2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 「好き」か「金づる」か | トップページ | 「一途」と「ほっこり」と »

2013年5月21日 (火)

感情的コミュニケーション

 

アスペ的「愛」と定型的「愛」? に寄せられたみなさんのコメントを拝見していて、トマトさんではないですが、改めてこの問題ほんとに大事なんだなと感じています。

 ちょっと見ると、玄さんとするりさんのこの問題についての考え方、感じ方は違っているようにも見えるのですが、でも私はむしろ共通するところがそのベースにあるかもしれないと思いました。

 違って見えるのは、玄さんは「(感情という?)対象が『検出できないくらい小さい』」と書かれているのに対して、するりさんはむしろ感情に大きく左右されるからこそ「『感情的にならないように』『穏やかで平穏に』をひたすら願っていると言えるかもしれません」と書かれてるところによく見て取れます。

 そのまま理解すれば、玄さんはそもそも「感情」の動きがとても小さい。で、理性的。するりさんは逆に「感情」の動きがとても大きい。だから、理性的になる。そんな話ですよね。でももしかすると玄さんは子どもの頃の経験でそういう感情の力を知って、早い内から理性的に対応する生き方を身につけられてきたという可能性もあるなあと思ったのです。それが深く身についているから、今では「検出できないくらい小さい」という状態になっているのかもしれない。

 もちろん私の勝手な想像で、的外れなのかも知れませんけれども。 

 私の理解が的外れであるにせよ、そうでないにせよ、少なくともアスペの方の一部は、するりさんのように感情に振り回されて苦しむ可能性を感じて、感情的な他者との関わりをできるだけ避けようとされていて、それがもう習い性になっている結果、今度は感情的コミュニケーションをしようとする定型と噛み合わなくなってしまう、ということが起こっているのだと思います。

 そういえば私のパートナーも、「もうこの人との関係は一切続けられない」と思ったときには、激しく怒りの感情も出すことはある、と言っていました。逆に言えば、仕事モードの時は普段そうならないように、理性的にコントロールしているんでしょうね。でもその結果として、すごくストレスを抱えてしまうこともあるように感じています。

 定型はこの「感情」の問題については、「相手とのコミュニケーションで支えてもらったり、解決してもらったりする」ということをよくやるんだと思います。そしてそこには愛情の問題も入っていて、愛のある関係というのは、そういう感情的な問題について、お互いに表現しあって支え合える関係、というイメージがあります。それで傷ついたときにはなぐさめてあげる(もらう)、さびしいときにはよりそってあげる(もらう)、怒りに自分がコントロール出来ないような状態の時は一緒に怒ったり(怒ってもらったり)、あるいはなだめて(なだめられて)落ち着けるようにする。そんな「感情的コミュニケーション」にすごく頼っていて、愛する人には特にそれを強く求めるし、求められることを願う。

 多分一般的な定型的な感じ方で言うと、そういうことをよくする夫婦は「お互いに思い遣りを持ったいい夫婦」に見えるし、そうしない夫婦は「お互いの気持ちが離れてしまった、寂しい夫婦」という見え方になると思います。

 それで、愛情の問題は多分定型の場合、性愛の問題と切り離しがたくなるのでしょう。私はセックスというのはとても大事なコミュニケーションのひとつだと思っているのですが、それはかなりむき出しな感情(欲望?)を相手に表すことだし、また受け止めることだし、そこでお互いに「相手が喜んでくれることが嬉しい」とか、「一体化する」という(玄さんの言葉を借りれば)「同一性」みたいなことも絡んできます。

 そうすると、もしアスペの方(の一部?)が感情的なコミュニケーションを避ける傾向があるとすれば、そういう性愛の問題についてもアスペと定型でズレが起こってしまうことになりますよね。

 定型は他人との「感情的コミュニケーション」で自分の感情の問題に対処しようとするし、アスペの方(の一部?)は「感情的コミュニケーション」を避けて、できるだけ穏やかな状態を保ち、また理性的に対処しようとする、という傾向があるのかもしれません。

 そんなふうに考えると、パートナーのこともまた少し理解が進むような気がしました。

« 「好き」か「金づる」か | トップページ | 「一途」と「ほっこり」と »

コメント

ある、当事者の方のブログに、こういう文言がありました。

『定型発達者は自他の同質性の確認をせずにはいられないものである。
定型発達者の人付き合いを見ていて思うのは、何につけ自他の同質性確認が核になっているということだ』

自分と相手が偶然、同じ郷里である・同じ中学校出身者であった・同じ趣味であった・共通の知人が居た・同じ悩みがあった・・・など、ささいな「同じ」が定型にもたらす、親近感や安堵や信頼感といったプラス感覚。
何へのプラスかというと、全て感情コミュニケーションへの作用だと思います。

仕事でも、結婚でも、意見の一致のほかに、感性や感覚や感情の一致をさぐりながら求めながら会話し、関わって行くのが定型の本質、核、本能なので、
それを定型は、自身が関わるASの人のタイプによって、どのように思考変換しながら接遇するかですよね。

定型の恋愛感情は、求める気持ちがものすごく強くなる場合が多いので、その本能を抑えるというのは最高難度の修行であると感じます。
定型の関わりは、感情のギブ&テイクがスムーズでないと悪化するので、その流儀をくつがえすくらいの心意気で接しないと、すぐ不平不満がたまってしまうと思います。
(ASの方へ。定型の感情のギブ&テイクのやりとりは、その場限りの表向き流、本音流、目的達成向け流、など様々な流派があり、個々の判断で舞っております)

そういう理解と努力をして、ASの人の苦労みたいなものが解ると、そこにも定型本来の共感や同調といった自他の同質確認が作用して、やわらかな感情が生まれると思います。
そうして初めて、AS対定型の枠がはずれて「あなたと私」というスタンスに立てるような気がします。

ASの人の感覚や考え方を知るにつけ・・・定型同士のもめごとの整理のノウハウが幅広くなったと気がつきます。
感覚や考え方の視野を広げてくれるのは、ASの人の存在です。


話がずれてしまったら申し訳ないのですが、
定型にしても、必ずしも「同じ」が良いとは限りませんよね?

夫の話なのですが
私を交際相手に選び、結婚相手に選んだ理由の一つに
「自分の趣味を許容した」があるそうです。
夫は世間ではオタクといわれるプラモデルやゲームやマンガなどのサブカル趣味を持っていますが、過去の交際相手や親には否定され続けたそうです。

私は「貴方はそうなのね」を地でいくので、否定も肯定も何もしません
「そうなんだ、それが好きなんだ」というだけ。
夫はそれが心地よかったらしいのです。

私は、というと、それまで触れる機会が無かった世界もあったので、純粋な知的好奇心で首を突っ込んだりしていましたが、
それは「この人は何に面白さを感じるんだろう」とか「このプロセスに魅力を感じるのであれば、こっちには興味をしめすのか」とか、純粋な好奇心でしかなく、
「夫と趣味を共有したい」というような感情は一切ありませんでした。
強いて言うなら「夫の感覚、感性への興味」ですかね・・・

それを心地よいと感じる、
これは、相手が「違う」事を認める(否定しない)事からくる安心ですよね?
自分と同じ事を強要しない、というのか違うを許容する、というのか。

同調する事と、違いを許容するのと、定型にとってはどちらが重要なのでしょうか。
同調が欲しいのであれば、「プラモデルって楽しいよね!同じ趣味ね!」でしょうし
許容であれば「私は違うけど貴方はプラモデル好きなのね!」で良いわけですし。
でも「プラモデルが趣味なんてよろしくない」という否定は嫌だ。

だけど、同質になって欲しいという要求、
「そんな趣味をやめて私の趣味と同じ事をしなさい」はもっと嫌だ。(夫談)

同調、共感、同質を求めるのに、それを求められるのは嫌?
このあたりが私にはいまいち理解できていません。

かずきさん

 「同調、共感、同質を求めるのに、それを求められるのは嫌?
このあたりが私にはいまいち理解できていません。」

 これは私の理解なんですけれど、定型の人間はとにかく「群れる」ことが
 大事なんですね。「仲間作り」といってもいいけど。
 そうやって自分の味方をできるだけ沢山作った人が「偉い人」になったりする。
 男女でやりかたはちょっと形が違ったりもするし、文化が違ってもだいぶ違うけど、
 「群れを作る」というのは同じで、そうすると、
 その「群れ」の中で自分がどんな位置に立つのかが問題になります。
 多かれ少なかれリーダーと部下みたいな関係が作られることになります。

 ただ、人によってはリーダーにはなりたいんだけど、「群れ」作りは苦手、
 という定型の人も結構いるんです。特に男性の場合。
 そう言う場合、そういうタイプの人は「孤立」の道を進んだりします。
 つまり「私だけの趣味の世界」みたいなものを作って、
 その中で自分がただ一人の「王様」になる。

 でももともと「群れたい」という欲望は強いので、
 そういうひとはとても寂しいんです。
 だから、だれか共感してくれる人が欲しいんですね。
 もちろん「自分がリーダー」でなければならないですから、
 相手に共感するより、自分に共感して欲しいことが優先します。
 定型でも「群れづくり」が上手な人は、
 自分が共感されるだけでなく、相手にも共感をして
 自分の味方にしていったりするわけですけれども、
 孤立派はそういうの苦手なタイプの人ですから。

 そういうことで疑問に思っていらっしゃるようなことが起こるのだと
 私は思いました。


 と、書きましたけど、そういうことを頭で計算してやっている
 という人は多分ほとんどいなくて、
 もう本能のようにそういうふうに動くようにできているんだと思います。
 私も定型の中でははみ出し者だったので、
 「このひとたちはどういうふうに群れているんだろうか?」
 といろいろ考え続けた結果、そういう見方もするようになっただけです。

 ええと、こういう説明でうまく伝わりますでしょうか?
 

パンダさん

ありがとうございます。

つまり、孤立を好む定型の方の多くは
「自分がリーダーである確約の元、共感してくれる仲間は欲しい」
という事を自覚無く要求している、ということでしょうか。

この解釈でいくと、

トマトさんのコメントの郷里などの共通点から来る親近感や安堵も、

否定されなければいい、と言いながらも、
(意思に、意識に、昇らないほどの高速自動処理?で)共感して欲しいと思っていて、
要求したわけではないのに、その欲求を満たしてくれた相手を評価する。

そういった事から導き出される「特別感」なんでしょうか?

これって、「あ、同じ場所知ってるんだ、へー」という、「認識」ではなくて、
地球上が唯一と思われていた生命が、他の星にも存在した!位の特別な「同類発見」感なのですかね?

かずきさん

 知らない人と知り合いになるとき、出身地や趣味や知り合いなどなどの話題を出して
 「共通点」を探るのは、共感と言うより「ここのところは共有してますね」という
 コミュニケーションの手がかりになる足場を見つけるためだと思います。

 日本ではあいさつでもよく天気の話から始めますけれど、
 あれも「今日は天気ですね」とか「雨ですね」とか、誰も否定できない話で
 「ここは共通の足場になる」というところをまずは確かめているのだと思いますし、
 また、そこからお互いのそのときの気分をなんとなく感じあって、
 その後の話題を探っている、ということもあるんだと思います。

 その辺りは「同類発見!」みたいな大げさな感じはないだろうと思います。
 もうちょっと気楽なやりとりじゃないでしょうか。

かずきさん
定型は、ASからみると、ずいぶん説明のつかぬことをやらかしながら生活しているものだと思います。
無意識にやっていること、さらには幼い頃から肯定と許容の中で身に付いたことを、改めて問われると、うまく説明できない自分に気がつきます。

外国語は日本語に翻訳できる。
方言は、標準語で通訳できる。

「誉められると恐い」など、ASの人の言葉には、背景にASの人の感覚や経緯があり
「誉められると嬉しい」など、定型の言葉には、背景に定型の感覚や経緯があるので
言葉の意味をそのまま通訳して済むという範疇ではないですね。

言葉の裏のその人の歴史をひもといて、はじめて、その人の言う言葉の意味が理解出来る。
そういう作業が必要だと思います。
ASと定型の会話には。

かずきさん


なんだか話しがこんがらがっているので(誰が悪いわけでもないのですが、話の性質上そうなってしまったのでしょう)整理した方がいいかもと、思ってしゃしゃり出てきました。すいません。

オタク系趣味と日常は根本的に違います。そこをはっきりさせないとちょっとわかり辛いかも。


まず、普通の会話の中で「出身地は?」「趣味は?」と聞くのは、それこそ話の導入部分で「地球上で唯一の同類発見!」ではないと思います。
基本的には90%くらいはそういう雑談調の話だと思いますね。


それに対し、ちょっと特殊な環境やシリアスな内容で、自分だけが悩んでいるのではないかとか、孤独を感じていた場合、定型は群れていたいという欲求があるから、それが表に出て「同類発見!!」と感情を爆発させることはあるかも知れないと思います。


例えばそれこそオタク系趣味(ごめんなさい)を持っていたとして、普段はそれをひた隠しにしているのだけど、生まれて初めてイベントに参加してみた、とか言うような人はそこで初めて自分と同じ趣味を持ってのびのびと自分を表現している人達に出会うわけです。そういう時に「同類発見!!」という思いを噛みしめると思います。

他にもちょっと喩えが悪くて申し訳ないのですが、「難病当事者の会」等も「やっと仲間に出会えた」という意味では同じかも知れません。

なので、「日常会話的確認」と「同類発見!」はイコールではないと思います。

それを踏まえた上で、ですが

かずきさんの

「同調する事と、違いを許容するのと、定型にとってはどちらが重要なのでしょうか。同調が欲しいのであれば、「プラモデルって楽しいよね!同じ趣味ね!」でしょうし、許容であれば「私は違うけど貴方はプラモデル好きなのね!」で良いわけですし」


について、説明するのは私の頭ではすごく難しいので通じないかもと思いながら頑張って書いてみます。


基本的に定型は(私たちからみれば)過度の同調がなければ弱ってしまうみたいなので、この場合だとかずきさんは「プラモデル」という「特殊性」以外のところで旦那様に同調なり共感なりを示しておいて、「プラモデル」という特殊性に対しは、これが特にかずきさんの趣味の範囲外であるとしたら「何も言わない、触れない(それがたとえ肯定的な内容だとしても)」というスタンスが、旦那様にとってはありがたいのかもしれません。

だって、ずっと引け目を感じているはずですもの。一番身近な両親や彼女に受け入れられなかったっていうのは、相当トラウマになっているはず。


筋金入りのオタクだったら我が道を行く、アニメのキャラが俺の嫁、くらい達観?しているでしょう。

でも、ちょっとオタク趣味を持つ程度の人は厄介なんですよ(再びすいません・・・)
「オタク趣味を持っている自分ははみだし者要素がある、危ない。オタク趣味以外のところでは多数派の動きを最大限観察していなければ」という思いが強く、コンプレックスと「世間的常識」との狭間で行ったり来たりしていると思うのです。
そして・・・ここが一番のキモなんですが、この場合に限って、かずきさんと旦那さんとでは旦那さんが「弱者」なんですよね。

そういう場合、時に必要以上に深読みしてしまい卑屈になっちゃうときがあります。特に余裕がない時は。

例えばかずきさんがもし、「私は貴方の趣味を許容している」という一言を言ったとして、「他の女性が毛嫌いしたその趣味を私は受け入れてやってるのよ」とまで深読みしてしまう危険性があります。


定型からして見ると「私は貴方の趣味を許容している」という、私たちが好意で言っている言葉が「わざわざ言わなくてもいいことを言っている、なんかいらっとするなぁ」「なんだ、上から目線で!」という、こちらにとっては「それ、被害妄想だよ」とツッコミたくなることを言ったりすることがありますので、要注意です。

「常識や普通」に同調はしてほしいが、自分の特殊性は腫れものに触るようなくらい気づかっててほしい。

私からすると「ちょっと甘えてるな」とは思いますが「ま、そういうもんだ」と思っちゃうか、逆にかずきさんもプラモデルオタクになってしまって共通の趣味にしちゃえばまた違うかも?


で、なんだかんだ言って、旦那様はかずきさんがオタク趣味を否定しないことは感謝してらっしゃると思いますよ。だからこそ結婚したのでしょうしね。
その固定観念に縛られない、広い心に惹かれて。

そこは自信持っていてくださいね!

すいません、↑の投稿はするりでした。

パンダさん、ぐるぐると考えてしまって遅くなりました。

お天気の話が足がかりになるというお話が、様々なサイトなどであるように理解できていない私ですが
「誰しも否定できない事実を確認した事が話のきっかけ、足がかりと認識できる」と誰しも思っている
その事実を共有することで安心する、ということでしょうか?
ややこしくなってごめんなさい。
私の中でもいまいち整理できていませんので・・・

トマトさん

同じ言語だと信じ込んでいる別の言語で話している、位の勢いで居たほうがいいのでしょうか。
なんだか、つくづく、難しいなぁ、と思ってしまいます。
「ASは生まれた星が違う」という表現をどこかで見かけましたが、「定型星人」とか「AS星人」位の感覚で居たほうが先入観や固定概念で縛られずに居られるのかな、
もっと言うと、個人個人で生まれた星が違うんだ位で居たほうがいいのでしょうかね。
そうなると他人と関わる事がもっと大仕事になってしまいますが…


するりさん

定型の人って、難しいんですね。

基本的に群れて居たいけど、群れからはみ出している部分は「個性」として認めて欲しい
だけど、他人の群れられない個性は認めない(お互い様なのに認めない)

「みんなと一緒」が出来て初めて「自分だけ」を認められる

私が個人的に「世界に一つだけの花」という歌が苦手なのはそこなのかもしれないな、と
感じました。
人に話すと「卑屈だ」といわれますが・・・

共通のオタク趣味というのは他にいくつかあるのですが、プラモデルに関してだけは、私が今まで関わったことが無かったので
作る横で見ていたり、
「ゾイドは作るけどガンプラは作らない」とかコダワリの理由を突っ込んで聞いてみたり、
作った後はあまり興味がないようなので、何が楽しいのかと一緒に作ってみたり、
と色々首を突っ込んでいます。
構造が分かると結構面白かったりします。
そうしても嫌がりはしないのでおっかなびっくりですが、好奇心を満たさせてもらってます。

自分が作った物はまとめてダンボールに詰め込んで押入れに仕舞い込むのですが、私が作った物は何故か部屋の子供も私も手の届かない高い場所に飾ってあるので、関わった事は嬉しかったのかな、と読み取っていますが
今まで、私の興味本位で関わり過ぎると嫌がられることが多かったので「程々」を見極めようと必死です。

常々、周囲に対して「統一性、一貫性が無い!」と思ってきた事の答えが出つつあるように思えてきました。
ありがとうございます。

かずきさん


私も嫌いです、「世界に一つだけの花」。発売当時から今までずーっと、この曲の悪口言ってますよ、勿論家族限定ですけど(苦笑)


「卑屈」発言は気にしないでいいですよ。
本来は人の好みや考え方を簡単に卑屈って決めつけるほうがどうにかしてます。

だいたい、人には好き嫌いあって当然でしょう。

趣味嗜好レベルの話しについてどんな発言しようが基本的には構わない、と私は思いますね。

勿論、ファンの人に向かって「そんな曲、だーいきらい!」と言ってしまう、とかならマナー違反だと思いますが(苦笑)

そういったことは非難されてしかるべきですが(わが身に置換えて考えるとそりゃ嫌だし・・・)でもそれ以上のことを求めるのは・・・言論弾圧かい、と思いますねぇ。


ところで、「世界に一つだけの花」が流行ったのって、「空気読め」「キャラ大切」とか言いだしたのとほぼ同時期ですよね。

一方で「個性」、一方で「群れる」

何そのダブルスタンダード。

「元々特別なオンリーワン」とか言いながら同じ口で「空気読め」とか言わないでよ。。


ダブルスタンダードなんかやるより、もういっそのこと、「千の風見鶏になって」というくらい開き直った方がよっぽど清々しいのに。
私ならそっちの方が信頼できる。

と、私は思っておりました(毒吐き過ぎですね、すいません)

SMAPに罪はないけど、この頃から世の中のダブルスタンダード路線が一気に加速したように見えて気持ち悪かったんです。


「自分が作った物はまとめてダンボールに詰め込んで押入れに仕舞い込むのですが、私が作った物は何故か部屋の子供も私も手の届かない高い場所に飾ってあるので、関わった事は嬉しかったのかな、と読み取っていますが」


それはよかったです!実は嬉しいんだと思いますよ、言わないだけで。

でも、やっぱり、ちょっとした負い目(世間からするとその部分のみ、はみ出た趣味という自覚)もある一方、本人にしか分からない「神聖なエリア」でもあるようなので、その日の調子でもしご主人の機嫌が悪かったりしたら正面から突破するのではなく、「見なかったこと」「聴こえなかったフリ」モードに切り替えて上手くかわすっていうのもいいかも知れませんね。

「程々」は確かに必要です。

でも、私たちはこの「程々」は「自分の程々」ではないことが多いので、そうすると「定型の程々」は、私たちの「張り詰めた緊張状態」になることも多々あると思うのです。

「程々の距離」のために「自分の体力以上の努力」をしちゃうのもしんどいので、あまり思い詰めないでくださいね!


かずきさん

 「お天気の話が足がかりになるというお話が、様々なサイトなどであるように理解できていない私ですが「誰しも否定できない事実を確認した事が話のきっかけ、足がかりと認識できる」と誰しも思っているその事実を共有することで安心する、ということでしょうか?」

 これへのお返事がまだでした。すみません m(_ _)m
 しかもちょっと私にはご質問が複雑で理解し切れていない感じで、
 うまくお答えできるかも自信がないのですが (^ ^;)ゞ

 誰も否定できない事実を共有することで安心するのか、ということだとすると、
 それもあるかもしれませんが、そういうお互いに「当たり前」のことから
 話題を振ってみて、相手の人のそのときの気分を探っている、
 という意味もあるように思います。

 たとえば、「いいお天気ですね」と言って、「そうですね。最近雨が降らずに
 暑い日が続きますね」という答えだったら、相手の人はちょっと気分がよくない
 可能性がありますし、「いやあ、ほんとに気持ちがいいですね!」だったら
 ああ、この人は気分がいいんだな、と想像できますから、
 そのあと、相手の人の気分に合わせた話題を考える手がかりになります。

 たとえば気分が悪そうなら、何があったんだろう?と考えたりして、
 相手が親しい人ならそれとなく何か困ったことや腹の立ったことなどが
 あったのか、聞いてみることもありえます。
 そうやって相手の人がさらに話をしてくれれば、話を聞いてあげたり、
 自分の意見を言ってみたりして、相手の人に役立つかも知れません。
 それほど親しい人でなければ、あまり立ち入らずに、そのときは
 ちょっと距離を取っておく、という対応の仕方もあると思います。

 この辺は会話をしながらその場の様子で微妙に調節していくことなので、
 「こういう場合はこうする」といったすっきりした説明はちょっと難しそうです。
 
 しかも特に日本の定型の人は、直接的な表現ではなくて、
 回りくどく、間接的に相手に尋ねたり、場合によってはわざと
 反対のことを話して様子を窺ったりしますから、
 そういうコミュニケーションはアスペの方にはわかりにくい場合も
 結構あるのではないかと思います。

 もちろん日本の定型の人でも、それこそ「江戸っ子」のように
 すぱすぱと直接的な表現で話をする人もありますけどね。

 韓ドラなんか見ていても、日本とはまた違う感じで
 「絶対に本音を言わない」場合も結構あるなあと思いました。
 それは自分には辛いことなのに、「相手のためにそうすべき」
 と考えて、思い遣りとしてそうしていることも多いみたいでした。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/51719347

この記事へのトラックバック一覧です: 感情的コミュニケーション:

« 「好き」か「金づる」か | トップページ | 「一途」と「ほっこり」と »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ