

定型は、細胞レベルから「情は通じ合える」という作りになっているような気がします。

だから、それが通用しない相手を愛してしまったら・・・相手は目の前に居るのに、その相手の気持ちを探してさまよい歩く人生の旅人になっちゃうんですよね。

いゃ・・相手の気持ちじゃないな。自分の欲っする相手の気持ちだな。

「ないものねだり」ってこういうこと。


でも・・・ないないづくしで「無い」がいっぱい集まった先に、まったく新しいものが「あった!」という発見が、ASと定型のコミュニケーションだと感じます。

wakabaさんへの回答です。
コメント有難うございます。感情についての分析をするのは、(特に愛情に関しては)一般的には楽しいことで興味が尽きないのですが、「どこが好きか」「なんでそう思ったのか」などの問いかけは男性にとってしばしば困惑する話題だという話を聞いた事があります。
ASの場合には、それに輪を掛けて迷宮入りする怖れがあると思います。

なぜなら、ASは自分への興味と他人からの追及で日頃から「ココロの解剖実験」をやり過ぎと思うのです。やっても欲しいものは見つからないし、切り刻まれて元に戻せない。ますますココロってもんが分からなくなる状態。

僕のパンダさんへの問いかけ「愛情は同化欲求と言い換えられるか」とか、トマトさんのコメント「細胞レベル」への反論(未投稿)「感情のオーバードライブ状態は脳が作る幻」という発想は、どちらも「愛情を解剖」しているわけです。少なくとも僕は、愛情について考えるように仕向けられ(例:「私のこと好き?」)ると、ついつい「解剖」してしまう。解剖して取り出した断片なんて、見たくないし見せたくないからその種の質問をして欲しくない。そういうわけで、質問が聞こえなかったフリをします。

つまりは、愛情の話題は「突っ込んじゃいけない」場合があるのです。個々に、感じるままでいいと思うのです。
「確かめ合いたい」という気持ちは分かりますが、「確かめ合えた」は幻想。幻想が見えればラッキーですが、現実が見えた時のガッカリは互いの不幸。ならば始めから現実を認め合いたい。それが僕の理想ですね。

で、こういう答えはどうですか?
僕の場合、子供の頃から存在するあらゆるものへの「博愛」がありましたから・・・これで許してください!

逆に、悲しみや憎しみの感情を分解するのは、感情のオーバードライブ状態を醒ますのに有効ですから、活用したらよい手法と思います。

先に掲示板でお世話になってしまい挨拶が遅れました。
かずきと申します。
診断されて日が浅いのですが、少し思う事がありましたので。

二人で同じ部屋に居て、別々の事をしている。
そこにどういったやり取りがあれば「愛情」を受信出来ていると本人が思うのか。

そこの違いが、「愛情」という概念の理解の差、では無いでしょうか。

私は「同じ空間に居てくれたおかげで、安定した気持ちで好きな事が出来た、ありがとう」
という「感謝」に近い思いで「愛情」を感じ、「愛情」と受け取ってくれる言葉を捜します。
「トキメキ」だとか「恋」だとか高揚する感情よりも、もっと「穏やかな午後の日差し」的な感情だと思います。
思ったままに伝えれば、それこそ「存在に対する感謝」でしかないかもしれません。
「生まれてくれてありがとう」だとか「出会ってくれてありがとう」だとか。
それ以上でもそれ以下でもありません。
なので、私の中の「感謝」を相手の望む「愛情」として変換して出力している状態です。
大好き、愛してる、ありがとう、うれしい、などなど。思っていなかろうと相手が望む形で。

そこで「愛しているか」と問われても、嘘を吐けない私は答えに困ります。
以前お付き合いした方からは、
「同じ空間にいるのに、孤独だった。自分は愛されていなかった」
といわれた事がありました。
その方は、「同じ空間で同じ事を楽しみながらする事」によって「愛情」を感じるのだと教えてくれましたが、
「同じことが楽しいかどうか」を判断するまで「愛情」として受け取れないのかどうか、と問い詰めてしまった私は、
玄様のおっしゃる「解剖」をしていたのでしょうね。

「個人の尊重」というのが、
パンダ様のおっしゃるように『「みんな一緒」という感じ方とセット』、ではなく

みんな同じ「木という存在」の集合体である「森や林」ではなく、
1本の木単位で、葉1枚、葉脈1本までの唯一と共に、そもそもの「木である」事すらも尊重する、という
ある意味徹底された「個人」感覚が強いのだと思いました。

私は
自分と同じ『木という存在』に意味を求めるのか、
そこに『木が存在する』事に意味を求めるのか
そういった感覚の差ではないかと考えています。

そういった事を踏まえたうえで、
相手が「愛情」と受け取れる形で発信しようと、心がけていますが、
果たしてそれが上手くいっているかどうかは、自信がありません。


定型がどうしても聞きたい、感情の質問。
ASがすんなり答えられない、感情の質問。

それは、定型が愛情空腹や愛情飢餓になったとき「お腹がすいて泣きそうだ、愛情パンを一切れください」と頼むとASは、愛情パンの成分や栄養素の分析と説明に入り込んでしまい、かたくなに与える事はしない・・・。という様子に見えます。(あくまでも定型視点)

以前、私の友人のAS男が熱中している異性が居て、もう毎日「好きだ」「好きです」の連呼状態でしたが、そのお相手から唐突に「私のどこがそんなに好きなの?」と聞かれて、目パチクリで「えっ・・・?」と絶句して黙り込み「なんだ、それほど好きというわけじゃないのね」とフラれたことがありました。
置去りにされた彼は「好きの説明と言われてもねぇ・・・」と、考え込んでいました。

定型女子は好きの確認が好き。それは、いくつになっても。
定型男子も好きの確認はするときはある。それは、いくつになっても。

でも・・それは「質問」のときもあるけど、だいたいが「欲求」なんだよね。
ときに甘く、ときに切実な、証人欲求。
だから「回答」で良いときもあるれど、だいたいが言葉の裏にあるうずうずした要求を「満たしてあげる」ってことなんだけど。

納得できない、訳のわからないことに「それはさておいて」までして「とりあえず相手の承認欲求を見たい仕上げる」という他者優先の行為が出来るかどうか・・・。
ハードル高そう。この、愛してる問題は。


ごめんなさい、書き間違いです。
「とりあえず相手の承認欲求を見たい仕上げる」
          ↓
「とりあえず相手の承認欲求を満たしてあげる」


玄さんの博愛主義、にはどきりとしました。

ASには承認要求っていうのがあまりないんでしょうね。というか、博愛主義は刺激を求める恋愛には向かないですよね。

ある意味でエゴがないと恋愛なんて成立しないような気がするんですよ。

恋愛って実態はエゴの見せ合いです。「自分のために毎日電話してくれ」とか「ここに連れていってくれ」とか、冷静に考えたら要求だらけ。決して美しい感情だけではありません。

でも、実態は「これして欲しい」「あれして欲しい」の押し付けだと気付いたら、自分が嫌になりますから、大抵、エゴを見ない様にしたり、気付かないままだったりしますけど、それも生きていく上での戦略の一つです。
「自分勝手」な部分がないと生物は生き残れません。

でも、事あるごとに「ワガママはいけない」と言われ続けたAS側には「愛」と言えば自分を捨てた「無償の愛」になってしまう。

どこかで落とし所を見つけないとこれは大変ですね・・・。


玄さん

 「僕のパンダさんへの問いかけ「愛情は同化欲求と言い換えられるか」」

 あ、これお答えしていなかったですね。「同化」というと、玄さんの使う意味では
 「同じになること」なのかなと思いますが、私の場合は「つながり」を求める事ですね。
 ただ、愛と言っても博愛とか無償の愛とかいう種類の愛もあれば、
 性愛に繋がる愛もあって、少なくとも定型の方は性愛に繋がる愛の方が
 ベースにあるような気がします。だからスキンシップとも関係が深い。

 博愛というのはある意味で「高級」な感じがして、なんていうか、
 精神的にすごく鍛えられたり、悟ったりしなければ到達できないもの
 という印象があります。少なくとも私には簡単には手が届かない世界です。

 「愛は惜しみなく与えること」という言葉もあれば
 「愛は奪う」という言葉もあります。
 前の方が「高等」な感じがしますけれど、
 定型の愛情にはやっぱり後ろの「独占欲」みたいなものが絡んできそう。
 お互いに相手を「私のものにしたい」という気持ちがあるし、
 「私はあなたのもの」というその逆の感情もセットになっています。

 というようなことを考え出すと、玄さんの言う「同化」ということだけでは
 言い換えは難しいのかも知れません。

かずきさん

 掲示板の方の話では、ひとつの峠ごえがあったようにも感じられて、
 良かったなと思いました。
 もちろんこれからまたいろいろ大変でしょうけれど、
 でも多分ひとつ前進という感じですよね。

 こちらに書いて下さったかずきさんの「愛情」の感覚については
 なるほどなあ、という感じがしました。
 私のパートナーのこともそういう見方で理解できる部分が
 結構ありそうに思いました。

 やっぱりプラトニックな、というか、純真な愛という感じがします。
 それに比べると、定型の愛はもっとどろどろした感じなのかも。

トマトさん

 愛と承認欲求の関係、どう理解したらいいんでしょうね。
 アスペの方も承認欲求はあるんですよね。
 ここでトマトさんが言われる承認欲求と中身に違いがあるのかも知れません。
 うーん、難しそう。

するりさん

 「でも、事あるごとに「ワガママはいけない」と言われ続けたAS側には「愛」と言えば自分を捨てた「無償の愛」になってしまう。」

 この言葉はちょっとうなりました。うーん、そういう違いがあるのか、と。
 「愛は奪う(お互いに奪い合う)」にはならないわけですね……。
 
 なんか、とても大きな深い問題が見えてきているのかなあと言う気もします。
 
 
 

玄さん、するりさん、そのほかのASさん
ASは、いろいろな場面で説明能力は高くても、感情の説明能力は低い・・・と(乱暴な言い方でごめんなさい)いう捉え方で良いのでしょうか?

日常において、すぐ無意識に感情や感想を表現しちゃう定型と、自分の感情や感想を掴みにくく自らの提示欲求が少ないAS。
これは、お互いが「何故ですか?」と聞いても、お互いの説明として「脳がそういうふうになっちゃってるから」というところに落ち着くしかないと思うんです。

プラスの感情を表現した方がコミュニケーション上には断然良いという法則が、人間社会にはあるとして、
感情表出の不得手が努力論や性格論で済ませられないタイプの人も居るのだ、ということを多数の人が知らないのが、一番の問題だと思います。

「どれほど流暢に喋る人の中にも、求められた感想だけ喋れないタイプの人は存在する」
「どれほど、分析や説明が上手な人の中にも、感情の説明は出来ない人が居る」ということを、定型はまだまだ「信じられない」「受け入れられない」ので、小学校教育から「そういうタイプの人も居る」ということを・・・概念として教えとくべきと思うのです。

それほど・・・定型感覚からすると否定したくなる現象なので、そこんところは定型への教育だと思うんです。

性格上の個性を認める範疇ではなく、器質の個性を認める範疇として。

ASも定型も、大人になってから「そんなこと、今まで知らなかった、どうすれば良いのか」と困るのはむごいと思うのです。

愛した相手の愛情を推し量る時「もしかして、言えないタイプ?」とメドが立てば、悲観や誤解は抑えられると思いますし、「もっと理解したい」と工夫が生まれるような気がします。

私の場合ですが、感情の説明に対して説明するのを躊躇ってしまうのは、

「あなたのその感じ方はおかしい」
「そういうあなたはどうなのよ」

になる展開を恐れて、のような気がします。


やっぱり、「お前はおかしい」と言われる機会、「自分の感じ方は普通の人とちょっと違うのかなぁ」と思う機会は、普通の人より多かったと思うんです。


「おかしい」という指摘を受けて、それを直そうという気がある場合は、自分の我欲をとりあえず横に置いておいて←(ここ重要)、分かりやすい客観性に頼るしかありません。
「客観性さえ身につければ文句を言われないだろう」と信じて。


分かりやすい客観性とは「法律」「校則」「取り決め」・・・等の類です。

でも、たとえ自分が客観性ルールを遵守して正しいことをやってても、時に社会はルールより風潮重視になってしまう時があります。

掲示板で「定型は風見鶏気質だ」」というヒール発言をしちゃいましたが(笑)、「赤信号を渡るのは本来悪いことなのに皆渡ってるから渡ってしまう」的なことが定型社会では往々にしてあります。

そこに抵抗感を示したら、「そんな堅いこと言わずに」「空気読めよ」「そんな正論言われても」になったりしてしまう。

「正しいことをやっても結局、受けいれられない」結果、「自分の感想なんて何もしゃべらない方がマシ」、になってしまっているのかな、と。

小学生くらいからいろんな価値観に触れさすのは賛成です。

定型だって、今は生きにくい世の中なはず。
定型スキルが定型社会で万能なら、もっと世の中平和でうまくいってますよ。

でも実際は小学校や中学校で常軌を逸したイジメやスクール・カーストが行われている。

スクール・カーストについては最近、ちょっと相談に乗っている中学生の子から聞いたのですが、クラス内では、それぞれ与えられた「キャラ」を忠実に演じ、ボス的な子以外「キャラ立ちしてはいけない(目立ってはいけない)」そうです。
キャラからちょっとでも外れた行動や言動をとった、と認定されると「あんたそんなキャラじゃないでしょ」と言われ、疎まれる原因になるといった性質のもののようで。

はっきりしたイジメではなくてもイジメの温床になりやすいし、陰湿な感じがします。


キャラって・・・漫画やゲームの登場人物じゃあるまいに。

この話を聞いた時は、「なんで三次元を生きる人間が、そんな薄っぺらのぺ~らぺらの二次元の世界をわざわざ演じなきゃなんないの~くだらな~い!」というAS的ツッコミをしたくてしょうがなくなりましたが、定型も(いや、定型だからこそ?)固定観念から自由になれない性を持っているんだなと改めて思いました。

固定観念から自由になるには、結局一人ひとりの人間の尊厳を重視した教育をするのが回りに見えて実は一番王道だと思います。

トマトさんでも、「説明能力が低い」という理解なのですか・・・
僕の場合ですが、説明するべき対象が「検出できないくらい小さい」ので「説明のしようがない」という感じなのです。
感情表現をする場数が少ないので、感情の説明が下手というのは、かなり当たっているとは思いますけどね。それと、他人の感情も評価しない(プロセスとして、他人の感情を受け取り、自分にコピーし、増幅し、検出する、のうちどれかorいくつかがハテナ状態)と考えています。

愛情を「かたくなに与える事はしない」ということではなくて、有りさえすれば差し上げることはやぶさかでないんですけどね。ただ、相手が欲しいものが自分の中にイメージの像を結ばなくて、「そんなの持ってたかなぁ?」と袋の中をガサゴソまさぐっているうちに袋が破けちゃうような感じ。
あと、今わかったのですが、「好き?」というのは質問ではなくて「好きと言いなさい」という要求命令なんですね。だから、迷ったり違うことを言ったりすると怒り出すんですね。納得しました。
トマトさんは「好きの確認が好き」と書かれましたが、「(命令の結果だとしても)好きと言われることが好き」なのでしょう。

「私に対して愛情はありますか?」という質問をされたとして、部分的にでも持ち合わせている部分があれば「あります」と言っていい場合もあると思っていますが、「あなたのイメージする愛情と同質同量のものは持ち合わせていません」と正直に答えてしまったら、「二人で作る将来」はナシの方向ですよね?
そこに必要なのは「異質でもやっていきましょう。面白そうじゃない」と言える、おおらかさなのではないかと。
(定型が「感情(愛情)表現は必須、無くてはおかしい、思ったとおりの答えが欲しい」という決め撃ちをしてきて、自己破綻した不幸なパターンがカサンドラ症候群に繋がるのではないでしょうか。)
感情の質問に対して、僕にはどう答えても矛盾を抱えてしまいます。誰にでも通用するアドバイスは難しいのですが、「度量の大きいほうが包み込んであげる」のがいいかなと思います。
「質問の趣旨」と「自分の心」の両方を誤魔化して答える僕、それ以上突っ込まない家内。どっちが度量が大きいのか分かりませんけど。

パンダさんの「愛は奪う」は、まったくピンと来ないのです。
自分の心は他人の影響で変わるものではないし、他人の心も自分がどうこうできるモノではない。自分の気持ちが変わるのは自分が主体なのであって他人に責任はないし、他人対して気持ちを変えることを強要しない。だから、相手が気持ちを伝えてきた時には、「好き」でも「別れたい」でも「ああ、そう。君がそう思うなら。」となります。
トマトさんがご友人の「好きだ」を連発というエピソードを紹介されていますが、彼は自分の心情を率直に伝えたということであって、たぶん相手をふり向かせ、気持ちをなびかせ、自分を好きになって欲しいという意図はないでしょう。断られたことよりも、勝手に作った台本のとおりにならなかったこと自体がショックだったと思います。
「独占したい/されたい」という関係では、ASと定型を結ぶのは難しい気がします。

まあASでも、他人の気持ちをコントロールするテクニックに興味が出たり、必要性を感じたりがあれば、自分なりの修練をしながら世の中を渡っていくのでしょうけど。

「同化」だけでは表現できないということは了解しました。
気になったのは、「独占欲」について、他人の存在を独占できるものとして目しているということです。僕の頭でっかちな考え方ではあるのですが、僕は「自分の体さえも自由にするのは難しい、ましてや他人の体。その先の他人の心なんて、思い通りになるはずがない」という発想です。
自分の体でさえも借り物、預かり物。互いの了解で、いっとき、存在を並べてみるだけのことです。そこにある心意気に、なんと名前を付けるか。それを「愛」と呼んでいいなら、ASだって、持ち合わせています。そういうので、どうですか?
二人の存在が了解しあって並ぶことと、スキンシップは遠からず。高級かとか無償かとかは問題ではなく、性愛に至る道すじはちゃんとあると思いますよ!

玄さん

 「自分の体でさえも借り物、預かり物。互いの了解で、いっとき、存在を並べてみるだけのことです。そこにある心意気に、なんと名前を付けるか。それを「愛」と呼んでいいなら、ASだって、持ち合わせています。そういうので、どうですか?」

 自分の身体でさえも借り物、預かり物。というのは、多分多くの定型、少なくとも私にとっては言ってみれば「悟り」の領域にならないと、到達できない感覚だと思います。自分の身体は自分の物、という感覚は定型では多分基本だと思うんですね。

 「自分の心は他人の影響で変わるものではないし、他人の心も自分がどうこうできるモノではない。」

 というところも、定型の大部分の人が持つ素朴な感覚・実感とはかなり違うだろうと思います。たとえば誰かが泣いていたとしたら、知っている人なら勿論、たとえ知らない人であっても自分の心が波立ち、落ち着いていられない気分になります。相手の人ににっこりされたら、なんでにっこりされたのかわからなくても、なんとなく気持ちがやわらかくなったりもします。誰かが怒られると、自分が怒られているのでないのに、なんだか自分まで気持ちがしゅんとしてしまうこともあります。

 そんな風に自分の気持ちはとても回りの状況、特に他人の感情的な表現に大きく影響されます。相手が激しく怒っているときに、おちついて対応できる、泣かれたときにもおろおろせずにちゃんと話を聞いてあげられる、といったことは、言ってみればかなり「修行」してようやく出来るようになることで、最初はとてもそうはなりません。

 ですから、このあたり、もし玄さんと違うとすれば、愛情ということについても見方が異なってくるのは当然のことなのかもしれないですね。とても大事なポイントかなと感じました。

玄さん、するりさん、返信ありがとうございます。

するりさんのコメント。
素直に述べた感想や気持ちを、否定されたり「おかしい、変だ」と言われることが多いと『自分の感想なんて何もしゃべらない方がマシ』になってしまうというご説明は、定型にもすんなり理解できるし共感するところだと思います。

定型とASの感覚の顕著な違いは「恋愛感情において」浮き彫りになると思いました。
定型にとって、恋愛は双方の感情や激情の交わり。
恋愛感情というくらいですから、特別な・特異な・突出した・高揚した・揺さぶられる・大きな感情のことをいう・・というのが大方の定型の概念だと思います。
ですから玄さんの『僕の場合ですが、説明するべき対象が「検出できないくらい小さい」ので「説明のしようがない」という感じなのです』
というご意見は、定型にはとても理解しずらい感覚だと思います。

「心奪われる」という言葉の通り、恋愛感情は、自分を見失うきっかけになります。つまり、ドキドキしたりソワソワしたり落ち込んだりワクワクしたり、自分の感情が相手のちょっとした表情や言動、さらには相手のことを考えるだけでコントロール不可になってしまう時期がある・・というのが定型の恋愛感情の共通概念とすると

玄さんの『自分の心は他人の影響で変わるものではないし』は
定型には『自分の心は相手の影響で多いに揺れたり変化もするし』なので

影響を受けやすいか、受けにくいか、のベースの違いが、恋愛感情では一番鮮やかに出てしまうのですね。

ASの人は、他者のコメントに自分と同じような経験があると共感するようですが
定型は、同じような経験がなくても悲しみが伝染してもらい泣きしたり、好きな人や家族が悩んでいる表情を見て自分の胸が本当に痛んだりするので、同情や愛情が及ぼす影響の振り幅がASよりも、大きく激しいのでしょう。

それだけ、定型は他者からの影響を感情の揺れで自覚するので、感情表現ありきのコミュニケーションが多いのだと思います。

玄さんの言われる『「好き?」というのは質問ではなくて「好きと言いなさい」という要求命令なんですね。だから、迷ったり違うことを言ったりすると怒り出すんですね。「好きと言われることが好き」なのでしょう。』というのは正解です。


トマトさん


ふと思ったのですが、最近の「草食系男子」なんかも「激情の交わり」とかより、もっと穏やかで刺激の少ない恋愛を求めているような気がするのですが。
あれは定型女子にとっては「意味不明」なんですかね?

草食系男子・女子がASとかいう単純な話ではありませんが、「無償(言いだしっぺは私ですが・・・)」や「高級」な恋愛観、とか「解脱して仙人のようになってしまったような人種」、と決めつけてしまうより、既存の「草食系」に近いな、と思った方が共通点を見出して「心の平安」を保ちたいタイプの定型の方にはストレスが少ないかも知れませんね。


それと、「他人の影響で自分の心は変わるものじゃないし」は、私の場合、本気でそう思っているの50パーセント、「他者に影響され過ぎないように」とあえて思っているの50パーセント、です。

「他者に影響されすぎないように」については

はっきり言って、他者の感情にまともに付き合っていたら生活がなり立たないから、そう思うようにしている感じです。

「もらい泣き」なんか、言語道断です。これは危険すぎる行為です、私にとっては。

小さいころから「これをやってしまったが最後、自分を保てなくなるだろうな」と理性でストップしていました。
一度溢れでた感情にそれから先かなり長い時間引きずられるから、です。


「恋い焦がれすぎてしまって仕事に手がつかない」とか、よく言いますが、私なら「恋い焦がれ過ぎてしまった」結果、小さいころから習慣化してるはずのこと・・・例えば歯磨きとか食事を採る、とかすら忘れてしまいそうになるので、「深みにはまるな~!」と、これも意識的に自制してる部分があります。


定型はなんだかんだ言っても「ほどほど」が使えるし、「恋い焦がれて」も、そこにエネルギーが100%行かないかんじかします。

「もらい泣き」も「恋焦がれ」も、定型の人はよくやっていますが、その割に「それはその時の雰囲気」として捉えているだけなのか、「あの時もらい泣きしてたよね」とか言っても、わりとあっさり「そういうこともあったけ?」という感じになっていたりします。さっきまで泣いてたかと思ったら次の瞬間にはもうケロッとしててびっくりです。

基本、何かを思い出す時その時の辛い・楽しい記憶がセットになって迫ってくるこちらとしては一体どうなっているのだろうと不思議ですが・・・。

いずれにせよ、こっちが同じことをするとそれの連続で生活も恋愛も破たんしてしまう。

なので、「感情的にならないように」「穏やかで平穏に」をひたすら願っていると言えるかもしれません。

するりさんへ

なっ・・なぁるほど。
基本、定型とASでは、自分の感情が及ぼす自分自身への影響の質が違うってことですね。
感情受容や感情処理の器がASは、定型に比べると小さくて、定型サイズや定型量の感情はとても入らず処理出来ない・・・その消化不良がASの人によっては心身の毒となってしまうような。

「恋愛は感情の交わり」だという概念は定型もASも同じでも、その感情の量や質が違い過ぎる・・・という捉え方で良いでしょうか。

草食系男子に触れられていますが、草食男子タイプは確かに、穏やか、感情が淡白そうですが、話しかけやすいイメージがあります。AS男子は静かで、一見穏やかそうでも、自我が強くて、ガンとして自分を崩さない、他者を撥ね付ける硬質な印象があります。
持っている空気感が全然違うような気がします。
恋愛においては、草食系男子に対して女子は「もの足りない」と「でも好き」の間で揺れるイメージ。AS男子に対して女子は「通じない混乱」と「でも好き」の間で悩み込むというイメージです。

多分・・・自閉圏の人が持っている「穏やか」と自閉圏外の人が持っている「穏やか」の質が違うのではないでしょうか。

いずれにせゆよ「感情の大幅な波」は、ASにとってピンチであってもチャンスにはならないし、苦しみになっても歓喜にはならないし、日常生活や業務が停止しちゃうし、ろくな事ではないということが解りました。

そして、定型は感情に飲み込まれても、そこそこ日常生活や業務をこなせるバランス感覚があるということも改めて感じました。


またひとつASの方に質問ですが・・・
かずきさんのコメントでもあるように「誉められると恐い」とか「誉められると不快」というASの方がいらっしゃいます。恋愛関係でも「相手をほめたり、はげましたり」ということは多いと思いますが、誉められると恐い、不快・・という感覚を、ご説明願えないでしょうか?
定型の多くは、ここんところがものすごく謎だと思います。


するりさんに概ね同意。
感情に押し流されることを避ける、というパターンは確かに僕もやっています。
トマトさんが言われるようにネガティブなことばかりでなく、寝食を忘れた行動力になることもあります。
でも予期できないしコントロールもできないので、平穏が一番と感じています。

バランス感覚ですか。
定型がバランス感覚があるのではなくて、バランス感覚を自覚する人が自称定型なのかもしれませんね。
それと、バランスといっても何の基準もないように思います。「熱しやすく冷めやすい」と見受けます。

「褒められると・・・」について、僕は褒められたら、単純に好意的に捉え、好意的に返すことに専念することに決めています。これは「怖い」とか「不快」とかの感情を排除したいのかもしれません。
考え始めたら、相手の下心をどこまで想像したらいいのか計り知れなくて、時間と精神力のムダです。皮肉とすぐに分かっても、感謝の言葉で返します。

玄さんへ

教えていただいて、ありがとうございます。
多分、定型の多くは「感情に押し流されることを避ける」というノウハウがASとは違うので、感情に押し流されることを避けるゆえの葛藤が見え隠れする、という努力のヒントが伝わって来ますが、ASの人の表情からそのヒントが掴めなくて「避けているのではなく、もともと無いのでは?」と定型が誤解してしまうのだと思います。

他者に誉められる事に対して「下心」とか「口先だけ」とか「知らないくせに安易にほめるな」とか、不信感や反発が先んずるASの人を知っています。

自分の納得したことのみを受け入れる・・・という傾向のASの特徴ゆえと解釈して良いのでしょうか。
不快や不信感や反感と、恐怖心とは全く違うものですよね。
「ほめられると恐い」は、どのような心理なのでしょう?

違和感や不快感を「恐い」という言葉で表現している可能性もあるのでしょうか?

玄さん&トマトさん

ある点から見たら「感情を受け止める器が小さい」というネガティブイメージを持たれるかも知れませんが、別の見方をしたら「真面目すぎて(と自ら言ってしまってはなんですが)まともにダメージを受ける」になると思います。


感情に任せて生きているのの悪い例は、定型の噂好きのおばちゃんでしょうか。

いつもは散々「あそこの一家はどうのこうの」と気にいらない人のことを陰口たたいていても、その一家が成功したり、自分のピンチを助けてくれたりした時の態度が私からすればあり得ないです。

本当は「自分の視野が狭かったばかりに今までいい部分が見えなかったけど実際接して見ると立派な人だった、申し訳なかった」という態度をとるべきだと思うのですが、何故か完全にスルー。

しれっとした顔で全く別の態度を取ります。

「貴方、あまりあの人のことよく思ってなかったじゃない」とこちらがチクリと言っても、「そんなこと言ったっけ」です。
あれだけボロクソに言ってたのに、言った当人は何故か都合の良いように記憶まで変えます。

もしくは「その時は皆そう言ってたし、私だけがそうだったわけじゃない」
「あの時はそういう雰囲気だったわよね」で、おしまい。

え!?それでいいの?倫理観どうなってんの?

こういう時、「自分の感情至上主義、こわ~!!!」とダメージを受けますね。


玄さんの

「寝食忘れた行動力」を私もそこまで悲観的には考えていません。人間関係には使いたくないですけど、この過集中モードは上手く使えば仕事時大変重宝する能力ですしね。


バランス感覚については、

玄さんの「定型がバランス感覚があるのではなくて、バランス感覚を自覚する人が自称定型なのかもしれませんね。」は鋭い!と思いました(笑)

結局、定型仕様の中での優劣だと私も思いますよ。その時代その時代でも変わるでしょうしね。

本当にバランス感覚があれば、もっと自分の体幹がしっかりしているはずで。

定型としての感覚を基盤としつつも、ある程度AS側の本質も見抜いて定型とASの中でバランスとってやっていくでしょうけど、なかなかそれが難しいから皆さん苦労なさるわけで。

あまりご自分で「私の方が定型だからパートナー(友人)に比べてバランス感覚ある」という思い込みをなさらない方がいいような。
それが結局、「普通は!」「察してよ!」に繫がり、首締める結果になりますし。


褒められると怖いっていう感覚、分かります。


学生時代の部活でのことなんですが、部活の顧問は絵に描いたような嫌味+へそ曲がり+高圧的な態度で、部員全員から嫌われていました。
今で言うパワハラ、モラハラ満載の人物でした。

でもある時、急に部員に対して優しくなったんです。
そしてそれが数カ月続いたのですが、結論から言うと、そんなに結果は出なかったんですね(苦笑)
大会後、反省会とやらを開き、「俺も褒めて育てた方がいいと思って我慢して言いたいことも言わずに努力したのに」とか、自分の言いたいことを言うだけ言って、元の八つ当たり顧問に逆戻り。

この一件、今から考えると「嫌味な人がそんなに簡単に変わるわけないよなぁ」とか、色々思いますが、当時の私は「信じられん!!!」と大混乱でした。

顧問が褒めてたのは「私たちも私たちなりに改善したり一生懸命練習し、褒めてもらうだけのこともしたから自然に褒めてるのだ」と思ってましたから。

実際、顧問の態度がよくなった時はいろいろ手を尽くしていた時だったので。

ただ、そこの認識は他の定型女子達は違ったようです。

私からしたら「心を入れ替えたらしい」と思ってたあの態度を、「なにあのおっさん(顧問)は妙な芝居をしだしたのだろう」と信頼していなかったらしく、元の八つ当たり顧問に戻った時にそこまでショックを受けていなかったようで。

しかも、残念なことにその後立て続けに似たようなエピソードが続いたこともあり、私はすっかりビビったというか、「正当な理由のある褒められ方をした」のか、「本当は心にも思っていないのに褒めて伸ばす方がいいというテクニックを聞きかじって小手先でやっている」か、かなり混乱し、「どこまで本心なんだろう?」「腹の中、何考えているか分からない。また裏切られたらどうしよう」と怖くなりました。

やはり、褒めるのだったらさわやかな一点の曇りもない気持ちで褒めて欲しい。

下心や恩着せがましい気持ちでの「褒める」行為は極力なくして欲しいなぁと思います。
だって、誰も得しないでしょ?

するりさん、教えて下さってありがとうございます。

するりさんの場合、恐くなる原因のエピソードがあった、ということですね。

定型の場合、手のひら返しのおしゃべりおばちゃんを見たら「こういう人だ」という割り切りで気にならないとか、信頼していた人の褒め言葉が嘘だったというショックで人間不信になったとか・・・自分と誉めた人との関係性や、その褒め言葉の役割などで、ケースバイケース。
褒め言葉の印象も違うし、「これ本音で誉めてるな」「これはお世辞だな」という振り分けで自分なりに判断や納得していると思います。

「誉められる」「褒め言葉」に関しては、ASの人より定型は、ズボラというかデリケートでないことは確かですね。

私自身、お世辞で空気調節することもあるし、感激して本音で誉めることもあるし、今は誉めた方が良いなと判断して誉める場面もあるし・・・
それを相手がどう受け取るかは相手次第と思ってましたが・・。

想い出すと、AS友人に「ありがとう、さすがだね」と素直に伝えた時「それは皮肉ですか」と言われて、本当にびっくりして悲しかったことがありましたね。
まぁ、AS友人には、そんな反応をした理由があったのでしょうが、握手するつもりで手を差し出したら平手打ちされたような、そんな感じのショックでした。

ASと定型の会話には、褒め言葉注意報が発令されることもある、そして誉め言葉が良い結果にならないときは、必ず原因があるので冷静に対応すること・・・ここポイントですね。

感情に関して、
私の場合、するりさんと同じで「感情に振り回されないように」に近いです。
加減が出来ないので、「好意」であればどこまでも「好意」になってしまいますし
それは、相手の行動の解釈や、自分の言動の解釈にまで及ぶので
たとえばそれが法的に良くない行動でも、「好意」になってしまう。

客観的に考えれば、違法行為は違法行為なわけですから
自分の中に冷静な部分を持って、立ち止まれるか否か。

そういった判断基準までも、感情の暴走に持っていかれるのならば、
日常生活を守る為に、感情は壁の向こう側のもの、という意識を強くもって生活しています。
必死で自分を保っている状態、ですかね。

だから「感情」をぶつけられても、「貴方はそう思うのね」で終わり。
自分にひきつけて考えない。後々までこちらが引きずられる割には本人はケロッとしてる。
棘のある言い方をすれば、
自分勝手に吐き出して自分はすっきりしてそれっきり。
そういう意味で、定型の方が感情に対する執着が薄いように感じます。

そして事あるごとに
「普通はそう思わない」「そう感じるほうがおかしい」
と言われてきたASは、何かしら思っても「感じてはいけない」に近い状態まで自動処理で殺してしまう。
それがどれだけ「激情」と言われる強い感情であっても、見える値は低い。
そういう可能性だってあります。
だから感情の起伏が見えない、とか、頑なな雰囲気、とかに受け取られる可能性があるのではないでしょうか。
それは多分、ウツで感情が平坦になってしまった、とか
そういった状態に近いのでは?と思います。

トマトさんの「誉められると怖い」についてですが

私は「皮肉」かどうか瞬時に分からないので「怖い」です。
2,3日後になって「あれって皮肉だったのかな」と思うこともありますが
その場で「皮肉」として処理できず「誉め」として対処して
結果「空気が読めない」「皮肉が通じない」「比喩が通じない」人間です。

・誉める時に他(過去)を批判する
・批判する時に誉める
・回りくどい比喩表現で誉める

こういう事をされ続けると、「今のは誉めているのかどうか」と常に疑わなくてはいけなくなります。
そう構えていると、たとえ直球で誉められたとしても「これは皮肉じゃないか」と疑わなくては、相手の言いたいことを正確に読むことが出来ません。
そして正確に読めなければ「駄目人間」ですから。

上記の感情論にもつながりますが、
「感じたことは間違っている」と常に言われ続けてきた私にとっては
「私が感じたことは正しくない」という立場に立っている方がよっぽど精神が安定します。
そこから状況や表情や様々な情報を分析した結果
「誉められている」「皮肉を言われている」「批判されている」と判断します。
そこで自分が感じたことは参考になりません。
「誉められている」時でも、「不快」だったり「批判されている」ように感じるのですから。

こんな葛藤と判断を瞬時にしなくてはならない、リスクの高い事が「誉め」られることなら、
「誉め」られたくないです。

掲示板で出した子供が「誉められると怖い」と言ったのは(実際は「ほめられていやなきもちになった」らしいのですが
音楽教室で、珍しく自分から課題に取り組み、自他共に「できた」と思えた時で
「回りくどい比喩表現」で、「過去を批判」することによって「誉め」られた時です。

「いつもの●君はどっかいっちゃったのねー、よくできたじゃない、ここに居るのはちがう●君なのね!どっかで入れ替わってきたのね!」

といった感じ。
普段が出来ていないのはその通りなので、皮肉を言いたいのかと私も本気で「感じ」ました。
字面だけ取れば「過去と現在の存在の否定」ですから。
でも、発達障害に理解ある教室で、可能性を伝えてある子供、
しかも未就学児に向かって、大の大人がこんな皮肉は言わないだろうという状況判断で
「分かりにくいけど誉めているのだろう」と推測できただけです。

個人的にも、面と向かってこんな事を言われたら
(しかも「よくできた!」と自分が思っている時)
「皮肉か?それとも批判か?」としか思えません。
いたたまれなくなるだけです。

そして、その時の状況(本人の感情を含めて)を「誉められてる」と小さい頃から教わってくれば
疑心暗鬼の塊になっても、致し方ないことだと思うのです。
トマトさんのご友人は、
黙り込まず、「それは皮肉ですか?」と聞けるだけ、大人だと思うのです。
それだけ「辛い誉め言葉」を聞いてきた、不快な思いをしてきているのに「誉められたのに感謝も謙遜もしない」と批判されてきた、
と思うのが一番受け入れやすいのではないでしょうか。

かずきさんのコメントで「誉める」という行為が
定型とASの間で、かけ橋でも命綱でも好意の虹でもないことが解りました。

もちろん、ASの人のタイプによっても誉められることへの捉え方は個々であるでしょうし
誉められたことを受け入れられるタイミングや、嬉しいと感じる場面があろうとも思います。

が・・・・・・・・・・・・
基本的に「誉める」ひとつをとっても、概念が全く違い過ぎて、なかなか・・こう、理解とか納得が追いつかない距離がありますね。
お互い。

ただ・・、こんな思いだったのかという悲しさとつらさでいたたまれない思いです。

今は亡きASの友人が生前にこんなことを言いました。
「もし、ぼくが定型になったら、信用とか信頼ってどんな感じなのか味わってみたいなぁ」

その言葉の意味が・・・玄産やするりさんや、そしてかずきさんのコメントで体感としてじりじり掴みかけられるような感じ。
これほどまでの、定型との違いがあったのかということに、立ちすくみます。

トマトさん

「誉める」と「認める」「感謝」が、私の中で別物なので書いていなかったのですが、
「誉め」られて純粋に嬉しい事は少ないですが、「認め」られたり「感謝」されたりする事は純粋に嬉しいです。
定型は「誉められる」=「認められる」という処理がなされているのではないでしょうか?

「ありがとう、助かった」とか「~はかずきにしてもらうと助かる(役に立つ)」など
行為を認める発言は、「自分がしたことによって相手の役に立った」、と分かるので
純粋にうれしく感じますし、そこに「やっぱりこれを頼むならかずきだね」など誉め言葉が入ると「誉められた」と純粋に感じることは出来ます。
誉められる理由に自分なりに「誉められるべき理由」が有る場合でしょうか。
でも、単体で「これを頼むならかずきだね」と言われても「なんで?」となります。
誉めているとは直感的に判断できません。

「~できるの、すごい!」と言われたら、
その内容が自分が自信を持っていいと感じている事ならば、嬉しく感じますが、それは「誉められた」というより「認められた」感覚でしょうか。
「~できる(事が)、(相手よりも自分のほうが上手に出来たので)すごい!」
というか解釈でしょうか。
少なくとも、その時、その行為を相手が認めてくれた、評価してくれた。
そんな感じです。

ここで、これまでで相手の方が上手な事が分かっていたり、自分で失敗したとおもっていたりすると、
「これは皮肉か?批判か?」と、「言葉の裏を読まなくてはモード」に切り替わるわけで。
ここはひねくれているとよく言われますが。。。

そこで何がどうすごいとおもうのか、掘り下げて聞ける相手であれば、心から誉められているのだと感じる事はできるかもしれませんが、
「そんなこと」に付き合ってくれる人は、そうそう居ません。

「すごいねー」
「そうー?」
「すごいってー」
「そんなことないよー」

この会話は、一見、さしあたり無い会話に見えるかもしれませんが
私からすると、こうなります。

「すごいねー」
「そうー?(どこがどうすごいの?自分ではすごいと思わないけど?)」→確認したい
「すごいってー」
「そんなことないよー
 (だから、具体的になにがすごいと言っているの?説明できないって事は皮肉なの?嘘なの?話し聞いてないの?)」→ここら辺から不快になってくる


正直、毎回毎回こんな確認は出来ませんから、
私は「謙遜」で通してます。
やりすぎると「謙遜」も嫌味になるようですが、加減が分からないので最近は意識して「感謝」を入れるようにしています。
あとは語尾を濁す話し方を心がけています。
「いやいや・・・私なんてごにょごにょ」と。
個人的にはこう言われると腹が立ちますが、
事実確認をしてドン引きされるよりマシと開き直っています。

あとは、
「こういう類の事を言われたら大抵相手は誉めているつもりなのだ」
という認識を常に持っている事です。

そして、「誉める」=「認める」に近いのだ、と解釈するようにして、
「誉められた時の恐怖や不快感」を抑えられるように自分を納得させて生きてきました。


何が言いたいのかというと、
>定型とASの間で、かけ橋でも命綱でも好意の虹でもない
のではなくて、乱暴かもしれませんが、

ASを誉めたいなら具体的に認め評価して
定型を誉めたいなら俗に言う「誉め言葉」を渡せばいい

と、出力調整をすればいいのでは?と思ったのです。

お互いを認め合う事で、「信用や信頼」というものは生まれていくようですし。


本題の「愛」とかならば

「居てくれてありがとう、貴方が私のそばに居てくれるから、私は私で居られる」

位の勢いで相手を「認め」て「評価」しそれによって自分に利益がある、と説明?すれば、それはおっしゃる「愛」に近い物を伝えられるのかな、と。
逆にそういう出力がなされたら「愛している」と受信していいのでは?と。
玄さんのおっしゃっていた「存在する事自体が愛」という部分ですかね・・・?
もっとも、「愛している」とか、「好き」と言って欲しいのは

「自分という存在は相手に必要とされているのかどうか」
もっと言うと
「わたしはあなたのそばに居ていいの?」

を確認したいからだ、と思っているからなのですが。。。

かずきさんの

「いつもの●君はどっかいっちゃったのねー、よくできたじゃない、ここに居るのはちがう●君なのね!どっかで入れ替わってきたのね!」は、身に覚えあり!
しかもまるまる同じシチュエーション(ピアノのレッスン時というところまで同じ・・・)

これ、なんで「今日は素晴らしかったわよ!これからもこの調子で練習してきてね!」にならんのだ・・・と思いますね。

こういう発言、私はしたことないです。自分なら上記のようになりますから。ご本人に「こういう言い回しをする、そのココロは?」と聞いてみたいですね。ま、大した意味はなく、反射的にこういう言い回しをしているのだろうなとは思いますが・・・・。


ASと定型の、コミュニケーションのベースの違いとして
ASは言葉の意味のやりとりが会話
定型は、言葉のニュアンスや言葉に込められた感情のやりとりが会話
という点が大きいと思います。

ASが少数派ゆえ、日頃、ずいぶん無理をして定型スタイルに合わせてくれて、それゆえ納得がいかぬストレスから解放されずの生活は、しんどいだろうと思います。

少数派にとって、多数派の「ふつー」「とーぜん」「あたりまえ」は、不当な暴力と感じられるときがあり、さらには浅はかに見えて見下げたくなる時がある。
これは、私が、ある体質条件で少数派に身を置いたとき、感じた感覚です。

ただ・・そのことを言っても、許容や同調してくれる人が居ない場所では、黙ってるしかない。
そのうち、その多数派に適当に合わせてふるまえるようになる。でも、それは演技なので、その場を穏便に切り抜けて1人になると「はぁ〜」と、シラケたため息が出ます。

少数派になったときの私は、考え方が「防御と攻撃」になっちゃってます。
自分の身を守る事を意識すると、周囲は知らず知らず敵になっちゃってるんですよね。

でもそんなとき「あぁ、そうなんですか」「そういう人も居ますね」とサラリと言ってくれる人がいたら、デンジャラスな気分が消えてとてもリラックスできます。
さらに「実は私もあなたと同じ体質」とか言う人が出て来ると、安心と自信が湧いて来て、その時点で多数派の中でなんだか堂々とふるまっている自分が居ます。

少数派といえども「同じ」というワードで元気回復するあたり、やはり定型のサガなのでしょうね。


トマトさんの
「多数派の「ふつー」「とーぜん」「あたりまえ」は、不当な暴力と感じられる」
の部分に、

昔荒れていた頃に

「『当たり前』が『当たり前』に出来る有りがたさを知ってから物を言え!」

と喚いていた事を思い出しました。
若気の至りでもあり、教師などにどうにもならない怒りをぶつけていたので
今思うとかなり痛々しいのですが、怒りではないにせよ今も根本には同じような思いがあるなー、と感じました。
ただそれだけなんですが・・・

初めて書き込ませていただきます。
どなたかにお話を聞いていただきたくて。

私は恐らく定型で、お別れした彼が恐らく受動型ASでした。

定型ですが、人生で「私のこと好き?」と聞いたことありません。言わせてる感じがして、私はあまり価値を感じないのです。愛情ある行動があれば、いいと思っています。この話を彼にしたら、感動されました。
私は彼の行動から愛情を感じましたが、感情を感じることができず、途中から苦しくなってきました。どんなに関わっても、感情のやりとりがなく、一緒にいるのに一人、そんな感覚。周りからは、彼を否定され、ぼろぼろになりながらも、心のどこかで彼の真ん中の部分の優しさを信じたかったのです。たどり着いたのは、彼がASということでした。

定型的愛情(共感)を探して、見つからず、傷つきました。そして、彼の気持ちを疑ったこともあり、傷つけました。

そして、別れる時になってようやく、彼が私が好きであったこと、二人で話したようにずっと一緒にいたいと思っていたこと、幸せにしたいと思ってくれていたことが本当だったと頭で理解しました。共感共有を求めていたのですが、ずっと同じ気持ちでいたことがわかりました。
うまく言えませんが、同じ気持ちなのに、お互いが思い描く形になることはない。この矛盾が苦しくて、悲しくて、残念でなりません。

最後は彼に会うことも、声を聞くことさえも許されず、声に出すことができない私の気持ちをここで書かせていただきました。
ASの方って、五感とか言葉ではなく、第六感みたいなものが優れているなと感じます。この私の気持ちが届けばいいのですが…。会話では噛み合わず、今は第六感に届くよう、願いををこめています。

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